○ 五日目、−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昨夜、遅くなってから帰ってきた木部に、咲畑は疑問に思っていたことを尋ねた。やはり、リゾート開発は本当だった。
木部が大瀬崎の別荘地を買ったのは、推測通り投機のためで、風祭に解決を早くと迫ったのは自分の金利負担を出来るだけ軽くしようと思ったからだった。
伊奈田の主だった人達は旭日屋のリゾート開発のことを当然知っており、旭日屋が伊奈田の山林を買い取る話も事実だった。また、坂江は木部の別荘地購入にヒントを得て、独自にリゾート開発のことを探り当てたらしい。
雨は明け方上がり、朝早くから、警察は土砂崩れの周辺を再び捜索している。今度は警察犬を連れてきているが、新たに死体は見つかっていない。
住職と渡辺は今日の葬式のため公民館にいっており、木部と田島はまた沼津へ出かけていった。まだ、警察の取調べにつきあっているようだ。
田川と風祭は、朝食の後、何処かへいったきり姿を見ない。居間にいるのは咲畑一人であった。
鬼は本当にいるのだろうか。幾度も自分に問いかけた疑問をまた考えていた。
白骨死体が見つかったことから、一発屋が鬼かも知れないという結論になってしまった。口には出さないが、勝間田も咲畑の考えた恐ろしい事実を察知しているらしい。
もし、一発屋が鬼ならば、伊奈田ばかりでなく、何処にでも鬼がいて不思議ではなく、誰もが鬼になる素質を持っていることになる。
昨夜遅く三島へ帰った勝間田が玄関に姿を見せた。
咲畑はいま考えていたことを勝間田に話した。一人で考えていると思考が偏り、とんでもない間違いを犯すことがある。
勝間田と話していると、適当な質問を挟んでくるので話しやすく、それが、頭が回転するための潤滑油のような役割をしてくれる。彼は聞き上手なのだ。
「出現確率が小さいとすれば、伊奈田で続く風習に意味がありませんね」
出現確率が小さければ、同じ地に鬼が生まれることは殆ど有り得ない。伊奈田に代々いること自体、奇跡みたいなものだ。
「私も、昨日、先生がいったので、考え込んでしまいました」笑いながらいう。
そんな重荷を背負いながら、子孫の誕生を見つめるのはやりきれない。
「戦中、戦後にあった三つの葬式のことをもう一度考え直してみたんだ。すると、簡単に否定はできない」
戦中に行われた、二つの簡略した葬式では誰も死ななかった。ところが、戦後の最初の葬式は死者が出た。
もし、このことが偶然の所作でなかったら、重大な事実である。
「もしかすると、戦中の葬式時には鬼がいなかったのかも知れない」
勝間田は咲畑教授のいう意味を暫く考えた。
「鬼が戦争に出征していたというのですか」
一発屋は鬼ではないが、他の誰かが鬼だということではないか。
「伊奈田で徴兵されたのは誰ですか」
咲畑は奇妙な顔をして頚を傾げた。徴兵された人の名前を既に聞いて知っているらしい。
「徴兵されたのは四人だけだ。過去帳に載っていた三人は戦死している」
「もう一人は?」身を乗り出すようにして、咲畑の口元を見つめた。
「木之元仁一郎だ。旭日屋の会長の‥‥‥」
勝間田は余りにも意外だったので、暫く口がきけなかった。
木之元仁一郎が鬼だったら、鬼の依頼で鬼の調査をしていることになる。とんでもない奇妙な話だ。
「冷静に考えてみよう」
真木寺、麻生寺、そして、間聞寺、各々の寺から葬式の度に大勢の僧侶が伊奈田へ来た時期は、数百年間続いている。この期間は、明らかに鬼は存在していた。伊奈田へ来た僧侶が死んでいることが証拠になる。
その後、終戦まで存在していたかどうかは風習の解釈で意見が分かれるところだ。
初七日まで葬儀が行われ、他の地域のように儀式化されなかったことから、ずっと鬼が存在していたとするか、他の地域が儀式化された後も、より長く初七日まで葬儀を続けていたため、いまだに続けられていると解釈するかである。
後の場合、鬼が存在してなかった可能性もある。
「鬼がある時期だけ断続的に存在していたのかもしれない‥‥‥」
しかし、それでも、劣性遺伝子が顕在化する確率が伊奈田だけ高いのは不自然ではないだろうか。
「血族結婚が続けば、確率は高くなる。昔は、伊奈田は孤立した存在だった」
だが、現在は違う。交通の不便だった時代なら判るが、現代の常識では殆ど有り得ない。
また、江戸時代に、僧達が突然伊奈田へ赴くのを止めた理由を、負担に耐えられなくなったからではなく、血族結婚がなくなり鬼が出なくなったからだとしたら、葬儀を七日間続ける意味もなくなってしまう。
一人の鬼が昔から生き続けていたとすれば、終戦前後の、三つの葬式の意味が説明できない。
鬼は気まぐれで、いつも祟るわけではないのか、それとも、あの終戦後の出来事は只の偶然だったのか。いまとなってはどうにでもとれる。
一発屋が鬼である可能性は少し薄らいだが、代わりに木之元仁一郎の可能性が出てきた。しかし、彼は伊奈田に住んでない。
勝間田は咲畑教授の推理に一貫性がないように感じた。個々の話の筋は理解できるが、論理の展開があちこちに飛びすぎるように思える。寺を回って、空海の結界を見事に解き明かした冴えがない。
伊奈田へ来て、既に五日も経つ。相当心労が重なっているらしい。 まだ、考えを巡らしている咲畑をおいて、民宿『さわ』を出た。
昨日とは打って変わり、強い日差しが照りつけており、残暑が厳しい。
突然、エンジンの唸る音が聞こえてきたので、見ると、年寄りが肩から下げた草刈機で蜜柑畑の周りに生えた雑草を刈っていた。
回転している刃が草に当たる度に、甲高い音を上げている。
勝間田はそれを眺めながら、ゆっくりと路地の入口へ向かった。
年寄りが片足を上げ、股の下に草刈機を持っていく仕草を始めた。
何をするのだろうと思い、路地の入口で立ち止まって眺めてると、持ち上げた足を回転している刃の前へ持っていこうとしている。
危ないなと思った瞬間、エンジンが甲高い悲鳴を上げ、血が飛び散り、年寄りは草の上に倒れた。
勝間田は飛んでいった。
右のかかとの上から、血が吹き出している。年寄りの持っている手拭をひったくり血止めをした。
アキレス腱が切れているようだ。まだ、回っている草刈機のエンジンを止め、年寄りに静かに座っているようにいって、民宿『さわ』へ走った。
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風祭は土砂崩れの現場を後にし、真城峠の道へ向かった。一昨日、何かを感じた現場にいくつもりだ。
土砂崩れのおかげで、桧林の白骨が見つかったが、水田で感じた霊気は明らかにあの白骨死体から出ていたものだ。
しかし、峠へいく道で霧に包まれ、感じた何かは違っていた。
道は桧の梢に光が遮られて薄暗く、雨が降った後なので、湿気が多くて蒸し暑い。ハンカチで何度も首筋を拭った。
道が大きく左に曲がり、見覚えのある場所に着いた。木立の間から伊奈田の集落と海が見える。
何も感じられない。場所が違うのだろうかと思って、周りを見回す。
足元には幅の狭い深い沢が流れ、水の音がする。もう少し上へ行ってみようと思った。
苦しい息切れを我慢し、暫く登ると、傾斜が緩くなってきて、日光が射し込んでいた。
これ以上登っても何もなさそうなので、汗が引くのを待って戻ることにする。
下りが長く感じられた。夢中で登ったので、こんなに上まできたとは思わなかった。
右へ曲がろうとすると、ふっと変な気分になった。足を止めて様子をうかがったが、何も感じられない。
もう足下に、戸田から大瀬崎へ通じる公道が見えていた。いつの間にか、あの場所を通り過ぎてしまったらしい。
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勝間田は沢田に救急車を呼んでもらい、後を託して公民館へいった。
木村住職と数人の年寄りがいるだけで、渡辺は見あたらない。
田川と古墳の方へいったらしいと、年寄りの一人が教えてくれた。
勝間田は、渡辺の家族から家に電話をいれるよう、頼まれてきたのだ。
彼は伊奈田に泊り込んでから、家族に一度しか連絡をしていないらしい。暢気な奴だと思う一方、勝間田にもその責があるので、早く知らせて、電話をかけさせたいと思っていた。
路地を抜け、松江山の方へ向かった。集落のなかを流れている沢にかかる橋を通りかかると、下に降りて何かしている人を見かけた。昨日の雨による増水は退いており、流れる水量は少なくなっている。
「何かをお探しですか」勝間田は声をかけた。
「昨日の増水で底が削られて、こんな物が出ている」
その人は水面上に出ている黒っぽい角張った石を手で叩いた。
表面はよく磨かれて、なめらかに加工されている。黒御影石らしい。水面上に出ているのは一部分で、全体のほとんどは埋まっている。
「何かの入れ物らしい。この辺りに黒御影石はありますかね」
天然で存在するかといっているらしい。
「いいえ、ありません」
伊豆に黒御影石を産出するところはない。サンエイ仏商は墓石の販売もしているので、この地方の石屋が使っている黒御影石は輸入物であることを知っている。
勝間田は集落の北端まで行き、松江山の方角を見上げた。
細い道が上へ続いており、うんざりするような登りだ。ネクタイを締めたスーツ姿の勝間田が登る道ではない。登って行けば、汗をたっぷりかいてワイシャツにしみを作ってしまいそうだ。
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松江山の古墳は山の斜面に造られた横穴式である。海の見える傾斜地に密集して存在し、その幾つかは発掘されて、観光用に中が見られるようになっている。
古墳全てに番号札が立てられていて、それがなければ、笹や潅木が生い茂っているので、未発掘のものは古墳とは判らない。
すぐ上を県道が走り、道路脇に小さな駐車場も設けられ、観光客が各古墳を見て歩けるように遊歩道が作られている。
田川と渡辺は八号古墳と書かれた発掘跡を眺めていた。
余り大きいものではなく、なかは薄い岩石のかけらが並べられ、棺の様を呈している。横に立てられた札の記述によると、鉄製の剣や鏃も、副葬品として埋葬されていたらしい。
「この古墳が造られた頃も、ここに鬼がいたのかな」田川が言う。
「いたんではないの」渡辺がそばに戻ってきた。
「古代において、伊奈田はただの墓場だったのかもしれない。何故なら、伊奈田に住んでいた人達が、ここに埋葬されたとは思えないからだ」
もし、伊奈田に人が住んでいたとすれば、海から生活の糧を得ていたに違いない。彼らが魚や貝を採って食料にしていたのなら、弓矢などは必要ないものだ。
また、陸路からの接近は困難で、遮断されていたも同然なのだから、他からの侵入者もなく、争いの心配もなかったと思う。したがって、闘いの道具である鉄剣も必要ではなかっただろう。
ここに埋葬されたのは闘いで死んだ武人かも知れない。伊奈田に、武人はいなかったとすれば、その死骸は海を渡ってここへ運ばれ、埋葬されたと考えてもおかしくはない。
古代において、伊奈田は、松江山に埋葬するため、対岸から船で運んできた死体を陸揚げするところだったに過ぎなく、後になって、人が流れ着いて住みつくようになったのかも知れない。
「ここには古墳が造られる前から、何かがいたと仮定しよう」
それを鬼と呼ぶなら、鬼がいたと仮定する。古代人は、遠く海に囲まれたこの地が死体を捨てる‥‥‥、いや、古墳を造るのに最適な地だと考えていた。
「何故、鬼がいると最適なんだ」
「うん、先生がいつもいっていることなんだけど」
古墳とは古代人にとって恐ろしい場所だった。腐乱死体が転がっており、獣がそれをむさぼり喰うようなところだ。そして、死体は鬼になると考えられていた。
そんな場所が自分達の住む近くにあって欲しくないと誰だって思うだろう。
駿河湾の向こうに見える対岸に住んでいた古代人達には、松江山は住むところから遠く、古墳を造るのに適した場所だったに違いない。そして、鬼が棲み、腐乱死体を喰いに来る獣が出没しないところだった。
「どうして、獣が出ない。その頃のこの山には沢山いただろう」
「鬼が死体を喰ってしまったら、なくなってしまう。だから、獣でさえも、恐れて近づかなかった」
渡辺は驚いて、田川の顔を見つめた。
「この古墳の発掘で、そんなことが判っているの?」
「いいや、仮定の話だよ。あの四体見つかった白骨だ。もしかすると、あれは鬼に喰われたのではないのだろうか」
渡辺はなんだと思った。発見された白骨死体を根拠にいっているのだ。
「あの白骨は、たぶんよそから来た人達だろう。警察もそう考えている」
もし、鬼に喰われたとしたら、何故、よそ者だけなのだ。伊奈田の人達は何事もなく生きているではないか。それに、初七日までやる葬式と、何もつながりがない。
「伊奈田の人を殺して喰ったりしたら、鬼の存在がばれてしまう。だから、よそ者だけかも知れない」
田川は自分でも信じていないらしく、急に興味を失ったように、ぶらぶらと歩き始めた。
下に伊奈田の集落が見える。駐車場と小さな川を挟んで立っている衝立のような崖はこの松江山につながっていて、途中、崖が幾段にも連なって重なり、先端まで木々におおわれている。
海岸にある祠は、先端の崖で隠されていて見えないが、その裏側にあたる伊奈田の集落は屋根がよく見えた。崖に一番近い瓦屋根が一発屋の家らしい。
集落のなかを流れている川に架かる橋を人が渡って公民館の方へ戻っていく。遠くて顔の判別はできないが、歩き方の特徴に覚えがあった。うちの社長らしい。
田川が先へいってみようといって、海の方へ下っていく。
竹笹のなかをいく道は平坦になったところで終っていた。疎らに潅木が茂っており、足元は岩場になっている。その先は崖になって落ちていた。
振り返って見上げると、大瀬崎方面へ向かう車が一台来るのが見えた。
「しかし、対岸から手漕ぎの丸木船で来るのは大変だな」
田川は先ほどの話に戻り、北の方向を指さす。
海岸沿いに南下してきたのかも知れない。沼津の千本浜辺りからだったら、内浦湾を横切り、手漕ぎボートでも二、三時間あれば来られるだろう。鬼の話は別として、松江山が対岸の古代人達の墓地だった可能性はありそうだ。
「咲畑先生はどういっている?」
横に立っている田川を見ると、能面のように無表情で海を眺めていた。
「古墳については何もいっていない。先生も伊奈田と古墳とは関係ないと思って‥‥‥」
言葉じりが曖昧になって、よく聞こえなかった。
田川の顔は無表情のままだったが、眼には驚きと戸惑いの色があった。再び、渡辺に向かって何かいったが、言葉になって出てこない。
渡辺は尋ね返したが、同じように言葉にならなかった。うまく舌が回らず、喋れない。躯の向きを変えようとしたが、足が全くいうことをきかなかった。渾身の力を足に入れたが、動かず、全身から汗がどっと流れ出てきた。
田川も自分の意志通りに喋れないのでびっくりしていた。
渡辺が無表情に自分を見ており、眼だけを激しく動かしている。鼻の上に汗をかいており、額からも一筋汗が流れてきた。全身に力をこめているらしい。
前へ出ようとしたが、足が地面に張り付いたように動かない。なぜ、動かないのだ。
心に動揺が走り、心臓の鼓動が大きくなった。
思い切って躯を前傾させると、左足が少し前へ動いたのでほっとする。
続いて右足が出ていく。
少しづつ前へ進みだしたが、普通に歩くように、大きく歩幅を出せず、ペンギンのような歩き方になってしまっている。
おかしいなと思い、今度は止まろうとするが、止められない。
前方に岩の亀裂が走っていた。足を突っ込んで、転んだら足首が折れてしまう。
右靴の先端が割れ目の上に乗った。つま先が中へ落ち込まないように踵で体重を支え、続いて左靴の先端を辛うじて向こう側に乗せ、無事に亀裂を乗り越えた。
眼を前方に向けて愕然とする。僅か数メートル先は崖だった。このまま行けば、空中に飛び出してしまう。心のなかで足を止めようと必死に格闘するが、足はそれを無視して、他人のごとく崖の先端に向かっていく。
渡辺は田川がぎこちなく歩いていくのを見ていた。前は崖なのに止まる気配を全く見せない。
抱きとめようとして、手を前に出した。その拍子に躯が傾いて片方の足が少し前へ出た。そして、もう一方の足も続いた。渡辺も歩き始めてしまった。
突然、脇を誰かが駆け抜けて行き、崖の縁に到達していた田川の躯を引き倒した。
「どうしたんだ」
勝間田が渡辺の顔をのぞき込み、両肩を掴んで歩みを止めた。
勝間田は松江山へ登るのを諦めた後、大瀬崎へいく公道から古墳へ下れることを思いだし、駐車場に戻って車に乗ってきたのだ。
古墳の上まできてみると、二人が下っていくのが見えた。
後を追い、近くまできて声をかけようとすると、二人の様子がおかしい。
田川が変な格好で崖っぷちへ歩いて行き、落ちそうに見えたので、慌てて飛びついたのである。
渡辺の顔に表情が戻り、倒れていた田川も起き上がってきた。とにかく、車まで戻った方がいいと思い、二人を急かして歩き出す。二人とも、相当疲れているらしく、登り返すのに喘いでいる。
車に戻りつき、二人の話を聞いた。
「鬼にやられたらしい」
あんな状態になるまでの様子を話した後、田川はそういった。
勝間田は黙って頷いて、車を伊奈田へ向けた。
民宿『さわ』へ戻ると坂上と杉山刑事が来ていた。勝間田は松江山の出来事を咲畑に話し、二人を部屋で休ませるようにいう。
「旭日屋の方はどうだった?」
坂上は昨夜のうちに東京へ行き、今朝一番に旭日屋で聞き込んで、とんぼ帰りをしてきたそうだ。
リゾート開発計画は申請の準備段階であるが、やはり真城峠を中心に、内浦湾と相模湾に囲まれた地域を予定しているらしい。
「伊奈田の連中は一言も漏らさなかった」坂上は不満そうにいう。
「まあ、やむを得ないさ」
伊奈田の人達は素直に沈黙を守っていたに過ぎない。
坂上は会長の木之元仁一郎に会おうと思ったが、できなかったらしい。
「会長はもう二年近く病院に入ってる。老衰だな。あちこちが悪いそうだ。会っても話ができないらしい」
咲畑と勝間田は顔を見合わした。鬼が、いや、鬼の候補が老衰で死にかけている。
「やはり、坂江は真城峠の向こうの蜜柑畑だけでなく、伊奈田の山林も買おうと動いていた」
伊奈田の住民にもう一度聞き込んでそれが判った。
だから、釣りを口実に伊奈田へ度々やってきたのだ。沢田は彼の名前は知らなかったが、不動産屋だということは知っていたらしい。
更に、話は発見された白骨死体のことに及んだ。四体のうち一体は女で、三体が特定された。やはり、坂上が予想したように七人の行方不明者のうちの三人であった。
「もう一人は歯形が一致しない。失踪者のうち二人だけ、歯科医の記録がない者がいるから、そのうちのどちらかだろう」
最も古いものは二十年前で、十一年前と六年前の失踪者に歯形の記録がない。
そして、特定された死体は全て十一年以前の行方不明者達である。従って、確認できない一体はたぶん十一年前のものだろう。また、白骨死体だから、死因をつきとめるのは難しい。
「それでは、見つかっていない行方不明者は、それ以降の人達ですか」
「そうです。もし、同じように殺されているとすれば、この近くの、別の場所に埋められているかも知れない」
咲畑は二十年という数字が気になった。麻生寺が廃寺になったのが、確か二十二年前であり、妙に一致するように思える。
「他に何か出ましたか」朝からやっている捜索について尋ねてみた。
「いや、何も。警察犬が全然役に立たない。何かに怯えているようで、捜査員のいうことをきかないらしい」
「この近くに、残りの行方不明者が埋められていると、何故、思うんですか。あの白骨死体があったからですか」
「それもありますが、残りの三人は一人を除いて最近のもので、足取りもはっきりしているのです」
一人は昨年で、もう一人は二カ月前のことなのだ。二人ともこの近くまで来ていなくなっている。
その時、足を怪我をした年寄りに付添っていた沢田が戻ってきた。やっと、救急車がきたらしい。勝間田は容態を尋ねた。
「アキレス腱が切れているそうだ。年寄りだから完全には元に戻らないかもな」
沢田は可哀相にと言いながら厨房の方へいく。
「何があったのだ」坂上達は今朝の出来事を知らない。
勝間田は、年寄りが足を怪我したときの様子を話した。
「それじゃ、わざと切ったみたいじゃないか」
勝間田にもそう見えたが、故意に、あんな大怪我をするわけがない。
「ここには漁船が見あたらないが、魚はとらないのかね」
坂上が大きな声で沢田に尋ねた。
沢田は厨房から大きな声で隣の戸田港に預けてあることを説明する。
「船の避難する場所がない場合、陸揚げしているところもある。そうした方が便利だろう。漁のたびに戸田までいくのでは大変だな」
「昔からそうしていたから、不便は感じませんね」
船を出すときは車で戸田まで行けばいいし、水揚げは戸田でやるのでその方が便利なのだという。
車のなかった時代は、当番の者だけが歩いて行き、戸田から船を廻し、残りの者をここまで迎えにきたらしい。
正午をまわった頃、木部と田島が帰ってきた。田川と渡辺も元気を取り戻し居間に出てきた。そして田川が古墳で渡辺にいったことを咲畑に話した。
「うん、それは考えられるな」
松江山の古墳は、伊奈田に住んでいた人達と関係ないことは十分有り得る。
他の古墳でも、近くに生活している人達と無関係である場合が殆どなのだ。松江山に古墳があることを知らずに、伊奈田の先祖が住み着いたと考えても、不自然ではない。
「副葬品の剣や鏃は、生前に、被葬者が持っていたものというだけでなく、死骸が鬼と化して現世に現れて来るのを恐れ、封じるためであったとされている」
また、古墳にはどれとして墓碑名が刻まれておらず、一時、騒がれた藤ノ木・高松塚古墳でさえもなかった。
その理由は人の魂は天に上り神となり、魄としての形骸は地に残り鬼となる、と考えられており、人名は無形で魂と共にあるものだからであった。
これは仏教が渡来して火葬と同時に墓碑名が現れるまで続いた。従って古墳は誰のものか推定はできても、いまだかって一つとして特定されたものはない。
「本当に、死骸が鬼になったのでしょうか」木部がまたいう。
「いや、現代はもちろん、古代でも、そんなことは実際にありえない。古代人がそう信じて死体を埋葬しただけです」
古代人が信じた死骸の化物は実際は鬼だけではない。古事記、日本書紀、そして、万葉集に出て来る化物には、鬼以外に魔・醜女・日狭女・雷・魄・神・物などがあり、いずれも、死骸が化したものということになっている。
このなかに神も入っているが、これは現代人が考える神聖なところに祭られる神ではなく、人を殺しまくったりする極悪非道な神のことである。
日狭女は醜女の別名で久女でもよい。
「久」は過去から現在、そして、未来までの長い時を示す。従って、久女はとんでもない歳をくった老婆のことだ。後世にはヤマンバと呼ばれた。牛方とヤマンバの話は昔話でみんなも知っているだろう。
ヤマンバに積荷の魚を喰われ、そして牛を喰われて、牛方が命からがら逃げる話だ。
次に、イカヅチは知っての通り雷のことで、古代ではナルカミともいった。
歌舞伎に『鳴神』という出し物があるのを知っているだろう。あれも、古代の化物に由来した話なのだ。
イカヅチは怒りの怪物である。記紀には八種類の雷が陰神の死骸にとりつく話があり、そのなかに裂雷が女陰にとりつくとある。裂雷とは落ちて木の枝などを裂く雷のことだ。
古代人は怒れる怪物の交接こそ落雷であると考え、雷雲から地上に走る稲光を見て、陰神が陽神を呼ぶのだと思っていた。即ち、地下に眠る陰神が雷を起こす張本人だと恐れていたのだ。
物はもののけのもので、鬼と書いてものと読ませることもある。
「死骸の化物は、そんなに沢山の種類があるのですか」
「いや、実際は同じものだと思う。登場する場面によって、呼び名が変わるだけなのだ」
咲畑は笑いながらいったが、すぐ真顔になった。
ここには明らかに何かがある。いや、いるといった方がいいだろう。
伊奈田に存在し、住民達を恐れさせ、葬儀を七日間行わせているものは何だ。何者なのだ。
我々には何も感じられない。しかし、不気味さだけは確かにある。
やはり、脳波に関係あるのかも知れない。鬼が住民の心に働きかけ、その奥底に恐怖を植え付けていて、そのために脳波が異常なのかも知れなかった。しかし、それだけでは、住民達の素直な気質は、説明できないような気もしている。
田川と渡辺が古墳へいって、危うく命を落しかけた。これからは、もっと用心深く対処しなければならない。
「先ほど、警察犬が怯えてると坂上がいっていました。それで、気が付いたのですが、伊奈田には犬が一匹もいませんね」勝間田がいった。
そう言えば、猫も見かけない。
何処の船着場にも釣り人がいると、猫が近くに寄ってきて、おこぼれを頂戴しようと待っている光景を見かけるのだが、ここでは、まだ一度も眼にしたことはなかった。
厨房で奥さんと一緒に昼食の支度をしている沢田に声をかけ尋ねると、犬や猫を他から貰ってきて飼う人はいるが、長続きした例がなく、すぐに、姿が見えなくなってしまうという。
これは恐ろしい可能性を秘めた事実だと咲畑は思った。
昼食が並べられ、住職もやってきたが、風祭だけが姿を見せない。
「土砂崩れの現場にいました。私が呼んできます」
田島が立ち上がって出ていったが、すぐ戻り、何処にも見えないと告げる。
咲畑の表情が、一瞬険しくなった。先ほどの田川と渡辺のようなことがある。
昼食を中断し、土砂崩れの現場にいってみた。土砂は脇に片付けられていて、車の通行は可能な状態になっていたが、警察の車もなく誰もいない。
「手分けして探そう」
二人づつ、三組に別れて探すことになった。戸田方面と大瀬崎方面、そして、真城峠への道と分担して別れる。
勝間田と田島は真城峠への道を選んだ。道は日が射込まないので、昨日の雨で濡れた葉が、まだ水玉をのせている。非常に蒸し暑い。二人はネクタイを緩め、襟のボタンを外した。
道が左に大きく曲がり右側が開けた場所に達し一息入れた。
「土砂崩れの現場は、この下のようですね」田島が左の方を指していう。
更に登ると木立が疎らになり、日が射してきた。道路の左側に人がいる。
風祭陽子が疲れた様子で道路脇の岩に腰掛けていた。彼女は近づく二人を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。
「どうしたのですか。心配して探しに来たんですよ」
「すみません。帰れなくなってしまったんです」
風祭は道を下っていて、眼の前に戸田と大瀬崎を結ぶ道路が見えてきたとき、おかしな気配を感じた。
よく考えると、登ったとき記憶にある場所を通った覚えがない。変だなと思ったので、引き返して、もう一度下りなおしてみたが、やはり同じだった。
おかしいと思い、下るのを止め、他に道がないか探して登り返したが、行けども行けども登りの道が続くばかりなので、また引き返しここで休んでいたのであった。
「そうですか。たぶん、上は真城峠まで行かなければ、分岐点はないでしょう。でも、下りも一本道ですがねえ」
彼女の太っている身体は、だいぶ山道がこたえたらしい。最初に、伊奈田へやって来たときの、自信ありげな風祭と別人のようだ。
「私は先に戻って、風祭さんを見つけたことを皆さんに知らせます」田島がいう。
勝間田は風祭につき合うつもりで、隣の石に座った。
田島の後ろ姿を見送りながら、田川と渡辺の、古墳での出来事を風祭に話した。
両手の拳を握りしめ、じっとうつむいている。彼女は身体的にばかりでなく、精神的にも、だいぶこたえているらしい。
「そろそろ、行きましょうか」
二人は何事もなく、登り口まで下った。
戸田方面へいった咲畑と木部が待っていて、風祭を見て無事でよかったと喜ぶ。
二人は風祭がそんなに遠くまでいくことはないと考え、適当なところで引き返してきたらしい。田島は先に田川と渡辺を呼び戻しにいったようだが、だいぶ遠くまでいったらしく、なかなか戻ってこない。
「まさか、あの二人‥‥‥」勝間田は古墳でのことを思い出した。
「いや、大丈夫ですよ。田川も、今度は用心してるでしょうから」
暫く待つと、道の向こうから話声が聞こえてきて、二人が姿を現した。
「田島君は?、逢わなかったのか」
「いえ、勝間田さんと上へいったのじゃないんですか」
勝間田はドキリとして風祭の顔を見た。彼女の顔がスーと青ざめ、黙って上を指さした。
勝間田は坂道を、左に曲がっているところまで、一気に登って下を覗く。左方の斜面に土砂崩れの跡が見え、真下は草と潅木が茂り何も見えない。沢の幅は狭いが、相当深そうだ。
「ここから落ちたのか」咲畑がわきへ来て覗いた。
登ってきながら風祭の話を聞いたらしい。何度も呼んでみたが返事はない。
民宿へ戻ったのかも知れないので、田川と渡辺が集落へ走った。暫く待つと、二人は沢田を連れて帰ってきた。やはり戻ってなかった。
この辺りの地質は細かい岩石と土が堆積してできたもので、大変脆く、そのためこの幅の狭い沢は流れに削られて、年々深くなっている。
沢田もなかに降りたことがないらしい。
公道から沢に入れるが、途中に滝が何段も落ちていて、しかも岩肌が脆いので、遡って来るは危険である。
土砂崩れの起きた斜面を登るしか、近付く道はないらしい。
勝間田は渡辺を連れて坂を下り、栗林のなかに入った。警察の捜索で踏み跡ができており、途中まで簡単に登れた。だが、その先が大変だった。
密生している灌木につかまり、よじ登っていく。太い檜の根元に足をのせ、上に向かって声をかけてみると、すぐ返事が帰ってきた。道路の近くまで到達したらしい。沢は目の前である。
水の流れる音が聞こえてきた。ようやく沢の縁に辿り着いたが、潅木と草でなかは見えない。対岸の道路側とこちら側とでは段差が四、五メートルある。潅木につかまり、思い切って沢床へ飛び降りた。
水量はたいしたことはないが、冷たいので汗が一度にひいていく。
狭い沢の壁に、田島が額から血を流し寄りかかるように倒れていた。身体を揺すると、微かにうめき声をあげた。
流れは小さな滝になって、田島の身体に降り掛かっている。こんな冷たい水にいつまでも浸かっていてはよくない。
身体を抱いて移動させようとすると、足に何かが引っかかった。
見ると中空の金属製の棒で、縁が錆びている。自転車のフレームらしい。
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駐車場で、坂上が重田老人をつかまえて、何か聞いている。
先ほど濡れたワイシャツは殆ど乾いていたが、ズボンはまだたっぷりと濡れている。気持ちは悪いが、着替えなど持ってきていなかった。
田島は病院へ車で運ばれていった。脚と肩の骨を骨折していたが、幸い、命には別状はないらしい。しかし、自分では動けないほどの重傷であり、あのまま冷たい水に浸かっていたら死んでしまっただろう。
坂上は田島が落ちた場所のことを重田老人に尋ねていた。
あの場所は、先月、茂っていた潅木を切って、見通しをよくしたのだという。
道路脇の草刈を長い間やっておらず、伸び放題になっており、特に、あの場所は潅木が成長して道路の半分くらいまで覆っていたので、あそこだけ重田老人が切り取ったらしい。
「ということは、以前は、あの坂道の何処からでも、伊奈田が見えたわけですね」咲畑が口を挟む。
「そうだよ。最近は若いもんがいなくなったので、草刈や枝払いをやらなくなってしまった。もう、やらなくなって十年以上は経つだろう」
「十年以上も‥‥‥」咲畑は納得がいったように頷いた。
風祭の話と田島の落ちた場所を考えて、あの四体の白骨がなぜ十年以上前のものだけかということが、咲畑は判ってきたように思えた。
田島を助けだした後、あの沢のなかを捜査員が徹底的に探し、約三台分の自転車の部品を見つけ出した。どれも、故意に分解した物ではなく、長い間、放置されていたために腐食してバラバラになってしまったものだった。
行方不明者達は、田島と同じように、あそこへ転落して死んだのかも知れない。ちょっと見ただけでは、あんな深い沢があるとは誰も思わない。
田島のように落ちて怪我でもしたら、自力で出ることは不可能である。そして、通る人も稀で、誰にも見つけられないだろう。
あの白骨のうち、一人は徒歩旅行、三人はサイクリングの途中で行方不明になったもので、辻妻が合う。交通事故が頻繁に起こる魔のカーブと呼ばれるところと同じなのかも知れない。
「徒歩旅行の人間がスピードを出し過ぎたとは思えない」
「やはり、伊奈田が見えるということが、原因ではないのかな」
重田老人の話と合わせると、木が茂っていて、伊奈田が見えなかったときは、誰も落ちなかったと考えられる。
そして、沢のなかで死んだと思われる人達が、あの土砂崩れの起こった斜面に埋められていたことは、誰かが沢のなかから運んだのだ。
「それは伊奈田の人間がやったとしか考えられんな。もしかすると、住民全員が共謀しているのかもしれん。ここの住民は、どうも信用できない」と坂上はいう。
最初の聞込みで、リゾート開発計画を聞き出せなかったことに、まだ拘っているらしい。だが、伊奈田の住民達が示し合わせて、死体を埋めたということは有り得ない。それなら、白骨を最初に見つけたとき、沢田はわざわざ咲畑に告げに来ないで隠しただろう。
「すなわち、こういうことか‥‥‥」
十年以上昔は、あの坂は見通しが良く、伊奈田がよく見えたので人が死んだ。ところが道を整備しなかったため、最近の十年間は伊奈田が見えなくなり、誰も沢に落ちなくなった。
しかし、先月、木を切り払って見えるようにしたので、再び田島が落ちて死に損なった。
「でも、伊奈田の住民は何故落ちない。あの道をもっとも利用するのは彼らだろう」
「たぶん、よそ者と区別されるのでしょう」
あの道から、人が落ちるのは、伊奈田にいる何者かがそうさせるのだろう。だから、伊奈田の住民は例外なのかも知れない。
「どうして、例外なのですか」
「何者かが存在するために住民は必要なのかも知れません」
咲畑は漠然と脳波のことを思い浮かべていた。
坂上は納得できないようだが、それ以上、強く反論はしなかった。
「最近の行方不明者は別の場所ということになるな。伊奈田が見えるところというと‥‥‥、大瀬崎へいく道からだったら、ずっと見えるな」
坂上は、あの場所と同じ様な条件のところに、残りの行方不明者がいるかも知れないと考えはじめたらしい。そして、探してみようといって、杉山刑事と共に車に乗って出ていった。
いまや、伊奈田に災いする何者かがいることは疑う余地はない。それが鬼なら鬼と呼ぼう。住民のなかにいると思うのだが、疑わしいのは木之元会長と一発屋だけなのだ。
沢田も他の住民達も、そうではないと言いきれないが、いままでの調査で得た情報からは二人以外に疑わしい人間は出てこなかった。しかし、木之元会長は調査を依頼した本人だ。
いや、本当の依頼者は旭日屋かもしれないが、その鬼の候補にあがった会長は東京で病床にある。だが、東京にいて伊奈田に影響を及ぼすなどとは常識では考えられない。
一方、一発屋は伊奈田におり、最も疑わしいのは明らかだが、これも確信はない。この結論を旭日屋に報告することは簡単である。そして、旭日屋がどんな処置をとるか想像もできる。
だから、うかつには結論は下せない。咲畑はこのまま放り投げて東京へ帰りたいような気分だった。
勝間田は教授の考えが気に入らなかった。一発屋が鬼だったら、その因果は巡って、勝間田のなかにも鬼が棲んでいることになるのだ。それが事実としたら、やりきれない気持ちになってしまう。
冷たい水に浸かったために寒気がしてきた。風邪をひくのかも知れない。
船着場の方を見ると、渡辺と田川が何かを手に持ち話している。
「ほら、なかがからっぽだ」
手に持っているのは、釣り上げて放置され、干からびてしまった雑魚だった。骨と皮だけで中身がないと話している。咲畑教授が興味を示し、田川が別の雑魚を拾い上げて皮を剥いた。
「これも身がない。余程、水気の多い魚なんだな」
太陽熱で乾燥し、身だけが収縮してしまうらしい。咲畑が別の種類の魚を拾い上げる。
「これも身がない」といって頚を傾げる。
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風祭は、真城峠への道で、自分の醜態を勝間田に見せてしまったことを悔やんでいた。プロとしての威厳を取り戻さなければならない。
あの道の下りで、幻覚の罠を風祭に仕掛けてきたことは、明らかに、この伊奈田にいるものが風祭の存在を意識している証拠である。
自分の存在が邪魔なのであろう。即ち、相手は自分を恐れているのかも知れない。きっと正体を突き止めて、先刻の失態を帳消しにしなければならない。
咲畑達が帰ってきた。魚の話をしている。
「同じ種類の魚だったら判るけど、別の種類の魚も中身がない。しかも、全てがそうではなくて、干からびても肉が残っているものもある」
「何の話ですか」風祭は尋ねた。
「うん、いま船着場で、おかしなことに気付いたので‥‥‥」咲畑は風祭に説明する。
沢田も厨房から来て聞いていたが、殆ど興味を示さず戻ろうとした。
咲畑は戻りかけた沢田を呼び止め、伊奈田で水揚げをすることはないかと再度尋ねた。
「ないね。ここでやったら二重手間になるからね」
「でも、魚は持って来ることはあるのでしょう」
それは当然あると沢田はいう。
「魚がおかしくなったことはありませんか」
「いや‥‥‥」何故、そんなことを尋ねるのだと、逆に沢田はいう。
咲畑は船着場の干からびた雑魚の話をした。
「知ってるよ」沢田は当然だというような表情をしている。
干からびた魚の中身がないことを不思議だとは思わないらしく、そのまま厨房へいってしまった。咲畑は細かいことには拘らないらしいなといって苦笑いする。
勝間田には教授が何を意図して沢田に質問していたのか判らなかった。
しかし、そんなことより、もっと気にかかることがある。今日、起こった出来事はいままでと違って、一つ間違えば、人の生命に関わることばかりだった。
古墳でのこと、真城峠への道でのこと、そして、年寄りがアキレス腱を切ったことが立て続けに起きた。昨日までは、生命に関わりそうな事件は、通夜のとき、渡辺と二人で起こした車の事故くらいなものなのに、今日は立て続けに三件も起きている。
「学生が岩から落ちたのも、下手をすれば、命を落としたかも知れない」
渡辺の場合、それをタブーだと認めるとすれば、お通夜に出席したのに帰ろうとしたためであり、学生の場合は自分で恐ろしい瞑想に入ったためだという理由がある。
しかし、今日起こった三つの事件はタブーを犯したためでもなく、自分から何かしようとしたためでもない。相手の仕掛けた罠に入っていったような事件ばかりだ。
「それとも、誰か、何かをしたのですか?」
勝間田は全員を見回す。
暫く沈黙が続く間、誰もが次第に事の重大さに気が付いてきた。
何かが起こりつつあるのかも知れない。
我々が何かをしたので鬼が怒ったのだろうか‥‥‥。
もしかすると、あの白骨死体を発見したことが鬼の怒りをかったのかも知れない。
でも、あれは我々が意図的にしたことではなく、あの場所に偶然土砂崩れが起こったに過ぎない。
記紀から引用された『怒れる裂雷』という言葉が、咲畑の頭にふっと浮かぶ。
昨夜、公民館のわきの木に落雷があった。あれは、もしかすると、『怒れる裂雷』だったのだろうか。坂上と杉山が玄関に現れた。真城峠へいく道のあの場所と同じようなところは見つからなかったらしい。
「何処までいった?」勝間田が尋ねる。
「切通しのところまでだ」
その先は道が直角に曲がって崖をくり抜いた道になるから、伊奈田は見えなくなる。
「あそこで、我々は落ちそうになった」
「でも、伊奈田の方向には崖はない。落ちそうになったのは北側だろう」
「確かに、そうだが‥‥‥」
こちらから行けば、後ろに伊奈田が見える。そして、あそこの崖下は窪地状の場所で、小さなひだ状の尾根が入り組んで重なっており、上からは見えにくい。近づくにしても、大瀬崎から海岸沿いに徒歩できて、山の方へ入らなければならない。
「バイクの一つや二つ落ちていても、簡単に見つけられるところではなさそうだ」
「そうだな‥‥‥、どうせ海岸沿いの崖を捜索せねばならないだろう。手始めにそこからやるか」といって、また腰を上げる。
そして、案内をさせるために、沢田を連れていった。
勝間田と渡辺が公民館にいくと入口で、先ほど沢の中で石を掘っていた老人と出逢った。愛想よく笑顔で挨拶をしていく。
「『いざさ』に泊まっている客ですよ。知っているんですか」
「いや、古墳へ行こうとしたとき、言葉を交わしただけだ」
二人で祭壇の周りを整理し始めた。
棺の観音開きの窓を覗いたが、光の加減で反射してよく見えない。しかし、変わりはなさそうだ。
「野具は間に合いますか」渡辺は気になるらしく、また尋ねた。
予定通りなら、今夕あたり、店に宅急便で着くはずだ。明後日では間に合わないだろうから、明日来るとき持ってこなければならない。
日が暮れて間もなく、坂上達と沢田が帰ってきた。やはり、切通しの向こうの崖下で残りの遺体が発見された。
「三体ともあった。日が暮れてしまったので、運び出すのは明日にする」
「やはり、埋められてたのですか」咲畑が尋ねた。
「いや、野晒しだった。でも、こんなに簡単に発見できるとは思わなかった。先生のいった通りでした」バイクが二台と自転車があったという。
「何故ですか」
坂上は伊奈田が見える崖で、何故人が落ちたのだと咲畑に尋ねた。
咲畑は頚を振った。そんなことが判るわけがなく、判っていたら、もう東京に帰っている。
「あの坂の途中に立って、伊奈田を見ると何かを感じました」
風祭が真城峠への道でのことを話しだした。
「そうですね‥‥‥。何かが心に働きかけて来るのです」
それは言葉で何とも表現できない。風祭の場合、心を開いて、もっと感じようとすると幻覚になってしまったのだ。
「たぶん、あの道を通る人に伊奈田から働きかけているのでしょう」
「それじゃ、みんな落ちてしまう」
「いや、働きかけても、全員に効果が出るとは限りません。何も感じない人もいると思います」人には個性があり、個人差というものもある。
「霊能者のあんたもやられたそうだが、それなら、普通の人は全部ひっかかっても不思議ではないだろう」坂上が言った。
「私の場合は特別です。伊奈田にいるものは私を狙ったのです」
たぶん、私の存在を恐れているに違いない。
「それじゃ、あんたを恐れているというのは、伊奈田の誰なんですか」
坂上の口調には、信じきれないといった調子が篭っている。
「こういうことも考えられますね」咲畑がいう。
鬼は自分の存在を知られたくない。だから、やたらに人は殺さず、目立たない場合だけ、人を誘って崖から落とすのかも知れない。
「何のために、人を殺しているのです」
「思い付いたことが一つあるのですが、確かめなければ何とも」
鬼は理由もなく人を殺すと古代人は考えていた。だが、そんな思想がいまでも通用するはずがない。
咲畑は、初めの白骨死体が出たとき、ある推測が浮かび、先刻、船着場で見た魚のことがその裏付けになるのではないかと気付いた。しかし、確信はない。
この伊奈田にきて、確信の持てることは、まだ、何一つない。全てが咲畑の頭のなかで想像したことなのだ。
「崖下にあった二カ月前の行方不明者の遺体の状態はどうでした」
「そうですね。あの遺体の状態は白骨化というより、ミイラ化といった方が近いですね」
咲畑はその答えを予期していたらしく、そうだろうと頷く。
「二カ月くらいで、死骸がミイラ化するものかどうか。坂上さんの経験から判断して、いかがですか」
坂上は一瞬考える。
海などに放置されていた場合は、比較的短期間で白骨になってしまうことがある。しかし、ミイラ化する場合は時間もかかり、場所や条件が合わなければ、滅多に起こらないものだ。
「そういえば、ちょっとおかしいですね。死体を見つけた場所は湿気も多く、近くに転がっていた倒木なども腐っていた」
普通なら腐乱した状態で見つかるはずなのだ。
咲畑は勝間田に公民館にある仏さんの棺を開けてみたいのだがという。
「いいと思いますよ」
最初はドライアイスを随時入れるつもりだったので、棺の蓋を開ける許可は喪家から貰ってある。
しかし、開けたら酷い臭いがするだろう。
民宿『さわ』を出て公民館に向かった。夕飯の支度で忙しくなった沢田を除いて、居間にいた全員が一緒にきた。
咲畑は棺を覗きにいく理由を一言も言わない。
渡辺が棺を開ける道具を車から持ってきた。勝間田と二人で釘を引き抜き蓋を開ける。
目が落ちくぼみ、頬の痩けた仏さんの顔が現れた。以前と較べて、随分と痩せたように見える。
咲畑がのぞき込もうとするので、脇へ避けた。不思議なことに臭いが全くしない。
咲畑が手を差し伸べ、着物の胸をはだけた。そして、スッと息を飲む音が聞こえた。肋骨の間に皮膚が落ち込んでいて、波板のような胸が見える。
「随分、痩せているな。ミイラみたいだ」坂上がいう。
「そう、ミイラです」咲畑がいった。
仏さんの腕をまくってみた。
骨の上に皮が被っているだけであり、ドライアイスを入れたとき見た腕とは全く違う。ついていた肉が、全くなくなっている。しかも、死臭がにおってこない。一瞬、遺体がすり替えられたのかと考えたが、そんなことは有り得ない。
咲畑が目で合図したので、再び蓋を閉めて釘で打ちつけた。みんな、黙って咲畑の顔を見て立っている。
「鬼が喰ったのです」といった。
咲畑のいった意味が判らず、誰も言葉を発しない。
「この遺骸は鬼に喰われてミイラになってしまったらしい。一種の人身御供です」伊奈田の鬼は、きっと、食人鬼なのだ。
たぶん、昔から伊奈田の住民は死ぬと鬼に食べられていたのかも知れない。そう考えると、行方不明になった人達は彼らの身代りになった可能性が出てくる。咲畑は考えていたことを話し始めた。
行方不明者が二十年前から出ていることと、麻生寺の廃寺になった時期がほぼ一致しており、行方不明者の七人という数は過去に伊奈田から出ていた葬式の二十年間の平均数に近い。
麻生寺が二十二年前廃寺になり、人々は病院で死亡し、伊奈田で葬式が行われなくなった。当然、食べる死体がでないので、鬼は罠を仕掛けて旅人を殺して食べるようになったと考えたらどうだろう。
そして、鬼は非常に用心深く、常に自分の存在を他に悟らせないようにしているとしたら‥‥‥。伊奈田の人達が鷹揚であり、寛大で細かいことに拘らないという性格は、鬼がそうさせているのかも知れない。
伊奈田の人達に子供の頃から働きかけ、そうなるように仕向けているのではないかと憶測するのは考え過ぎだろうか。脳波が他の地域の人達と違うかも知れないということは、その現れではないか。
そして、鬼が人の心に働きかけることができるという事実は、既に、我々も経験済みである。違う言い方をすれば、鬼は自分の存続を伊奈田の人達に守らせているとも言えるだろう。
伊奈田の人達が、夜、一人歩きするのを恐れ、山を売ることに謂れのない怯えを見せているのは、鬼の存在を脅かすことをすると、祟られるぞという脅迫観念のようなものを、意識の底に植え付けられている可能性も考えられる。
「伊奈田の人達は鬼の警護人であり、餌にもなっているというのですか」
「そうだ。その通りかも知れない」
伊奈田の人達は殆どの場合、自分の意志で動いてるのだろうが、鬼の存在に触れることに関しては無関心になるようにプログラムされているのかもしれない。住民の素直さは鬼の意志に逆らわないようにするためなのだとしたら、納得がいく。
「鬼は自分を守るのに必要な伊奈田の人達を殺さず、旅行者だけを狙ったのですね」
「そうでしょう。伊奈田の人を殺したら、自分の存在を守れなくなる」
伊奈田の人達は死んでからだけ鬼の餌になるのだ。
通夜のあと、すぐに棺を密閉してしまうという慣習も、遺体の変化を見せたくない鬼の意志なのかも知れない。だが、鬼が喰うのは人間ばかりではない。船着場に転がっている乾燥した骨と皮だけしか残ってない魚も、恐らく鬼が喰ったものに違いない。
鬼は自分の存在を隠すため、食べ方まで巧妙なのだ。骨と皮を残しておけば、見ただけでは判らず、たまに来る釣り人や民宿客などは気にも留めないだろう。我々のように、偶然気付いたとしても干からびて縮んでしまったと思うだけだ。
そして、住民達は知っていても気にもかけない。また、犬や猫がいないのも、動物の持つ感覚で鬼の存在を察知して逃げ出すか、食べられてしまうかどちらかだろう。
しかし、伊奈田の人達が、全て、鬼の言いなりかというとそうでもないらしい。それは昔から戸田港に漁船を預け、水揚げも戸田でやっていることだ。理由は冷凍庫などの設備がないからだといっていたが、ずっと昔は戸田にもそんなものはなかったはずである。
恐らく、伊奈田で水揚げすれば、全部とはいかないまでも、船着場に転がっている雑魚のように鬼に食べられてしまうものが出てくるに違いない。彼らはそれを免れるために、いつからか知らないが、戸田港で水揚げをするようになったのだ。
即ち、伊奈田の住民は意識外で鬼に対抗しており、お互いに生きていくために戦っているといってもいい。住民と鬼は伊奈田に共存している。
しかし、鬼が生きていくためには住民が必要だが、住民は鬼がいなくとも生活できる。だから、鬼は住民に寄生していると言えるのではないだろうか。
「鬼は普通の人間のように、ご飯を食べないのですか」
「いや、もし、我々の社会に紛れ込んでいるなら、同じようにしているはずだ。しかし、好むのは人の死肉なのかも知れない」
「でも、骨と皮だけ残して、どうやって喰っているのですか」
木部が尋ねる。勝間田も、その疑問に気が付いていた。
「うん、そのヒントは地震の起こった夜にあった。地震の後、酷い臭いがしたのを覚えているだろう」
動物は死ぬと、まず自己の体内に存在する酵素で自己消化が始まり、次に細菌による腐敗が起こって、次第に肉はなくなっていき、最後には骨だけが残る。腐敗して生成したものは細菌が消化して消滅する。
それには七日などという短時日ではなく、もっと長い時間がかかる。ところが、この遺体の場合、たった五日間でこんなになってしまった。しかも、普通の腐敗では考えられない皮だけを残してだ。
伊奈田にいる鬼はいままで我々が体験で知った以上の能力を持っているのかも知れない。
奴は人間の心を細胞レベル、いや、分子レベルまでコントロールできるとしたら、先ほどいった体内酵素を最大限に活性化できるとか、腐敗菌をコントロールできるとしても、考え過ぎではないだろう。
勝間田は話を聞いていて、自分が長岡の病院で聞き込んで来たことが咲畑の推理の展開に役だっているらしいと思う。
咲畑は続ける。それらを活性化させ、組織を消化し低分子の物質に変える。物質は単分子の状態になれば、容易に空中を浮遊する。
「勝間田さん、住職に見せて貰ったので知っていると思うが‥」
念動力を駆使できるならば、自由にその単分子をコントロールできるだろうということは想像するに難くない。
我々が住職に見せて貰った炎をコントロールする力は蒸発するパラフィン分子を意志通りに動かしたものだ。分解した単分子を同じようにコントロールして、鬼は取り込んでいると考えたらどうだろうか。
「それでは、住職でも、この遺体を喰うことができるのですか」
「単分子を認識できれば、たぶん、できるかも知れませんね」
それでは住職も鬼である可能性がある。真木寺に来て、まだ一年だというが、それは本人がいっているだけで、確かめたわけではない。
「風祭さんが掃除機をかけたとき酷い臭いがした。あれは鬼に操作され、空中に浮遊していた単分子が掃除機に吸い取られ、そして、排気されて、我々にとどいたので臭ったものだ。鬼の念動力に掃除機の吸引力が勝ったから起こったのだろう」
「この棺は、完全に密閉されてますけど」
「木には細かい空洞が沢山ある。単分子なら、そんな穴は簡単に抜けでますよ」
臭いがしないのは、分子が拡散しないように、鬼がコントロールしているからなので、棺に密閉されているからではない。
「まだ、感じるか」咲畑は棺の底を指さして、田川に尋ねる。
「はい」田川はうなずいた。
咲畑は、風祭に、掃除機を持って来るようにいう。
「この前と同じように掃除機をかけてみて下さい」
風祭はスイッチを入れ、先を棺の下に持っていく。
モーターの回転音と吸引する音が静まっている公民館のなかに響いた。
勝間田は掃除機の排気口に顔を近づけてみた。突然、鼻の曲がりそうな臭気が襲ってきて、同時に、頭のなかから、あのわんわんという響きが聞こえ始めた。全員が耳を押さえて顔をしかめる。
「スイッチを切って」咲畑が大きな声で叫ぶ。
掃除機が止まった後も、暫く、音は聞こえていた。
「何だ。これは‥‥‥」坂上が耳から手を離しながらいう。
「たぶん、警告でしょう」
鬼が横取りに気付き、我々を威喝したのかも知れない。
人間の身体は魚などと較べ、遥かに大きい。
離れたところから、消化し摂取し尽くすには時間がかかる。初七日まで、葬儀をしなければならないという理由はそこにあるのだろう。
伊奈田は昔から火葬の習慣があると沢田がいっていた。もし、土葬だったら、鬼にとって何の支障もなく、初七日までの葬儀は必要なかったのかも知れない。
この近くの地域でも、初七日まで祭壇を飾らないところもあるのは、たぶん土葬のためだ。それ故、昔から火葬の習慣があるところだけが、初七日まで葬儀をやっていたのではないだろうか。
咲畑の推理はいまの掃除機で証明されたも同然であった。鬼は明らかに人間を喰っている。しかし、伊奈田の誰なのか判らない。
いや、疑わしい者はいるのだが‥‥。教授の話は、勝間田の中にも鬼がいる事実を、更に裏付けようとしている。
「鬼は誰なんですか」坂上がいった。
咲畑は頚を振る。まだ、全く自信がない。頭のなかは、昨日から、同じところをぐるぐる回っていて、抜けでる道がないのだ。