掛塚屋台祭り「若者連合会」の記録
掛塚屋台祭りの運営は、屋台の運行に関しては「若者連合会」、神社の祭事は「貴船会」という組織が中心になって行われます。
掛塚には9つの町があり、それぞれの町の若者責任者(34歳で若者のトップになる。)で組織するのが「若者連合会」です。そして東町を除いた8町から毎年2町ずつ順番に連合会の責任者になります。この2町が「年番町」です。( ※ 昔から屋台が無かった東町が平成9年に屋台を作ってから、変更されています。)
各町の若者組織は、上から「世話係(せわけ)」、「若者頭」、「年番」となっていて、世話係を抜けた35歳以上から「中老」になります。中老とは要するにOBですから直接屋台の運行を仕切ることはありません。
昭和63年、私は若者連合会の責任者の一人として掛塚屋台祭りの運営をしました。これは翌年度への引継資料として当時私が作成した文書をもとに、今回若干加筆したものです。
掛塚祭りの運営がどの様に行われているのかなど、掛塚祭りに参加していても知らない人が多いのではないでしょうか。
祭りは10月ですが、その年の5月から準備が始まります。そして、何回もの会合を重ね、祭典当日を迎えます。
資料 掛塚若者連合会の歴史
昭和63年に私が確認した時点では、連合会の引継資料は明治30年からの分が残っていました。それ以前のものは紛失してしまったようで、残念です。これは、私が興味を持って読んだ過去の資料からの抜粋をまとめたものです。掛塚祭りの運営を行ってきた先人達の苦労を知ることができます。
昭和63年度 掛塚屋台祭り若者連合会事業報告書 年番町 中町 横町
5月16日(月) 昭和63年度年番町代表者打ち合せ 中町公会堂にて
・本年度年番町の中町及び横町の代表者が集まり、各自の役割を決定する。
連合会での司会者、会計係、書記を決定する。
・今年の連合会会費の額(案)を決定する。
・毎回の連合会に出席する年番は中町、横町各1名ずつとすることに決定した。
・今後の連合会の日程を決める。初顔合せ、第1回〜第4回連合会、道検分の日取りについて予定をたてた。ただし、6月14日及び8月10日は、それぞれ祇園祭りと弁天様の祭りに当たり、毎年同日である。
・前年度の年番町責任者に来てもらい、いろいろと忠告してもらった。
5月29日(日)
・貴船神社の宮司の関さん宅を訪問し、6月14日夜7時30分より神社社務所を「連合会初顔合せ」の為に使用したい旨のお願いをする。祇園祭りの通知については6月上旬に各町の神社役員から届けられるとのことであった。
・貴船神社氏子総代の池田さん宅を訪問し若者連合会責任者としての挨拶をする。
・掛塚祭り祭典本部長の平田さん宅を訪問し挨拶をする。
・6月14日の初顔合せの通知を5月30日付にて配布することにした。この時点ではまだ各町の責任者が不明のため予測により配布先を決めた。
実際には、後日、消防団の訓練の時にほとんどの通知を配ったが、批判の声も聞かれた。しきたりを重んじる祭典の通知を消防団の訓練のついでに配るとは何ごとか、というわけである。連合会責任者がそれぞれの各町責任者の自宅へ持参するのが本来のやり方であるとのことである。
この後、たびたび耳にすることになった「しきたりだからな・・」という言葉を早くも言われてしまった。
6月11日(土) 初顔合せの事前打ち合せ 中町公会堂にて
・初顔合せの議事進行についての打ち合せをする。
6月13日(水) 掛塚祭り本部役員代表者会議 竜洋会館にて
・掛塚屋台音頭の手踊りの実施について
3年前に行った手踊りを今年はどうするか話合いがあった。結局、本部より婦人会又は老人クラブに聞いてみて決定することになった。若者連合会としては、手踊りを行う場合は、屋台の運行に支障ないよう行ってもらいたい旨を申し述べた。
・神社の境内の整備について
できるだけ早く神社内を調査しておくように本部から意見があった。
・掛塚祭り本部構成委員表の作成について
各町の世話係責任者(正・副)及び中老責任者(正)の3名を調査の上、6月末までに本部事務局(商工会)へ報告するよう依頼される。
この件については、6月14日初顔合せの時に各町責任者に依頼し、7月4日の第1回連合会で報告を受ける段取りになっているため、本部事務局へは、7月5日に報告することにする。
6月14日(木) 初顔合せ 神社社務所にて
・年番町世話係、年番は7時集合。関さんに挨拶した後、社務所に机を並べ、準備を行う。年番は缶ビールとつまみを買いに行く。年番町の帳面を使用。
・年番町より順番に自己紹介を行う。
・横町S氏より現在町外の在住であるが今年の責任者を務めたい旨の発言があり、全町の確認を得た。
・自己紹介終了後、今後は例年通り連合会組織として祭りの運営を行っていくことを決め、全町の確認を得た。
・次回の連合会までに各町の正副責任者、中老責任者の名簿を提出依頼する。また、今年の祭典で屋台曳き出しを行うかどうか決定してきてもらうよう依頼する。
・次回連合会を7月4日に開催することにし、通知を配布する。
・8時より拝殿にて祇園祭りの御祈祷を行う。出席者は全員参列し、年番町から2名が玉串を奉納する。
・御祈祷終了後、社務所にて意見交換を行う。
東町より、天狗は必ず年番町責任者が呼びに来てほしい旨の申し入れあり。
7月3日 責任者打ち合せ 横町公会堂にて
・第1回連合会の打ち合せを行った。去年の記録を参考にして式の次第を検討した。
7月4日(月) 第1回連合会 神社社務所にて
・各町より責任者名簿を回収し、名前を読み上げる。
・屋台曳き出しの有無を各町に確認する。新町については、道囃しをやるかどうかも確認する。又、道囃しを行うのは本祭りか宵祭りかしっかり確認しておくこと。
・屋台の神社曳き込み順序を決定する。
《宵祭りの曳き込み順序》
2番目に曳き込む屋台を阿弥陀くじで決める。他は神社から遠い町の順となる。
今年は新町が2番くじに当たったので次のようになった。
蟹町・新町・大当町・田町・横町・中町・砂町・本町
《本祭りの曳き込み順序》
宵祭りの2番くじを引いた新町より希望を聞き、新町は3番となった。年番町は先頭と最後と決まっているので、残りの5町でくじを引き、順番を決めた。結果は次のようになった。
横町・蟹町・新町・大当町・田町・本町・砂町・中町
・屋台の曳き出し順序
曳き出し順序は例年の通り。宵祭りは神社より遠い町の順で、蟹町、新町、大当町、田町、横町、中町、砂町、本町となる。
本祭りは、年番町が最初と最後に出発して、その間は、神社より近い順に出ていくことになる。今年の順番は、横町、本町、砂町、田町、大当町、新町、蟹町、中町となる。
・連合会費を決定する。
毎年、会費は少しずつ値上げしてきているが、必ず足りなくなり、追加徴収している。それならば、その分も見越して多めに値上げしておいたらどうかとの意見があり、年番町が提案した金額より高い額で決定した。東町が25,000円、他が55,000円となった。
ところが結果として今年も又追加徴収することになってしまった。理由は道路使用許可の手数料が大幅に上がったこと、例年より連合会を2回多く開催したこと、例年より責任者が会合でビールをたくさん飲んだこと等が考えられる。
・次回連合会までの各町への決定依頼事項
1,各町の通行止めの場所とウマの数
2,本町、蟹町での休憩場所(夕食の場所)
3,本祭りの日、屋台を止めたい場所を1カ所
・次回連合会の通知を配布する。
7月11日(月) 掛塚祭り本部役員会 竜洋会館にて
@63年度本部役員の紹介
A63年度本部予算の承認について
B掛塚屋台音頭の実施について
Cその他本年度祭典に関すること
Bについては、婦人会の協力が得られないため、本年は実施しないこととなった。来年実施できるかどうかは検討課題とする。もし屋台音頭の手踊りを実施することになった場合は、宵祭りの夜、屋台が本町上に集合した後、神社を出発し、南へ行ってもらうようにするのがよいと思う。
8月2日(火) 磐田警察署を訪問
・交通課規制係にて
道路使用許可申請書の用紙を買う。2枚複写で1組10円。14組買う。申請書に添付する書類を確認する。屋台運行経路図、屋台の寸法の図、責任者の名簿である。手数料は1つの申請につき2000円だった。去年は800円だったので、一度に2.5倍に値上げされたことになる。この手数料は許可証を受け取るときに県の収入証紙にて納付することになっている。
・外勤課にて
課長に面会する。連合会責任者4名自己紹介をし、祭典実施の協力をお願いする。課長より、終了時間の夜9時は絶対に守るように言われた。
8月8日(月)
・正木屋前交差点中央の道路鋲の撤去を役場総務課へ依頼する。
9月20日撤去、10月10日復旧の段取りで、業者へ依頼してもらった。
下水道のマンホールのような平らなものは良いが、少しでも道路上に突起しているようなものは、屋台の運行上危険である。
8月10日(水) 第2回連合会 神社社務所にて
・磐田警察署へ行って来たことを報告し、外勤課長の言葉を伝える。
・道路使用許可申請書の用紙、運行経路図の用紙、記入例(去年のものをコピーしたもの)を配布し、書き方を説明する。次回の連合会で回収することにする。
・弁天様の御祈祷。雨天のため、拝殿内で執り行われる。
・前回の連合会での依頼事項を報告してもらう。
通行止めの場所、及び必要とするウマの数
蟹町、本町の休憩場所
本祭りの屋台停止場所
・神社への曳き込み順、曳き出し順及び神社内の停止場所について図面を配布し検討した。その結果、本祭りの曳き出し順を一部変更した。本町と横町の曳舞台を本舞台に続けて出すことをやめ、1台後に出すようにした。
・中老輿担ぎ氏名報告を依頼する。
・次回連合会通知配布。消防団の旅行のため、予定を変更した。
・東町より要望
天狗が神社にはいるとき、五久前まで各町の責任者に来てもらいたいとのこと。そのようにすることとしたが、結局あとで東町が断わってきて、やらなかった。
8月23日(火) 第3回連合会 神社社務所にて
・前回依頼してあった書類を回収する。
道路使用許可申請書及び添付図面一式
中老輿担ぎ名簿
・連合会協議事項報告書の必要枚数を確認。前年の枚数を参考にした。
本町 210 横町 180 新町 200 砂町 120
田町 100 蟹町 230 中町 100 大当町 70 東町 290
合計 1500
・屋台曳き回し運行時間表(3枚組)と本祭り屋台運行略図を配布し、説明する。特に異議はなかったので、予定通り当日運行することに決定する。
・第1回道検分通知及び第4回連合会通知を配布する。
・東町より要望
貴船会決定事項を東町若者に連絡するように申し入れてほしい。
8月25日(木) 祭典本部長と一緒に関係者の挨拶回り
・磐田警察署の外勤課及び交通課を訪問し挨拶する。
・露天商の親方S氏宅を訪問し、挨拶する。
8月25日(木) 小笠原マル昇(株)へ行く
・大幟建ての依頼をする。
・神社境内の砂利敷きを依頼する。
・通行止めに使うウマを貸してもらうよう依頼する。(28個)
神社内に入れる砂利の量は、9月4日の道検分の時、出発前に立ち会ってもらい決定することにする。又、ウマは9月30日の幟建ての日、朝早く資材置き場へ取りに行くことにする。そして、そのときにスコップなども借りることにする。
8月26日(金) 磐田警察署へ行く
・交通課を訪ね、道路使用許可申請書を提出する。
申請書は事前によくチェックしておき、間違いの無いようにしておくこと。
許可になったら連絡をくれるとのことであったが、実際は、こちらから電話で聞かないと解らないので、お祭りの半月位前になったら聞いてみた方がよい。
手数料は、許可証を受取に行ったときに納める。今年は1通2000円だったので、14通×2000円=28000円必要であった。
・屋台曳き回し時間表及び通行止めの位置図を交通課へ提出した。
8月29日 貴船神社の関さん宅を訪問する
・貴船会で御神輿の運行時間が決まっているかどうか聞いたところ、次のような回答であった。
・貴船の時間を決める打ち合せの日程については、9月1日に日を決めることになっている。屋台の時間が例年と一緒であるならば、変わりなく例年どうりに決まると思うが、印刷物については正式に時間が決定してから印刷するようにしたほうがよい。
・連合会で決めた屋台の時間表を渡した。
9月4日(日) 第1回道検分
・神社の倉から検棒(長さ5m10p)を出してもらい、屋台の通る道を検査した。本町の通りは、後日年番町だけでやることになっているので、省略した。しかし、全部一度に道検分をしてしまった方がよいと思うので、64年度は、検討してみた方がよいと思う。
・この日は、検棒に当たる電線が2本あった。電柱番号、住所をメモしておく。
・神社境内の検分
高い松の木の枝、東の山の木の枝がじゃまにならないか見ておくこと。
今年は、松の枝を屋台の組立の時、屋根に登って切ることにした。又、東の山の木も、屋台の提灯が当たったりしてじゃまなので、枝を切ることにした。
・小笠原土木と境内の砂利敷打ち合せ
でこぼこがひどいので、今年もグレーダーで整正することにした。入れる砂利の量は、2トンダンプ2車とした。
・神社入り口のアスファルトがでこぼこなので、修理してもらうようにした。
・関さんに聞いたところ、貴船会は9月8日に祭典の打ち合せをすることになったとのこと。時間の変更はないとのことであるが、9日以降、時間を確認した上で、協議事項報告書を印刷することにする。
・皆にジュースを配って解散する。8:30
9月5日(月)
・農協およびNTTへ電話して、電話線の付け替えを依頼した。
9月7日(水)
・蟹町のNさん宅を訪問し、今年も中老の休憩場所に使わせてもらうことをお願いした。Nさんへの挨拶は、道検分の時にすれば良いのであるが、今年は、忘れてしまったので、後で行った。
・竜洋派出所へ行き、屋台運行時間表及び通行止め箇所図を提出する。
・祭典の保険の件で保険会社代理店へ電話した。
9月8日(木)
・貴船神社の関さんに中老輿担ぎ名簿を提出する。
9月9日(金)
・関さんを訪問。神社のスケジュールは、例年の通りの時間で行うことに決定したとのこと。
・「貴船神社大祭日程」1300枚の印刷を依頼される。
9月10日(土)
・印刷物を発注する。福田町の泉崖堂印刷
・「連合会協議事項報告」 1700枚
・「貴船神社大祭日程」 1300枚
・請求書は祭典本部宛出してもらうようにする。
・「協議事項報告」は200枚余分に印刷したが、無駄であった。50枚位余分に印刷しておけば、十分である。
9月10日(土) 掛塚祭り本部総会 竜洋会館にて
・年番町責任者が今年の屋台の運行時間について、説明を行った。
9月12日(月)
・磐田警察署へ行き、道路使用許可証を受取、手数料を納める。
9月12日(月) 第4回連合会 社務所にて
・道検分の結果を報告
大当町O氏宅の有線放送、蟹町S氏宅の電話線についてそれぞれ修理依頼済みであることを伝える。
神社内の松の枝について、屋台組立の日に本町の屋台の屋根に乗って切り落とすこと。
この件について、本町の了解を取ったが、結局本町は神社で組立をしなかったため、実際には砂町の屋台の屋根に乗せてもらい、木の枝を切ることになった。
神社内に砂利をダンプ2杯分入れ、グレーダーで引き均すことになったこと。
・中老輿担ぎ関係書類を配布(各町2枚ずつ)
中老輿担ぎ名簿
中老輿担ぎの件(案内状)
神輿神幸(貴船神社から貰う)
・道路使用許可証を配布し、注意事項を読み上げる。
・連合会協議事項の確認
これまでの連合会で決定したことについて、再度確認する。又、「連合会協議事項報告書」は、現在印刷中であり、出来次第各町へ配布する予定であることを伝える。
・本町、蟹町での連合会の件
協議の結果、本町での連合会へ東町が参加することになった。
会場の準備は、本町、蟹町で行い、料理、酒の準備は年番町で行う。
・宵祭りの御祈祷の件
宵祭り、午後7時50分神社拝殿に各町世話係2名集合のこと。年番町も2名出席する。
・宵祭りの連合会の件
宵祭り、午後7時30分 貴船神社社務所にて連合会を開催すること。各町責任者2名出席。(東町含む)
・手打ち式の件
本祭り、午後8時45分神社拝殿にて手打ち式を行うこと。
・大幟建ての件
9月30日(金)朝8時各町年番2名神社集合のこと。(東町、蟹町除く)
・大幟下げの件
10月3日(日)朝8時各町年番2名神社集合のこと。(東町、蟹町除く)
・大幟建ての後、各町年番は神社より掛軸を忘れずにもって帰ること。
・連合会費の集金の件
9月25日(日)に集金するので用意しておくこと。
・保険加入の件
見物人及び対物保険→連合会で加入
その他(参加者、車両)→各町で加入
・年番町渡しの件
10月22日(土)夜7時 初寿司で行う。
・意見、要望等
連合会の席へ本部から出席してもらったらどうか。
ポスターが今年は連合会を通して配布されなかったので、手に入れること。
・月曜日のゴミ処理の件について、説明し忘れたので、後日説明することにする。
9月16日(金)
「連合会協議事項報告書」が刷り上がり、受領する。祭りのポスターを商工会に行って受け取る。
「報告書」とポスターを各町の責任者に配布する。
9月20日(火)
保険に加入する。
対物 500万円
見物人対人 3000万円 一事故 1億円
保険期間 9月25日(組立の日)〜10月3日(ほぐしの日)
保険掛金 27600円
免責10000円。
事故があったときは、その日のうちに連絡すること。大工の手配等は、年番町で行ってよい。緊急を要するものは、特に急いで修理依頼すること。
9月21日(水) 責任者打ち合わせ
今後の仕事について、打ち合せを行い、万全を期す。
9月24日(土) 第5回連合会(臨時) 中町公会堂にて
天皇陛下の病状が悪化し、祭典の実施が危ぶまれる状態となったため、臨時の連合会を召集し、若者連合会としての意志の統一を図るため協議を行った。
※天皇陛下が亡くなった場合は、たとえ祭典実施中であっても、屋台曳き回しは即時中止することを全員一致にて決定。
※天皇陛下が生存している場合、屋台曳き回しを行うか否か。
決を取った結果、出す 4町 横町、新町、蟹町、砂町
出さない 3町 中町、田町、大当町
4対3で屋台を出すことに決定する。
本町は遅れてきたので、後で了解を取った。
※今後は状況を見て、臨時連合会を召集し、若者連合会の意志を決定して行くことを各町責任者に告げ、解散する。
9月25日(日)
朝8時 貴船神社拝殿にて、天皇陛下の病気快復を祈願して、御祈祷が執り行われた。年番町から責任者4名が出席。平田祭典本部長も出席し、御祈祷終了後、氏子総代、神主、町長等と、今後の祭典の方針について話し合った。
我々年番町責任者は、昨夜の臨時連合会の決議内容を発表し、出席者の同意を得た。また、神社の神主より、たとえ天皇陛下が祭典前に亡くなっても、神社の祭事は行う旨の発言があった。
不明の点(天皇陛下が亡くなられた場合、幟を揚げて良いかどうかなどの事)は、神社庁に照会してみる必要がある旨の発言が、氏子総代の池田氏よりあった。
結論として、天皇陛下の生死にかかわらず、祭典は実施するが、万一祭典中に天皇陛下が亡くなられた場合は、屋台の曳き回しは即刻中止とするということに決定された。
・この日は、早朝よりひどい雨のため、各町とも、屋台組立を延期する。
・各町を回り、連合会費を集金する。
・本町の通りの道検分は、雨のため延期する。
・蟹町のNさん宅に行き謝礼を渡し、中老の休憩所について、再度お願いする。又、部屋に敷く敷物を届けておいた。
・和田屋、掛川屋、木村屋寿司屋へ行き祭り当日の料理の注文をする。
・前島酒屋、鶴屋酒屋へ行き、酒、ビールの注文をする。
・予定していた神社内の木の枝切りも雨のため延期とする。
・祭り当日の年番町責任者4名の役割について、協議を行う。東町へ天狗を呼びに行く係、及び蟹町での中老の接待は、補佐が行くことにする。年番町責任者4名は、屋台の運行誘導に専念することにする。
9月27日(火)
小笠原土木(株)へ行き、神社入り口の舗装修繕を再度依頼する。
9月28日(水) 第2回道検分
・本町の通りを道検分する。S氏宅の電話線が低かったので、すぐにNTTへ電話し、修理を依頼する。本町の道検分は、もっと早くやっておくべきであった。
9月29日(木) 第6回連合会 神社社務所にて
・前夜祭の自粛について
本日昼間、祭典本部長が私の職場を訪問し、天皇陛下危篤の折りでもあり、各町の前夜祭については自粛して貰えないかと申し入れていった。同日の磐田市の屋台祭りも前夜祭は行わないことに決定したとのことである。
各町に意見を聞いたところ、大方の意見としては、前夜祭は自粛したいとのことであったので、本年に限り、連合会の決定事項として、前夜祭の中止を決定した。
・祭典終了後のゴミ処理についての通知を配布する。
・屋台運行時間表など一式まとめたものを各町1部ずつ配布する。
・本町、横町については、今年は曳き舞台を出さない旨の報告があった。
・本町より要望
宵祭り、神社曳き出し後、たなかや前まで一気に進め、直ちに引き返して150号線を北へ渡るので、本町が神社から出たとき、前の屋台は必ずたなかやより南へ進めておいてほしい。
・東町より要望
拝殿裏に露天商の車が置いてある時があるので、置かないように露天商の親方に頼んでおいてほしい。
9月30日(金)
・年番町は朝7時神社集合
・飛平松の小笠原組の資材置き場へ行き、通行止め用のウマ28個、スコップ4本を借りる。
・幟、会所、浜ごりに使う雄竹10本は、前日の内に中町年番が用意して置いた。
・8時 大幟を建てる。終了の後、山下さんに謝礼を渡す。みんなにジュースを配って、終了。年番は、掛軸を持って行くように伝える。
・社務所前に杭を打ち、笹を立てて会所をつくる。
・浜ごりの準備は、貴船神社の役の人たちがやってくれるので、竹を4本渡すだけでよい。
・新町の角へ行き、砂利を敷く。その場にあった砂利を敷き、土をかぶせて、固めておく。
・各町を回り、通行止めのウマを配る。
・トランシーバーを4台リースする。
・磐田消防署竜洋分遣所へ行き、通行止めの位置図、屋台運行時間表を提出する。
・神社で砂町の屋台の屋根に乗って、松の枝を切る。
・天皇陛下危篤により鳴り物自粛ということで、祭りの合図の花火を今年は中止することにし、花火屋に伝える。
10月1日(土) 宵祭り当日
・7:20 正装にて貴船神社集合。浜ごり参列。
・8:00 大幟をあげる。会所にちょうちんを掛け、電球を入れておく。
・9:00 露天商へ挨拶。酒1本渡す。屋台が神社へ入るとき、入り口の店を後ろへ下げてくれるよう親方に頼む。
・9:30 祭典本部へ挨拶。警備の警察官にも挨拶。
・10:30 町内回りで本町屋台が国道150号線を南に渡る。交通整理をする。
・10:30〜11:30 各町屋台へ挨拶に回る。酒1本持参。
・14:00〜15:20 各屋台150号線を北へ渡る。交通整理をする。
・16:30 本町の通りに全屋台集合後、本町公会堂にて連合会開催。
祭典前の連合会と違い、祭典中はどの町の責任者も気持ちが高ぶっているため、荒れたものとなった。
・17:00 蟹町屋台を先頭に、各屋台が本町通りを出発し神社へ向かう。
・17:30〜18:30 各屋台神社曳き込み。屋台誘導を行う。
・18:50 社務所から拝殿まで神主達を誘導する。見物人でごちゃごちゃになった境内の中を神主達が拝殿へ向かうために警備をする。
・18:55 新町道囃しの行列が国道150号を渡る。神社内を一回りし、竜洋会館前に着くまで先導する。
・19:00 拝殿での御祈祷に年番町責任者2名参列する。
・19:30 神社社務所にて連合会。御祈祷に参列していた2名は、途中で退席するわけにも行かず欠席。屋台の運行は支障無く進行しており、今のところ事故等も無い。ただ、各町の責任者は気を張っているため、またまた荒れた連合会となった。
・19:50 蟹町屋台を始めに各屋台の神社曳き出し。屋台誘導及び交通整理に専念する。
・21:00 本町屋台国道150号線を南に渡る。
・21:10 本町屋台国道150号線を北に渡る。
・21:15 屋台が解散後、祭典本部へ挨拶する。その後、各町の屋台を回り挨拶する。東町は了解をとり、挨拶を省略させてもらった。
この後、各町内でまだまだ祭りは続くのであるが、連合会責任者としての役割は特に無い。ただ、泥酔や喧嘩が原因でけが人が出たりするのはこの時間帯であるので、連合会責任者としては気が抜けない。
10月2日(日)本祭り当日
・ 8:20 神社集合。各町の屋台を回り、本日も滞り無く屋台の運行ができるよう挨拶をする。(東町含む)
・10:20 本町屋台が国道150号線を南へ渡るだめ、交通整理を行う。
・11:00 本町屋台が国道150号線を北へ渡る。この後本町屋台は、神社曳き込みの順番がくるまで、本町公会堂前で待機する。
・11:05 先頭の横町屋台が国道150号を渡り、神社に曳き込む。その後、順番通り屋台を誘導し、神社に曳き込む。遠い町(蟹町、新町)は神社への移動が遅れがちであるので呼びに行き、誘導する。
・12:30 年番町より世話係2名、拝殿にて御祈祷へ参列する。
・12:40 全屋台が神社に集合する。
・12:50 年番町世話係1名、東町公会堂へ走り、天狗を呼びにいく。
・13:20 東町の天狗が神社到着。
・14:00 神輿御渡りの行列が神社を出発。各屋台は一斉にお囃子を演奏する。
・14:30 先頭の横町屋台が神社を出発。その後、順次曳き出す。年番町から、補佐2名と年番2名が中老接待の準備の為、蟹町Nさん宅へ向かう。
・15:00 神輿御仮宮到着。中老の接待を行う。
・15:30 全町の屋台が神社を出発し、御仮宮へと向かう。途中、各町屋台は事前に決められた位置で休憩を取るが、進行時間は徐々に遅れていく。
・16:00、神輿が御仮宮出発後、中老接待係はNさん宅の後かたずけをし、貴船神社へ引き返す。途中木村屋の寿司屋で弁当の寿司を受け取る。
・17:00、神輿が神社へ到着。中老に寿司を配り、挨拶する。
・18:30 先頭の横町屋台が御仮宮に到着、蟹町の通りに並ぶ。
・19:30 全町の屋台が蟹町に到着する。
・19:30 全屋台集合後、蟹町公会堂にて、連合会開催。いよいよ祭典も終わり近づき、各町の責任者の機嫌はよい。
・19:55 横町の屋台が蟹町を出発する。
・20:00 本町の屋台が蟹町を出発する。他の屋台も順次出発する。
・20:50 本町屋台が国道150号線を北へ渡る。
・20:55 連合会手打ち式の為、貴船神社に向かう。
・21:00 拝殿にて手打ち式を行う。我々も各町責任者もこれまでのプレッシャーから解放されてにこにこしている。
・21:00 本町屋台を除いて、五久前の通りへ屋台が集合する。
・21:15 祭典本部へ挨拶。警察官にもお礼の挨拶をする。
・21:20 各町の屋台を回り、お礼の挨拶する。この後、屋台解散。各町へ帰っていく。
10月3日(月) 祭典の後片づけと屋台の解体
・午前8時、神社集合。大幟を下げる。各町より年番2名集合。(蟹町、東町除く)終了後、ジュースを配り、掛軸を返すよう言い、解散。
・通行止めのウマを回収して回り、小笠原組の資材置き場に返却する。
・仕出し、酒等の清算。商店を回り、支払いをする。
・小笠原土木(株)へ行き、砂利の代金を支払う。
・各町では屋台の解体を行っているので、最後の挨拶をしに回る。その時、年番町渡しの案内状を配布する。
・事故の場所の確認をする。横町O氏宅の電気のメーター、蟹町公会堂前の空き家の庇の破損。保険代理店に連絡して、現場を確認するように依頼する。
注意事項
◇ 今年は祭り終了時間について警察から特に注意は受けなかったが、これは屋台の数が例年より2台少なかったからこそであり、例年通りであったら、やはり時間を超過していたと思う。
◇ 今年は屋台の御仮宮到着が例年より約45分遅れた。大当町で東町の天狗と遭遇するというハプニングもあったが、原因は各町に休憩時間を長く与えすぎた為であり反省している。
◇ 連合会費の追加徴収が例年に比べ多額となってしまった。原因は道路使用許可の手数料が大幅に値上げとなったこと、連合会を例年より2回多く行い飲食費が多くなってしまったためである。
掛塚祭り若者連合会の歴史
これは若者連合会の記録を入れた箱(寅箱)の中にある記録帳より、特色ある記事を私が抜粋したものです。記録は明治30年より始まっており、それ以前の記録は連合会の資料にはありませんでした。
もちろん私は掛塚祭りの歴史を研究している専門家ではありません。ですから、私のコメントはあくまでも私個人の感想ですので念のため。
明治30年 年番町不明
10月9日道路検査、鰻9人前3円15銭。
(今の道検分のことだろうが、当時も行っていたことが解る。現在の道検分は道路上空を横断している電線で屋台に引っかかるものがないかを調べることが主だが、当時は道路の穴を補修したのでしょう。鰻とはうらやましい。今では缶ジュース1本配って終わりです。)
明治31年 年番町 大当町,横町
白羽会所へ謝礼。
(これはこの頃毎年書かれているが、現在は白羽会所というのは無く、どの様なものなのか私には解らない。)
明治32年 年番町 中町,蟹町,田町
警護の巡査へ3円90銭の謝礼。
(当時も祭りの警備を警官に依頼していた訳であるが、謝礼に現金を渡していたんですね。だいたい、鰻9人前のお金と一緒です。また、この年は年番町を3町でやっているというのも何か理由があったのでしょうか。別の資料によると、この年の大火で横町と田町の先代屋台が焼失しているのですが、連合会の記録には記載がありません。)
明治33年 年番町 本町,砂町
明治34年 年番町 横町,中町
横町、田町、出し曳き物無き為包む 2円也。
(当時、引き回す屋台が無い町は横町と田町だったということでしょう。)
明治35年 年番町 大当町,田町
横町の花車曳物の為、煙火料として2円包む。
(横町の花車とはどのようなものであったのでしょうか。先代の屋台が焼失し、屋台再建の準備を進めている状態で、仮の屋台のようなものを作って曳いていたのでしょうか。)
明治36年 年番町 蟹町,新町
(年番渡しを丸井亭で行ったと書かれている。)
明治37年 年番町 本町,砂町
(このころ、蟹町会所に謝儀と毎年書かれている。個人の家を連合会で借りていたのでしょうか。)
明治38年 年番町 中町,横町
明治39年 年番町 大当町,田町
明治40年 年番町 新町,蟹町
浜松 豊田写真館へ金5円也、豊田 焼き増し金2円也。
各町屋台撮影費(貴船神社共十枚)。
神社前の家へ謝儀50銭 写真撮影の時、屋根損害。
(この年は、横町屋台が再建された年です。そんなこともあって、屋台の写真撮影が行われたのでしょう。この時の写真はもう残っていないのでしょうか。私は見たことがありません。)
川袋の人、屋台にて負傷、見舞金2円也。
(2円というと、当時のお金でだいたい鰻6人前ですね。ということは、今の1万円くらいでしょうか。)
明治41年 年番町 本町,砂町
(この頃、毎年必ず田町の角の家に被害を与えたとして、連合会が謝儀をしている。誰の家かは解りませんが。)
明治42年 年番町 中町,横町
(この頃から連合会の慰労会などを榎本旅館で行っている。そこの女中さんに毎年祝儀を払っていたことが記録されているが、色々と世話になっていたのでしょうね。)
明治43年 年番町 田町,大当町
明治44年 年番町 蟹町,新町
大正元年 年番町 本町,砂町
大正2年 年番町 中町,横町
煙火代 9円50銭、煙火職人へ謝儀1円50銭。
(近年まで花火をあげることは年番町の大切な役目であったわけです。)
大正3年 年番町 田町,大当町
大正4年 年番町 新町,蟹町
大正4年11月15日 奉祝費 御大典
(大正天皇の即位式でしょうか。屋台を出してお祝いをしたようですが、詳しい記録は書かれていません。)
大正5年 年番町 本町,砂町
(この年より引継目録に奉祝提灯3個と紅白布が追加となっている。)
大正6年 年番町 中町,横町
この頃の年番町の引継目録。
祭典連合会費勘定帳1冊
金銭判取帖1冊
連合会ちょうちん 2個
ちょうちん掛け 2個
領収書袋入 1個
帖書類の箱 1個
奉祝ちょうちん 3個
紅白布 1切れ
(別の資料によると、この年は蟹町屋台が再建された年なんですが、連合会の記録には書かれていないようです。)
大正7年 年番町 田町,大当町
田町の角の家へ謝儀30銭。(相変わらず書かれています。)
蟹町連合会所謝儀50銭。
本町若者負傷 見舞い25銭。
(明治40年の負傷者の見舞金2円と比べて少ないです。怪我が軽かったのでしょうか。25銭では鰻1人前にもならないです。)
江戸川亭 21人分夜食代 5円25銭。
大正8年 年番町 新町,蟹町
横町若者負傷 見舞い50銭。(毎年負傷者が出ていますな。)
大正9年 年番町 本町,砂町
大正10年 年番町 横町,中町
大正11年 年番町 田町,大当町
決議事項 屋台を各町通過の時、各自町への留置時間を40分とする。
(昔は朝まで屋台を曳いていたそうですから、のんびりしていた。)
大正12年 年番町 新町,蟹町
花火代 8円45銭、花火職人謝儀 3円。
大正13年 年番町 本町,砂町
祭典に際し、連合会所属区承認なき余興物は禁止とす。
(どのような余興物が行われていたのか解りませんが、わざわざこういう決議をした記録があるということは、派手にやっていたのでしょう。)
大正14年 年番町 中町,横町
9月25日連合会決議。
28日各町屋台神社集合最終2時とする。(この頃の祭典は、9月27日と28日だったようです。)
神社出発は神輿の御立ちと同時刻とする。
各町屋台留置時間先頭屋台到着より20分間とする。
本町の留置時間は最終屋台の到着時刻より10分間とする。
御仮屋の留置時間は最終屋台到着時刻より1時間とする。
当日の夕食時間は午後7時より1時間とする。
その町に於ける世話係の責任なき道囃しはこれを許さず。
大正15年 年番町 大当町,田町
連合会に於て、田町、東町も各町と同等の権利を有することを決議する。
(屋台がない田町と東町はそれまでは差別されていたと言うことでしょうか。)
28日の夕食時間は午後6時半より1時間とする。
この頃、毎年田町が花火を連合会に寄付している。
昭和2年 年番町 新町,蟹町
本年は特別の年なるを以って屋台曳き出しに決定したる旨を町長氏子総代に報告する。
(大正天皇が前年の12月に亡くなられ、いろいろと協議をしたのだろうが、結局屋台曳き出しを決めたようです。また、貴船神社の大幟土台をコンクリート製にすることを検討しているが、この土台は昭和3年に昭和天皇の即位記念として、石造りのものが建立され現在に至っています。)
横町より道順変更の提議あり。
(後に実施された逆回りのコースについて、横町はこの頃から連合会に提議していた。)
4寸花火筒鉄製品新調。
昭和3年 年番町 本町,砂町
連合会の印を作成 2円20銭。
田町と横町の小争い、年番町の斡旋で円満解決。
昭和4年 年番町 中町,横町
この年、河川修理工事のため、蟹町は屋台を出さない旨申し入れがあり、連合会は数回に渡り蟹町区長に交渉、結果、全町曳き出している。
田町は若者が少ないため連合会に出席するのが1名でも条件は変らない旨、決議。
9月27日、中町及び砂町屋台塗り上げ完成し、人気の焦点となる。
9月28日、雨のため時間を早めている。
昭和5年 年番町 大当町,田町
道検分 9月21日 東町も出席
太鼓練習 9月22日より
大幟 9月26日
浜ごり 9月27日
祭典 9月27日、28日
本町屋台曳き込みの際、屋台と自動車の間で9才の女子が負傷。前歯を3本折ったが命に別状なし。
その後、また境内に於て事故発生。絶命したと書かれている。年番町は本人宅を慰問。事故の原因は書かれていない。そのため、屋台囃しは境内を出ると同時に停止した。
また、おそらく事故が原因だろうが、本町の屋台が神社に停止してしまい、蟹町へ向かうのを拒否してしまった。他の屋台は午前2時に御仮宮へ着いたが、本町が動かない。相当難儀をした模様で色々協議をしたと書かれているが、結局朝になってやっと本町屋台は御仮宮に着いたようである。
事故による死者があったとの記録は、この年だけである。
昭和6年 年番町 新町、蟹町
自動車会社にて祭典のポスターを印刷。
(すでに当時からポスターにより祭典をPRをしていたようである。)
屋台曳き込み中に中町の若者が両足に負傷。相当の重傷だったらしい。見舞金4円。
横町世話係を蟹町若者が傷害。新町の仲裁で解決。
昭和7年 年番町 本町,砂町
大当町新道路を通過するかどうかで協議をし、熟議の結果通過なしとする。
(この新道路とは現在のどの道のことなのか私には解りません。)
昭和8年 年番町 中町,横町
横町より御渡り道順変更の提議あり。
(相変わらず横町は道順変更について熱心に提議を繰り返している。)
昭和9年 年番町 田町,大当町
全町の屋台神社境内に於て写真撮影をする。
(この時の写真も残っているのでしょうか。私は見たことがありません)
大当町新道路は隔年に通過することに決定。
(蟹町への道順は現在とは異なっていたらしいです。)
昭和10年 年番町 蟹町,新町
宵祭り 午前1時神社解散。
本祭り 午前3時解散。
(この頃は毎年解散するのは深夜もしくは夜明け過ぎである。)
昭和11年 年番町 本町,砂町
9月27日 朝から雨のため宵祭りを延期する。
9月28日 快晴。宵祭りを行う。屋台神社先着午後9時神社解散午前1時半。
9月29日 本祭り。午後4時40分屋台全部集合。
9月30日 午前3時解散。
本年は砂町、横町、大当町、新町、蟹町、各町に若者及び子供連の道囃しありて、近年珍しく活気あるにぎわいを呈せり。
神社境内新配置を翌年から試みることに申し合わす。
(と書かれ現在と同じ配置図が書いてある。この年以前は神社内の屋台配置が異なっていたということですね。)
昭和12年 年番町 横町,中町
7月20日第1回連合会 支那事変勃発、各町若者献金する。総額53円50銭。24日、年番町が役場へ手続きに行く。
9月20日第2回連合会に於て全票にて屋台曳出し中止決定。大幟建て、神輿御渡りは実施。各町若者は正装にてお供をする。
支那事変出征のため、田町の若者が2、3名となり、年番町をやめたい旨の申し出があったが、協議の結果、来年の年番町をやることとなった。
(お祭りどころではなかった訳です。)
昭和13年 年番町 田町,大当町
事変中につき屋台曳き出し中止す。
大幟、浜ごり27日 7:00
(この年は東町の問題でもめ、とうとう連合会の解体という事態にまで発展している。ことの起こりは召集による若者不足のため、東町が神輿奉仕人を務められないから、連合会を脱会したいと申し出たことにある。連合会はこれを認めなかったが、東町若者は組織を解散し、神楽を区へ返上する。連合会は神輿奉仕人を各町に割り振り、御渡り行うが、東町の神楽囃しも結局蟹町までやってきた。結局、御仮宮で連合会を開催し、東町の勝手な行動に対して不満を持った各町の代表は、その場で連合会を解散とする。)
昭和14年 年番町 新町,蟹町
不安定な状態の中で、連合会は復活する。この年も屋台の曳き出しは中止となる。
(連合会と東町の関係は、まだまだ問題はあったようだが、仲介を立て、交渉の結果、東町は白紙を以って連合会へ出席、この問題は円満解決する。)
昭和15年 年番町 本町,砂町
この年より、各町若者戦死者の氏名記録、及び町葬へ各町世話係が出席した記録が書かれている。
この年の祭りも屋台曳き出しは中止。
数年来申し出のある、田町の年番町除外の申し出につき、協議の結果、田町も年番町をやることに決定。数年来の暗雲晴れる。
★ 皇紀2600年行事記録 横町,中町
昭和15年11月7日 各町世話係神社集合。
紀元2600年奉祝の為、屋台曳き回しを決定する。
本行事は委員会制度により運用することに決定する。
11月10日 午後9時 神社先着。午後10時半 屋台集合、拝殿にて万歳三唱。午後11時 解散。
11月11日 午後1時 屋台先着。午後3時半 屋台集合 拝殿にて万歳三唱。町内回りの後、午後11時 神社集合。拝殿にて万歳三唱し解散。
11月12日 午前4時 屋台神社集合、その後解散。
(派手にやってますね。戦争のためずっと屋台を出していなかったうっぷんを一気に晴らしたようです。)
昭和16年 年番町 横町,中町
屋台引き回しは中止となる。
昭和17年 年番町 田町,大当町
数年ぶりに屋台曳き出し決定。
9月27日 宵祭り。神社集合午後9時半。拝殿にて大東亜戦争必勝祈願し、0時30分解散。屋台に事故あり時間遅れる。
9月28日 本年は花火中止。大急ぎで御仮宮へ行き、午後7時半全屋台御仮宮集合。ここで、蟹町屋台事故のため動けなくなる。
本年は、大東亜戦争下、意義ある祭典を無事終了せり。
番外記録 10月2日浜松放送局より、中町が屋台囃しを放送する。
昭和18年 年番町 新町,蟹町
屋台曳き出し中止と決定。
神輿御渡りに各町世話係2名防空服装にて警護に当たる。
横町、大当町、樽神輿を出す。日中のみ、鳴り物禁止の条件で連合会はこれを認める。
昭和19年 年番町 本町,砂町
(太平洋戦争もいよいよ佳境に入り、本土爆撃が始まった年である。この年は、戦意高揚のため屋台を引き出すことに決定した。)
本年は、大東亜戦争まさに決戦の秋に当り、幸い天候に恵まれ、盛大なる祭典に終始したる事は戦意高揚の目的を達して余りあるものと信ず。
(資材がないため、屋台は日没までで終了の予定でいたところ、松山博氏よりローソク500本の寄贈があり、時間変更し夜まで出し提灯に火をつけることができた。)
昭和20年 年番町 横町,中町
(太平洋戦争敗戦の年である。一度は連合会で屋台中止を決定したが、年番町宛に町内若者より数通の書状あり、再度連合会で協議の結果、屋台曳き出しを決定する。)
パッキング会社よりローソクの原料資材の寄贈あり。各町より2名出て横寺にてローソクの製造を行う。
(手作りのローソクを使った祭り。感動してしまいますね。)
昭和21年 年番町 田町,大当町
9月27日 宵祭り。朝から雨。神社先着午後9時。午前1時解散。
9月28日 本祭り。29日午前9時解散。
本年は横町の新調の曳舞台は人目を引き、横町の子供連の道囃し砂町の若者の手踊りありて、近年に珍しく活況を呈せり。
(9月27日28日に祭典が行われたのはこの年が最後となった。)
昭和22年 年番町 蟹町,新町
(この年、占領軍の指令とのことで、祭典の日程変更について、連合会、貴船会、町長等が再三協議している。結果として、10月12日13日に屋台の引き回しを行うことになったが、特例として、委員会組織での執行となった。)
砂町の屋台、車輪故障。
昭和23年 年番町 本町,砂町
(この年も祭典と屋台曳き出しの日が違うため、東町を連合会へ加入させていない。)
中町が浜松放送局で囃し演奏。
10月10日が雨のため、11日12日に引き回しする。
この年より、「掛塚若者連合会」として、新発足する。
昭和24年 年番町 横町,中町
(この年、初めて逆回りのコースが採用された。横町がずっと提案し続けていたもので、昭和23年の連合会にて隔年で実施することが決定していた。)
田町、屋台制作のため、翌年より連合会より棚上げの件、承認。
新町屋台、コロ破損。修理にかなり手間取った模様。
昭和25年 年番町 大当町,新町
10月10日11日とも雨のため見物人少なく、はなはだ残念であった。
昭和26年 年番町 蟹町,本町
新町、曳舞台新築披露。この年は天候もよく、無事祭典終了。
昭和27年 年番町 砂町,中町
田町屋台新築。田町連合会に復帰。
この年より本舞台8台曳舞台6台となり、神社内の配置は6台目の曳舞台は社務所前となった。
10月11日雨のため中止。12日曳き出し。
蟹町屋台塗装完成、田町屋台新築、盛況を呈せり。
昭和28年 年番町 横町,田町,大当町
第2回連合会 逆回りコースの是非について論議あり、逆回りの廃止を決議する。
第3回連合会 横町より決議事項白紙還元の申しであり。
第4回連合会 結論でず。
第5回連合会 朝まで協議の結果、白紙還元とする。
蟹町で御渡りに対して若者が害をなす不祥事があった。
全国に大水害あるも、好天のもとに盛観の中に終了。ただし、暴力事故が多くなってきており、研究を要す。
昭和29年 年番町 新町,蟹町
国道150号線建設が話題となり、協議の末、屋台曳き出し中止を決定する。ところがこの年、横町屋台の塗装が完成し、横町は曳き出しを希望する。
第3回目の連合会にて、横町の屋台曳き回しを認可する。ただし、町内の曳き回しのみとし、全ての責任は横町世話係が負うものとすることを決議。
ところが、横町が責任を区へ委譲したため、これを重くみて、連合会を開催。朝まで協議するが、横町の意志は変わらず。
結局、横町世話係は、掛塚若者連合会発足以来歴史的除名を可決される。
昭和30年 年番町 本町,砂町
横町が連合会へ復帰。横町より復帰のお礼をしたき申し出あり、社務所にて各町世話係3名出席のもとに盛大なる祝宴を張る。
本年は有史以来の豊年万作、掛塚橋開通。竜洋町発足第1回の祭典を盛大裡に終了せり。
心配していた国道150号線の坂も無事通過できた。
昭和31年 年番町 横町,中町
10月10日午後4時45分より15分。浜松放送局より中町祭り囃しを放送する。
昭和32年 年番町 田町,大当町
花火打ち上げを貴船会へ移管方折衝し、決定する。
昭和33年 年番町 新町,蟹町
この年、徹底した暴力取締りが行われた。
昭和34年 年番町 本町,砂町
毎年陳情していた新参道が完成する。
伊勢湾台風の被害がひどく、屋台曳き出しについて臨時連合会で協議する。
結局、屋台曳き回しを実施した。
昭和35年 年番町 中町,横町
白羽地区の寄付集めは本年より行わないことに決定。
最低4日かかる祭り。若者中心の祭り。それは昔、誇ったものではあったが、現在は重荷になって現れてきた。時代の移り変わりと共に、祭典、屋台のあり方について考えて行かなければならない時が来始めたと感じた。
(この年の責任者が書いた言葉です。祭典の日程が問題になっていたのですね。)
昭和36年 年番町 田町,大当町
全町一致で屋台曳き出し中止を決定。幟建て、拝殿参列のみとする。
原因は祭典の日程でもめたため。10月10日と11日の日程では、仕事の関係などから、無理があるということ。
砂町より、土曜、日曜に固定したらどうかとの改革案がでる。
昭和37年 年番町 新町,蟹町
この年より祭典の日は10月第1土日となる。
今までの正常廻りを西廻り、逆廻りを東廻りと呼ぶことに決める。
昭和38年 年番町 本町,砂町
東廻り。
昭和39年 年番町 中町,横町
東京オリンピック。西廻り。
昭和40年 年番町 大当町,田町
絶好な祭り日和、盛大に終了。
昭和41年 年番町 新町,蟹町
本祭り、雨。午後よりあがるが、時間遅れる。
昭和42年 年番町 本町,砂町
コース、及び時間の大改革あり。
昭和43年 年番町 横町,中町
「宵祭り、本町上曳き込み集結後、神社へ引き入れる。」という良案が連合会で出された。
昭和44年 年番町 田町,大当町
横町より、各町の小旗の色を統一したらどうかとの提案。
「貴船神社祭典統制本部」設置し、国道150号線渡りを指揮する。この年はこの本部のおかげでスムーズに進行したとされている。
昭和45年 年番町 新町,蟹町
本祭りは朝から雨のため、各屋台は五久前へ集合した後御仮宮へ向かうことになった。
昭和46年 年番町 本町,砂町
蟹町屋台車輪損傷。本町のスペアを借りる。
中町より、人員が少ないため世話係を40才までにしたい旨の提案あり。
昭和47年 年番町 横町,中町
昭和48年 年番町 田町,大当町
本祭り、雨天のなか屋台曳き回しを強行。砂町、車輪故障。
(祭りの開催日が10月第1土日になった昭和37年以来雨が多くなったように感じられるが、気のせいでしょうか。)
昭和49年 年番町 新町,蟹町
昭和50年 年番町 本町,砂町
本祭り、台風13号接近のため午後4時半屋台曳き出し決定。
砂町集合の後、御仮宮へ向かう。
この年より浜ごりを神社で行うようになった。
昭和51年 年番町 横町,中町
この年より中町の曳舞台参加せず。
横町屋台柱を損傷。曳舞台で御仮宮へ行く。
昭和52年 年番町 田町,大当町
本町屋台車輪破損。蟹町にスペアーを借りる。
昭和53年 年番町 新町,蟹町
静岡けんみんテレビが祭典の様子を放映した。
はぐれ竜が暴れる。(はぐれ竜というのは、当時威勢が良かった暴走族のことです。)
昭和54年 年番町 本町,砂町
大当町屋台、柱故障のため不参加。
台風19号の影響で、祭典に支障。宵祭り、午後2時半に曳き出し決定。
本祭りは神社への屋台曳き込み中止。砂町集合の後、蟹町へ向かう。
新町、道囃し。はぐれ竜は警備強化したため妨げなし。
昭和55年 年番町 横町,中町
掛塚祭り祭典改善委員会設立。
「祭典本部」設置。法被へワッペンを付けることが義務づけられた。
昭和56年 年番町 田町,大当町
昭和57年 年番町 新町,蟹町
宵祭り、朝から雨。曳舞台は中止。
本祭りも朝から雨。日中のみ好天。夜、手打ち式中に土砂降り。
屋台は直ちに現地解散となる。
昭和58年 年番町 本町,砂町
この年より終了時間午後9時半となる。以前までは10時であった。
屋台音頭の踊りの行列があった。
昭和59年 年番町 中町,横町
この年も屋台音頭の行列があった。
昭和60年 年番町 田町,大当町
本祭り、朝から雨。各町曳舞台中止。町内廻り中止。
昭和61年 年番町 新町,蟹町
この年より終了時間午後9時となる。
昭和62年 年番町 本町,砂町
祭典中、祭典に参加していた女性が交通事故で死亡。暗い雰囲気の祭典となった。
昭和63年 年番町 中町,横町
天皇危篤で自粛ムードの中、屋台曳き出し決定。但し前夜祭は自粛し中止とした。
本町、横町は曳舞台を中止。これは、組立の日が雨だったため。
祭りは好天に恵まれ、盛大に終了する。
この後、掛塚祭りの開催日については変更されました。
平成9年現在、掛塚祭りは10月第3土日に開催されています。