はやし浩司

友人から01-5-7
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友人からの手紙

友人からのメールを
紹介します。

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はやし浩司様へ
田丸謙二
(東京大学元副総長、2000年日本学士院賞受賞者、メルボルン大学時代の恩師)

 お送り下さった資料面白く拝見しました。 それなりに大変結構ですが、ただ
年寄り向きではないな、と感じました。 皆一生懸命生きても、歳をとれば寝た
きりになることもあるし、どうしようもないことが沢山あります。 子供に頼らなけ
ればいけないこともありえます。 それがいけないこととも思いません。 老人ホ
ームが理想ではないのです。 皆ができる範囲で助け合うのが世の中です。 
まして親子は尚更です。 皆別々に一生懸命生きればすむ話だけではないの
です。 今更言うまでもないことですが。 尤も当たり前のことばかり書いていて
はいけないことも解りますが。 毎日が健康であることだけでも、そして生きるこ
との素晴らしさ、有り難い事も意識するようにして生きなければいけないのでは
ないでしょうか。 世間の不条理、けしからんことを並べても、世の中はそれで
よくはならないのです。 他所の国がよく見えることも反省材料としで結構です
が、住んでみると日本の方がよいことも沢山あります。 むしろアメリカなどより
もずっとよいのではないかしら。 皆中流ですし。 大分そうでなくなったとは言
え、こんな安全な国も少ないのです。 好き好きですけれども。 ただそれなりに
自分の立場を感謝して暮らせる雰囲気は大切にして生きていかなければいけ
ないのではないでしょうか。 世の中が明るくなる、生きていることが有り難くな
る話をもっとできないものでしょうか。 お互いに悪口を言うのも結構ですけれど
も、それでは何の救いにもなりません。 外国人で日本の教育が如何に優れて
いるかを書いたものを読むとそれなりに成る程と思えることがあるように、悪い
ことばかり挙げていても、それではどうしたらよいのか、積極的に前向きのもの
を言わないと救いにはなりません。 野次馬だけではいけないのです。 自分
の顔に上を向いてつばをかけているだけになります。 私は貴方が単なる野次
馬でしかない人とは思いません。 もっと前向きに上を向いて生きれる人と思い
ますので、是非建設的に頑張って下さい。 おだてて向上させる手もありますか
ら。 

 余計なことを書きましたが、そのついでに余計なものをお送りします。 前にお
送りしたものを大分姿を変えてそろそろ投稿する準備にかかっています。 それ
と、更に余計なものですが、再来週に北大で堀内先生と言うえらい先生の生誕
百年と言うことで、国際学会が開かれ、その冒頭に話をさせられます。 その原
稿です。 膝をがくがくさせながら、もつれる舌を引きつらせて話をすることを想
像して下さい。 多分これが英語でこんな話をさせられる一生で最後の機会で
はないかと思います。 そんなことで結構働かされています。

お元気で。

田丸謙二先生の論文より 
        ここをクリックしてください。→(田丸謙二)



                  
仁川新空港にて
本岡俊郎(ユネスコ日韓交換学生同窓生)


 1月下旬、ソウルでの用事も終えてかなり早く仁川新空港に着いた。暖冬とはいえマイナス7
度の寒さは身にこたえ、観光や買物をする気力もなくとにかくチェックインし指定の28番ゲート
待合席に座った。いつも分刻みのスケジュールで動き回っているので、「たまには、ゆっくりす
るのも悪くないなあ」と時間が流れていくのに身を任せていた。
 仁川空港は、東アジアの代表たらんとして開港したばかりの新空港だ。お世辞でなく成田空
港のようにゴチャゴチャしておらず規模もずっと大きく整然としているし、関西空港のようにガラ
ンとして寂しい感じもなく、韓国らしく大勢の人が行き交い免税店のキムチ売り場の前では東
大門市場でのように売り子が元気な声をあげている。余ったウオンを使ってビールでも飲もうと
思っていたけれど、見渡す限りでは食堂、バーの類が見当たらない。方針でそういう施設を作
らないのかなと決めこみ、また瞑想を続けていた。
 今回の訪問では、ソウルという巨大都市は新世紀の情報化社会で勝ちぬくのに十分な条件
を備えているように感じた。新世紀での戦いは、国家間の争いではなく巨大都市間の争いでは
なかろうか。情報化社会での勝負は、優秀な人材と価値ある情報の集積、そしてそれらが無
駄なく機能できるインフラの整備によって決まるだろう。勝利を収めた都市に、より大きな富が
国境を超えて集まっていくだろう。なまじ、日本のように一億数千万人の国内市場を持つような
国家は、対応への変化が否応にも遅れざるを得ない。例えば、シンガポールのようにひとつの
都市イコールひとつの国家という形態がもっとも変化に迅速に対応できるのではないか。そう
いう意味で、この新世紀での戦いを勝ちぬくのは、ソウルという巨大都市であり、韓国という国
家では無いという予感がする。韓国の人口の6割以上がソウル首都圏に集中しており、地方と
いう「無駄なぜい肉」がきわめて少ないのが追い風となっている。いま、自分が働いている大阪
は、極度の経済不振に苦しんでいるけれど、結局日本でもTOKYOというメガシティに人も情報
も、結果としてカネも加速度的に集中しているためではないか。
 まだ、ボーディングタイムまで数時間もある。そろそろ喉も乾いてきた。回りにも乗客の姿は
ほとんど無い。ふと気がつくと、向かい側に座っていた10歳ぐらいの孫とおぼしき子供をつれ
た中国人らしいおばあさんが僕のところにやってきた。中国大陸の汽車に乗りこむような姿格
好で、この新空港の乗客の雰囲気じゃない。彼女が、僕に相談するように、ガーゼの布に包ん
だ書類を見せようとする。中味は、中国東北部瀋陽(シェンヤン)発ソウル経由成田までの往
復航空券、瀋陽からソウルまでの搭乗券の半券、中国の空港利用税証書、そして、ソウルか
ら成田までの搭乗券で、孫の分と2枚づつきちんと包んである。片言の韓国語で話すと通じる
ので、「あなたは中国の朝鮮族か?」と聞くと「そうです。よくわかったね。ところで、あなたも私
と同じ飛行機で日本へ行くのか?そうだったら、この4種類の書類で何が次の飛行機に乗るの
に必要なのか教えてくれ。」という訳で僕は、彼女の持つのと同じ搭乗券を見せて、これだけ持
っていたら大丈夫と教えてあげた。彼女は、嬉しそうな顔をして「あんたについて行くからよろし
くね。」という。それからというもの、トイレに行くのに席を立ったら、「何処へ行くのかしら」という
ように見られるようになった。そして、あんまり喉が乾くので、ついに空港の職員にカフェテリア
の存在を問うたら、ずいぶん離れた一角に集中していることがわかった。そこで、飲物を買い
に出掛け、間違い無くもう4時間以上飲まず食わずのはずの彼女にウーロン茶、お孫さんにコ
カコーラも購入した。ウーロン茶だから問題ないだろうと思ったけれど、彼女が最初に口にした
時の「何、このお茶は?」という表情は忘れられない。そして、次第に周囲にお客の数も増え、
搭乗口にいっしょに並んだ。乗ったジャンボ機は満員、席も異なり、成田に着いても顔を合わ
せることは無かった。瀋陽へ戻るのは、2月21日と航空券に記載されていた。日本でどういう
1ヶ月を過ごすのか、まったく知らないけれど、幸せな旅行であって欲しいと願った。
 一組の朝鮮族の家族にも進展する国際化の波を感じた今回のソウル旅行であった。
 (2002年1月27日) 



白川の子              
本岡俊郎(ユネスコ日韓交換学生同窓生)

「 北白川子供風土記」を書いた頃


私達は、昭和28年4月に北白川小学校に入学しました。当時は戦後8年、まだ豊かな生活と
は言えませんでしたが、みんな明るく学校の門をくぐりました。戦後のベビーブームのはしり
で、昭和21年4月から22年3月にかけて生まれた子供たちでした。高校生の頃になって気が
ついたのですが、友達の多くが親父達が戦争から戻って「10月10日」経って生まれたという文
字どおり平和の落とし子の世代です。引き揚げ者の子供で体が弱く入学が遅れた子もいたり、
戦争中京都大学に大東亜留学生として南方から勉強に来ていて敗戦後、故国に帰れず日本
女性と結婚した人の子もいました。
  校舎はまだ本館を除いて木造で、講堂には御真影の写真を外した後がはっきりしていまし
た。その講堂も翌年には、急増する子供達を収容するため板で仕切られ教室になってしまい
ました。先生達も戦争に破れて価値観の変更を迫られた方ばかりでしたが、今になって感じる
のは、その先生達の教育にかける情熱でした。「戦後の日本を支えるのはこの子供達だ。だ
からこそしっかり教えよう。」良い先生ばかりでした。そういう先生方の中に大山徳夫先生がお
られたのです。
  どういうきっかけで「子供風土記」を思い立たれたのかは存じませんが、豊かな北白川の自
然や文化を勉強するよう誠心誠意指導していただきました。昔、北白川はご存じのように白川
女と白川砂で有名な豊かな京都の近郷の農村でした。京都大学が開設されるに従い、教授た
ちが北白川一帯に住まいを定めるようになりました。北白川小学校は、このように昔から住ん
でいる地元の子と新しく住宅地として開発されてから住み始めた都会風の子達が混じりあって
いました。京大の先生の子供も多くいました。大山先生は、このような子供達を生徒に持たれ
たのでした。
 当時は塾も無く、先生の下宿で「風土記」の原稿を書くだけでなく勉強のおさらいもしていまし
た。もちろん、お金を受け取られるはずは無くお袋たちが時々先生は独身だったので、夜食を
僕たちの分を含めて差入れてくれた位でした。先生はしかし厳しかった。たしか竹の物差しで
叩かれたのは一度や二度では無かったと思います。先ほど電話で、鈴木さんから「風土記を
書いて得た物は何か?」と聞かれたように思いますが、いま少しずつ考えるに、まずそれは、
ふるさとを愛するようになったことでしょう。京都を離れてから20数年たちますが、ますます京
都、そして北白川が懐かしくなってきています。それから、文章を書く勉強をしたのかもしれま
せん。
  私達が京都で過ごした昭和20、30年代は、戦後の復興期でした。貧しかったけれど、一方
で成長することの喜びも知っていました。初めてテレビを観た時の感激に代表されるかもしれ
ませんネ。「明日はきっと良くなるに違いない。」と希望を持って毎日を学校で過ごしていたので
しょう。社会は今日のように成熟していませんでしたから、いろんな試みが教育の現場でも許さ
れたのかもしれません。良い時期に私達は素晴らしい先生達から学ぶことができました。自分
の子供達は、全てが満たされた時代に暮らしていますが、しかし偏差値だけが人間の値打を
計る尺度になったような環境の中で苦しんでいます。私が北白川小学校で受けた経験をどうや
ったら子供に伝えられるのか、もどかしいのです。
  成長することは大切だと思います。希望を持って自分の世界を切り開く時にこそ人間は輝くよ
うな気がします。今の日本の社会はそんな輝きを少し失っているかもしれない、そして子供達も
何のために頑張るのか不安になってるようです。親たちが只頑張れ頑張れと言っても、子供の
こころは光らないでしょう。先生達が持っておられた情熱、そう、「明日の日本を支えるのは、
子供達だ。」ということから考えるのが、団塊世代の私達の責任という気持ちがするのです。

  以上私の感想です。大山先生や昔の友達に会われたらよろしくお伝えください。

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