○ 二日目−−−−−−−−−−−−−−−

 翌朝、勝間田大介は渡辺を伊奈田に置いて帰った。
 渡辺は昨夜の出来事でおびえてしまい、どうしても初七日まで伊奈田に居ると言い張るので、その通りにさせることにした。

 店の方はちょっと手不足になるが、それで渡辺の気が休まり、疲れもとれればと思った。
 咲畑は朝早く起きて、一人で伊奈田の集落全体を見て回った。海は穏やかで天気も良く、船着場には、もう釣り人が大勢いた。

 護岸に立って見渡すと、伊奈田全体が眺められる。思っていたより小さな集落だった。ゆっくり散策しても、二十分もあれば一回りできそうだ。
 昨夜は気付かなかったが、駐車場の脇を幅三メートル程の川が海に注いでいた。

 対岸に今にも倒れそうな木製の鳥居が建っており、夏草が茂る中に小さな祠が見える。後で見てみようと思って宿に戻った。

 朝食の後、公民館で葬儀が始まった。昨夜の御通夜より参列者は多く、年寄りばかりでなく、働き盛りの人たちも混じっていた。読経は四十分ほどで終わり、全員が順に焼香した後、数人の年寄り達を残し、式場を後にした。

 渡辺は咲畑教授達と一緒に外に出た。田川、風祭の他に、旭日屋の社員の木部と田島が一緒だった。海の見えるところまで来ると、咲畑教授が川の向こうに祠があるから行ってみようという。

 渡辺は後ろから一行に付いて行く。
 船着場の岸壁に、老人が一人立って海を見ていた。登山帽のような帽子を被り、しゃれた柄のポロシャツを着ている。よく見ると、昨夜、御通夜の時、黒いネクタイをして参列した老人だった。

 橋がないので川に降り、飛石づたいに対岸に渡る。その時、区長の沢田が後からきて一行に加わった。
 腐りかけた鳥居をくぐると、両わきに石の狛犬らしきものが一対置かれていた。

 潮風や雨に叩かれ、相当風化しており、顔の表情や手足の彫りなど、殆どはっきりして居らず、置いてある場所と、それらしき格好から、狛犬だろうと判る程度だ。祠の大きさに合わせたのだろうか、普通、神社などで見かける狛犬より二まわり程小さい。

「この祠は何を祭ってあるのですか」咲畑が尋ねる。
「海神様です。御神体は石なんです。そこから見えるでしょう」
 なかを覗くと薄暗い祠の中央奥に、灰色の塊がほこりを被って鎮座している。

 沢田は祠の扉を開け、無造作に石を掴み出した。
 ほこりを払って咲畑に渡す。石は片面だけが高温で融けたようにガラス状になっており、他の人たちも手に持って見た。

「海神様の御神体が石というのは、何故ですか」木部が尋ねる。
「この祠は神代の時代から祭られているそうです。昔の人が何を考えて石を御神体にしたのか、我々には判りませんね」沢田は笑いながらいう。

「神代の時代‥‥‥か。松江山に古墳もありますからね。古くから人が住んでいたのですね」
 松江山古墳は六、七世紀の後期古墳時代のものだ。

 木製の鳥居や祠は古くなれば、建て替えられるが、御神体の石は、そのまま祭られてきたとしてもおかしいことではない。
「これはなんだろう。お尻の跡みたいな模様ですね」

 狛犬の周りを撫で回していた田川が呟く。削り取った苔の下から、確かに、お尻の跡のような直径五センチくらいの大きさの模様が出ている。
 咲畑が座り込んで、その模様を調べだした。

「ふむ、面白い。そっちの狛犬にもあるか」
 田川に、もう一方の狛犬の台座も調べてみろという。
「あります」田川がいった。咲畑はこれは古いと呟く。

「さっき、この祠は神代の時代から続いていたかもしれないと言いましたね」
 沢田が頷いた。
「その通りですよ。この祠は相当古い。たぶん、弥生時代から、ここに祭られているのかもしれない」

「どうしてです」
「この模様が語っています」
「このお尻の模様がですか‥‥‥」木部がいった。

「お尻ではありません。相当風化していますが、桃の陰形です。私は、以前にも、この模様は見ています」
 桃は中国原産で、日本には弥生時代に渡来し、栽培されている。桃に邪鬼を払う呪力があるという信仰は、中国では、古くから広くあった。桃の渡来と共に、その信仰も日本に渡ってきている。この信仰は日本の古代社会でも広く信じられていたのだ。

「でも、それではこの祠が弥生時代以後につくられたということは言えますが、弥生時代につくられたとは言えないでしょう」田島がいう。

「実は、この信仰は日本では、あまり長続きはしなかったのです。その後、仏教が渡来すると共に廃れていきました。ですから、弥生時代かもしれないし、それ以後かも知れませんが、古代にこの祠が出来た可能性は大いにあります」

「この祠と今度の調査と何か関係が‥‥‥」木部が尋ねる。
「いえ、関係あるともないとも言えません。ただ、こんなところで、偶然、桃の陰形を見つけたので面白いなと思っただけです」

 咲畑は立ち上がった。
 祠の後ろは衝立のような小山があり、その向こうにある伊奈田の集落と、それが隔てている。川沿いに小道が迂回するようについているが、夏草が生い茂り、行くのは難儀そうなので、川を渡り返し駐車場に戻った。そのまま、護岸の上を歩き、畑の方に向かう。

 船着場を右に見て歩いていく。
 ここに来てから、漁船らしき船を一度も見ていないので、漁に出ているのだろうかと思い、沢田に尋ねた。

「ここの船はすべて戸田港に預けてあります」
 伊奈田の船着場には波避けがなく、海が荒れたとき逃げ場がない。また、氷や冷蔵庫など貯蔵施設もないから、水揚げも戸田で行っているという。

 途中、沢田の息子、陽一が一緒になった。彼は沼津にある会社に勤めており、毎日、ここから通っている。
 蜜柑畑と水田の境の小道へ入った。稲は既に穂が出て実が膨らんでいる。舗装道路の向こうに続く桧林は、ここから見える小さな峰々を覆い尽くしていた。

 沢田の話では伊奈田の私有林で、殆どが区の共同所有になっているそうであった。
「ちょっと待って下さい」風祭が立ち止まり、山の方をじっと見ている。
「この方向に墓地がありますか」桧林の方を指し、沢田に尋ねた。

「いや、ありません。お墓はお堂の周りだけです」
 風祭は少し首を傾げただけで歩き出した。
 蜜柑畑の中を抜けて、お堂の前に出た。ここに来たとき、最初に見たお堂だ。

 屋根は瓦で、建坪が二坪ほどしかない。相当古いらしく、瓦の一部が欠けており、柱や腰板にはひびが入っていて、風雨の年輪が刻まれている。昨日と同じように、格子の間から蝋燭の灯が見えている。

「葬儀の間、灯明は絶やさないように灯します。昔は、葬儀の間中、坊さん達が大勢来て、お堂に詰めていたそうです」
 咲畑は坊さん達が何をしたのか尋ねたが、沢田は知らないという。

 川をはさんで、お堂の周りは墓地になっている。
 普通、古い集落ほど墓地が大きいものだが、ここはそれほどでもない。古代には近くの松江山古墳に埋葬されたのかも知れないが、葬儀が仏式になってからと考えても、古代から続いた集落にしては、墓地面積が小さいように思える。

 沢田は土地が狭く昔から火葬の風習があるからだという。
「旭日屋の墓は?」
「あれがそうです」川べりに建つ墓石の一つを指さす。

 大きさも、占める面積も、他のものと変わらない小さな墓であった。
 一行は石畳の道を集落へ戻った。

 渡辺は午前中は祭壇の前に散った焼香の灰をきれいに片付けたり、消費した線香などを補充したり、雑用をして公民館で過ごした。遺体のことが気になり、何度も棺の臭いをかぐが、死臭は全く感じなかった。

 咲畑は木部、田島と共に民宿『さわ』の居間にいた。田川は船着場に釣りを見に行くといって出て行き、風祭陽子は旅の疲れがとれないらしく、自分の部屋に行ってしまっていた。

 集落を一通り見て回ったが、まだ何も判らず、手がかりのようなものもあったが、それが葬儀と、どう結び付くかは考えもつかない。
「先生、見通しは如何ですか」麦茶を一口飲んで、木部がいう。

「何かあるような気がします。たぶん、ここは、何処か他とは違うのだろうと思うんです。いや、私が直接そう感じたわけではなく、あの二人、田川と風祭さんを見て、そう思っているのです」

「霊能力というのは、本当にあるのですか」田島がいった。
 信じていないような口ぶりである。

「あります。霊能力が超能力と同等の物だとしたら、あると私は考えています。どんなものだと言われたら、説明に困りますが、私は、いつも目の前で見せつけられているので、信じざるを得ません」

 咲畑は田川の能力について、暫く語った。
「しかし、今度の場合は風祭さんの力を借りなければ無理でしょう」
 田川はこういった経験が全くない。

 一方、風祭は名の知られた霊能者であり、咲畑が本を書くために資料を集めたとき、あちこちで彼女の話を聞いた。
 彼女は霊媒としての能力も相当なものだが、透視能力も、非常に大きなものを持っている。ここで、例をあげるまでもなく、テレビの特別番組などに出演しているので、よく知られているはずだ。

「正直にいって、この伊奈田のことに関して、私は自信がありません。田川も、ある程度の能力はあるものの、こういった場合、あまり役に立たないかも知れません。今度の場合、結論がでるか、そうでないかは、まだ言えませんが、どちらにしても、風祭さんの能力に頼るしかないでしょう。もちろん、物的なことや目で見た現象の解析は、私の努力で判断しますが、それも限度があります。過去の記録のようなものがあれば、それを分析して判断の材料にもなりますが、ここには、全くありませんし、年寄り達に聞いて回っても、殆ど得るものはありませんでした」

「祠で見つけた桃の陰形のことですが、邪鬼を払うのに効果があると言いましたけど、海神様を祭ってあるのと、どんな関係があるのですか」

「判りません。でも、推測は出来るかもしれません。こういう解釈はどうでしょう」
 海神様というのは海の安全や大漁を祈願する神様だ。一方、海の安全や漁を妨げるのは鬼だとしたら、それを追い払ったり、封じ込めるのが桃の陰形である。

 ただし、古代の鬼というのは、後の仏教的形相をした角があって虎の皮の褌をしている、といったものではない。
「御神体の石は何ですか」

「さあ‥‥‥、いまの仮説とは結び付きませんね。そうすると、あの祠を海神様に結び付けたのは、後世の人達かもしれません」

 古代の人は、あの石を別の意味で、あそこに祭ったのかも知れない。いや、桃の陰形をつけたということを考えると、封じ込めたとも考えられる。

 何故かというと、桃の陰形は、古墳の発掘の際に、ときどき見つかり、死者を封じ込めるために、それが使われている。古代の人は死者を非常に恐れたのだ。

 それは、人は死ぬと魂は天に上り、遺骸は鬼となるということが信じられていたからだ。

 中国の『礼記』にはこんな記述がある。
 魂は天に帰し、形魄は地に帰す。
 衆生は必ず死す。死せば必ず土に帰す。これを鬼という。

 日本にも、死骸が鬼になったという話が、しばしば出て来る。
 また、古代の夜は、いまと違って真の闇のなかにあった。権力者の墓の周りには殉死者が大勢埋葬され、そして、夜になると、獣や野犬がそれを食い散らしに来る。

「そんな場所に、松明一つを持って行ったことを想像して下さい。辺りに腐臭が漂い、野犬の群れが腐乱死体をむさぼり食う情景を見ることでしょう。古墳とはそういう恐ろしい場所だったのです」

 古代人は我々が考えている以上に死者を恐れ、暗闇を恐れていた。恐らく、彼らは古墳には近づかなかったかも知れない。死骸が鬼と化すと信じられていても、何の不思議もない。

 古墳に巨大な石が使われているが、その一つの理由に、墳墓から鬼が出ないように封じ込めるためにという意味があったと解釈する人もいる。何度もいうが、この鬼の意味するのは角が生え、凄じい形相をした赤青の裸体で出て来る鬼のことではない。

 古代の日本人は鬼は死者が化してなったもの、鬼は夜出て姿を見せぬもの、鬼は人を理由もなく殺すものとして信じていた。
「幽霊ですね」木部がいった。

「そう、後世の幽霊に相当しますかね。しかし、古代の人たちはそれより恐ろしいものと考えていました。鬼という字の本来の意味は死骸が化けた物という意味なんです」

「桃太郎伝説というのが、日本のあちこちにあると本で読んだことがありますが、その桃が鬼を追い払うという信仰が形を変えたものなのでしょうか」
 話を聞いていたらしく、沢田陽一が話に割り込んで来た。

「そうかもしれませんね。化物退治の話が桃に対する信仰から桃太郎の鬼退治になったとしても、不自然ではありませんね。日本中に桃太郎伝説があるのなら、桃が鬼を追い払うという信仰が古代の日本中に広まっていた証になるでしょう」

 渡辺と木村住職が公民館から帰ってきた。渡辺は居間に上がり込んだが、住職は着替えるため、部屋へ行った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 三島のサンエイ仏商は今日も忙しい。
勝間田は遅い昼飯を食べようと思い、女子事務員に後を頼んで店を出た。外はとんでもなく暑く、車の排気ガスが道路に満ち溢れている。

 急いで、ラーメン屋に飛び込むと、カウンターに不動産屋の坂江庄一がいた。
「日曜日なのに出勤ですか、相変わらず貪欲に儲けていますね」
 勝間田は冗談半分に言いながら隣に座った。坂江も来たばかりらしく、前には水のコップしかない。

「最近は、新幹線で東京に通うサラリーマンが多くなったそうで、この辺の地価も値上がりが凄いと聞いたけど、だいぶ儲けたでしょう」

 バブル崩壊後、都会の地価高騰は鎮静化しているが、ここのように一部の地方では未だに地価の値上がりが続いているところもある。たぶん、いままで価値の無かった土地に新たに値が付いたためなのかも知れない。

「いや、儲けているのは大手ばかりだよ。東京から大資本がきて、土地を買い占めて分譲しているんだ。買う方も、ほとんどが東京のサラリーマンさ。都内の企業は社員を都内に住まわすより、通勤費の新幹線代を出す方が安いので、こっちに家を買うように奨励しているらしい。そのせいで、大手が力にものをいわせて動き回っているので、我々のような地元の零細業者はふっ飛ばされないよう必死になっているだけだよ」

「でも、間を縫って、坂江さんなんか、結構儲けているでしょう」
「いやいや、危ない賭をしなければいけないんでね。なかなか‥‥‥」
 坂江はなかなか本音を言わない。注文したラーメンが出された。

「でも、やっているんでしょう」割箸を取りながら、しつこく尋ねる。
「うん‥‥‥、情報を如何に早く掴むかだね。金利がかさむので、ちょっと間違うとこれものだよ」
 坂江は手の平を水平にして、自分の喉元に当てる。勝間田は首をすくめた。

 店に帰ると、伊奈田の渡辺から電話が入っていた。ドライアイスを持って来てくれという。丁度、帰ってきた営業マンの白石に後を頼んで店を出た。
 いつも乗っている車は昨夜の事故で修理に出したままなので、代替車に乗り、ドライアイスを沼津で仕入れて伊奈田に向かった。

 三津浜を過ぎ、トンネルを抜けると、もう車の量は少なくなる。
 右に内浦湾の海を見ながら走った。まもなく、真城峠へ通じる道が分岐する辺りだった。

 木村住職のいっていた麻生寺をふと思いだす。廃寺になった麻生寺はこの近くにあるはずだ。思い当たる場所がある。勝間田は真城峠へ向かう道を採った。昨日、真城峠からの帰り、蜜柑畑の中に古びた瓦屋根を見た。たぶん、あれが麻生寺かもしれない。

 橋を渡ったところで、車を道端に寄せて止め、瓦屋根に向かって蜜柑畑のなかの小道を行く。
 お寺は木村住職のいったように荒れていた。本堂の階段は腐って崩れており、軒はいまにも落ちてきそうだった。

 境内にまで蜜柑の木が植えられて、青い実がなっている。しかし、麻生寺かどうか判らない。車へ戻る途中、農作業の帰りらしい日除けの帽子を被ったおばさんに逢った。

 寺のことを尋ねると、やはり麻生寺だった。そして、麻生寺の檀家であったこの辺りの人たちは廃寺になった後、長浜にある仙方寺の檀家になったということを教えてくれた。

「上の方の蜜柑畑は荒れていますね」
 昨日、真城峠からの帰りに、草木が茂るにまかせてある蜜柑畑が、数多く目についたことを思いだした。

「柑橘類の自由化でねえ‥‥‥。採算が合わないんだよ。それで、やめる人が多いのさ。でもね、あたしらは他にやることがないから、損を承知でやるしかないんだよ」
 勝間田は大変ですねと同情する。

「蜜柑山を売って、街の方へ出て行った人もいる。今年あたりになって、蜜柑山が売れ出したんだよ。上の方のは全部そうだ。あたしらのところも、そろそろ見切り時かなと思ってんだけれどね」

 ここからでは、新幹線通勤は無理だが、近隣の都市部には車で通勤できる。こんなところまで、住宅の開発が進んで来てるのだろうか。

 海岸に戻り、伊奈田に向かって車を走らせた。
 車を伊奈田の駐車場に入れると、何処かで見ていたらしく、すぐに渡辺が現れた。

「だいぶ臭っているだろう」勝間田は遺体のことをいった。
「いえ、でも、心配なので、持ってきて貰うことにしたんです」
 二人で新聞紙に包んだドライアイスを抱えて、公民館に行く。

 部落の老人達と一緒にいた遺族に、ドライアイスを棺に入れると告げた。
「まずいんじゃないかい」老人の一人がいう。
「しかし、このままだと、臭いが酷くなりますよ。そうなると、この部屋にも臭いが染み込んで、暫くはとれなくなります」渡辺がいった。

 老人達は、お互いに、ごそごそと相談を始めた。ときどき、旭日屋がどうのこうのという声が聞こえてくる。
「この後、暫くは公民館を使えなくなるかもしれませんよ」

 勝間田はもう一度大きな声でいう。
「やってください」仏の妻にあたる萩田あや子が、公民館が使えなくなったら、皆さんに迷惑がかかるということをもぞもぞといった。

 誰か反対するだろうと思い、暫く待った。
 過去の経験では、何処にも、頑固な年寄りが必ずいて、最後まで反対するものだ。勝間田は、それを押しきってまでやるつもりはない。

 もし、それを無視してやれば、サンエイ仏商は喪家のいうことに耳を貸さず、サービスが悪いなどと尾鰭がついて巷に伝わり、後の商売にも差障りがでてくるのだ。

 しかし、誰も反対しなかった。勝間田は反対した老人にもう一度念を押したが、老人は全く拘らず、いいというように頷いた。二人は祭壇の前に行き、棺の釘を抜いて開ける。

 前にいれたドライアイスは新聞紙の形を残して消えていた。昨夜、渡辺は仏の顔を覗くのもいやがっていたが、一夜明けた今日はそんな素振りはまったく見せない。

 夜と昼の心理状態の違いもあるのだろうが、商売優先の気持ちがそうさせているらしく、勝間田は渡辺を見直した。二人は持ってきたドライアイスの包を入れ始めた。仏の脇の下に入れるために、腕を持ち上げて動かすと変な感触がした。

「これを見ろ」小さな声で渡辺にいう。
 仏の腕に指を当てて強く押すと、皮膚は下の肉から剥離しているように、大きくずれて皴が寄った。

「だいぶ、腐敗が進んでますね。持ってきて貰ってよかった」
「でも、おかしいな」
 腐敗が進んでいれば、もっとむくんでおり、皮膚なども弾力が無くなっているはずだ。

 押した感じでは弾力があり、まだ硬い。皮膚だけが肉から剥がれているような感じがする。まさか、皮膚と肉の境だけが腐敗したとは考えられない。普通は内臓など、なかから始まるのだ。それに、死臭が全くしなかった。

 老人達の方を見ると、話を止めて、二人の様子をじっと見ている。
 勝間田は渡辺を促して、蓋を閉め釘を打ち直し、公民館を出た。

 たぶん、前のドライアイスの冷却力で遺体の芯まで冷却されており、ドライアイスが無くなった後、表面から温度が上がってきたので、あのようになったのだろう。地理的に不便なため、頻繁にドライアイスを運べないので、昨夜も、普段の時より、多量にドライアイスを遺体に抱かせていたのだ。

 民宿『さわ』に行き、木村住職の部屋に立ち寄った。住職と咲畑教授がおり、部屋のまんなかに燭台が立ち、蝋燭がともっていた。窓が閉めきってあり、暑苦しい。

「丁度、良かった。一緒に、ここに座って見学しませんか」
 咲畑教授は、住職に構いませんねと尋ねる。木村住職は頷いて、二人に教授と並んで座るように指示した。

 勝間田と渡辺は理由が判らなかったが黙って座った。
 住職は半跏趺坐の姿勢をとり、蝋燭に向かって座っている。真言を誦しながら、流れるような手付きで九字の印を結び、定に入った。
 何かをするらしい。

 部屋のなかは閉めきられており、すきま風も入ってこない。蝋燭の灯は、静かに、少しの揺らぎもなくともっている。固唾を飲んで見守った。数秒、数十秒、そして、数分が過ぎる。

 蝋燭の炎が風に煽られたように、ひらひらと揺らめく。勝間田はそのままの姿勢で、視線だけを窓と出入口に向けて、どちらも閉まっているのを確認した。

 蝋燭の炎は横に大きく揺らぎ、左の方向に伸び始めた。十センチ程になったとき、突然、炎は真横に吹きつけるように長くのび、押入の襖に届いたかのように見えた。

「あっ」と渡辺が声を発した。
 次の瞬間、蝋燭の炎は何事もなかったように、静かにともっていた。勝間田は幻覚を見たと思った。

 そのまま、数十秒が過ぎ、木村住職は窓を開けるようにいって、蝋燭の火を消した。咲畑教授が立ち上がって、窓を開け放つと、涼しい風が一度に入ってきた。

「話には聞いていましたが、初めて見させていただきました」
 咲畑教授は感嘆のいろをあらわにしながらいった。
「いやいや、つたないもので恐縮です」住職は額の汗をハンカチで拭う。

「いまのは何ですか、幻覚ですか」勝間田は尋ねた。
「いや、法力です。実際に、蝋燭の火を心の力でコントロールしたのです。幻覚か、事実か、その襖を見れば判りますよ。ほら、黒い煤がついています」

 蝋燭の炎が、届いた辺りが薄っすらと丸く黒くなっている。渡辺が立ち上がっていき、指で擦ると指先に黒いものがついた。
「確かに、煤だ」戻ってきて、それをみせる。

「昨夜の燭台のことなんですよ」
 昨夜、公民館にいたとき、祭壇から我々をめがけて飛んで来た燭台について、何故だろうと話していたら、念動力ではないかと住職が言い出した。私は念動力というものを見たことはないので信じられないというと、それでは見せてくれるというのでここにきた。

 それが、いまの結果だ。
「実は、私の友人で、密教僧が護摩の炎のなかに大日如来の姿を浮かび上がらせるのを、見たという者がいるんです。本当かなと首を傾げていたのですが、いまの御住職の法力を見せていただいたことで、信じられることだと考えを改めました」

「私はあれが精いっぱいで、大日如来の御姿を浮かび上がらせることなど出来ません」
 咲畑は、それでもたいしたものだと、しきりに称賛する。
「すると、あれは住職がやったのですか」昨夜の燭台のことをいった。

「いや、とんでもない。私には、あんなことは出来ません」
 燭台は相当重い。あんな重いものを動かすほど、自分の法力は強くないという。
「御住職は田川か風祭さんがやったのではないかというのです」

 あの現象が起こる前、二人は言い合いをして興奮していた。二人は生まれつきの超能力者であり、感情を高ぶらせたと同時に、思わず念動力を働かせたのかも知れない。

「そんな人は、しばしば私のような者より、強烈な力を持っていることがあると聞いております」
「それなら、二人に尋ねてみたらいいじゃないですか」

「そうはいかないんです。あのとき、二人の様子を覚えていますか。二人とも、非常に驚いていました」
 あの時、風祭は唇を震わせて青くなっており、田川は腰を抜かして祭壇の前に座っていた。

「二人のどちらかがやったとしても、それは、意識せずにやったことなので、彼ら自身判らないのです。従って、コントロールすることもできない。再現も、恐らくできないでしょう」

 勝間田はこの世には説明のつかない出来事が幾らでもあるものだということは認識している。
 それは、人間の知識が足らないので、理解できないのだと思っている。

 昨夜の出来事も、いま見た現象も、経験として受け入れれば当り前のことなのだ。因果関係がどうのこうのと拘って、渡辺のように恐がることは何もない。

「ここに来る途中、麻生寺に寄ってきました」
 勝間田は住職の部屋に寄った理由を思いだしていった。
 酷い壊れようだと話し、麻生寺の旧檀家は仙方寺の檀家になったらしいことを告げた。

「仙方寺も、伊奈田のことは承知していたらしいので、手をつけなかったようですね」
 木村住職は仙方寺のことは全く知らなかった。旧檀家の人たちに尋ねれば、すぐ判ったことなのに、そこまで調べなかったらしい。

 たぶん、自分の寺を持ったのは、真木寺が初めてなのだろう。住職の経験がある者だったら、寺を維持していくために欠かせない檀家のことを忘れることはないはずだった。
 そして、先ほどのようなことを、やって見せたのをみても、修行僧あがりだろうと想像がつく。

「仙方寺に、麻生寺の過去帳があるかもしれませんね」
 咲畑はその過去帳を見たいと興味を示す。
「もちろん、真木寺、間聞寺の過去帳も、いずれ、拝見したいと思っています。しかし、最近七十年間、いや、二十二年前に廃寺になったのだから、四十八年間の過去帳に終戦前後の記録が載っている。昨夜のお通夜の後、年寄りから聞いた話は、その頃のことでした。ちょっと興味があります。確認してみたい」

 仙方寺に案内してくれないかという。
 日が暮れるまで、まだ二時間ほどある。教授の頼みを聞くのも仕事のうちである。勝間田は教授を助手席に乗せて、伊奈田を出た。

 仙方寺はこの辺りのお寺の例に洩れなく、小さな寺だ。住職は歳をとっていたが、その割にはでっぷりと太っており、どことなく生臭い感じがした。勝間田が麻生寺のことを言い出すと、用心するような目で、二人を見較べた。

 咲畑教授が名刺を出し、麻生寺の過去帳があったら見せて貰いたいという。勝間田は名刺を出さずに、教授の供をして来たのだというふうにみせかけた。

 事実、そうであるが、この辺りのお寺でサンエイ仏商の名前を出すと、沼津の、例の葬儀屋の縄張りなので、用心され、教授が調べたいものも調べられなくなると気を使ったのだ。

 住職は渋って、なかなか見せてくれようとしなかったが、伊奈田の檀家だけ見たいのであって、他のものは見ないといって、ようやく承諾させた。

 住職は分厚い和紙を綴った過去帳を持ってきた。咲畑は七十年周期のことを先ず確かめた。確かに、木村住職のいうとおりであった。

 次に昭和二十年前後を調べる。戦争中に五人死んでおり、死亡年齢から推測すると、三人は戦死らしかった。

 すると、戦中に、伊奈田で死んだのは、昭和二十年七月十五日と同八月三日となっている二人だけだった。昨夜の老人達の話と一致する。焼夷弾が落ちたり、漁船が沈んだりしたといっていたが、それで誰も死ななかったらしい。

 昭和二十一年には六人死んでおり、そのうち五人は三月二十一日に死んでいた。四人まで、木之元姓で同じ家族である。
 もう一人は一日前に死んでいるから、これが沼津に運ぼうとした仏だろう。これも、老人達の話と、ほぼ一致していた。

 戦中から戦後に掛けて、簡略して出した葬式はこの三つであろう。祟りで、五人が死んだのであれば、戦中の二つの葬式でも、祟りで人が死んでもおかしくない。

 戦死と思われる他の三人の命日も、それぞれ、かけ離れて違っていた。即ち、戦中の五人とも、別々の、かけ離れた日に死んでいるのだ。祟りと関係ないことは明らかである。

 沼津に遺体を運ぶ船が沈んだのは、偶然であり、運が悪かったとするのが妥当らしい。念のために、昔に遡って、同じようなことが起きているかどうか調べたが、全くないようだった。結局、何もない。

 しかし、何故か、普通でない異常なことを示す状況証拠があり過ぎるような気がする。
 七十年周期の持回り檀家制、古い集落にしては墓地の面積が少ないことなど。

 そして、これは、咲畑だけが感じるのかもしれないが、しきたりに対して、住民総てがびくついているように思える。

 どこの場合も、年寄りがしきたりに固執して、守っているのが普通なのだが、伊奈田では表面的にはそうなっているものの、実際は、年寄り達もただやむを得ず、そうしているといった雰囲気がある。

 住民達は、それが何に起因するのか、隠しているわけではなく、彼らも知らないようなのだ。
 そして、祠で見つけた桃の陰形。
 古墳などから出てくるのならば、当り前であるが、神を祭った祠にあるということに、納得がいかない。

 桃の陰形は鬼を封じ込めるために使うもので、あれでは神を封じ込めていることになるのだ。しかも、古代の神は桃を鬼のように忌み嫌わない。更に、昔は僧達が葬式に大勢来て、部落の入口にあるお堂にたてこもったというが、あそこで、僧達は何をしたんだろうか。

 咲畑は過去帳をめくりながら、そんなことを語った。
 勝間田はあまり興味がないので、半分聞き流しながら、いずれ、このお寺もサンエイ仏商の得意先にしてやろうなどと考えていた。
 ここの住職は欲の皮が突っ張っていそうなので、攻める手は沢山ある。きっと、この地域の突破口になるだろうと思った。

「実は、麻生寺の檀家総代から、その過去帳と一緒にもう一冊、記録帳のようなものををあずかっているのです」住職がいった。

「どんなものですか」
「詳しく読んだわけではないのですが、いま、あなたが言ったことに、関係ありそうな記述があったように記憶しています」

「ぜひ、それを見せて下さい」咲畑は身を乗り出していった。
 住職が持ってきたのは、過去帳の半分くらいの大きさの和紙の綴じ込みだった。いかにも古そうで黄ばんでおり、表紙には何も書いてなかった。

 咲畑教授はそれを手にとり、めくって読み始めた。勝間田も覗いてみたが、筆で書かれた漢字でびっしりと埋められていて、全く読めない。
 咲畑は「これは‥‥‥」といって、後は沈黙して、あちこちのページをめくっている。暫くして、ようやく綴じ込みから顔をあげた。

「仰る通りですね。これは複数の僧達が伊奈田に行った時の記録のようです。その結果を非常に簡潔に連綿と書き綴ってある。ざっと、見ただけでも、麻生寺、真木寺、間聞寺の僧達が七十年毎に受け持っていたことが判ります。どの寺も、昔は大勢の僧がいたらしい。もう少し読ませて下さい」

 咲畑は、また、綴じ込みに目を移した。
 勝間田は何もすることがないので、住職と雑談を始める。
 サンエイ仏商であることを隠しながら、できるだけ親しくなるように砕けた話もした。

 住職も話好きらしく、勝間田の話によくのってきた。個人的に親しくなっておけば、同業の葬儀屋と違い、直接の損得は関係無いから、お寺は御し易くなる。お寺さんも出入りしている葬儀屋の肩を持つのは人情である。

いずれ、沼津の葬儀屋と同じように出入りが出来れば、過去の例からもこっちのものである。咲畑教授が読んで調べている間に、この後数回顔を見せて、サンエイ仏商の便利さを見せれば、こちらに付くことは、十中八、九は間違い無いという感触を得た。

 仙方寺を出たとき、既に午後八時をまわっていた。明日は月曜日だが、友引なので、サンエイ仏商は休み同然である。今夜も伊奈田で泊まりになりそうだ。

「あの書付けは何ですか」車を運転しながら、尋ねた。
「あれは、古い時代の、伊奈田の葬式の記録です。七十年毎に、三つの寺で持回りされ、当番に当たった寺が記帳していたのではないかな」

「黄ばんでいて、だいぶ古そうでしたね」
「もちろん古いものですが、あれは、古くて黄ばんでいたのではない。黄蘗で染めてあるのです。紙を黄蘗で染めると防虫効果がある。大事な書物、例えば、経典などを虫喰いから守るためによく使われます」

「すると、あれは大事なものですか。何が書いてあったのですか」
「うん‥‥‥」お寺から伊奈田へ、坊さんが何人行って、何人帰ってきたという記録がほとんどである。三つの寺への引継の年が、はっきりと記録されていた。

 明らかに、間聞寺、麻生寺、真木寺の順に持回りされている。あの記録帳は引き継ぐ寺へ渡され、その寺が記録したものに違いない。本来は真木寺が次に所有すべきものだ。

「記録は江戸時代の初期で途切れている。最後の年が寛永三年になっていた。いまと同じく、麻生寺が受け持っていたときに、この記録は打ち切られている。そして、最後の記述が、それまでと違っており、葬式を七日やったと書いてあった。他の土地と同じように葬式を七日間やったと記録されていた。わざわざ、そう記述したということは、それまで、そうしていなかったということだ」

 それ以後、記録が残っていない。恐らく、記録することを止めたのだ。ということは、記録する必要がなくなったと解釈できる。
「実は、伊奈田に行った僧達の人数が、帰りに一人か二人減っている時がある。何を意味していると思う」

 勝間田は、暫く考えてから「死んだのですか」と言った。
「そうだ。私も、あれを読んでいて、そう考えた」
あの記録は僧達の過去帳らしい。但し、名は記入されておらず、死んだ人数だけの記録だ。

「私が、ざっと、数えた七十年間で、十一人いた」
「少なくない人数ですね。何故、死んだのですか」
「うん、何かと戦って、死んだのかもしれない。それらしく思える記述があった」

 戦ったといっても、武器を持って戦ったわけではないらしい。
「力合わせ法争すべき‥‥‥」という記述があった。
 それから推測すると、恐らく、木村住職のいう法力で戦ったのかもしれない。

 咲畑は今朝お堂の側で沢田から聞いたことを話した。あのお堂は、たぶんそのためにあったものだろう。葬儀の間、お堂の中に僧達が篭って、何か−祈祷のようなもの−をしていたのかもしれない。

 もちろん、昔は、お堂はもっと大きかったに違いない。いまの、あの大きさでは二人入ったら一杯である。形式だけ残っていて、小さなお堂になってしまったのだろう。

「何故、武器を持って闘わなかったのですか」
 勝間田は教授の話に半信半疑だったが、先ほど見せられた木村住職の法力を思いだすと、簡単に否定できないような気もした。

 昨夜の事故を、ふっと思い浮かべて、あれは、渡辺のいうように、祟りだったのかもしれないと考えている自分に気が付き、慌てて打ち消した。
 咲畑の考えに、いつの間にか、引きづり込まれて居るのを意識した。

「もし、先生の話が事実だとして、死ぬかも知れない葬式に、坊さん達は何故行ったのですか」
 いくら僧でも、檀家のために命を張るものだろうか、考えられないような気もする。

「僧達は伊奈田の檀家のためだけに赴いたのではないでしょう」
 何か、戒律のようなものがあったのかもしれない。彼らは真言宗の僧なのだ。彼らが最も崇め大切にするものは‥‥‥。

「大日如来ですか」
「それもある‥‥‥」
「他には‥‥‥。空海、弘法大師ですね」

「そう、空海だ」真木寺の住職が開山は弘法大師だといっているのも、間違いではないかもしれない。あの空白の七年間の若い空海がこの地に来て、何か異常なことに気が付き、その原因は伊奈田にあると見定め、その地を囲むように三つの寺を建てたとしたら‥‥‥。

 もちろん、その頃、一介の私度僧だった空海には寺を建てる力はない。寺を建てたのは唐から帰った後のことだろう。そして、三寺の僧達に葬儀の度毎に伊奈田へ行って、何かと戦うことを義務づけたとしたら、当然、僧達は命を張ってそれを守るだろう。

 真言宗は、他の仏教宗派のように、来世の悟りを説いてはいない。現世に主観を置いており、セックスの快楽も仏の境地だと言い切っている。裏返してみれば、現世の幸せこそ仏の道なのだ。

 真言密教はプロの宗教家のための宗教である。そして、プロの宗教家である僧達は、現世の悟りを開くために修行をし、法力を身につける。密教僧の持つ法力は現世の衆生救済に用いられ、衆生に仏の道を悟らせるものなのだ。

 かって、高野聖と呼ばれる僧達がいた。後世になって、いかがわしい者達の代名詞になったが、本来は空海の意志を継いで、衆生救済のため、諸国を経巡った密教僧の戦士達だったのかも知れない。

 彼らは身につけた法力、呪術を使って、民衆の災いを除いて歩いたのだ。伊奈田に赴いた僧達の中には、そういった高野聖達も入っていただろう。

 釈迦が嫌った呪詛を敢えて行うのは、真言宗が空海を教祖とする宗だからなのだ。南無大師遍照金剛と誦するのは、その証の一つだろう。
「三つの寺が七十年交替に受け持ったというのは‥‥‥」

「うん、そのことについては何の記述もなかった」
 しかし、私が思うには、七十年というのには、特別に大きな意味はなく、五十年でも、百年でも、良かったのではないだろうか。

 そして、一つの寺で受け持つには負担が大きいので、交替していたのだろう。七十年というと、昔の人間の寿命からすると、約二世代に当たる。

 伊奈田に赴く僧は法力を身につけた僧でなければならなかったと考えられる。修行をしても、全ての僧が法力を身につけられたとは思えず、また、それだけの才能を持った人材を集めるのは大変なことだったはずだ。

 七十年間は法力を持った僧の実践期間であり、消耗の時でもあった。そして、残る百四十年は人材を発掘し、修行をし、法力を養う期間だったと考えたら、どうだろうか。

「しかし、百四十年は‥‥‥」
「判っている」
 人間は百四十年間も生きては居られない。

 折角、法力を身につけることの出来る人材を見つけても、伊奈田に赴かずに終ってしまうこともあったかもしれない。しかし、その僧は、その間に、法力を持つ僧をもっと育てることが出来たと考えたら、納得がいくと思う。

 法力を身につけることの出来る才能を持った人材は多くはない。見つけ出して、修練し、法力を身につけさせることは、並み大抵ではなかったに違いない。或程度の人数を揃えるには、それ相応の年月を要することは想像できるだろう。

「伊奈田には、何人くらい、赴いたのですか」
「あれに載っていたのは、最高で八人、少ないときで五人だった。たぶん、一つの寺で人数が不足した時期もあっただろう。そんな時は、偶然、立ち寄った高野聖や他の寺から借りた僧を、応援に派遣したことがあったかもしれない」

「空海は、何故、それが必要だと思ったのでしょう」
 咲畑は考える様子で、暫く沈黙した。
「具体的に何かとは言えないが、伊奈田の葬儀の度に、恐ろしいことが起こった。それを防ぐために、僧達は行ったのかも知れない」

「しかし、どうして、それを突然やめたのですか」
「葬式を七日間やるようにしたからだ。七日間やることで、恐ろしいことが起こらなくなった。だから、大勢の僧が伊奈田に赴く必要がなくなった。しかし、七十年の持回り制は残った」

「そのように書いてあったのですか」
「いや、書いてない。私が携わっている考古学という学問では、或事実が見つかると、それをヒントにして仮説をたてる。すなわち、想像をするわけだ。その事実がどうしてそうなったか、いろいろ、推理をして、妥当と思われる筋道を考え出す。そして、その仮説が正しいかどうか、順に証明していく。もちろん、証明できないことも多い。また、証明していく段階で、最初にたてた仮説が間違いだったと気づくときもある。そんなときは仮説を修正する」

「いま、話したことは仮説ですか」
「そうだ。仮説は証明されて、初めて真実となる。逆説的な事実が途中で出てきたら、また、新たな仮説をたてて証明を試みる」

二人は伊奈田に帰り着き、民宿『さわ』に行ったが、誰もいなかった。用意してあった夕飯を食べてから、公民館に行く。

 部落の老人達が、十人程、八畳間の方におり、そのなかに木村住職が混じって談笑していた。祭壇のある十畳間の方に、旭日屋の社員達と一緒に田川、風祭、沢田親子、そして渡辺がいた。

 帰ってきた二人を見て、木村住職は十畳間の方へやってくる。
「収穫がありました」咲畑は住職に麻生寺の過去帳、そして、もう一つ、三寺の持回りの記録帳があったことを告げた。

 更に、その記録帳に載っていた僧達のことについて、車のなかで勝間田に話したことを、ここで再び話した。
「これは、私がこの伊奈田で見たこと、耳にしたことと記録帳の事実から勝手に想像した話で、いまのところ、あくまでも仮説として聞いおいて下さい」

「その恐ろしいことというのは、もしかすると、疫病かなんかが流行するとか‥‥‥」木部がいう。
「そうかもしれませんね。昔は、疫病は恐ろしいもののひとつでした」

「昔の人は迷信深かったから、祈祷で疫病を追い払おうとした。おそらく、死んだ僧も疫病にかかったのではないのですか」
「でも、僧達は葬儀に来て死んでいるのですよ」田川がいう。

「だから、伊奈田の人が疫病で死んで、それがうつったのかも知れない」
「伊奈田の人は、いつも、その疫病で死ぬのですか。おかしいですよ」
 過去帳によると、伊奈田で一度に多量の死者が出たという記録は、終戦後、すぐ起きた船の転覆事故を除いて、他には見あたらなかった。

 疫病が流行れば、複数の死者が出るはずである。木村住職も真木寺の過去帳にそんな記録はないという。更に、疫病説では説明できないこともある。葬式を七日間にしたため、僧達が来る必要がなくなったことだ。

 仮に風土病としても、狭い伊奈田だけに限られているということは有り得ず、この周りの地域にもあって当然である。
「沢田さん、ここには特有の病気とかいったものはありますか。いまはなくとも、昔在ったとか‥‥‥」咲畑は確認するつもりで尋ねた。

「特有の病気‥‥‥」
 沢田は眉間に皴を寄せて、少し間を置いた。
「ありませんね。そういったものは‥‥‥」

 咲畑は、先ほどから、黙って何かを探るように辺りに気を配っている風祭が気になっていた。
「風祭さん」
「えっ、何でしょう」彼女はいまの話を殆ど聞いていなかったようだ。

「何か気にかかることがあるようですね」
 一瞬、躊躇する態度を見せて、
「皆さん、寒くありませんか」と彼女はいった。
 この場にそぐわない言葉だったので、皆が顔を見合わせた。

 気付いてみると部屋の空気は冷房が効いているように、ひんやりと冷たく肌に感じる。先ほどまで昼間の暖気が篭っていた畳も、足に冷たい。
「昨夜と違って、今夜は涼しくてよく眠れそうだ。さて‥‥‥」

 明日、本社で会議があるので東京に行かなければいけない。早めに寝ることにするといって、木部が立ち上がった。それを機に皆立ち上がる。
 八畳の間に居た老人達は、いつの間にか居なくなっていた。

 民宿『さわ』へ通ずる路地を歩いていると、公民館のなかより、外の方が暑いような気がした。そして、民宿に帰ってみると、昨夜と同じ蒸し暑さであった。風呂に入っていないのは、仙方寺に行った二人だけらしいので、咲畑と勝間田は一緒に入ることにする。

「伊奈田の人達は、あまり夜歩きをしませんね」
 湯船に浸かりながら、咲畑が、ぽつりと独り言のようにいう。
「必要なときは、数人の集団で出歩くようにしているみたいだ」

 そういえば、通夜の公民館で、重田老人が一人残るのを嫌って、皆と一緒に帰ったことを勝間田は思い出した。
「何かを恐れているように思える」咲畑は、そう呟いて目をつぶる。

 台所で食器を洗う音が聞こえており、そして、遠くに潮騒の音も聞こえていた。
 暫くすると、誰かの話声が聞こえてきた。女と男の声だった。近くの路地で立ち話をしているらしい。内容は聞き取れないが、女の声は興奮していて、男の方がなだめてるように聞こえる。

 勝間田は咲畑の顔を見たが、全く聞こえないかのように目をつぶっていた。風呂からあがり、居間で冷麦茶を飲んでいると、部屋に戻っていた風祭やって来た。

「先生、やはり公民館の涼しさは異常です」風祭が言う。
「昨夜はどうだったのだろう。私は全然気が付かなかったが‥‥‥」
「今日程ではありませんでしたが、温度は低かったように思います」

「でも、昨夜は何でもないと‥‥‥」
 田川が憤慨したようにいうのを咲畑は手で制した。
「あそこで、何かが起こっている。そう思いますか」

 風祭は黙って首を縦に上下させた。
「もう一度、行ってみましょう」咲畑は立ち上がった。
 田川は不服そうな顔をしながら、後に続く。沢田親子もついてきた。

 夜も、それほど更けていないのに、路地にも石畳の道にも、一人の人影もない。各家の明りは、まだついていたが、窓は締め切られていた。

 勝間田は風祭の態度や話がころころ変わるので、どうも信用がおけないと思っていた。昨夜は田川が変だというと、経験不足だと鼻先で笑い飛ばしておきながら、今夜は何かおかしいなどといっている。

 公民館の明りがついており、祭壇の前に若い男女が二人づつ、四人いた。彼らは、昨夜、勝間田が渡辺を迎えにきたときに一緒に到着した『いざさ』に泊まっている学生達で、祭壇を見物していたらしい。

「どうぞ、ゆっくりご覧になって下さい」勝間田は愛想よくいった。
 部屋のなかは一見してなんの変わりもない。しかし、空気は冷たく、肌にひんやりと感じる。鳥肌の立つような冷たさだ。

 風祭は首を横に振って、祭壇をじっと見つめている。
「この亡骸には何か強い力が働いています」風祭がいう。
「どんな力ですか。生き返ろうというような力ですか」

「判りません。何かこう‥‥‥。いや、違いますね。いままで、私が経験したことの無い感じです。敢えて言えば、霊気に似ている‥‥‥」
 勝間田は何だこの女はと思った。昨夜と逆のことを言っている。

「死体が生き返るんじゃないでしょうね。咲畑先生は死骸は鬼になるといってました」渡辺が小さな声で囁いた。
「それは古代人の迷信だ。先生は宗教的思想を説明しただけで、実際にあったわけじゃない」渡辺が縮み上がっているのを見て、苦笑した。

「普通、霊の気配はこんなに強いものではありません。躍動するような力強さを感じます」風祭の声は震えてきた。

 勝間田は棺の観音開きの窓を開けてなかを覗いてみた。透明樹脂の反射で、よくは見えないが、仏の顔は昼間見たより痩せたように思えた。たぶん、死後硬直のせいだ。
 咲畑が顔を寄せてきて覗いた。

「どうだね」咲畑は田川に尋ねた。
「昨夜からずっと感じてますよ」
「全体から、そんな感じを受けるのか。それとも、方向性があるのか」

 田川はちょっと待てというように右手のひらを前にあげた姿勢で、身体を左右に振る。
視線は部屋の横幅一杯に及んでいる祭壇、供物、飾りの間を一つ一つ嘗めるように動き回り、誰もが予期していたように棺の上で止まった。

 前に移動し、そこに立っている風祭を押し退けた。棺の前にしゃがみこみ、暫く眺めていたが、人差指で棺の下側を指さす。
「やはり、棺のなかか」咲畑が言った。

「いや、この下から、あの感じは伝わってきます。嫌な感じだ」
 本当に嫌だというように眉をしかめた。棺は置き台の上に乗っており、畳との間には空間があって、真下の畳も腰を屈めれば見ることができる。

「ちょっと、動かしてもいいかな」咲畑が勝間田にいう。
「いいですよ。そちら側をもって下さい」勝間田は頭の方に回って棺に手を掛け、反対側を咲畑と田川が持って手前に動かした。

 その時、突然地鳴りがして、建物が持ち上がるように揺れた。
「地震だ」
勝間田はびっくりしたので、慌てて意味もなく、側にあった燭台を掴んでしまった。

 咲畑と田川は棺に手を掛けたまま立ちすくんでいる。沢田と息子の陽一は大声で叫びながら公民館の外へ走り出て行き、渡辺も後を追いかけるように出ていった。

 風祭は揺れる襖にしがみついており、学生達も互いに身を寄せて立ちすくんでいた。
 揺れが止んだ。
「凄い地震だ。最近、地震が多いですからね」

「そうだ。伊豆は地震ばかりでなく、どこから噴火するか、わからんところだからな」咲畑は最近の伊東沖噴火のことをいった。

 祭壇を丹念に見渡したが、揺れた割には何も倒れていない。実際は大した震度ではなかったようだ。びっくりしたので、大きな揺れに感じたのかも知れなかった。田川は棺をずらした畳の上を再び探りだした。

先ほどまで、棺があった場所では、何も感じないらしい。そして、棺の方を振り向いて、一瞬驚いた表情をした。
「この下」田川は棺を指さした。咲畑は畳に手をついて、棺の底を覗く。手を延ばして底を撫でたが、ざらざらと木の感触がするだけだった。

「上じゃない。下です」
 田川は畳を指さしている。
 咲畑は棺の底に顔を近づけた。棺の下には何の異変もない。

 残るは畳の下、床下だけであるが、棺は移動させたばかりで、床下に異変があるとしても、棺の移動と共に付いて来るというのも変である。立ち上がろうとした拍子に、焼香台の端に腕を引っかけ、焼香炉を台から転げ落してしまった。

「これはドジなことを」咲畑は焼香炉を拾って、慌てて灰を掻き集める。
「先生、いいですよ。あとは私がやりますから」
 勝間田は焼香炉を咲畑から受取って、残りの灰を掻き集めた。

 風祭が廊下の隅に置いて在った掃除機を持ってきて、畳の目に残った灰を吸い取り始める。
 掃除機のうなる音が響きわたった。
 勝間田は焼香炉を台に置こうとして、変な気分に襲われた。頭のなかで、何かがわんわん騒ぎ始めたのだ。

 田川が驚いたように立ち上がり、風祭は掃除機を持ったまま、立ちすくんでいた。傍観していた若い四人も、両手で耳を塞いで座り込んでしまった。

 咲畑も頭のなかで蜂が飛び回っているような音を感じて、びっくりした。非常に不快な耐え難い音だ。
 魚の加工工場の側に行ったような臭いが立ち込めてきた。

 死臭だ。
 外で誰かが大きな声でわめいており、叩くような音も聞こえてきた。勝間田が玄関へ走って行ってみると、沢田区長が凄い勢いで棒を振り回して誰かを殴っている。薄暗いので相手がよく見えない。

 殴られた相手が声をあげた。渡辺の声だった。
「どうしたんだ」
 怒鳴ったが、二人には聞こえないらしい。

 渡辺も短い棒を持って応戦しているが、沢田の長い棒を避けきれず、身体のあちこちに打撃をくらい、その度に短い悲鳴を上げている。
 止めようと、勝間田は後ろから飛びかかった。だが、沢田は恐ろしい力で暴れる。

「先生、出てきて下さい」大声で助けを求めた。
 渡辺が顔をひきつらせて、殴り掛かってきた。勝間田は沢田を突き飛ばし、辛うじてそれを避けた。

 田川と咲畑が出てきて、再び殴り掛かろうとしている沢田を取り押さえた。勝間田は渡辺の脚を引っ張って倒し、押え込んだ。二人はとんでもない力を出して、暫く暴れていたが、やがて静かになった。

「おい、大丈夫か」
 渡辺の頬を軽く叩きながら、顔を覗き込んだ。目を見開いたままだが、焦点が合っていない。やがて、数回瞬きして、勝間田の顔を見た。

「俺が誰だか判るか」渡辺は頷いた。
 勝間田は手を離し立ち上がった。陽一が見あたらない。
「何処へ、行ったんだろう」通りを見渡すが、誰も見えない。

 小走りに堤防の方へ向かった。人影のようなものは全くない。
 護岸の切れ目から海へ出てみると、船着場には今夜に限って夜釣りの人もおらず、暗い海の遥か向こうに対岸の明りが見えるだけだった。

 戻ろうとすると何かを踏みつけて足元でバリッという音がした。釣り上げた雑魚を誰かが捨てて行ったらしく、半分砕けた魚が落ちていた。結構大きな魚だったが、干からびて皮と骨しか残っていない。

 護岸の内側に戻ると右手の暗がりで、うめく声が聞こえた。近づいてみると陽一が倒れていた。
「いてて‥‥‥」気が付いて、一人で立ち上がってきた。

「大丈夫か。どうしたんだ」勝間田は周りを見回しながらいう。
 辺りには、つまずいて転倒するような石や障害物は見あたらない。
「何かとぶつかったらしい」痛そうに唸りながら陽一がいった。

 眼の前の護岸を見上げた。衝突するものと言えば護岸しかない。
 陽一を連れて民宿『さわ』に戻ると、皆一足先に公民館から引き揚げて来ていた。

 渡辺は沢田にだいぶ痛めつけられたらしく、傷の手当をして貰っていた。一方、沢田は殆ど無傷で、すまなさそうに渡辺の手当を手伝っている。息子の陽一は、顔ばかりでなく、膝も擦りむいており、両方の手当を母親にして貰った。

「何が起こったのですか」咲畑に尋ねた。
「いや、わからん‥‥‥」
 沢田達は地震に驚いて飛び出して行ったが、外に出ると揺れが、すぐおさまったといっている。

「何故、あんな殴り合いをしたんですか」
「二人とも覚えていないそうだ」
 渡辺を見ると顔をしかめながら、頷いた。

 沢田も謝りながら、自分も覚えていないという。
「僕も、あんなところまで、行った覚えはありません」
 陽一は、地震で天井が落ちてきたので、びっくりして外に逃げたが、気が付いたら、あんなところに倒れていたのだという。

「たぶん、護岸まで走って行ったのでしょう。それに、天井なんか落ちてこなかった」
 勝間田が言い、咲畑が頷いた。
「祭壇の行灯や飾りが崩れ落ちましたね」渡辺がいった。

「何をいってるんだ。祭壇はなんともなかった」
「でも‥‥‥」渡辺が言い返そうとすると、咲畑が、ちょっと待てといって制止し、「沢田さん、あなたはどうですか」と尋ねる。

「ええ‥‥‥、窓ガラスが割れて落ちてきたので、これは酷い地震だと思って外に走ったのです」
 咲畑は田川と風祭にも尋ねた。二人は、ただ激しく揺れただけだと答え、勝間田も同様だった。

「公民館の天井は落ちてこなかったし、窓ガラスは割れなかった。そして、祭壇も崩れなかった。しかし、三人はそのように見て、公民館が危ないと思い、外に飛び出したわけだ」

 沢田は頷く。他の二人も否定しなかった。
「それで、外に出てどうしました」
「外に出たら地震は止んでいました」渡辺がいった。

「棒で撃ち合う音が聞こえたのは、少し間を置いてからでしたね」
 沢田と渡辺は、何ども首を傾げながら、思いだそうとしている。
「そうだ、僕は公民館の外に出て、玄関の前に立っていました」陽一が思いだしていった。

「親父も渡辺さんも、暫く辺りを見て立っていました。そうですよ‥‥‥。公民館のなかが心配になって覗くと、風祭さんが掃除機を持って行くところでした」
 咲畑が焼香炉をひっくり返した後である。それから以後は記憶に無いらしい。

「酷い臭いがしましたね」咲畑は魚の腐ったような臭いを思いだした。
「仏さんの死臭です。もう、亡くなってから三日目だ。臭って当然です」

 棺を動かしたので、なかに隠っていた臭いが、隙間から洩れたのだろう。幾らドライアイスを使っても、この気温では限度がある。
 沢田の奥さんが冷えた麦茶を持ってきて、皆に配った。

「しかし、あの騒ぎの原因は何ですか。地震ですか」
 勝間田は再度尋ねたが、咲畑は首を振るだけだった。
「地震って、いつの地震のこと‥‥‥」奥さんが沢田に尋ねた。

「いつのって‥‥‥。ほれ、いましがた、大きい奴があっただろう」
「いいや、知らない」全員が一斉に彼女を見た。
「ついさっき、我々が公民館に居たとき、あったんですよ」咲畑がいう。

 あんな、大きな地震を感じないはずはないのに、彼女は全く知らず、ずっとテレビを見ていたが地震速報もなかったといった。
 玄関が開いて、田島が何処からか帰ってきた。

「田島さん、さっきの地震は驚いたろう」沢田がいった。
「地震ですか」怪訝な顔をする。田島も知らないらしい。
 小さな地震なら、居る場所によって気が付かない場合がよくあるので、珍しくはないが、先ほどの地震は小さな地震とは決して言えなかった。

 もしかすると、公民館は特に地震の揺れが感じ易く出来ているのだろうか。
 地震、その後の乱闘騒ぎに、誰もが薄気味の悪さを感じ取り、一言も発しなくなっていた。

目次次へ