1学期の授業録


使用教科書/『明解 新世界史A・新訂版』帝国書院 (帝国・世A015)
副教材/『地歴高等地図・最新版』帝国書院 (帝国・地図011)

第1回 オリエンテーション
これから学ぶ世界史Aについて、簡単に紹介した。また、授業の方法・評価の方法についても説明した。昨年に引き続きボクの授業を受けている諸君にとっては、かったるかったかもしれませんね。
第2回 サルとヒトとの分かれ道〜人類のはじまり〜
ヒトとサルとを分けるものは、直立二足歩行である。今からおよそ500万年前にそれを始めるのだが、なぜ直立二足歩行をし始めたのだろうか?その原因を探るとともに、「進化」とはなにか?ということを考えてもらった。サルからヒトへ「進化」したというが、例えば、コンゴに生息する類人猿ボノボは、仲間同士で殺し合いはしないものの、人間同士の殺し合い(コンゴ内戦)などによって、その個体数は減少しているという。これをどう考えるか?

加藤好一『歴史授業プリント・上 生徒をつかむ前近代史』(地歴社)、埴原和郎『日本人の顔 小顔・美人顔は進化なのか』(講談社)、埴原和郎『人類の進化 試練と淘汰の道のり』(講談社)、番組記者会見『類人猿ボノボ・最後の楽園〜アフリカ・コンゴ、平和の祈り〜』(ONTV Japan WEBより)

第3回 消えた黄河文明〜中国文明の成立〜
4月、「黄砂」が飛んできた。黄砂は、車や洗濯物が汚れるなど、厄介なものとしてとらえられるが、一方で「黄河文明」も形作ってきた。第一に、黄砂に含まれるミネラル分が、プランクトンや植物の栄養源になっている。これによって、黄河流域で畑作が行なわれ始めるのである。第二に、黄砂の持つ粘性によって、建物や城壁をつくってきたのである。しかし、このところの教科書には「黄河文明」ということばは出ていない。なぜか。中国最長の長江流域でも「黄河文明」と同時期に稲作が行なわれていたことが明らかになったからである。

尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史A 中華文明の誕生』(中央公論社)、佐藤洋一郎「稲と稲作の始まり」(『米と日本人』静岡新聞社)

第4回 始皇帝の地下帝国〜中華帝国の形成〜
1974年、井戸を掘っていた農民が、大きい陶製の人形を掘り出した。その後、それが大量にあることが分かり、まさに「地下帝国」といっていいような状況である。これらは兵馬俑とよばれる。誰がこのようなものをつくったのか?秦の始皇帝は、大規模な公共事業を行い、さらに人びとを法でしばった。こうした支配の仕方に対して、始皇帝の死の直後、農民反乱がおこった。そして、農民出身であった劉邦が楚の名族出身の項羽を破り、漢を建てた。皇帝となった劉邦は、人びとに「休養」を与える政策をとっていった。それは始皇帝の支配の仕方と全く対照的なものであった。これが400年も続く漢王朝の基礎になっていくのである。

尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史A 中華文明の誕生』(中央公論社)、鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産』(講談社)、『始皇帝と彩色兵馬俑展』

第5回 ネットワークとしてのシルクロード〜漢とローマ〜
劉邦の「休養」をあたえる政策は、対外的には隣接民族の侵入をまねいた。この時代大きな力を持ったのは、匈奴である。7代皇帝・武帝は、国内の支配体制を固めたあと、匈奴対策にものりだす。そこで、西域に派遣されたのが張騫という人物である。彼は目的を達することはできなかったが、10年を越す長きに渡る西域生活を武帝に語り、東西交流が始まることになった。このなかで人びとが歩いた道をシルクロードという。また、パルティアと関係の悪かったローマ帝国は、中国の絹を手に入れるために、陸路ではない道を模索し始めた。それが海の道である。近年、これを含めて「シルクロード」というようになっている。

尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史A 中華文明の誕生』(中央公論社)、鶴間和幸「漢とローマ 古代中国」『NHK高校講座 世界史』(2004年度放送)、森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社)、「シルクロード、6,000kmの軌跡」(http://www.asahitravel.jp/silkroad/1-3.html)

第6回 シルクロードの主役・ソグド人〜隋・唐帝国〜
唐の都・長安には多様な人びとが入り乱れていた。もちろん日本の人のなかにも中国王朝のなかで活躍した人物もいる。さて、長安にはシルクロードを通じて西域のモノが数多くもたらされた。それらのモノをもたらしたのは、国際商業民であったソグド人であった。かれらは幼いころから商人として育てられた。唐帝国が衰退するきっかけとなった安史の乱を引きおこした安禄山も、6つのことばを操るソグド系の人物であった。彼はたくみに玄宗と楊貴妃に取り入り、節度使として実力を蓄え、反乱をおこすことになったのである。

森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社)、鶴間和幸「国際商業民族ソグド人 隋・唐」『NHK高校講座 世界史』(2004年放送)、井波律子『NHK人間大学 百花繚乱・女たちの中国史』(日本放送出版協会)

第7回 必死のイス取りゲーム〜東アジア世界の結びつき〜
753年の正月、唐の玄宗肯定が主催した新年の祝賀行事で新羅と日本とが席次をめぐって争う「事件」がおきた。日本の遣唐使節が猛烈な抗議を行なった。なぜ日本は抗議したのか?また、なぜ唐はあのような席次にしたのか?唐、新羅、日本の関係を≪冊封≫と≪朝貢≫をキーワードにしながら、考えていく。その後、唐の衰退にともなって、東アジアでは諸民族が独自の文化を形成していく。

大阪府高等学校社会科研究会WEB、『新日本古典文学大系 続日本紀 三』(岩波書店)、『朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読みなおすC遣唐使船 東アジアのなかで』(朝日新聞社)、吉田孝『日本の誕生』岩波新書

第8回 試験地獄、官僚天国〜宋代の中国社会〜
現代日本では「格差」が問題になっている。AB首相ですら「格差の固定化はよくない」と言っている。さて、古代中国、漢の時代には、地方の有力者が優秀な人物を推薦する郷挙里選という、官僚採用システムがあった。当然、この方法には限界があり、格差の固定化は避けられなかった。そこで隋の時代から新たに、テストによる官僚採用システムである科挙を導入した。一度官僚になれば、莫大な財産を築くことができたので、試験に合格するために、妊娠したときから「熱心」な教育が行なわれた。しかし、なかにはなかなか合格することができず、年老いていくものもいた。考えたいことは、科挙導入によって、格差の固定化は解消されたのであろうか、ということ。熱心な教育を行なえた家庭、繰り返し科挙を受験できた家庭とは、一体どのような家庭だったのか?

宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』(中公新書)、伊原弘・梅村坦『世界の歴史7宋と中央ユーラシア』(中央公論社)

第9回 ライバルは、隣のインド人〜南アジア世界の人びと〜
いま、何かとインドが注目されている。まず一つは、人口11億人を抱える巨大な市場としてのインドが注目されている。もう一つは、たいへん優秀な人材を生み出し、IT産業を中心に急速に発展し続け、それこそIT先進国としてのインドが注目されている。そこで、今回と次回、インドについて学習する。まずは現代のインド社会のようすについて、VTRをまじえながら見てもらった。これまでインド社会はカースト制度を基本としながら「発展」してきたが、IT産業の急速な発展は、そのカースト制度をも越えて豊かになれるチャンスを生み出した。そしていま(将来も)、インドの人びとと競い合う時代となった。

山崎元一『世界の歴史B 古代インドの文明と社会』(中央公論社)、『さんまのからくりテレビ』

中間テスト
第10回 武力から「ダルマ」へ〜マウリヤ朝のアショーカ王〜
インドの国旗の中央には法輪が描かれている。これは「永遠の真理・正義」を表している。これはアショーカ王の石柱費に由来する。アショーカ王はどのように人びとを統治しようとしたのか、その変化をみた。アショーカ王は当初、暴君として登場するが、カリンガ国征服をきっかけに「ダルマ」による政治を行なうようになった。アショーカ王亡き後50年にしてマウリヤ朝は崩壊し、「ダルマ」による政治は終わったが、王の理想は2200年後のインドでよみがえる。それが現在のインドの国旗である。

水島司「アショーカ王と帝国〜古代インド〜」『NHK高校講座 世界史』(2004年度放送)、山崎元一『世界の歴史B 古代インドの文明と社会』(中央公論社)

第11回 海を渡った日本人〜東南アジア世界の形成〜
アンコール・ワットには、そこを訪れた日本人の落書きがある。そのなかでもよく知られているのは、江戸時代の森本右近太夫のものである。彼は何を思い、アンコール・ワットを訪れたのか、そしてアンコール・ワットはどのようにしてつくられたのかを考えた。近世初期、日本人は東南アジア各地に日本町を形成した。静岡市出身の山田長政はよく知られている。その後、江戸幕府は鎖国令を出し、森本は外国渡航歴を隠しつつ、1674年ひっそりと亡くなった。

石澤良昭・生田滋『世界の歴史L 東南アジアの伝統と発展』(中央公論社)、櫻井由躬雄「大建築の時代〜11・12世紀の東南アジア〜」『NHK教育 歴史でみる世界』(2001年度放送)、石澤良昭「落書きと歴史〜17世紀に活躍したアンコール・ワットを参詣した日本人〜」、石澤良昭「アンコール・ワットにおける日本語墨書」、静岡県日本史教育研究会『静岡の歴史百話』山川出版社

第12回 「目には目を、歯に歯を」〜メソポタミア文明〜
このところの日本社会では、何かと厳罰化である。飲酒運転にも、少年事件にも。なぜか政治家の犯罪は違うようだが。それはさておき、まさに「目には目を」の世界である。その「目には目を」ということばは、古代メソポタミアの『ハンムラビ法典』に由来している。その『ハンムラビ法典』の本来ねらいとするところは、現代的意味合いとやや異なる。つまり、無制限の報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐことに意味があるのだ。その意味で、人類社会は大きく進化したといえる。しかしながら、現代日本の状況は、裁判に被害者を参加させたり、少年法を厳しくしたりして、いまや報復合戦の様相を呈しているといわざるをえない。

宮崎正勝『文明ネットワークの世界史』(原書房)、浜林正夫『民主主義の世界史 「殺しあい」から「話しあい」へ』(地歴社)、法学館憲法研究所WEB

第13回 エジプトはナイルの賜物〜エジプト文明〜
古代エジプト文明にはナゾが多くあり、私たちの心をとらえて離さない。そのなかでも今回はミイラに焦点を絞って話をした。大量に作られたミイラから古代エジプト社会に暮らした一人ひとりの物語が明らかになりつつあるが、なぜ古代エジプト人はミイラを作ったのだろうか。そこには、古代エジプト人の生死観が現れる。そしてそのミイラを入れる棺として、またミイラの防腐剤として、レバノン杉が大量に伐採され使われた。そのために森林は失われ、文明は滅んでいった。いま、世界各地で行なわれている森林伐採は、私たちに一体何をもたらすのであろうか。

大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』(中央公論社)、『週刊朝日百科・日本の歴史95 維新と明治の新政』(朝日新聞社)、近藤二郎・馬場悠男監修『ミイラと古代エジプト展』(朝日新聞社)、吉村作治監修『古代エジプト文明展』(大日本印刷株式会社)

第14回 カレンダーに歴史と文化をよむ〜イスラーム世界の誕生〜
今年は、世界中で2007年なのだろうか?今回学習するイスラーム世界では、今年は1428年だそうである。考えてみれば、日本にも2007年といういい方の他に「平成19年」といういい方もしている。それぞれの年の表し方には当然基準がある。平成でいえば、いまの天皇が即位してから19年目ということになる。2007年というのは、イエスが生まれたとされる年を基準とした。イエスを基準としているから、イスラーム世界の人びとにとってはなかなか受け入れにくい。では、イスラーム世界は何を基準にして、今年を1428年といっているのであろうか。文化によって年の表し方はいろいろあるが、非常にドメスティックなものだ。年の表し方は世界共通であったほうが、何かと都合がいい。

小杉泰『興亡の世界史06 イスラーム帝国のジハード』(講談社)、中日サンデー版・大図解シリーズ407「世界の紀元と暦」(1999年12月26日)

第15回 普段着のイスラーム〜イスラーム世界の拡大〜
イスラームには、やらなければならないこと、やってはならないことがいくつかある。やらなければならないことの代表的な例としては、1日5回の礼拝。1回につき20分程度やるそうである。正午の礼拝では、外出していることも多いので、その居合わせた場所でおこなう。先日もらった写真はがきには、マクドナルドに設けられた礼拝所が写っていた(マレーシア)。やってはならないことの代表的な例としては、豚肉を食べないこと。先日、日本では、牛肉コロッケに豚肉が使われていたという事件がおきたが、イスラーム世界でおきたのならば、それこそ大問題であろう。こうしたイスラームは、今もなお、信者を増やしているという。それは、一体なぜ?

小杉泰『興亡の世界史06 イスラーム帝国のジハード』(講談社)、片倉もと子『イスラームの日常世界』(岩波新書)、加藤好一『世界地理授業プリント』(地歴社)

第16回 「参加することに意義がある」〜ギリシアの文明〜
アテネ・オリンピックから1年が過ぎた。1896年、アテネで近代オリンピックが始まったのは、古代ギリシアでオリンピックが行われていたからである。この古代オリンピックを通じて、ギリシア文明を透かしてみる。古代オリンピックでは女性と奴隷が排除されていたが、それはオリンピックだけのことではなかった。政治においても同じであった。それをアリストファネスは『女の議会』で批判した。

桜井万里子・本村凌二『世界の歴史A ギリシアとローマ』(中央公論社)、歴史教育者協議会編『100問100答 世界の歴史』(河出書房新社)、歴史教育者協議会編集『歴史地理教育実践選集 第31巻 世界の歴史と現代 ヨーロッパ』(新興出版社)

第17回 ローマ帝国の楽しみと悲しみ@〜ヨーロッパ世界の源流〜
紀元前1世紀ころのイタリアの遺跡からライオンが描かれた絵画が出土した。なぜライオンの絵画がイタリアで?当時イタリアを支配していたローマ帝国は、今の中東やアフリカ大陸の北部をも支配していた。そこから連れてこられたものである。では、何のためにそのライオンは連れてこられたのだろうか?連れてこられたライオンは、コロッセウムでの公開処刑や人間との闘いなどに使われた。それに当時のローマ市民は熱狂した。さらにこうしたイベントは無料で行なわれたため、ローマ皇帝に対する支持・人気は急上昇する。こうしてローマ皇帝は広いローマ帝国を安定的に支配したのである。しかし、これらの残虐な見世物も、キリスト教の拡大にともなって次第に行なわれなくなった。それとともに、ローマ帝国の国境付近が騒がしくなってきた。

桜井万里子・本村凌二『世界の歴史A ギリシアとローマ』(中央公論社)、本村凌二「豊かなるポンペイ社会〜ローマ帝国〜」『NHK教育 世界史』(2004年度放送)、「五賢帝の時代〜ローマ帝国と地中海世界〜」『NHK教育 歴史でみる世界』(2001年度放送)

第18回 ローマ帝国の楽しみと悲しみA〜ヨーロッパ世界の源流〜
『NHKスペシャル・ローマ帝国 第2集』を視聴した。ベスビオ火山の噴火により埋没したポンペイという都市から当時のローマ帝国の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。しかしその一方で、ローマ帝国の衰退をあらわす兆候も現れ始めていた。
第19回 はるかなる旅路〜ヨーロッパ世界の形成〜
375年、西ゴート族がローマ帝国領内に移動した。これをきっかけに次々とゲルマン人がローマ帝国内に入り、国を建てた。ただし、従来考えられてきたほど、暴力的なものではなかったようである。では、なぜゲルマン人は移動し始めたのか?その原因を探ると、中国・漢と隣接民族の匈奴との対立に由来しているという説がある。東アジアでの動向がヨーロッパ中世の始まるきっかけとなるなんて、ダイナミックな話ですね。

本村凌二『馬の世界史』(講談社現代新書)、増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書)、宮崎正勝『グローバル時代の世界史の読み方』(吉川弘文館)

期末テスト

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