第 1 回
平成15年9月23日(火)
くもり
草津宿−へそむら−今宿−東門院−守山宿
“東海道と中山道の追分 草津宿”
旧東海道を歩き終えた翌日、K氏宅を
午前9時50分
に出た。
昨夜は、手品のように出て来る奥さんのプロも顔負けの手料理に、共に女房同席のためか、昔話はほとんど出ずに、もっぱら近況の話で盛り上がった。早くも仕事を終えて悠々自適の生活に入ったK氏に比べて、いまなお、あくせく働く自分が幸なのか不幸なのか。友人の誘いで、K氏夫妻は今、山登りを共通の趣味にしているというが、散々山に登り、今は体力の限界を感じて山から里へ下りて夫婦で街道を歩いている自分とは、どちらが若いといえるのか。趣味豊かで器用でセンスがよくて何をやっても玄人はだしのK氏の奥さん、同じく多趣味で体育系ののめり込みのはげしい、センスいまいちと自称するわが女房と、どちらの亭主が幸いか。そんな疑問も浮かんだが、答えは出さない方がよいと思った。
K氏に車でJR高槻駅まで送ってもらう。K氏夫妻に感謝、感謝である。
今回の旅の三日目、引き続き中山道の旅へスタートしようと決断したのは何時であったか。予感はあったが、三条大橋に立ってみなければ判らないと思っていたから、やはりあの弥次喜多の像を見た後であったか。
午前11時20分
、三度目の草津駅駅頭に立った。なじみの道を草津追分に戻る。中山道の出発点は三条大橋であるが、東海道との分岐点は草津追分で、草津から京までは東海道と中山道が同じ道となる。中山道の出発点を三条大橋とすると、一昨日と昨日に歩いた道をもう一度歩かねばならない。だから草津を出発点とした。草津からだと中山道は67次となる。コースが案内書と逆になり、判り難いと女房は言うが、復路であるから西から東へ下っていかなければ意味がない。やはり草津の追分道標
(左写真)
から出発する。ときに
午前11時28分
。草津川トンネルを北へ抜けた左に、「中山道の終点」の案内板があった。
草津市ボランティアガイドの案内板によると、
中山道の終点と草津川渡し場
中山道はここが終点である。中山道は、草津川を渡り宿場に入った。平生水がなく、徒歩渡りで、川越の料金は水かさによって異なった。
中山道は中ノ町の商店街のアーケードの下
(右写真)
を北へ進む。アーケードで天気は判らないが、予報では今日は一日曇りで、雨はなさそうであった。歩きも三日目で時間も遅いから、次の宿の守山宿までのつもりである。右側の路傍に中山道の案内板があった。
津市教育委員会の案内板によると、
中山道
中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
草津には、下鈎から渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(草津川)を越えて草津追分に至った。
なお、中山道分間延絵図によれぱ、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。
中山道と県道141号下笠大路井線との交差点を右折したすぐ左に覚善寺という浄土宗のお寺があり、その門前に「大路井道標」
(左写真)
がある。
明治19年(1886)に草津川トンネルが出来たのを機会に、中山道と東海道の分岐点がこの交差点に移され、覚善寺南西角にこの道標が立てられた。その後、門前に移されたもので、大きな文字で「右東海道 左中山道」と刻まれている。
草津市渋川に入って、渋川東地区街づくり推進協議会の立て札を幾つも見た。旧中山道を生かした街づくりが行われているようだ。高層団地の前に「やすらぎ」とネーミングされた銅像と共に同じ立て札があった。
(右写真)
渋川東地区街づくり推進協議会の案内板によると、
この道路は旧中山道であり、渋川の街づくりの一環として、平成八年、平成九年に地域の特色を生かした景観形成道づくり事業を実施したものです。
通行に支障となる迷惑駐車はやめましょう。
まもなく街道の左側に伊砂砂神社がある。重要文化財の檜皮葺の本殿よりも、その前の拝殿の方が美しくて目立った。
(左写真)
滋賀県教育委員会の案内板によると、
重要文化財伊砂砂神社本殿
草津市渋川一丁目 一間社流造、檜皮葺(室町時代)
伊砂砂神社の草創は明らかでないが、名称は明治二年からのもので、古くは天大将軍社と称された。
建物は棟札により応仁二年(1468)に建立され、元禄四年(1691)に修理を受けていることがわかる。 軸部は当初材を良く残こしているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの造作材は、大正時代の修理によるものである。
小規模な一間社であるが、母屋は内部を内外陣のニ室に区画し、正面に向拝を付ける。組物は三斗組、妻飾りは豕扠首組(いのこさすくみ)として、母屋には三方に縁、高欄を巡らし、脇障子か取り付く。
この本殿は建立年代が明確で、木割が細く、正面の建具を吹寄せ格子戸とするなど軽快な建物で、室町時代後期の本殿建築を知るうえで貴重である。
伊砂砂神社の中山道側には三段ほどの石垣が残っている。鎌倉時代の自然石の平積みの石垣だという。
(右写真)
有志奉納の案内板によると、
伊砂砂神社
鎮守の森
昭和五十七年の滋賀県企画部の調査では、当神社は、「重要文化財の本殿を中心に、鎮守の森の景観がよく保存されている」と高く評価されている。
伊佐佐川
昔は神社の横を流れる伊佐佐川で手を洗い、身を清めて参拝するための御手洗川(みたらしがわ)であった。当神社の社名は、本殿の御祭神五柱のかな書き神名にある「い・さ」と、伊佐佐川に因んで伊砂砂神社とされた。
平積石垣
神社の横・仲仙道沿いに残る石垣は、自然石の珍しい平積みで錬倉時代の作と伝えられ、神社の古い歴史を物語っている。
伝統芸能「古式花踊り」
應仁三年(1469年)旱魃のため、村人か雨乞いの祈脚を行なったところ、御神助により雨が降リ、幸いに豊作となった。このため神前に御礼の踊りを奉納して祝ったのか、始まりと伝えられている。 踊りの歌は、道歌・御禮踊歌・参宮踊歌なと十八の歌からなリ踊りの役は.音頭取・新発意(しんぼち)・太鼓打・中踊・外踊で構成される。花笠をつけ、たすきを掛け、新発意は軍配を持ち、踊り手は団扇を持って踊る。
雨乞祈願の踊りとして、幾百星霜を経て今日に至っている。本踊り(数十年目)中間踊り(十数年目)稽古踊り(毎年)が、九月十三日の灯明祭に奉納される。
10分ほど歩いて低いトンネルを潜って
(左写真)
JR東海道線の西側へ渡る。この辺りは中山道はJR東海道線と重なっていた。
栗東市に入って、
正午
を回っているのに気付いた。今日も食堂の見つかるような道ではなさそうだと思い、途中のマーケットでパンなどを買った。途中、東海道でも近江路に入って見かけるようになった庇付きの石仏を見つけた。
(右写真)
左折するとすぐJR栗東駅という交差点を行過ぎる。この辺りは昔の
へそ
村で、現在の栗東市
へそ
である。
へそ
の漢字はパソコンの文字に出てこない。
糸
偏に
巻
、意味は
「つむいだ糸をつないで、環状に幾重にも巻いたもの」
で、決して人体の
へそ
ではない。しかし元の意味が死語になってしまうと、お腹の
へそ
の意味が前面へ出てきてしまう。そんな
へそ
にゆかりの全国の町が集まって、「全国
へそ
のまちサミット大会」を開催したりする。
へそ
を生かした町興しである。栗東町の
へそ
も見事にそこへはまっていた。
5分ほど進んだ右側に大宝神社があるが、その道路沿いに
へそ
の「道路元標」が立っていた。
(左下写真)
「へそ」
行政区の案内板によると、
大宝村大字
「へそ」
元標について
元標(げんぴょう)は道路元標ともいい、道路路線の起点や終点などを表示する標識であります。各市町村に一つづつ置かれるもので、石材その他の耐久性材料を用いて、里程や市町村名が記載されているものてす。
この元標は「大宝村大字
「へそ」
元標」と刻まれることから、道路元標と云えますが、同時に大津市元標や栗太郡役所などからの里程をも示しており、里程標を兼ねたものだといえます。官公庁として大正15年(1926)に廃止された栗太郡役所、及ぴ昭和29年(1954)に移転した草津警察署からの里程を示すのはもちろん、京都伏見の第十六師団指令部や、大津駐屯の歩兵第九連隊(大正14=1925年に伏見へ移転)といった陸軍官庁からの里程も明らかにしており、建立時の時代背景をよく示しています。
(読み方と意昧)
(正面)
大津市元標を距てること、四里十八町三十間五尺。(約17,730m)
栗太郡役所を距てること、二十四町三十一間四尺。(約2,700m)
草津警察署を距てること、二十九町二十五間。(約3,200m)
大宝村大字
「へそ」
元標。
(向って右側面)
第十六師団司令部最迫より、九里八丁〔町〕十二間五尺(36,200m)
大津第九連隊最迫より、四里三十町十三間五尺(約19,000m)
(向って左側面)
東は大宝村大字野尻より、十一町六間三尺、(約1,200m)
南は大宝村大字苅原より、八町四十間一尺、(約950m)
西は大宝村大字北中小路より、五町二十一間三尺、(約590m)
北は物部村大字二町より、四町五十八間三尺、(約590m)
(裏面)
大正六年二月十五日建設、奇附一西田哲太郎
元標の復元
旧元標は設置されて80年余りの年月を経ているため、風化がひどく文字の判読が困難な状況であることと、交通事故により中程から半分に折れるなど破損が著しいので、平成12年(2000年)に創意と工夫の郷づくり事業により復元したものです。 尚、旧元標は栗東歴史民俗博物館に保存されています。
大宝神社の道路沿いに緑地公園が続くが、少し先の公園内に芭蕉の句碑があった。
(右写真)
へそむらの まだ麦青し 春のくれ はせを
「へそ」行政区の碑文によると、
芭蕉句碑の由来
この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄三年(1690年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに「へそ」村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。
へそむらの まだ麦青し 春のくれ はせを
句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここへそ村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・・というものです。
芭蕉の句碑は滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。
平成十二年三月(西暦2000年)
創意と工夫の郷づくり事業により移転整備
まもなく守山市に入って、中山道は北東へまっすぐ進む。道路右側には幅一間ほどの水路があって、コンクリートで固められているが、わりあいきれいな水が流れている。「ほたる保護」の立て札も見られ、ホタルが生息しているのであろう。ホタルの餌はカワニナと呼ばれる淡水の巻貝である。水面をみると小魚が走る川底にカワニナらしき姿も見えたような気がする。
子供の頃、長く結膜炎を患っていて眼に弱点があった。大人になれば治ると聞いてはいたが、親は何とか直してやりたいと思ったのであろう。カワニナが眼に良いと聞いてきて、夕方よくカワニナ採りに父の自転車の荷台に乗って郊外に出かけた。たくさん採ってきたわけではなかったが、帰りは暗くなってしまい、山でフクロウが鳴いていたのを思い出す。今ならシズトマなどを気にして口にすることはないが、当時は水もきれいで気にすることはなかった。殻をつぶし身を水で洗って、生で食べたように記憶している。カワニナが効いたという記憶はないが、大きくなると共に結膜炎は消えた。
午後0時59分
、守山市焔魔堂町に入ると、左側に「五道山十王寺」がある。
(左写真)
門前に「焔魔法王小野篁御作」と刻まれた石柱があった。宿の出入口に必ずと言っていいほど置かれた十王堂。十王のうちの何といってもエースは焔魔大王である。それでお堂の名前は焔魔堂、この辺りの地名も焔魔堂村と呼ばれた。十王寺の向い側に、「従是南淀領」と刻まれた領界境石が立っていた。
守山市今宿に入ると、ちらほら古い町並みが見えてきた。右側に中山道で初めて目にする一里塚の「今宿一里塚」があった。
(右写真)
榎はニ代目だというが、もう立派に一里塚を覆っていた。
滋賀県教育委員会の案内板によると、
滋賀県指定史跡 今宿一里塚 江戸時代
所在地 守山市今宿町
今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに129箇所あった一里塚の128番目にあたります。
一里塚は江戸幕府により慶長九(1604)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。
今宿一里塚は規模は小さくなっていますが南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。
今宿一里塚は、往事を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。
一里塚から少し歩いた右側に、「倉野磨崖仏」の案内板があった。てっきりこの近くに磨崖仏があるものと思った。そこは人家の前の広い空地で、磨崖仏がありそうな崖地も見当たらない。磨崖仏の在処を誰かに尋ねたいと思い、空地に車で来て片隅の焼却炉にゴミを運ぶおじさんがいたので、「この倉野磨崖仏は?」と問い掛けた。「ちょっと待って、内の人に言ってあげるから」とその家に入り、「すぐ来ますから」とゴミ運びに戻る。おばさんが出てきて「今開けますから」とお堂らしきところを開け、「今来ますから、どうぞお参り下さい」と招じ入れる。何か変だなと話しながら待っていると、作務衣を着て首に輪袈裟をかけた高齢の老人がやってきた。歩くのが少し不自由なようだ。「よくお参りくださいました」 お参りに来た訳でもないのだけど。そして我々に合掌させて般若心経を上げた。
(左写真)
「これはお守りです。無料ですから」とお守りを二つ頂いた。いいのかなあ。話すうちに、我々がわざわざ御参りに来たのではないと察したようだ。
いきなり昔話を始めた。軍隊から帰って来てから戦後大阪で木材市場を始めるなど、経済界で活躍したのち、80歳になってから坊主になろうと発心した。高野山や延暦寺の門を叩いたが、高齢を理由に断られ、ようやく三井寺で許され、修業して坊主になった。現在92歳、最近脳梗塞で少し身体が不自由になったが、人々を救いたいという意欲は衰えない。波乱万丈の一代記を語ってくれた。
聞きたかった倉野磨崖仏は梵字の石碑で、倉野氏の故郷の鹿児島県樋脇町に現在もあるのだという。祭壇には梵字石碑の拓本が祀られていた。
「何かあったら連絡をくれれば遠くからでも祈祷してあげる」という声を背に辞去する。お布施を置いてくるべきであったかなあと話しながら。成り行きで思わぬ道草をした。しかし80歳で発心するとはすごい。年齢ではないと思った。中高年には勇気付けられる話である。
案内板によると、
倉野磨崖仏
倉野は、入来院初代地頭渋谷定心の末子(五男)倉野荒矢が建.長二年(1250年)から治めた地である。倉野氏創建の寺院瑞泉庵では特に高度な仏教研究がなされていたことがこの磨崖仏の梵字群によって明らかである。
磨崖仏は梵字十七陽刻仏像 1、五輪塔 3、外仏種子等からなっている。
この梵字の中で最も注目されるのは中央月輪中に書かれているオーンクである。梵字の下に文保二年(1318年)の年号記され、九月五日寂円房が亡親の供養と共に村人の平安を祈願した旨が明記されている。
■ オーンク 金剛両部不二大日
■ バーク 釈 迦
■ キリーク 阿弥陀
■ バ ン 金剛界大日
■ バ イ 薬 師
梵字を刻むことは仏像を彫ることと同じ意味で全国至る所にあるが、この■(オーンク)の文字だけは日本に(全世界にも)ただ一つしかない珍しい文字である。
当時、金剛界・胎蔵界・両部不二の大日如来を表わす文字として密教の最高尊を表現せんとして工夫創作された真に貴重な文宇である。
この■(オーンク)一字だけでも鎌倉末期という早い時代に倉野地方に如何に高級深渕な仏教哲学の研究が行なわれていたか。中央に劣らぬ高度な文化があったかを伺い知ることができる。 町文化財指定 昭利五十年九月 樋脇町教育委員会 (倉野地.区九拾ヶ村含む)
午後1時50分
、中山道に戻り、今宿の町を行く。意外と古い町並みが残っていた。
(左写真)
まもなく吉川に架かる土橋を渡る。
(右写真)
中山道守山宿の西の入口で、広重の「木曽海道六拾九次の内 守山」はこの橋から眺めた宿場風景が描かれている。寛文年間(1661〜73)には瀬田の唐橋の古材で架けかえられたという記録が残っていて興味深い。
守山宿は寛永19年(1642年)宿場として制札が与えられてから360年になる。草津の追分で東海道と別れて、東へ下るときの最初の宿である。「京立ち守山泊まり」として旅人に知られ賑わいをみせていた。
土橋を過ぎてすぐ左側に比叡山の東門とされる東門院がある。正式には「比叡山東門院守山寺」という。その門前左側に「明治天皇聖跡」碑がある。
(左写真)
明治天皇聖跡保存会の碑文によると、
明治天皇と御小休所
明治天皇は江戸幕府の大政奉還とともに維新の大業を完遂せられ以来鳳輦を四方に移して親しく民情の御視察があり、守山においては明治十一年二回に及んで御小休の光栄によくした。
すなわち、明治十一年十月十二日晴、福井県より京都への御路すがら午後三時五十七分現在の東門院境内にあった守山小学校へおつきになり御小休の上草津へむかわせられた。
同年十月二十一日晴、さらに京都より東京への御還幸の途次午後八時ふたたびここで御小休の上鏡辻町へむかわせられた。
ここに明治百年を記念して御聖徳をしのびこの碑を建てる。
仁王像が両側に納まる東門院の東門
(右写真)
を潜って境内に入ると、すぐ左にユーモラスな親子ガエルの石造があった。
(左下写真)
そばに手製の案内板が立っていた
案内板によると、
蛙の由来
扨々、当山は桓武天皇により延暦七年春三月、比叡の山の東門(一説には鬼門封じ)として建立された。延暦十三年九月吉日、天皇より山号院号寺号として比叡山東門院守山寺を賜わり、それより地名も守山となり、寺町として発展してきました。
江戸時代の文献に、「京浪速に至るもこの賑わいを見ず」とある。然し戦後町並は衰退の一途をたどり、今は当時の面影を失いつゝあります。
これを憂いて門前の呉服店の店主北川一氏が守山宿がもう一度よみ
がえる
よう、又もう一度さ
かえる
ようにと願を込めて、店主の誕生歳(昭和三年十月三十一日生)、辰年(2000年)を迎えるにあたり、磐石に鎮座する親子蛙を寄進されました。追伸、北川一氏は辰年辰月辰日辰の刻(午前七時十五分)生れである。
眼、脚、腰の悪い箇所を撫でて甦
がえる
、無事故で
かえる
、若
がえる
、金
かえる
、福
かえる
、失せもの
かえる
、等々合掌。
境内の左手にイチョウの巨木がある。
(右写真)
立て札によると、
東門院のイチョウ(イチョウ科)
守山で最大のイチョウ。
雌株で秋に銀杏(ギンナン)を作る。この中に「お葉つき銀杏」が混じっていることで特別なイチョウである。
「お葉つき銀杏」とは通常、葉とは別に柄を出して実るギンナンであるが、変種として葉からいきなりギンナンを付けるものがあり、葉の上にギンナンを乗せているように見える。栄養上無理があるのか、お葉つきののギンナンは未成熟なものが多いようだ。
「東門院のイチョウ」は「日本の巨樹・巨木林」によれば、「幹周3.52m 樹高25m」である。このイチョウを「守山宿の巨木」としよう。
イチョウの隣に重要文化財の「東門院五重塔」があった。
(左写真)
五重塔といっても石造の塔で、風化で角が取れ経てきた700年間の時代を感じさせる。左に宝塔、右に宝篋印塔と、いずれも同時代の石造物を従えている。
滋賀県教育委員会の案内板によると、
重要文化財 東門院五重塔
所在地 守山市守山二丁目 昭和三十六年三月二十三日指定
石造五重塔 鎌倉時代
この塔は各重とも塔身と笠からなる層塔形式の五.重塔で、刻銘はないが、様式上鎌倉時代の造立と考えられる。
基礎は四面とも素面で、幅が広く、成が低い。初重の塔身は前後二石からなり、舟形輪郭内に、正面は阿弥陀、背面は釈迦とみられる仏座像を彫刻している。屋根は軒裏が軒先に向かって反り上がり、軒反りは少ないが、屋根勾配は強くしている。相輪は後世のものである。
鎌倉時代には石造塔の造立が盛んに行われ、県下に遺構が多い中で、各重の笠と塔身を別石で造るなど比較的少ない古式な手法をもつ遺品として貴重である。
五重塔の左の石造宝塔、右の石造宝篋印塔は、ともに重要美術品に指定されている。
この宝塔は、基礎や塔身の幅に対して成が低く、細部の様式や手法から鎌倉時代の造立と考えられる。宝篋印塔は、基礎の幅に対して成か低く、基礎の反花蓮や格狭間、開花蓮の様式や手法などから鎌倉時代の建立と考えられる。
東門院を出てまもなく右折する。その角にかって高札場があり、現在、石標がたっていた。
(右写真)
守山市教育委員会の案内板によると、
守山市指定文化財(民俗資料) 石造道標
所在地 守山市守山二丁目
本道標が建てられたこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。道標は、高さ約1.55m、一辺30cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、「右 中山道 并 美濃路」、その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」の文字が刻まれている。
「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約4kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。
背面に延享元年(1744年)霜月の銘があり、大津市の西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。石造遵標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(1977年)4月30日に民俗資料として守山市の文化財に指定された。
守山宿の中心地区に入って右手に、間口の広い蝋燭屋がある。間口いっぱいに車が駐車されていて見学は遠慮したが、入口に和蝋燭の看板が残っているという。蝋燭屋さんの右側に「井戸跡」
(左写真)
が残り、案内板が立っていた。
案内板によると、
守山宿井戸跡
この井戸は、当時、中山道守山宿の役割を果たし、漆喰の枠が6段積み重ねられ、更に、数段が土砂の流入で埋もれている事がわかりました。
上部の石組は、一辺90cmの四角形に組んでいて、後で蓋をのせたようです。
この井戸は、移転されていますが、往時の生活を知る貴重な遺産です。
蝋燭屋の一軒置いた先に「甲屋跡」がある。
(右写真)
謡曲「望月」の舞台だというが、自分には残念ながらたしなみが無い。
謡曲史跡保存会の案内板によると、
謡曲「望月」と甲屋
甲屋とは、もと近江国守山にあった本陣で謡曲「望月」の舞台になった宿屋だといわれている。この曲は望月秋長という者に討たれた信濃国の住人安田荘司友治の家臣小沢刑部友房が敵の情報を得るため中山道の宿駅として旅人の往来の多い守山に宿屋を構えていたところ、偶然にも亡君の妻と、その子が宿を求め、友治とめぐりあい、さらに思いがけなく当の敵秋長も泊りあわせ、三人が力をあわせ、主君の仇を討つ物語になっている。
甲屋は徳川の末期ごろまであったが、火災のため焼け、その跡に碑が建てられており、由緒を物語っている。
左側の八幡宮前に「稲妻型屋敷割りの道」という案内板があった。
左の写真
でみてもわずかに一軒づつづれているのが判る。しかし治安維持のためという理由は少し嘘くさい。怪しい人物を気にするならば、町中に隠れる場所を無くするほうが良いと思う。おそらくやってくる旅人に向けて店を出すのに、少し斜交いに構えたほうが都合がよかったのではないか。穿ちすぎか。
守山市教育委員会の案内板によると、
稲妻型屋敷割りの道
中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では1053間、内民家のある町並が569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。
街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ二〜三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。
この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。
店から出てきたおじさんが向かいのうちを指して宇野元総理の家だと誇らしげに教えてくれた。
(右写真)
宇野宗佑(1922〜98)氏は平成の初めに総理大臣に就任して、女性問題で参院選に惨敗し、任期が69日と超短命で終った総理大臣である。学徒動員で戦場に赴きソ連に2年間抑留され、政治を志しその頂点まで登りつめた男がスキャンダラスな女性問題に足元をすくわれた。今でも宇野元総理ときくと女性スキャンダルと答えが返って来る。しかし故郷の人は優しかった。滋賀県が生んだ唯一の総理大臣として、守山市名誉市民に推し、その死去に際しては市を上げて「故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」というこの追悼行事を行っている。
秋分の日を祝う国旗や「もりやまワイン」の幟が立つ宇野本家は黒塗りの壁に虫籠窓、出格子などの残る立派な町屋であった。
そろそろ本日の街道歩きを終わりにしようと思う。地図でみると守山駅に直線で500mの道がある。これで駅に戻ろうと女房に話した。その終わりの角に石標が一基立っていた。
(左写真)
守山市教育委員会の案内板によると、
中山道歴史資料(道標)
この道標は守山宿の北端から枝分かれして栗太郡葉山村や東海道に向かう人々を案内したものである。文字は一面に「すぐいしべみち」、他面に「高野郷新善光寺道」と刻まれているが、この場所に建てられた年代は残念ながら明らかではない。(以下略)
旧中山道守山宿付近には野洲川の伏流水がそこここで清流となってゲンジボタルが多数棲息しており、昔からの名物であった。かっては天然記念物に指定されていたが、指定は解かれてしまった。近年「ほたる条例」も制定されて保護活動が活発になり、ゲンジボタルが順調に増えているという。
全国でも珍しいほたる条例の前文を引用する。
守山市ほたる条例
(前 文) 初夏の夜、幻想的な光を放つほたるは、そこに清浄で豊かな水環境が存在していることを私たちに教えてくれる。
水が清らかであるためには、水が循環する土壌や大気も清浄でなければならず、ほたるの生息は環境浄化の指標であるといえる。
守山市は、かつて野洲川の伏流水が豊富な水環境にあり『天然記念物源氏蛍発生地』であった。
いま、市内で希有となっているほたるを保護し、増殖させるための棲息環境を整備し保全しなければならない。
そして、豊かな自然のなかに多様な生命が育まれる自然環境を醸成するとともに、特に守山の地に由緒のあるゲンジボタルを復活させ、あわせて水と緑のあふれるまちづくりを進めるため、この条例を制定する。
ゲンジボタルは守山市の恰好の環境バロメーターになっている。このような指標のある町は幸せかもしれない。そのゆかりで、守山駅まで行く直線の道は「ほたる通り」、その商店街は「ほたる通り商店街」と命名されていた。
(右上写真)
午後2時27分
、JR東海道線守山駅に着き、本日の街道歩きを終える。本日の歩数は万歩計がないので正確には判らないが、
18,000歩
とする。
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