○ 七日目−−−−−−−−−−−−−−−−

 渡辺は前方に首を突き出して見えない先に眼を凝らし、懸命に運転していた。ワイパーが眼の前を忙しく動いている。
 とんでもなく霧が濃い。

 隣に、陽一を乗せていた。彼は母親の怪我を知らされ、勤めの帰りに病院へ寄り、そこで付添っている沢田が買物などの足に使えるようにと、自分の車を置いてきた。

 それで、病院にいた渡辺が伊奈田まで送っていくことになってしまったのだ。陽一の様子を横目でちらっと見ると、両腕を抱きかかえ寒そうに震えている。

「渡辺さん、帰るのはよそう」突然、陽一がいう。
「どうして」渡辺は前を見ながら尋ねた。
「恐いんだ」陽一は顔が蒼くブルブル震えている。

 彼の母親のようなことがあったり、古墳で危うく崖から落ちそうになったりして、渡辺も伊奈田へ帰るのは嫌だった。だが、ここまできてしまったのだ。

 車の外を見ると、一瞬、薄れた霧の中に真城峠への道が見えた。ここから伊奈田まで歩いても二、三分でいってしまう。

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 お堂では木村住職が精力的に護摩を焚いて祈祷を続けており、変わりはなかった。
 橋を渡ろうとすると、川を流れる水音以外に激しい音が聞こえてきた。

 霧とは異なる白い煙がもくもくと出ている。更にパチパチと弾けるような音がした。
「火事だ」見ると、既に数軒の家が燃え上がっていた。

「どうして、火が出たんだ」
 田川はどうしたのだろうか。
 煙が渦巻くように霧と混ざりあい、ものすごい熱気が辺りを席捲していた。

 周囲の家ではまだ気付かずに寝ている人もいるはずだと思い、四人は手分けして各家を回ったが、どこも既に避難したらしく、もぬけのからだった。
 これほどの火事なのに、住民の誰も消火にあたっていない。やはり、今夜の伊奈田は異常だ。

「消防車を呼ばなければ‥‥‥」坂上がいって、戻ろうとする。
「離れない方がいい」
 咲畑が引き留め、四人一緒に戻り始めた。

 伊奈田の家屋は密集して建っている。沢の北側にある家は瞬く間に延焼してしまうだろう。
 消防車を呼んでも、たぶん間に合わない。救急車でも、呼んでから一時間半近く経たないと伊奈田に到着しなかったのだ。

 そのうえ、この霧だ。今日はもっと時間がかかるだろう。
 川幅は三メートルほどしかないので、沢の南側に燃え移る可能性も否定できない。

 勝間田は公民館に飾ってある祭壇を思い浮かべた。あの祭壇が燃えてしまったらサンエイ仏商は大損害を被る。しかし、葬儀の途中であり、いま分解して避難させるわけにもいかない。そんなことをして、類焼を免れた場合、店の信用はがた落ちになってしまう。

 橋を渡り返したとき、車の走る音が聞こえた。
「誰だろう」
 勝間田は木部の姿が見えないので、車で逃げだしたのだと思った。

「でも、海岸の方へ走っていったように思えましたが」杉山が言う。
 消防車を呼ぶため電話を借りようと思い、坂上は橋のたもとにある民家のドアを叩いたが、誰も起きてこない。

「誰もいないのかな‥‥‥」
 杉山が隣の家へいってたたき起こしたが同じだった。
 四人は石畳の道を避け、再びお堂の前を通り、民宿『さわ』へ向かった。

 お堂の近くを通るとき、住職の祈祷の声が聞こえていた。民宿の前まできて玄関の敷居の上に、何かが転がっているのを見つけた。もみくちゃになった背広だ。裾や袖口から茶褐色の干からびた手足が、そして頭髪が見えた。

 この背広に見覚えがある。
「木部さんだ」
 木部が公民館の遺体と同じ状態になっている。鬼にやられたに違いない。

 四人は後ずさりをして、慌ててお堂の方へ逃げた。
「木部さんではないとすれば、さっきの車の音は、誰なんだろう」杉山が言う。
 勤めに出ていた人が帰ってきたのかも知れなかったが、時刻的に遅すぎる。

「陽一君ではないか」咲畑がいった。
 今夜はまだ勤めから帰ってきていない。たぶん病院へ寄り遅くなったのだ。もし、そうなら民宿『さわ』へいくだろう。あの近くに鬼がまだいる。止めなければならない。

「杉山さんは先生とここにいて下さい」
 勝間田と坂上は石畳の道を用心しながら、小走りに駐車場へ向かった。

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 駐車場にとめた車から、陽一はなかなか降りようとしない。
「何をそんなに恐がっているんだ」
 渡辺も恐しかったが、自分より恐がっている陽一を見ていると、つい強がりの言葉が出た。

 陽一がようやく車から降りた。ほんとにひどい霧だ。
 護岸の外側にある外灯の光が全く届いてこない。ライトで足元を照らしながら護岸沿いにいく。

 風もなく波の音が微かに聞こえるだけである。海岸から離れ、未舗装の道を行くと霧のなかにぼんやりと『いざさ』と『さわ』の明りが見えてきた。『いざさ』の前を通ると玄関が開けっ放しになっている。

 なかに人影がなく、変だなと思った。
 『さわ』へ行くと玄関に何かが落ちており、髪の毛が見えた。覗き込むと眼が落ちくぼみ鼻が尖っているミイラだった。
 渡辺は意味のない喚き声をあげて逃げだした。

 陽一も走った。二人は一気に駐車場まで戻り、車にもぐり込んだ。
 あのミイラは誰か判らなかったが、鬼に喰われたものだ。きっと社長や咲畑教授は鬼にやられてしまったのに違いない。

 とんでもないところへ帰ってきてしまった。陽一は隣に座ってガタガタ震えている。渡辺も手が震えてキーがなかなか差し込めない。やっとエンジンがかかり、護岸沿いに走りだした。

 前方がやけに暗くヘッドライトの光が届かなくなってきた。
 曲がり角が判らないのでブレーキを踏もうとしたが、足がアクセルに張り付いたまま離れない。ハンドルも切れなくなっていた。

 古墳での記憶が呼び起こされてきた。
 鬼だ。鬼が近くにいる。
 車が護岸のコンクリートに触れ火花が散り、反対側に弾き飛ばされた。

 眼の前に松の木が迫り、激しい衝撃がきた。渡辺はハンドルに胸をぶつけ、陽一がフロントガラスに突っ込み、ガラスが粉々に割れた。

 渡辺の足はまだアクセルを踏んでおり、エンジンは唸りをあげている。ヘッドライトもついたままだった。陽一は半身を外に乗り出し、エンジンルームの上におおいかぶさるようにして全く動かない。

 ヘッドライトの光が徐々に暗くなってきた。何かがフェンダーのあたりにうごめいている。そして真の闇が眼の前を覆い始めた。
 陽一の躯がずるっと音を立てて動く。徐々に、徐々に少しずつ闇に飲まれていった。

 渡辺の手はハンドルを握り、足はアクセルを踏んだままだ。座席に座って指一つ動かせない。
 次はこっちにくる。
 恐怖が極限に達して意識が朦朧としてきた。

 突然、ボンという鈍い音がし眼の前に炎が上がり、頭のなかを蜂の巣をつついたような音が駆け巡った。
 熱さに思わずハンドルから手を離す。躯が自由に動き出した。

 エンジンルームが燃え上がっており、炎が車を包み始めた。
 車から転がり出て、眼の前の階段を海へ駆け下った。燃えている上着を脱ぎ捨て、くすぶっているズボンの裾の火を海に入って消そうとした。

 だが、また躯が動かなくなってしまった。背後がスーッと冷たくなるのを感じる。
 鬼が後を追ってきたのだ。

 躯を懸命に前へ倒すと足が小刻みに進みだした。ズボンの裾が燃え上がっているが、何故か熱くない。波打ち際まであと少し。進まない足を懸命に進めた。ついに足元が波に洗われ出し、足をすくわれ前に倒れた。

 渡辺の躯は退いていく波に乗り沖へ出ていった。躯をよじり仰向けになる。真っ暗闇であった。近くに鬼がいる。躯はまだ金縛りにあったように動かず、波間を漂うだけであった。鬼が海の中まで追ってこないよう祈るだけだ。躯が少しずつ沖へ流されていく。

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 勝間田と坂上が石畳の道を走ってきて駐車場に出ようとしたとき、爆発音が聞こえた。
 篭ったような音だったので、どちらの方向からだったのか判らなかった。

 二人は止まっている車を一つ一つ調べていく。
 誰もいなかった。駐車場に止めずに民宿へ回ったのかも知れない。
 二人が護岸沿いに歩いて行くと、霧の中で車が燃えていた。

「私の車だ。渡辺が乗っていったんだ」
 ナンバーを確かめて勝間田はいった。なかには誰も乗っていない。
「こっちに誰かいる。鬼にやられたらしい」

 車の前にミイラ状の死体が一つ転がっていたが、服装から渡辺ではない。
 護岸から海へ降りる階段があったので、上からライトをあてると、途中に黒いものが見えた。

 拾い上げてみると渡辺の上着だった。一部焼け焦げていて、まだくすぶっている。
 海岸沿いに逃げたのかも知れない。

 二人はごろた石の海岸を船着場の方向へ探しながら戻った。
 何も見つからないまま、船着場の突堤をよじ登った。
 外灯が霧に霞んでいる。

 突堤の先端部は波よけのため、南側が二メートルほど高くなっていて、人の歩ける幅が狭くなっている。坂上が先端まで行き海を照らしていた。
「海のなかへ、逃げたのではないかと思ってな‥‥‥」

 一緒に、海面を照らしてみたが、霧が濃くて、ほとんど足元しか見えない。
「戻ろう」
 突堤のなかほどまで戻って、坂上がついてこないのに気付き、
「どうしたんだ」と声をかけたが返事がない。

 引き返してみると坂上がライトをこちらに向け、ただ立っている。
「おい、戻ろう」やはり返事がなかった。
 坂上の顔は無表情で、眼が激しく動いており、額と鼻に汗が吹き出ていた。

 古墳で見た渡辺の表情にそっくりだった。
 鬼だ。鬼がきたんだ。躯中の毛穴が急激に閉じるのを感じ、かーっと全身が熱くなってきた。

 鬼は何処からくるのだ。見まわすと先ほどまで微かに届いていた外灯の光が消えて霧の後ろに闇が広がっていた。
 ミイラにはなりたくはない。
 陸上に戻る方向から鬼は近づいてくる。海へ逃げるしかなかった。

「おい、海へ突き落とすからな。躯の力を脱いて仰向けになって浮いていろよ」
 坂上の表情は変わらず、勝間田のいっていることを理解したか判らない。

 かまわず坂上の肩に手をかけ後向きのまま突き落とした。大きな水音をたてて落下した坂上の躯は速い潮の流れにのり、すぐ霧の中へ消えていった。

 勝間田は突堤のなかほどまで戻り、ライトで先を照らして様子をうかがった。
 霧の後ろに暗闇があり、異様な静けさが辺りを支配して、打ち寄せる波の音も聞こえなくなっていた。

 明らかに何かが霧のなかを近づいてくる。
 じりじりと後退をしながら、鬼の姿を捉えようと霧の向こうを窺う。ライトの光が次第に届かなくなってきた。

 霧のなかへ光が消えていくような感じだ。眼の前にきているはずなのに、鬼の姿は全く見えない。
 スーッと暗闇が退いていき、ライトの光が先を照らしだした。

 どうしたんだ。一歩踏み出して、ライトを突き出してみたが、船着場のコンクリートが見えるだけだった。鬼がいなくなってしまった。

 坂上を海に突き落としたのははやまったかと思い振り返った。
 その時、ライトが波避けの壁を照らし何かが動くのを捕らえた。
 壁の上に漆黒の暗闇があり、頭上に急速に広がりつつあった。

 髪の毛が逆立った。
 鬼は正面からでなく頭上から襲ってきたのだ。海へ飛び込む隙がない。
 ライトを闇にぶつけるように投げ捨て岸壁沿いに躯を倒した。

 肩のあたりから落ちて、したたか海水を飲んでしまった。
 続いて頭越しに大きな水音があがった。鬼も勝間田を襲いながら海へ入ってきたらしい。移動しなければ鬼に見つかってしまう。大きく息を吸い込み深く潜った。

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 咲畑と杉山は畑の近くで座り込んでいた。
 駐車場を見に行った二人が帰ってこない。次から次へと人がいなくなってしまう。風祭は明るいうちからいなくなってしまい、田川も霧のなかでいなくなった。

 そして、酒井も『いざさ』の人達もいなくなってしまったのだ。木部のように何処かで鬼にやられてしまっているのかも知れなかった。
 伊奈田の住民達は家に閉じ篭っているのだろうが、あてにはできない。残っているのはここにいる二人とお堂に篭っている住職だけであった。

 消防車も早く呼ばないと火事が広がる恐れがある。
 鬼が他へ行ってしまったかも知れないので、もう一度、『さわ』へ戻ってみることにした。

 二人は蜜柑畑に沿って集落へ戻り始めた。『さわ』の明りが見えてきた。
 木部の遺体を避けてなかに入った。杉山は居間の電話を取り上げる。
 暗闇が気になり咲畑は外へ出た。

 『いざさ』を覗いてみたが、やはり誰もいない。戻ると杉山が受話器を置くところだった。
「消防車はすぐくるそうです。この霧だから、二、三時間かかってしまうかも知れません。それから、署にも応援を頼みました」

「夜が明けてしまうな」咲畑は時計を見ていった。
 二人は『さわ』を出て再びお堂に向かう。
 咲畑は自分が興奮しているのに気が付いた。人が次々といなくなり、次は自分の番かも知れないという状態の時なのに‥‥‥。

 いつもの自分であったら意気消沈し、怯えて逃げだしているだろう。
 鬼をやっつける目算などまったくないのに、なにくそという闘志もなくなっていない。どうしてなのか判らなかった。

 並んで歩いていた杉山がいない。振り返ると、彼がおかしな歩き方をして蜜柑畑のなかへ入っていこうとしている。そのまま茂っている枝の中へ顔から突っ込んで行き、倒れてしまった。

「どうしたっ」駆け戻って、うつ伏せになっている杉山を抱き起こした。
 全身に力が入って躯が固くなっている。顔が全く無表情で眼だけが激しく動き何かを訴えているようだ。口を開けて何かいったが、音だけで言葉にはならない。

 躯を激しく揺さぶってみたが、何の効果もなかった。
 田川の古墳での話しを思いだした。鬼のせいだ‥‥‥。
 突然、頬から首筋にかけて毛穴が逆立つような感じを受け、本能的に躯が動いて蜜柑畑のなかへ転がって逃げた。
 蜜柑の木を盾にしてライトの光を向ける。漆黒の闇が杉山の躯にのしかかっていくのを瞬きもせず、じっと見つめた。

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 勝間田は真っ暗な海を泳いでいた。
 潮の流れは岸と平行に北の方向へ流れている。
 船着場で鬼の正体を見てやろうと試みたが、何故かライトの光が暗闇に遮られてしまい成功しなかった。

 教授がいっていた「鬼は夜出て姿を見せぬもの」そのものだった。
 水をかく足に岩が触れた。岸に近くなったらしい。
 四つん這いのまま岸に上がっていく。駐車場の北側に続くゴロタ石の海岸らしい。

 手探りで進み、やがて川口に到達し、駐車場に上がった。
 渡辺の車へいって備え付けの携帯ライトを取り出す。
 船着場へ出る護岸の切れ目にいくと、外灯が霧のなかに明るくともっていた。鬼は近くにいないらしい。

 雑貨屋があるのを思いだした。確か、家の脇に空き瓶のケースが積んであった。
 近くのごみ箱から破れていないポリ袋とぼろきれを見つけて、二つのポリ袋に入るだけの空き瓶を詰め込み駐車場へ戻った。

 車の中からホースを取り出し、ガソリンタンクの口を開けガソリンを吸い上げた。サイホンの原理でホースの口からガソリンが流れ出す。それを次々と瓶に詰めていく。

 火炎瓶を作るつもりだ。
 先ほど炎上している車と渡辺が逃げたらしい痕跡を見て思い付いた。たぶん、渡辺は車が燃え上がった隙に鬼から逃げだしたのだろう。ということは鬼が火に弱いかも知れないのだ。

 最後にぼろ布を口に詰めてできあがった。
 ポリ袋に入れて両手に持ったが、とんでもなく重い。
 これでは持って走れない。

 石畳の道を戻りながら、道の脇に瓶を置いていくことにする。これなら集落の何処へいっても、すぐ手にすることができる。

 公民館の前を通り過ぎ、集落の端までいって戻ってくる。
 先刻別れた地点に、教授と杉山はいなかった。集落の北側にいって火事の様子を見ると、橋の近くの家が燃えていたが、まだ沢のこちら側には燃え移ってない。なんとか持ちこたえてくれればと思った。

 南側に燃え移ったら瞬く間に、公民館まで火がくるだろう。そうなれば祭壇も燃えてしまう。
 誰か消防署に連絡したのだろうか、まだ連絡してなければ、自分がやらなければならない。

 再び公民館の前を通り、路地へ入って蜜柑畑の脇を通る未舗装の道に出た。
 『いざさ』の明りがぼんやり見えた。道の脇に瓶を置いていく。
 手持ちが五本になり、これだけは持って歩くことにする。

 電話をかけようと思って『さわ』へ入りかけると、道の向こう、霧の切れ間に何かが見えた。いってみるとスーツを着たミイラだった。服装から判断して杉山刑事のようだ。やはり彼らも鬼に襲われたのだ。

 教授は逃げたらしい。
 蜜柑畑のなかを照らしながら道沿いに歩く。微かに奥の方で葉の擦れる音がした。
 勝間田は躊躇せずライターで瓶に火を付け投げ込んだ。

 火の手はあがらない。もう一本投げ込んでみたが、やはり駄目だった。畑の土が柔らかく、瓶が割れないのだ。

 咲畑は蜜柑畑の中を巧みに逃げ回っていた。
 畑の中は枝や葉が密生していて、見えなくとも近付いて来る鬼が音で判る。
 奴も広いところのように音もなく近寄って来ることはできないようだ。

 従って、鬼も超自然的存在でないことが判ってきた。しかし、体力がいつまでも続くわけではない。何とかしなければと思うのだが、何もできなかった。

 右の方で音がした。
 咲畑は枝や葉に触れないようにして、左の方へ移動していく。
 杉山刑事は鬼に動きを封じられて襲われてしまった。木部も同じようにやられたのだ。

 田川も古墳で似たような目にあっている。だが、自分は自由に逃げ回っていて動きをとめられていない。鬼が何故そうしないのか不思議だった。
 突然、火のついたものが咲畑の隠れている木の向こう側に落ちてきた。

 続いてもう一つ、右側に落ちてきたので移動してそれを拾った。火炎瓶だった。
 誰かがここに鬼がいることに気付いて投げ込んだらしい。
 もう一つの方も拾い上げようと思い、そちらへいくと火炎瓶の向こうの枝が、ガサッと揺れた。

 ライトを向けると、木の間から、にじみ出すように漆黒の闇が広がりだして、ジリジリと近付いてくる。手の火炎瓶を握りしめた。
 畑のなかで投げても、火炎瓶が燃え上がらないことは、いま投げ込まれたときに判っている。

 地面が柔らかすぎるのだ。
 木の幹に当たれば瓶は割れるだろうが、枝や葉が邪魔していてできそうもない。ここで燃え上がらせる方法は一つしかなかった。

 しかし、この位置からでは無理で、もっと近付かなければならない。
 火炎瓶を握り直し暗闇に近付いていった。向こうも獲物を狙う獣のように不気味に静かに接近してくる。

 ライトの光が暗黒の闇に吸い取られるように暗くなっていく。
 落ちている火炎瓶が間に入るように左に移動する。
 その瞬間、暗闇がのしかかるように襲ってきた。

 手に持った火炎瓶を力一杯投げつける。
 狙いは違わず地面に転がっている火炎瓶に命中して、一瞬のうちに火は八方へ飛び散り、蜜柑の木が音をたてて燃え上がった。

 頭の中で絶叫が鳴り響き、一陣の風が吹き抜けるように蜜柑畑がざわめいた。
 咲畑は飛び散って躯についた火をころげまわって消した。鬼が逃げ出した。

 勝間田は火ばしらの上がった蜜柑畑の中から、黒い風が飛び出していったので呆然と見送くる。続いて真っ黒な顔をした咲畑が出てきた。
「鬼は、どっちへいった」

「鬼‥‥‥」
 いまの風のようなものが、そうであったことに気付いた。
「こっちです」畑のなかを横切って石畳の道の方向へ向かった。

 歩きながら火炎瓶に火を付けて教授に手渡す。
 畑を抜けて石畳の道に出た。暗闇がいたるところにあり、二人は注意深くライトの光で一つ一つ確認していく。

 火事の熱気のせいか先ほどより霧が薄くなっていた。
 勝間田は道の端に置いた火炎瓶を拾い上げてポリ袋に補充しながら進む。
 公民館の近くまできた。

 三日前幻覚を見せられた大木を見上げる。ライトの光を幹の陰にあて下から少しづつ上に持っていった。光が一番下の枝まで届いたが何もいない。更にその上を照らそうとしが、遠すぎて光が届かない。

 前を行く勝間田がその下を通り過ぎようとしていた。咲畑はもう一歩近付いて光をあてた。暗くて枝の上が見えそうで見えない。
「上だ。危ないっ」

 咲畑が叫びながら火炎瓶を投げつけた。枝にあたって炎がパッと散り、火が雨のように降りそそいできた。
 勝間田はとっさに転がってそれを避けた。
 石畳に何かが落下して大きな音をたてた。

 勝間田は立ち上がりざま持っていた火炎瓶を投げつけた。
 更に炎が大きくあがり、黒い影が石畳を走っていく。
 最初に飛び散った炎で、手に持ったポリ袋の火炎瓶に火がついていた。

 二人はそれをとって走っていく暗闇に投げつけた。炎はその前に後ろに音をたてて炸裂する。公民館の前の道は火の海となった。

 向こうの道路上で弾けるような音がし、新たに炎があがる。道路脇に置いた火炎瓶に引火しているらしい。
 やがて火勢がおさまって、二人は煤とガラスの破片が散らばった石畳の上をライトで照らしながら歩き始めた。

 動転してめちゃくちゃに火炎瓶を投げてしまったが、幸いにも、どの家の板壁も焦げた程度で済み、二人は胸をなでおろした。
 霧が濃かったせいで、家の壁や塀が湿っていたからだろう。

 鬼は何処にも見えない。奴が逃げる前に道の先は燃え上がっていたので、海の方へ逃げたはずはない。同様に路地にも到達できなかったはずだ。そして、二人のいる方向にはこなかった。

 空を飛んで逃げたのでなければ‥‥‥。
 二人は開けっ放しの公民館を見た。鬼はあの中へ逃げ込むしかない。
 勝間田は路地に置いた火炎瓶を拾ってきた。

 公民館へ入り、見渡したが、襖の陰や祭壇の脇、何処にも暗いところは見あたらない。玄関以外の出入り口は窓も含めてすべて鍵がかかって閉まっている。この中でないとすれば、あの火が燃え盛る中、何処へ逃げたのだ。

 燭台の蝋燭が残り少なくなり消えかかっていた。
 ふと、先ほど考えたことを思い出す。北側の火事が広がり、こちらに燃え移ってきたら、間違いなく公民館も燃えてしまう。

 咲畑先生は既に消防車を呼んだというが、ここへ到着するにはまだ時間がかかる。その間に火はあんな幅の狭い川など渡ってきてしまうかもしれない。

 サンエイ仏商はここにあるものを含め、全部で七基の祭壇を所有しているが、いずれも新たに購入すれば数百万円もする高価なもので、半数以上はまだローンの支払いが残っている。

 一基でも焼失したら店の経営にも、そして、これからの店の存続にもかかわる大きな痛手となる。なんとかしなければならない。こんなことをやってはいられないのだ。沢までいって火をくいとめようと思った。

 勝間田は持っていた火炎瓶を全て畳の上に置いた。
「どうしたのですか」咲畑が尋ねるので、その事情を話した。
「そうですか。それは大変ですね。でも‥‥‥」

 咲畑は、勝間田の深刻な表情をみて口をつぐんだ。咲畑も火事は南側にも延焼する可能性は大きいと考えている。
 一緒に外へ出た。
 勝間田は歩きながら少し変だなと思う。何かおかしいような気がする。

 祭壇を救いたければ解体して火のこないところへ持っていけばいいのだ。先ほどもそう思っていたが、客の信用を得ることの方が大切だと考え諦めたのだった。しかも、沢のところで火事を止めることなど、一人や二人でできることではない。

「畜生め。何やっているんだ」立ち止まって呟く。
 咲畑は勝間田の独り言を聞いて怪訝な顔をする。
「鬼が何処にいるか判りましたよ」

 咲畑は勝間田の態度がころころと変わるので、わけが判らない。
 公民館へ戻っていく勝間田のあとに続いた。今度は靴を脱がずに上がっていく。

 勝間田は祭壇の前でライターを取り出し、畳の上に置いた火炎瓶に次々と火をつけていった。そして、両手に火炎瓶を持って立ち上がり、無造作に祭壇の両わきをめがけて投げつける。

 炎が一瞬のうちに舞い上がった。
「何するんだ!」咲畑は驚いた。
 たったいま祭壇が焼失すると非常に困るということを聞かされたばかりである。

 そして、このままでは公民館が燃えてしまうではないか。

「奴は祭壇のなかに隠れているんですよ。公民館など、また旭日屋に建てて貰えばいい。鬼が退治できればそのくらいの出費には目をつぶるでしょう」
 勝間田はそういいながら、火炎瓶を放り込み続けた。

 鬼は祭壇のなかに隠れていて、火炎瓶の攻勢をかわすため、勝間田の心のなかにある祭壇に対する葛藤を自分の都合のいい方へ増幅したのだ。それで、先ほどあんな考えにとらわれてしまったらしい。

「危うく引っかかってしまうところでした。それに、消防車はたぶん間に合わないでしょう。どうせ祭壇が焼失してしまうのなら、自分の手で燃してしまった方が諦めがつきます」

 炎は天井にとどき嘗めるように広がり出し、一気に熱気が襲ってきた。二人は後ろへ下がり、燃え上がる祭壇をじっと眺めた。火は襖にも移り部屋全体が燃えだした。

 突然、祭壇が大きな音をたてて揺れ始める。鬼が逃げだそうとしてなかで暴れているらしい。開いている両側は火炎瓶を何本も投げ込んで最も火勢が強くなっており、逃げ出せなくなっている。祭壇の振動は暫く続いた。

 勝間田はハッと気付いた。鬼を夢中で追いかけて、やっつけることだけを考えていたが、自分は大変なことをしているのだと‥‥‥。鬼は姿を借りているとはいえ人間なのだ。自分は人殺しをやっている。

 火勢が一気にあがり祭壇本体が燃え出し、炎がおかしな動きを始めた。何かを形作っているように見える。
「何だ‥‥‥」二人は炎の熱気を忘れじっと見入っていた。

 輪郭ができ何かの顔ができあがったと思った途端、それはズームレンズで拡大するかのように二人を襲ってきた。
 勝間田は避けようとして畳の上に転がり、咲畑は襖にぶつかってそれを倒した。

 全身が熱くなってくる。更にとてつもなく熱くなってきた。
 勝間田は自分の躯を見回したが、別に火がついたわけではない。それなのに全身に皮膚が焼けただれるような痛みが走っている。

 外へ飛び出した。咲畑も続いてくるが、同じように苦しんでいる。海へ飛び込んで火を消さなければ‥‥‥。
 二人は石畳の上を海に向かってよろめきながら走り出した。非常に苦しく海に到達できそうもない。

 勝間田はついに膝を折り石畳の上に倒れた。意識が次第に遠くなっていく。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 石畳の上に倒れているのに気が付いた。
 勝間田は目をあけて目の前を勢いよく流れている水を見ていた。雨が激しく顔を叩いている。

 既に夜が明けていて隣に咲畑教授が倒れていた。肩に手をあてて揺するとすぐに気がついた。二人は黙ったままどちらからともなく、公民館の方へ戻り始めた。

 公民館にきてみるとまだ火はくすぶっていたが、建物は半分燃えただけで残っていた。この雨が消火してくれたらしい。
「終りましたね。結局、鬼は誰だったのですか」勝間田が尋ねた。

「判らない。しかし、何であったのか想像はできるかもしれない」
 咲畑の態度は曖昧で自信なさそうであった。
「たぶん、鬼は一発屋でも木之元仁一郎でもない。但し、二人とも鬼の存在に全然無関係だったとは思えない」

「彼らのなかに、鬼が棲んでいるということですか」
「いや、そんな意味ではない。酒井さんの話を覚えていますか‥‥‥」
 酒井の話では木之元仁一郎が泊まった宿で腐るはずのないものが腐っていて、しかも箱根の宿では化物騒ぎまで起こった。

 そして、彼が復員してきたあとに起こった、祟りと思われる船の転覆事故。そのことから彼が鬼ではないかと疑ったのだが、それでは我々が伊奈田にきてから起こったことの説明がつかない。

 木之元仁一郎が現在東京にいて鬼は伊奈田にいたということは、我々がこの目この耳で確かめたことだ。従って、これは間違いのない事実で明らかに彼は鬼ではない。

「すると、酒井さんの話は間違いですか」
「いや、そうではない。酒井さんの話も、恐らくほんとのことでしょう。そうすれば考えられるケースは一つしかない」

「そうか、鬼が木之元仁一郎と一緒にやってきたということになりますね。でも、誰の目にも触れずにどうやって‥‥‥。彼は一人で復員してきたはずですよ」

「最宝寺のことを思いだしてみて下さい」
 木之元仁一郎は石櫃を作るために最宝寺に滞在した。
 住職は木之元がなかに魚介類を入れているのを見て、石櫃を冷蔵庫替わりにして、お土産にするのだろうといったそうだが、伊奈田は伊豆の海にあり、あの当時でも魚介類は豊富にあったはずだ。そんなものを土産にするはずがない。

 だから、我々はそれを鬼が、すなわち木之元仁一郎が食べるのだろうと思った。
「新鮮な魚介類は確かに鬼の食い物だったのには違いない。しかし、木之元が食べるためではなかった」

「すると鬼は石櫃のなかに入れて運ばれたのですか‥‥‥」
「そういうことになる。鬼が要塞のなかにいたんだ。そして、木之元仁一郎はそれに操られてしまったのだろう」

 要塞には他に大勢の兵達がいた。そのなかから、なぜ彼が選ばれたのかだが。決して無作為に選ばれたわけではないと思う。
「おそらく、勝間田さん、あんたが指摘した脳波のせいではないかと思う」

「鬼は昔から伊奈田にいたのでしょう。彼と共にきたのであれば、それ以前にはいなかったということですか」
「たぶん、そうだ。但し、ずっといなかったということではない。なんらかの理由で終戦時にはいなかったのだ。そして、鬼は木之元仁一郎を使ってやってきた。伊奈田の環境は鬼にとって存在し易い場所なのだろう」

 例えば、獣や鳥に繁殖に適した土地があるように、鬼が生きていくための条件が揃っているところかも知れない。鬼もそのためにここへやってくる。
「待って下さい。それでは、鬼は人間ではないというのですか」

「うん、私が蜜柑畑で鬼と対峙したとき、人間でないような気がしたのです。それに、あの川の中に埋もれている石櫃の中に入ってきたとすれば、明らかに人間ではありません。あんな小さいスペースに例え子供であっても入れないでしょう」

 いまはまだ火が残っていてできないが、焼け跡を探せばはっきりするだろう。
 その証拠は他にもある。要塞のなかで発見された奇妙な穴、そして、海岸の祠の中に祭られている石だ。

 要塞で発見された穴は中が磨いたように滑らかだったそうだ。祠の石も片側がガラスのように光っている。あの石は伊奈田の何処かにある同様な穴の一部ではないだろうか。昔の人が発見して、かけらをあそこに祭ったと考えられる。

 そして、その穴は鬼が棲んでいる巣穴かも知れない。
「このことは、勝間田さんに見せて貰った野道具から気が付いたんだ。あの葬具は全体が桃の格好をしている。そしてまん中に棒が差し込んであった。その棒を鬼の巣穴に例えると桃で封じ込めているように見える」

 おそらく、古代人は鬼から死者を守るためのまじない道具として、あの葬具を使ったのかもしれない。もちろん、その頃のものはあんな抽象的な形ではなかったのだろうが、それが、いまでもあのような形で伊奈田に伝わっていたのだ。

 勝間田はうなずいていたが、まだ納得できない疑問が沢山残っている。
「木之元仁一郎が連れてくる前には、本当に鬼はいなかったのですか」

「うん、戦中の二つの葬式がなんでもなかったことを考えたら、いなかったとするのが妥当だろう。人間より長いか短いかは知らないが、鬼にも寿命があってしかるべきだ。だから、以前話したように、鬼は断続的に伊奈田にいたのかも知れない」

 すなわち、棲んでいた鬼がいなくなるとまたどこからか別の鬼がやってきて棲み着く。
 伊奈田の環境がそうさせるのだろう。

 ふと、咲畑は祠のある位置から鬼の巣穴はあの衝立状の崖の上にあるのではないかと思い付いた。
 そして、あの辺りに落ちた焼夷弾で、それまでいた鬼が偶然焼け死んだとしたら・・・・。

 米軍の使用した焼夷弾は、そのひとつが空中で沢山の子爆弾に別れて落下してくる。それが、ほこらのある衝立状の岩付近にばらまかれたように落ちたとすれば、一つが鬼の巣穴にたまたま落ち込んだことも有り得るのだ。

 そうだとすれば、戦中の二つの葬式に祟りがなかったこともうまく説明できると思った。
「鬼はいつも木之元仁一郎を利用したようにして、ここへ来るのですか」

「それは判りません」
 いつも人間を利用するのか、他の手段に依るのかは他に判断材料がないので、推測のしようがない。

「木之元仁一郎は自分が鬼をここへ運んだことを知っていたのかも知れませんね」
 彼が鬼に操られていたとしても、全く記憶に残らないなんてことはないと思うのだ。

 旭日屋が迷信でないことを知っていたとすれば、それは十分考えられることだった。
 また、この話が事実とすれば、鬼は要塞で見つかったように何処にでもいる可能性がある。それならば、過去にも鬼の存在を示す出来事があってもいいはずである。

 いままで、勝間田はそんな話は聞いたこともない。他に証拠がなければ、教授得意のただの仮説に過ぎない。

「あるかもしれません。まだ、一発屋のことを話していません。酒井さんが伊奈田にやってきたことも、それと関係あるのかも知れません」
 咲畑は考えをまとめるからもう少し時間が欲しいという。

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 激しい雨が水面を叩いている。
 渡辺は暗い海の中で偶然見つけた水面下にある岩につかまって、潮に流されないようにしている。

 とうとう夜が明けてしまった。寒くて歯の根が合わず必死に耐えていた。
 雨に煙っているが、伊奈田の海岸はよく見える。
 人影は見えず、伊奈田がどうなっているのか全く判らない。

 あんな恐ろしい目には二度と遭いたくない。そう思うと海からあがる気になかなかなれなかった。
 しかし、寒くてたまらず、とうとう岸に向かって泳ぎ始めた。

 ゴロタ石の浜を船着場の方へ移動し、突提に登って反対側を見渡すと岩の上に誰か座っていた。渡辺と同じように頭から爪先までびしょ濡れである。坂上だった。

「無事だったのか」そばまで来た渡辺にいう。
 坂上も同じように海のなかで夜明けを待っていたらしい。

 石畳の道に出ると駐車場の方から、二人と同じような格好をした田川がやってきた。三人は石畳の道を集落のなかへ歩いていった。

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 消防車はまだこないが北側の火事もこの雨でおさまったらしい。
 咲畑と勝間田は濡れた衣服を脱いで絞ろうと思って公民館の中へ入って行くと、焼け残った座敷に、人が大勢いるのでびっくりした。

 北側の住民達だった。山の方に避難をしていたがこの雨を凌ぐためここへ戻ってきたらしい。なかに、一発屋の大きな頭も見える。

「先生」
 呼ぶ声に振り返ると田川と坂上と渡辺が入口に立っている。
「無事だったのか」咲畑の口調が明るくなった。

「鬼はどうしたのですか」
 咲畑が焼き殺したことを話した。
 そして、田川が、風祭と他に鬼にやられていた人達のことを告げた。

「『いざさ』の家族と酒井さんだ」と咲畑が言う。
「住職は?」坂上が尋ねる。
 木村住職のことを忘れていた。最後に見たときはまだ祈祷をしていたのだ。

 急いで雨の中を全員でお堂へ向かった。
 お堂が見えてきたが、なかが暗い。灯明の蝋燭が消えており、護摩壇の火も見えず、祈祷の声も聞こえなかった。嫌な予感がしてくる。格子の外から覗いてみると住職がうつむき加減で座っていた。

「ご住職‥‥‥」咲畑が声をかけたが返事がない。
 勝間田が扉をあけると住職の背中が徐々に倒れてくる。
 慌てて手を出して支えた。

 住職が静かに目を開いた。
「夜が明けたようですね」そういいながらあくびを噛みしめ立ち上がった。
 誰も何も言わず、ただ住職の顔を見つめていた。

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