二十一、

 多賀三郎が入院してほぼ一カ月が過ぎていた。

 病院に運ばれた時、左肩と左腕を複雑骨折をしており、全治三カ月と診断されたが、医者も目を見張るような回復力で、もう二日前にギブスが取れていた。

 多賀自身はもう退院してもいいと思っていたが、医者がそうさせてくれない。

 二週間ほど前まで、毎日のように見舞いに来てくれた甘粕が暫く顔を見せないので、今日は電話を掛けてみようと思っていた。

 退院したら多賀の帰るところは南富士工場の社員寮しかない。自分の部屋の様子、工場の近況も聞いて置きたいと思っている。

 五日ほど前、祐子が母親と共に果物篭を持って見舞いにきた。妻が夫を見舞うのに見舞い品を持ってくるなどおかしなことだ。

 怪我をした時、連絡がいったはずなのに、何故、すぐにこなかったのか、多賀はそれが不満だった。

 祐子はそのことには触れず、例の話の蒸し返しをし、会社を辞めて東京に戻って来いという。

「この機会に、会社を辞めてもいいではありませんか。東京に帰って、暫くのんびりしていてもいいし、そのうち気が向いたらうちの店を手伝って貰ってもいい。そうなれば店をもう一軒出したいとうちの主人もいっています」

 母親はいった。

「そうよ、店を手伝うのが嫌なら、東京の会社に再就職すればいいんだわ。好きなラグビーもできるかも知れない」

 再就職をすればいいといっても富士マトンのような会社は他のどこにもない。多賀はメカトロニクスの技術者としての誇りを持っており、この仕事が好きなのだ。

 富士オートマトンでは一介の技術屋として、只の歯車に過ぎないが、それでも常にオートマトンに接していられる。既に大きな夢はなくなっているけれど、全く夢を捨てたつもりでもない。会社に不満がないわけではないが、共同体の一員として、自分の理想だけを追求ばかりはしていられないのだ。それに耐えてこそ夢は現実の物となり、技術者としての誇りも保てるのだと思う。

 だが、祐子は何も判ってはくれない。

 前の会社を辞めてこの富士マトンに入ったのも、現実の解決に背を向けて逃げだしてきたにすぎない。

 あの時は、監督と選手達のあつれきが、いつのまにか多賀と監督の対立にすり変わってしまい、そして、自分が辞めるのが一番いいと考えて、そうしたのだった。

 その裏には、いつまでもラグビーの選手をやってはいられない。いつかは現役を退いて、自分の専門分野の仕事をしたいという希望があったからだ。

 それは自分を納得させる十分な理由だと思っていた。しかし、現実からの逃避であったことも事実だった。

 選手生命を全うしてからでも、多賀の専門分野の仕事をしたいという望みはかなえられたはずなのに、自分は安易な逃げ出す方を選んでしまったのだ。

 もう逃げたくない。このままでは一生逃げ回るようになってしまう。逃げるのは一度だけで沢山だ。

 それなのに祐子はまた逃げ出せという。それも彼女のわがままを通すために‥‥‥。

 多賀は自分自身もわがままをいっているのは十分承知している。だから、仕事以外のことはすべて祐子の希望通りにしてきたつもりだ。

 そして、これからの人生を祐子の家族にべったりくっついて過ごすなど、多賀には耐えられないことだ。自分のプライドが許さない。

 あの晩、そのことをじっくり話し合うべきだと決心して帰宅したのだが、祐子は東京へ帰ってしまったあとだった。

 何故、突然あの晩東京に帰ったのか、祐子に問いただすと、甘粕が厚生係の社員と一緒に来て、多賀が南富士工場に転勤すると告げたそうだ。

 それで、祐子は東京に帰ったのだという。

 あの当時、祐子の精神状態は最悪であり、生まれて初めて親兄弟のいる東京を離れて、静かな田舎の富士山麓に来たため寂しさがつのり、東京へ帰りたいと思い詰めていたときだった。

 その上、毎晩のようにそのことで多賀といい合いを続けていた。あのままの状態でも、いずれ、祐子は東京へ帰ってしまったかも知れない。

 そんな時に、南富士工場への転勤だと聞けば、祐子が我慢できなくなったのも判るような気もする。

 多賀自身は、あの時点では転勤になることを全く知らず、知ったのはもっとあとだった。

 富士吉田市の自宅は多賀が探して借りたものだが、借り上げ社宅の形式を取っている。だから、厚生係の社員が時々見て回ることは知っている。だが、人事係の甘粕が、何故一緒に行って、本人もまだ知らない転勤のことを告げたのだろう。

 そのことも、甘粕に尋ねたいと思っている。
 多賀は一階の診察待合室に行き、そこにある公衆電話を使った。

 聞き覚えのある声が電話に出た。資材係の市川だった。多賀は自分の名前をいい、甘粕を出してくれと頼んだ。彼は事務的に応対し甘粕と替わった。

「やあ、多賀さん。どうですか」
 甘粕の声が聞こえてきた。
「ギブスも取れたし、二、三日で退院だよ」

「それはよかった。もう暫く静養していて下さい」
「いや、今週中には帰るよ」
「帰れませんよ。道路が封鎖されています」

「えっ、道路封鎖。この前襲われたといっていた罷熊の件か」
「違います。知らないんですか」
 多賀が知らないというと、甘粕は説明した。

 裾山が何か得体の知れないものに襲われて壊滅し、御殿場市、富士市及び富士宮市から裾山と富士山に通じる道路は、総て自衛隊によって封鎖されていて、南富士工場はそのため孤立し、誰も外には出られないのだという。

「それで‥‥‥」
 多賀は更に尋ねようとしたが、甘粕は今ちょっと忙しいからまた電話するといって、切ってしまった。結局、尋ねたいこと全てをいいそびれてしまった。

 入院して以来、テレビも新聞も見ておらず、何が起こっていたのかまるで知らなかった。

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 篠山は大木係長から陸幕調査部が公安の協力でFGグループを全員連<行したらしいということを聞かされた。

「矢沢憲一もですか」
「そうらしい」
 大木はいつもと同じく、指先でボールペンをいじっている。

「容疑は何ですか」
「例の裾山の事件だ」
 ボールペンで篠山を指すように二度振った。
 篠山はやはりそうかとうなづく。

 裾山の事件は今マスコミが盛んに報道している事件で、それが起こったと同時に、裾山に通じる主要道路は自衛隊と警察によって封鎖されてしまい、その全容はよく判っていない。篠山のような警察関係者でさえも、実際どうなのか全く知らされていなかった。

 十日ほど前の夜、富士の裾野にある裾山という集落が、突然何者かに襲われ、怪我人や死者が出た。

 一部の報道では、裾山を襲ったのは何処かで作られた秘密兵器のロボットだといわれている。その映像もテレビで流されたが、暗くてはっきりせず、そう思ってみればそう見えないこともないという程度のものだった。

 裾山はその前に罷熊の騒動があり、続いて今度の事件が起こった。幸い罷熊の騒ぎが長引いて、住民の大半は避難をしていたので、被害を受けたのは、残っていた僅かの住民と罷熊の捜索を続行していた機動隊員だけだったらしい。

 その他に、訓練中の自衛隊員が死んだという報道もあり、封鎖された地域で、何らかの形で戦闘が起こっているともいう。

 FGグループが行動を起こしたのに違いないが、その目的は何なのか見当もつかない。

「富士マトンに潜り込んだ連中も捕まったのですか」
 篠山は机に両手をついて大木に尋ねた。
「いや、東京にいた連中だけのようだ。工場には近付けないらしい」

 状況の急変に、篠山はついて行けない思いがした。
 篠山が富士オートマトンの本社に出向くと、会社の中は南富士工場からの出荷が止ったため、その対処に大わらわであった。

 人事部長の橋詰に会い、南富士工場にいるFGのメンバーの名前をあげて尋ねると、全員、工場に閉じ込められているという。但し電話で連絡は取れるらしい。

「すると、工場の人達は家族も含めて中に残されているのですか」

「そうです。あ‥‥‥いや、一人だけ富士市にいます。この前お話に出た多賀三郎という社員です」

 多賀三郎は裾山の事件が起こる前、工場で作業中、事故に遭い怪我をして、富士市の病院に入院しており、全治三カ月の重傷だという。

 篠山がまだ病院にいるのか念を押すとまだ入院中だといった。
 自衛隊の調査部は多賀三郎が富士市に居ることを知らないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。

 何故、他のFGのメンバーのように連行しないのだ。怪我が治るのを待っているのだろうか。それなら目の届く病院に転院させてもいいはずである。彼は自衛隊OBではなく、以前はラグビーの選手だったらしいが、すると、FGのメンバーではないのか‥‥‥。

 しかし、多賀がFGのメンバーでないとなると、篠山が今まで捜査して立てた仮説と矛盾してしまう。

 多賀がFGのメンバーでないならば、田上洋介の殺しはなく、FGの企画もないことになってしまうのだ。そして、現在裾山で起こっている騒動は何だということにもなってしまう。

 何かが抜けているのか、それとも自分は見当違いの仮説を立てているのかもしれない。
 篠山は多賀三郎に会ってみようと思った。

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 多賀はそろそろ退院しようかと考えていた。

 まだ肩を動かすのは早いと医者はいうが、多賀は病院の屋上でひそかにリハビリテーションをやっており、激しく動かすと、少し肩に痛みが残ることを除けば、日常生活には殆ど支障もない程度に回復している。

 突然、警視庁の刑事だという風采の上がらない小柄な四十男の訪問を受けた。

 差し出された名刺には部長刑事篠山直美とある。多賀は名前と風采が全く一致しないなと思いながら名刺と顔を見較べた。

 彼は田上洋介の殺人事件を追っているという。

 田上部長が死んだことは知っていたが、殺されたとは全く知らなかったので驚いた。。

 刑事は初めから何の脈絡もない質問を次から次へとしてきて、多賀には何のことなのか全く判らなかったが、途中からこの刑事は多賀を試しているのだと気が付いた。

 何かのグループの一員ではないかと疑っているらしい。

「刑事さん、私を何かのグループの一員だと思っているようですけど見当違いですよ」

 多賀は皮肉っぽい笑いを浮かべていう。
「そのようですね」
 篠山も初めて笑った。多賀にいろいろ尋ねているうち、自分の考えが誤っていたと気づいたのだ。

 この多賀という男は確かにFGについて全く知らない。
 篠山はこの躯の大きい入院患者からスポーツ選手特有の圧迫感を思わせる迫力と個性の強さを感じさせられた。

 そして、篠山の意図を簡単に見破ったことからも、頭の回転は早く、感も鋭いことが判る。

 FGはこの男を必要としていたはずだという自分の仮説は間違っていないと思うのだが、彼は全く知らないらしい。

 そういうことであれば、多賀はFGが計画した企画に気付かず関与したとしか考えられないが、彼ほどの男が何も気付かずに彼らに利用されるだろうかという疑問もあり、信じられない気もする。

 篠山は、FGの陰謀の真っ只中にいた多賀に協力して貰うのが手っとり早いと思い、田上洋介が殺された経緯から始めて現在までの全てを話すことにした。

「FGの連中は、多賀さん、あなたを工場に送って協力させたいために殺人まで犯した。ところがあなたは何も知らない。協力した覚えもないらしいですね」

 多賀は篠山の話を聞いていて、思い当たる節があちこちに出てきた。

この半年近くの出来事にそれで説明がつくように思える。気付かなかったのは、自分では敢えて意識していないつもりであったが、妻の祐子との行き違いに気を奪われていて、自分の周りの出来事を深く考える余裕がなかったせいかもしれない。

「いや、あります。篠山さん、あなたの話を伺って、思い当たることがいくつかあります」

 多賀は阿南、君元、そして皆川が退屈しのぎの世間話のようにMTAの話を持ち出し質問責めにしたことを話した。

「なるほど、しかし、彼らは自動装置の専門家ではないはずですね。それだけでつくれるほどMTAというのは簡単なものなのですか」

「いや、出来ないでしょう」
 多賀はベッドの上で組んでいる脚を解いた。

「それじゃ、あなた以外に誰か」
 多賀はちょっと考えてから答えた。
「ええ、思い当たることがあります」

「誰ですか」
「コンピューターです」
「コンピューター?」
 篠山は多賀の顔を見つめたまま繰り返した。

「南富士工場にあるZ5−TAROは特殊なコンピューターです。あれなら可能なのかもしれません」

 多賀はあの時コンピューターでシミュレーションする話が出たことを思いだしていた。

 君元や阿南が一瞬狼狽して、それを打ち消した意味がいま判ってくる。

彼らはシミュレーションを試みるつもりでいたらしい。それを多賀に指摘されたので、彼らは驚いたのだ。

 もし、Z5−TAROでシミュレーションが可能なら、多賀自身が口頭で与えたデータと企画書があればMTAの試作は可能になるかもしれない。

 いや、可能なはずだ。

 あの時、説明した内容は詳細までよく覚えている。問題点やシミュレーションが必要な箇所は全て話したように思う。

 そして、その後皆川が甘粕と一緒に部屋に来て、更に突っ込んだ質問をしてきたことも思いだした。

 甘粕もFGの一味だろうか‥‥‥。彼は技術屋ではなく只の事務屋だ。もし、そうなら彼の役目は何だったのだろう。

 妻の祐子に多賀の転勤を告げて東京へ帰らせたのは、そのことで多賀の気持ちを動揺させ、彼らの意図に気付かせないようにするためだったのだろうか。もしそうであったのなら、それは確かに成功している。

 篠山は確信した。FGの必要だったのは多賀であり、コンピューターでもあった。

 双方にとって邪魔になった田上洋介はそのために殺されたのだ。
 やはり、篠山の考えは間違っていなかった。
「調査部から貰った名簿に甘粕という名前はありませんでしたか」

「甘粕?」
 篠山は一瞬怪訝な表情を浮かべた。
「はい、甘粕彰一です」

「あっ、一緒に後から転勤した人ですね。ありません。彼が何か」
「いや、特別意味はありません」
 多賀は慌てて取り消した。個人的なことは喋りたくない。

「後から多賀さん一人だけ転勤というのはわざとらしいというか。目立つから、彼を一緒に付けて転勤させたのではないですか」

 多賀は篠山の意見にそうですかと答えたが、釈然としない。

「ところでMTAというのはどういう働きをするものですか。私も素人なりに漠然と判っているつもりですけど、発案者本人から素人でも判るように話を聞きたいものですね」

 多賀はうなづき、MTAについて判り易いように説明を始め、篠山は一つ一つうなづきながらそれを聞いた。

「なるほど、大体の輪郭は私にも判りました。MTAというのは特別に珍しいロボットではなく、他にも同様なものがあちこちの研究機関で作られている。ただ、あなたの考えたMTAは移動性が他のものより優れていて、スピードが速いということですね」

 篠山は開いていた手帳を閉じた。

「そうです。それは進行方向の予測と足の機能で可能になります。特に足の機能は移動する地形が滑らかな時は吸い付くように、凹凸がある時は凸部に捕まるように自動的に働きます。それでどのような場所でも、例えば天井を逆さで走行することも出来ます。これは急流の中を遡るハゼの腹びれと同じ原理だと思って下さい」

 多賀は部屋の前を通る看護婦に目を移した。

「それで、危険な作業を人間に替わってするわけですね。戦場も人間には危険な場所だ。だから替わってMTAが作業する。武器を搭載すればどんなところにも潜入できる戦闘ロボットになるわけだ」

「まさか‥‥‥」
 部屋の外を見ていた視線を篠山に戻した。

 MTAを篠山のいうように少し改造すれば、そうなるかも知れないが、にわかには信じられない話だ。

「いや、FGグループが目指したのはそのまさかですよ」
 裾山の事件はその戦闘ロボットが引き起こしたのかも知れない。しかし、何のために‥‥‥。

 FGにとってあんな事件を起こしても、何のメリットもないように思える。

 調査部の吉永一尉は事件の真相を知っているかもしれないが、もう田上殺しの件とは掛け離れているので、尋ねても答えてくれないだろう。

 突然、携帯電話の呼び出し音が鳴った。篠山はポケットから取り出しながら、廊下へ出た。

 思いも掛けない片倉惣一からだった。彼も調査部に連行されているものと思っていた。

「君は調査部に連行されなかったのかね」
「私だけ免れて逃げました」
 片倉はそのことで篠山に会いたいという。

「それじゃ調査部も探しているだろう。何処に居るんだ」

 片倉は居所を調査部に黙っていることを篠山に約束させてから、箱根の矢沢憲一の家にいると明かした。矢沢は既に調査部に連行されており、その後に自分が潜んでいるとは調査部も気づかないだろうが、そう長くは居られないという。

「しかし、私の携帯電話の番号がよく判ったな」
 片倉は警視庁に電話をして、篠山に急ぎの用があるからといって教えて貰ったらしい。

 片倉は調査部に居所をいわないように更に念を押した。
 篠山はそんな気は毛頭ない。片倉が何を話したいのか判らないが、すぐ箱根に行くと約束をした。

 しかし、困ったことに気が付く。篠山はここ富士市まで新幹線で来たので素早く動ける足がない。富士市から箱根までそう遠くはないが、電車とバスに乗り継いだりして行くと半日くらい時間が掛かりそうだ。

 それまで片倉が待っていてくれるか心配だ。遅くなれば、篠山が調査部に連絡したのではないかと疑心暗鬼になり、何処かへ行ってしまうおそれがある。

 タクシーで行くことも考えたが、後で経費の説明で絞られるのは嫌だった。

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