二十二、

 車は河口湖インターチェンジを出てバイパスを抜け、いま139号線の青木ケ原付近を走っていた。間もなく精進湖を通過するはずだ。

 富士の裾野の立ち入り禁止が解けるのをもう十日も待ち続けたが、一向に解除の知らせが来ないので、とうとう待ち切れず出かけて来てしまった。

 この春休み中に結果を出さないと春の学会に間に合わない。それに兎に取り付けた発信器も電池が一年しか持たず、切れてしまうのでこれ以上待つわけにはいかなかった。

 島井睦美は二十八才、大学の生物教室の講師である。今度の野兎の研究は初めて単独で取り組んだテーマで、三年前に研究の土地を探し、九州野兎と東北野兎が混生している富士の裾野を選んだ。

 九州野兎も東北野兎も同じ種に属するが、九州野兎は冬になっても白い冬毛に変わらず、東北野兎は冬毛に変わるところが異なり、互いに亜種の関係にある。

 初めは、野兎の個体数が多いといわれている朝霧高原付近で、調査するつもりであったが、営林署の小屋を借りられたことも手伝って、もっと南の標高の高い樹林帯を対照地として選んだ。

 現在その地域が立入禁止となっているが、朝霧高原はなっていない。

 当初の予定通り、朝霧高原で調査を行っていれば、大事なところでこんなことにならなかっただろうと多少の後悔はある。しかし、彼の地を選んだことは研究のメリットがあったとも思っている。

 樹林帯にはミズナラ、トチの木、そしてクヌギ等が沢山在り、食料が豊富なため、鹿、狸、本土狐そしてりす等小動物が沢山棲んでおり、野兎だけ個体数が多い朝霧高原付近と較べ、より自然が保たれている。その中で他の野生動物と共存しての野兎の生態は真の自然の姿である。

 大学に来た立入禁止の通知には、理由は明確に記されていなかったが、新聞やテレビの報道で知った裾山事件が理由であることは明かだった。

 動物園からの罷熊の逃走事件に引続き、上層部に不満を持つ数人の自衛隊員が何処かに立て篭っているらしい。本当かどうか判らないが、一部の報道では人質を取っているともいっていた。

 場所は愛鷹山と富士山に挟まれた地域らしく、島井睦美が今向かっている地域とは、直線距離で十五キロは離れており、しかも、林道沿いに行ったらその三倍の距離はあるので、数人の自衛隊が立て篭ったくらいで、そんな場所まで影響があるとはとても思えない。

 国や役所の処置は何をするにも必要なときになかなか実行せず、やっと重い腰を上げたときは不必要なほど大げさにするものだ。

 睦美が今日中に行き着こうと思っている営林署の小屋は、富士市や富士宮市から富士山に向かう道路を封鎖されていると、普通なら行くことは出来ない。しかし、何としても行くつもりである。

 そうしなければ、野兎の対照個体に去年取り付けた、行動を探るための発信器の電池が切れてしまい、初めからやり直さねばならなくなる。

 四十羽もの個体に発信器を取り付ける作業は、少なからずの費用と人手が掛かり、もう一度やり直すことになれば、予算の都合からも数年先に伸びてしまうだろう。しがない女性講師の使える予算は僅かなのだ。

 既に富士山へ三年も通ったおかげで、睦美は朝霧高原から愛鷹山の近くにかけての裾野に、数多く走っている地図に出ていない道まで知るようになっていた。

 いつもなら東名高速道を富士インターチェンジで出て、富士宮から行くのだが、そちらからの道は封鎖されているので、今回は河口湖方面から139号線を南下し、途中から裾野の樹林帯に入り、林道と地図にない道を乗り継いで行くつもりでやった来た。

 いま運転しているこの四輪駆動車なら行き着く自信は十分ある。
 朝霧高原が近くなり、自衛隊員の姿が急に目につくようになった。

 富士山の方向に入る道毎に自衛隊の車が止まっていて検問をしており、睦美の思惑とは違っていた。

 富士山の方向へ行く林道には一歩たりとも入れない状態だった。

 これでは、ここ迄来たことが無駄になるばかりではなく、折角、買い込んできた食料をこのまま持ち帰ることになってしまう。自宅で、インスタント食品を一ヶ月も食べ続けることにでもなったら、悲惨なことになる。山の中ならば我慢できるが、東京にいたらうまいものが沢山あり、そんなことに耐えられるはずがない。

 試しに通してくれないか交渉してみたが、全く取り合ってくれなかった。このまま先に行っても、おそらく検問は厳しくなるだけだろう。最後の手段を使うしか方法がないと思った。

 車をUターンさせ、検問の自衛隊員に帰るように見せかけた。
 バックミラーを覗くと彼らは睦美の車をじっと見送っている。
 道が曲がって姿が見えなくなると車のスピードを落とし、富士山の方向に乗り入れる場所を探し始めた。

 139号線のこの辺りは富士山側に林道が一本平行して走っている。
どのくらいの距離があるかは判らないが、遠くはないはずなので、そこまで横切るつもりだった。

 四輪駆動に切り替えて、立ち木の疎らなところを選んで乗り入れた。
 アクセルを踏みすぎ車輪が空回りをし、潅木の小枝が大きな音を立てて車体を弾く。

 車は左右前後に激しく傾き、頭ががくがく揺れて、視線がなかなか定まらない。道路が見えなくなり、見つかる心配がなくなると、ゆっくり低速で走り始めた。

 大きな岩や立木に何度も行く手を阻まれて、その都度、後退してルートを替える。
 何度目かの方向転換をして、間もなく沢に行きあたった。

 富士の裾野特有の涸れ沢で、沢底には車の走行を妨げるような大きな石もなく、幅も十分ある。

 既に道路から入って三十分あまり経っていた。
 木立や薮の中を行くよりは沢の中を走った方が早いだろうと思い、段差の小さい場所を見つけてその中に乗り入れる。

 だが、なかなか林道が見えてこない。
 裾野の沢は総て富士山に向かっていて、必ず林道に突き当たるはずだと思いつつも、不安になってきた。

 沢のえぐれが大きくなり、両側の壁が車と同じくらい高くなった。
 カーブを曲がると目の前に一抱えもありそうな倒木が横たわり、その向こう側に大きな石が積み重なるように転がっていて、行き止まりになってしまった。

 車を降り倒木を越えて、先を眺めると十四、五メートル前方に林道が沢を横切っている。
「もう少しだっていうのに‥‥‥」

 両岸を見渡すと、立木は疎らで、あちこちに雪が斑模様に残っている。沢から出ればどちらも林道まで行けそうだった。

 車に戻り、前についているウインチのワイヤーロープを引きずり出し、右岸を登って適当な木を選び、それをぐるぐる巻き付けて、最後にしっかりとフックを引っかけた。

 初めてウインチを使うが、こんな時を想定して、頭の中では何度も手順を復習していたので、戸惑いはない。しかし、うまくいくかは不安があった。

 ウインチのスイッチを入れると車の前が持ち上がり、右岸を登り始め、そして、何のトラブルもなしに上まで登り切った。

 あとは林道を乗継ぎ目的地に向かうだけだ。
 睦美はよくやったというように車のボディを叩いて運転席に座った。

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