二十四、

 多賀はソファの長椅子の寝苦しさに目が覚めた。時計を見ると午前十時を少し回っている。

 会議の後、隣の部屋で休憩しているうちに寝込んでしまったらしい。
 吉田部長がまだ隣で寝ていたが、他の人達の姿は見えなかった。
 ソファから立ち上がり、先刻まで会議をしていた隣の部屋に通じるドアを開けて覗いた。

 近藤一佐と吉永一尉が額を突き合わせて話し込んでいたが、気が付いてこちらを見た。

「失礼」
 ドアを閉めて戻ろうとすると、
「多賀さん、丁度良かった。今起きて貰おうと思っていました」
 と一佐が言う。

 吉永一尉は目で挨拶をして別のドアから出ていき、多賀は部屋に入って、一佐の向い側の椅子に座った。一佐の顔には艶がなく、目は充血しており、だいぶ疲れているように見える。

「富士山の攻撃は失敗しました」
 一佐が突然いった。
「えっ、もう行ったのですか」

 一佐があまりにもあっさりというので、驚いて聞き返すと、明け方攻撃隊は出発し、つい先ほど無線連絡が途絶えたという。MTAに遭遇したと連絡が入った後、何度呼び出しても応答がないと報告してきたらしい。

「愛鷹山には中継基地はありませんね」と一佐は続ける。
 今朝は愛鷹山に雲がかかっておらず、地上と上空から望遠鏡で観察でき、見えた限りでは中継基地らしきものはない。

「富士山も見えたらいいのですがね。でも、これで富士山に絞れますね。上にはMTAがうようよしているかもしれませんよ」

 現在、彼らの勢力圏の中で高い山はその二つしかなく、これで富士山にあるのはほぼ確実だが、富士山は広くて大きい。その底面積は大阪府のそれより広く、基地が頂上にあるのか中腹にあるのか、探すのは大変である。

「もう一度、攻撃隊を出します。装甲輸送車を使ったのは失敗だった。目立ったのでMTAに簡単に見つかってしまったようです。もう御殿場口は警戒されて駄目でしょう。今度は須走り口から徒歩で登るようにします」

 一佐は多賀の顔を窺うような目付きをしている。
「多賀さん、あなたも行って下さい」
 再び突然いう。

「えっ」思いがけない言葉に、多賀はまた聞き返した。
「まだ行く気持ちがあるなら、攻撃隊に同行して下さい。そして中継基地の詳細を見てきて貰いたい」

 多賀はもちろん行くと答えた。
「でも、他のスタッフの方の承諾を得なくとも良いのですか」
 一佐はうなづいて、スタッフのメンバーには決定権はなく、政府と長官に意見を具申するだけであり、そして、攻撃隊の人選は我々自衛隊に任されているので、そのことは心配要らないという。

「攻撃隊は午後に出発します。今すぐ出かけないと間に合いません。スタッフには後で承諾して貰います」

多賀は吉永一尉の運転する車で須走りの自衛隊富士学校に向かった。
 攻撃隊は富士学校で準備を整えて、そこから出発の予定らしい。
「命の保証はありませんよ」
 吉永一尉は運転しながらいった。

 多賀は黙ってうなづく。それは判っていたが、実感としてはまだ感じていない。

「もう、三月の半ばですが、富士山はまだ冬の真っ最中です。寒くて厳しいですよ。多賀さんは元一流のラガーマンだそうですから、体力には自信があるでしょうが‥‥‥」

「いや、それほど自信があるわけでは‥‥‥」

 怪我が治って退院して間がなく、また以前のように毎日トレーニングをしているわけではないので、体力には一抹の不安がある。それに、躯が冷えるとまだ左肩が疼くのも気になった。

 近藤一佐は、突然考えを変えて、何故多賀を攻撃隊に加える気になったのだろう。一次攻撃隊の失敗のせいだろうか。

 攻撃隊はMTAとの交戦は避けて、中継基地を潰すだけの予定だったが、意に反してMTAと遭遇してしまった。だから、一佐は富士山に登るからにはMTAとの交戦は避けられないと考え直し、多賀の参加を認めたのかもしれない。

 だが、MTAの弱点が判るという発言は只の口実であり、一佐が多賀のいうことをまともに信じたとは思えない。あの時は即座に拒否したではないか。

 一佐は中継基地の詳細を見てこいといい、そして、多賀もそれを見たいと思っている。一佐の言葉を素直に解釈すれば、多賀の望みを十分に果してこいといっていたようにもとれる。だが、いくら多賀がMTAの発案者であっても、個人的な便宜を計ってくれたとは思えず、また、今はそんな悠長な時ではないのだ。

 自衛隊の上層部はMTAを欲しがっているという片倉の話を思いだした。
 もし、今度の事件が片付いてMTAが自衛隊の手に残り、更に彼らがそれを新兵器として採用すれば、やはり、中継基地が必要となるだろう。

そして、富士山にあるはずの中継基地は、彼らが新たにそれを建設しようとする時のいい参考資料となるはずだ。

 しかし、破壊してしまえば、折角のサンプルも何も残らない可能性があるので、その前に、多賀に調査させ、資料を取るつもりかもしれない。

 車の中の暖かさと適度な揺れが心地よく、多賀は考えているうちに寝不足のせいもあって眠くなってきた。

 目が覚めると、車は御殿場のインターチェンジを出るところで、雪がちらついていた。

 料金所を出ると、道路脇に除雪して積み上げた雪が目についた。御殿場の街中は一見して普段と全く変わりはない。

 ガソリンスタンド、レストラン、そしてディスカウント店はいつもの通り営業していて、車も人通りも変わっていない。

 だが、強いていうならば幾分車がいつもより多いような感じがする。

政府、自衛隊関係の車や報道関係の車がこの御殿場の街に集まっているせいなのかも知れなかった。

 ここから十数キロ離れた裾野で行われている戦闘の音などまるで聞こえず、陸幕本部で感じた緊迫した雰囲気など嘘のように思える。

 道行く人は知っているのだろうか。MTAの勢力が増し、自衛隊の包囲が破られたら、最初に襲われるのはこの街かもしれないのだ。

 車は雪のちらつく中を山の方へ向かって走り続けた。
 灰色の雲が低く垂れ込めて、左前方を視界の限り埋め尽くしている。

その向こうに富士山がそびえているはずだが、今は何も見えず、ただ、巨大な空間だけがそこにあるような錯覚を覚えさせた。

 車は二十分ほど走って、須走りの富士学校に到着した。

 休む間もなく、多賀は上下白一色の戦闘服を支給され、それに着替えたあと、攻撃隊の指揮官に引き合わされた。

 指揮官は伊滝三佐という背は高くないが、がっしりとした体格の男で、雪焼けでもしたのか、顔の皮膚が剥けかけていた。

 そのまだら模様が精悍な印象を与えた。
 攻撃隊はトラックに乗り富士学校の正門を出た。

 多賀を含め総勢十三名、全員上下白一色の戦闘服を着て、隊員の半数が無反動砲を所持している。

 トラックは最初の曲がり角で左折し、富士山の方向に向う。
 雪はやむことなく降り続いている。

 いま走っている道は須走り新五合目まで通じているものだが、冬の間は利用者が無いので全く除雪されていない。

 トラックは白く化粧した樹林の間をゆっくり進んだ。
 行けるところまで行きそこから徒歩になるらしい。
 隊員達は誰も一言も喋らず、一様に不安げな表情を浮かべている。

 彼らはどのようにしてこの攻撃隊に参加したのだろうか。隊員達の顔を見較べながら、多賀はそう思っていた。

 トラックの進む先には灰色の緞帳がおりており、すべてを覆い隠していた。そこに富士山があることも、道があることも、そして山小屋、測候所、更にMTAと中継基地までも隠し、何が待っているか判らない異次元の世界へ突き進んでいるような錯覚を起こさせている。

 突然トラックが止まり、運転席から大きな声で怒鳴るのが聞こえた。
 終点らしい。
 全員がトラックから降り立つ。

 積雪量が膝下まであるが、場所はまだ馬返しまで来ていない。
 副官の金窪二尉が大声を張り上げて装備を身につけるよう命令した。

 多賀は必要となったらすぐ履けるように、アイゼンを食料と衣類の入った荷の外にぶら下げ、それを背負い、手にピッケルを持った。

 隊員達はその上に武器弾薬を持っており、相当の重さになるはずだが、それを軽がると背負って歩き出した。
 新雪の上を単調な登りが続く。

 傷が癒えたばかりの多賀にとって単調な雪道の登りは辛い。ふた月近くトレーニングをしていないつけを一気に払わされているようだった。そして、荷が肩に食い込み左肩がしびれるように痛み出した。

 しかし、先頭を登る隊員はもっと辛いだろう。多賀より重い荷を背負い、ラッセルしながら登っているのだ。
 体力の消耗は激しく、十分ほどで順に先頭を交代していた。

 最初のワンピッチで馬返しに着き、アイゼンを着けろという指示が出た。
 経験のない多賀は隊員がするのを真似ながら手を動かし、オーバーシューズを履きアイゼンを着けようとする。

 彼らはミトンだけを手から外し、毛糸の手袋をはめたまま着装している。同じようにやろうとしたが、なかなかうまくいかず、手袋も取ろうとした。

「手袋をはめたままやって下さい」
 いつの間にか伊滝三佐が側に来ていた。

 手袋のまま作業をするのに慣れた方がいい。この辺の標高ではそれほど気温は低くないが、上に行くともっと低くなり、素手で金属は触れなくなる。もし、触ると皮膚が金属に張り付き、無理に剥すと皮がめくれてしまうという。

 多賀が手袋をはめたままどうにかアイゼンを着け終ると、更に、伊滝三佐はピッケルの扱い方を簡単に説明した。

 馬返しからの登りは、ますます積雪量が多くなり、進む速度は遅くなった。降りしきる雪は視界を遮り、先頭を歩く隊員の姿は多賀の位置から全く見えず、時折、雪と霧の中から現れる針葉樹は総て綿帽子を被っていた。

 日暮れが突然きて、辺りはまったくの闇となった。
 先頭だけがヘッドランプをつけて全員黙々と登り続ける。
 雪を踏みしめる音、そして先頭が伊滝三佐と道を確かめるために時折交わす声が聞こえるだけで、殆ど無音の世界である。

 多賀は五分の休憩を既に何度とったか忘れてしまい、ただ、雪の上のトレースをたどり機械的に足を前に出していた。

 やがて高度が上がって、風が強くなり、目出帽の上に被っているフードがはためきだした。

 古御岳神社に到着する。新五合目だ。森林限界も近いので、風が極端に強くなった。

 吹き抜ける突風に飛ばされそうになりながら、隊員達は半分雪に埋まった小屋の入口を掘り始める。ただ立っていると、とてつもなく寒いので多賀もそれを手伝った。

 金窪二尉が持参した鍵で戸を開け、隊員達は我先に中へ入り、すぐストーブが焚かれた。小屋の中が次第に暖かくなってくる。

 時計は午後八時半を回っており、既にトラックを降りて歩き始めてから六時間以上経つ。
 伊滝三佐は新五合目に到着したことを無線で報告した。

 食事をしてひとここちつくと、各々小屋の寝具を取り出し、寝床を作り始める。全員ストーブのあるこの部屋で寝ることになるが、ごろ寝をするぶんには十分な広さだった。

 部屋にはドアが二つあり、一つは右隣へ、そこは食堂と売店を兼ねた部屋らしく、外からの出入口と窓は総て板が打ち付けてある。そして、もう一つは先ほど多賀達が外から入ってきた出入口のある土間に通じていた。

「中継基地のあるのは、やはり頂上ですか」
 ストーブにあたっている多賀の脇に座り、伊滝三佐は話しかけた。

「その可能性はあります。しかし、五日前まで測候所と連絡できたそうですから違うかもしれない。東富士演習場での戦闘はその前から行われています。その時、既に頂上に存在したら測候所から通報があったかもしれません」

 しかし、山頂は広く、測候所の職員が気付かないこともある。
「すると他の場所にあることも‥‥‥」
「はい、あるとすれば南側の斜面です。工場も東富士演習場もそちらの方にありますからね」

「もし、南側の斜面にあるとしたら、測候所と連絡が取れなくなったということは‥‥‥」
 伊滝は多賀の顔を覗く。

「そうです。考えられるのは戦線を拡大しようとしているということです。頂上に中継基地を設ければ、MTAの行動半径は大きくなります」

「なるほど。でも、それなら何故初めから頂上に設けなかったのですか。二重手間でしょう」
「これは推測ですが‥‥‥」

 初めから頂上に設置しようとすれば測候所を占拠しなければならず、また、占拠せずに設置すれば、測候所の職員に見つかるかも知れない。

 どちらにしても彼らの体制が整わないうちに我々に気付かれ、調べられて原因が工場にあることを短時間のうちにつきとめられてしまうおそれがある。

 そして、MTAが自由に行動できないうちだったら近付くのも容易だから、簡単に工場を取り返されてしまう。

「そうならないように、彼らは用意周到にことを運んだのです」
 多賀はそう言いながら、箱根で聞いた片倉の話と何処か矛盾していると思っていた。

「すると二カ所にあるかもしれないわけですね」
「ええ、頂上は、現在、建設中かもしれません」
「工場にいるFGの連中が頂上に来ているのですか」

「いや、彼らは工場です。富士山のMTAは工場から直接操縦できるはずです」
「MTAが中継基地の設置をするのですか」
 伊滝は一瞬驚きの表情を浮かべ、ストーブにかざしていた手を膝に戻し、確かめるように多賀の顔をうかがった。

「そうです。MTAの本来の機能はそういう作業のためにあるのです」
 驚いたというように首を振った。
 金窪二尉がやってきた。

「今夜の歩哨はどうしましょう」
「ストーブの前に交代で一人づつ起きていることにする。まだ奴らには気付かれていないだろう」
 伊滝は同意を求めて多賀を見た。

「この辺りは工場から見て富士山の陰になるし、中継基地からも陰になっていると思います。工場と一方通行の交信しかできないはずですから、たぶんMTAはいないでしょう。しかし、MTAは単独でも行動しますから用心は必要です」

「いい手段があります」
 伊滝は上田二曹を呼んで無線機を持ってこさせた。

「無線機のスイッチを入れておけば、MTAが近付いて来るのが判る。奴が近くにいると交信はできなくなり波の音のような雑音が入って来るのです」

「本当ですか」
 上田二曹は本当だという。

「伊滝三佐と上田二曹はMTAとの交戦を経験しています。MTAを二機も破壊しているんですよ」
 金窪二尉が多賀に説明した。

「すると、最初にMTAに遭遇したという普通科部隊は‥‥‥」
 多賀はあらためて伊滝を眺めた。
「そうです。それでこんな顔をしているのです」

 部屋の中はストーブのわずかな光だけで暗い。
 伊滝はその光に照らされて化物のように見える顔を撫でて笑った。
 三佐の顔は日に焼けたのではなく、レーザーがかすめた時の火傷だと上田二曹がいった。

「他は全員初めてです。MTAを見たことがありません。でも、富士山を隅から隅まで知っている連中です。そうだ隊員を紹介して置きましょう」

 多賀は富士学校に着いてすぐ出発を待っていた彼らと共に来たので、誰とも言葉を交わしていなかった。

 隊員達はストーブの側にいる他は自分の寝る場所に横になっている。
 金窪二尉は全員を多賀に紹介し始めた。
 隊員は北富士、滝ケ原、板妻から集められたという。

 暗くて顔はよく見えないが、多賀は一人一人に声をかけて挨拶をした。

 北富士から来たのは田辺二曹及び篠田、楠木の各隊員、滝ケ原からは千田三曹、そして板妻からは村井二曹及び長野、田原、加藤、大久保の各隊員で、上田二曹は桧町から、伊滝三佐は仙台からである。最後に自分は富士学校のレインジャー班からだと金窪二尉は締めくくった。

「皆さん志願をしたんですか」
 多賀は尋ねた。
「そういうことになってます」
 金窪二尉は複雑な笑いをして伊滝を見る。

「指名されて志願したんです」
 伊滝はわざとつまらなそうにいった。全員志願しろと命令されて志願したらしい。

 そうであれば、みずから志願してここまで来たのは多賀だけだ。なんとも物好きなことだとわれながら思う。

 まもなく楠木隊員だけストーブの側に残し寝床に入った。彼が最初の見張りだった。
 目まぐるしい身辺や環境の変化のせいで興奮していて、なかなか寝つ<けない。寝返りを打つ音があちこちで聞こえ、多賀ばかりでなく誰もが寝つけないらしい。

 やがて誰かのいびきが聞こえてくるようになり、多賀も躯の心地よい疲れを感じながら寝入っていった。

 ふと寒さに目が覚め、頭を上げてストーブの方を見た。火は変わりなく燃えているが、部屋の中は先ほどより寒くなったように感じる。

 標高二千メートルともなると夜の冷え込みはきつい。
 ストーブの周りに誰もいないのに気づいた。起き上がってもう一度目

を凝らしてみたが、やはり誰もいない。

 見張りは小屋の外を巡回しているのかもしれなかった。彼がドアを開けて出て行ったので、部屋の中が寒くなったのだと思った。

 多賀は小便がしたくなり、立ち上がった。
 便所は入口の土間の奥にあるが、食堂の方をまわっても行ける。
 少しでも寒くない方がいいと思って、靴をつっかけ食堂側のドアから出た。手にヘッドランプを持ちよろめきながら行く。

 土間のドアが開き、外の風が吹き込む音が聞こえてきた。見張りが外の巡回から戻って来たらしい。

 便所の扉を開けようとすると、誰か後ろにいる気配がしたので振り返った。
 その瞬間、側頭部に強烈な衝撃を感じ、ヘッドランプを取り落としてしまった。頭を殴られたらしく、めまいがして何も見えない。

 多賀は暗闇の中で相手にむしゃぶり付いて、手から何かをもぎ取った。そして遠退いて行く意識の中で、それを振り回した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 遠くで誰かの声が聞こえ、躯が揺さぶられていた。
「多賀さん、多賀さん、大丈夫ですか」

 気が付くと、床に落ちているヘッドランプの光に照らされた上田二曹の顔が、目の前にあった。

 多賀は上田二曹に支えられて起き上がった。頭がズキンズキンと痛む。
「頭をやられた」
 側頭部に手をやると上田がヘッドランプを拾ってそこを照らした。

「血が出てます。どうしたのですか」
「これで、誰かに殴られた」
 右手に持っていたものを目の前に持ってくるとピッケルだった。そして、ピックの一部に血が付いている。

「これは‥‥‥」
 ヘッドランプで周りを照らした上田二曹がうめくようにいった。
 土間に通じる引戸の側にもう一人誰かが倒れている。

 多賀が気を失う前に、振り回したピッケルで相手を倒したのかと思ったが、そうではなかった。

 倒れている人間の胸には銃剣が刺さっているのだ。
「誰ですか」多賀は尋ねた。
「長野だ。死んでいる」

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 多賀は千田三曹の治療を受けた。殴られた衝撃で脳震盪を起こしただけで、外傷はたいした傷ではなかった。しかし、あの時振り向かなかったら後頭部にピッケルのピックが突き刺さっていたかもしれない。

 そして、ピッケルは土間に置いてあった隊員のもので、どれも同じなので誰のものか判別できない。

 また長野は自分の銃剣で死んでいた。見張りは午前二時に楠木から長野に替わっていたのだ。

 伊滝に問われて多賀はその時の状況を話した。
「すると多賀さんは長野が外を巡回していると思って、便所に行ったんですね。そしてそこで襲われた」

 多賀はそうだと答える。
「長野は確かに外を回っていました」
 上田二曹も小便がしたくなり目が覚めたという。その時、長野はやはりストーブの側にいなかったらしい。

「たぶん、多賀さんが起きて行ったすぐ後ではないかと思います」

 土間の方のドアを開けて出ると、丁度、外から帰ってきた長野が便所の方へ行く後ろ姿が見えた。便所は一つしかなく、上田は待っているのが嫌だったので外へ出た。

 しかし、外は風がひどく雪が舞っていて、防寒着を着たまま用を足すのに一苦労だった。

「長野が外でやらずに中へ入ってきて便所に行ったのが判りました」
 上田は眉をしかめて、ストーブに躯を寄せる。
「長野は便所の前で多賀さんを殴り倒した直後の犯人と出くわし、自分の銃剣を取られて殺されたというわけか。それで‥‥‥」

 伊滝は上田に先を促す。
「外から戻って、冷えた躯を暖めようと、暫くストーブにあたっていました。長野がなかなか戻って来ないので、様子を見に行くと多賀さんが倒れていたのです」

「どちらから行った」
 伊滝は二つのドアを交互に指さす。
「今度は食堂側から出ました」

「犯人が土間を通って外へ出たとすれば、姿を見られなかったわけか」
 出入口のドアは南京錠を外してあるので、内外どちらからも出入りは自由なのだ。

「これだけ風の音がひどくてはここにいても判りません」

 多賀が暗闇の中で相手をしたのは確かに人間だった。
 工場にいる君元、阿南、皆川の顔を思い浮かべて、彼らのうち誰かがこの富士山に来てるのだろうか、中継基地はMTAだけでは駄目なのだろうかと自問してみたが、納得がいかない。もしそうだとしても彼らが山頂まで来ることは理解できる。だが、ここは須走口の新五合目なのだ。

彼らがここまで来なければならない必然性は全くない。こんな天候で、しかも夜中に‥‥‥。人間がいつまでも外に居られる条件ではないのだ。

 伊滝三佐は小屋の中と他に幾つかある建物を隊員達に調べさせたが、誰も何も出てこなかった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 翌朝、明るくなると同時に隊は出発した。
 長野の遺体は小屋に置いたままで、伊滝三佐はその旨滝ケ原へ無線で連絡をしておいた。

 小屋を出て暫く登ると森林限界を越えた。天候が良ければこの辺りからもう頂上が見えてくるはずだったが、昨日に引続き天候は悪く、視界がまったくきかない。降る雪は風で飛ばされてしまい、積雪は急になくなり、攻撃隊は氷の上を歩き続けている。アイゼンの刃が硬い氷に食い込む音が頭まで響いて来る。

 多賀は死んだ長野の装備を担いでおり、昨日より荷物が重くなっていたが、体が慣れてきたせいか、今日の方が楽な感じがする。しかし、アイゼンを履いて硬い氷の上を歩くのは初めてなので、初めのうちは、時折吹いて来る強い風にバランスを崩してよろめき、その度に後ろを歩く上田二曹に支えられた。

 伊滝は登山道沿いに隊をゆっくり進ませた。
 隊員は富士山に慣れた者ばかりなので、もっと速く登ることができるが、敢えてさせなかった。

 今日は高度も上がったためもあり、風が強く気温も極端に低く感じるので、汗をかかないようにしなければならない。こんな時、速く歩かせて汗をかいたりしたら命取りになってしまう。

 冷えた汗は体温を奪い体力の消耗を促す。この冷えた汗の恐ろしさを北国で経験をつんだ伊滝は十分知っている。それに、こんな条件下では昨日のように時間毎に休憩をとっても、やはり体温がどんどん奪われ体力が消耗し休みにはならない。休まずゆっくり行くのが最適なのだ。

 休憩は山小屋で取るつもりであった。
 富士山は厚い雪雲の中にスッポリと包まれているらしい。
 厚いミトンをはめた手でゴーグルを拭い、張り付いた氷を落とす。

 視界が悪すぎる。一人置いた前を登る多賀の大きな姿が霞んでおり、その前を行く隊員の姿は全く見えなかった。

 伊滝から見る多賀の足取りは、歩き初めこそ慣れないせいか、時々よろめいていたが、今はすぐ前を行く上田二曹より力強く見える。

 多賀の体力を心配していた伊滝はもうそのことは考えなかった。

 前を行く上田二曹の荷にはスイッチを入れたままの無線機が付いていて、MTAが近くに来れば、それで判るはずだ。こんなに視界が狭いと目での発見は不可能であり、今はそれだけが頼りである。

 三時間近くかかって六合目に到着した。
 小屋の外には瀬戸館と記されている。

 昨夜と同じように金窪二尉が持参の鍵で入口を開けて中に入った。山小屋を利用するため、鍵は登る前に全て用意してある。

 火はないが、風と雪が吹き付けてこないだけ小屋の中は暖かく、荷を下ろし各々好きなところに座り込んだ。

 隊員達は足を冷やさないためアイゼンをはずした。多賀もそれに倣う。目出帽を脱いて頭の傷を触ってみたが余り感触がない。

「痛みますか」
 千田三曹がそれを見て声をかけてきた。
「感触が無いみたいだ」

「凍傷になりかけているかもしれませんね」と眉をひそめる。
 寒冷地で怪我をしたりするとその部分が凍傷にかかり易くなり、壊死を起こすらしい。

「これをあててみて下さい。気温が低すぎると余り効きませんけどね」
 千田が使い捨て懐炉を出してくれたので、よく揉んでから側頭部の傷の上にあてた。暫くすると痛みが戻ってきて思わず顔をしかめる。

「痛いですか。よかった」
 そのままあてておいた方がいいというので、多賀は上から帽子を被った。

 伊滝三佐が滝ケ原と交信を始めた。だが、相手がなかなか出ないらしい。伊滝は先頭を歩いていた村井二曹が持っているもう一つの無線機を持って来させた。

 隊員達は雑談をやめて、伊滝三佐に注目し始める。
 何度も無線機に呼びかけるが、やはり通じない。
「戦闘準備」

 伊滝三佐が無線機を置いて命令すると、隊員達は一斉に無反動砲の準備を始め、田辺二曹と楠木が様子を見に外へ出て行った。

「MTAですか」
 多賀は伊滝に尋ねる。
「判りません。用心するにこしたことはありませんからね」

 楠木が戻ってきて、MTAの足跡らしきものを見つけたと報告した。
「須走胎内の近くです」
 六合目の小屋の近くには富士山で最も高所に位置する須走胎内と呼ばれる溶岩洞窟がある。伊滝に促されて多賀も一緒に行く。

 須走胎内の下側、田辺二曹の示す斜面を見ると半分氷化した雪の上に不明瞭な円形の跡があった。

 伊滝は側に片膝をついて座り、手で触った。
「古いようだな。MTAですか」
 振り返って多賀に尋ねた。
「そうかもしれません。伊滝さんはどう思いますか」

 多賀はまだMTAを見たことはない。
「前に見た足跡に確かに似ている。しかし、一つしかない。もし、そうだとしても今日や昨日ついたものではなさそうだ」

 伊滝は周りを窺いながらいう。多賀も同感だった。
 小屋に戻ると上田二曹が笑いながら、
「無線が通じました。原因はバッテリーのせいでした」という。

 二台とも今朝から寒気に曝したままだったので、バッテリーの容量が落ちてあがってしまったらしい。新しいバッテリーと交換したといって伊滝に無線機を手渡す。

「例の一佐が出ています」
 上田二曹は声を落としていった。
 伊滝は黙ってうなづき、交信を始めた。

 無線機から聞こえる声に聞き覚えがある。多賀をこの攻撃隊に参加させた近藤一佐の声であった。
 隊員達は出発の用意を始める。

 多賀も支度をしようと思い、床に置いてあるアイゼンに手を伸ばす。
 殆ど同時に金窪二尉がその隣にあったアイゼンを取り上げた。
 素手である。

「あつっ」といってアイゼンを取り落とした。
 多賀と視線が合うと指を嘗めながら、照れ笑いを浮かべた。
 うっかりしたらしい。多賀は伊滝に注意されたことを守って手袋をはめていた。

 六合目の小屋を出てから一時間弱で、お中道との交差点を通過する。
この辺りは本六合と呼ばれるところで、閉鎖された山小屋があるが、隊は休憩せずに登っていく。

 お中道は富士山の中腹、二千四百メートルから二千八百メートルの付近を巡る道であるが、現在、西側の大沢崩れのため一周することはできない。道の標高は須走口付近が最も高く、北側のスバルラインと一緒になる付近で最も低くなる。

 溶岩尾根の登りとなり、風が一段と強くなった。突風が吹き抜けると体が浮き上がるようになる。多賀も隊員達もその度に四つん這いになって飛ばされないように耐えた。

 岩と氷を噛むアイゼンの音が絶え間なく体を通して伝わってくる。

 ゴーグルは凍てつき、拭っても拭っても視界が遮られ、目出帽の編目を通して寒気が顔の皮膚に突き刺さってくる。誰も一言も発しない。

 七合目に到着した。隊員達の疲労の色は濃くなっていた。

 小屋の中は別世界のようだ。誰もが荷物を下ろすとそのまま仰向けになった。多賀も足を投げ出した。だが、冷たい床の感触が背中から伝わってきて、心地よい感触とは言えない。

 遅い昼飯となり、真空パックに入ったカレーライスを食べる。隊員の間では通称パック飯と呼ばれているものだ。冷えていてまずかったが、多賀は無理やり胃袋にほうり込んだ。

「MTAは捕まえた人間をバラバラに引きちぎるそうですけど、本当ですか」
 隣に座っている田辺二曹が尋ねてきた。

「いや、知らない。誰がそんなことをいってるんですか」
 MTAは機械である。そんな無意味なことをするはずがない。
「我々の間では皆そんな噂をしています」

 休憩時間は短かく、すぐに出発であった。
 勾配はますますきつくなり、頭の中は空っぽになっていた。時間の経過もMTAのことも全く忘れて、ただ足と手を動かしている。

 本七合、八合目をいつの間にか過ぎてしまったらしい。濃い雲の中では自分が何処を歩いているのか全く判らない。富士山を知り尽くしている隊員達は判っているのだろうが、多賀は同じところを繰り返し登っているような錯覚に陥っていた。

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