二十七、

 受信機が近くに兎が居ることを教えており、それに導かれて島井睦美は雪をかき分け木立の中に踏み込んで行った。
 音が次第に大きくなっている。

 立ち止まって、胸に下げた双眼鏡を手にした。
 野兎は三十メートルほど先の雪の積もった倒木の陰で眠っていた。野兎は夜行性なので、昼間は殆どあのように薮や物陰で寝ている。既に冬毛が一部抜け夏毛に変わっていた。

 ノートを取り出し記録をとる。
 発信器をつけた四十羽のうち、この野兎が最も標高の高いところまで来ている。野兎の行動半径はおよそ二キロ四方で、縄張りというものはなく、生活圏はお互いに重複している。従って、この辺りには他の兎もいるかも知れない。

 脅かさないよう静かに足音を忍ばせて、車の止めてある林道の方へ戻った。道へ出ると、車を止めてある方向と逆の左の方で、何かが動いているのが目に入った。

 人間だ。白い服を着ており、よく見るとその服はあちこちが破れ汚れている。
 相手も睦美を認め、手をあげて何かいった。

 こんな場所で人に逢うことなど思いもかけなかったので、恐くなり車へ走った。そして、扉を開け、もう一度後ろを振り返る。

 倒れて起き上がろうとしていた。疲れきって歩くのもやっとらしい。遭難者かも知れないと思い直して、近付くのを待った。
 白い服の男はふらつきながら車まできた。

 大きな男で不精髭をはやして顔が真っ黒だった。
「すみませんが、車に乗せて行って貰えませんか」
 多賀は薄れゆく意識の中でやっと言った。

「ええ、どうぞ‥‥‥。どうしたのですか」
 多賀はその場に崩れるように膝をついてしまい、睦美は手を貸して、助手席に乗せた。

「早くここから逃げて下さい。奴が来る。危険だ」
「えっ、誰が来るの」
 かすれた声がよく聞こえなかったので聞き返したが、返事はなく、男はすでに軽いいびきをかいて寝ていた。

 余ほど疲れているのだろう。
 睦美は寝顔を見て思わず笑った。そして、多賀の持っていた物を後ろに乗せようとして、それが武器であることに気がついた。

 この人は自衛隊員なのかもしれない‥‥‥。この富士で起きている事件と関わりのある人らしい。
 もう一度、寝顔を覗くと、その横顔に見覚えのあるような気がした。

 車のエンジンをかけて方向転換をする。
 この人は寝てしまう前に早くここから逃げろと言ったが、何から逃げるのだろう。

 睦美も、もうここでやる仕事は終っている。とにかく小屋まで戻ろうと思い、アクセルを踏んだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 社員寮の食堂は、テーブルも椅子も乱雑に配置され、並べ直すものもいない。暖房が切られて三週間以上経つ建物の中は、何処にも暖かいところはなかった。

 食料貯蔵庫にも冷蔵庫にも既に何も残っていないので、誰もが空腹を抱えて、自室に閉じ込もっている。

 ここには、ありったけの衣類を着込んで、着ぶくれている三人以外は誰もいなかった。

「あのMTAがいる限り工場へは行けない」
 工場へ続く通路をドア越しに覗き、戸川が呟いた。
「でも、ここから脱出して逃げるしかない」

 甘粕が二人を交互に見て言う。
「無理だ。市川達のように殺られてしまう」
 土井が言った。

 この社員寮の建物は、四六時中、三機のMTAが見張っていて、既に市川と他二人が脱出を試みて失敗し、殺されている。

「君元達に交渉しよう。それの方がいい」
 戸川が寒さに唇を震わせて言った。
「だから、どうやって彼らと交渉するんだ」

 その話は、今迄何度も出たが、電話は不通だし、工場へ行く通路にはMTAが頑張っていて、君元達に接触する手だてはない。

「そのうち彼らがここへやってくるだろう」
 人質が飢死にしたら、彼らだって困るはずだと土井は言う。戸川もうなづいた。

「そうは思えない」
 甘粕は語気を強めた。
 彼らがそう思っているなら、もっと早い時期に食料などを差入れてくれてもいいではないか。

 彼らは、我々に「MTAに殺されたくなかったらこの建物を出るな」と一度だけ警告に来たきり、その後は社員寮をMTAに監視させたまま、近づこうとはしないのだ。

 脱出を試みた三人を情け容赦もなく、MTAに殺させたことを見ても、君元達にとって、我々はどうでもいい存在と考えるべきだ。

「あっ、誰かいる。君元さん‥‥‥、君元さんっ」
 通路を覗いていた戸川が、突然大きな声をあげる。甘粕と土井は側に行って通路を覗いた。

 通路は工場まで約二十メートル、まっすぐ続いている。その途中に、見張りのMTAが頑張っており、その透明ドームがスッーと回転した。

「あぶないっ」
 甘粕は二人の服を引っ張ってドアから離し、壁に身を寄せ息を飲んだ。
 だが、何も起こらなかった。

「MTAを刺激するな」
 甘粕は戸川に向かって言った。
 MTAは今まで一度も社員寮の中には入って来なかったが、それは我々がおとなしくしているからだ。

「でも、工場側に人影が見えたんです」
「君元だったのか」
「ちらっと見えただけなので、誰か判りません」

「別のMTAじゃないのか」
「いや、あれは違います」
 戸川は自分が見たのは三人の中の誰かだと主張した。

「まあ誰でもいい。奴らが我々と話したければ、向こうから来るだろう。その気がなければ幾ら呼んでも無駄だ」

「我々がこんな状態でいることを、本当に外では知っているのかな」
「食料がないということは別として、知っていると思う」
 甘粕ははっきりと言った。

「それじゃ、何故助けにこないんだ」
「こられないんだ。今迄何度も砲声を聞いてるだろう。あれは自衛隊がMTAと戦っている証拠だ」

「自衛隊の火力をもってしても、MTAをやれないのか」
「‥‥‥、おそらくな」
 甘粕ははっきりそうだと答えそうになって、言葉をつまらせた。

「あのMTAがそんなに恐ろしいものなら、脱出なんて考えずに君元達の指示通り、ここにいた方がいい。小さな子供もいることだ」

 甘粕は土井の顔を見た。
 土井は二人の子持ちで、下の子はまだ五歳のはずだ。この飢えと寒さは小さな子供にとって、もう限界に思える。

「我々だけだったら、まだ持ちこたえられるだろう」
 しかし、このままだったらいずれ飢えと寒さで何もできなくなってしまう。脱出するなら今が最後のチャンスかもしれない。躯が思うように動かなくなってからではもう遅いのだ。

「しかし、どうやって脱出する。この建物の両わきに二機、工場への通路に一機、合計三機のMTAが見張っていて、一歩でも外へ出れば市川達と同じ目に逢うだろう」

 土井はさめたような目で甘粕を見る。

「この建物は断熱材を詰めるために壁が中空になっている。そこから天井裏に出られる。天井裏伝いに、通路で見張っているMTAの頭上を通り、工場へ行く。工場の天井裏へ出れば外へ出る方法は何とかなるはずだ」

「うまくいくはずがない」土井は首を振る。
「しかし、やってみる価値はあるだろう」
「一人、二人だったら何とかなるかもしれないが、四十二人全員は無理かも‥‥‥」
 戸川も首を傾げた。

 四十二人が、MTAのいる上を物音たてずに、通過することは至難のことだろうが、急がずゆっくりと注意深くやれば、できないことではない。

「私は行きたくないな。ここに居ればMTAは来ない。安全だ」
 土井はそっぽを向いて言った。

 彼には家族がおり、MTAに気付かれた時のことを考えたら、そう思うのは当然だ。

 しかし、土井が考えているように、本当にこの建物は安全なんだろうか。確かに、今迄は一度もこの社員寮には入って来なかったが、だからといって、これからも入ってこないという保証は何もない。

「通路の天井が工場の天井に続いているのは確実ですか」
 戸川が尋ねた。
「判らない。しかし、外から見た感じではつながっていてもおかしくはない」

 天井がつながっているかどうか、はっきりさせてから、もう一度話し合っても遅くはない。まず天井裏の様子を見ようと言うことになった。

 壁の中に入るには配電盤を外すのが一番早い。甘粕と戸川は階段の脇にある配電盤を外し始めた。

 配電盤のパネルは簡単に外れたが、壁の中に詰まっている断熱材を引っ張り出すのにだいぶてこずってしまった。

 躯がどうにか入るスペースができたので、重ね着をしていた上着を脱ぎ、中に入り上に向かって這登る。

 考えていたより狭いので力が入らず、なかなか登れない。天井裏にとどいた時、呼吸が弾み汗がにじんでいた。

 持ってきた携帯ライトをつけて見ると、鉄骨が張り巡らされ、天井の化粧板の上に断熱材が敷き詰められている。

 こんなところに網を張っても食事にありつけないので蜘蛛も入り込まないらしく、きれいなものだった。だが、思って居たより通路の天井裏は間隔が狭い。

「つながっていそうですか」
 戸川も息を弾ませて登ってきた。
「もっと先に行かなければ判らない」
 甘粕は四つん這いの姿勢で、鉄骨の上を進む。

 断熱材が敷いてある化粧板には体重を乗せられない。たぶん、乗せたら踏み抜いて下へ落ちてしまうだろう。更に、音をさせないように気を使うと大変な力とバランス感覚が必要だった。

 これでは、戸川がいうように女、子供には無理である。二人は配電盤から出て食堂に戻った。

「どうだった」
 待っていた土井が尋ねる。
「あのルートでは全員脱出は無理ですね」

 たとえ男だけだとしても、多人数で試みれば、誰かが失敗して音をたてたり、化粧板を踏み抜くおそれがある。

「でも、一人か二人だったら成功するかもしれない」
「私は工場まで、あの姿勢でたどり着く自信はないですね。たぶん、筋力がもたないでしょう。途中で化粧板の上に落ちてしまいます」
 戸川はギブアップだと言う。

 しかし、このまま君元達三人が我々を放っておく気なら、何とかしなければならない。

「独りでやってみる」
 甘粕が言うと、二人は暫く黙って甘粕を見つめていた。

「やめた方がいい」
 土井が呟くように言った。戸川も危険だと繰り返していう。

 甘粕が運良くここを抜け出して、現状を知らせても、すぐに人質を救い出せるとは限らない。それができるくらいなら、一月近くも放って置かれなかったはずだ。

「しかし、寒さと飢えに苦しんでいることを、近くに来ている自衛隊に知らせれば、何か手を打ってくれるかも知れない。何もせず、ここで手をこまねいているよりはいいじゃないか」

 二人は甘粕の立場を全く知らない。
 目論だわけではないが、彼らをこんな窮地に追い込んだ原因の一端は、自分にもあると思っている。

 工具箱の中からワイヤーカッター等、脱出の途中で必要になりそうなものを腰のベルトに差し込み、穴の開いた配電盤に、甘粕は、再度潜り込んだ。

 もがきながら先ほどと同じように息を弾ませて天井裏に出る。
 手にライトを持ち、レールのように走っている鉄骨の上を、両手両足を開き気味にして、四つん這いの姿勢で通路の天井を進み始めた。

 通路は約二十メートルある。その中ほどまで来た。
 見張りのMTAは工場から通路を三分の一ほど入ってきたところにいる。もう五メートルほどで、その頭上を通過する。

 両手が痙れてきて耐えられなくなってきた。
 敷き詰められている断熱材の上に、ライトを静かに置く。
 右側の鉄骨を左手で掴んで、ぶら下がるようにして躯を移し、痙れた腕の回復を待った。

 ライトの光がMTAの居る辺りの天井裏を見せている。
 大きく深呼吸をし、再び、前進を始めた。

 音を発てないように、ゆっくりと慎重に手足を運んでいく。ライトを握っている手に体重をかけると、激しく痛んだ。直接、鉄骨に当たる指が擦り剥けてきたらしい。

 化粧板一枚隔てた向こうにMTAがいる。そして、無防備な両手両足を広げた格好で、甘粕はMTAに向かい合っていることになる。

 市川達がフェンスの近くまでたどり着いて、MTAに殺された光景がよみがえってきた。彼らがはさみ状のMTAの爪で串刺しにされて死んだのを、甘粕は自室の窓から見ていたのだ。

 もし、下のMTAが甘粕に気がつけば、その爪が天井板を突き破り、胸板をめがけて飛んでくるだろう。

 ライトが鉄骨に当り微かな音を立てた。
 全身の毛穴が吹き上がり、冷たい汗が脇の下から胸の方へ流れ、躯が硬直して動けなくなった。

 MTAの爪がシートを突き抜けて自分の躯に突き刺さるかもしれない。
 その姿勢のまま長い時間が経った。

 天井裏に敷かれた断熱材が、多少の物音は吸収してしまうので、MTAはいまの音に気がつかなかったらしい。
 再び行動を起こし、更に慎重にゆっくりと躯を前進させて行った。

 通路の端にたどり着き、壁が前進を阻んでいるのを見て、がっかりした。通路の天井は工場の天井につながってはいなかった。

 壁板を手で押してみると簡単にたわむ。外壁に使われているプレス板より薄いので、簡単に破れそうだ。だが、MTAがすぐ下におり、音を発てずにやることは難しい。

 ライトをぐるっと回すと、右の隅に真っ黒な四角い穴があった。近くに寄って中を覗くと壁の中の断熱材の端が見える。

 何故こんなところに穴が開いてるのだろう。
 手抜き工事かなと一瞬思ったが、そんなことはどうでもよい。大きさは十分ではないが、何とか中に入れそうなので、足を先にしてその穴に躯をこじ入れた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 多賀は目が覚めると布団の中に寝ていた。
 二重窓から外の光りが入って、部屋は明るく暖かい。何処かの小屋らしい。
 記憶が戻ってきた。車に乗って降りたことだけを微かに覚えている。

 起き上がると躯がだるく、立ち上がった途端、よろめいてしまった。
 猛烈に腹がすいている。
 ストーブが音を立てて燃えていた。

 上にのっているやかんから湯気が立ち昇っており、その向こうに木製の古いテーブルがあって、丸椅子が三個置かれている。

 テーブルの上にはノートや本が乱雑にのっていて、筆記用具、望遠レンズのついたカメラもある。

 やっとハーフタイムがとれたらしい。大きく息を吸い込んだ。
「目が覚めたようね」
 突然、声を掛けられて、誰もいないと思っていた多賀は驚いた。

 薄暗い隅の方で、彼女はナイフを持って何かを剥いていた。立ち上がり、掛けていた眼鏡を外して、明るいところへ出てきた。

 白いダウンジャケットに白いスキーズボンをはいている。普段は長く伸ばしているであろう髪の毛を、頭の後ろに束ねてピンで留めてあり、ボーイッシュな感じのする女性であった。一重の目が笑っている。

「おかげで助かりました」
「お腹がすいているでしょう」
 彼女はじゃがいもの皮を剥いていたらしい。

「私、島井睦美と言います」
「多賀三郎です」
 切れ長の彼女の目がキラッと光ったように思えた。

「今、何時頃でしょう」
「まもなく正午です」
 睦美はテーブルの上にある腕時計を見て言った。

「正午‥‥‥。すると‥‥‥」
「二十時間くらい寝ていたかしら」
 彼女の手は休まず、じゃがいもの皮を剥いていた。
「そんなに長くですか」

 すると、ここへ来たのは昨日の午後ということになる。車に乗せて貰ったのでMTAの追跡から逃れることができたらしいが、ハーフタイムの取り過ぎだと思った。

「随分お疲れのようでしたけど、どこへ行ってらしたのですか。富士山かしら」
「そうです。富士山に四日居ました」
 多賀は日数を確かめて答えた。

「そんなに‥‥‥」
 彼女は料理に専念して、おしゃべりを止めてしまい、多賀も黙ってそれを見ていた。

 シチューを作っているらしく、多賀は何度も生唾を飲み込む。
 彼女が突然笑いだした。多賀はどうしたのだろうと思った。
「ごめんなさいね。もうすぐできますから‥‥‥。でもインスタントだからおいしくありませんよ」

 多賀が先ほどから、お預けを喰った犬のような顔をして、彼女の手元を見ているのに気がついていたのだ。
 多賀はバツの悪さに頭を撫でて下を向いてしまった。

 出来上がったシチューを何度もお替わりをし、腹一杯食べた。こんなにうまい物を食べたことがないような気がする。

「どうして、こんな山の中にいるんですか」
 テーブルの上に乗っている本やノートを見て、何かの研究をしていることは推測できた。

「私、動物行動学を研究しています。現在、野兎のそれをしているんです」
「大学の先生ですか」
「一応は‥‥‥、なりたての講師ですけど‥‥‥」

「それはすごい」
 島井睦美はちょっと照れた素振りをした。
「私、以前から多賀さんを知っています」

 多賀は驚いて彼女を見た。笑みを浮かべている。
「オールブラックスと対戦した全日本のフッカーをしていました」
 彼女は多賀の目をじっと見ながら言った。

 十年も昔の話だった。多賀の本来のポジションはナンバーエイトだが、たった一度だけ怪我をしたフッカーの代わりをしたことがある。彼女はその試合を見たらしい。

「高校の頃、ラグビー部のマネージャーをしていたんです」
 多賀は納得したと言うように大きくうなづいた。おそらく部員達と一緒に試合を見に来たのだろう。

「でも、突然、選手をお辞めになった」
「ええ、膝を怪我しましてね」
 膝を怪我したのは事実である。だが、選手を辞めたのは、その理由だけではない。

「スポーツ選手には珍しく、工学部の御出身だったはずですね」
「よくご存じですね」
 化粧気のない彼女の頬がわずかにピンク色になった。

「そのために、今ごろこんなところに居るのかもしれません」
 自嘲気味に笑った。
 睦美は多賀の言う意味が判らなかったので、頚を傾げて、怪訝な面もちをする。

「富士山には任務で行かれたのですか」
「任務‥‥‥」
 自分の服装を見た。もう五日も着たままだ。彼女は多賀が自衛隊員だと思っているらしい。

「臭いますか。着替えがないもので申しわけありません。これは自衛隊からの借り物です」

「それでは富士登山に‥‥‥」
 島井睦美は、現在、富士一帯で起こっていることについて、何も知らないらしい。だからこんなところに一人で居るのだ。

 ここは事件の中心地からは離れているようだが、近くであることには変わりない。危険であることを彼女に知らせなければならない。

「一昨日、富士山で起こった爆発音を聞きましたか」
 睦美はうなづく。音を聞いたとき、富士山が噴火したのかと思ったという。

「あれは私がやったのです」
 睦美は目を大きくして、驚いた。

 多賀がいま富士山で何が起こっているか話し始めると、彼女は口を挟まず、驚きの表情を隠そうともせず耳を傾けた。
 話しながら彼女は非常に表情の豊かな女性だと思った。

「信じられないかも知れませんが事実です」
 話し終って多賀はそう言った。

 睦美はうなづいて、
「昨日、多賀さんが逃げろと言ったのは‥‥‥」と尋ねる。
「あの時まで奴に追われていたのです」
 あのMTAはいま何処にいるのだろう。

「そのMTAを操っている人達が富オート士マトンの工場にいるんですね」
「そうです。あなたもここを早く離れた方がいい。私は工場に行ってみます。地図はありませんか」

 睦美が荷物の中から地図を取り出し広げた。
「昨日、多賀さんとあったのがここ、北山林道です。そして、いま居る小屋がこれで、工場はここです」
 指で位置を示して説明した。

 昨日、多賀が車に拾って貰ったのは、標高一千四百メートル附近で、小屋から直線で五キロほど離れた場所だった。二人がいる小屋は標高一千二百メートルくらいのところにあった。

 工場までは直線で二十キロくらいだが、林道沿いに行けばその倍くらいの距離はあるだろう。

「歩いたら一日掛かるわ。私の車でだったら二時間くらいで行けると思う」
「でも、あなたをここに置いて行くわけにはいかない」
「違うわ。私が運転して行くの」

「それはいけない。関係ないあなたを危険に曝すわけにはいかない。それじゃ安全なところへ送った後、車を借りて私が一人で行く」

 睦美は四月までここを離れる気はないと言って承知せず、それに多賀が一人で行っても、道標もなく地図に載っていない道も沢山あるから無理であると言う。

 結局、多賀は彼女に送って貰うことになった。だが、できるだけ工場から遠いところで、彼女を帰さなければならない。

 原生林の中に続く林道は長い。既に雪は止んでいたが、富士の上の方はまだ雲に覆われている。
 林道には轍の跡もなく、うっかりすると道を外れてしまいそうだ。

 車体が頻繁に横滑りするが、睦美はそれを巧みなハンドルさばきで苦もなくしのいでいく。雪道には相当馴れているらしい。

「もう少しで富士宮口表登山道に出るわ」
 登山道と言っても、表富士周遊道路につながる二車線の舗装された立派な道路だ。

「もうここでいい。降ろしてくれ」
「まだ、無理よ。登山道の向こう側の林道も判り難いもの」
 睦美はそのまま車を走らせた。

「登山道は横切るだけか」
「そうね。向こう側の林道の入口まで登山道を一キロくらい走るわ」
「危険だ。MTAがいるかもしれない」

「大丈夫。ここに来てもう二度走っているけど誰にも逢わなかったわ」
 表登山道が見えてきた。きれいに雪が積もっており、轍の跡もMTAの足跡も見あたらない。

 表登山道に車を乗り入れると、揺れもなくなり、スピードが上がった。積雪があっても未舗装と舗装の違いは明らかだった。

 視界の悪い富士山に永く居すぎたせいか、余りにも見通しが良すぎるように感じて、落ち着かない。気になって振り返ると、いま曲がって出てきたカーブに黒い陰が入ったのが見えた。

 次の瞬間それはカーブを出て姿を現した。
「MTAだ」多賀は大声で叫んだ。

 MTAはとんでもないスピードで車を追って来る。距離はぐんぐん縮まり、富士山で戦ったMTAとは別の物と思えるほどのスピードだ。

「スピードを出せ。追いつかれるぞ」
 睦美は何も言わずにアクセルを踏んだ。多賀は後ろを向いて無反動砲を構えたが、無駄だと思い撃つのを止めた。

 車が何度も尻を振る。スピードメーターは五十キロを少し越えている。
 この雪では四輪駆動車といってもスピードに限度があり、これ以上、出せば僅かなカーブでもスピンをしてしまう。

 MTAの接近速度は先ほどより小さくなったが、確実に近付いてきている。
 閃光が走った。多賀は思わず首をすくめる。
 前方の雪面で水蒸気が上がった。

「林道の入口は」
「もうすぐ。あそこ、あそこで右に曲がる」
 前方に木立の切れ目が見える。駐車場の入口のようだ。

「でも、林道に入ったらすぐに追いつかれるわ」
 それは多賀も判っていた。未舗装の雪道に入ったら、車のスピードはダウンするが、MTAのスピードは変わらず、すぐに追いつかれてしまうだろう。

「林道に入ったら、車を捨てて林の中に逃げるんだ」
「判ったわ」

 車は右に曲がり、駐車場の奥に向かって突っ走る。鉄製のゲートが見えてきた。あれが林道の入口らしい。多賀はゲートを開けるために車から飛び降りようとした。その瞬間、車にショックを感じ、後ろから煙が上がった。レーザーがあたったのだ。

「降りろ」多賀は怒鳴った。
 車がスピンして後ろを向いて止まった。
 MTAが道路を滑るように走って来る。

 多賀は睦美の手をとり車から引きずるように降ろし、ゲートの脇をすり抜け、椴林の中に逃げ込んだ。
 後ろで爆発音が聞こえた。車が爆発したらしい。

 林の中は下生えの熊笹が足にまとわりつき走り難い。
「まだ追いかけて来るかしら」
 睦美が激しく呼吸をしながら言う。

「おそらく‥‥‥。何処か隠れる場所があるといいんだがな」
「あるわ。こっちよ」
 睦美が先に走り出す。

 辺りは背の低いウラジロモミの林で、立木の間隔が狭いので、MTAの行動もこの中では制限されるだろう。
 柘植の潅木が繁っている場所に、人一人入れるくらいの穴があった。

「ここよ、中は広いわ」
 睦美が頭から中に入り、多賀は周りの足跡を消してから後に続く。
 奥行きは五メートルほどあった。しかし、天井は膝をつかなければ、動けないほどの高さしかなく、つんと鼻を突く酷い臭いがする。

「狐の穴だったの。去年まで本土狐の親子が居たわ」
 岩の割れ目から光が差し込んでおり、目が馴れて来ると中の様子が見えてきた。不規則な形をしている。

「溶岩洞穴か」多賀は呟いた。
「ちょっと違うわ。この穴は溶岩樹型よ」
 この穴は溶岩流が太い木を巻き込んで固まったためにできたものだ。この辺りには他にも溶岩樹型でできた穴が無数にある。

 外で音がした。MTAが近くに来たらしい。
 睦美が多賀の方に身を寄せてきた。
 岩の割れ目から差し込んでいる光が一瞬遮られた。奴は穴のすぐ上まで来ている。二人は身動きもせずじっと待った。

 しかし、二度と音もせず、割れ目から差し込む光が遮られることもなかった。

「行ってしまったのかしら」
「うん、もう少し待ってみよう。完全にまいてしまわないと後がうるさいから‥‥‥」
 多賀は富士山でのことを思いだしながら言った。

「多賀さんを富士山から追って来た奴かしら」
「別の奴だ。私を追って来た奴は足を損傷している。あんなに早く走れないはずだ。表登山道を見張っていたか、哨戒していた奴だろう」

「前に来た時はいなかったわ」
「富士の裾野は広い。奴に出くわさないことだってあるさ」

 二人はもう三十分ほど待ってから、穴を出た。
 林道に戻るのは危険だ。車は駄目になってしまったし、林道を歩いて行って、再びMTAに遭遇したら、先ほどのように、うまく逃げられる保証もない。

「林道をいかなくとも人の歩ける道ならたくさんあるわ」
「それで工場まで行ける?」
「たぶん‥‥‥」

 原生林の中には昔から人が入っていた道が沢山あり、それを総て知っているわけではないが、方向を間違わなければ、工場まで行けるはずだという。

 林の中を工場の方向に歩き始めた。ほどなく、道らしきものにぶつかる。積雪は十センチほどしかなく、睦美が先頭に立ち、時折、方向を確かめながら進んでいく。

 林道に二回ぶつかったが、横切るだけですぐ林の中に入った。
 前を行く睦美がぼそぼそ何かを言っているのが聞こえてきた。

「なんだい、何か言った」
「えっ」睦美が振り返って見上げる。
「何か言っていたようだけど聞こえなかった」

「いえ、独り言よ。四月までに論文をまとめなくちゃいけないの。間に合わないかもしれないなと思って‥‥‥」
「そうか、車を壊してしまったからな」

「そう、あの車、ローンを払い始めたばかりなの」
「弁償するよ」
「ほんと」
 睦美は立ち止まって振り返った。

 多賀はその姿を見てきれいだなと思う。そして、妻の祐子の顔と重なった。しかし、目の前にいる彼女は祐子とは正反対だった。

 こんな山の中で一人で生活するほどの強さを持っており、動作は機敏で男のような活発さと決断力もある。

「但し、中古でよければだけど」
「十分だわ‥‥‥。実を言うとあの車も中古で買ったの」
 睦美は再び歩き出す。既に歩き始めて四時間になろうとしていた。

「工場まで後どのくらいだろう」
「もう、着いてもいいと思うのだけど‥‥‥。方向を間違えたのかしら」
 睦美は少し不安そうに言う。

 その時、突然、爆発音がし、睦美は多賀の側まで駆け戻ってきた。近くはないが、そう遠くでもなさそうだ。更に、音が続いて聞こえて来る。

 MTAと戦っている自衛隊の撃っている音に違いない。
 そうであれば、あの音は裾山付近のはずである。
 多賀は睦美を促して南に向った。

 ミズナラの木が多くなっている。下生えに背の高さほどあるスズ竹が生えており、まっすぐには進めなかった。しかし、見つけた踏跡のような道は曲がりくねりながら都合良く南へ向かっている。

 愛鷹つつじの群生地を通り抜け、桧の植林帯へ入った。
 工場にだいぶ近付いたと思った。
「誰か近くにいるわ」
 睦美が地面を見て言う。

 側に行くと薄く積もった雪に微かな靴跡のようなものがあった。
「古い足跡だろう」
 他に足跡らしきものは見あたらない。

「新しいわ。この人は足跡を消しながら行っている」
 いつも動物の足跡を追いかけているので、睦美には新しいものか古いものか判るのだという。

「たった今、ここに居たんじゃないかしら。向こうに行ったみたい」
 桧林の奥を示した。

 睦美の言うとおり、足跡を消しながら歩いているとすれば、MTAに追跡されないように用心していると考えられる。
 味方がここまで入り込んで居るのかも知れない。

 多賀は睦美にここに残るように言って林の中に向かったが、彼女は一緒についてきた。
 無反動砲を構え薄暗い桧林の奥へ入って行くと、木立の中で動くものがいた。

「そこに居るのは誰だ」多賀は声をかけた。
 一瞬、黒い影は動きを止め、そして、こちらに向かって歩いてきた。その歩き方に多賀は覚えがある。

「多賀さん、多賀さんじゃないですか」
 丸くがっちりした黒い影が走ってきた。
「甘粕じゃないか。ここで何をしているんだ」

「多賀さんこそどうしたんですか。まだ病院に居ると思ってました」
 甘粕の丸い顔は幾分頬が痩けていたが、鼻の脇から口へ掛けての深いしわは嬉しそうに笑っていた。

「何か食べ物を持ってませんか」
 多賀は背中に背負っているナップサックから、睦美に貰ったスナック菓子を出した。

 ここ十日ほどろくな物を喰っていないと甘粕は言いながらそれを頬張った。

目次次へ