はやし浩司

辛口評論
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辛口評論

はやし浩司

辛口の評論などをまとめてみました。
いつもこんな過激なことを考えているわけではありませんが……。
このところ不況で、少し神経がイラだっているからかもしれません。


教育の自由化はなぜ必要か2002−1

たとえば英語教育

2002年の1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの3
6社。この数は、ピーク時の約三分の一(90年に125社)。さらに2002年に入
って、マクドナルド社やスイスのネスレ社に続いて、ドレスナー銀行やボルボも
日本から撤退を決めている。理由は「売買減少」と「コスト高」。売買が減少した
のは不況によるものだが、コスト高(年間2000万円の手数料)の要因の第一
が、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だ
から、外国企業は、何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

これに対して、金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先の母国語による開
示は常識」と開き直っている(同じく毎日新聞、02年1月13日)。日本が世界を
相手に仕事をしようとすれば、今どき英語など、世界の常識なのだ。しかしその
実力はアジアでも、北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本の教育水準が世界一と
思いたい気持ちはわかるが、それは数学などのある特定の科目に限った話。
日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。加えて今ではアメリカでは、アジ
アの経済ニュース(もちろん東京のニュース)も、シンガポール経由で入っている
(NBCなど)。この10年、アメリカの各大学の日本学部や日本語学科は、どんど
ん縮小、あるいは閉鎖されている。カナダのバンクーバーの高等学校でも、日
本語を学ぶ高校生が急減し、中には日本語講座を閉鎖した高校まで出てきた
という(グラッドストーン日本語学園校長M氏)。かわって中国学部、中国学科の
学生が、それを埋める形でふえている。アメリカ人というより、世界の人の関心
は日本から中国へと移っている。

これに対して、「日本語もまだじゅうぶんでないのに、英語教育など必要ない」と
いう意見も、小数だがあるにはある。そのため「小学校での英語教育には反
対!」と。「教育の欧米化は反対」と唱える教師団体もある。(私は何も欧米化せよと主
張しているわけではないのだが……。)

そこでどうだろう、こう考えては……。この日本には、英語教育が必要だという
人もいれば、必要でないという人もいる。英語を教えたい親もいれば、教えたく
ない親もいる。英語を学びたい子どももいれば、学びたくない子どももいる。だっ
たら、そういう選択は個人に任せればよい。それが私の言う教育の自由化であ
る。たとえばその分、学校を早く終わるとか、ドイツやカナダのように、クラブ制
にするとか。月謝の負担は、たとえばドイツのように、「チャイルド・マネー」で援
助すればよい。方法はいくらでもある。北海道の端から沖縄の端まで、すべて
画一的に同じ教育という発想そのものがおかしい。またそういうことをしようとす
ると、結論が出るまでに10年、あるいはもっとかかる。あああ、その間に世界
はどこまで進んでしまうことやら……! 日本はどこまで取り残されてしまうこと
やら……!

先生たちのやる気が出る環境を!

文部科学省が権限を縮小したくない気持ちはよくわかる。わかるが、彼らが自
分の権益にしがみつけばつくほど、日本の教育は世界からますますたちおくれ
る。言いかえると、日本の教育は、そして現場の先生たちは、官僚制度の中
で、がんじがらめになって身動きがとれないでいる。管理、管理で、しかも雑
用、雑用で、やる気をなくしてしまっている。このままでは日本の教育は窒息し
てしまう。あるいはもうすでに窒息状態! 

そこで必要なのが、官僚体制の是正である。日本人は悲しいかな、明治の昔
から今のような教育が世界の標準と思っているが、それこそ世界の非常識。も
し私の意見を疑うなら、自分でアメリカやオーストラリアへでかけていき、そこの
生徒になったつもりで、彼らの教育制度をながめてみることだ。……つまりこれ
が私がいう官僚制度の是正である。それをしないと、教育の自由化など、まさ
に絵に描いたモチで終わってしまう!

一億数千万人の人口をかかえた日本。この日本がそれだけの人間を養うため
には、それだけのお金を稼がなければならない。そのためには日本がこれから
先どうあるべきかを、皆がもっと真剣に考えるべきではないのか。日本の未来を
予測するのは簡単だ。今の子どもたちを見ればよい。それでわかる。今の子ど
もたちが日本の未来をつくる。で、その未来。私が見る限り、お先真っ暗! だ
から、みんなで進めよう! 教育の自由化! 官僚主義社会からの脱却! そ
して現場の先生たちが、もっと伸び伸びと、そして生き生きと、教育に専念でき
る場を用意しよう。何といっても、未来の日本人を育てるのは、現場の先生たち
なのだから。

具体的には……

@基礎学力の履修、基本学習は学校で(先生には、まず授業に専念してもらう。)
A学校教育は、昼食後、終了する(先生の負担を軽減する。)
B子どもたちは午後はクラブへ通う(学校内部にクラブがあってもよい)
C夏休み、冬休みの廃止(その分、毎日の学習時間を短縮する)
Dクラブの月謝はドイツ並に1000円程度におさえ、その費用は
 「子どもマネー」で援助。(クーポン券、バウチャー券で補助するという方法もある。)

クラブの内容 (例)各種スポーツクラブ、音楽クラブ、工作クラブ、料理クラブ、数学クラブ、語学クラブ、釣り
クラブ、登山クラブ、自動車クラブ、ゲームクラブ、パソコンクラブ、絵画クラブ、ダンスクラブ、旅行クラブ、家
庭クラブ、祭りクラブ、などなど。

教育カルト

●教育は宗教的であってはいけない

 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信
奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それにあたる。このタイプの教育者(?)
は、「N方式」と言い出したら、明けても暮れても「N方式」と言い出す。
 親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすことである。水戸黄門の葵
の紋章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式教育
法」を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。教育には哲学が必要だ
が、宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教育法もまた皆違う。教育はもっと
流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわからない。わからないまま、自分の教
育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけようとする。これがこわい。
 カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、小さな
世界に閉じこもりながらそれに気づかない(自閉性)、欠点すらも自己正当化する(盲信性)な
ど。さらにこれが進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に攻撃する、攻撃性も現われる。
はたから見れば常識はずれなことをしながら、それにすら気づかなくなってしまう。ある教育団
体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏
に感動なさったことと思います」と。自分の教育法だったら、おこがましくて、ここまでは書けな
い。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさにカルトの特徴と言ってもよい。
 私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、
「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや
すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。そ
れはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。一
つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白ができ
ると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人も珍しくない。だからよけいに抵抗
する。これを心理学の世界では、「フリップ・フロップ理論」という。それについては、次の機会
に書く。



プロ意識とプロ根性

 この日本には、よい仕事とそうでない仕事がある。どんな仕事がよい仕事で、どんな仕事が
そうでないかは、ここに書くことはできない。できないが、日本人なら誰でも知っている。この私
も、ある男(六十二歳、元公務員)にこう言われたことがある。「君はどうせ学生運動か何かし
ていて、ロクな仕事につけなかったのだろ」と。私が「幼稚園で働いています」と言ったときのこ
とである。日本人は、何だかんだと言いながら、いまだに封建時代を、心のどこかでひきずって
いる。身分(職種)で相手を判断する。しかしそれは結局は、回りまわって、日本の社会をゆが
める。
 こんなことがある。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せ
ようとする。一方、そうでない人の前では、そうでない。たとえば一人の教師が、「この子どもに
は問題がある」と思ったとする。するとやがてその子どもは、その教師が思ったとおりの子ども
になる。教師の心は、時間をかけて、確実にその子どもに伝わる。いや、一か月や二か月な
ら、教師のほうも自分をごまかすことができる。しかし半年、一年となると、そうはいかない。人
間の心というのは、そういうものだ。
 実はおとなの世界もそうだ。私たちが内心で、「あの仕事はよくない仕事」と思ったとする。し
かしそういう仕事をしている人はそういう人で、それをよく知っている。だからそういう人は、そ
れなりの仕事しかしない。たとえば何らかの仕事をある職種の人に頼んで、法外な値段をふっ
かけられたことは、あなたにだって一度や二度はあるはずだ。あるいはとんでもないひどい仕
事をされて、怒ったことがあるはずだ。ふつう私たちが、心のどこかで、「よくない仕事」と思って
いる仕事ほど、そういうことがある。しかしそういう業者を、誰が、責めることができるのか。
 特権階級に生きる人が、それなりの人格者になるのは当たり前だ。彼らは名誉と地位と、そ
れにともなう格段の収入がある。しかしそういう特権階級を認めるということは、一方で、そうで
ない階級を生み出すことになる。人格者が一方で日本の社会をよくする一方、そうでない人た
ちが日本の社会を悪くする。全体としてみれば、つまりプラスマイナスのトータルバランスでみ
れば、結局はゼロということになる。となると、どちらが得か。もう言わずもがなである。もし私
たちが職業による差別意識をもっているなら、それはもう捨てたほうがよい。もともとこうした差
別には意味がない。人間に上下はない。同じように職業に上下はない。あるはずもない。それ
ぞれの人がプロ意識をもち、そして自分の仕事に誇りをもったら、この日本はずっと住みやす
い国になる。そしてそれがとりもなおさず、子どもたちの未来を守ることにもなる。




「治す」と「直す」の問題

 「なおす」という言葉がある。「治す」とも「直す」とも書く。教育の世界では、「直す」という言葉
を使う。「治す」という言葉は使わない。使ってはならない。一方、「直す」という言葉は、まちが
った道に入った子どもを、正しい道へ戻すという意味で使われる。しかしそもそも「まちがった
道」などというのは、あるのだろうか。たとえば不登校児。日本では「不登校児を直す」と言う。
しかし不登校はそもそも直さ(?)ねばならないものなのか。アメリカにはホームスクールという
制度がある。親が教材一式を自分で買い、自分の家で子どもを教えるという制度である。日本
では不登校児のための制度と思っている人がいるが、それは誤解。九七年度までにホームス
クールの子どもは、全米だけで一〇〇万人を超えた。毎年15%以上の割合でふえつづけ、二
〇〇一年度には二〇〇万人を超えると言われている。それを支援する組織が、LIF(自由に学
ぶ)という団体で、家庭教師を派遣したり、その地域のホームスクーラーを集めてのピクニック
などを指導している。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念が、そこにある。そして
現在、世界で、千以上もの大学が、こうした子どもたちの受け入れを表明している。……となる
と、不登校とは何かという問題にぶつかってしまう。いや、その前に、学校とは何か、さらには
教育とは何かという問題にぶつかってしまう。
 ところで今、「不登校児を数時間で直す」と話題になっている女性がいる。テレビで報道され
た様子を見ると、家族の前で親や子どもを怒鳴りつけて直す(?)らしい。しかしこの方法は、
私の常識からは完全にハズれている。こうした心の問題では、無理をすれば、一見症状が消
えたかのようになることはよくある。たとえば分離不安。無理に親から引き離したりすると、子ど
もはギャーギャーと泣きわめく。が、その段階で園の先生たちが抱いたり、なだめたりすると、
やがて子どもは静かになる。しかしそのとき分離不安が直った(?)と考えるのは、まちがい。
症状がさらに奥の世界にもぐっただけとみる。むしろこの状態になると、心(情意)と表情が遊
離を始め、子どもによっては二重人格性をもつことがある。心の中では別のことを考えながら、
柔和な表情を浮かべるなど。教える側から見ると、何を考えているかわからない子どもというこ
とになる。むしろこちらのほうが、症状としては深刻なのである。不登校児にしても、その心は、
おとなの私たちが考えるほど単純ではない。そういう心を無理にいじって、無事ですむはずが
ない。
 私は「なおす」と、いつも平仮名を使うようにしている。本や新聞の中で、「直す」となっている
のは、編集者が勝手に漢字にしたものだ。私自身は、「治す」という漢字はもちろんのこと、「直
す」という漢字すら使ったことがない。使えない。教育の世界には絶対的な「正」などというもの
は、もとから存在しないからだ。しないことは、不登校だけをみても、わかる。「なおす」という言
葉には、そんな問題が隠されている。
 



孝行される親から……

 世の中には、親をだます子どもがいる。しかし子どもをだます親だっている。そういう親をもっ
た人に、孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。H氏(五〇歳)もその一人。H
氏の母親(七五歳)は、H氏から土地の権利書を言葉巧みに取りあげると、それを他人に転売
してしまった。H氏はこう言う。「他人なら今ごろは、刑務所へぶち込んでいるところです」と。
 日本で「孝行」というときは、「親が上で、子が下」という上下意識がその基本になっている。
親意識の強い人ほど、そう考える。だから子どもを育てながら、「産んでやった」とか、「育てて
やった」とか、無意識のうちにも恩を着せる。子どもをモノのように考える「モノ意識」も、そこか
ら生まれる。ある女性(七〇歳)はこう言った。「息子なんて育てるもんじゃ、ないですね。息子
は横浜の嫁に取られてしまいました。親なんてさみしいもんですわ」と。息子氏が横浜の女性と
結婚したことを、その女性は、「取られた」と言うのだ。
 ……こう書くと、決まって「君の考え方は欧米かぶれしている。日本の伝統的なよさまで君は
否定している」と言う人がいる。しかしこんな調査結果もある。総理府の調査だが、今、若者
で、「将来どうしても親のめんどうをみる」と答えた子どもは、五人に一人もいない(19%、平成
九年)。あのアメリカ人ですら、63%(平成六年)である。その一方で、日本の若者の七割近く
が、「経済的に余裕があればみる」と答えている。裏を返して言えば、「余裕がなければみな
い」ということ。もっと言えば、「親の恩も遺産次第」ということになる。こういう世相の中で、いか
にして親子関係を再構築するか……。それが今、私たち日本人にとって、さしせまった問題と
いうことになる。そこでどうだろう、こう考えては。つまり「孝行される親」から、「尊敬される親」
をめざしては……。そしてそれを親子関係の基本に置く。今はもう親意識が通用する時代では
ないし、親の権威とか、親の沽券(こけん)がものを言う時代でもない。そういうもので子どもを
縛ろうとしても、子ども自身も納得しない。実際、親意識を振りかざせばかざすほど、子どもの
心は親から離れる。
 と言っても、これは簡単なことではない。「孝行される親」と「尊敬される親」の間には、気が遠
くなるほどの距離がある。いや、「私はだいじょうぶ」と思っているあなただって、あぶない。こん
な調査結果もある。青少年白書によれば、今、「父親を尊敬できない」と答えた中高校生が、5
5%もいる(平成十年)。この中には当然、「軽蔑している」という子どもも含まれる。そして残り
の45%が、「親を尊敬している」ということにはならない。その中には、「親を何とも思っていな
い」という子どもも含まれるのだ。これらの数字を並べながら、あなたも一度、親孝行について
考えてみたらどうだろうか。




強者の論理、弱者の論理

 幸か不幸か、……幸なのだろうが、日本民族は、他者に虐(しいた)げられたという経験がな
い。こうしたこともあって、日本人の目は、いつも上ばかり向いている。いや、その前提として、
日本人はいまだに封建時代の亡霊を引きずっている。「上にへつらい、下にいばる」という身
分意識である。
(事実1)日本でも著名な脚本家のF氏(45歳)は、こう言った。「英語には敬語がない。日本語
には敬語がある。日本語はすぐれた言語だ。だから自分の息子には英語を勉強させない」(テ
レビ番組の中で)と。彼は生活の大半を、今、妻と子どもとともにニューヨークで過ごしている。
(反論1)英語に敬語がないというのは事実だが、ていねいな言い方というのはある。相手をう
やまって言うときには、日本語のような敬語は使わないが、しかしていねいな言い方をする。た
とえば軽い友人なら、「会えてうれしい」というような言い方をするが、相手がそれなりの人物の
ときは、「お会いできたことを喜びます」とか、「あなたにこうしてお目にかかる光栄を、私の特
権とします」(It is my privilege that I am here to have a meet with you on such an occasion.)
などというような言い方をする。
 次に「敬語」そのものは、もともとは日本人独特の上下意識の中で、増幅拡大されてきたもの
である。そしてその上下意識は、つまりは「先輩・後輩」意識に代表される「権威」によって支え
られている。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「先生が上、生徒が下」という上下意識もそ
こから生まれた。先のF氏は、「アメリカ人は目上の人を敬(うや)まうことを知らない」とこぼして
いたが、そもそも彼らにはそういう権威は通じない。その一例が、水戸黄門である。水戸黄門
の側近が三つ葉葵の紋章を見せて、「控えおろう」と一喝すれば、まわりのものは皆頭をさげ
る。日本人にはたまらないほど痛快な場面だが、こういう常識(?)は、決して世界の常識では
ない。言いかえると、敬語があるから日本は「より常識的な国」ということにはならない。でない
と言うのなら、なぜ「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「先生が上、生徒が下」なのか、それ
を説明できる人はいるだろうか。さらにこんな例もある。ある仏教系の宗教団体だが、そこでは
長にいる法主(ほっす)を呼ぶ時には、こう呼ぶ習わしになっている。「御法主聖人○○閣下様
殿」と。これは冗談でも笑い話でもない。○○のところには、名前が入る。そして信者たちは、
法主の住居の方角に足を向けて眠ってはならないと教え込まれている。「敬う」ということには
そういう意味も含まれる。
 要するに、「人間は平等である」という平等社会を求めるか否かというところに、この問題は
集約される。F氏はさらにこうも言っていた。「アメリカでは、大学の教授でも、町のタクシーの運
転手でも、『ヘイ、ユー』だ。明らかにまちがっている」と。もっともここまでくると、価値観の問題
だ。「だからアメリカは平等社会でよい」と評価する人だって、多いのだ。
「敬う」というのと、「尊敬」(同じ『敬』という文字が入ってはいるが……)、は、まったく異質のも
のである。「敬う」というのは、形式的なもの。「尊敬する」というのは、もっと根源的なものだ。と
ころでもう一つF氏に反論したい。今、アメリカでも、教授に向かって、「ヘイ、ユー」などと言う学
生はいない。F氏はどこのどの大学で、そのような場面で、それを見たというのだろうか。アメリ
カにも、そういうレベルの大学はあるかもしれないが、ふつうは、「ミスター・ブレナン」とか、「プ
ロフ(教授)」「プロフェッサー・ブレナン」とか呼ぶ。もっとていねいな呼び方をするときは、フル
ネームで呼ぶ。少なくとも、私はそういう失敬な(?)言い方を耳にしたことはない。
 


日本社会の不公平感

(来月の家計を心配して)(公務員の数は半分でもよい)
 
 失敗が続く。思うようにことが進まない。生活の心配もある。このところどんどん自分が小さく
なっていくのを感ずる。仕事に向かうときも、帰ってきてからも、「疲れた」という言葉が口から
出る。そんなときだ。この日本の不公平さが、つくづくと身にしみる。この日本、公的な恩恵を
受ける人は、徹底的に受ける。受けない人は、私のように、ほとんどない。年金もなければ、天
下り先もない。国民年金など、とうの昔からアテにしていない。明日、事故か病気で倒れれば、
それで万事休す。女房ですらも、ときどきこうこぼす。「日本の心配もいいけど、来月の家計の
心配もして」と。
 一人の人間が家族を支え、裸一貫で生きていくということは実にたいへんなことだ。緊張感が
まるで違う。ほんの少し油断をすれば、すぐ追い抜かれる。追い抜かれるならまだしも、そのと
きは、もう自分の仕事はない。そんな私が役所へ行く。するとそこで見るのは、ヒマをもてあま
し、実にのんびりと(失礼!)としている公務員の姿だ。小さな出先機関ですら、たいてい三、四
人の男と、同じ数の女性がいる。そしてするでもなし、しないでもなしの仕事を、のんびりとして
いる。彼らは彼らの基準で仕事をしているのだろうが、しかしそれは「俗世間」の基準ではな
い。一般の企業が、あんな仕事をしていたら、あっという間に倒産する。私の友人はこう言っ
た。彼はH市の市役所で課長職をしている。いわく、「公務員の数は、半分でもいいよ。三分の
一でもいいかな」と。これは彼らの偽らざる、本音ではないのか。そうG県の県庁に勤めるもう
一人の友人も、こう言った。彼は、検査課の検査官をしている。いわく、「毎日がヒマでヒマで、
ヒマをどうつぶすかで苦労している。パソコン相手にゲームをしていても、誰も文句を言わな
い」と。
 よく政府は、「公務員の割合は、欧米と比べてもそれほど大きくない」と言う。しかしこうしたダ
マシのテクニックは、政府のお家芸。確かに国家公務員、地方公務員の数だけをみると、その
割合は、それほど大きくはない。しかしこの日本には、公団、公社、財団、特殊法人、学校法
人、医療法人、電気ガスなどの独占的公益事業、政府系金融機関が、ゴロゴロしている。あの
旧文部省だけでも、天下り先として機能する外郭団体が、一七〇〇団体以上もある。しかもこ
うした団体が、全国津々浦々の「村」レベルまで完成していて、この不況にしても、どこ吹く風。
満額の退職金に満額の年金を手にしている。私の知人などは、二四年前に旧国鉄を、満五五
歳で退職して以来、毎月三四万円の年金を手にしている。その間働いたのは、たったの一日
だけ。この二四年間で受け取った総額だけでも、一億円近くになる。私は今、五三歳だから、
かれと同じ老後を送るためには、残り二年間で一億円をためねばならない。しかしそんなこと
は不可能だ。恐らく死ぬまで仕事また仕事…。
 こういう不公平を親たちはみんな知っている。知っているからこそ、子どもに向かっては、「勉
強しなさい」と言う。言わざるをえない。言い換えると、こういう不公平をなくさない限り、受験競
争はなくならない。教育のゆがみもなおらない。現に今、ボランティア活動が内申点に加味され
るようになったら、そのボランティア活動を教える進学塾すら現れた。こうしたバカげたイタチご
っこは、いつまでも続く。



人間は裸で生きる

(自分の人生を生きるための大鉄則)01−6−23

 S氏は、死ぬまで肩書きをぶらさげて歩いているような人だった。退職するときには、県の機
関の「長」をしていたが、退職後はもっぱら庭いじりと旅行が趣味。葬式から帰ってきた母は、
一言、「あんなさみしい葬式はなかった」ともらした。
 日本で「偉い人」というときは、地位や肩書きのある人をいう。地位や肩書きのない人は、あ
まり偉い人とは言わない。一方、英語国では、「偉い人」と言うようなときには、「尊敬される人」
と言う。地位や肩書きは、ほとんど関係ない。よく似た言葉だが、偉い人と尊敬される人の間に
は、越えがたいほど、大きな谷がある。
 S氏は、人と会うと、必ずこう言った。「君は何をしているかね」と。退職した人に向かっては、
「何をしていたかね」と。そして自分より地位が高い人には、必要以上にペコペコし、そうでない
人には、いばってみせた。私にもこう言ったことがある。「君はどうせ学生運動か何かをしてい
て、ロクな仕事につけなかったんだろ」と。私が「幼稚園で働いています」と言ったときのことで
ある。
 「出世主義が、日本をここまで発展させた」と言う人がいる。それなりの地位についた人が、
好んで使う言葉だ。しかし本音は、そういう言い方でもしないと、自分を正当化できないから
だ。出世主義を否定するということは、そのまま自分を否定することになる。しかし悲劇は、さら
に続く。
 一度その地位や肩書きを手に入れた人は、その地位や肩書きにしがみつく。そしてそれを失
うことを、何よりも恐れる。それはもう、あわれとしか言いようがない。私と議論したある評論家
は、メールでこう言ってきた。「君は偉そうなことを言うが、文部科学省あたりから地位が回って
くれば、シッポを振るタイプではないのかね」と。こういう言い方をすること自体、自分の生きザ
マを否定しているようなものだ。
 人間は裸で生まれる。が、裸では生きられない。それはわかるが、しかしいくら服を着ても、
それは服。決して自分自身ではない。こんなわかりきったことが、長い間服を着ているとわから
なくなる。服の姿が自分の本当の姿だと思い込むようになる。そして結局は自分の本当の姿を
見失ってしまう。人生をムダにする。 
 人間は裸で生きる。いくら服を着ても、裸で生きる。これは自分の人生を生きるための、大原
則ではないのか。S氏の話を母から聞きながら、私はそう思った。


かあさんの歌論

(日本式子育ての根幹に触れる問題)(安易な孝行論は危険)

 「老後は、子どもにめんどうをみてもらいたい」と考える人は多い。五〇代、六〇代以上の人
は特にそうだ。つまりこの世代の人は、子どもへの保護意識が強い分だけ、子どもへの依存
心が強い。保護と依存は、表と裏、つまり表裏一体の関係にある。
 「かあさんの歌」というのがある。窪田聡作詞作曲による歌である。窪田は高校を卒業すると
同時に、母と対立し、家を飛び出した。しかし母は、窪田の身を案じ、行方をさがし、食べ物や
衣類を送った。そういう母のやさしさを、窪田自身が過ごした信州の疎開先の生活とダブラせ
て、この歌は生まれた。ときに一九五六年のことである。この歌は戦後の「うたごえ運動」の中
で多くの支持者を得て、全国に広がった。が、この歌ほど、お涙ちょうだい、恩ぎせがましい歌
はない。窪田の作詞した「かあさんの歌」は三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付
きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べ
てみる。
 「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁(わら)打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
 その前後にはこうある。「かあさんは夜なべをして手袋編んでくれた」「かあさんは麻糸つむ
ぐ。一日つむぐ」「かあさんのあかぎれ痛い。生味噌すりこむ」と。これらのことも手紙には書い
てあったらしい。しかし息子にせよ、娘にせよ、こんな手紙を親からもらったら、不安になってし
まう。心配になってしまう。安心して羽ばたける羽ものばせなくなってしまう。親が子どもに手紙
を書くとしたら、こうだ。「とうさんとお煎餅を食べながら、手袋を編んだよ。おかげで時間がか
かってさ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれば、村の旅
行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」と。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない
親、親離れできない子どもの心情が、切々と織り込まれている。こういう歌が名曲となっている
ところに、日本式の子育ての問題点がある。
 この私の意見に対して、異論、反論もあるだろう。しかしもし私の意見がおかしいと思うなら、
反対の立場で考えてみたらよい。ある日、あなたは息子から手紙をもらったとする。そしてその
手紙にはこう書いてあったとする。「妻はあかぎれがひどく、今朝も生味噌すりこんでいる。一
歳になった娘に与えるミルクもなく、私は一日中、配線付けの内職。春になったら、隣りの県へ
出稼ぎに行くつもり」と。そしてその手紙の末尾にはこうある。「とうさん、かあさんも、がんばっ
てください」と。あなたはその手紙を読んで、本当に「がんばれる」だろうか。そんな気が起きる
だろうか。
 子どもへの保護意識の強い親ほど、その裏で、無意識のうちにも、子どもへの依存心を強め
る。「産んでやった」「育ててやった」という思いが、やがて日本人独特の親意識となり、孝行論
へと発展していく。そういう意味でも安易な孝行論は、危険である。……というように、「かあさ
んの歌」に隠された問題がもつ「根」は、深い。ひょっとしたら、日本人の子育て観の根幹に迫
るほど、深い。一度、この歌をじっくりと歌ってみてほしい。




教育のマトリックス

●アメリカのホームスクール制度●常識は非常識

 「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ
世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているに過ぎない。
 たとえばアメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を買い込み、家庭で
教育するというシステムである。頼めば専門の教師が、定期的に家庭教師もしてくれる。子ど
もは家庭で学習し、年に一回程度試験を受けて、それに合格すれば進級できる。「真に自由な
教育は家庭でこそできる」「学校は必ずしも必要ない」という理念が、その背景にある。
 …と書くと、「それは一部の子どもだ」とか、「不登校児のための制度だ」と言う人がいる。そ
れが、どっこい! このホームスクールの制度を利用している子どもが、九七年には、アメリカ
だけでも百万人を超えた。さらに毎年約一五%の割合でふえ続けている。世界中の千以上の
大学で、こうした子どもを受け入れる態勢すら整っている。それを指導しているのが、「LEAR
N・IN・FREEDOM(自由に学ぶ)」という組織だが、現在この活動は、欧米を中心に、世界中
に広がっている。
 そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学
校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少
なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常
識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばな
らないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の
世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り
回されている…。
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛(じゅばく)から、自分を解き放つことができる。

(注)この記事に対して、「ズル休みをさせたら、子どもに、休みグセがつきませんか」という質問が寄せられ
ました。私の経験と、実際、実践なさった親たちの意見では、「絶対にそういうことはありません」です。むし
ろ翌日、子どもは生き生きとした表情で、学校へ行きます。一度、試してみられてはいかがでしょうか。


尾崎豊の「卒業」論

●若者たちの声なき抗議●二〇〇万枚のヒット曲

 学校以外に学校はなく、学校以外に道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、「卒業」の中でこ
う歌った。「♪…チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきかを考えてい
た」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは幻想に過ぎない。現実にはコースがあり、そのコー
スに逆らえば逆らったで、ルーザー(負け犬)のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪
幻とリアルな気持ち」と表現した。
 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢を
もてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、もがき、苦しみ、キズつく。尾崎はこう続ける。「♪放課
後ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ
で腰パンの学生を、「悪」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているに過ぎな
い。それがダメだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に
向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしな
かった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。実際この世の
中、偽善が満ちあふれている。年俸二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活が
たいへんです」と顔をしかめて見せる。一着数百万円もするような和服で身を包んだタレント
が、涙ながらに難民への寄金を訴える…。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめ
に生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は、そのホコ先を学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガ
ラス壊して回る…」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。ない
が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、だ
れが「石もて、打てる」のか。
 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部)。この数字こそが、現代の社会に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみ
るべきではないのか。


日本の競争力、26位に低下
1位は米国

 【ジュネーブ4月25日共同】スイス・ローザンヌに本拠を置く
国際ビジネススクールのIMDは25日、主要49カ国の2001
年競争力ランキングを発表、米国が前年に続いて1位を維持
し、景気低迷が続く日本は前年から2つランクを下げて26位
った。

 発表によると、2位はシンガポール(前年2位)。3位以下に
はフィンランド(同4位)、ルクセンブルク(同6位)、オランダ(同
3位)と欧州勢が続いた。トップの米国を100・0とした「競争力
指数」で見ると、日本は57・5で、27位のハンガリー(55・6)を
かろうじて上回った。


アメリカの小中学校を見て……

 アメリカから帰ってきて、ちょうど1ヶ月。わずか10日間という短期間でしたが、三つの小学
校、二つの中学校、さらに日本でいう保育園や幼稚園を回ってきました。その結果ですが…
…、正直言って、私はたいへんなショックを受けました。あまりにもショックが大きすぎて、しば
らくそれをどう表現してよいのか、わからないほどでした。

1989年のG.ブッシュ大統領が、全米50の州知事を集めて。「教育改革大宣言」をしたのは、
ご存知の方も多いと思いますが、それ以前からも、教育改革は、日本より先行すること20〜3
0年。正直言って、「ここまで差がついているとは、思ってもいなかった」というのが、私の実感
です。

日本では、アメリカの大都会の荒れた小中学校だけが大きく報道され、またそういう報道だけ
を見て、アメリカの学校を想像する人も多いと思います。しかしこれはまちがい。大きなまちが
いです。たとえばP公立小学校では、4歳児から預かっています。(小学校で4歳児から預かっ
ているのですよ! 親が望み、校長がOKと言えば、それでいいのです。そして4歳から一人一
台のコンピュータをあてがい、コンピュータ教育を実施しています。またどのクラスも、教師一
人、当番でやってくる親一人、学生のインターンの3名で指導にあたっていました。(中学では、
どのクラスも2名であたっている。)しかもどの教室も、まるでおとぎの国。同行した女房は「ディ
ズニーランドみたい」と表現しましたが、入るだけで楽しさが満ち溢れているのには、驚きまし
た。教室の中に、遊具あり、動物の飼育小屋あり、ゲームあり。何でもありという感じです。

カリキュラムの作成は、親と教師が相談して決めています。教科書なんて、もちろん、ない。テ
キストも親と教師が決めています。公立学校、でもです。こういう自由な雰囲気が、一方で緊張
感を生んでいます。学校といっても、設立はほぼ自由化され、その気のある人ならだれでも設
立できる……、ということは、それだけ自由競争がはげしく、その分、よりよい教育ができると
いうしくみができています。大学にしても、講座や学部のスクラップ&ビルドは、日常茶飯事。
学校の教師にしても、毎年一年更新制をとっているところが多く、やる気のない教師、力のな
い教師は、どんどん追い出されている……。

まあ、私の印象では、日本の教育改革は、30年は遅れたというのが、実感です。日本の教育
を擁護する気持ちは、もうなくなりました。2002年から教育改革(?)は始まりますが、その結
果が出るのは、さらに20年先。そのころ世界は、どこまで進んでいることやら……。

大学にしても、入学後の学部変更は自由。大学の転籍すら自由。そういうことを、今、国際間
でもしています。日本だけが、カヤの外。大学教育においても、まったく遅れに遅れて、どうしよ
うもないという状態ではないでしょうか。今度二男が、アメリカ人の女性と結婚することになりま
したが、実によく勉強している……。5月4日に卒業式ですが、4月30日まで試験に追われて
います。日本では、トップクラスの10〜15%の学生は、よく勉強しますが、それ以外は、まさ
に遊び放題……というのが、現状です。こんなことをしていたら、日本はおしまいです。

みなさん、もっと現実を直視しましょう!

アメリカの学校・写真集→(アメリカの学校)
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悪化する日本の教育

●受験が教育の柱●一六五国中一五〇位?

 東大の理学部の元教授が、こう話してくれた。「化学の分野には、千近い分析方法が確立さ
れているが、基本的に日本人が考えたものは一つもない」と。数年前のことだが、TOEFL(国
際英語検定試験)での日本人の成績は、一六五か国中一五〇位だった。アジアで日本より成
績が悪かったのは、モンゴルだけ。「あの北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそう
だ。さらにノーベル賞受賞者となると、日本には数えるほどもいない。(アメリカだけでも、二五
〇名以上。ヨーロッパ全体ではもっと多い。)よく日本の教育は最高水準にあると説く人がい
る。しかしそれはもはや幻想でしかない。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当た
り前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということで
したが、まるでプロレスの授業でした」と。
 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを話した。い
わく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。
 さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。今では
分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、
正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。日本では大学生
のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたち
には考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!
 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。全体でみても、一〇%もいないので
はないのか。「五%だ」と言う人もいる。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」
と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるか
な、である。



アメリカの小学校

●教育の自由化は世界の流れ●楽しさのある学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。写真は、アメリカ中南部に
ある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。生徒数三七
〇名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。
 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ
イダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長に、「ガイダン
スはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです」と笑った。もちろん日本でい
う教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教え
る。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスであ
る。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによ
って、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また
欧米では、図書館での教育を重要視している。この学校でも、図書館には専門の司書を置い
て、子どもの読書指導にあたっていた。
 授業は、一クラス一六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学か
ら派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ
が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい
くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。
 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。アメリカには、家庭で教えるホー
ムスクール(受講者は97年度で100万人を超え、毎年15%ずつふえ、2001年度には200万
人に達すると言われている)、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券
で運営するバウチャースクールなどがある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあ
るが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。



日本は民主主義国家?

●肥大化し続ける公務員社会●受験競争の温床

 オーストラリアで学生が使うテキストに、「日本は官僚主義国家」と書いてあるのがあった。
「君主(天皇)官僚主義国家」というのもあった。私はそれに猛反発した。が、それから三十年
…。日本はやはり官僚主義国家だった。世界で、日本が民主主義国家だと思っているのは、
恐らく日本人だけではないのか。
 よく政府は、「日本の公務員の数は欧米とくらべても、それほど多くはない」と言う。しかしこれ
はウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば、確かにそうだが、日本にはこれ以外
に、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政府系金融機関がある。
これだけでも、日本人のうち、七〜八人に一人が、公務員もしくは、準公務員ということになる
(徳岡孝夫氏)。が、実際には、これだけではない。これらの公務員の天下り先として機能す
る、事業所、協会、センター、各種研究機関、社団、財団などがある。あの旧文部省だけでも、
こうした外郭団体が、一八〇〇近くもある。こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがら
めにしている。国の借金だけでも六六六兆円。そのほか、特殊法人の負債額が二五五兆円
(別の計算方法では、三五〇兆円という数字も出されている。〇〇年)。そこで構造改革…とい
うことになるが、これがまた容易ではない。明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本
を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。たとえば全国四七都道府県のう
ち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九の県では副知事も元中央官僚(〇〇
年)。さらに国会議員、大都市の市長の多くも、元中央官僚。「日本は新しいタイプの社会主義
国家」と言う学者もいる。こういう日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にする
ほうが、おかしい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も肥大化し続けている。
 しかし、問題はこのことではない。こうした世界では、この不況などどこ吹く風。完全な終身雇
用に年功序列。満額の退職金に年金。生涯を保障される天下り先が用意されている。つまりこ
うした不公平社会が、受験戦争の温床となり、それがそのまま日本の教育そのものをゆがめ
ている。ある父親はこう言った。「息子には公務員になってほしい。一生、楽な生活ができるか
ら」と。そのためか今では、ちょっとした(失礼!)公務員試験でも倍率が百倍を超える。なぜそ
うなのかというところにメスを入れない限り、日本の教育に明日はない。



日本をおおうバカらしさ

●保護格差という身分制度●五十%が医学部志望

 近視を手術で治すという。「手術は二十分程度。片目で二十万円、両目で五十万円」「一日
平均、二、三人の問い合わせがある」(新聞報道)とか。
 私はこうしてコラムを書かせてもらっている。そのこともあって、このところ毎日のように相談
の電話がかかってくる。日によっては、午前中のほとんどが、それでつぶれる。が、相談をして
くる人で、フルネームを言う人は、まずいない。住所を言う人は、さらにいない。どの人も深刻
だ。が、私は一円だって受け取っていない。「相談」というのは、そういうもの。「ボランティアで
すね」と人は言うが、ボランティア活動のような、明るさはない。
 私はその記事を読んで、思わずため息をついた。近視の手術をするのに、両目で五十万
円! 一日二人の患者を手術するだけで、売り上げ(?)が、月に二千万円(一か月二十日
間)、年間で二億四千万円。実際には十一月に開業したCクリニック(名古屋市)では、「説明
会を開くと、三十人以上がつめかける」という盛況ぶりだそうだ。こういう現状を見せつけられる
と、自分のしていることが、つくづくとバカらしくなる。
 当然のことながら私には、退職金も天下り先もない。年金もあてにならない。明日病気か何
かで倒れれば、万事休す。自分で選んだ道とはいえ、この日本、保護格差があまりにもひど
い。ひどすぎる。特権や管轄、権限に守られた人は、保護を徹底的に受け、そうでない人は、
ほとんどといってよいほど受けない。新しいタイプの身分制度と言ってもよい。が、悲しいかな
日本人は、こうした身分制度を容認してしまっている。「おかしい」と思う前に、「あわよくば、自
分も…」と考える。たとえば浜松市内でも一番の進学高校と言われているA高校の場合、一年
生の約五十%、二年生でも約三十%が、医学部を志望している。なぜそうなのか。理由などこ
こに改めて書くまでもない。
 昔、学生時代、仲間たちと天下国家を論じていると、どこかの息子様がギターを片手に歌を
歌っていた。「♪二人を〜、夕闇が〜」と。その息子様は何でも葉山にヨットまで、もっていると
いう。その歌がラジオから聞こえてきたとき、私たちはバカらしくなって、議論をやめてしまっ
た。あのとき感じたバカらしさ。それが今、この日本をおおっている。しかしこのバカらしさがなく
ならない限り、日本の未来に明日はない。



「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

 日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たような言葉だ
が、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉い人」と言うとき
は。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人とは言わない。一方英語で
は、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。
 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打
ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国
書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら
覚える。しかし…?    
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ恐
怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生活
を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安
の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書い
ている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い
事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結果で
しかない。
 …と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた自
身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが地
位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心のど
こかで引きずっていることになる。そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残
っている限り、偉い人をめざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えな
い。民間でならまだしも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一
番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。



愛国心教育について

●郷土愛と言い換えたら●民主主義を守ろう

 「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?
 英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父なる大
地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」という意味であ
る。私にはこんな経験がある。
 ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア軍が君たち
の国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアでは、インドネシアが仮想
敵国になっている。が、皆はこう言った。「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言
ったのもいた。何という愛国心! 私が驚いていると、こう言った。「ヒロシ、どうやってこの広い
国を守れるのか」と。英語でカントリーというときは、「国」というより、「郷土」という土地をいう。
そこで質問を変えて、「では君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞い
た。すると皆は血相を変えて、こう言った。「そのときは容赦しない。徹底的に戦う」と。
 一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、えてして
「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本でいう愛国心は、
意味が違う。内容が違う。
 たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という大地を
愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制というのは、未
完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という
言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反
応を示すのは、そのためだ。
 そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷土愛」で
もよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼の人も、それに反対す
る人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。「私たちの仲間の日本
人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑豊かで、美しい日本の大
地を愛しましょう」と。その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれと
して守り育てていかねばならない。当然のことだ。


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