○ 六日目、−−−−−−−−−−−−−−−−

 今朝は、なんとなくうっとうしい。寝不足のせいだろう。
 咲畑は旭日屋にする報告の内容をどうするか考えていたので、昨夜もよく眠れなかった。今回の調査は明日で終わりだ。

 思いがけない事実が出てきたけれども、結論は出ていない。鬼の正体が判明すれば、調査は終わりになるが、疑わしいだけでは報告するわけにはいかないのだ。

 何とか確認できないかと、田川と風祭に一発屋のところまでいって貰ったが、二人とも、どこか普通と違うが確信はないといっている。
 彼が人を食らっている現場を押さえるとかできれば、そうと言い切れるのだが、知る限りでは家に寝たきりである。

 また、棺から出ている腐臭を追いかけてみても、公民館から、どの方向へいっているのかさえ判らない。

 もし、一発屋が鬼かも知れないと報告したら、伊奈田の山林が欲しい旭日屋は必ずなんらかの手段を構じるだろう。
 警察なら証拠がない限り手を出さないが、利益を第一とする企業だったら、疑わしいというだけで、法に触れない方法で一発屋を処分するかも知れないと勝間田はいっている。

 大企業のトップに近い連中は自分の見える範囲では、行動も道徳的で臆病だが、自分から遠く、自身に跳ね返りの影響が及ばないことに関しては冷淡で惨いことを平気で行わせるらしい。

 これはどんな人間でも持っている特質であり、咲畑にもうなずけた。
 リゾート開発計画は既に決定されており、余程のことがない限り、変更はあっても中止はされないだろう。

 咲畑の報告次第では、伊奈田の住民にも知られずに、一発屋は処分されてしまうことだってある。彼が鬼でなかったら、咲畑は只の病人を不幸にするため、旭日屋に売り渡すことになってしまうのだ。

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 朝の準備が終ったあと、勝間田は一服するために椅子に座った。
「あ、そうだ。昨日、野道具が着きました」白石が思いだしていった。
 注文しておいた伊奈田の野具が届いたらしい。

 白石は部屋の隅に置いてあった野具を持ってきて、にやにや笑いながらそれを差し出した。
 大きさは七十センチ四方ほどあり、円形に近い格好をしている。中央に微妙な曲線を描く木が渡され、中心付近に、先の丸い棒が差し込まれており、上と下に飾りが付いていた。

 勝間田も思わず、にやりと笑ってしまった。見ようによっては女性のあれを表現しているようにも見える。
 突然、ガラス戸があき、坂上が姿を見せた。

「どうしたんだ。今日は伊奈田へ行かないのか?」
「いや、これからいくつもりだ。いい場所に店を構えたな‥‥‥」
 そういって坂上は店のなかを一回りする。

 店の前に止めた車のなかに、杉山刑事がいるのが見えた。伊奈田へいく途中、寄ったとしても、店にくるのは遠回りだ。勝間田に用があってきたらしい。

「何か聞きたいのか」
「うん、おまえも伊奈田では話し辛いので、いってくれないだろうと思ってな」
 咲畑教授はあの白骨死体の犯人の見当を付けているのではないかという。

「どうなんだ」
「うん、見当はつけている。しかし、‥‥‥」
 証拠もなく、その上常識では有り得ないことなのだ。

「とにかく、教えてくれ」
「このことは教授が確信を得るまで、旭日屋にも漏らしたくないらしい」
 咲畑教授は一緒にいる木部にさえも言わないようにしているほどだ。

坂上はその点は大丈夫だと保証する。
 勝間田は一発屋と木之元仁一郎の話をして、彼らが鬼だとすれば、勝間田のなかに、そして、坂上のなかにも鬼がいる可能性があるといった。

「嫌な話だな」
 坂上も自分のことにまで話が及ぶとは思っていなかったらしい。そして、一言も反論しなかった。
「警察の捜査でも何か出たのか」

「うん、いまの話とは別なんだが‥‥‥。昨夜の鬼が死体を喰う話だ」
 咲畑教授が死体を喰う方法を、昨夜、語ったが、それを裏付ける鑑識の報告があったのだ。坂江の検死報告には、非常に腐敗が進んでいたとあった。

 彼の遺体は殺されて数時間しか経っていないうちに、司法解剖にまわされたのに、自己消化というような生優しいものでなく、明らかに腐敗までいっており、皮膚表面に近い部分はタンパク質がアミノ酸まで分解されていたらしい。

「いまのような高温の時期でも、考えられないことだそうだ」
 坂上はこれから伊奈田へいくといって立ち上がった。勝間田も野道具を持っていくつもりであるが、その前に伊豆長岡の病院に立寄らなければならない。

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 勝間田は坂巻医師の部屋で、だいぶ時間をくってしまった。
 入院している田島を見舞って行こうと思い、病室にいく。田島は四人部屋の窓際に寝ていて、右足を石膏で固められ、左腕も肩から固められていた。

 入ってきた勝間田の姿を認めて笑顔を見せる。助けられた礼を言った後、来てくれて良かったという。
「実は私の知合いが、民宿『いざさ』に泊まっているんです。高校時代の恩師で酒井先生といいます」

 数年前、停年退職して、現在は趣味を兼ねたライフワークとして、各地の民話を採取している。今年の同窓会であったとき、民話と関係あるかも知れないと思い伊奈田のことを話すと、大変興味を示した。以前から伊奈田のことを耳にしていたらしく、同行したいから、その時は是非知らせてくれと言われ、そのようにした。

「実は、いままでの出来事を、毎日、酒井先生に逐一話していました」
「その人は六十歳くらいで、いつも、登山帽を被っている方でしょう」
 田島はそうだとうなずく。沢のなかで石をいじっていた老人だった。

 酒井は、以前、箱根に宿泊したとき、ある人から伊奈田のことを聞いたことがあるらしく、そのことについて田島にも少し話してくれたが、我々が調査している件と関係あるのか判らなかった。

 いずれ、咲畑教授に引き合わせて、その話を聞いて貰おうと思っていたが、こんなことになってしまいその機会がなくなってしまった。
 田島はその酒井を咲畑教授に引き合わせて話を聞いてくれという。

 車に戻り、空を見上げると黒い雲が広がっていた。天気予報では夜半過ぎから崩れるといっていた。
 昨日は、木村住職まで、鬼ではないかと疑ってしまったが、帰ってからよく考えてみると馬鹿げた考えだった。鬼は、咲畑教授のいうように、自分の存在を隠そうとしており、調査に協力している住職が鬼であるはずがないのだ。

 伊奈田にいると、あの雰囲気のせいか、疑い深くなってしまい、へんに考えが偏ってしまう。

 大瀬崎を回ると道端に警察の車がいて、無線で通話していた。
 まだ、崖の下で遺体の搬出を行っているらしい。

 伊奈田へ入ると何かおかしな感じを受けた。昨日までとは違うような気がするが、何か判らない。
 野道具を公民館に運び、祭壇の脇に置いて、再び外へ出た。

 護岸まで見通せる石畳の道に、今日は誰も見えない。
 民宿『さわ』に行き、渡辺に野道具を持ってきたことを告げた。
 更に咲畑を捜し出して、田島に頼まれた話をする。ついでに、今朝、坂上が店で話してくれた坂江のことも語った。

「そうですか、坂江さんも‥‥‥」食人鬼説は間違いないようである。
 咲畑は酒井という人に、すぐ会ってみようという。二人で『いざさ』へいくと酒井は部屋にいた。田島に聞いてきたことを話すと、彼が怪我をしたことを今朝になって耳にし、心配していたという。

そして、「いや、私にも、あなた方が調べていることと関連があるか判らないものですから‥‥‥」といって、話し始めた。

 酒井は退職してから、趣味として各地の民話を採録している。三年前、箱根から伊豆にかけての民話を集めに来たことがあり、その折り、同じ宿に泊まっていたお年寄りから面白い話を聞いた。

「ごぞんじかどうか‥‥‥、箱根近辺はいまでも狐や狸が大変多いところなんです」
 そのせいか、人が狐狸に化かされて物を取られたという話が沢山残っており、それを採録しているうちに面白いことが判ってきた。

 狐狸に化かされたという話は日本中にあるので、珍しい話しではないが、箱根近辺の話は、お通夜の帰りに化かされたというものが、非常に多いことに気が付いたのだ。

「年寄りに聞いた話と、それが関連があるのですか」
「さあ、どうでしょう」
 酒井は化物騒動があったことを土地で聞込み、わざわざ騒動のあった霜月館に宿をとり、話を聞こうとしたが、終戦の年のことであり、時が経ち過ぎていて、殆ど覚えている人はいなかった。

 ところが幸い、偶然にも、泊り客のなかにその騒ぎを知っているお年寄りがいた。戸倉という人で、以前は商売でよく湯本にきていたらしい。その折り、霜月館の話を聞いたそうだ。

 その戸倉の話によると、化物騒ぎが在った日に、軍隊で自分と同じ部隊にいた男が霜月館にとまっていた。復員して故郷の伊奈田へ帰る途中らしかった。

「なんでも、その男が泊まったところで、二度、新鮮なものが腐っていたそうです」
 咲畑と勝間田は顔を見合わせた。酒井は戸倉から聞いた要塞でのこと、そこで起こった殺人事件、最宝寺でのことも語った。

「その殺人事件はどうなったのですか」
「調べたようですが、とうとう判らずじまいだそうです」
 兵のなかに犯人がいたとしても、動機らしい動機がある者はおらず、殺された兵は、口喧嘩くらいはするが、人に恨まれるような人間でもなかったらしい。

「最宝寺の住職が戸倉さんに話すのを躊躇したというのは何だったのですか」
「判りません。再度、戸倉さんが訪ねたときは、既に、住職は亡くなっていたそうです」
「霜月館に泊まった男の名は聞きましたか」咲畑が尋ねる。

「木之元というそうです」
 再び二人は顔を見合わした。彼が泊まったところで、新鮮なものが腐ったという事件が起きた。それが何を意味しているか、二人にはよく判っている。

 化物騒ぎは鬼が幻覚を見せたと考えてもいい。木之元仁一郎が霜月館に泊まった日に、その騒ぎがあったということは、彼が鬼だという証拠ではないのか。

 また、最宝寺の住職が見たという、石櫃のなかに新鮮な魚介類を入れていったのは、伊豆へ帰る長旅のための食料確保だったと思われる。鬼は死んだばかりの新鮮なものを好むのだ。

 しかし、木之元仁一郎は東京にいて入院中であり、いま伊奈田にはいない。もしかすると、鬼が二匹いるのかも知れない。もう一匹は、やはり一発屋なのだろうか‥‥‥。

 だが、終戦の翌年、簡素化した葬式に祟りがあったのは、木之元仁一郎が帰って来たからだとしても、その前の、二つの葬式に何もなかったというのはおかしい。一発屋は、その間、伊奈田に住んでいたのだ。

「酒井さんは、何が目的で伊奈田に来られたのですか」勝間田が尋ねた。
「ええ、先ほど、お話した通夜の帰りに化かされる話のことなんですよ」
 この話は、箱根より伊豆の方が多いということを知り、調べたところ、祭壇を初七日まで飾る風習がある地域と関係あるように思えてきた。

 何故だろうと、更に調査を重ねると祭壇を飾るだけでなく、葬式そのものを初七日まで行うところがあることを知った。
「伊奈田のことですね」

「そうなんです」
 復員兵の話で、既に伊奈田の地名を聞いていたので、大変興味深いと思った。
「戸倉さんという方は、どちらに、お住まいですか」

「東京の小岩なんですが、昨年、お亡くなりになってます。今年になって手紙を差し上げたところ、亡くなったという返事がきました。そうだ、木之元という人が最宝寺から持ってきたらしい石櫃があります。川のなかです。こちらの方も場所は知っています」

 酒井が沢のなかで触っていた石を、勝間田は思いだした。あれがそうらしい。咲畑は見てみたいといって立ち上がる。二人は酒井のところを辞して、橋へ向かった。途中、やはり、集落の誰の姿も見かけない。

「あれです」橋の上に出て、流れの上に角張って出ている石を指さした。
 咲畑は降りて、その石を撫でまわす。
「確かに石櫃らしい。しかし、蓋がないな」

 何処かに埋まっているのだろうといいながら、上がってきた。
「どう思う。あの酒井さんの話し」
「最宝寺の住職が話すのを躊躇したというのは、遺体のことではないのですか」

「うん、私もそう思う」
 おそらく、最宝寺が預かっていた遺体に何かあったからだ。きっと、公民館の遺体のようにミイラ化していたのかも知れない。それで、住職は戸倉に話すべきかどうか迷って躊躇したのだろう。

「木之元仁一郎は鬼ですね」
「うん、そうだが‥‥‥」そうなると、全く辻妻が合わない。
「坑道のなかで起こった殺人も関係あるのですかね」

「あるのかもしれない。坑道の捜索中に出た死人は、たぶん、心臓マヒか何かを起こしたのだろう」
 鬼が引き起こした幻覚をみて驚きの余り、ショックで心臓が止まったのかも知れない。

「喉を掻き切られた兵には、殺される動機が見つからなかったらしいですね。坂江さんの場合も動機がない」
「警察がそういっているのですか」咲畑が尋ねる。

「ええ、坂上がいっていました。似ていると思いませんか」
 状況が似ていると言われればそう思えてくる。両方とも殺される動機が見つからないので犯人も判らない。多少のトラブルはあるが、殺しの動機までにはならないのだ。

 咲畑は頭を振る仕草をする。
「今日はどうもすっきりしない。何かうっとうしい感じがする」
 勝間田は思わず考えるのを止め、神経を張り詰めた。

 先ほど、伊奈田に入ってきたとき、感じた違和感は咲畑がうっとうしいと表現したものに似ていたことを思い出したのだ。橋の上に立ったまま、暫く窺う。耳の奥底で、微かに何か聞こえてくる。外から聞こえて来るものではない。

 咲畑も勝間田の様子を見て、同じように精神を集中した。
「聞こえる」咲畑が呟く。微かであったが、頭の中で響くものがあるのだ。公民館で掃除機のスイッチを入れた時、聞こえたあの音に似ていた。

「何故だ。何故なんだ。やはり、鬼が怒りだしたのかも知れない」
 咲畑の表情が険しくなった。あの落雷はやはり怒れる裂雷だったのかも‥‥‥。
 しかし、咲畑は伊奈田にきて、鬼の勘気に触れるようなことはしてなかったつもりだ。

 ここに来てからの自分達の行動を思い返してみた。棺を動かしたこと、焼香炉を転がしたこと、掃除機で鬼が喰うのを邪魔したこと、棺のなかを覗いたこと、そして、渡辺が通夜に出たのに帰ろうとしたことがある。

 あとの三つはタブーを犯したことになるだろうが、掃除機の件以外は人間側のタブーである。伊奈田の祖先が身を守るために考え出したものだろうから、鬼の怒りに触れることではないはずだ。

 すると、掃除機のことで鬼が怒りだしたのか、しかし、警告に従い、すぐ止めている。鬼は自分の思い通りにしているのだ。

「別の意味なのだろうか」
 しかし、昨日起こった三つの事件を考えると、鬼が怒って祟ろうとしているとしか思えない。

「あっ、いたいた。先生」
 田川が橋の上にいる二人を見つけて走って来る。そのあとから渡辺、木部が、そして、最後に風祭が来た。

「この音が聞こえますか。何だと思います」彼らも気付いたらしい。
「うん、いま、その話をしていたところだ」
 鬼が怒ったのではないかと思うが、はっきりとは言えない。

「そうですよ。昨日の事件を思いだして下さい」風祭は断言した。
「うん、私もそれは考えた。しかし、何故、怒ったのだ」
 そういいながら、咲畑は大変なことを忘れていたことに気が付いた。

「初七日まで、葬儀をやらずに、遺体を運びだしたからだ」
「公民館で、葬儀をやっていますよ」渡辺が言った。
「そうではない。坂江さんの遺体だ」

 坂江のことは我々の調査と関係ないと思っていたので、いままで念頭に入れてなかった。しかし、彼も伊奈田で死んだのだ。だから、当然、ここで七日間の葬式をやらねばならない。それなのに、彼の遺体は即日警察の手で運び出されてしまった。

「検死の報告によれば、彼の躯は一部、鬼に喰われていたらしい」
 かって、空海が各寺に課した状況を、我々は知らない間につくってしまっていたとしたら‥‥‥。

 ここには、超能力を持った坊さんは木村住職がいるだけだ。
 仙方寺にあった書付けによれば、大勢の坊さん達が力を併せて鬼と戦った。田川と風祭もいるが、それを入れても三人だけである。

 坊さん達はそれより多い人数で鬼に対抗しており、それでも、死者を出していることを考えると対等以上に戦ったとは思えない。したがって、たった三人で、鬼に対抗することができるはずがない。

 全員、民宿へ戻ってきた。沢田夫妻は昼食の仕度をしている。
 頭のなかから、まだあの音は聞こえており、六人はただ黙って座り続けていた。厨房から、何かを包丁で刻んでいる音だけが聞こえている。

 そして、すすり泣くような声が微かに聞こえてきた。
 勝間田は厨房の方に視線を向けた。
 奥さんがまな板の上で何かをきざんでおり、そのすぐうしろに沢田が立っている。

 肩が震えているように見え、すすり泣く声は奥さんがあげているように思えた。
「いけない」咲畑が叫んで立ち上がり、厨房へ走った。
 勝間田も、何が起こったか察した。

 沢田の顔は能面のように無表情だったが、全身がぶるぶる震え必死に何かに耐えている。生臭い血の臭いがした。流しを覗くと、まな板の上は血で真っ赤に染まっていて、彼女の左手から血が滴り落ちている。

 自分の手を刻んでいるのだ。
「なんてことを‥‥‥」勝間田は包丁を取り上げた。
 彼女は突然大きな声をあげて泣き始め、同時に、沢田が吠えるような声をあげた。

「止めようと思っても、躯が動かなかった」奥さんを抱いて泣き叫ぶ。
「救急箱だ」
 渡辺が救急箱を持ってきて、血どめをした。

 人差指と中指が落とされている。病院へ連れて行かねばならない。
 渡辺が行くことになり、勝間田は自分の車に乗っていけと鍵を渡した。
 間違いなく、鬼の報復が始まっている。

 このままではどうなるか判らない。大変なことが起きてしまうかも知れなかった。しかし、咲畑にはどうすればいいのか、全く思いもつかない。

 勝間田は自分の判断が正しいかどうか判らないが、今朝、考えついたことを実行しようと思った。
「先生、ちょっと、真木寺へいってみませんか、解決策があるかも知れません」

「真木寺へ?」咲畑は怪訝な顔をした。
「はい、いってみれば、判ります。ほんの一時間ほどです」
 説き伏せて、咲畑の車に乗り、真木寺へ向かった。

「どんな、解決策があるのですか」
「それは、真木寺でお話します」
 右に海を見て、車は戸田方面へ向かう道を走っている。

「喉を掻ききられた兵には、動機が見つからなかったといっていましたね。坂江さんも殺された動機がみつからない」
 勝間田は橋での続きを話し始めた。

「ええ、似ていますね」
「私は、どちらの場合も、動機があったと思っています。要塞の坑道で、殺された兵の動機は口喧嘩のような些細なものだったのかもしれません。そして、坂江さんの動機は伊奈田の土地を買おうとしていたことだったのでは‥‥‥」

 坂江は伊奈田の山林を旭日屋より先に買おうとしていたのだろう。頻繁に伊奈田に現れ、旭日屋と伊奈田の関係を知らないので、しつこく働きかけていたに違いない。住民は迷惑していたのではないだろうか。

「それが、坂江さんの殺された動機とでもいうのですか。動機としては、あまりにも希薄過ぎやしませんか。そんな動機で人殺しをするなら、世のなかは殺人犯だらけになってしまうでしょう」

「ええ、そうですね。でも、伊奈田は他と違います。これは先生が仰ったことです」
 渡辺と勝間田が起こした事故、地震のあった夜の出来事、そして、木部さんの神隠しは、咲畑の説明によると、いずれも本人達が心のなかで考えていたことが極端に増幅され、拡大されて現れたことであった。

 伊奈田の誰かが、しつこく迫る坂江に対して、うるさいから死んでしまえという程度の殺意を抱いたとしても不自然ではない。そして、その気持ちが増幅され、実際の殺人につながったとしたら‥‥‥。

「そうか‥‥‥、ありえますね」咲畑の顔は、もう笑っていなかった。
 もしそうだとすれば、坂江を殺した犯人は、渡辺、沢田親子、そして、木部のように記憶を失っていて、何も覚えていないかも知れない。

「要塞の殺人も、そこに鬼がいたとしたら、些細な口論でも殺人の動機になり得ますよ」
 真木寺の山門をくぐり、石段の下に車をとめた。二人は車から出て、前にも見た高野槙の大木を見渡した。

「ここに、何があるのですか」咲畑は墓地の方へ歩み寄りながらいう。
「別に、何もありません。ただ、先生を伊奈田から連れだしたかっただけです」
 咲畑は怪訝な顔をして、振り向く。

「昨日、先生が鬼はいかにして遺体を喰うのか話していたとき、もしかすると、木村住職も鬼ではないかという考えに捕らわれてしまいました」

 しかし、三島に帰って考え直してみると、木村住職が鬼だなどという考えは全くナンセンスに近いことであった。そして、自分が伊奈田の雰囲気に飲まれて、そんな疑問を持ったのだと気が付いた。

「もしかして、伊奈田にずっと滞在している先生達も、同じようになっているのではと思ったのです」
 勝間田は、ここ二日ほど、咲畑の推理にどこかおかしなところがあるように思えてきた。空海の張った結界の謎を見事に解きあかした頭脳の冴えがなくなったように思える。

 それで、あの冴えを見せてくれた真木寺に連れてきたら、はっきりするかもしれないと考え、ここにきたのだ。真木寺にきた理由は、それ以外にない。

「私が鬼にたぶらかされているというのですか」
「いえ、そこまでは考えていません。でも、もしかすると、思考を曲げられているのではと‥‥‥」

「そんな馬鹿な」
 咲畑の仮説は、明らかに、鬼の存在を暴き追いつめている。そして、いま少しで正体も突きとめようとしている。咲畑の心が鬼に操られているとすれば、こんな結論に達していないはずであった。

「鬼が人間の心を全く自由にできるとは、私も思っていません」
 伊奈田の人達が戸田港で水揚げをすることを考えれば、彼らでさえも、全て鬼の意志通りになっているわけではない。

 鬼としては、咲畑に存在を暴かれるようなことはされたくない。だが、そこまで、人心を操ることができないとしたら、僅かな心の隙をついて、はぐらかそうとするかも知れない。

 伊奈田にきた人達は、咲畑を除いて、誰もが一度は鬼にたぶらかされている。咲畑だけ例外なのは心に大きな隙がなかったからだろう。しかし、それだからといって、僅かな隙を突かれて、思考の脈絡を変えられた可能性がないと言いきれない。

 今迄の出来事を考慮すれば、奴にそのような能力が存在するかも知れないことは推察できる。
「先生は心のなかにあるイメージを現実のように見せられたといいました。ということは、頭に浮かんだ疑問や仮説を大きく膨らませることもできると考えても、いいのではないですか」

「うん‥‥‥」
 咲畑は勝間田の話に頷き始めた。思い当たるような気がしないでもない。鬼の正体にいま一歩というところにきて、何故か矛盾に突き当たってしまう。

 自分の頭に浮かんだ間違った仮説を、鬼が正しいものとして、咲畑自身に信じ込ませているのではないかというのか。いや、勝間田は咲畑の仮説が誤っていることを、鬼のせいにして遠まわしに指摘しているのかも知れなかった。

「どこが、おかしいのだろう?」
「一発屋が鬼ではないかということです」
 もし、一発屋が鬼だとしたら、勝間田のなかにも鬼がいることになる。この考えを、勝間田としては認めたくない。

「一発屋が鬼かも知れないと言い出したのは、渡辺です。あの時から、一発屋を疑い始めたのではないですか」
 思いだしてみるとその通りだった。

 それ以前に、田川がおかしいといっていたが、それ以外には一発屋が鬼だとする根拠はどこにもない。一発屋が鬼だという証拠は、沢田に聞いた話も、彼が占い師で超能力があるかも知れないということも、もし、彼が鬼だったらという仮定に立ったものばかりである。

「すると、鬼は木之元仁一郎一人になってしまう。先ほど、車のなかで話したことが事実だとすれば、要塞の殺人の時、彼はその近くにいた。しかし、坂江さんのときは違うのだ」

 木之元仁一郎も鬼ではないということになる。
「違うかも知れませんね」
 一発屋が鬼でなくとも、木之元仁一郎が鬼ならば、やはり、勝間田のなかに鬼がいることになってしまう。

「そうすると、誰が‥‥‥。そして、酒井さんの話はどう解釈すればいいのだろう」
 木之元仁一郎が鬼でないとすれば、戸倉という人から聞いた話は何なのだ。酒井さんが出鱈目を聞かされたのだろうか。

 鬼が古代から伊奈田にいたことは間違いない。奴は住民の陰に巧みに隠れ棲んでいるのだ。
 咲畑は大きなくしゃみをして、ポケットからティッシュペーパーを取り出した。
「まだ、風邪が治らない」

「私も、そうです。夏風邪は長引くといいますからね。そうだ‥‥‥」
 勝間田は自分のポケットを探った。
「長岡の病院で薬を貰ってきたんです。先生も飲みますか」

 勝間田は錠剤のパックから、二錠分引きちぎり、咲畑に手渡し自分も飲んだ。

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 風祭は沢にかかっている橋を渡り、集落の北端にいく。目の前に一発屋の家があり、後ろには衝立状の崖がせまっている。
 確かに、家の方から異様な気を感ずるが、あの坂の途中で察知したものと同じかどうか判らない。

 昨日来たとき、寝ている一発屋に会わせて貰ったが、やはり判らなかった。家の後ろに回ろうと思い、細い路地のなかへ入っていった。
 強い風が海の方から吹き抜けていく。
 路地の左側に川が流れており、このままいくと、崖の下を抜けて海岸に出られる。

 一発屋の家は乱雑に板を打ち付けたような塀で崖とつながっており、その崖側の塀の上に粗末な屋根がのっていた。崖と家の間を物置替わりに使っているらしい。

 歪んで曲がっている開き戸があり、錆びた鉄製の落し錠が付いている。戸を開けてなかを覗いた。ほこりを被った木箱や段ボール箱が雑然と積んであり、農作業に使われる木や竹の棒が束ねてある。

 左の隅に石油缶が三個置かれていた。
 崖に近い屋根の下は暗くてよく見えない。
 身を引いて戸を閉めようとすると、暗い奥に、ふっと何か気配を感じた。

 何だろうと思い、なかに入って行く。両わきに壊れた農具が転がっていて、その奥に崖の岩肌が見える。あの異様な感じが漂っており、岩肌に沿って視線を上に持っていくと、ずっとその感覚がある。

 突然、強い海風が吹いてきて、戸が大きな音を立てて閉まった。
 急いで戻り、押してみたが、閉まった拍子に落し錠が下りてしまったらしく、開かない。

 他に出口らしいものは見あたらず、閉じ込められてしまったらしい。
 突然、背筋がそそけ立つような感じを受け、振り返った。
 薄暗いなかをじっと見つめると、何かいる気配がする。

 崖の岩肌の辺りが、先ほどより暗くなっており、あの異様な気が濃くなってきている。ゆっくりと、ゆっくりと漆黒の暗闇が岩肌を降りてきた。

 風祭は、自分が罠にはまってしまったことに気付いた。戸を叩き、大声をあげて助けを呼ぼうとしたが、手は自分の思うように上にあがらず、声も言葉になって出てこない。
 冷たい汗が全身から吹き出てきた。

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 咲畑は勝間田に指摘されて、確かに一発屋が鬼だということはおかしいと思ったが、木之元仁一郎の方は、まだ捨てきれないと考えていた。何かを見落としている可能性は十分にある。

「お通夜に出席したら、毎日の葬式にずっと出席しなければならないというのは何故ですか。何かのヒントになりませんか」
「あれは、たぶん‥‥‥」

 酒井の話では通夜の帰りに化かされる例が多い。人々はそれを防ぐために、通夜の晩に帰らないようにしたのだろう。そうすれば、必然的に、翌日の葬式にも参列することになり、それが、通夜に出たら葬式も‥‥‥ということになってしまったのかも知れない。

 そして、伝承されていくうちに、初七日までの葬式にも参列しなければならないということになってしまった。風習というのは形式にとらわれて、意味のない方向へ変化していくことがよくある。

「桃の陰形は、どうですか」
「あれは、神を封じ込めているように思える」
 古代の神には人に災いするものもあったから、それでもいいのだろうが、なかにある石にも意味があるのかも知れない。
「たとえば、あの石が、鬼または鬼の一部分であるとかだ」

 二人は伊奈田へ戻った。頭のなかで唸なっている音はまだ聞こえていた。
 駐車場から、いつも遠望できる対岸は霞んでいて見えず、今ごろなら、必ず誰かが作業をしている船着場や護岸の近くにも人影がない。

 民宿に戻る前に公民館に立ち寄った。灯明がともって、線香の煙も上がっていたが、誰もいない。
「この遺体も既に喰い尽くされてしまっただろう」棺を覗いて、咲畑がいう。

「鬼は存在を知られないように、住民を操ることまでして隠れていたのでしょう。それなのに、何故、祟るようなことをするのですか。自分から、存在を暴露しているようなものですよ」

「うん、そうだが‥‥‥」
 鬼は我々が気が付いたように人間だけでなく、魚でも他の動物の肉でも食べている。

 しかし、奴にとって人肉を食らうことは何物にも替え難いものであり、そのために身を潜めているといってもいいかも知れない。その人肉を食べることを邪魔されて、それでも隠れていたら、意味がない。だから、奴は報復をするのだろう。

「これは、何ですか」咲畑は祭壇の脇にあるものを取り上げた。
「葬具の一種です。伊奈田特有の物なので注文して作って貰いました」
 咲畑は非常に興味を示し、しげしげと眺めていた。

 民宿『さわ』の居間に行くと、木部と田川、そして木村住職がいた。
「実は先生、私、これから、また東京へ戻らねばなりません」
 木部は本社から連絡があって、至急戻ってこいと言われたと話す。

「田島が入院して手も足りません。ついでに、他の社員を連れてきます」
「いつ戻られますか」
 咲畑はこんな時にと思ったが、社命とあれば仕方がない。木部は用が済み次第今夜にでも戻って来るという。

「この事態を会社の方では、なんといっているのですか」
 勝間田が思い付いたように言った。
「いえ、何とも‥‥‥、細かい指示は受けていません」木部が答える。

「そんなことはないでしょう」語気が突然強くなった。
 勝間田はこんなときに木部が東京に戻ると言い出したことで、いままで、もやもやと心にあった疑問が一気に解けたように思った。

「この前、東京に帰ったのは何のためです。会議に出るためだったのでしょう」
「そうです。しかし、覚えていないのです」
 勝間田は木部の言葉を無視して続けた。

「何のための会議だったのですか。伊奈田に来ているあなたが、わざわざ出席しなければいけなかったことを考えれば、会議の議題は伊奈田の件だったのではないですか」

 木部は黙って頚を振る。
「おそらく、その席で中間報告を求められたはずです」
 木部は初め伊奈田の件は全くの迷信だと思っていたが、ここにきてから起きた奇妙な出来事を見たり、風祭の「迷信ではなく、ここには何かがある」という言葉をきいて、考えを改めたはずだ。

 たぶん、大瀬崎の件のために、個人的にもくろんでいた早期解決は断念したに違いない。借金の金利負担はいますこし我慢をすれば、いずれ、リゾート計画が発表になったとき、多少の損得はあっても帳消しになるからだ。

 もちろん、会社も木部が目論だほどでないにしろ、早期解決を望んでいるに違いない。
「そこで、あなたは会社の命令を優先した。あなたの報告を聞いた会社の幹部達は‥‥‥、いや、社長かも知れない」
 旭日屋の社長は伊奈田の件は迷信ではなく、初七日までの葬儀を行わなければ、本当に祟りがあることを知っていたのかもしれない。

 咲畑教授が「迷信の打破だけにしては報酬が多すぎる。危険手当も入っているのかも知れない」といっていたことも、その裏付けになる。
 咲畑教授は住民のために万が一を考え、細心の注意を払って、タブーなどにも触れずに調査を進めていた。

 しかし、社長は咲畑教授が葬儀を中断せずに、見守っていることを苛立たしく思ったに違いない。
「たぶん‥‥‥」言葉を切って、木部の顔を見つめた。驚きの表情を浮かべていたが、勝間田と視線が合うと下を向いた。

「先生が最後まで葬儀を黙って見守るようなら、あなた自身の手で葬儀を中断する処置を取れと言われてきたはずです。違いますか」
 いま言った内容そのままでなくとも、それに近い命令を受けてきたはずだ。

 勝間田自身でさえも教授の行動を見ていて、葬儀を中断すれば、すぐ結果が出るのにと、いつも思っていたくらいなのだ。

「でも、私は記憶を失っていて何も知りません」
「それは嘘だ」勝間田はきっぱりと言いきった。
「本当ですか」咲畑がたずねる。木部は黙って頚を振った。

「木部さんの記憶喪失には無理があると思いませんか。渡辺や沢田さん親子が意識を喪失したのと根本的に違うところがあります。彼らは鬼の影響下にある伊奈田で起こしたのですが、木部さんは東京にいってしまったのです」

 もし、本当に木部が鬼によって記憶喪失にさせられたとしても、伊奈田から遠く離れてしまえば、鬼の力も届かなくなり、正気に戻るはずだ。

 また、会議で報告をすることは、教授が例に出した小僧の仕事のように、簡単なものではなく、意識を失ったままできるとは思えない。
 もし、そうであれば、会議の席で誰かが気が付いたはずだ。

「あなたは記憶喪失の芝居をしたのだ。そうでしょう」
 木部の態度は、明らかに勝間田の話が当たっていることを示していた。
「たぶん、こういうことだと思います」

 木部は葬儀の中断をするように命令を受け、急きょ伊奈田へ戻ってきた。
 おそらく、咲畑教授や我々に気付かれないよう、遺体を何処かへ運ぶつもりで、田島にも手伝わせようと思っていた。

 田島を呼び出そうと民宿へいったが、見あたらず、集落のなかを探し始めた。そして護岸の近くで田島を見つけたが、他の人も一緒で、自分が伊奈田に帰ってきたことがばれてしまった。

 そこで、とっさに記憶喪失を装ったのだ。その時、彼は手に釣竿を持っていたそうだが、そのことから、見つかってしまった場合、記憶喪失の芝居をうつことを前もって考えていたのだろうと思う。

 たぶん、伊奈田へ戻って来る途中考え付いたのかも知れない。もし、この企みがばれたら、東京へいった理由、本社での会議のこと、そして、予定を繰り上げて即日帰ってきたことなど、いろいろ言い訳をしなければならなくなる。

 旭日屋の本音を悟らせずに、その全てに筋の通った嘘をつくのは難しい。
 東京へ発つ前、咲畑教授の話を聞いており、伊奈田では奇妙なことが起こっても、誰も不審に思わなくなっている。

 そこで、ばれた場合何も言い訳する必要のない記憶喪失を装うことを考え付いた。我々はそれに見事に引っかかり、また、咲畑先生は彼の嘘を神隠しという現象で説明してくれた。

 そして、更に都合の良いことに、坂江さんの死体が発見され、それを警察が運び去ったので、葬儀を中断する手間が省けてしまい、田島さんに話して、協力させることも要らなくなった。

 我々は、あの時、鬼の目当てが葬儀にあるのでなく、死体にあることに気がついてなかった。だから、あなたの芝居にまんまとのせられた。
「しかし、木部さん、あなたは本社でそのことを聞かされてきたので、すぐ気が付いたのでしょう」

 ところが、予期しない坂江殺しの容疑者として、木部は警察にしつこく調べられた。
 記憶喪失の演技をやめて、東京へいっていたことを正直に話せば、すぐ容疑がはれただろうが、自分には覚えのないことであり、調べればアリバイのあることも判っていたので、ずっと演技を続けていたのだ。

「鬼が死体を喰うことを、知っていたのですか」咲畑が尋ねる。
「いえ、それは知りませんでした。私が教えられたのは、七日以内に、伊奈田から遺体を持ち出すと住民に恐ろしいことが起こるということだけです」

 木部は勝間田の話したことを全て認めた。やはり、東京へ戻るという口実で、伊奈田から逃げ出すつもりだったらしい。

「先生、伊奈田から、早く、逃げだした方がいい。取り返しのつかないことになるかも知れません」
「私達が逃げだした後、住民達はどうなるのですか」
「‥‥‥」木部は蒼い顔をしたまま返事をしない。

「やはり、そういうことですか」
 旭日屋は表面的には、咲畑の大学教授という肩書を利用して、住民のことを考えているようなふりをしているが、結局は自己の利益だけのことしか頭にない。
 葬儀を中断することで、住民にどんな災難が降り掛かろうと関係ないと思っているらしい。

 咲畑達の調査は、どんなことが起こっても、後で言い訳が立つための方便に過ぎないのだろう。
 咲畑は勝間田を廊下に連れだした。
「何ですか」

「いままで、手伝ってくれたことに感謝してます。勝間田さんがいなかったら、こんなに調査は進まなかったでしょう。ですが、これからは我々だけでことを進めます。渡辺さんも出ていったことだし、勝間田さんも三島にお帰り下さい」

 咲畑は、突然改まっていう。
「何故ですか。危険だからですか」
「そうです。葬儀を請け負っているからといって、常時付き添っている義務もないでしょう」

「それなら、先生達も‥‥‥」
 旭日屋の手前勝手な論理で翻弄され、生命の危険をおかす必要などない。

「そうはいきません。伊奈田がこんな状態になったのも、我々に責任があります。ですから、いま出ていくわけにはいきません。それに‥‥‥」
 咲畑は一呼吸おき、にやっと笑い、
「報酬です。胸を張って、全額貰うつもりです」といった。

「それはいい‥‥‥。私も葬儀の請負料を旭日屋から貰います」
「でも、請負料など、私への報酬と較べたら僅かなものでしょう。聞くところによると、あなたのところは非常に安いそうじゃないですか」

「いや、先生はこの辺りの相場を知らないでしょう」勝間田はにやっと笑う。
「伊豆地方の葬式代は今日から値上がりしました。それに、旭日屋に送付する請求書には、幾らでも0を書き加えることができるんです」

 咲畑は苦笑いをして、説得するのをやめ、居間に戻り、木部に最後までつき合って貰うと釘をさした。

 坂上が杉山刑事と共に現れた。崖下の遺体収容が終ったらしい。
 窓の外を見ると霧が集落のなかに入り込んでいた。

「天気が下り坂だ。収容作業が早めに終わってよかったよ。この霧は大瀬崎の方は大丈夫らしいが、こっちへ来るほど濃くなっている。対向車がいたら、正面衝突をしてしまいそうだ」

 遺体の収容は、壊れたバイクのかけらなどが残っているだけで、殆ど終ったという。あの場所は大瀬崎をまわってごろた石の海岸を徒歩で行かねばならないので、大変だったらしい。

「あれを持ち帰ったら、マスコミが大騒ぎをするだろうな」
 一昨日、発見された白骨の方もまだ公表されてないらしいが、おおやけにされたら、伊奈田へマスコミが押し掛けて来るのは間違いない。

「この霧も、鬼のせいかもしれないな。音が聞こえるか」
「鬼のせい‥‥‥」坂上は耳を澄ます仕草をする。
「あの時より小さいが、公民館で聞いたものに似ているだろう」

 勝間田は、警察が坂江の遺体を運んでいったため、鬼が怒ったのかもしれないということを、咲畑が解きあかした仮説から話し始め、伊奈田の言伝えなどをまじえて説明し、そして、現実に起こっていることを、坂上達が知っている田島の件も含めて話した。

「信じられんな」杉山と顔を見合わす。
 坂上は前にもその話の一部を聞いており、確かに、幻覚らしきものを見せられ、ミイラになった仏も見た。しかし、まだ現実にそんなものがいることを信じきれない。

「別に信じなくてもいい。しかし、いままで起こったこと、これから起こることの責任の一端は警察にもあることを忘れないでくれ」
 坂上は居間にいる全員の表情を見て、反論する雰囲気ではないと思い、それ以上何もいわなかった。

「風祭さんが見えないが、部屋ですか」咲畑が気が付いていった。
「先ほど、出ていくのを見ましたが、戻っているかも知れませんね」 木村住職がいう。
 田川が見にいったが、戻ってきていないという。

「また、何処かで、立ち往生しているのではないのですか」
「それなら、いいのだが‥‥‥」咲畑は眉間に皴を寄せた。
 日が暮れかけている。霧のため、暗くなるのがいつもより早い。

 夕飯の仕度ができたと『いざさ』から連絡があり、全員そちらへいく。
 坂上達の分もあるということなので、彼らも一緒にきた。
 沢田達がいなくなってしまったので、食事の世話だけ『いざさ』がしてくれることになったらしい。

 『いざさ』の泊り客は酒井だけで、彼も皆と一緒に食卓についた。『いざさ』の主人夫婦は沢田達より若く、小さな子供がいる。家族は、もう一人、おじいさんがいた。

「つかぬことをうかがいますが‥‥‥」
 咲畑は食事をとりながら、そのおじいさんに、戦中ここへ焼夷弾が落ちたのは、いつ頃かと尋ねた。
「二十年の五月だ」と即座に答えた。よく覚えているらしい。

「五月ですか‥‥‥。二つの葬式より前だな」と呟き、更に尋ねた。
「漁船が沈没したのは覚えていますか」
「うん、覚えている。あの船は金洲へいった船だ」

 金洲とは、御前崎沖にある有名な漁場だと説明する。
「それはいつのことでした」
「焼夷弾が落ちたのと、同じ頃だ」

「そうですか。焼夷弾は伊奈田の何処へ落ちたのですか」
「海沿いだ。祠のある崖から、ごろた石の海岸にかけてだった」
 祠が焼けた程度で、集落には被害はなかったらしい。

「終戦の翌年、葬式のときにも船が沈んだそうですが、その現場は何処ですか」
 咲畑が更に尋ねた。

「この、すぐ沖だった。船着場で見送っていた人達の目の前で、転覆してしまったんだ」
 彼も見送っていて、それを見ていたといった。多少波が高かったが、それほど危険とは思われず、事故は操船ミスだったのかも知れなかったが、住民達は祟りだといって大騒ぎしたそうだ。

「もしかすると、そのときも、この音は聞こえてませんでしたか」
「何の音?」年寄りは怪訝な顔をし、何も聞こえないという。
 咲畑は驚いた様子で、勝間田の顔を見る。話を聞いていた者達も、一斉に箸をとめて注目した。

 この音は『いざさ』の主人夫婦にも聞こえてないことが判った。
 食事を終えて、民宿『さわ』へ戻った。
 酒井も一緒にやってきて、全員居間に集まり、咲畑の顔を見ている。

 実をいうと、咲畑自身もどうしていいのか判らない。伊奈田の住民は日の高いうちから外へ出ようとせず、家に閉じ篭っている。そして、食事を作ってくれた『いざさ』の家族も、どこか、おどおどした素振りを見せていた。

 この音が聞こえるのは、よそ者のここにいる人達だけらしい。
「伊奈田の住民達は、この音が聞こえなくとも、明らかに何か起こりそうだと予感している。だから、外へ出ないのだ」

 彼らは、長い年月の間、鬼にコントロールされていたので、この音を感じているが、意識して認識できないだけなのかも知れない。
「彼らは鬼の食料であると同時に、鬼の警護人です。もしかすると、鬼にコントロールされて、我々に敵対するかもしれませんね」

 もし、そんなことが起きたら、住民達の方が圧倒的に人数が多く、想像するだけでも、恐ろしいことになる。かって僧達は伊奈田へやってきて、鬼と闘っている。そして、その時、そんなことが起きたのだろうか。

「可能性は否定できないが、いまのところ、住民達は我々に好意を持って、接してくれている。そうである限り、その懸念は少ないのではないだろうか」

 咲畑は、住民が敵意を持たない限り、鬼はそれを増幅することはできないはずだという。もし、そうなら、これから以後、住民とあまり接触しない方がいいかも知れない。要らぬ言動で思わぬ反感をかわないとも限らないからだ。

「昔の僧達は、何故、法力で鬼に立ち向かったのでしょう」
 何故、彼らは武器を持って立ち向かわなかったのだ。いまの我々のように、鬼の存在が何処なのか判らないためなのか。

 古代から伝わるように「鬼は夜出て姿を見せぬもの」だからなのだろうか。それとも、鬼の力は強大すぎて倒すことができず、僧達は怒りを静めるだけだったのか。

「如何でしょう。微力ながら、私が法力で挑戦してみようと思いますが」
 咲畑は驚いて、住職を見つめた。
 数日前、住職に法力を見せられたとはいえ、蝋燭の炎を曲げる程度の力が闘う道具になるとは思えない。

 僧達がここへ来た時代には、それしか手段がなかったのだろうが、科学の発達した現代においては他に有力な方法があるかも知れないのだ。
 だが、そのためには昔の僧達が鬼に法力で対抗した理由が判らなければならない。

 木村住職の態度には怯んでいる様子は微塵もなかった。もしかすると、咲畑達に見せた以上に力を持っているのかも知れない。
「いえ、私の力は先生が知っている程度のものしかありません。しかし、護摩の力を借りたら、いま少しなんとかなります」

 鬼の祟りがあれで終わりとは思われず、これから、何が起こるのかも判らない。ただ、ここに座っているだけで、解決できるのなら、そうしたいが、そんなことは有り得ない。

 住職のいうとおり、やってみることにした。
 昔の僧達と同じように、お堂で護摩を焚くという。護摩を焚くには大きな炉が必要だ。しかし、伊奈田にあるわけがなく、サンエイ仏商が祭壇用に持ってきた炉を小さいが使うことにした。

 護摩に焚く乳木は、本来、白膠木(ぬるで)材なのだが、これもないので見つけた薪を小さく割って作ることにした。
 お堂のなかで、護摩壇を組んでいる勝間田の脇に、坂上が立った。

「まだ、帰らないのか」
「うん、この霧では、危なくて帰れそうもない。それに、俺達も犯人を早く挙げたい。だから、泊まることにした」
「それなら、手伝え」坂上は腰を屈めて、お堂のなかへ入ってきた。

−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑は田川と公民館にいた。
「これを見てみろ」咲畑は祭壇の脇においてある野道具を取り出した。
「おかしな格好ですね」田川はクスッと笑う。

「桃の格好をしていると思わないか」咲畑は周りの縁を撫でながらいう。
「そうですね。そういわれれば‥‥‥」
 少し、上下に潰れているが、まんなかに棒が渡してあり、桃のようでもある。

 しかし、中央に、ほぼ垂直に先の丸い棒が差し込まれているのは何だろう。
「虫に喰われた桃ですか」
 咲畑は、肯定も否定もせず、それを元に戻した。

 勝間田が護摩壇の用意ができたと告げにきた。
 霧は濃く、夜の暗さが相乗し、ますます視界を悪くしている。
 全員、お堂の周りに集まり、住職の一挙手一動を見守る。

 住職は乳木をくべ、炎が次第に大きくなってくる。九字の印を切り、真言を誦し始めた。動きが激しくなってきたと思ったとき、ふっと真言を誦する声が途切れ、住職は咲畑の方に視線を送る。

 しかし、何も言わず、祈祷を再開した。次第に声が大きくなり、動きも激しくなっていく。お堂を囲むように立っている咲畑達は固唾を飲んで、それを眺めていた。

 時間が経っていく。咲畑は何か変化があるかも知れないと神経を張り詰め、周囲を窺っているが、まだ何も起こらない。隣の田川に目で問いかけてみても、頚を振るだけだった。

 木村住職の躯が少しずつ前後に揺れ始めた。
 勝間田は格子に近づき住職の顔を覗く。
 額と小鬢に汗が流れて、表情が険しくなっており、半眼にとじた目が、ぴくぴくと痙攣を起こしている。

 霧が微かに動いていた。隣の坂上も住職の動作にじっと見入っており、咲畑教授も向こう側から、お堂のなかを覗いていた。

突然、住職がうめき声をあげた。背筋がぴんと伸びきり、仰向けに躯が倒れだす。勝間田はお堂の正面に廻り、住職の躯に飛びつく。辛うじて間に合い、石畳に後頭部をぶつけるのを免れた。

 住職の顔は苦悶の様を呈している。
「御住職‥‥‥」
 咲畑が頬を叩きながら呼んだが、住職は苦しみもがき続けた。呼吸が浅く激しい。

「誰か、ハンカチを‥‥‥」
 酒井が差し出す。田川がそれを受け取り、沢に降りて濡らしてきた。
 咲畑が顔の汗を拭ってやると、次第に落ち着いてきて、呼吸も正常になり、やがて起き上がった。

「いや、迂闊でした。何の準備もせず、突然、入ってしまいました」
 住職は三昧耶に入ってしまったという。そして、再び祈祷に取り掛かかるといって座り直した。

「やめた方がいいのでは‥‥‥」勝間田がいった。
「いや、もう一度、やらして下さい」
 住職は護摩を焚き始め、全員が再び見守った。祈祷は続き、もう、先ほどのようになることはなかった。

 ふと気が付くと、やけに静かになったような気がした。霧に物音が吸収されてしまったような静けさだ。
「消えた。あの音が消えた‥‥‥」咲畑が呟く。

 確かに、耳の奥から響いていた唸りが消えて、異様ともいえる静けさが、辺りを占め始めていた。
 住職の祈祷が効果を上げたのだろうか。だが、あまりにも静かすぎる。

 誰もが、静かすぎる静寂に、不気味さを感じ取っていた。
 住職の祈祷はこのまま夜明けまで続けられる。
 咲畑は集落へ戻ることにした。

 途中、家々の明りは消えており、公民館だけが霧のなかに、ボッと明るい。路地を抜け、畑側の未舗装の道に出ると『いざさ』と『さわ』の辺りだけがやはり明るかった。

 酒井は『いざさ』の前で、皆と別れ玄関を入った。
 厨房の電灯がついており、居間のテレビもつけっぱなしだった。
 いつも、おじいさんが遅くまで見ているので、便所にでもいったのだろうと思い、居間に座り込んだ。

 湯呑茶碗が畳に転がっていたので、拾い上げ、テーブルの上に置く。
 暫く待ったが、誰も現れない。
 テレビを消して、泊まっている自室にいった。布団が敷いてあり、いつでも寝られるようになっているが、まだ風呂に入っていなかった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「手がかりは、やはり、一発屋しかありません」田川がいった。
 あの家全体に、異様な気が漂っているように思える。
「しかし、一発屋が鬼である可能性は殆どなくなった」

 戦中行われた二つの葬式は初七日まで行わなかったのに、何の祟りもなかった。
 焼夷弾が落ちたり、漁船が沈没したのは、その葬式以前であり、何の関係もない。
 そして、二つの葬式が行われたとき、一発屋は伊奈田にいたのだ。

 唯一、可能性があるとすれば、鬼はいつも祟るわけではなく、気まぐれだとする場合だけである。しかし、それも、殆ど考えられないことだ。何故なら、気まぐれであるなら、自分の存在を明らかにする祟りなど起こさないだろう。

「すると、木之元会長しかいない。彼は本当に入院しているのですか」
「入院している。会えなかったが、それは確かめてきた」坂上がいった。
「だが、酒井さんの話では木之元仁一郎は鬼のように思える。そして、戦後、すぐの葬式も彼が鬼だったら説明がつく」

 酒井の又聞きの話である。何か話すのを忘れているかも知れないということになり、田川が酒井を呼びに行った。
 『いざさ』の前までいくと、風呂へ入るのか、手拭を下げた酒井の姿が見えた。
 宿の人に声をかけている。

 玄関を入ろうとして、一瞬嫌な感じがし足を止めた。だが、奥へ戻ろうとしている酒井を見て、慌てて声をかけた。
「酒井さん、咲畑先生がまたお話を聞かせて貰いたいといっています」

「風呂へ入ってから伺うといって下さい」
「判りました」
 酒井は風呂場へいった。蓋を開けて湯加減をみたがちょうどいい。

 伊奈田へ来て今日で六日目だ。
 今回は民話の採集は出来なかったが、興味深いことに気が付いた。
 ここで見聞きしたことは、酒井が過去にあちこちで採録した民話に、どこか似ているところがある。

 どの話に似ていると特定できるわけではないが、田島や咲畑教授の話を聞いていると、なんとなく思い当たることが随所にあるのだ。帰ったら、まとめてある資料と対比してみようと思っていた。

 ふと、おかしなことに気が付いた。
 このきれいなお湯と洗い場の濡れていなかったことを考えると、酒井が一番風呂のように思える。

 客は酒井だけなので、早い時刻であれば当然だが、すでに夜も更けている。
 子供もいることであり、酒井が最初ということはないはずだった。

 お堂から戻ってきて、まだ誰にも会っておらず、先ほど風呂へ入ることを断わりに行ったときも、返事がなかったことを思いだした。

 脱衣所との間のガラス戸越しに何かの気配を感じ、じっと見つめた。誰か、いや、何かがうごめいている。くもりガラスの向こうが徐々に暗くなっていく。暗闇が明りを吸い取るように‥‥‥。風呂のお湯が冷たくなってしまったように感じてきた。叫ぼうとしたが、声が出ない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑は田川が一発屋のことをしつこくいうので、もう一度彼の家へいってみようと思った。発掘のときなども彼のいうことをきいて、思いがけないところから大変な成果をあげたことが再三あるからだ。

「勝間田さん。すみませんが、酒井さんが来たら少し待って貰うよういって下さい」
「判りました。二人だけで大丈夫ですか」
 霧と夜の闇で、視界は数メートルしかきかなくなっている。

「私も一緒にいく。一発屋というのを一目見ておきたい」
 坂上が立ち上がった。
 木部と杉山刑事、勝間田が残った。

 木部は先ほどから落ち着かず、立ったり座ったりしている。彼の予定ではいまごろ東京にいて、高見の見物を決め込むはずだった。それを勝間田に見破られ、咲畑に残るように釘を刺されてしまったのだ。

「風祭さんは何処へいったのでしょうね」木部が外を覗きながらいった。
「あの人は勝手に一人で動き回っている。また何処かで昨日のように動けなくなっているのかも知れない」

 切り通しの崖下で行われた遺体収容の様子を、杉山が話すのを勝間田は聞いていた。
「先生達は帰ってきませんね」木部は不安そうに、また横から口を挟む。
「調べにいったのだから、すぐには戻らないでしょう」

「酒井さんも、まだ来ませんね」心配そうにいう。
 そういえば、とうに風呂から出ていい時刻だった。年寄りだから忘れているのかも知れないと思い、勝間田は腰をあげた。

 『いざさ』に行くと玄関は開け放たれたままであった。声をかけても誰も出てこない。あがっていき、明りのついている客間を覗いた。
 布団が敷いてあるが、酒井はいなかった。

 風呂場へいくと脱衣所のドアが少し開いており、廊下が水浸しになっていた。中を覗くと見覚えのある衣服が脱いであったが、酒井の姿は何処にもない。

 居間へ戻り、家族の寝室の方へいったが、やはり誰もいなかった。
 『さわ』に戻り、『いざさ』の人達が居なくなってしまったことを二人に告げた。

「坂上警部に知らせてきます」杉山は表に飛び出していった。
 木部は真っ青な顔をしている。恐れていたことがついに始まってしまったらしい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 三人は橋を渡った。静寂のなかに沢の水音だけが際だって聞こえてくる。
 どの家も灯が消えており、寝静まっている。一発屋の家の前に立った。
 やはり、異様な気がここにはある。

 戸に手をかけ引いてみたが、鍵がかかっていて開かなかった。
 田川は家の周囲を歩き回り、左側の路地にまわってみた。すぐ脇を川が流れている。
 この路地は田島、渡辺と一緒に以前通ったことがある。衝立状の崖の下を通り祠の脇に抜けでる道だ。

 物置に使われている塀の囲いがあり、歪んだ扉がついている。三人で来たときになかを覗いて、段ボールや木の箱、他に壊れた農機具があったのを見た。

 突然、走って来る足音が聞こえてきて、霧の中から杉山が現れた。そして、『いざさ』の人達と酒井が居なくなったことを三人に告げた。

「酒井さんも居なくなった‥‥‥」
 咲畑は田川に戻るぞと声をかけて、坂上と杉山に続いた。
 田川はなんとなくここを離れ難いような気がしていた。もう少しで何か判りそうな気がするのだ。

 路地の方で何か音がしたような気がした。もう一度聞こえないか、耳を澄ましていると、今度はきしむような音がハッキリ聞こえてきた。
 路地の中でこんな音をたてるのは物置の塀についている扉しかない。

 再び路地へ入っていった。手に持ったライトの光の中を霧が流れていく。
 やはり錠が外れて扉が開いていた。そして嫌な感じがする。
 ほこりを被った段ボールの箱、木箱が見える。左側に石油缶が三個積まれて、その脇に束ねた竹の棒が転がっていた。

 以前に見た様子と変わりはない。
 奥の方へ光を振った。壊れた農機具の間に白っぽいものが見えたので、思わず一歩踏み込む。

 それに見覚えがある。風祭が着ていた服と同じ柄であった。近づいてみると黒褐色の干からびた手足がそこから出ていた。
 田川は大きく息を吸い込んだ。風祭がミイラになっている。

 彼女も自分と同じように、ここに鬼の正体を掴む何かがあると思っていたのだ。そして、ひとりで探りにきてやられてしまったらしい。

 それだけではなかった。その脇に同じ状態になったものが幾つも転がっており、服を着ていないものもある。数えてみると全部で六体あった。

 先生に知らせなければ‥‥‥。
 そう思ったとき、突然大きな音をたてて扉が閉まり、入口にいた田川は中へ弾き飛ばされてしまった。扉は錠が下りてしまったらしく、押してもびくともしない。

 嫌な感じが躯全体を包むように迫ってくる。
 手に持っているライトの光を周囲に振り向けた。それが崖の岩肌を照らした時、何かを認めた。

 確かめようと目を凝らすが、何かが見えそうでいて見えない。
 漆黒の暗闇が光を吸い取りじりじりと広がっていく。
「何だ?」

 咲畑がいっていた「鬼は夜でて姿をみせぬもの」という言葉が浮かんできた。まさにこれが夜の闇にとけ込む鬼の姿なのか‥‥‥。

そう思った途端、恐怖が爆発したように心を覆い尽くし、田川は喚き声をあげて扉に体当りした。
だが、喚き声はでず、そのまま立っているだけだった。躯が動かない。

 古墳で体験した記憶がよみがえり、全身から汗が吹き出した。
 暗闇は音もせず忍び寄ってきている。躯を動かそうと必死にもがいた。
 ライトを持った右手が僅かに動き、石油缶を照らしだした。

 石油缶の蓋が次々と音をたてて弾け、三個とも傾きながらゆらゆらと宙に浮き始める。
 なかの油がこぼれ出し、次の瞬間、それらは唸りをあげて暗闇の中へ飛んでいき、箱や農具にぶつかり大きな音をたてた。

 油の臭いが辺りに充満した。
 暗闇が間近に迫りライトの光が暗くなってきた。  頭が割れるように痛くなり気を失いそうだ。眼の間にバチッと火花が飛び炎がパッと舞い上がった。
 頭の中をあのわんわんという音が絶叫のように鳴り響く。

 躯が解放されたのを知り、残っている気力をふり絞って躯ごと扉に叩きつけた。
 扉が破れ、路地を飛び越し川に転げ落ちた。
 物置は瞬く間に炎につつまれ燃え上がった。田川は気力も、体力も使い果たしてしまった。薄れ行く意識のなか、何故僧達が法力で鬼と闘わねばならなかったのか、今判った。

 鬼と対峙すると躯が動かなくなり、どんな武器でも役にたたないのだ。このことを先生に知らせなければ‥‥。田川の意識は深淵のなかに沈んでいった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑達が『いざさ』にいくと勝間田がなかにいて状況を説明した。
「何処へいったのですか」
 誰も答えられない。

 その時突然、あの鬼の警告音が聞こえたように思った。
「なんだ‥‥‥」全員が耳を押さえる。だが一瞬だけであった。
「何かあったのかも知れない」

 勝間田は住職を思い浮かべた。
 咲畑は田川が居ないのに気付く。自分の後ろから、ついてきていると思っていたのだが、何処にもいない。

 外へ出た。離れずに全員一緒にいた方がいい。
 お堂にいる住職の様子を見てから、再び一発屋の家へいくことにする。
 咲畑を先頭にして、蜜柑畑沿いにお堂へ向かった。

 木部は四人の後ろからわざと遅れ気味にゆっくりとついていく。すぐ前を歩いている杉山の姿が霧と闇のなかに消えて見えなくなると、歩みをとめそこから引き返した。

 こんなところにいつまでもいたら、どんなめに逢うか判らない。
 木部は伊奈田から逃げ出すつもりだった。霧が深く、車の運転は難しそうだが、崖のない戸田方面に向かえば、危険も少ないだろう。そして、逃げだしたことの会社への口実は、あとでなんとでも理由はつけられる。

 それに定年まであと十年もない。どうせ二、三年経てば、閑職へまわされる歳だ。失態を追求されても、嵐が通り過ぎるまで頭を下げていればいい。

 部屋から荷物を持ってこようと、『さわ』へ戻った。玄関のあがり口にスリッパが乱雑に脱ぎ捨ててある。木部はそれを履かずに踏みつけてあがっていった。二階の部屋へいき荷物を持って戻ってくる。

 靴を履こうとして変だなと思った。スリッパが玄関の土間に落ちて散らばっている。先ほどスリッパを踏みつけたが、乱暴に蹴散らした覚えはなかった。誰か帰ってきたのかと思い、居間と厨房の方を見たが、誰も見えない。

 居間の一角が暗いように思えた。
 背筋がスーッと寒くなってきた。こんなところにいつまでも居られない。
 木部は左足を靴に入れ次に右足をと思ったら、靴を踏みつけてしまった。再度履こうとしたが、うまくいかず、そのまま歩き始めてしまった。

 変な歩き方だ。止まろうと思っても止まれず、玄関の敷居に近づいていく。
 跨ごうと思っても跨げない。戸につかまろうとしたが、手も自由が効かず、つまづいて転んでしまった。

 家のなかが次第に暗くなってきた。何かが近づいてくる気配がする。僅かに動く頚をそちらに向けた。廊下に漆黒の闇が広がってこちらへ近づいてくる。何なのだ。
 あれが鬼なのか‥‥‥。鬼が襲ってくる。
 木部は泣き叫んだ。しかし、声も涙もでない。暗闇が足元へ、そして、冷たい感触が足から腰へ登ってきた。下半身が痙れ、感覚がなくなった。

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