はやし浩司
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はやし浩司
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最前線の子育て論



by はやし浩司


子育てをどう考えたらいいの?
 子どもをどう見たらいいの?
  頭の中ではわかっていても、いざその場になると……?  
そんなあなたのための
子育て論。

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Chapter 1  子どもをどう考えたらいいの?
Chapter 2 子育てをどう考えたらいいの?
Chapter 3 教育をどう考えたらいいの?
Chapter 4 はやし浩司って、どんな人


はじめまして!


 子育てはまさに、無数の山越え。子育ては苦労の連続。一つの山を越え、谷を越えると、そ
のまた向こうに、山がある。あとはこの繰り返しです。しかしどんなお父さんでも、またお母さん
でも、時として袋小路に入り込み、自分を見失うこともあります。そんなとき、この「最前線の子
育て論」を、開いてみてください。このブックは、必ず、あなたの子育てのお役にたてることと思
います。

                                              はやし浩司


はじめに……

子育てのすばらしさ

子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰(だれ)のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもをよい学校へ入れることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それがわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫(ごう)にわたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。



参考文献

現代幼児教育小辞典 (風媒社)
教育相談辞典 (金子書房)
児童心理学辞典 (協同出版株式会社)
教育学小辞典 (金子書房)
幼児の用語 (日本放送出版協会)
教育データランド (時事通信社)
教育心理学小辞典 (有斐閣)
心理学中辞典 (北大路書房)
教育心理学用語辞典 (学文社)
脳のしくみ(日本実業出版社)
うつ病(医歯薬出版株式会社)ほか

文とイラスト、はやし浩司

子どもをどう考えたらいいの? 

子どもの自我

●自我って、何? 自我を引き出すには、どうすればいいの?

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。見た目の活発さだけで、自我の強弱を判断すると、子どもを見誤ることになる。静かな子どもでも、自我が強い子どもはいくらでもいる。反対に、ワーワーと自己主張するからといって、自我が強いということにもならない。昔の人は、それを「芯(しん)」という言葉で表現した。「あの子は芯の強い子」とか。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分からない子どもといった感じになる。

 その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、威圧的な過干渉(親の価値感を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへんむずかしい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。特に乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数十万年というながい年月を、こうして生き延びてきた。その過程の中でも、むずかしい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思う方がおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育ての原点はここにある。


(※参考)フロイト(1856〜1939、オーストリアの心理学者)は、自我の強弱によって、人の様子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめた表が、次のものである。

自我が強い子ども 自我が弱い子ども
行動能力 ものごとに攻撃的になり、積極的になる。「やる」「やりたい」という言葉が、子どもの口からよく出てくる。 ものごとに防衛的になり。消極的になる。「いやだ」「つまらない」という言葉が多くなる。
現実感覚 現実感が強く、ものの考え方が現実的になる。頼れるのは自分だけというような考え方をする。 ものの考え方が非現実的になり、空想や神秘的なものにあこがれや期待を抱いたりするようになる。
趣味の方向性 将来に向かって、創造的な趣味が多くなる。たとえば「お金をためて楽器を買う。その楽器でコンクールに出る」「友だちの誕生日のプレゼント用に、船の模型を作る」など。 一時的な快楽を求める傾向が強くなり、趣味も退行的かつ非生産的になる。たとえば意味もないカードやおもちゃをたくさん集める、など。もらった小遣いも、すぐ使ってしまう。
衝動的行為 ほしいものがある。目の前にはお金がある。こういうときセルフコントロールができ、自分の行為にブレーキをかけることができる。自制心が強く、そのお金には手を出さない。 衝動性が強くなり、ほしいものに対して、ブレーキをかけられなくなる。盗んだお金で、ほしいものを買っても、欲望を満足させたという喜びのほうが強く、悪いことをしたという意識が生まれない。


自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理現象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神分析)など。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。


子育てをどう考えたらいいの?

子育てリズム論

●子どもが赤ちゃんのときから、リズムが始まる……?

 子育てはリズム。親子のリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それはもう、騒音でしかない。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、@あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、それでよし。しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。あるいはあなたが子どもと一緒に歌を歌っている姿を思い浮かべてみてほしい。そのとき、@子どものリズムで、子どもの歌い方で歌を歌っていれば、それでよし。しかしA子どもと一緒に歌を歌うのをめんどうに感じたり、自分が好きな歌を子どもに押しつけているようなら、要注意。このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「親に向かって、何だその態度は!」と、それを叱る。そしておけいこ塾でも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前ではいい子ぶる。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしいのか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」とか。この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 リズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときから、そして子どもがおとなになるまで続くということ。その途中で変わるということは、まず、ない。たとえば赤ちゃんにミルクを与えるとき。赤ちゃんが泣く前に、時計を見ながらミルクを飲ませる母親もいる。反対に赤ちゃんが泣いてから、ミルクを与える母親もいる。こうしたリズムは、子どもが幼児になると、次のように変わる。子どもが望む前に水泳教室へ入れる母親もいる。反対に子どもが「行きたい」とせがんでから、水泳教室へ通わせる母親もいる。親子のリズムが合っていれば、問題はない。しかし合っていないと、不協和音になる。そしてその不協和音は積もりに積もって、親子の間に亀裂を入れる。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家へ帰るのが苦痛でなりません。親と顔を合わせても、何を話したらいいのか、わからなくなるときがあります」と。また別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の生い立ちや人生観と深くからんでいるため、変えるのも容易ではない。しかし、変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほど、よい。もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日から、子どものうしろを歩いてみる。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。


教育をどう考えたらいいの?……(合計56の役立つ子育て論)

こわれる子どもの心

●親に反抗するのは、いいこと? 悪いこと?

 こんな調査結果がある。日本青少年研究所が、九七年に調査した結果だが、それによれば、日本の高校生の85%が、「親に反抗するのは、本人の自由でよい」と考えているという。(これに対して、アメリカ……16%。中国……15%)。また日本の高校生の15%のみが、「親に反抗してはならない」と答えているという。(アメリカ……82%。中国84%)。わかりやすく言うと、「親に反抗してよい」と考えている高校生が日本ではダントツに多く、一方、「反抗してはならない」と考えている高校生が、これまた日本ではダントツに少ないということになる。

 こういう調査結果をふまえて、「日本人の個人主義化、価値観の相対化(が進んでいるとみることができる」(金沢学生新聞社説)と解説する人がいる。おおかたの評論家たちも、ほぼ同じような線で、この調査結果をながめている。しかしこの視点だと、「なぜ日本の高校生だけがそうなのか」という説明がつかないばかりか、合理主義が発達していると思われるアメリカで、「なぜ逆の結果が出るのか」ということについても、説明がつかなくなってしまう。つまりこの視点は正しくない。

 私はある時期、幼稚園の年中児から高校三年生までを、たった一日で教えていたことがある。幼稚園で手にする給料だけでは生活ができなかったので、午後は自由にしてもらい、学習塾や進学塾でルバイトをした。自宅で家庭教師もした。そういう経験から、子どもたちが受験期を迎えるころになると、質的に急速に変化するのを知っている。それまでは良好な人間関係を続けていても、試験だ、平均点だ、進学だとやりだすと、とたんに私と生徒の関係が破壊されるのである。

 言いかえると、結果として日本の高校生たちが、「個人主義化し、価値観の相対化が進む」としても、それは「進んだ」結果にそうなったのではなく、「家族のきずな」が破壊された結果としてそうなったと見るべきではないのか。それぞれの家庭を見ても、子どもが小学生くらいの間には、どの家庭も、実になごやかな家庭を築いている。が、子どもが受験期を迎えるようになると、とたんにある種の緊張感が家庭を襲い、その緊張感が、家族そのものを破壊する。わかりやすく言えば、「勉強しろ!」と怒鳴る、その声が子どもの心を粉々に破壊していく。その結果が、冒頭にあげた、「85%」であり、「15%」ということになる。



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若いころ書いた本です。(1993年・初版)
思想的なゆらぎがありますが、ご承知おきの上、お読みください。

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