ある退職者
退職してからも、現役時代の肩書きや地位を引きずって生きている人は多い。とくに「エリート」と呼ばれた人ほど、そうだ。そういう人にしてみれば、自分が歩んだ出世コースそのものが、自分の人生そのものということになる。Y氏(六七歳)もその一人。
私に会うと、Y氏はこう言った。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていたのかね? それでまともな仕事につけなかったのかね?」と。
彼は数年前まで、大手の都市銀行で、部長をしていた。この浜松へは、生まれ故郷ということで、定年と同時に、移り住んできた。彼の父親の残した土地が、あちこちにあった。そこで私が、「本も書いています」と言うと、「いやあ、こういう時代だから、本を書いてもダメでしょ。本は売れないでしょ」と。たしかにそうだが、しかしそういうことを面と向かって言われると、さすがの私でもムッとくる。
問題は、なぜY氏のような人間が生まれるか、だ。仕事第一主義などという、生やさしいものではない。彼にしてみれば、人間の価値まで、その仕事で決まるらしい。いや、それ以上に、なぜ、人は、そこまで鼻もちならないエリート意識をもつことができるのか。自尊心という言葉があるが、その自尊心とも違う。肩書きや地位にしがみつくのは、自尊心ではない。自尊心というのは、生きる誇りをいう。肩書きや地位とは、関係ない。彼のような人間は、戦後の狂った経済社会が生みだした、あわれなゾンビでしかない。
もっとも彼にしてみれば、過去の肩書きや地位を否定するということは、自分の人生そのものを否定することになる。最後は部長になったが、その部長をめざして、どれほど身を粉にして働いたことか。家庭を犠牲にし、自分を犠牲にしたことか。それはわかるが、「では、Y氏は何か?」という部分になると、実のところ何もない。何も浮かんでこない。少なくとも私には、ただの定年退職者(失礼!)。
別れぎわ、「今度、また自治会の仕事をよろしくお願いします」と言ったら、こう言った。「ああ、県や市でできることがあれば、私に一度、連絡してください。私のほうから口をきいてあげます」と。そうそう、こうも言った。「林君は、カウンセリングもできるのですか。だったら、国のほうでも、そういう仕事があるはずですから、今度、私のほうで、話してみてあげますよ。知事とも、懇意にしていますから……」と。
おめでたい人というのは、Y氏のような人をいう。が、私は心の中で、Y氏とは、完全につながりを切った。「何かの仕事の話になっても、(そういうことはありえないが)、断ろう」と心に決めた。
(02−12−2)
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