○ 四日目−−−−−−−−−−−−−−−−

 朝早く、伊豆長岡町の喪家から葬儀の依頼が入り、営業マンの白石が出向いて、手配を済ませて帰ってきた。この葬儀は伊豆長岡の病院の看護婦が斡旋してくれたものだ。

 最近は、どこの葬儀屋も、病院の医師や看護婦と通じていて、そこから死亡情報を得ている。サンエイ仏商もその例に洩れず、つけとどけを絶やさず送っている。

「伊奈田の仏さんも、あの病院に入っていたらしいですね。脳梗塞で、もう時間の問題という患者だったようです。家族が家で死なせたいといって、死ぬ前に無理やり引き取っていったそうです」

 勝間田は頷きながら、旭日屋の差金だと思った。おそらく、家族に大金を積んで、そのようにさせたのだろう。
 この前思った疑問が、また浮かんできた。

 旭日屋が伊奈田の件にどのくらいの金を出しているのか知らないが、たとえ、会長のためだといえ、利益に結び付かない、ただ、迷信を破ることだけに大金を出すものだろうか。何か、その裏に、旭日屋の別の意図が隠されているのではと、どうしても考えたくなる。

 暫く、伊豆長岡にいってないことに気が付いた。
「病院へのお礼は私がいくよ」勝間田は座っている椅子から腰を上げた。

 サンエイ仏商はいままで、他の葬儀屋のように、つけとどけに現金を使ったことはない。
 現金にすれば、品物の選択に頭を悩ませることはないのだが、何かあったとき危ないと思っているからだ。

 考えた末、お礼の品は、やはり、いつもの米袋にすることにして、途中、米屋に寄った。家庭を持っている女性は、家で使う物を貰うと、喜ぶもので、だから、米は安い割にはつけとどけの効果は大きいようだ。

 看護婦に米袋を届けて、病院の廊下を戻って来ると、物理療法室の藤波技師に出会った。
 サンエイ仏商が伊奈田の葬儀を請け負っていることを白石から聞いたらしく、伊奈田について話し出した。そして、仏の萩田修三の話しに及んだ。

「あの患者は、脳波が普通の人と違っていた」
「脳梗塞の患者だ。当り前だろう」
 藤波はそうではないといって、脳波の話を始めた。

 脳波にはアルファ波、ベータ波、シータ波等いろいろな波があり、あの患者はアルファ波が、常時観測された。
「測定したとき、いつも観測されてるんだ」

 アルファ波は、普通の人では、睡眠に入るときや非常にリラックスしているとき以外は観測されず、また、禅僧が座禅を組んで瞑想したときにも、観測されるものだが、あの患者の脳からは、常時それが出ていたのだ。

「病気と関係あるのかな」
「いや、ない。先生も、そういっていた」
 この患者は人格の穏やかな人だったに違いない。物事に拘らず、他人といさかいを好まず、大変鷹揚な人だったのだろうと、脳波のチャートを見た医者は半分冗談のようにいっていたらしい。

「アルファ波が出ていると、そうなるの」
「らしいね。但し、先生は個人的見解だといっていたけれどね」
 大学生が怪我したことで、木村住職が瞑想について、何かいっていたのを思いだした。

 あのことと関連があるかどうか判らないが、咲畑教授に話した方がいいような気がするので、医者に確認してみようと思った。

 その話をした医者に会わせてくれと頼んだ。しかし、藤波は患者のことを人に話したことがばれるから駄目だという。
「あんたから聞いたことは黙っているから、部屋を教えてくれ」

 渋る藤波から部屋を聞き出して、医者のもとへいった。
 坂巻医師は外来診察の当番でなく、部屋にいた。
 勝間田は一般論として脳波の話を持ち出し、巧みに伊奈田のことに話を誘導していった。そして、アルファ波について、藤波から聞いた内容とほぼ同じことを聞き出した。

「瞑想するのと脳波はどんな関係になるのですか」
「その目的の一つは自律神経のコントロールにある」
 これは一部裏付けのない個人的な見解だが、と断わって、坂巻医師は続けた。

 人間の身体の神経伝達は、体内から出るホルモン様物質の刺激によって、行われる。即ち、何種類かの神経伝達物質が放出され、筋肉が伸びたり縮んだりして運動する。それと同様に、脳にも脳内だけの神経伝達物質が存在しており、人間の感情、喜怒哀楽を調整している。

 例えば、3,4−ジヒドロキシフェネチルアミン、一般にドーパミンと呼ばれている物質があるが、これは脳内伝達物質の一つである。

 このドーパミンは、覚醒剤としてよく知られているアンフェタミン(ベンゼドリン)やメタンフェタミン(ヒロポン)と、非常に構造が似通っており、それ故、これら覚醒剤はドーパミンの疑似物質として、神経末端部へ働くと考えられている。

 また、覚醒剤はドーパミンの代わりに、直接神経末端に働くということの他に、ドーパミンの分泌を高める作用を持っている。そうすると神経が働きすぎて、人間は感情が高ぶり、極端な場合、幻覚を生じたりして精神分裂病になる。

 同様に、瞑想などによって生ずる幻覚も、脳内ホルモンの過剰分泌によるものだろう。
また、エンケファリン、エンドルフィン等という脳内麻薬と呼ばれるものもある。これも体内ホルモンの一つであり、モルヒネやヘロイン等の麻薬との関係はドーパミンの覚醒剤との関係と似ている。

 瞑想は脳内ホルモンの調節を自力でやろうという手段なのかもしれないが、普通、脳内ホルモンの調節など、人間が意識してできるものではない。そんなことができるくらいなら、精神病など、簡単に自分で治せることになる。

 そして、脳波は、いま述べた物質などによる脳神経の働きを、外から観察した結果に過ぎない。
「そのドーパミンというものが、逆に少なくなれば、どうなるのですか」

「ドーパミンが不足して起こるパーキンソン氏病という病気がある」
 表情に喜怒哀楽が少なくなり、酷くなると自分の意志で行動ができなくなってしまう。

「瞑想すれば、自分でも、その分泌を調節できるようになるのですか」
「うん‥‥‥」
 坂巻医師は暫く沈黙してから、恵林寺の快川和尚の話を知っているかという。

「知ってます」
 織田・徳川軍に攻められ、武田滅亡のとき、菩提寺である恵林寺の山門上で<心頭滅却すれば、火もまた涼し>と唱えながら、焼け死んだことは有名である。

「あの言葉が真実であるなら、快川和尚は、それができたことになる」
 この場合は脳内麻薬だが、和尚はそれを意識的に体内に放出し、自分の痛覚を麻痺させたと考えられる。
 もし、そこまで可能としたら、他のホルモンも、自由に出したり止めたりできたかも知れない。

「逆に、その時、観測される脳波を外から与えたら、脳内で共鳴して、脳内ホルモンの分泌が起こるかも知れないな」坂巻は笑いながらいう。
「他人の頭のなかまで、コントロールするということですか」

「いや、冗談だよ」といって坂巻は手を振った。
 病院の駐車場に出ると雨が降っていた。
 勝間田は、このまま伊奈田へいくつもりだ。

 坂江が伊奈田で死んでいたことを、今朝早く、渡辺が電話で知らせてくれた。彼は頚を折られており、警察の見解では誰かに殺されたようだ。彼は伊奈田へ釣りにいっていたらしいが、何故、殺されたのだろう。

 大瀬崎を回る頃、雨は雷を伴い、更に激しくなり、ワイパーの速度を一段切り上げなければならなくなった。伊奈田の入口まで来ると、道路脇を流れている沢が溢れており、道路上も水が川のように流れていた。

 車を駐車場に入れ、傘をさして民宿『さわ』へ走っていく。

 居間には、木部と田島を除いて、全員が揃っていた。
 二人は警察に呼ばれ、沼津へいっているらしい。

 その後、調査は進んだか尋ねてみた。
「いや‥‥‥、いま木部さんの話をしていたのです」
 咲畑は、木部が東京にいったのに、ずっと伊奈田にいたと主張していることを話した。

「そうですか、でも何故、警察に‥‥‥」
 彼らが坂江殺しの件と関係あるとは思えない。二人とも、坂江とは面識もないはずだ。

「木部さんが、東京へいっていないといっていることと関係があるのですか」
「さあ‥‥‥」といって、咲畑は頚を傾げるだけである。

 警察にいく前、東京にいったかどうか、咲畑は直接問いただしてみたが、木部ははっきりいっていないと言い、その態度は、嘘をついているとは思えないくらい、毅然としていた。

 ところが、今朝もう一度、田島が東京に電話で確認しており、明らかに昨日の会議に出席している。
 もし仮に、木部に坂江殺しの動機があり、疑われているのなら、東京にいっていたと主張した方が疑いを晴らすのに有利だろうと思う。それなのに、伊奈田にいたと嘘をつくことは理解できない。

「本人は、本当に東京へいっていないと思っているのではないのですか」
 勝間田がいうと、みんな黙って咲畑の顔を見た。いままで、おかしな出来事が続いているので、誰も否定しない。

「そうかも知れないな。そうすると神隠し症候群だ」咲畑は呟く。
「神隠しですか、木部さんはいなくなってませんよ」
「神隠しには二通りある。ある人が、突然いなくなってしまう場合と、ある期間の記憶を、全く失ってしまう場合とがある」

 江戸時代にこんな話があるのだ。これは、れっきとした文献に残っている記録でもある。
 あるお店で小僧を使いに出したところ、夕方になって、その小僧が菅笠を被り、旅支度で、手に山芋を持って勝手口にぼんやり立っていた。

 番頭がそれを見てどうしたと尋ねると、「長い間留守にしてすみませんでした。郷里で、客が沢山来るので、忙しくて帰りそびれていました」といって、郷里の父親から土産だと、手に下げた山芋をさしだした。

 番頭はおかしいなと思ったが、機転をきかせて「おまえは、いつ、郷里へ帰った」と尋ねると、小僧は去年の暮れだという。

 それでは、半月もいなかったことになるが、実際は昼間出ていって、夕方帰ってきただけのことだった。

「これの解釈はいろいろあるが‥‥‥」
 小僧は、いつも、郷里へ帰りたいと思っていた。しかし、帰れない。
 やがて、それがこうじて、軽い意識の喪失につながったのだ。

 小僧の仕事などは言いつけられた通りのことをやればよいような簡単なものであり、だから、半月の間、誰も小僧の振舞いに気が付かなかった。本人は郷里へ帰ったと思い込んでしまっていたので、いつかは、店に帰らなければならない。

それで、先に話したような振舞いになった。即ち、小僧は、半月間、お店で働いていた記憶が欠如しているのだ。

 木部さんの場合、逆の話だがよく似ている。実際は東京へいったのに本人はそれを覚えておらず、伊奈田でずっと釣りをしていたと思い込んでいる。

「木部さんは釣りが好きだということは聞いていますが、正常な大人が、意識の喪失を起こすほど、思い込むものですか。子供の望郷の念と釣りをしたいなと思う心の強さは、雲泥の差があると思いますけどね」

 確かに、過去の例からも、神隠しは子供に多く、大人には稀なのだ。
 しかし、木部が本当にそう思い込んでいるならば、いま、話したようにしか解釈できない。

 昨日の朝、渡辺さんの事故も、地震の時の出来事も、意識の喪失できれいに説明できた。だが、こんなことは滅多に起こることではなく、もし、本当なら、稀なことが頻繁に起きたことになる。

「このことと、関連があるのか判りませんが」
 勝間田は、長岡の病院で聞き込んで来た仏さんの脳波の話と坂巻医師の話を、咲畑に語った。

「アルファ波か‥‥‥。もし、その医者のいうことが、真実なら、あの仏さんは非常にできた人だ。しかし、うがった見方をすれば、大雑把で、細かいことに気が付かない、お人好しだとも言えそうですね」

 聞き終ると咲畑がいった。言われてみれば、そうかもしれない。
「ここの人達は、みんな、親切で人がいいですよ」田川がいう。
「そうだな‥‥‥。特に、ここの人達は素直だと思う」

 そういって、全員の顔を見回した。教授はまた何かに気付いたらしい。
「何か変ですか?」勝間田は尋ねた。

「うん、伊奈田の人達は、素直過ぎやしないだろうか‥‥‥。我々は伊奈田の風習を壊しに来ている。土地の人は風習や慣習を大切にし守ろうとするのが普通だろう。それなのに、沢田さんを初め、ここの人達は我々に対して何の反対もせず、逆に、協力的だ。我々が尋ねれば、知っていることは親切に答えてくれるし、邪魔をしようとする人は、まだ一人も出ていない」

 葬式の簡素化に、一部反対者がいたと区長がいっていたが、それはあの重田老人らしい。しかし、彼は一度も我々に対して反対を唱えたことはなく、むしろ協力的である。

「それは、彼ら、誰もが簡素化したいと思っているからでしょう」
「そうかもしれない。だが、何処にも、必ず反対する者はいるものだ。しかし、知る限りここには誰もいない。おそらく、重田老人はこの話が出たとき、反対したのだろうが、みんなが賛成するので止めたのだ。彼も穏やかで物事に拘らない鷹揚なひとらしい」

 勝間田は咲畑の言いたいことが判ってきた。
 たぶん、アルファ波はあの仏さんだけでなく、重田老人からも、そして、伊奈田の住民すべてからも、出ているのではないかと言いたいらしい。思い当たることがあった。

 渡辺と二人で棺にドライアイスを入れたとき、反対の声が出るものと思い待ったが、誰も何も言わなかったことだ。このことだけをとっても、伊奈田の人達は確かに素直であると言えそうだった。

 いや、素直過ぎるかも知れなかった。
「でも、それに、どんな意味があるのですか」
 咲畑は判らないと頚を振る。

 雨は激しく降り続いており、その音で、話してる声が時々聞こえなくなるほどであった。
 また、木部の話しに戻った。

「木部さんのことは、風祭さんがよく知っているかもしれませんよ。一昨日の夜、公民館から帰ってきた後、木部さんと風祭さんが路地で話しているのを、偶然二階の窓に腰をかけていて聞いてしまいました。二人はここへ来る前に、何か取り決めをしていたらしいですね」田川が皮肉っぽい笑みを口元に浮かべながら言った。

 風祭の厚化粧の顔が真っ赤になり、田川をにらみつけた。
勝間田は、風呂へ入っているとき聞いた、男女の激しいやり取りを思い出した。

「あれは風祭さんと木部さんだったのですか。何の話をしていたのですか、よかったら聞かせて下さい」咲畑がすかさず言う。
 三人に聞かれていたことを知り、風祭は言い訳をしながら話し始めた。

 伊奈田へ来る前に、木部から、この伊奈田の件を簡単に済ますよう頼まれた。
木部は風祭の事務所に二度来訪し、伊奈田の件は、ただの迷信で何も出てこないはずだから、適当な理由をつけて、早めに調査を切り上げてくれ、そうすれば、報酬の上積みをするといったそうである。

 風祭としては報酬が増えるのは有難い。現地をみなければ、判らないことであったが、過去の経験からも、どのみち、長くかかるはずはないと見込んで承知した。

 しかし、伊奈田へ来て、自分がいままで経験したことのない何かが起きていることに気付き、短時日に片付けられないと話したところ、それでは約束が違うといって言い合いになった。

「木部さんが東京にいっていないといっているのは、そのことが絡んでいるのかな」田川がいった。
「いや、違うだろう」

 木部が伊奈田の件を早く切り上げたがっていたとしても、彼が東京へ行かなかったといってることは、何の役にも立たない。彼は本当に東京へいっていないと思い込んでいるのだ。

「しっ、静かに」田川が耳を澄ます仕草をする。
 激しい雨の音に混じって、床に響く低音が聞こえてくる。
「何だ」渡辺が腰を浮かした。

「土砂崩れだ。おそらく、道路の向こうです。ここまでは来ないから、大丈夫ですよ」
 厨房にいた沢田がいった。
 雨量が多いとよく起こるらしい。ちょっと見てくるといって、合羽を着て出ていく。

 咲畑は再び脳波のことを考えていた。それが住民全員から常時出ているとして、何につながるのだろう。
 昨日、風祭が咲畑に報告したとき、全てが正常でありながら、どこか異常だといったのはこのことかもしれない。

 住民全員から、アルファ波が出ていることを、風祭は感覚的に気付いたが、経験豊富な彼女も初めての体験なので何か判らず、あんな禅問答のような言い回しをしたのかも知れなかった。

 いままで判明した事実や、それらから推測したことが葬儀と、どう結び付くのか、もう一度考えてみた。いろいろな仮説を想定してみても、結局は鬼の話が一番つじつまがあうような気がする。

 他に説明できないことも、沢山残っているが、何故、伊奈田で死んだ住民だけ、葬式を七日間続けなければならないのだろうか。このことが判らなければ解決にならない。

 勝間田がいうように、思い切って葬式を中断してしまうことも、一つの手段だと思うが、どうもその気になれない。中断したら後戻りはできないという恐れが、いつも咲畑の心につきまとっている。

 ここの住民の素直さを考えたら、説得すればそれは可能だろうが、その結果がどうなるのか判らない。
 重田老人から聞いた戦中のことを考えたら、何もないのかも知れないが、沢田も、他の住民達も、口には出さずとも、それに対する怯えがあり、咲畑にはそれが考えている以上に大きなものらしく感じられる。

「野道具は間に合いますか」渡辺が声を潜めて、勝間田だけにいった。
「うん、間に合うように頼んできた」清水市の葬具屋には組合の手は回っていなかった。

 渡辺は安心したように頷く。
「咲畑先生。ちょっと来て下さい」玄関が勢いよく開かれ、沢田が飛び込んで来た。
 土砂崩れの現場で何かを見つけたらしい。

 咲畑は傘を手にして沢田の後に続いた。急斜面の桧林が崩れて赤土を露出させており、土砂は栗林を潰し、道路を横断して水田にまで達していた。

「土と一緒に上から流れてきたらしい」沢田が道路脇の溝を指す。
 土にまみれた服のなかから白骨化した腕が出ていた。明らかに未発掘の古墳などからのものではない。

 他の人達もやってきた。
「上にあったものかな」崩れた斜面を見上げる。
 昨日、風祭が霊気を感じた方向だ。

「そうです。この辺りでした」風祭も見上げていった。
 こんな斜面に衣服をまとった遺体が埋まっているのはおかしい。

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 警察が来て、更に土砂崩れの現場を調べ、他にも遺体があるのを見つけた。全部で四体あったが、警察はまだ現場を掘り返している。
 咲畑達は民宿に戻っており、現場に残っている沢田を除き、先ほどと同じ顔が揃っていた。

「あの人達は正常な死に方をしていない」風祭がいう。
 勝間田は当り前だと思った。死はすべて異常であり、正常な死に方などあるわけがない。

 彼女は病死ではないと言いたかったのだろうが、それなら、そうと言えばいい。公民館で田川のいうことを否定しながら、翌日は、臆面もなく肯定するような態度をとったのも気に入らなかった。

 初めは、木部との約束を守ろうとして、否定したのだろうが、それなら、態度を変えたとき、一言あってもいいと思う。
「殺人かな」咲畑がいう。
 そうであったら大事件だ。だが、四人も殺されているのに、世間は何も騒いではいない。

「あの四人は別々のところから運ばれてきたか、または、何年かに渡って、一人づつ殺されたのかも知れないな」
 それなら、世間は余り騒がないだろうと勝間田は思った。

「あの白骨死体は伊奈田と関係があると思いますか」
「さあ‥‥‥、どうでしょう」咲畑は風祭の顔を見た。
「たぶん、関係あります」

 水田の小道で感じた霊気は、おそらくあの白骨死体のものだったのだろう。しかも、その霊気を何者かが隠そうとし、死体を隠蔽しようとしていたらしい。

「伊奈田の誰かが殺したのですか」咲畑は暗い顔をしてうなずく。
「鬼かもしれませんよ」渡辺がいった。
「何処にいるんだ」勝間田が問い返す。

「‥‥‥一発屋じゃないですか」渡辺がみんなの顔を見回すと、誰もが、一瞬びっくりした表情を浮かべていた。
「田川さんが、この前、何かおかしいといっていたではないですか」

「言いました。でも‥‥‥」一発屋が鬼とは一言もいってはいない。
 それに、あの頭の大きなおじいさんは病人であり、急傾斜の桧林に死体を埋められるほど力があるとは思えない。

「霊気を隠すなんて、普通の人にはできないけれど、一発屋と呼ばれたほどの占い師だから、超能力を持っているのではないですか。普段は寝ているが、いざとなったら、とんでもない力をだすとか‥‥‥」
 誰も返事をしなかった。

「何のために人を殺すのだ」暫く間を置いて勝間田がいった。
「鬼は理由もなく人を殺すものと咲畑先生がいったそうです」

「うん‥‥‥、しかし、それは古代人の宗教的思想だ。それに、伊奈田の風習は大昔から続いているのだ。もし、一発屋が鬼だったら、ずっと死なないで生きていたことになる」

 沢田が帰ってきた。
 咲畑はまだ風邪が治らないらしく、脇に置いてあるティッシュペーパーをとりだし、何度も鼻をかんでいた。

「いや、可能性があるかもしれない。鬼が鬼自身として、この世にいるのなら、我々の常識外の存在であり、人の想像の産物だから、何百年、何千年、寿命があろうとも不思議ではない。しかし、もし鬼が人間の姿を借りて、現実に存在しているならば、自然の摂理から人間の寿命と同じであるのは、当然のことだろう」

 そこまでいって、玄関にいる沢田に聞こえないように声を潜めた。
「鬼が伊奈田で代々生まれ変わってきたとしたら、現在、存在していても不思議ではない」

 咲畑は風土病のことを沢田に尋ねたとき、彼が答えるのにちょっと躊躇したことを覚えており、それが、ずっと気になっていた。
「沢田さん、一発屋の歳は幾つですか」咲畑は大きな声で尋ねた。

「うん、確か七十八か九だ」沢田は靴を脱ぎながら答えた。
「七十九歳ですか‥‥‥。つかぬことを伺いますが、一発屋のおじいさんの以前に、同じような頭の大きい人がいたということはありませんか」

 沢田は怪訝な顔をする。
「風土病のことを尋ねたとき、ちょっと躊躇したように見えたので、こんなことをお尋ねするのですが」

「あゝ」沢田は思いだしたらしく、「あの時、ふっと、それが浮かんだんですよ」といった。
 でも、頭の大きなのが風土病と思えないし、そんな病気にかかる人が他にいるわけでもないので、あの時はないと答えたのだ。

「あれが風土病ですか」沢田は尋ね返してきた。
「そんな意味で、お尋ねしたのではありません。それではいたのですね」
「うちの死んだ親父が子供の頃、別の家にいたそうだ」

 父親から聞いただけだから、どこの家にいたのかは知らないらしい。
 他の年寄りにも尋ねたら、それは判るかも知れないが、沢田のいまの話だけで、咲畑が考えていることの裏付けにはなる。

 勝間田は咲畑の考えが判っていた。もし、一発屋が鬼だとしたら、その以前にいた頭の大きい人も鬼だったのかも知れないというらしい。

 そして、そのまた以前にも居たとすれば、伊奈田に代々、鬼が出現していた可能性がある。別の家に出現していたのならば、親から子へ受け継がれるものではないように見える。

 しかし、伊奈田は小さな部落であり、昔を遡れば、皆血縁関係にあるだろう。劣性遺伝だと解釈すれば理解できるが、すると伊奈田の誰もが鬼になる素質を持っていることになってしまい、鬼は一発屋のように頭が大きいとは限らないこともある。

 いや、そればかりではない。初七日まで葬式を行うことが、鬼のためだとすれば、昔は、この全地域に鬼がいたことになり、この地方に住んでいた人々全てに鬼になる遺伝子が存在してることを意味している。

 そして、勝間田自身も、鬼になる素質を持っていることになってしまう。
「一発屋は、いつ頃まで、占いをしていたのですか」
「若い頃だけだ」こんな辺鄙なところへ来る余裕がなくなったせいか、客が来なくなってやめたらしい。

 咲畑は、更に一発屋の家族のことを尋ねた。妹と二人暮しで、妹の連合いは早く亡くなり、その二人の息子は伊奈田を出て働いているという。

 田川達が無断で家のなかに入り、怒られたお婆あさんはその妹である。
 玄関の戸が開き、男が二人入って来た。一人は頭が少し薄くなっており、もう一人は若かった。坂江が死んだとき逢った刑事達だ。

 勝間田は歳を喰った方の刑事を見て、あれっと思った。向こうも勝間田に気が付き、意外だというような顔をしている。

「先生、ちょっと‥‥‥」若い方がまねいたので、咲畑は立ち上がり廊下に出た。
 勝間田も続いて、年配の刑事の方へいく。
「久しぶりだな、十六年ぶりだ」

「そんなになるか。おまえの結婚式、以来だからな」
「うちのおふくろから聞いたが、銀行を辞めて葬儀屋をやっているそうじゃないか」
 いや、仏事に関する総合商社だと勝間田は訂正して笑った。

「なか身は殆ど葬儀屋だけどな。県警の主任になったそうではないか。おまえのおふくろさんに聞いたよ」
「いや、使い走りだよ」
 刑事は坂上新介といい、勝間田とは同級の幼なじみで、家も隣同志であり、長い間、顔を合わせていなかったが、お互いの生家を通じて消息は知っていた。

「大介、伊奈田の件にどの程度関わっているのだ」
「伊奈田の件?、それが葬儀のことなら、初めからだ」
「それは有難い」坂上は勝間田の腕をとり、奥の方へ引っ張っていく。

「ほんとうのことを聞かせてくれ。あの大学の先生がここにいる理由だ」
 坂上は顎をしゃくって、廊下に立って杉山刑事と話している咲畑を示す。彼らはオカルトもどきのことを調べにきているといっており、旭日屋にも問い合わせたが、同じ答えだった。

「その通りだ」咲畑の調査を手伝ったことを話した。
「おまえも信じているのか」
「うん、俺にとって、客のいうことは全て正しく、そして、言われたことに疑問を挟まず、すぐ実行するのがサンエイ仏商の方針なのだ」

 勝間田がいままで咲畑の考えに疑問を挟み、質問をしていたのは、教授がそうして欲しいような態度を示したからなのだった。
「ところで、あの白骨死体は何なんだ」

 風祭が伊奈田と関係がありそうだといっていたことを話した。
「そうか‥‥‥、霊媒師がそういうのか」
 坂上は霊媒師を頭から馬鹿にはしていないらしい。見つかった死体は四体だったが、坂上は四体では不足の様子である。

「遺体の出所が判っているらしいな。話してくれたら、協力できるかも知れないぞ」
 坂上は勝間田の顔を暫く見つめていたが、そのつもりになったらしく、話し始めた。

 この二十年の間に伊豆で原因の判らない失踪者が七人おり、そのどれもが一人旅のサイクリングやヒッチハイクの旅行者である。他にも失踪者はあるが、生死は別として、それらの殆どは見つかっており、失踪する理由も存在していた。

 しかし、この七人だけは失踪する理由もなく、一人も見つかっていない。しかも、足取りをたどると、そのうちの何人かはこの近くまで来たことが判明している。最も新しい不明者は二カ月前で、バイクツーリングの学生であった。

「あの四体が、そうだというのか」
「たぶんな、鑑識の結果を待たなければ、はっきりとはわからんが」
 土砂崩れの現場には、あれ以上遺体はなかったが、見つかった白骨が行方不明七人のうちの四人だとすれば、残りも近くにあるかも知れない。

「すると、殺しと見ているのか」
 坂上はうなずく。照合の結果が行方不明者と特定できなくとも、あんな場所に埋められていたのだ。殺しとしか判断できない。

「坂江の件とつながるのか」
「それは、こっちで聞きたいよ」坂上は苦笑いをする。
「旭日屋の社員達を、何故、引っ張っていったのだ」

「うん、それはあとで話す」
 坂上は咲畑教授を連れて、公民館に行きたいという。話を他の者に聞かれたくないらしい。

 雨はまだ降り続いており、稲妻が走り、雷鳴が轟いていた。
「近そうだな」坂上は頚をすくめて空を見上げた。
 日が暮れかけている。

 各々傘をさし、路地を抜けて石畳の道に出た。
 公民館の向こう隣に、枝を張り出した大きな木が黒々と立っている。向かって歩いていくと、その黒い影が自然に眼に入ってくる。

 突然、連続する轟音と共に明るい光が木の上を走った。雷が木に落ちたらしい。キナ臭いにおいが辺りに漂う。更にもう一度稲光が走った。勝間田は木の上に何かを見て、思わず息を飲んだ。

「何だ‥‥‥。あれは」
 再び稲妻が光る。だが、そこには、落雷で裂けた枝が一瞬見えただけで、もう他のものは見えなかった。

 雷鳴が尾を引くように続いていた。勝間田は公民館の前を走り抜け、木の下まで行き、見上げた。
 公民館の明りは下の枝までしかとどかず、先の方は暗くて見えない。

 咲畑が公民館に備え付けられている携帯ライトを持ってきた。木の枝、梢を隈なく照らすが、何もいない。
「確かに、何か見えましたね」

 勝間田は一瞬の光のなか、木の枝とは明らかに違う青白いものを梢に見た。全体像は判らなかったが、肌に浮き出ていた筋肉が動いており、何かが居たことは間違いなかった。

「凄い顔をしていた」杉山刑事は顔を見たらしい。
 能面の夜叉のようだったが、もっと立体感があった気がするという。
「先生も見えましたか」

「いや」
 教授と坂上は何かがいたのは判ったが、一瞬だったので、何が見えたかは判らなかったらしい。

 四人は公民館に入った。祭壇には灯が入っており、灯明の蝋燭もともっていて、変わりはない。
「今のは何ですか。全員が見たのだから、幻覚や錯覚ではないでしょう」

「いや、そうとは言い切れない」
 この伊奈田ではいままで不可解なことが当り前のように起こっている。渡辺や沢田達が幻覚を見て騒いだのは、地震が起きて非常に驚いた後だった。

 そして、いまも雷が落ちて四人とも非常に驚いたが、火も出ず無事だったので、ホッとしたときあれを見た。人間は眠気を催したときとか、極端に驚いた後などは、心が緩み無警戒になるものだ。

「我々は幻覚を見たというのですか」
 坂上と杉山は、そんな馬鹿なという表情を顔に浮かべていた。
「いや、そうだといっているわけではない。しかし、幻覚ではないと言い切れないでしょう。私は木の上にいたものをはっきり見たわけではないが、現実に、あんなものがいると思いますか」と咲畑はいう。

 勝間田の見たものと杉山の見たものを総合しても、人間だったのか、四つ足だったのか判然としていない。もし昔の人が見たのだったら、あれを雷獣と言うかも知れない。

「やはり、鬼に操られて幻覚を見たんだ」勝間田がいった。
 これまで、みんなが起こした不可思議な行動を、意識の喪失で片付けてきたが、咲畑自身、それを確信しているわけではない。

 また、誰もが正常な精神の持ち主であり、過酷なストレスがかかっていたとも考え難かった。伊奈田にいる何者かがそうさせたとしたら、結界の仮説も、三寺の事情も、そして、いままで起こった現象も全て納得のいく説明ができるように思える。

 木部の神隠し現象も、船に乗る直前に好きな釣りを見ていて、心の隙をつかれたのだと解釈すれば、納得がいくのではないだろうか。ここには、そんな何かが現在も存在しているのかも知れない。

「そして、あの四体の白骨はそれが殺したとでもいうのですか」
 坂上は馬鹿にしたようにいったが、笑ってはいなかった。

 勝間田が伊豆長岡から仕入れてきた、脳波の話も、何かの存在を示唆しているのかも知れず、また、ここの住民が素直だというのは、何を意味しているのだろうか。

 そして、四体の白骨死体がこれらと関連があるなら、それは何故なのだろう。
「やはり、木部の記憶がないのはほんとうらしいな」
 彼は会社の会議が終ると、新幹線に乗り、三島からタクシーで伊奈田へ来ている。

「何故、坂江殺しの容疑がかかったのだ。彼らには坂江と面識がないはずではないのか」
「いや、容疑をかけたわけじゃないが、木部は坂江を知っているんだ」

 田島は、木部の話しの裏をとりたいので、一緒に連れていったという。
「木部は大瀬崎の物件を坂江の仲介で買っている」
 半年ほど前、偶然、木部が坂江の店に飛び込みで入り、大瀬崎の別荘地を二区画買っている。

「豪勢だな。一流企業のサラリーマンはそんなに給料を貰っているのか」
「いや、借金だ」自分のマンションを担保にして銀行から借りている。
「それが、坂江殺しとどう絡むのだ」

「別に、それがどうこうしたから、疑ったわけではない」
 坂江は伊奈田へ来て殺された。
 その現場近くで、坂江を知っていたのは木部と渡辺だけであり、渡辺はただの顔見知りであるが、木部の方は、半年前に、大金の授受を伴う取引があった。

 そこに、何かがあったかも知れないと考えるのは自然だろう。だが、調べの結果何もないことが判った。それに、木部を三島から伊奈田まで運んだタクシーの運転手の証言からも、彼には、その時間的余裕がないことが判明した。

「坂江はよく釣りに来るので、住民のなかには顔ぐらいは知っているものもいるようだ」
 坂江が倒れているのを見つけたとき、渡辺が「坂江さんだ」というと沢田がうなずいたことを咲畑は覚えている。

「彼はこの辺りによく来ていたらしいが、釣りのためばかりではなかったのかも知れない」
 勝間田は真城峠でのことを思い出していた。

 あの時、薮の中から出てきて、釣りの帰りだといっていたので、小用でも足していたのだろうと思っていたが、いま考えてみると商売の下見をしていたようにも思える。

「うん、坂江は真城峠の東側にある蜜柑畑をだいぶ買っているようだ」
「蜜柑畑?」
 勝間田は麻生寺へいったとき、農作業帰りのおばさんに聞いた話を思い出した。

 今年になって、蜜柑畑が売れたといっていた。すると、あれは坂江が買っていたのか。だが、あそこは交通も不便だし、市街化調整区域だから、簡単に宅地造成もできない。

 普段の付き合いから推測するのだが、彼が長く寝かせるほど、資金に余裕があったとは思えない。もしかしたら、ラーメン屋で話したとき、如何に早く情報を掴むかだといっていたから、何か情報を掴んだのかも知れない。

「坂江さんは、いつから、蜜柑畑を買っている?」
「半年ほど前からかな。ぽつぽつと買っていたみたいだ」
「木部が大瀬崎の別荘地を買った時期と同じだな」

 咲畑達が調査依頼された理由に、勝間田は以前から納得がいかない。会長が郷里の伊奈田で余生を安穏に過ごすためなどといっているが、快適に過ごせる別荘地なら、他に幾らも存在しており、旭日屋のオーナーくらいになれば、既に持っているはずである。

 老人が郷里を懐かしむのは、判らないでもないが、死んだ後の葬式まで、本気で心配などするだろうか。
「調査依頼の、本当の理由はその辺りにありそうだ」

 坂江が蜜柑畑を買ったのは、何か情報を掴んだからだ。
 それが、木部の別荘購入と時期が同じとすれば、木部から得た可能性がある。木部から直接聞き出したか、自分で探り当てたのかは判らないが、とにかく、蜜柑畑を買っておけば儲る話なのかも知れない。

 坂江が幾ら釣りが好きだといっても、平日に商売を放り出して、頻繁にいくはずがない。彼は日曜日も働いていたくらいなのだ。

 木部の別荘地購入も、将来のためというより、坂江と同じ目的ではないだろうか。
真城峠から大瀬崎まで、伊奈田や蜜柑畑を含めると、海に囲まれた地域は山林部分だけでも数千ヘクタールはある。
海岸部を入れたら一万ヘクタールを越える広さがあるかもしれない。偶然にも、空海が張った結界の中に全て入る地域だ。

「リゾート開発かも知れない」
 いま、県はリゾート開発に力を入れており、富士周辺などのリゾート開発指定地域は、その構想が発表され、盛んに喧伝されている。

 伊豆の他の地域も開発は盛んであるが、何故か、真城峠以北は未だ大規模な資本による開発はなされていない。この地域に含まれる伊奈田は創業者の出身地であり、旭日屋が眼をつけても当然だろう。

 放っておいても、いずれ、他の企業が手を出して来るのは眼に見えている。旭日屋は小売業だけでなく、いろいろな分野に進出し、多角経営を目指していると聞いている。不動産業或はレジャー産業の一つとして、企画したとしても不思議ではない。

「しかし、そんな話は聞いてないぞ」坂上がいう
「当然だ」
 一般に知れ渡ってしまったら、土地が値上がりしてしまう。こんな計画は極秘に行われるのが常識なのだ。

 伊奈田の件もその一環として、咲畑教授達が派遣されてきたと考えたら納得がいく。たぶん、伊奈田の所有している山林を旭日屋が買い取るつもりなのではないだろうか。

 ところが、伊奈田の住民達は、山林を手放す条件として、咲畑が調査している件を出してきた。教授の話では、彼らは葬式だけでなく、謂れのない不安に、いつもおびえているらしい。

夜の一人歩きを恐れているのもその現れだ。だから、山林を手放すことにも不安があるのかも知れない。そのことに因って、祟りをこうむるかも知れないと思い、咲畑達が調査している件の解決を求めてきたのだろう。

「迷信の一つや二つ、金を出せばふっとんでしまう」
「そうだ。そこが旭日屋で、他の企業と違うところだ」
 伊奈田は創業者の出身地であり、旭日屋にとっては特別の場所だろう。後々のことも考えて、強引なことはしたくないに違いない。

「それに、調査の依頼者は伊奈田のことは迷信でないと初めから知っていたのかもしれない」
「そんな証拠があるのか」坂上は馬鹿げているという。
「いや、そうかも知れない」咲畑が口を挟んだ。

 この件を依頼されたとき、その報酬額の多さに驚かされた。たかが、迷信の調査と打破のためにしては、約束された額は多すぎるのだ。もしかすると、そのなかには危険手当が含まれているのかも知れない。

「危険手当。そんな危ない目に遭っているのですか」杉山が驚いていう。
「いや、遭ってはいません。私は臆病ですから、そんな目に遭わないようにこころがけています」

 理由がどうあれ、調査はこのまま続けるつもりであった。依頼理由が違うからといって文句をつける筋合いでもない。これを引き受けたのは報酬の額にひかれたからだ。

「しかし、昨日、伊奈田の連中に聞込みをしたが、誰も伊奈田の山林を旭日屋が買うとはいってなかった。こういうことは、必ず反対するものがいて、そこから洩れてくるものだ」

「いや、伊奈田では反対するものはいないんだ」
 勝間田はそういって、咲畑と視線を合わせうなずきあう。まさに、伊奈田の住民達の素直さを証明している。坂上はリゾート開発のことを旭日屋に問い合わせるといって帰っていった。

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