3学期の授業録


第1回 ハガキ1枚=兵隊の命の値段です@〜学徒出陣〜
戦争の担い手となった兵隊について、2回にわたって考える。特に同世代の、学徒兵に注目。「NHKスペシャル・雨の神宮外苑〜学徒出陣・56年目の証言」の一部を視聴しながら、送られる学生・送る学生の考えや気持ちを考えた。
第2回 ハガキ1枚=兵隊の命の値段ですA〜学徒出陣〜
学徒兵は軍隊の中で、どのように扱われたのか?一般兵(特に学歴の低い古参兵)の憎しみ・ねたみによって「私的制裁」が日常茶飯事化していた。また、ハガキ1枚分の値段で兵隊は集められるので、戦車・戦闘機などの軍需品の方が大事。その中で、特攻という発想がでてくる。「NHKスペシャル・映像の世紀・世界は地獄を見た」の一部を視聴。
第3回 清水市の中学生(今の高校生)の戦争参加〜学徒動員〜
今の高校生にあたる年代の人びとはどのような形で戦争に参加させられたのだろうか?静岡県を例に、学徒動員の実態に迫る。過酷な労働、粗末な食事の毎日で、最初の意気込みは急速に萎えていく。
第4回 餓死にした英霊たち〜戦局の転換〜
話が横道にそれたので、戻す。ヨーロッパ戦線でも、アジア戦線でも、戦局が大きく転換した。戦死したら靖国の神(=英霊)となれると教育された兵隊たちは、実際には、どのように戦死したのだろうか?餓死・病死・玉砕の実態を見る。
第5回 戦場となった静岡@〜本土空襲〜
前回の話が少し残ったので、それを片付ける。なぜ降伏せずに、玉砕したのか?
さて、サイパンが陥落すると、アメリカ軍は飛行場を建設した。そこから飛び立ったB29は、日本本土を空襲した。空襲するB29の搭乗員の気持ちは?「NHKスペシャル・映像の世紀・世界は地獄を見た」の一部を視聴。
第6回 戦場となった静岡A〜本土空襲〜
日本本土の空襲のようすを探った。特に、1945年6月19日から20日にかけての静岡大空襲の体験談を読んだり、センターが所蔵する体験画を拡大コピーしたものを利用したりした。最後に、なぜ静岡県が空襲の対象となったのかを考えた。静岡県は空襲の被害者であると同時に、加害者であったことを忘れてはならない。
第7回 日本の命運を分けた提案〜近衛上奏文〜
ヨーロッパで戦争を終わらせるための話し合いが始まる中で、日本でも近衛文麿が昭和天皇に対して重要な提案を行なう。戦争を終わらせよう、と。しかし、昭和天皇はそっけない対応をする。もしこの時点で昭和天皇が近衛の提案を受け入れていたら、空襲・沖縄戦・原爆などでの多くの死者はなかったのかもしれない。
第8回 命(ぬち)どぅ宝@〜沖縄戦〜
1945年4月から沖縄戦がはじまった。沖縄では一体何があったのだろうか?今回は「NHKスペシャル・映像記録史 太平洋戦争(後)」の一部を視聴することを中心とした。沖縄の悲劇がよくわかるVTRだったと思う。ただ、VTRで見たようなことを、日本軍はアジアの民衆に対して行なっていたことを忘れてはならない。
第9回 命(ぬち)どぅ宝A〜沖縄戦〜
戦争中、沖縄では信じられないことがおきた。日本軍によって殺害されたり、自殺を強制された沖縄県民が存在したのだ。文献や写真で確認した後、なぜこのようなことがおきたのかを考えた。最後に、沖縄には米軍基地があり、米兵による事件・事故や戦闘機の墜落事故・騒音などによって沖縄県民は今だに苦しんでいることを学んだ。
第10回 アインシュタインの苦悩@〜原子爆弾の投下〜
原爆投下はどのような意味をもっていたのかを学んだ。1938年にドイツで核分裂が実証されると、アインシュタインは危機感を抱き、大統領に原爆開発を進言した。そして「マンハッタン・プロジェクト」と呼ばれる巨大計画が始まった。しかし、実際の使用にあたっては、核軍拡競争を憂慮する科学者の意見は排除され、広島・長崎に投下された。アメリカは、原爆を戦争に勝利する手段というだけでなく、戦後世界におけるソ連に対する優位を実現する武器として重要視していたのだ。もうこの時点で、冷戦は始まっていたのだ。2000年度放送の「歴史でみる世界」を参考とした。
第11回 アインシュタインの苦悩A〜原子爆弾の投下〜
生き残った被爆者は戦後も悩み、苦しむ。というのも、被爆者に対する偏見・差別があったからだ。被爆したということをいうことがどれだけ勇気のいることだったか。文献を読んだり、2001年放送の「NHKスペシャル・語り継ぎたい」の一部を視聴したりした。それにしても、なぜ広島に原爆が落とされたのだろうか?広島は原爆の被害者であるとともに、加害者であったことを忘れてはならない。時間の都合で、K科のみで行なった授業。
第12回 二度とくりかえすな!〜敗戦と解放〜
原爆は、戦争を終結させなかった。では、一体何が戦争を終結させたのか?そうこうしているうちに、ソ連が参戦してきた。ソ連が参戦すると戦争指導者たちは急にあわただしくなる。そして、8月14日、御前会議でポツダム宣言受諾の「聖断」が下された。それにしても、遅すぎる昭和天皇の「聖断」である。戦争指導者がああだこうだとくだらない議論をしている間も、一般の人びとは空襲の被害にあい、原爆にあい、命をおとしていったのだ。昭和天皇をはじめとする戦争指導者は、どうやらこうしたことには関心がなく、自分たちの立場が大事であったようである。

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