○ 一日目−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 伊奈田は、達磨山の山系が海にせまり、小さな谷が僅かな沖積地をつくるところにある。
 戸数は僅か四十二戸で、半農半漁の集落といわれているが、沼津や三島に車ならば一時間半程で行けるため、若い人達のなかには通勤するサラリーマンもいる。

 またシーズン中は、他の伊豆地方と同じように、殆どの家が民宿をやっている。
 平地の北側に家が密集して建ち、南側は猫の額ほどの水田と蜜柑畑であった。戸田から大瀬崎へ続く道路は山際を迂回して通っており、山側には栗の木が立ち並ぶ畑があり、その上は桧の自然林が山頂まで続いている。

 集落の海側は全てコンクリートの護岸が施されていて、ごろた石の海岸ばかりで、砂浜などはどこにもない。その海岸が北側で弓状に弧を描いて曲がる辺りに、幅四メートル、長さ三十メートルほどの突堤が海に突き出ている。

 板切れに白いペンキで伊奈田と書いてあるところで、咲畑はハンドルを左に切った。坂を下りきると、小さな橋の手前に墓地があり、渡った左に古びた小さなお堂があった。なかで灯明の火が揺らめいているのが見える。

 ここで道は二つに別れ、左は蜜柑畑に、右は集落の中に続いている。
 咲畑は右に曲がり、ゆっくり車を走らせた。道は狭く古い石畳で、その両わきには低い石垣が続いている。

 家々は互いに肩を擦り寄せるように立ち並んでいた。人の出入りの多い家が前方に見えてきた。
 田川は緊張した表情で前を見ており、風祭陽子も同様に周りを見回している。その家の前に木部泰夫と彼の部下らしい男が立っていて、咲畑の一行を認め、このまま海岸まで行くと右手に駐車場があると教えてくれた。

 咲畑は護岸の脇に止まっているワゴン車の隣に車を入れた。
 既に太陽は海の向こうに沈んでいたが、空の青さと明るさは、まだ残っている。船着場の先端には釣り人が数人おり、忙しそうに竿が動いていた。

 木部達が駆けつけてきて、三人を宿舎の民宿に案内した。
「我々、二人で、先生のお手伝いをさせていただきます」
 木部は自分の部下の田島正悟を三人に紹介した。背が高く感じのよい青年だ。

 民宿の居間に落ち着き、出されたお茶を飲む。
「今夜はゆっくりして下さい。何も、お通夜に最初から参加しなくともいいと思います。先はながいのですから」

 仏さんは旭日屋の会長の再従兄弟に当たるらしい。小さな部落だから、昔を辿れば皆親戚でしょうといって、木部は笑う。
 田川と風祭は一言もしゃべらず、咲畑と木部の会話を聞いているだけだった。

「どうした。二人とも、黙りこくって‥‥‥」
 伊奈田に到着してから二人とも、ずっと緊張している。二人は常人より感覚が鋭い。何か感じているのかも知れなかった。

「いえ、ただ‥‥‥」田川の声はかすれていた。
 風祭も当惑したような表情を浮かべている。
「最初に橋を渡ったとき、微かな霊気を感じたように思えました。墓地がありましたから、そのせいかなと思ったのですが、部落のなかに入るに連れて、それは強くなっています。強いといっても、微かなものですけど、霊を呼び出したとき感ずる霊気‥‥‥。それとは、どこか、違うように思えます」

 風祭は、習慣になった商売用の口調で、厳かにいった。
 田川もゆっくり頷いて同意する。葬儀は初七日まで続くのだ。今回は今日を含めて一週間がタイムリミットである。もし解決できなくとも、原因くらいは突き止めなければならない。

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 通夜は集落のほぼ中央にある公民館で行われる。渡辺はその準備に追われていた。
 真木寺の木村住職には、枕経をあげて貰った後、別室で休んで貰っている。

 一緒に手伝ってくれている区長の沢田俊二の話によると、この公民館は数年前に旭日屋の寄付で建てられたそうだ。
 十畳間と八畳間の仕切りを取り払って、式場になっており、祭壇は十畳間の奥に飾られ、左右に施主花が置かれて、生花、供物が並んでいる。

 中央には萩田修三の生前の写真が飾られ、その亡骸は棺に入れられて、祭壇の前に安置されていた。
 料理が来たという連絡を受け、外に出ると、馴染みの仕出し屋の顔が見えた。

 厨房の方に運ぶようにいって、また、なかに戻る。既に祭壇の前には喪主とその家族が座っていて、部落の年寄り達も、ぽつりぽつりと席に着き始めている。

 誰も喪服などは着ておらず、普段着のままであった。渡辺は、いつものように通夜が終るのを見届けるため、目だたないよう廊下の隅へ下がった。ひととき、人の出入りが激しくなり、静かになった。

 木村住職が席に着き読経が始まる。
 参列者は以外に少なく、あちこちに空いた座布団が見えた。
 おかしなことに気が付く。通夜に参列しているのは年寄りばかりのように見えるのだ。それに、先ほどまで、準備を手伝っていた人たちが全くいない。

 もう一度、前の方から順に見渡してみたが、親族以外の人たちは年寄りだけで、区長の姿も見えなかった。何故だろう。年寄りだけしか参列できないしきたりなのだろうか。

 入口に人の気配がするので、目を向けると黒いネクタイをした老人が入ってきた。上着は着ておらず、遠慮がちに末席に座った。読経が終わり、通夜の儀式が終了した。読経の間、見えなかった連中が再び座敷に入ってきた。

「サンエイ仏商さん。読経の間、何処に行っていました」
 区長の沢田が渡辺を見つけていった。
「そこにいました」渡辺は廊下の隅を指す。

「そこにいたんだって」沢田は後ろの男にいう。
「大丈夫だろう」後ろの男がそういったのが聞こえた。
 渡辺は何かミスをしたのかと思った。

「いけなかったでしょうか」
「いや、いいんだ‥‥‥。それより棺に釘を打ってくれないか」
「棺に釘を‥‥‥。でも、それは出棺の時にするのでは‥‥‥」
「いや、ここでは通夜が終ったら、棺は蓋をすることになっている」

「ドライアイスが入れられなくなりますよ」
 死臭を消すため、棺の中にドライアイスを絶やさないようにしなければならない。釘付けしたら、そのドライアイスが入れられなくなってしまい、この時期だったら、すぐにでも死臭が酷くなるだろう。

 しかし、沢田も他の男達も釘を打てという。
 渡辺は車から金槌と釘を持ってきた。
「頭のところは親族の皆さんに‥‥‥」といって、金色に鍍金した釘と金槌を渡す。

 しきたり通りに棺の蓋を釘で留めた。これで、渡辺の仕事は終わりだった。
 引き上げるつもりで区長に挨拶をした。
「やはり、帰るかね」区長がいった。

「はい」変なことをいうなと思いながら、公民館を出る。
 明日は日曜日だが、葬儀屋は休みではない。駐車場に人が二人いた。車のトランクを開けて荷物を出している。

 自分の車が少し傾いているのに気が付き、ライトを取りだして後輪を見ると、空気が抜けてつぶれていた。
「パンクですか、手伝いましょうか」若い方の男が声を掛けてきた。

「すみません。お願いします」

 渡辺は車の後ろを開け、床の蓋を剥して、スペアタイヤを取り出そうとしたが、そのスペアタイヤも空気が抜けているのに気づいた。
「参ったな」電話して、迎えにきて貰うしかない。

「葬儀屋さんですか」年配の男が尋ねてきた。
「そうです」
「今夜のお通夜は一般のものと変わったところはありませんでしたか」

「‥‥‥」突然の質問に渡辺は訝った。
 男は渡辺が警戒しだしたのを察して、名刺を取り出し言葉を続ける。
「どうぞご心配なく、私は旭日屋に依頼されてきたのです。先ほど、着いたばかりで、お通夜に出そびれてしまいましてね。それで、様子をお聞きしたいと思ったのです」

 渡辺は名刺を見て、相手が大学の先生であることを知った。

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 営業マン達は全て出先から帰り、退社して行った。勝間田大介は一人店に残り、渡辺を待っていた。渡辺の歳は丁度三十である。彼には妻と子供が一人居り、サンエイ仏商に来る前は自動車ディーラーのセールスマンだった。

 彼が、何故、そこを辞めたのかは知らないが、あまり優秀なセールスマンではなかったらしい。勝間田がサンエイ仏商を創ったとき、松崎の支店にいる本山と彼が最初に応募してきた。

 勝間田は葬儀屋のマニュアルを作り、採用した者達に営業のやり方をたたき込んだ。渡辺が車のセールスマンとして成功しなかったのは、営業のやり方を知らなかったためらしい。渡辺は優秀な葬儀屋の営業マンになり、そのせいか、いつも彼には負担をかけてしまう。

 時刻は午後八時をまわっていた。帰りが遅いような気がするが、何かあれば電話して来るはずである。
 コーヒーを入れようと思い立ち上がった。

 その時、店の前を惣菜屋のおばちゃんが通りかかるのが見えた。店を閉めて帰るところらしい。おばちゃんは店のガラス戸を開けて、首を突っ込んで来た。

「遅くまで、せいがでるね」
「うん、渡辺がまだ伊奈田から帰らないのでね」
 彼女は、サンエイ仏商から十数メートル北側に行った角を曲がったところに、小さな惣菜屋を出していて、渡辺や他の従業員が昼のおかずによく買いに行く。

 勝間田は、コーヒーを入れるとこなので、飲んで行かないかと誘った。
「伊奈田で葬式なの、渡辺さんも大変だね」
 おばちゃんは近くの椅子に腰掛けて、勝間田の入れたコーヒーを飲み始めた。

 おばちゃんの歳は、たぶん七十に近いだろうが、働いているせいか、もっと若く見える。
「伊奈田か‥‥‥。昔、伊奈田に一発屋というのがいたっけな」
「一発屋‥‥‥。何ですかそれは」

「占い師みたいなものだわね。黙って座ればピタッと一発であてる。それで一発屋というのよ。この辺の人はよく見て貰いに行ったものよ。でも、戦後間もない時の話。近頃は聞いたことがないから死んだんでしょう」

「おばちゃんも見て貰ったことがあるんですか」
「いいや、でもね」急に声をひそめる。そして、コーヒーを机に置いた。
「一発屋はね、こんなに頭がでかかったんだって。福助頭っていうんかね」といって、両手のひらを頭の両わきに持っていって開く。

 その格好に思わず笑ってしまった。その時、電話が鳴った。渡辺からだった。タイヤがパンクしたから迎えにきてくれという。

 勝間田は店の戸締りをして伊奈田に向かった。
 車は内浦湾沿いの道を走り、大瀬崎を回った。道は山を登り始め、両わきには別荘が建ち並んでいる。別荘地を抜け、暫く走ると、道が突然狭くなり、右側に断崖絶壁が続き始めた。

 下は海ではなく谷状の窪地で、右に見える小さな山の向こう側に海がある。ここから先は断崖を削って作った道になり、最近、舗装されたらしく、路面は新しい。三百メートルほど走ると、道は直角に左へ曲がり、切り通しを抜けた。

 再び広い道路になって、右手の遥か下に伊奈田の明りが見えてきた。
 駐車場に車を乗り入れると、すぐ後ろに続いてもう一台入ってきて、勝間田の隣にとまった。男女、二人づつ乗っている。彼らが荷物を出しながら話している会話を聞いていると、『いざさ』という民宿を予約してあるようだった。

 渡辺の乗ってきた車は外灯の明りですぐ判った。後輪の空気が抜けているらしく傾いている。お通夜の式場に行き渡辺の姿を探したが、何処にも見えない。祭壇の近くで部落の年寄り達と話をしている木村住職に挨拶をして尋ねた。

「先程まで、ここに居ましたが‥‥‥、民宿の方かも知れませんね」という。
 勝間田は教えられた通り路地を抜け、民宿『さわ』に行った。
 渡辺は数人の人達と一緒に居間にいた。そのなかに、真城峠で逢った三人が居るのに気が付き、軽く挨拶をする。

「スペアタイヤもパンクしてるのか」
 駐車場に戻り、車のドアを開けながら尋ねた。
「いや、空気が抜けているだけだと思います」

 ハンドルは渡辺が握った。伊奈田の出口まで来ると、戸田方面から走って来る車のライトが見えた。その車をやり過ごし、後に続く。すぐに、真城峠からの道が右から合流する。渡辺は大瀬崎方面に向かう前の車のテールランプを見ながら、車を走らせた。

「旭日屋の会長は伊奈田の出身だそうです。仏の萩田修三さんはその会長のまた従兄弟にあたるらしいですね」
 渡辺は伊奈田で聞いたことを話し始める。

「お通夜のしきたりがちょっと変わっていましたね」
 読経の時、年寄りだけしか参列しなかったこと、大学の先生がそれに興味を持っていたことを話す。

 道はくねくねと曲がり、前の車のテールランプが見えたり見えなくなったりしていた。
「考古学の先生だとかいっていました」
 考古学‥‥。それと葬式がなぜ関係あるのだ。社会風俗を研究している学者なら、伊奈田の葬式に興味があるだろうが、考古学者がなぜ‥‥。

「旭日屋に依頼されたらしいです。そういっていました」
 道は大きく左に曲がり、更に右に曲がりながら、急な上りになっている。前の車のヘッドランプが先を照らしており、車の横腹が見えた。
 渡辺は殆ど同じ速度で後に付いている。

「厚化粧をしたおばさんがいたでしょう。あの人は霊媒師らしいですよ」
 霊媒師‥‥‥。なるほどと思った。
 迷信深い伊奈田の住民が同地出身の旭日屋に何かを頼んだとすれば、この葬式のことかもしれない。若い連中が手間のかかる伊奈田の葬式の形態を現在流に簡素化したいと思っている。

 しかし、年寄り達が頑としていうことを聞かない。そこで、こんなしきたりが必要かどうか、確かめようというのかもしれない。
「葬式の起源を探りたいとかいっていました」

 前の車が坂を登りきって、まっすぐ走っていく。渡辺は遅れまいと思い、アクセルを踏み込んだ。
「それでですね‥‥‥」といったとき、突然、社長の勝間田が渡辺の腕を掴み、ハンドルを左に切ろうとした。

「何するんですか。社長」
 渡辺は大きな声で叫び、勝間田の腕に逆らって戻そうとしたが、恐ろしい力で振り払われてしまった。ハンドルは左へ左へと回され、凄い衝撃がきて、車が傾いて止まった。

 何が起こったのか判らない。
「前を見てみろ。道はあっちだ」
 車のライトに照らされている前方は夜空に続く空間であった。勝間田の指さす右後ろの先に車のライトがちらっと光って消えた。

「でも、前を走っていた車は、まっすぐ走っていきました」
「何いってるんだ。右に曲がって行ったじゃないか。いま、ライトの光が見えただろう」
 道路はここで右に曲がり、崖をくり抜いて、この先に続いているところだ。

 渡辺は狐に摘まれたような気分だった。確かに前の車は坂を登りきって、まっすぐ走って行ったのを見た。だから、渡辺もアクセルを踏んで、その後に続こうとしたのだ。

 降りてみると、車は崖っぷちから五十センチくらいのところに止まっていて、左前部が切り通しの壁にめり込んでいた。

「疲れているんだよ。運転を替わろう」
 勝間田は運転席に座り、止まったエンジンを始動しようとしたが、なかなかかからない。何度も試みたが駄目なので、やむをえず、伊奈田に戻ることにして、二人は暗い山道を歩き始めた。

 渡辺は確かに疲れていたが、居眠りするほどバテてはいないつもりだった。前を見て運転していたのは間違いなく、社長にハンドルを掴まれる直前まで話をしていた。

 はっきりと記憶している。そして、前の車はまっすぐ前方に向かって走っていき、ライトに照らされた路面も見えた。

 伊奈田に戻り着き、公民館を覗くと、まだ、大勢の人が残っていた。
 渡辺が泊まるところを探しに行って、すぐ帰ってきた。先ほどの民宿『さわ』、沢田区長のところに泊めて貰えるらしい。

 民宿の居間には、先ほどの人たちの他に、ネクタイをしたビジネスマン風の二人が加わっていた。渡辺が旭日屋の社員だという。勝間田は、その二人にサンエイ仏商の社長であることを告げ、名刺を渡し、お礼を述べた。

 ひとしきり、勝間田達の事故が話題となった後、咲畑教授が公民館に行こうといって立ち上がった。勝間田と渡辺は沢田の奥さんに案内されて、自分達の部屋に行く。奥さんの話では、木村住職も、葬儀の間、ここに宿泊するそうである。

 何もすることがなかった。明日、誰かに迎えにきて貰うにも、店が開いてからでなければ、連絡できない。結局、二人も公民館に行くことにする。

 玄関を出ると、二軒向こうの民宿『いざさ』に、誰かが入って行くのが見えた。
「旭日屋の田島さんですよ」渡辺がいう。

 先ほどより少なくなったが、通夜の式場の公民館には、まだ人が残っていて賑やかだった。三、四人が勝間田達と入れ違いに外へ出て行く。 咲畑教授と連れの二人は木村住職と話していた。

「‥‥‥、このことは勝間田さんにもお話しました」
住職は勝間田が来たのに気づいて、そういった。例の七十年周期の檀家持回りの話らしい。

「どう思いますか」咲畑教授が勝間田に尋ねる。
「さあ‥‥‥」突然、尋ねられても返答に困る。
 木村住職に話を聞いて、そういうものかと思っていただけで、深くは考えてなかったのだ。

「御住職の話によると真木寺の先代は、麻生寺が無住になった後でも、それを守っていたそうですが、普通だったら自分の寺の檀家にしてしまうはずですね。いずれ、そうなることが決まっているのですから」

 勝間田がチラッと住職の顔を見ると、苦笑いのような笑みを浮かべていた。確かに、咲畑のいうとおりなのだ。

 お寺が存続していくには、最低百五十から二百の檀家数が必要だと言われているが、それでも、他から収入を得なければ苦しいだろう。
 それ以下のお寺で、立地条件がよく他の事業をできる場合は、それでもよいが、そうでないお寺は檀家を増やすしか存続の道はなく、従って、いまのお寺は檀家の獲得に積極的なところが多い。

「真木寺も、間聞寺も、延暦年間に御大師様の開山といわれています。麻生寺も、そうでしょう。檀家の持回り制度は初めからあったものではないかもしれません。何故なら、檀家制度というのは仏教が庶民のものになってからできたものですから」木村住職がいった。

「仏教は日本に伝来後、初めは貴族のもの、すなわち、上流階級に独占されており、その後、武士や庶民にひろまっていきました。檀家制度等は庶民にひろまってから出来た制度です」咲畑教授が続けた。

 寺院には、時の政府が建てた官寺、有力者や金持ちが建てた私寺などがある。これらは、政府からの支給や有力者からの寄進、援助または寺領があり、収入源があった。

 ところが、仏教がひろまって、庶民の建てたお寺の場合は、それがないか、或いは、あってもわずかなため、それだけではやっていけない。従って、お寺を存続維持していくために、次第に檀家制度が出来上がっていったのだろう。

「住職は三つのお寺が、延暦年間に空海によって、開山されたと仰った」
「はい、私はそうきいております」
「空海は延暦二十三年(八〇四年)唐に渡って、大同元年(八〇六年)に帰ってきています。真言宗は、それ以後でなければ、日本には存在しません。延暦年間の開山というのは誤って伝えられたのではないですか」

「そうですね。おっしゃる通りです。ですが、一概に、そうとも決めつけられません。御大師様は、延暦十年頃、大学を出奔しています。数年間は四国に居られたことが判っていますが、その後の七年間は消息不明となっています。そして、唐に渡る前になって、再び歴史上に現れます。私達は、その七年間、御大師様は日本全国を修行して回っていたのだと解釈しています。その折り、この地に立ち寄られて、三つの寺を開山したのかもしれません。山向こうの修善寺にある独鈷の湯は御大師様が発見したと伝えられていることは、皆さんも、ご存じでしょう。もちろん、開山といっても真言宗のお寺ができたとは、私も思っていません。おそらく、庵のようなものをお建てになったのかもしれません。そして、後年、誰かが真言宗のお寺として建て直したと考えることもできます」

 空海の七年の空白は有名な話である。彼の呪術者的な逸話は全てその頃のものだ。咲畑は一応納得したが、例え伝説にしても、こんな近くに、一度に三つの寺をつくったとは考え難い。

「伊奈田の葬式が一週間行われるというのは、いつ頃からなんでしょう。ここの人たちにも聞いてみたのですが、誰も知らないのです。もっとも、区長の沢田さんの話だと、戦争中は、一時期、簡略化して行ったらしいです。戦後はすぐ元に戻ったようですが」

「残っている過去帳から判断すると、最初から七十年の持回りになっています。もし、それが初七日まで葬儀を継続することと関連があるならば、それ以前から続いていることになります」住職がいった。

「過去帳の記録の最初は、いつ頃ですか」勝間田が尋ねる。
「そうですね‥‥‥。確か、治承四年だったと思います。間聞寺さんの方は、もうちょっと新しかったかな」

「治承四年」いつ頃なのか見当も付かない。
「源平時代ですよ。西暦で言えば一一八〇年です。頼朝が伊豆で旗揚げした年ですね。もし、それ以前の過去帳があったとして、そのころ、消失したとすれば、伊豆は戦乱の最中にあり、お寺が焼けて過去帳がなくなったと推測できます」

 しかし、過去帳のことは、この際たいしたことではない。知りたいのは、いつから、この辺りの葬儀は初七日まで続けるようになったのかだ。咲畑は近くで飲み食いしながら雑談している重田という老人にその質問をした。

「昔からですよ。先祖代々、こうやって通夜をやって、葬式をやってきたんです。いいじゃないですか」コップ酒をぐいっと飲み干した。
「戦争中の一時期、葬儀を簡略したと聞きましたけど」

「ああ、お国のおたっしで、簡素化、節約なんぞとか言われてね。ありゃあ、いかんかったね。そのせいで、ろくなことがなかった」
「どんなことですか」咲畑は身を乗り出す。

「この部落に焼夷弾が落ちたり、漁に出た船が沈んだりして大変だった。それから、『かくぜんどん』のところが、みんな死んでしまった」
「『かくぜんどん』のところは戦後の話だよ」隣の老人が訂正する。

「『かくぜんどん』というのは?」隣の老人に尋ねた。
 戦後、まもなく葬式を出した家で、旭日屋と同じ木之元姓であり、屋号を『かくぜんどん』という。伊奈田には木之元姓は他にも数軒ある。

 遺体を火葬にするため沼津に向かう途中、乗っていた船が高波にひっくり返され、その家族は全員死んでしまったらしい。一緒に行った部落の者も死んだという。
 これは葬儀を初七日まで行わずに簡略化したせいだということで、それから、再び元のように葬儀をするようになった。

「戦中にも、簡略化した葬儀をだしたのでしょう」勝間田が尋ねる。
「だから、焼夷弾が落ちたり。漁に出た船が沈んだりした」
「その家族は?」

「何ともない。いまでも居るよ」
 勝間田は全くの迷信だと思った。戦争中は何処でも焼夷弾が落とされたし、漁船が遭難することはよく聞く話しだ。木之元家の家族は、たまたま運が悪かったに過ぎない。

「他には、何かいい伝えなどはありませんか」咲畑は重田老人に尋ねた。
「御通夜が終ったら、それ以後は遺体を見てはいけないそうじゃ」
「何故です。やはり、祟りがあるのですか」

「わしゃあ、見たことがないからわからんけど、たぶん、そうだろう。近ごろの棺は、ああやって顔のところに窓があって、覗けるようになっている。でも、誰も覗かんよ」

 棺は遺体の顔に当たる部分に透明樹脂の窓が入っており、観音開きの蓋が付いている。渡辺は、通夜が終ったとき、棺の釘打ちを早々とやらされた意味が判った。

 伊奈田には出棺の際の御別れの儀式などないのだ。しかし、このまま初七日まで、ドライアイスも入れずに遺体を放置して置いたら、酷いことになるだろう。それを勝間田にいった。

「そうだな。今の季節では遺体が腐ってきて、酷い臭いになるな」
 老人達は、それに関しては区長に相談してみたらいいだろうという。
「他には‥‥‥」咲畑が、更に問いかける。

「他にか‥‥‥」
 重田老人が考えるように小首を傾げると、隣の老人が彼の肘を突いて「お通夜だ」という。

「おお‥‥‥、お通夜か。そうだ、お通夜だ。お通夜に参列したら葬式に出なければいけないことになっている。毎日な」
「何故です。そうしないと、やはり祟りがあるのですか」

 重田老人は頷く。お通夜の読経の時、それまで居た連中が居なくなってしまい、老人達だけになってしまったのを、渡辺は思いだす。若い連中は働きに出ているため、毎日葬儀にはでられない。だから、お通夜に出ることを避けたのだ。

 老人達は「そろそろ、わしらも引き上げよう」といって、立ち上がる。 咲畑はまだ話が聞きたいと思い、重田老人だけを引き留めようとしたが、一人になるのが嫌らしく、他の人達と連れだって行ってしまった。

 木村住職を囲んで話していた五人だけになった。
「初七日までの葬儀にこだわるのですけど、聞いたところによると、この近くの葬儀では、みな祭壇を初七日まで飾るとか‥‥‥」

「はい、通夜の翌日、火葬のため出棺し、葬儀を済ませて埋葬してしまい、祭壇だけ初七日まで、そのまま飾って置きます。でも、何処もすべてというわけではありません」

 一部の地域は通夜と葬式を二日で終らせてしまうし、家毎に違う地域もある。はっきりとは言えないが、駿東地区と伊豆全域にかけて、その慣習はあるようである。

「なるほど。昔は、この辺り一帯が伊奈田と同じ風習を持っていた。ところが、次第に廃れていき、伊奈田だけに残ったというわけですか」
「この地方は神式の葬儀も多いのではないのですか」木村住職がいった。

「はい、三島大社がありますから‥‥‥。そういえば、神式も初七日まで祭壇を飾りますね」勝間田は思いだしていった。

「神式もね‥‥‥。昔から続いた風習・しきたりというものは、一見変わらずに続いていくようにみえますが、実際は伝承される度に変化していき、本来のそれに威厳や荘厳さを加えるために考え出された枝葉のようなことが、いつの間にか重要視され、本末転倒したものが残っていることが、しばしばあります。仏式も神式も祭壇を初七日まで飾るというのがそれです。伊奈田の場合は本来の風習が残っているが、そのままの形ではない。時と共に変わってきて、いまの形式になっている。そのなかで原型となった風習はどれか、必要なしきたりは何かがはっきりすれば、結論に近づけるかも知れません」

 勝間田はことの成行きでこの話に引きずり込まれたが、何を目的でこんな話をしているのか、先刻から疑問に思っていた。

「咲畑先生、先生が旭日屋さんに依頼されて、この伊奈田に来たことは聞いております。何を頼まれて、何をしにこられたのですか。もし、差障りがなければ、話していただけませんか」

 咲畑としては尋ねて貰いたくない質問であった。旭日屋の依頼は常識のある人には馬鹿げていたし、解決する手段は他に幾らでもあるように思えるのだ。それに木之元社長の念の押し方を思い起こすと、どこか咲畑の大学教授という肩書に拘っていた節もうかがえた。

 それも引っかかったていたのだが、金の力には勝てず、また、そんな自分にも少し後ろめたい気持ちも手伝って、調査の目的を無意識にぼかしていたのだった。

「これは、失礼しました。自分で勝手に質問して、話をしていたようですね。いえ、お話しても別に差し支えありません」

 旭日屋の会長、木之元仁一郎はここ伊奈田の出身である。その木之元会長は引退して、余生をここで過ごしたいと思っている。ところが、気になるのは伊奈田の葬儀の風習だった。

 木之元家の先祖の墓所もここにあり、会長自身の葬儀も伊奈田で出したく、しかも普通の形式でやりたいと考えている。伊奈田の人たちが葬式の形式を頑として変えないのは、何か理由があるはずであり、それを突き止めて、ここで普通の葬儀を出せるようにしたい。

「それで、私に依頼があったのです」
「本当ですか」勝間田は思わず聞き返す。
 何とも馬鹿らしい依頼ではないか。

「本当です。確かに依頼内容はたあいのないものです。全く、くだらないといっていいかもしれません。私も初めは取り合いませんでした。からかわれているのかも知れないと考えた時、腹も立ちました」

 しかし、旭日屋の社長が自ら、再度依頼に来た。それで、旭日屋が本気だということが判り、引き受けることにしたのだ。
「大企業のオーナーとあろう者が、そんな理由で先生を担ぎ出したなどとはとても信じられませんね。ちょっと金をばらまけば、風習なんて吹き飛んでしまいますよ。何か裏があるのではないですか」

「私も、それを考えました。しかし、何かあるのなら、もう少しましな理由を考えるでしょう。あまりにも幼稚な動機なので、かえって真実ではないか、木之元社長は親孝行のつもりで、会長のわがままを聞いているのだろうと思いました。確かに金をばらまけば、この程度のことは簡単に解決するでしょう。だが、伊奈田は会長の郷里です。他で強引に出来ることも、伊奈田ではしたくないと思うのが人情ではないでしょうか」

 伊奈田は旭日屋にとって特別の場所なのだ。咲畑のいうことも、頷けないこともない。咲畑教授やその他の連中には、それ相当の報酬を約束しているのだろう。旭日屋とは較べることは出来ないが、サンエイ仏商も同じ企業である。しかし、社長の一存で会社の利益にもならないことに金をかける気にはなれない。

「伊奈田の人達はどうなんです。葬儀の簡素化に反対しているのですか」
「いや、そういうことはないようです」
 ここに来て、まだ間もないので、住民に聞いて回ったわけではないが、一部の年寄りを除いては簡素化に反対はしていないと区長の沢田から聞いている。

「それじゃ、簡単ではないですか、明日、葬儀をやって出棺しましょう」
 サンエイ仏商としては、そうした方が都合がいい。
「そうはいかないようです。彼らは反対はしないが、積極的に賛成もしない。何かを恐れているのです」

「祟りをですか」勝間田はどうしようもないというように首を振る。
「何か判りません。先ほど、ここにいた人たちに聞いて回ったのですが、彼らにも何か判っていないようです。ただ、しきたり通りに葬儀をやっていれば、無事に済むということです」

 咲畑は、先ほどから話に参加せず、ずっと沈黙している田川浩二に、目をやった。顔が蒼ざめており、握っている拳に力を入れているのか、少し震えているようにみえる。

「どうかしたのか」
 田川は目だけを咲畑にぎょろりと向けて頷く。発掘現場で、彼が埋蔵物を見つけたときの表情だった。

「何か恐ろしいものを感じます」田川の声は震えている。目を閉じた。
「真っ黒い空気が幾筋も縦に裂けて、そのなかに吸い込まれて行くような‥‥‥」肩も小さく震えだした。

「風祭さん」
 風祭陽子に尋ねたが、眉をひそめるだけで黙って首を振った。彼女には感じられないらしい。

「そっちの方から‥‥‥」田川は祭壇の方を指す。
 皆、一斉に祭壇を見た。白木の祭壇は各所に電灯が入っており、明るく輝いている。焼香台の脇に、灯明の太い蝋燭が二本、真鍮の燭台の上にともっている。何も変わったところはない。突然、風祭が笑いだした。

「遺体の霊気ですよ。それなら、私も先ほどから感じていたわ」
 彼女の笑い顔は厚化粧のせいか、赤い口紅が不気味に見えた。

「田川君、あなたはまだ経験が足らないのよ。霊気がどんなものか、いままで経験があるの‥‥‥。ないでしょう」
「でも、これは、最初に伊奈田に来た時、感じたものと同じものだ」

「でも、霊気なのよ。ここに着いたばかりの時は、長いこと車に揺られてきたので、私も疲れていて感覚がちょっと異常になっていたようだわ」
「でも、これは‥‥‥」田川は繰り返した。

「経験不足よ」風祭は見下すようにいう。
「あなたは、地面のなかに埋められているものを、探していただけで、霊と対面したことがない。だから、先生はあなたの他に私を連れてきたのよ」

 田川は不満そうに黙った。確かに、彼女のいう通りの理由で咲畑は彼女を同行させたのだが、そこまで、言わなくてもいい。
 田川は立ち上がって、ふてくされた様子で祭壇の前へ行く。

「遺体から、霊気が感じられるのですか」咲畑は風祭に尋ねる。
「ええ、普通よりは、ちょっと強い霊気が‥‥‥。遺体から霊気が感じられるのは当り前のことです。きっと、亡くなった方は、生前、生きようとする意志が強かった人でしょう」

 祭壇の前に立っていた田川が、勢いよく振り向いて何か言おうとした。
 その時、左側の灯明の蝋燭がカクッと傾いて、炎がボッと大きくなるのを、渡辺は見た。

 燭台が音を立てて小刻みに揺れている。続いて蝋燭が燭台から、ぽろっと外れた。
 いつの間にか、真鍮の燭台が傾き宙に浮いている。次の瞬間、田川の肩越しに、その燭台は回転しながら凄い勢いで、こちらに向かって飛んで来た。

「危ないっ」渡辺が叫んだ。
 燭台はうなりを発して、車座に座っている人々をかすめ、後ろにある襖を突き破って行った。五人とも畳にひれ伏している。田川は驚愕の表情を浮かべたまま、祭壇の前で尻餅をついており、暫く誰も一言も発しない。

 勝間田が立ち上がり、廊下に出て転がっている燭台を拾ってきた。
「どういうことですか」
 住職と咲畑教授は首を振るだけであった。風祭は唇を震わせて、勝間田の手にある燭台を見つめており、田川は祭壇の前で呆然と座っていた。

 燭台を丹念に見透かしたが、何の仕掛もない。いつも使っているサンエイ仏商所有の燭台だった。ふと思って、棺の観音開きの窓を開け、なかを覗くが、何の変わりもない。

 渡辺にどうだと問いかけると、目を背けて首を振る。先ほどの、重田老人の祟りがあるという話に拘っているらしい。咲畑が来て覗き、勝間田の顔を見た。何でもないと首を振った。

「何故、燭台が飛んで来たのですか。この燭台はうちの物で、何の仕掛もありません」
 勝間田は咲畑に尋ねる。

「わからない。何等かの力が働いたのは確かだ」
「やはり、ここには何かがあるんです。先ほどの車の事故も、そのせいだ。私はお通夜に参列していたのに、社長と一緒に帰ろうとしたため、祟られたのです」

 渡辺の顔からは血の気が失せていた。
 そんな馬鹿なと勝間田は思ったが、口には出さなかった。渡辺は働き詰めで疲れている。休ませなければならない。

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