十八、

 富士山の東南部の裾野には四カ所に自衛隊の駐屯地がある。これらは富士の裾野、大野原の東辺に散在しており、須走りに富士学校、板妻に普通科連隊、駒門に特科連隊と戦車大隊、そして滝ケ原に装甲輸送隊、施設大隊と教導連隊等が駐屯している。

 なかでも滝ケ原駐屯地はレインジャーの訓練基地としてテレビなどにも紹介され、一般に良く知られている存在である。

 伊滝満夫三等陸佐は、昨日の昼過ぎこの滝ケ原駐屯地の正門をくぐった。三日前、勤務地の東北部方面隊仙台駐屯地で、突然、出張命令を受けてやってきた。命令は滝ケ原駐屯地で教育指導するという内容であった。

 伊滝は当年とって三十二才の独身で、仙台で陸曹教育隊に所属している。転属ではなく、出張して教育指導をするというのは初めてである。

 駐屯地の司令に会った後、何故か宿舎から出るのを禁じられ、食事もそこでとらされた。

 隣の部屋には伊滝と同じように出張で来た西部方面隊所属の南井広和という二等陸尉がいた。彼の話では伊滝の副官になるため来たらしい。

 午後になって教育を受ける部下に引き合わされた。

 一曹が二名、二曹が六名そして三曹が二名である。皆、全国からバラバラに集められたらしい。誰も何の教育か知らされて居らず、伊滝も南井も同様であった。

「十二名ですね。特殊部隊の編成ですよ」
 南井が笑いながら冗談めかしていう。

 アメリカ軍のグリーンベレーAチームは、確かに士官二名、下士官十名の十二名編成である。南井は偶然それと数が同じだというのだ。

「そうだな」
 伊滝も笑って、うなずく。
 しかし、特殊部隊にはAチームを支援する十六名編成のBチームがあり、更にCチームも存在する。

 迷彩服が支給され全員それに着替えた。
 そのあと伊滝は司令に呼ばれて司令室に一人で行った。
 部屋には司令の他に、体格が中肉中背の伊滝とほぼ同じ細面の眼つきの鋭い一佐がおり、彼が訓練内容の説明をした。

 内容は一〇一地点の仮想敵施設を破壊するというだけで、何の変哲もない平凡なものであり、そして、地図で指摘された一〇一地点は富士山麓の標高一五〇〇メートル付近の樹林帯の中にあった。

「質問してよろしいでしょうか」
 一佐が許可をした。
「今回の訓練の目的は何でしょうか」

 わざわざ仙台から呼ばれて、こんな平凡な訓練をするのには何かわけがあるはずだった。
 一佐はうなずいて司令の方をちらっと見る。

 それが合図だったかのように司令は「ちょっと失礼する」といって、椅子から立ち上がり部屋を出て行った。
 一佐は暫く黙って伊滝を見ていたが、やがて口を切った。

「訓練には無反動砲二門携帯して貰う。弾薬、手榴弾は通常訓練の二倍以上携行する。そして伊滝三佐、君の判断で人間以外の標的であったら実弾射撃をしてもよろしい」

 伊滝がその理由を尋ねると、

「その必要があると君が判断したら場所は問わない。以上だ」という。
 一佐はこれ以上の質問は許さないというように最後の「以上だ」に力を込めた。

 伊滝は一佐の説明は回答になっていないと思ったが、これ以上求めても無駄だと判断し、重ねて尋ねることはしなかった。

 訓練チームは、宿舎の出入口にまわされたトラックに乗り込み、幌が下ろされひっそりと出発した。

 レインジャー訓練の出発はいつも賑やかな隊員の見送りがある。しかし、これはレインジャー訓練ではなく全く静かな出発であった。

 おそらく、駐屯地の隊員は今日伊滝達の訓練があることも知らないのかも知れない。
 伊滝は車に揺られながら先ほどの命令の意味することを考えていた。

 訓練内容は今まで何度もやってきたものと変わらなかったが、その後の一佐の説明が異常である。

 命令通り弾薬は通常訓練の場合より多く携行している。チームの誰もがそのずっしりとした重みを感じているはずだ。支給を受けている時、弾薬の多さに驚いている隊員もいた。中には疑問を抱いた者もいるだろう。

 命令は人間以外に対してなら指揮官の判断で発砲してよいということだったが、何に対して発砲して良いというのだろうか。我々の行く先の何処かにそんな対象があるのだろうか。伊滝は重ねての質問を許さなかった一佐の態度を思いだしていた。

 隣に座っている南井二尉の視線を感じて振り向くと、物問いたげな顔をしている。伊滝は後で説明するというようにうなずいて見せた。

 トラックは表富士周遊道路につながる道を十分ほど走ってチームを降ろし、去って行った。

 道の両側に広がる原野が東富士演習場で、有刺鉄線が張られ道路と仕切られており、伊滝達がトラックから降ろされた場所はその演習場の入口であった。

 出発前の宿舎で、弾薬を余分に持つことを除いて、訓練の内容は全員に説明してある。

 伊滝は全員に弾倉の装填をさせ、先導を小林一曹に命じた。彼は松本の普通科連隊から派遣されて来ており、十名の陸曹の中では最も年かさでもある。小柄であり動作が機敏で頭の回転も早そうであった。

 もう太陽は西に沈み掛けており、それを右に見ながら潅木と枯れすすきが茂る中を訓練チームは進み始めた。

 伊滝は一佐から受けた命令について南井の意見を聞こうと思い、歩きながら話した。
「そうですか。それで弾薬をこんなに‥‥‥」
 南井はちょっと考えるそぶりをする。

「しかし、対象は何なのだ。その説明がなかった。ことによるとこの訓練は陸曹の訓練ではなく、我々指揮官の能力を試すテストかもしれないな」

 伊滝はふと思い付いたので口に出した。
「いや、待って下さい」
 南井は何か思い当たることがあるらしい。

「この先に動物園があるのを知っていますか」
 伊滝はうなづく。
「新聞にそこの罷熊が逃げたということが載っていました。読みませんでしたか」

 いわれて伊滝はそんな記事が新聞にあったことを思いだした。
「ここに来た時、それを思いだしたので尋ねてみたんです。まだ二頭捕まっていないらしい。なんでもこの近くにある裾山というところの住民も半数以上が安全な場所に避難しているそうです」

 伊滝は南井のいいたいことが判ってきた。
「その罷熊を、訓練にかこつけて、我々に掃討させようとしているというわけか」

「いや、結果はそうなるかもしれませんが、そうではありません。これは通常の訓練です。但し訓練地域に罷熊がいる可能性があります。ですから、訓練中に我々が出くわすことがあるかもしれません。それで三佐の判断で発砲して良いといったのだと思いますね」

 南井のいうことは一応筋が通っているように思えるが、そんなことならはっきりそういっても良さそうだ。あの一佐はわざわざ司令を退席させて、あんな謎めいたことをいう必要はないと思う。

 南井二尉は通常の訓練というが、只の陸曹訓練なら滝ケ原の教導隊員がやればこと足りるはずだ。

 それに伊滝に命令を与えた一佐は何処の所属なのだろうか。司令の態度からみて、滝ケ原でないことは明らかで、きっと上の方から派遣されて来たに違いない。たぶん桧町あたりからだろう。

 伊滝はあの一佐の名前も知らない。普通なら自分で名乗るか、司令が紹介してくれるはずである。あの一佐は故意に名乗らなかったのかもしれず、それだけをとっても何か秘密めいたものを感じる。

 これは既に計画された極秘の作戦の訓練かもしれないという考えが浮かんで来た。

 <海外派兵。>

 いつもこのことは心の何処かにある。伊滝ばかりでなく同僚の誰もが持っている決して口では語らない不安なのだ。

 国連のPKO派遣ということもあるが、前例のカンボジャやルワンダの時、このような訓練があったとは聞いていない。

 それ以外の海外派兵であればイコール戦争だということも有り得る。理性では、自分は職業軍人だと意識しているが、自信はない。

 もし海外派兵があるとすれば、今なら何処だろうか。
 現在、緊迫しているのは中東やアフリカである。だが、派兵されるとしても陸上自衛隊が真っ先ということはありえないだろう。必ず海上自衛隊や航空自衛隊の方が先であることは明らかだ。

 彼らにそんな動きがあるのだろうか。そして、これが海外派兵作戦の一部なら我々だけではなく、全国で同じような訓練が行われているはずなのだ。しかし、仙台の同僚の中で今回出張したのは伊滝だけだった。

 人間はいつも心にある不安を現状に結び付けて考えてしまう。伊滝は自分の思い過ごしであると思った。

「三佐、罷熊のことを隊員にいっておきましょうか」
 南井二尉がいった。
「うん、そうしてくれ」

 南井は前を進む隊員の後を追いかけて行った。
 既に陽は沈み、辺りは次第に暗くなっていく。雲一つない空はまだ微かに青く、星が瞬き始めていた。

 気温が急激に下がり出した。この辺りの標高は一千メートルに近い。起伏に富んだこの荒れ地を進む隊員の吐く息が白く目立ち始めた。

 やがて地面から立ち昇る暖気が冷たい空気に触れ、白い湯気となり、再び地上に霜となって戻り、白く地表を化粧した。

 手に触れる六四式小銃の冷たさが手袋を通して伝わってくる。
 チームは星の明りを頼りに黙々と歩いた。
 そろそろ定時連絡の時刻だ。伊滝は南井にいって、チームを止めさせた。

 無線係の上田二曹が無線機を持ってきた。駐屯地を呼び出し、予定通り異常のないことを報告する。命令に変更はなかった。

 伊滝は無線機を上田二曹に返しながら、南井にいう。
「今の声は例の一佐だ」
 南井は驚いたというように眉を動かし口をとがらした。

「この訓練に随分御執心ですね。何故ですか」
 伊滝は首を振る。
 チームは再び歩き始めた。前進方向を西に変え、山頂の方向へ向い、一気に高度を稼ぐ。

 仮想敵施設の爆破は夜明けの二時間前に予定されており、その後夜明けまでの夜陰に剰じて敵勢力圏内を脱出という筋書きだ。

 時間はまだ十分ある。
 間もなく樹林地帯に入る予定だが、斥候を出しながらの前進なので時間が掛かる。

 斥候に出た小林一曹と疋田二曹が眼前の小丘を迂回し、姿勢を低くしながら早足にこちらへやって来る。黒い影が星明りでよく見えた。

 この寒さの中でじっと動かずに待機しているのは非常に辛く、隊員達は絶えず体を小刻みに動かしている。

 伊滝は注意をしようと思い、南井を見たが、彼も同じように体を動かしていた。この寒さでは体を動かすなという方が無理らしい。伊滝は大目に見ることにした。

 小林一曹と疋田二曹が戻ってきた。
「この小丘の二百メートル先から樹林地帯に入ります。ただ‥‥‥」
 伊滝はうなずいた。予定通りである。

「ただ、何だ」
「何かがいるような気配がありました。疋田二曹が気づいたのですが、確かに何かいました」

「罷熊か」
 疋田二曹に尋ねた。
「判りません。薮をかき分ける音が聞こえました」

 疋田は大きな眼を更に大きくして答える。
「暗視装置を使わなかったのか」
「使いましたが、姿は見えませんでした」

 伊滝は小林一曹を残し、南井と共に、疋田二曹に案内させて何かがいたという場所に行く。そこは、まだ背の低いブナやミズナラの若木などが混生する林がはじまるところだった。下生えにスズタケが生えている。

 西風の季節、山麓のこの辺りは富士山の陰になるため、吹く風は強くはないが、それでも時折、木枝をざわめかすほどに吹き抜けていく。

「風の音ではないのか」
「違います。明かに何かが笹の中を歩いて行った音でした」
 伊滝は疋田二曹の示す方向を暗視装置で覗く。

 高さ数メートルの若木が狭い間隔で生えている。下生えもかなり密集しており、余り遠くまで見通せない。

 この辺りには小動物が沢山いる。狐や兎等が動き回っているとしたら、下生えに隠れてしまい姿が見えないだろう。

 このまま前進することにする。
 チームは再び斥候を繰り出しては進むことを繰り返した。
 水の無い沢に出くわした。富士山には、このような涸れ沢があちこちに存在している。大雨の降った時などに流水の流れ道になるのだ。

 沢床のあちこちに白い雪が残っていた。
 先頭の小林一曹が縁に立ち、バランスをとりながら沢床に滑り降りた。後続の隊員も続く。

 チームは沢の中を歩き始めた。草木がないだけ沢の中の方が歩き易い。
 進むに連れてくるぶしが埋まるほど雪が多くなってきた。
 そろそろ表富士周遊道路を横切る地点だ。

 訓練チームは沢から再び出た。
 下生えは膝ほどの丈しかない笹が繁っている。林はダケカンバとウラジロモミの混生地帯に変わっており、どの木も霧氷と雪で真っ白に装飾されていた。

 白く凍結した表富士周遊道路を横断して、桧の植林地帯に足を踏み入れた。ここを抜けると目的の一〇一地点は間近である。

 伊滝は桧林を抜ける手前でチームを止めた。
 予定時刻までまだ時間があるので、ここで最終打ち合せと準備をするつもりである。

 既に各隊員の役割は決まっており、爆破作業班の元井二曹、坂田二曹そして伊東三曹が準備を始める。更に伊滝が手短に再確認した後、彼らは木の陰に座って身体を休めた。

 桧林の中は雪がなく枯れた木の枝などが沢山落ちている。伊滝はそれを掻き集め尻の下に敷く。
 南井二尉が側へ来て座った。

「面白いことが判りましたよ」
 二尉の顔は笑っている。伊滝は何だという表情をした。
「ここにいる隊員は全て独身です」

 伊滝は何だそんなことかと思い鼻先で笑った。
「三佐も独身でしょう‥‥‥。私も独身です。陸曹達に聞いてまわったら全員結婚していないそうです」

 南井は伊滝が独身であることを何処かで聞き込んでいたらしい。また、陸曹達は若い。結婚していないのは当然である。なかには結婚している若い陸曹もいるが、そんなに数は多くはない。ここにいる陸曹達が全員独身であっても珍しいことではなかった。

「でも、小林一曹あたりは妻帯していてもおかしくありませんね」
 南井は寒そうに両腕をさする。
「そうだな」

 伊滝は再び不安が心を占めて来るのを覚えた。
「三佐はどうして結婚しないのですか」
「するさ。そのうちにな」
 苦笑いをしながら答えた。

 伊滝も好き好んで独身を通しているのではない。いつかは妻を持つつもりでいる。自衛官という職業柄、若い女性に接する機会が少なく、また、世話をする者もなかったので、独身の気ままさをもう少しという考えも手伝って、ずるずるといつのまにか三十を越してしまったのだ。

「二尉、君はどうなんだ」
「私ですか。五月に結婚します」
 顔をほころばせていった。伊滝は南井が場違いなところで何故こんな話題を持ち出したのか判った様な気がした。南井は自分の結婚を誰かに話したかったのかもしれない。

「この訓練は何のためでしょう」
 南井は一転して心配そうな顔をしていう。
 伊滝と同じ疑問を持ち始めたらしい。もし心配しているようなことが事実なら、南井自身の結婚に影響があることを心配しているのだろう。

「普通の訓練さ。それに君のいう罷熊の事件が重なったんだ」
 伊滝は南井を安心させるためにいった。
 言葉とは裏腹に、伊滝は喚起された不安が大きくなって行くのを意識していた。

 チーム全員の十二人が独身であることは別に不思議なことではない。若い隊員が多ければよくあることだ。だが‥‥‥。

 伊滝は自分にいい聞かせようとしたが、更に疑問が膨らんできてしまった。

 隊員達は無作為に全国から集められたとは思えない。何らかの選抜基準で選ばれたのに違いない。そして、教導幹部の伊滝と南井をも含め、たまたま全員独身だったことが偶然であるとしても、自分達は滝ケ原駐屯地に来るや否や宿舎に禁足され、隠密裡に訓練に出されたのだ。

 駐屯地では司令と連絡に来た副官以外とは誰も接しておらず、名も知らない一佐から命令を受け、ひっそりとトラックに乗せられ駐屯地を出てきた。それだけでも、これは通常の訓練ではないと判断できよう。

 戦時であれば以上の事実から危険な特殊任務の訓練だと推測もしようが、今の日本では考えられないことである。

 百歩譲って、先ほど考えた海外派兵のためだとしても、この訓練内容のお粗末さは説明できない。訓練期間は明確にされなかったから、段階を追って相当期間続くのかもしれないが、それなら基礎訓練から始めるのが普通だった。

 考えれば考えるほど判らなくなってくる。
 おそらく実戦の場合、こんなことが数多くあるに違いない。前線の兵は命令を遂行していればいいのだ。

 伊滝はそう自分にいい聞かすことにした。
 仮想敵施設の爆破の直接指揮は南井二尉がとった。爆破といっても真似事をするだけである。伊滝は無線係の上田二曹と桧林の中に残った。

 爆破成功の報告が来たので、伊滝はそれを駐屯地に報告した。
 交信の相手はやはり例の一佐だった。
 敵の捜索隊がチームの潜入路を見つけたので、チームは一二一地点と一三四地点を経て脱出せよという命令が出た。

「一二一と一三四地点というと、南に迂回しますね。だいぶ遠まわりですよ」
 南井は地図を見ていう。

 脱出は駐屯地と反対方向だ。愛鷹山の近くまで南下しなければならない。そして、裾山の近くを通り大野原の下部に出て、輸送ヘリに拾われる予定である。

 伊滝は直ちに出発した。
 表富士周遊道路を横断するとき、白いものがちらつき出した。空を見上げると先ほどまであった星が全く見えない。

 富士山の天候は変化が激しく、裾野といってもこのくらいの標高になると山の変化をまともに受ける。

 チームは再びウラジロモミの中を進んだ。下りなので来るときより歩調は早くなり、そして、冷えていた体が次第に暖かくなっていく。

 雪は激しく降り出し、風も強くなってきた。東風のようだ。
 おそらく、太平洋岸を西から低気圧が近付きつつあるのだろう。山はこれから荒れ出すのかも知れない。

 先導の小林一曹が沢を見つけたと報告して来た。先ほど来るときに利用した沢ではないらしいので、伊滝は地図を広げる。一二一地点に行くのに途中まで利用できそうだった。

 頭上を、風が音をたてて通り過ぎて行く。
 沢の中は結構な風避けになった。
 先導の小林一曹が再び止まり、伊滝を呼んだ。

「罷熊でしょうか」
 小林一曹は足元を指さしていう。
 暗闇になれた眼は雪の上の足跡を認めた。

 罷熊の足跡を見るのは初めてだが、ライトをつけて確認すると、間違いなさそうだ。大きな足跡だった。降り続ける雪がみるみるそれを消していくことから、通ってまだ間もないことははっきりしている。

 足跡はチームの進む先へ続いている。
 余分に多く持ってきた弾薬は本当に罷熊のためなのだろうか。
 まだ迷っていたが、対象物は罷熊しかいない。

 伊滝は決断した。
 暗くて見通しが悪いので全員で行動するのは危険である。罷熊の射殺は小林一曹と杉本三曹に任せることにする。

 二人は無線機と暗視装置を持ち罷熊の足跡を追って先行した。本隊は少し遅れて後に続く。二人の姿は瞬く間に見えなくなってしまった。

 伊滝は先頭に立ち、二人が残した足跡をたどる。そして、暫くそのまま沢の中を下った。

 突然、足跡を見失ってしまった。
 ライトを点灯し沢の両脇を照らしてみたが、降りしきる雪が視界を邪魔し、なかなか見つからない。

 左の壁に登った跡を見つけた。
 二人は罷熊の跡を追い、沢の中から出て行ったらしい。伊滝は南井に残りの隊員とここにいるように指示し、壁を登り沢から出た。

 雪が横殴りに頬に当たってくる。風は思っていたより激しく、背の低いモミの木は全く風避けにはならない。しかし、眼隠しには十分役だっている。都合の悪い高さに生えているものだ。

 条件が悪すぎる。罷熊は諦めた方がいいかもしれない。
 携帯無線機で小林一曹に呼びかけると、押し殺したような声が応答してきた。

「見つけました。現在、杉本が接近中です。どうぞ」
「位置は何処だ」
 見えないのは承知しているが、伊滝は無意識にまわりを見渡す。

「沢を出た地点から、北東へ約百五十メートルの位置です。どうぞ」
「罷熊はどっちに向かっている」
 突然銃声が聞こえてきた。六四式小銃の全自動の掃射音だ。

 伊滝は無線機に呼びかけたが、応答がない。
「しとめましたか」
 沢の中から南井が顔だけだして尋ねてきた。

「いやわからん」
 伊滝は耳を澄ます。風の音しか聞こえてこない。
 すぐに、無線機から小林一曹の声が流れてきた。罷熊に傷を負わせたが、仕止め損なったらしい。そして、罷熊は南へ逃走しており、小林は跡を追うといってきた。

 チームの進行方向と同じである。伊滝は残りの隊員を沢から上げ、彼らの跡を追った。

 雪は相変わらず降り続いているが、高度を下げるに従い風は弱くなり、樹林地帯もそろそろ終わりに近くなってきた。

 突然、稲妻が走ったように辺りが光ったので、伊滝は空を見上げた。
雷が冬に起こるのは珍しいことだ。だが、遠いようで、それきり雷鳴も聞こえてこなかった。

 小林一曹から報告が来たが、無線機に雑音が入りよく聞こえない。そして、こちらからの応答もうまく届かないらしかった。

 交信状態が更に悪くなった。彼らは本隊とそんなに離れていないはずだ。丘の陰か窪地に入ったためなのだろうか。

 雑音の中に罷熊という言葉が聞き取れた。
 仕止めたのだろうか。

 また、稲妻が走ったらしく、辺りが一瞬明るくなり、無線機がガリガリという。そして、小林一曹からの交信が途切れてしまった。

 伊滝は幾度も呼び出してみるが、何の応答もない。
「まさか、雷が落ちたのでは‥‥‥」
 脇で聞いていた南井がいう。

「音がしなかった。雷は遠いはずだ」といいながら、伊滝は手に持った無線機のアンテナを慌てて下に向ける。
 佐川一曹と疋田二曹を斥候に出した。

 十分ほどして疋田だけが顔を引き吊らせて戻ってきて、小林一曹と杉本三曹が死んでいるという。佐川一曹は現場に残っているらしい。

「罷熊にやられたのか」
「判りません」
 疋田は泣きそうな声で、小林一曹は顔が半分無くなっていたという。

 場所は樹林帯のはずれ、草地が始まるところであった。
 伊滝はひざまずき、遺体を覗いた。
 疋田のいうように、小林一曹は無線機を手に持ったままヘルメットと共に顔半分が吹き飛ばされてこと切れていた。杉本の方は胸に拳が入るほどの大きな穴が開いており、衣服には焼け焦げた跡があった。

「雷と罷熊にやられたのかな」
 南井がうめくようにいう。
 伊滝は首を振る。雷で胸に穴が開いたなどと聞いたこともない。

「これを見てみろ」
 伊滝はライトで小林一曹の頭を照らす。一部残った頭髪が焼けて縮れている。二人とも同じものにやられたらしい。

「やはり、雷だ」
「いや、違う」
「雷でないとすれば、何です」

 伊滝はこの出来事をどう処理すればよいか判らず、隊員達もただ呆然と立っていた。
「こっちに罷熊が死んでます」

 佐川一曹が伊滝を呼んだ。
 罷熊も杉本三曹と同じように肩からわき腹にかけて穴が開いており、後ろ足からも血が出ていた。おそらく、足の傷は小林一曹か杉本三曹が撃った傷だろう。

 伊滝は南井二尉がこちらをじっと見ているのに気付いた。その視線は胸の辺りに注がれている。

「何ですか。それは‥‥‥」
 南井が伊滝の胸を指さしていった。
 見ると、右胸の上に何か赤いものがちらついている。

 無意識に体を右に開くと、赤いものは伊滝が立っている後ろにあるダケカンバの幹に移った。

 その瞬間、眼の前に閃光が走り、続いて弾けるような音がした。
 伊滝は強烈な衝撃で仰向けに地面に叩きつけられ、一瞬、気が遠くなった。

 誰かが耳元で大声で怒鳴っている。南井の声らしい。隊員達に散開して伏せろといっている。

 伊滝は体が引きずられているのを感じた。誰かが自分の躯を運んでいる。眼をあけたつもりであったが何も見えず、頭ががんがんして顔もひりひりと痛い。手で顔を撫でると眉毛がぽろぽろと取れてしまった。毛が焼けたらしい。

「大丈夫ですか」
 脇に伏せている南井がいった。
「うん、そのようだ」

 伊滝は体をよじってうつ伏せになった。まだ閃光の残像があり、よく見えないが、体には異常がないらしい。

 雪をすくい取り、それに顔を埋めると少し痛さが和らいだ。
「何が起こったんだ」
「判りません。三佐の立っていた後ろの木が砕け散りました」

 伊滝は伏せたままその木の方を見た。
 少し明るくなってきている。もう、夜が明けてきたらしいが、雪は相変わらず降り続いていた。

 視力はまだ完全には回復しておらず、かろうじて折れている木を認めることが出来る程度だったが、直径二十センチほどの幹が見事に砕かれていることは認識できた。

「三佐、あれです」
 南井二尉の示す方を見ると、白く積もった雪の上を赤い点が走って行く。降っている雪が時々赤く反射することから、光のようだ。

 赤い点は何かを探すかのように動き回り、雪を被っているすすきの上で静止した。その後ろに誰かが伏せている。

 閃光が走った。
 一瞬のうちにすすきの上の雪が激しい音と共に蒸気に変わり、白煙が上がった。その後ろにいた隊員は声もあげずに転がった。

「レーザー銃だ」
 伊滝は初めて眼にするが、間違いないと思った。あの赤い光はレーザーの照準なのだ。

 閃光が来た方向に視線を移すと、潅木の茂みの陰に何かがいるような気配がする。南井が銃を構えた。

 伊滝は射撃の命令を出した。潅木の茂みに全員の銃弾が集中し、一瞬のうちにその茂みは消し飛んだ。

 それは素早く移動し、窪地の陰に消えた。
「何だ。あれは‥‥‥」
 目に触れたのは一秒にも満たないほんの瞬間であったが、夜明けの明るさではっきりと見ることが出来た。

 伊滝も南井も今迄見たこともないものだ。
 非常に早く動く、細くて長い脚が四本あり、その脚の上に二層のお供え餅のような丸みを帯びたドームが乗っていた。ドームの径はそれほど大きくなく、せいぜい七、八十センチで、一メートルはなかった。そして、透明だったように見えた。

 茂みの高さは三メートルくらいあり、そこへ隠れていたそれの背丈も同じくらいあったように見えたが、今走って窪地に移動したそれは背丈が低く、まるで蜘蛛のような感じがした。

「誰がやられた」

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