はやし浩司
@親子の断絶が始まるとき
●最初は小さな亀裂 最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「まさか……」「まだう ちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大きくなる。そし てそれが、断絶へと進む……。 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくな い」と思っている中高校生は79%もいる(「青少年白書」平成十年)。が、この程度ならまだ救 われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触 即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、 「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! ……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されて いるはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。 あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほ しい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休 めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであ なたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであ れば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあ げたのが、@風呂の中、Aトイレの中、それにBふとんの中だそうだ(「学外研」九八年報 告)。 ●断絶の三要素 親子を断絶させるものに、三つある。権威主義、相互不信、それにリズムの乱れ。「私は親 だ」というのが権威主義。「子どものことは、私が一番よく知っている」「子どもは親に従うべき」 と言う親ほど、あぶない。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では、仮面をか ぶる。いい子ぶる。が、その分だけ、子どもの心は離れる。親は親で、子どもの心を見失う。次 に相互不信。「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不 安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。イギ リスの格言にも、「相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う」というのがある。つ まりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すば らしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、 そうでなくなる。三つ目にリズム。あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころを思い出し てみてほしい。そのときあなたは子どもの横か、うしろを歩いていただろうか。そうであれば、そ れでよし。しかしあなたが子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていたとする なら、あなたと子どものリズムは、そのときから狂い始めていたとみる。おけいこ塾でも何でも、 あなたは子どもの意思を無視して、勝手に決めていたはずだ。今もそうだ。これからもそうだ。 そしてあなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピ アノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピ アノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅 くないから、子どものうしろを歩く。決して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに 何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子ど もの心を開く。親子の断絶を防ぐ。 A子どもが非行に走るとき ●こぼれた水は戻らない 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→ (さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴 行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮 がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居直る)→(さらに叱られる) の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、 「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、「元に 戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理 を重ねる……。 ●独特の症状 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変 調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年 に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも、その特徴としては、@拒否的態 度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「ウッセー」と拒否する。意識的に拒否する というよりは、条件反射的に拒否する)、A破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、他 人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着にな る。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、B自閉的態度(自分のカラに閉じこも り、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「悪霊」などという言葉に鋭い反応を示すようにな る。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもにはそれ が理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、C野獣的態度(行 動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方も、直感 的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をするように なる)などがある。 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ ならない。しかしこれがむずかしい。このタイプの親に限って、その自覚がないばかりか、さら に強制的に子どもをなおそうとする。はげしく叱ったり、暴力を加えたりする。これがますます子 どもの非行を悪化させる。こじらせる。 ●最後の「糸」を切らない 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自 分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら (そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して いますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前で は、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおら せる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧 ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なお そう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様 子をみる。一般に、この非行も含めて、「心の病気」は、一年単位(一年でも短いほうだが… …)で、その推移を見守る。こじらせればこじらせるほど、その分、子どもの立ちなおりは遅れ る。 B子どもの心が離れるとき ●恩着せがましい日本の子育て 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。親孝行? ……そんなこと、考えなくていい。家の心配?……そんなこと考えなくていい」と、一度は、子ど もの背中を叩いてあげる。それでこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。もちろんそ のあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、それは 子どもの問題。子どもの勝手。 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せてしま う。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。以前、NH Kの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏が、涙なが らに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育てられまし た。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめは私は、I氏の母 はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、本当にす ばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思 わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育 てながら、無意識のうちにも、I氏をそこまで追い込んでしまったのかもしれない。同じような例 は、あの『かあさんの歌』の中にも見られる。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの 歌である。が、この歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞 した「かあさんの歌」は三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つま りこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。 「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁(わら)打ち 仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは どう思うだろうか。心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう。親が子ど もに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編ん だよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれ ば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。つまり 「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれ ている。 ●うしろ姿の押し売りはしない 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦 労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの 心はあなたから離れる。……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている」と言う人 がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「ど んなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成九年には 19%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ、59%。イギリスで46%。あの アメリカでは、何と63%である。日本は今、大きな転換期にさしかかっているとみるべきではな いのか。 C子どもがやる気をなくすとき ●学習の四悪 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超 えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「A君は、もう英検の四級 が受かったのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に やる気をなくす。勉強嫌いになる。 ●無理・強制・条件・比較 @無理……子どもに与える教材やワークなど、半分がお絵かきになっても構わない。そういう おおらかさが、子どもを伸ばす。……と書くと、「何てことを言うのだ!」と怒る人もいる。が、私 は無数の市販教材を作った経験がある。「まなぶくん・幼児教室」(指導制作)「ハローワール ド」(創刊)「TOM」(指導)「なぜなぜ子ども学習百科」(指導)(以上、学研)ほか。その昔は「幼 児の学習」「なかよし学習」(学研)なども担当した。こうした教材を作るときには不文律のような ものがあって、たとえばレベルも、次のようにして決める。「上位10%と、下位10%の子ども は、読者対象からはずす。残りの80%の子どもで、平均点が60点くらいになる教材が、好ま しい」と。そういう意味では、実にいいかげんなものだ。だから半分はお絵かきになってもよい。 大切なのは、子どもが勉強を楽しんだかどうか、だ。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子は、よ く学ぶ」というのがある。 A強制……やはりイギリスの格言に、「馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませ ることはできない」というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要す るに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子ど もの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。 「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが 子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。 B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもし れないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財 力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、「勉 強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」とい う意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらい た。そうなる。反対に子どものほうから条件を出すこともあるが、そういうときは、「勉強は自分 のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子ども を自立させる原動力となる。 C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人 の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。……というのは、 少し大げさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も少 ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したために そうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」 「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。しかしこの生き方は、こ れからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強さ せるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。 D親が愛に溺れるとき ●溺愛は、愛ではない 溺愛は愛ではない。代償的愛という。いわば愛もどきの愛と思えばよい。この溺愛がふつう の愛と違う点は、@親子の間にカベがないこと。こんなことがあった。参観授業でのこと。A君 (年長児)がB君(年長児)に向かって、「バカ!」と言ったときのことである。その直後、うしろに 並んでいた母親たちの間から、「バカとは、何よ!」という声が聞こえてきた。またこんな例も。 ある母親が私のところにやってきて、こう言った。「先生、私、娘(年中児)が、風邪で幼稚園を 休んでくれると、うれしいのです。一日中、娘の世話ができると思うと、うれしいのです。それに ね、先生。私、主人なんかいてもいなくても、どちらでもいいような気がします。娘さえ、いてくれ れば。それでね、先生、私、異常でしょうか?」と。私はしばらく考えてこう答えた。「異常です」 と。 ほかに中学三年の息子が初恋をしたことについて、激しく嫉妬した母親もいた。ふつうの嫉 妬ではない。その母親は、相手の女の子の写真を私の前に並べながら、人目もはばからず、 ワーワーと泣いた。「こんな女のどこがいいのですか!」と。 次にA溺愛する親は、その溺愛を、えてして「親の深い愛」と誤解する。ある中学での懇談会 で、先生が親たちに向かって、「皆さんは、お子さんたちが汚してきた運動着をどうしています か」と聞いたときのこと。そのとき一人の母親がまっ先に手をあげて、こう言った。「私は息子が 汚してきたシャツは、いとおしくていとおしくて、頬ずりしています!」と。 ●情緒的な欠陥が原因 親が溺愛に走る背景には、親自身の精神的な未熟性と、情緒的な欠陥がある。それがたと えば生活への不安や、夫への満たされない愛、あるいは子どもの事故や病気が引き金となっ て、親は溺愛に走るようになる。が、溺愛に走るのは親の勝手だとしても、その影響は、子ども に出てくる。子どもはいわゆる溺愛児と呼ばれる子どもになる。特徴としては、@幼児性の持 続(年齢に比して幼い感じがする)、A退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的にな る)、B服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、柔和でおとなしく、 満足げでハキがなくなる。ちょうどひざに抱かれたペットのように見えるから、私はペット児(失 礼!)と呼んでいる。が、それで悲劇が終わるわけではない。 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば 子どもには、満4・5歳から5・5歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中 間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。し かし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてある時、そのカラを一挙に脱ごうとす る。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内暴力をともなう。子「こんなオレにしたのは、 お前だろ!」、母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。しかし子どもの成長という ことを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタ イプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」という男性がいたが、そうなる。 ●生きがいを別に この溺愛を防ぐためには、親自身が子どもから目を離さなければならない。しかし実際には むずかしい。このタイプの親は、「子離れをしよう」とあせればあせるほど、子育てのアリ地獄 へと落ちていく……。では、どうするか。親自身が、子育てとは別に、別の場所で生きがいを求 めるしかない。ボランティア活動でも、仕事でも。子育て以外に、没頭できるものを別に求め る。そしてその結果として、子どもから離れる。子育てを忘れる。 E親子のきずなが切れるとき ●親に反抗するのは、子どもの自由? 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗 してはいけない」と考えている高校生は、5%。この数字を、アメリカや中国と比較してみると、 親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国15%。親に反抗してはいけない……アメリカ8 2%、中国84%(「日本青少年研究所」九八年調査)。日本だけは、親に反抗してもよいと考え ている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダントツに少な い。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家 O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそう なのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。 ●受験が破壊する子どもの心 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖 父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動 が消えた。子どもがはじめてテストをもって帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数 は! 平均点は何点だったの?」と。さらに「あんたを幼稚園児のときから、高い月謝を払って 英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子 どもからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親 子の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「8 5%」という数字は、まさにその結果であるとみてよい。 ●親の責任を追及する子ども さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき 手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ てしまった。R氏には二人の娘がいた。一人は大学一年生、もう一人は高校三年生だった。R 氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費 がむずかしくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の 娘はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんた の義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻ま で、「生活ができない」と言って、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。 「家族って、何ですかねえ……」と。 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言 うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」という言葉にしても、 いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を変えてみたら… …。たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気 楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子ども がテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりな よ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでや る気を起こす。 F子どもがドラ息子になるとき ●ドラ息子・ドラ娘 教育の世界には、誤解がまん延している。その一つが「忍耐力」。ある日一人の母親が私のと ころにやってきて、こう言った。「うちの子はサッカーだと、一日中している。忍耐力はあるはず だ。そういう力を、勉強のほうに向けさせたいが、どうしたらいいか」と。しかしそういう力は、忍 耐力とは言わない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力とは、いや なことをする力のことをいう。試しにあなたの子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを 始末して!」と。風呂場の排水口にたまった、毛玉でもよい。そのときあなたの子どもが、「ハ ーイ」と言って、それを手で始末できれば、よし。あなたの子どもは忍耐力のある子どもというこ とになる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。理由は簡単だ。もともと学習には、ある 程度の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だから、である。 子どもは使えば使うほど、すばらしい子になる。忍耐力もそこから生まれる。が、今の子ども たちは、家の手伝いをしない。……というより、させることが、ない。ある母親はこう言った。「掃 除は掃除機で、ものの一〇分ですんでしまう。洗濯も全自動、料理も電子レンジ、食器も食器 洗い機に任せている。何をさせるのですか」と。「料理のときキッチンの前でウロウロされると、 かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と言った母親すらいた。しかしこういうス キをねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。その症状は、@自己中心的(自分勝手でわが まま)、A退行的(目標や規則が守れない。生活習慣がだらしなくなり、無礼、無作法。依存心 が強い割に、無責任になる)、Bものの考え方が消費的(一時的な楽しみに走りやすい)にな り、Cバランス感覚(ものごとを静かに考えて、正しく判断する感覚)が消える、など。子どもは 自分で苦労をして、はじめて他人の苦労が理解できるようになる。これも試しに、子どもの前で 重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのとき「ママ、手伝ってあげる」と走り寄ってくれば、よ し。しかしそういうあなたの姿を、見て見ぬフリをしたり、ゲームに夢中になっているようであれ ば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と見てよい。今は、体も小さく、あなたの支配下 で、おとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。 ●バランス感覚を大切に 子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感のある生活に心 がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせ る。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意 識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつけさせるた め、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生活の基本で あることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がける。ここでいう 「バランスのある生活」というのは、きびしさとやさしさが、ほどよく調和した生活をいう。ガミガミ と子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。あるいは極 端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生 活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほど、子ど もは、先に書いたバランス感覚をなくす。 もし今、あなたが「子どもに楽をさせるのが、親の愛」などと誤解しているようなら、今すぐ、そ ういうまちがった子育て観は改めたほうがよい。子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、 将来苦労するのは、結局は子ども自身ということを忘れてはならない。 G家族の心が犠牲になるとき ●子どもの心を忘れる親 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽 い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな 相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日 本ではそうなのか? ●明治以来の出世主義 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。 カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、 家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。たとえば国立社会保 障人口問題研究所の調査(九八年)によれば、今でも「家事をまったく手伝わない夫」が、53 〜61%もいるそうだ。仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の学 歴社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、 何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえる と、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい の日本人は家族の心を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。 ●家族主義 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ のまま欧米人の幸福観の基本になっている。少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」と いう映画を見たが、あの中でも、深い家族愛がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」 を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父 なる大地を愛する」という意味の言葉に由来する。)「国のためには戦わない」と言う欧米人も、 「家族のためなら、命がけで戦う」と言う。家族を守るということには、そういう意味も含まれる。 回りまわって、愛国心にもつながる。それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値 観を変えるべき時期にきているのではないのか。今のままだと、いつまでたっても、「日本異質 論」は消えない。が、悲観すべきことばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、 「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中 日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった一年足らずの間に、5ポイントもふえ たことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。そこであな たもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあ い、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、 日本を変え、日本の教育を変える。 |