

“「銅鐸の里」 野洲町” “義経元服の地 鏡宿(鎌倉時代の宿駅)” |


すぐに守山本宿の加宿の役割を果たしていた吉身に入る。古い町並の中で右側に案内石標があった。(左写真)一面に「帆柱観世音 慈願寺」、もう一面に変体仮名で「本はし羅可んせお無」(ほばしらかんぜおん)と読める。
県道17号守山栗東線を渡り、まもなく左側に「式内 馬路石邊(うまみちいそべ)神社」の石標が立っていた。(左写真)これより神社まで約300mの参道が続く。
午前11時15分、野洲川に架かる野洲川橋を渡る。並行して架かるJR東海道線の鉄橋の上にピラミダルな近江富士(三上山)が見えた。(右写真)旧東海道夫婦旅では石部宿から草津に入るまで所々で見えた特徴のある山である。
野洲川を渡ってすぐ左に、「百足山 十輪院」のお堂がある。(左写真の右上)お堂の向かい側には60数体の道祖神や地蔵などの石仏が集合されて祀られていた。(左写真の左下)すべての石仏に赤いよだれかけが掛けられている。石仏によだれかけを着ける風習はいつ頃から始まったものだろうか。意外に最近の風習なのではないか。それにしてもこのよだれかけ、何となく赤褌に似ていないか。
JR東海道線を潜って野洲町に入る。10分程歩いた変則の四つ角左側に蓮照寺がある。その山門を入った左側に中山道の道標があった。(右写真)ここには3基の道標がある。一つは「右 中山道 左 八まん道」の道標、二つは「左 錦織寺四十五町」の道標、三つは「従是北淀領」の領界石標である。
その変則四つ角の右側には浄土宗唯心寺がある。わら屋根の本堂がこんな町中に珍しい。(左写真)
200m進むと広い道に出て、渡った右側に「行合ふれあい広場」という小公園があった。その公園に入母屋の屋根のかけられた下に、背の高さの違う二体の石の地蔵さんが祀られていた。(右写真)
「行合ふれあい広場」の背後にある木立は行事神社の森である。女房をそこに残して行事神社に足を伸ばしてみた。鳥居をくぐると、本殿前に2本の鉄柱の間に渡して、枯枝が吊るされていた。これは1月に五穀豊穣を祈願して奉納された勧請吊(かんじょうつり)(左写真)というものである。この地方の神社に残る習慣である。
すでに正午 を回った。広い道を少し逸れた野洲病院の向い側に見つけた「葡瑠斗(ぼると)DEサブール」という定食屋で昼食を摂り、午後の部に入った。
「外和木の標」の交差点から東へ斜めに中山道は続く。東海道新幹線を潜った先の左側に、城門のように石垣を積んだ門のある民家があり、その先に藁葺き屋根を残した造り酒屋が続いていた。(左写真)
更に10分進んだ左側民家前に、本藍染の案内板があった。民家の庭には大きな壷が並んでいた。(左写真)藍を入れた信楽焼の壷なのであろう。
午後1時9分、中山道は三ツ坂の集落を通過する。三ツ坂児童集合所というブロック積みの建物に、「中山道三ツ坂このあたり立場」と書かれた板が貼られていた。その向かいに小さな祠と石碑が立っていた。(左写真)そばにいたおばさんが「何とか行者の碑だ」と説明してくれたのだが、後日調べようと思ったが判らなかった。
左手に並行する東海道新幹線の土手が行き先に近寄って来て、「銅鐸の里桜生(さくらばさま)」の看板が出てきた。前方の右から迫ってきた山に桜生史跡公園が広がっている。
甲山古墳は玄室の中が見学できるようになっていた。中に入るとスイッチが入り案内が流れる。家形石棺の蓋の部分が意味ありげに横へずれている。(左写真)屋根部分に彩色の痕跡とみえる部分があった。外の案内板では触れてなかったから見間違いであろうか。
街道に戻って5分ほど進んだ左側に、子安地蔵を祀る地蔵寺があった。(右写真)地蔵堂の左側に中央の地蔵坐像を囲んで、恐らく近隣から集まったものであろう、沢山の道祖神、石仏、墓石などが山をなしていた。昔の名も知らぬ民衆のパワーをみる思いがした。
この辺りは野洲町辻町、白壁の重厚な長屋門(左写真の左)や、この辺りに多いのか黒く焼いた板に紅殻の縁取りがされた美しい塀(左写真の右)などが目に付く。
ここで久しぶりに天井川のトンネルに行き当たった。(右写真)トンネルの題額に「家棟隧道 大正六年十月竣功」とあった。旧東海道のトンネルよりもかなり新しい時代である。家棟川は旧東海道の甲西町にもあった。甲西町の家棟川は野洲川に流れ込んでいるから全く別の川である。天井川だから家の棟ほど高い川というネーミングで、同じ発想で付けられた名前であろう。
トンネルを抜けると辺りが一変していた。天井川の川筋を変えて普通の川に付け替える大工事が進んでいた。おそらくトンネルはそのまま残すのであろう。
まもなく国道8号線に出て、しばらくは国道を行くことになる。午後2時5分、右手にススキの繁茂した土手が始まる。篠原堤と呼ばれる。篠原堤の歴史は古く、中世の旅行記「東関紀行」にすでに篠原に長い堤があったことが書かれているという。土手の向うは西池(右写真)である。灌漑用の池であろうか。中間辺りで土手に上がる道を見つけて登ってみた。思った以上に大きな池で真ん中の土手道で二つに分かれていた。釣人も見えた。
野洲町から竜王町鏡に入る少し手前に、街道は一度右側の旧道に分かれる。その集落に入った所に「明治天皇聖跡」の石碑(右写真の左)や愛宕山の御札の入った石碑(右写真の右)などがあった。
午後2時53分、義経元服の池は国道八号線北側の道路脇にひっそりとあった。(左写真)そもそも旅の途中のこんな地でどうして元服をしたのかという疑問が浮かぶ。
100mほど進んだ左側に鏡神社がある。(右写真)この辺りは古代には天日槍(あめのひぼこ)が新羅から技術集団と共に渡来したといわれ、近くに須恵器を生産した窯跡群もある。この鏡神社の祭神はその天日槍である。
鏡神社の先から鏡宿が始まる。広い国道に貫かれた宿場に由緒ありそうな家屋は見られない。しかし、鏡の里保存会により平成3年3月に建てられた立て札が何本か立っていた。何れにも「江戸時代 鏡の宿(中山道)」とあり、旅籠加賀屋、本陣跡 元祖林惣右衛門則之也、脇本陣跡 白井弥惣兵衛などが確認できた。
やがて旧中山道は善光寺川を渡り、午後3時32分、竜王町西横関の交差点に至る。右手前の角に石の道標が立っていた。(右写真の円内)一面に「是より いせみち」、もう一面には「ミなくち道」と刻まれていた。
すぐ先の左手に田舎のビジネスホテルが見えてきた。ここで泊まっても良かったなあと話す。みすぼらしくて少し悲しいか。午後4時11分、近江八幡市馬淵町で再度国道8号線に出る。出たすぐ左に八幡神社がある。その前に高札所跡の石碑があった。(左写真)
国道8号線を進み、馬淵町から千増供町へ入り、右側の田んぼで野焼きをしていた。(右写真)火の勢いが大きくなりすぎて道路に炎がかぶり、自転車で抜けてきた女学生が驚いた顔をしていた。側には大型の稲刈機が置かれていた。気がつくと稲刈りも終えてあちこちで野焼きをしている。しかしあの火の勢いはルール違反であろう。
住蓮房、安楽房は鎌倉時代に法然上人の興した念仏教団の僧侶である。1207年の承元の法難が起こった。
国道8号線を進むこと1kmほどで、街道は再び右手に別れて旧道に入る。近江八幡市西宿町である。いよいよ本日のゴールの武佐宿に入る。



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