はやし浩司
はやし浩司 幼児期に決まる国語力 ●幼児期に、どう指導したらいいの? 以前……と言っても、もう二〇年以上も前のことだが、私は国語力が基本的に劣っている子 どもたちに集まってもらった。そしてその子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどうちがうか を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。 @使う言葉がだらしない。ある男の子(小学二年)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま戦国自衛隊 という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言 った。「先生、スゴイ、スゴイ。バババ……戦車……バンバン。ヘリコプタ−、バリバリ」と。何度 か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったく伝わってこなかった。 A使う言葉の数が少ない。ある女の子(小学生)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウフン」だけで会 話が終わるとか。何を聞いても、「マアマア」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「まあ まあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。 B正しい言葉で話せない。そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子も 外国語を話すように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようでもあった。 私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへ へ」と。 原因はすぐわかった。その中の一人の母親に、そのことを告げると、その母親はこう言った。 「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ……」と。 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎 日、「帽子、帽子!ハンカチ!ハンカチ!バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうばあいは、たとえめんどうで も、「帽子をかぶりましたか。ハンカチをもっていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげ ねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を 読んであげているから」と。 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水 がごとく、ペラペラと本を読む子どもが現われる。しかしたいてい、文字を音にかえているだけ で、内容はまったく理解していない。そういうときは、本を読んであげるときも、また本を読ませ るときも、一頁ごとに、その内容について質問してみるとよい※。「クマさんは、どこへ行きまし たか」とか、「ウサギさんは、どんな気持ちですか」と。そういう問いかけが、子どもの国語力を みがく。 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って いる人も多い。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本は、幼児期に決まる。それ を私は言いたかった。 (※参考)この考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、途中で、あれこれ質問して はいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうもの だ」という意見をもらった。主に図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人から のものだった。 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多 い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。 たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけ でも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「ま どろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よ さ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレス は相当なものだ。パソコンを相手にしていると、そういう場面によく出あう。「TIFFファイル(イン ターネットファックスファイル)を、EASYFAXPRO2001EXのファックスビューワーに関連付け ますか」などという表示が突然出てきたりすると、パソコン歴三〇年以上の私ですら、いまだに ドキッとする。あくまでも子どもの立場で考えたらよい。 子育てリズム論 ●子どもが赤ちゃんのときから、リズムが始まる……? 子育てはリズム。親子のリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子どもが 三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それはもう、 騒音でしかない。 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、@あなた が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、それでよし。しかしA子どもの前に 立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀 裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。あるいはあなたが子どもと一 緒に歌を歌っている姿を思い浮かべてみてほしい。そのとき、@子どものリズムで、子どもの 歌い方で歌を歌っていれば、それでよし。しかしA子どもと一緒に歌を歌うのをめんどうに感じ たり、自分が好きな歌を子どもに押しつけているようなら、要注意。このタイプの親ほど、親意 識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答 えでもしようものなら、「親に向かって、何だその態度は!」と、それを叱る。そしておけいこ塾 でも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前 ではいい子ぶる。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮 面は仮面。長くは続かない。 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」とか。この段階で、互いにあいまいなことを言う のを許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張 する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。 リズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときから、そして子どもがおとなになるまで続くと いうこと。その途中で変わるということは、まず、ない。たとえば赤ちゃんにミルクを与えるとき。 赤ちゃんが泣く前に、時計を見ながらミルクを飲ませる母親もいる。反対に赤ちゃんが泣いて から、ミルクを与える母親もいる。こうしたリズムは、子どもが幼児になると、次のように変わ る。子どもが望む前に水泳教室へ入れる母親もいる。反対に子どもが「行きたい」とせがんで から、水泳教室へ通わせる母親もいる。親子のリズムが合っていれば、問題はない。しかし合 っていないと、不協和音になる。そしてその不協和音は積もりに積もって、親子の間に亀裂を 入れる。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家へ帰るのが苦痛でなりません。親と 顔を合わせても、何を話したらいいのか、わからなくなるときがあります」と。また別の男性(四 〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えな ければならないが、リズムは、その人の生い立ちや人生観と深くからんでいるため、変えるの も容易ではない。しかし、変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほど、よい。もしあなたが 子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日から、子どものうしろを歩い てみる。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができる。いつかや がて、すばらしい親子関係を築くことができる。 美しいあなたへ ●子どもを愛せない……? あなは声を震わせて泣いた。それを見て私は、口をかたく結んだ。私にはあなたの苦しみ を、どうすることもできない。悲しみを、やわらげることもできない。 あなたは最初、「三歳になった息子を愛せない」と言っていて、私のところに相談にきた。そ ばにいく人かの人がいた。皆も、そして私も、そういうあなたにこう言った。「気軽に考えたら」 「無理をしてはいけない」と。しかしその言葉は、あなたを苦しめた。 あなたは心のやさしい人だ。若いときから一人の男のストーカー行為に悩んでいた。が、あな たは「私だけががまんすれば……」と、その男に妥協した。そして結婚した。そして今の子ども が生まれた。そうしてできた子どもを愛せないからといって、だれがあなたを責めることができ るだろうか。あなたはこう言った。「結婚を断れば、事件になったかもしれない。夫が恐ろしかっ た」と。 あなたは美しい人だ。相談を受けながら、「あなたはこんなところにいる人ではない」と、私は 何度も心の中でつぶやいた。さんさんと降りそそぐ明るい陽光を浴びて、あなたは金色に輝く べき人だ。あなたが笑ったら、どんなにすてきなことか。 「あなたにも夢があるでしょ?」と聞くと、あなたは、小さな声で、「看護婦さんになりたい……」 と。私はそのときふと、自分が病院で死ぬときは、あなたのような看護婦さんにみてもらいたい と思った。が、私は精一杯、自分の顔をとりつくろって、こう言った。「子育ても一段落するとき がきますよ。そのときがチャンスですよ」と。 私は冷酷な人間だ。そういうあなたに向かって、「まとわりつく子どもをいやがるのは、ストー カーだった夫を、あなたの子どもの中に見るからだ」と言ってしまった。何という冷酷な言葉! あなたは自分の心の中をのぞいてしまった。あなたがそれに気づいたとき、あなたは子どもだ けではなく、あなたの夫も愛せなくなってしまった! 最後の日。涙で赤くなったあなたの目を見ながら、私はこう思った。「勇気を出して、心を解き 放ちなさい。体はあとからついてくる」と。「今のままでは、あなたも、夫も、そして子どもも不幸 になる」と。が、私には何も言えなかった。何という無力感。何というはがゆさ。振り返ると、もう あなたはそこにいなかった。 さようなら、Yさん。お元気で。いつか看護婦さんになったら、連絡してくださいね。夢を捨てて はだめですよ。 子育ての「カラ」を破る ●八〇〇年後には、みんなあなたの子孫……! 子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるのが子育て。あなたの子どもはいつ かおとなになり、そして親になる。親になって、今自分が受けている子育てを繰り返す。もしあ なたが今、あなたの子どもに暴力を振るっていれば、あなたの子どももまた、親になったとき、 その子ども(孫)に、暴力を振るようになる。これを教育の世界では、「世代伝播(でんぱ)」とい う。子育てというのは、親から子どもへと、伝播しやすい。が、このことにははもう一つの意味が 含まれる。あなたは子どもの中に孫、さらにその孫の中にそのまた孫を見ることによって、あな たを包む、「カラ」を破ることができる。こういうことだ。 今あなたは子育てをしながら、ひょっとしたら、「うちの子さえよければ」と考えているかもしれ ない。「世間はともかくも、とりあえずうちの子のことだけでも、うまくいけばそれでいい」と。しか しもしあなたが子どもの中に孫、さらにその孫の中にそのまた孫を見ることができるようになる と、この考えはまちがっていることを思い知らされる。こんな計算がある。仮に夫婦(二人)が、 それぞれ二人ずつの子どもを産んだとすると、二七代目には、その数は一億三〇〇〇万人を 超える。ほぼ今の日本の人口と同じになる。一世代を三〇年とすると、二七掛ける三〇で、八 一〇年。つまり八一〇年後には、日本人のすべてがあなたの子孫ということになる。 あなたは今、自分の子どものことを心配する。しかし孫が生まれれば、あなたはその孫のこ とを心配するだろう。もしあなたに永遠の命があるなら、あなたはそのまた孫のことを心配する だろう。……そういうふうに考え始めると、今、あなたが「自分の子さえよければ」という考えな ど、どこかへ吹っ飛んでしまうはずだ。そしてその時点で、あなたは、自分の子どものことは当 然としても、同時にこの社会全体、日本全体、世界全体の問題を考えることも重要だと気づく。 つまりそれがここで言う「カラ」を破るということである。 実のところ、私もこの問題では悩んできた。教育論を論じながら、いつも心のどこかで(自分 の子ども)と、(他人の子ども)を区別していた。自分の子どもに言う言葉と、他人の子どもに言 う言葉が、どこか違っていた。それは実に心苦しいジレンマだった。人間誰しも、表ズラと内ズ ラを使い分けて生きるのは、たいへんなことだ。だからある日から、私はそれをやめた。やめ て、自分の子どもにも、他人の子どもにも本音を語るようにした。しかしそれが本当にできるよ うになったのは、自分の子どもの中に孫、さらにはそのまた孫を見ることができるようになった ときである。子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるということには、そういう 意味も含まれる。 善の心、悪の心 ●子どもの心を、どう育てたらいいの? 市内のY文具店で、一本一〇〇円のペンを七本、買った。買って、一〇〇〇円札を出した。 どこかぼんやりしていた。言われるまま、ペンとおつりを受け取り、ふと見ると、おつりが、三百 数十円! そのときだ。私は「おっ」と思い、一、二歩歩いた。歩いてしまった。この迷いこそ が、私の限界でもある。 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となる。そしてその年が重なって、その人 の人格となる。五〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、どっと前に出てくる。同じよ うに六〇歳も過ぎると、それまでごまかしてきた人格が、どっと前に出てくる。むずかしいことで はない。健康にせよ、人格にせよ、日々のささいな心構えで決まる。 手に握ったおつりを見ながら、「あのう……」と言いかけると、そこに店長が立っていた。そし て私の気持ちを察知して、笑いながらこう言った。「今、一割引きなんです。はじめに言ってお かなくて悪かったね」と。とたん、女子店員の顔がなごんだ。私の顔もなごんだ。 子どものころの私は、ずいぶんといいかげんな男だった。ジュースを飲んだときでも、その空 きビンを、どこかの塀の上に置いたこともある。ガムをかんだあと、そのカスを道路へ捨てたこ ともある。ツバやタンを道路へ吐き捨てるのも平気だった。どこかの店で、店員がおつりをまち がえたときも、少なければ文句を言ったが、多ければ、黙っていた。戦後の混乱期というのは、 そういう時代で、きれいごとを並べていたら、生きていくことそのものが難しかった。が、ある日 を境にして、私はそれをやめた。そのある日のことだった。何かの学生会議のようなもので、 私がある会館に招待されたときのこと。どこかの工場団地に隣接する会館だった。私たちはそ のとき、会社の経営者たちと懇談することになっていた。が、私は皆より早く部屋に入り、ひとり 窓の外を見ていた。そしてそのときだ。私はいつものように外に向かって、ツバをペッと吐い た。が、そのツバが風に流れ、開けた窓ガラスにぺタリとくっついてしまった! あわてたが遅 かった。と、同時にドヤドヤと人が入ってきた。私はその会議の間中、ずっと生きた心地がしな かった。以来、ツバを吐くのはやめた。ゴミを捨てるのもやめた。…………やめたというより、 できなくなった。 もしあのY文房具店で、そのままおつりを握って外へ出たとしたら、私はどうなっていたか。わ ずかばかりのつり銭で、得をした気分になっていたかもしれない。しかしそれは同時に、たった 一〇〇円のことで私の善なる心を売り渡したことになる。が、私は振り向いた。たったそれだけ の行為だが、皆の心がそこでなごんだ。それは、一〇〇円ではとても買えないものだった。こう いうケースでは、損か得かという判断をすること自体、バカげている。あやうく私は一〇〇円の ことで、自分の人格をつぶすところだった。 さて私はもう七年足らずで、六〇歳になる。正直言って、どんな人格が出てくるか、心配でな らない。ボロが出て、多分、見苦しい老人になるだろう。私の場合、気がつくのが遅すぎた。も う少し早く気がついていれば、こんな悩みをもたなくてすんだが……。 家族は自然体で ●あれこれ言われると、不安になってしまうわ……。 家族は、気楽に行こうよ。鼻クソをほじりたかったら、ほじればいい。おならをしたかったら、 すればいい。あいさつにしても、したければすればいい。したくなかったら、しなくてもいい。家 族はいこいの場。みんなが信頼しあい、守りあい、助けあえば、それでいい。気をつかわない から、家族って、言うんだよね。 そりゃあ、食事だって、みんなが一緒にできれば、それにこしたことはない。しかしね、みんな 生活時間が違うだろ。たいていの人は、みんな働く時間帯が違うよ。夫と妻も違う。おとなと子 どもも違う。ぼくなんか、毎晩午前二時、三時まで仕事しているよ。だから朝ご飯だって、一緒 に食べたことがない。女房は女房で、毎晩のようにいろんな会合があるし……。無理なんだ よ。一緒に食事をするということが……。 要するに家族は「形」ではない。「中身」なんだ。そして大切なことは、それぞれが相手の生活 を認め、それを理解し、受け入れることなんだ。ただね、子どもが幼いうちは、できるだけ家族 はみんな、行動をともにしたほうがいいよ。子どもはそういう行動を通して、「家族」というものを 学ぶからね。それにね、子どもというのはね、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむよ。 「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味さ。たとえば夫婦げんかにしても、それがあ る一定のワクの中でなされているなら、問題はないよ。しかしね、いくらうわべをとりつくろって いても、夫婦の間が冷えきっていたりすると、その影響は子どもに出てくるよ。よく「離婚は子ど もに影響を与えますか?」と聞く人がいるけど、離婚そのものよりも、その離婚に至る騒動が、 子どもの心に深刻な影響を与えるよ。だから離婚するにしても、騒動は最小限に、ね。 そうそうあと片づけにしてもね、もううるさく言わないこと。ただね、あと片づけとあと始末は違 うからね。あと始末はきちんと子どもにさせようね。たとえば食後、食器は、シンクへ集めると か。冷蔵庫から出したものは、元に戻させるとか……。日本人はこのあと始末が、苦手な国民 だよ。子どものときから、そういうことは教えられていないからね。そうそう、あの戦争だって、 いまだにあと始末をしてないよ。正式には、ね。 子どもはね、親が必死になって家族を守ろうとしている姿を見ながら、家族の大切さを理解す るよ。そういう姿は見せておこうね。……で、あなたも今日からこう言ってみてはどうかな。「家 族を大切にしようね」と。 自然教育の原点 ●自然教育って、みなが言うけど……。どう考えたらいいの? 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季 節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。 浜松市内とI町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕事をし て、週末はT村ですごす。距離にして車で四〇分足らずのところだが、この二つの生活はまる で違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、当た り前。大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ち るたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も 浄化槽の清掃も、自分でする。こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれな い。しかし実際には、T村での生活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」とい う実感がともなう。庭に出したベンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギ スを見ていると、生きている喜びさえ覚える。 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会 生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも かくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ ……」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように 思う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう 自分に、だ。 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合 宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。 数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。 過去を再現する親たち ●この言いようのない不安は、どこから来るの? 親は子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が受験時代。それまではそう でなくても、子どもが受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安感に襲われ る。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は「勉強」そのものではない。受験にまつわる 「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受 験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。 ところで「自由」には二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に長い間、悩まされた。たいてい はこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室が分からない。やっと教室に 入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見てもできないものばかり。鉛筆が動かな い。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎる……。 親が不安になるのは親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親に 向かって「今はそういう時代ではない」といってもムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが ズレている。親は親で「すべては子どものため」と確信している。が、それだけではない。こうし た不安が親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも「父親を尊敬していない」と答 えた中高生は55%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高生は80%弱もいる(平成 十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れる。 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会 場で「こんなのできなくてもいいや」と居直るようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くよう になった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせっ てみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少し大げさな言い方に 聞こえるかもしれないが、私の魂は解放された! たいていの親は自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、 その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで……まず自分の過去に気づく。それ で問題は解決する。受験時代にいやな思いをした人ほど、一度自分を冷静に見つめてみてほ しい。 息子が恋をするとき ●へえ、あの子がねえ……。恋をした? 栗の木が黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「人生の中で一番楽し い」と書いてきた。それを見せると女房が、「へえ、あの子がねえ」と笑った。私も笑った。 私も同じころ恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の女性の母 親から、私の母に電話があった。「うちの娘はお宅のような家の息子とつきあうような娘ではな い。交際をやめさせてほしい」と。女性の家は、製紙工場を経営していた。一方私の家は自転 車屋。私はその電話を気にしなかったが、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなか った。ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女って何? 氷と欲望がその上でゆり動く……」と。オリビ ア・ハッセーが演ずる『ロメオとジュリエット』の中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語 といえばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心をとらえるかといえば、そこに「純粋さ」を 感ずるからではないのか。私たちの世界には、あまりにも偽善が多すぎる。何が本物で、何が ウソなのか、それすらわからない。が、もし人がもっとも人間らしくなれるときがあるとするなら、 それは電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心も焼きつくすような恋をするときだ。それは人 が唯一、つかむことができる「真実」と言ってもよい。ロメオとジュリエットを見る人は、その真実 に打ちのめされる。そして涙をこぼす。しかしその涙は、決して若者の悲恋をいとおしむ涙では ない。すぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。無限に見えたあの青春時代も、終ってみるとう たかたの瞬間。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女もまた 同じ……」と。 相手の女性が結婚する日、私は一日中、自分の部屋で天井を見あげて寝ていた。ほんの少 しでも動こうものなら、そのまま体が爆発してしまいそうだった。ジリジリと時間がすぎていくの を感じながら、無力感と切なさで、私は何度も歯を食いしばった。しかし今から思うと、あのとき ほど自分が純粋で美しかったことはない。それが今、たまらなくなつかしい。 私は女房にこう言った。「相手の女性がどんな子でも、温かく迎えてあげよう」と。それに答え て女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私もまた、笑った。 子育て四次元論 ●子育てを、どう考えたらいいの? 子育てには四つの方向性がある。 その(1)、子どもに子ども(あなたからみれば孫)の育て方を教えるのが、子育て。「あなたが 親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱(しか)るので すよ」と。もっと言えば、子育ての見本を見せるのが子育て。「親子というのはこういうものです よ」「幸せな家庭というのはこういうものですよ」と。あなたの子どもは親になったとき、あなたが した子育てを繰り返す。それを想像しながら、子育てをする。 その子育て。二〇〇一年の春、犬山のモンキーセンターにいる、チンパンジーのアイが、無 事出産した。当初、つまりアイが妊娠したとき、センターの飼育係の人たちが心配したのは、は たしてアイに子育てができるかどうかだった。が、出産してみると、アイは、無事子育てを始め た。一般論として、人口飼育された動物は、自分では子育てができない。高等な動物ほどそう だ。子育ては本能ではない。自分が育てられたという経験、つまり「学習」があってはじめて、 自分でも子育てができる。……となると、アイのケースはどう考えたらよいのかということにな る。 実はアイは、人口飼育と言いながら、その人口飼育という範囲をはるかに越えるほど、濃密 な人口飼育を受けていた。赤ちゃんのときから、チンパンジーというよりは、人間の手で、まさ に人間の子どもとして育てられていた。妊娠後、アイは子育てのビデオを見せられたり、あるい はぬいぐるみを使って、子育ての練習をしたという話も伝わってきている。それもある程度の効 果はあっただろう。しかし本当の理由は、やはり人間の子どもとして育てられたことによると考 えるのが正しい。 その(2)、あなたは今、自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。そこであなたの過 去をさぐってみる。あなたは心豊かで、愛情深い家庭環境で育っただろうか。もしそうならそれ でよし。が、そうでなければ、あなたの子育ては、どこかがゆがんでいるとみる。その「ゆがみ」 に気づくこと。あなたはひょっとしたら、そのゆがみに気づかないまま、今の子育てをしている かもしれない。そしてさらに、そのゆがみを、あなたから、今度はあなたの子どもへ伝えている かもしれない。……と、言ってもむずかしいことではない。この問題だけは、気づくだけでよい。 それでなおる。 たとえば私は、結構(?)、不幸な家庭で育っている。戦後の混乱期ということもあった。親は 親で、食べて行くだけが精一杯という時代だった。その上、私の父は、今でいうアルコール依 存症になり、数日をおいては、酒に酔い、家の中で大声を出して暴れた。そのためか、私自身 も心にキズを負うことになった。が、そのキズに気づいたのは、私が何と、四〇歳も過ぎてから である。私は表面的には、愛想のよい、朗らかな男というふうに理解されているが、実際には、 それは仮面でしかない(?)。子どものころから、そういう形で自分をごまかす技術を身につけ てしまった。誰しも「私は私」と思っているかもしれないが、誰しもその過去と深く結びついてい る。 その(3)、子育ては「上」から見る。自分の子育てを、他人のと比較する。兄弟や友人、さら には近所の人たちのと比較する。もしできれば、世界の子育てと比較してみるのもよい。子育 てでこわいのは、独善と独断。「子どものことは私が一番よく知っている」「私が正しい」と豪語 する親ほど、子育てで失敗しやすい。要は風通しをよくするということ。そのために視野を高くも つ。 日本人の子育ての特徴を一口で言えば、子どもに依存心をつけさせることに、あまりにも無 頓着(とんちゃく)過ぎるということ。昔から日本では、親にベタベタと甘え、「お父さん」「お母さ ん」と、親にすり寄ってくる子どもを、「かわいい子」イコール、「よい子」とした。一方、独立心が 旺盛で、「親なんか……!」と言う子どもを、「鬼っ子」として嫌った。だから子どもを育てなが ら、親は無意識のうちにも、「親がいなければあなたは何もできない」式の育て方をする。しか しそれは同時に、子どもから自立心を奪うことになる。その一つの例が、森進一が歌う、『おふ くろさん』という歌である。世界広しといえども、大のおとなが、空を見あげながら、「ママー」「マ マー」と泣くのは、日本人くらいなものではないか。 最後に(4)、子育てはただの子育てではない。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは 自分を育てることだ」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育ては、そんな甘いもの ではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越え、いやおうなしに育てられる。 はじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、たしかに若くてきれいだが、底が浅い。しか しそんな親でも、子育てで苦労するうちに、やがて姿勢が低くなり、人間的な深みができてくる。 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもが親に、人間がどういうものかを 教える。 以上、子育てに、未来、過去、外、内の四つの方向性があることを、私は「子育て四次元論」 と呼んでいる。 親の恩も遺産次第 ●何か、今の子育ておかしい……? どう考えたらいいの? 「老人のような役たたずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私 が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでに うんと、お金を稼いでおくからいい」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者が ふえている。 今年、総理府が、成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめん どうを、あなたはみるか」と。それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たっ たの19%! この数字がいかに低い数字かは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さら に東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字 は、三年前(平成六年度)の数字より、四ポイントもさがっている。このことからもわかるよう に、若者たちのドラ息子ドラ娘化は、ますます進行している。 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。 金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均一 七万円(九五年度、M新聞調査)。この額は、平均的サラリ−マンの年収(六五〇万円)の、三 割強。だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパ−トに出て働く。そして それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生諸君は、大学生とは名ば かり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている!先日も京都に住む、自分の息子の生活 を見て、驚いた母親がいた。冬だったというが、一日中、電気スト−ブはつけっぱなし。毎月の 電話代だけでも、数万円も使っていたという。 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強……と言われてきた んだから、何をいまさら」ということになる。「親のメンツのために、大学へ行ってやっている」と 豪語する子どもすら、いる。今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいな いのではないか。大半の高校生は、「行ける大学・行ける学部」という視点で、大学選びをす る。あるいはブランドだけで、大学選びをする。つい先日も、こんなことがあった。一人の女子 高校生が私の家に来てこう言った。「先生、今度、E大学の国際関係学部に入ることになりまし た」と。そこで私が、「何だ、その国際関係学部っていうのは? どんなことを勉強するの」と聞く と、彼女はこう答えた。「知らない……」と。さらにこんなこともあった。やはり一人の男子高校 生が私の家に来て、こう言った。「先生、明治大学と法政大学、どっちがカッコいいですかね。 結婚式での披露宴のこともありますから」と。大学を見てくれで選ぶ高校生は、いくらでもいる。 だからますます遊ぶ。もともと勉強する意欲もないし、目的もない。年に数日、講義に出ただけ で卒業できたという学生もいた(新聞の投書欄)。 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私た ち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。私の話は、すでに一世 代前の話だというわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。「今でも、 毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけでも、月に四 万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。 よい子の条件 ●どうすれば、うちの子は、いい子になるの? 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるんだ。それを一口で言ってくれ。私 は、そのとおりにするから」と言ってきた、豪快(?)な、父親がいた。「あんたの本を、何冊も読 む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い まくることです」と。 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。 自立心が養われる。そればかりではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この 忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす。 その忍耐力。よく「うちの子はサッカ−だと、一日中しています。そういう力を勉強に向けてく れたら」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけで ある。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生 ゴミを手で始末できるとか、寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができるとか、そういう力 をいう。こんな子ども(年中・女児)がいた。 その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるの が、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさん が口から食べ物を吐き戻すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子ども は、学習面でも伸びる。なぜか。 もともと勉強というのは、いやなものだ。中学生でも、高校生でも、「勉強が好きだ」という子ど もは、どこかおかしいと思ってよい。まともな子どもなら、嫌って当然。そのいやな勉強をする原 動力が、ここでいう忍耐力ということになる。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→ (できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「使うといっても、やらせることがありません」 と。「部屋といっても、三DK。掃除はあっという間に終わってしまうし、洗濯は、全自動の洗濯 機。食材は、食材屋さんが、毎日、届けてくれます」と。今、ほとんどの幼児にとって、家の手伝 いといえば、靴並べに、箸並べ。その程度ということになっている。「手伝いのメニュ−を書いて くれ。そのとおりにするから」と言ってきた、母親もいた。 子どもを使うということは、子どもを家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえば親が、重い 荷物を運んでいたとすると、子どものほうからサッと手伝いにくる。庭の草むしりをしていたら、 やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさ せればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」 ということになる。 もしもあのとき、母だけでも…… ●子どもを信ずるって、むずかしい……! あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれていたら……。が、母は「浩ちゃん、あんたは 道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私が「幼稚園で働いている」と 言ったときのことだ。 日本人はまだあの封建時代を清算していない。その一つが、職業による差別意識。この日 本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそうで、どんな仕事がそうでない かはここに書くことはできない。が、日本人なら皆、そういう意識をもっている。先日も大手の食 品会社に勤める友人が、こんなことを言った。何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、 若い女性で応募してくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、 私は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせることができるか」 と。いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方すら、封建時代の亡霊といっ てもよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中 身は、「自分や、自分の子どもだけは違う」という差別意識でしかない。が、それだけではすま ない。こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。この日本に はよい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進学率の高い学校をい い、進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」に直結している学校をいう。 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入ってみると、事 情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が渦巻いていた。それに職場は まさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじめが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年 配の教師にひっぱたかれたことか! 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるものとばかり思って いた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、どん底に叩き落とされてしまっ た。それからというもの、私は毎日、「死んではだめだ」と、自分に言って聞かせねばならなか った。いや、これとて母を責めているのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言った だけだ。 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根源は、もっと深 く、そして別のところにある。 親のうしろ姿 ●私は私で、前向きに生きていきたいし……。 生活のために苦労している姿。子どもを育てるために苦労している姿。これを「うしろ姿」とい う。そのうしろ姿を子どもに見せることを、この日本では美徳のように考えている人がいる。あ るいは「子どもは親のうしろ姿を見て育つ」などと言う人もいる。しかし親のうしろ姿などというも のは、子どもに見せるものではない。見せるつもりはなくても、子どもは見てしまうかもしれない が、それでも見せるものではない。親は親で、子どもの前では、どこまでも自分の人生を前向 きに生きる。生きなければならない。そういう姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。 昔『一杯のかけそば』という話があった。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べる という、あの話である。あの話に日本中が泣いたが、あの話は基本的な部分でおかしい。私が その場にいた親なら、多分子どもにはこう言うだろう。「パパは、おなかがすいていない。お前 たちだけで食べなさい」と。が、あの話の中では、親も分けあって食べている。こういのを、親の 恩の押し売りという。このタイプの親に限って、「生んでやった」だの「育ててやった」だのと言い 出す。子どもは子どもで、「生んでもらった」だの「育ててもらった」だのと言い出す。こうして親 は子どもに甘え、子どもは親に甘える。そこにいるのは、綿々と子離れできない親、親離れで きない子どもということになる。 親は確かに子どもを生むが、しかし子どもに頼まれたから生むのではない。そんなことはあり えない。つまり親は自分の勝手で子どもを生む。そして生んだ以上は、育てるのは親の義務。 親の責任ではないか。 子どもは親から生まれるが、決して親の「モノ」ではない。一人の独立した人間だ。親は子ど もに向かって、「あなたの人生はあなたのもの。たった一度しかない人生だから、思う存分、自 分の人生を生きなさい。親孝行? ……そんなこと考えなくてもいい。家の心配? ……そんな こと考えなくてもいい」と、一度は肩をたたいてあげる。それでこそ親は自分の義務を果したこ とになる。もちろんそのあと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみるとか、家のめんどうを みるというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。子どもに親孝行を期待したり、 要求するのは、親のすべきことではない。要するに親のうしろ姿は見せないことだ。 人類のゴール ●はやしって、欧米かぶれしている……? 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになった。相手の女性が、毎日のようにメー ルをくれる。で、ある日、ふと気がつくと、私の中の「国」意識が変化しているのに気がついた。 いまだに商社マン時代の対抗意識が残っている。アメリカには、さんざんひどい目にあわされ た。嫌いといえばアメリカは嫌いだ。学生時代、通訳をしていたときも、彼らは私を通訳というよ りは、小間使いのように扱った。だからG社で英語雑誌を作るときも、私は「クイーンズ・イング リッシュでいこう。それがダメなら、ジャパニーズ英語でもいい。インド人はインド英語を、フィリ ッピン人は、フィリッピン英語を話している」と。が、結局アメリカ英語になってしまった。苦い思 い出が、山のようにある。 私は日本人だ。しかしそういう意識とは別に、「国」とは何かという問題になると、カベにぶつ かってしまった。「日本人だから」というものの考え方が、どこかで行きづまりを覚える。一方、 アメリカのふところは、とてつもなく広い。深い。もともと移民国家ということもある。 二〇〇〇年の春、東京都の石原知事が「第三国人」発言をしたとき、アメリカのCNNは、「日 本もおしまい」と評した。そして「どうして二シリンダーの車が、一二シリンダーの車に勝てるだ ろうか」と言い切った。それをふまえてその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはす べての国からの移民を歓迎する」と、宣言した。日本へのあてこすりと考えてよい※。 日本は島国である。そしてそこに住む民族は、どうしても島国的な発想から抜け出ることがで きない。それを知るか知らないかは、その人の視野の問題。が、なおたちの悪いことに、それ で居なおるばかりか、私のようなものを、容赦なく攻撃する。「君は、日本人だ。それを忘れる な。君の子育て論は、へんに西洋かぶれしている」と言ってきた人がいた。大学病院で講師を しているドクターだった。 宇宙船から地球を見た、サウジアラビアの宇宙飛行士アル・サウドはこう言った。「最初の一 日か二日は、みんな自分の国を指さした。三日目、四日目は、それぞれの大陸を指さした。 が、五日目になると、私たちの心の中には、たった一つの地球しかなかった」と。それはまさに 人類がめざすゴールと言ってもよい。そういう時代は、もう、すぐそこまできている。 (※参考)これに対して、旧来型の民族意識を唱える人も多い。「日本人は日本人でいいでは ないか。日本人は大和民族としての誇りを大切にすべきだ」と。しかし民族主義が強ければ強 いほど、その国は世界の人からは警戒される。反対の立場で考えてみれば、それがわかる。 どこかに民族主義がたいへん強い国があったとする。そしてその国が世界の覇者になろうとし ていたとする。そのときあなたはその国が、世界のリーダーになることを容認することができる だろうか。えてして民族主義は、その国の国際化のさまたげになる。この日本について言え ば、日本人が民族主義をもちだせばもちだすほど、世界はそれに警戒する。もちろんだからと いって私は、日本の独自性まで否定しているのではない。しかしその独自性は、常に世界のあ らゆる国々と、対等のものでなければならない。「日本の独自性だけがすぐれている」と考える のは、危険な考え方である。 親子の断絶診断テスト@ ●うちはだいじょうぶ? 少し心配だわ……。 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる…。今、親を尊敬できないという中高校生は、5 0%もいる。親のようになりたくないという中高校生は80%弱もいる。そこであなたの子育てを 診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子ども の心の中を知るのが、このテスト。 @あなたは子どものことについて…。 ★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。 ★三人くらいまでなら知っている(1点)。 ★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。 ★ほとんど知らない(3点)。 A学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。 ★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休める(0)。 ★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。 ★親のいるところをいやがるようだ(2)。 ★親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。 B「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは… …。 ★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。 ★少しは話すが、めんどうくさそうな表情をしたり、うるさがる(1)。 ★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。 ★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」と怒る(3)。 C何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。 ★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。 ★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。 ★親のほうが遠慮し、恐る恐る…といった感じになる(2)。 ★拒否されるのがわかっているから、とても言えない(3)。 D休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。そのとき あなたの子どもは…。 ★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。 ★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。 ★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。 ★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。 (結果)点数が15〜12点…目下、断絶状態。 11〜9点…危険な状態。 8〜6点…平均的。なお平均点はX点(ZZ中学)。 5〜0点…良好な関係。 親子の断絶診断テストA ●断絶するなんて……! どうすればいいの! ★ある程度の「断絶」は、この時期、問題はない。子どもは小学三〜四年生を境として、少しず つ親離れを始める。そして「親から独立したい」という意欲は、思春期にピークに達する。 ★断絶が断絶になるのは、@互いの意思の疎通がなくなること。A互いの会話が消える。そ のためB家族が家族としての機能を果たさなくなるときをいう。ここでいう「機能」というのは、 「家族は守りあい、助けあい、理解しあい、教えあう」という機能のことをいう。 ★原因は、@親側の権威主義的な子育て観。「私は親だ」「子どもは親に従うべきだ」という親 意識が強い人ほど要注意。子どもは親の前では仮面をかぶる。仮面をかぶった分だけ、子ど もの心は親から離れる。A相互不信。「うちの子はすばらしい」という思いが、子どもを伸ば す。親子の心は、鏡のようなもの。親が「うちの子はダメな子」と思っていると、長い時間をかけ て、子どもの心は親から離れる。そしてB子育てのリズムの乱れ。子育てのリズムは、子ども が乳幼児のときから始まる。あなたが子どもと歩いていたときのことを思い出してみてほしい。 そのときあなたは子どもの横かうしろを歩いていただろうか。もしそうならなら、それでよし。し かしあなたが子どもの手をぐいぐいと引きながら、前を歩いていたとしたら、そのときから、親 子のリズムは狂っていたことになる。「子どものことは私が一番よく知っている」という過信があ ぶない。このタイプの親はおけいこ塾でも何でも、親が一方的に決める。やめるときもそうだ。 ★親子の断絶が始まったら、@修復しようとは考えないこと。今の現状をそれ以上悪くしないこ とだけを考えて、一年単位で様子をみる。親があせって何かをすればするほど、逆効果で、子 どもの心はあなたから離れる。Aあなたが権威主義的であるなら、そういうまちがった子育て 観は捨てる。人間に上下はない。親子の間にもない。アメリカでは、親子でも「お前は、パパに 何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。こういう謙虚さが、子 どもの心に穴をあける。そして子どもに向かっては「あなたはいい子」を口グセにする。最初は ウソでも構わない。そういう口グセが、子どもの心を開く。そして最後に、今日からでも遅くない から、子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。子どものリズムにあわせる。 |