第 2 回
平成15年10月11日(土)
晴れのちくもり
守山宿−野洲町−甲山古墳−鏡−武佐宿
“「水とゲンジボタルの郷」 守山宿”
“「銅鐸の里」 野洲町”
“義経元服の地 鏡宿(鎌倉時代の宿駅)”
朝、駅でささいなトラブルがあった。女房が「どこまで切符を買うの」と聞くから、何も考えずに東海道線の「なるい」までと口から出た。駅員がコンピュータ画面で行き先を探すが、変な顔をしている。東海道の草津の隣の「なるい」ですよと念を押すが、いよいよ困った顔になり、「草津の隣なら守山だけど‥‥」という。うん、その守山を二枚。ようやく切符が買えた。
「守山宿」をなぜか「なるい宿」と思い込んでいた。どうしてそう覚えてしまったのか判らない。宿場名で云えば東海道に鳴海
(なるみ)
宿があり、中山道のこの先に垂井
(たるい)
宿がある。それぞれ一字違いである。どこかでそんな情報が紛れ込んでいたのだろうか。
最近、こんな思い違いをしたり、何でもないことを度忘れしたりすることがとみに増えた。覚えていないわけではない。その証拠に話題が他へ移って10分ほどたってから、ふと正解を思い出す。これが歳を取るということであろうか。
その東海道線守山駅に
午前10時25分
ごろに着いた。天候はうす曇りで雨にはならないだろうと思う。前回の終わり近くに東門院に立寄ったが、「蛙の親子の石像」を写真に撮るのを忘れて来たので、少し戻って今日は東門院からはじめることにした。
守山駅から、前回最後に通った「ほたる通り」よりも、もっと西側を北へ延びるメインストリートを歩く。途中でメロンパンを車に積んでいるおじさんがいた。いい匂いがしたので、女房が買う。少し先で待っていると、随分丁寧に礼を言われたと追いついてくる。メロンパンだけを専門に、工場で焼くのではなく車で焼きながら、焼きたてを行商をするパン屋さんだという。リュックに入れておいて後で道々食べた。美味しくはあったが、せっかくのふっくらしたパンがリュックの中で押しつぶされて台無しだった。やはり焼き立てを食べるものだと思った。
前回、終わりがけで注意して撮らなかった、「土橋」、「蛙の親子の石像」などを撮影しながら、再度守山宿の真ん中を歩いた。案内書にそう書かれていたので、何気なく「蛙の親子」と書いたが、蛙の子はおたまじゃくしだから、これは大小の蛙と呼ぶのが正しい。
午前10時52分
、前回の終わりに駅方向へ逸れた「ほたる通り」の角から、今日の中山道歩きが始まる。
すぐに守山本宿の加宿の役割を果たしていた吉身に入る。古い町並の中で右側に案内石標があった。
(左写真)
一面に「帆柱観世音 慈願寺」、もう一面に変体仮名で「本はし羅可んせお無」
(ほばしらかんぜおん)
と読める。
これより南へ100mほど入ったところに慈眼寺がある。「帆柱観世音」は遣唐使とともに入唐した最澄が嵐で折れた帆柱に刻んだ観音像と伝わる。その由緒のために、今も航海の安全を祈る参詣者が多いという。舟運が発達していた琵琶湖岸ならではの観音像である。
やがて街道がY字型に分かれる。
(右写真)
その角に「吉身」の案内板と高札場跡の案内板があった。「吉身」はかっては「吉水郷」と称され、文字通りきれいな水の豊かな土地であった。この案内板にも、きれいな水と共に「醴泉
(こさけのいずみ)
」や「ゲンジホタル」のことが記されていた。
吉身中町自治会「水とホタル推進委員会」の案内板によると、
吉 身 (吉水郷)
この辺り一帯を「吉身」という。古くは「吉水郷」と称し、ゆたかな森林ときれいな「水」に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)九月に発表された「近江国注進風土記」には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は「都賀山」の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な「益須
(やす)
寺」があった。そしてこの街道は「中山道」である。古えの「東山道」にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。
鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、「吉身」はその西の「今宿」とともに守山本宿の「加宿」として宿場の役割を分担した。ここは吉身加宿の「高札」が立っていた所である。本宿と加宿の境には川が流されてその標
(しるし)
とした。流れるこの川を「伊勢戸川(伊勢殿川)」という。野洲川の伏流と湧水を戴く「宮城川」の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。里中にしては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に「ゲンジボタル」の発生の川としても親しまれてきた。
昭和三十年代後半以降約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り戻しはじめた。その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを啓示とし、地元自治会が「川をいつもきれいに」する動きを始めた。
時あたかも守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、「ホタルが住みよい吉身」のまちづ<りを目ざしている。
守山市教育委員会の案内板によると、
中山道高札場跡、稲妻型道路
帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かって徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。
また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川 (守山川) から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。宿場の治安維持を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところは大変珍しい。現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することができる。
中山道はこのY字路を左にとってやや狭くなった道を行く。次の四つ角を渡った右角には「醴泉」の由来を持つ「益須寺跡」の案内板があった。
守山市の案内板によると、
益須寺跡
益須(やす)寺は「日本書紀」持統天皇七年(692)十一月の条に「奈良の都から僧二人を遣わして、近江国益須郡の醴泉を飲ませた。」ことや翌八年には「醴の泉が近江の益須郡の都賀山から湧き、病人が益須寺に宿泊して治療した。」、「泉の水が病気に効果があったので水田四町、布六十端を寺に献上した。‥‥」という記事に見られる寺院である。
益須寺の位置については、江戸時代から検討されてきたが、昭和四十年以降の発掘調査で、七世紀後半の瓦が吉身町の上野(野神)を中心とした周辺で多量に出土することから、現在ではこの交差点の東側約百mあたりで、二百m四方の範囲が有力である。瓦は奈良県法隆寺式の素弁蓮華文や複弁蓮華文などの軒丸瓦や唐草文、重弧文の軒平瓦や布目のある瓦がある。
中山道
中山道はもと東山道と呼ばれた古い道を織田信長や豊臣秀吉が修理した後、徳川家康が整備したもので、正徳六年(1716)までは中仙道と表記していたが、以後は中山道と記述された。起点は江戸日本橋から守山宿まで中山道は六十七宿であった。
この交差点あたりは吉身村で守山宿の加宿の東端にあたり、松並木があったが昭和三十年代に伐採された。平成六年、道路改良工事に伴って中山道の両側を発掘調査したが、中山道の幅は現在の道幅とほぼ同じと推定され、その両側には水田が広がっていたことがわかっている。
県道17号守山栗東線を渡り、まもなく左側に「式内 馬路石邊
(うまみちいそべ)
神社」の石標が立っていた。
(左写真)
これより神社まで約300mの参道が続く。
「馬路石邊神社」は10世紀に集成された延喜式神名帳にも載る古いお宮で、その名からも想像できるように、東山道・中山道の古道にあって、運送に重要な役割を負っていた馬に縁が深い。馬路石邊はこの辺りの古い地名で、馬の乗り継ぎの「駅」も置かれた所という。
午前11時15分
、野洲川に架かる野洲川橋を渡る。並行して架かるJR東海道線の鉄橋の上にピラミダルな近江富士(三上山)が見えた。
(右写真)
旧東海道夫婦旅では石部宿から草津に入るまで所々で見えた特徴のある山である。
野洲川を渡ってすぐ左に、「百足山 十輪院」のお堂がある。
(左写真の右上)
お堂の向かい側には60数体の道祖神や地蔵などの石仏が集合されて祀られていた。
(左写真の左下)
すべての石仏に赤いよだれかけが掛けられている。石仏によだれかけを着ける風習はいつ頃から始まったものだろうか。意外に最近の風習なのではないか。それにしてもこのよだれかけ、何となく赤褌に似ていないか。
JR東海道線を潜って野洲町に入る。10分程歩いた変則の四つ角左側に蓮照寺がある。その山門を入った左側に中山道の道標があった。
(右写真)
ここには3基の道標がある。一つは「右 中山道 左 八まん道」の道標、二つは「左 錦織寺四十五町」の道標、三つは「従是北淀領」の領界石標である。
「右 中山道 左 八まん道」の道標は、享保四年(1719年)に建てられたもので、元はこの先中山道を200mほど進んだ「脊くらべ地蔵」や「行事神社」のすぐ先の三叉路にあったものだが、蓮照寺の境内に移設保存されているものである。実は見逃して背くらべ地蔵まで行ってしまい、わざわざ戻ってデジカメに収めた。
「八まん道」は別名「朝鮮人街道」と呼ばれる。この道標のあった追分はその街道の西の起点であったという。江戸時代、秀吉の朝鮮出兵の反省から家康は朝鮮と友好関係を図り、以後朝鮮から200年余の間にほぼ将軍の代替わり毎に12回の通信使が来日した。通信使は特使のほか、学者、文人、書家、医師など五百人近い文化使節を伴っていた。そして江戸までの各地の住民と文化交流が行なわれた。この辺りからは使節は中山道から外れて商人の町近江八幡や彦根の城下を通って鳥居本で再び中山道に戻る。
「左 錦織寺四十五町」の道標はこれより北へ5kmほど行った 中主町木部にある浄土真宗木辺派の本山である。親鸞により阿弥陀如来が安置され、四条天皇から錦織寺の寺号を賜ったという。
その変則四つ角の右側には浄土宗唯心寺がある。わら屋根の本堂がこんな町中に珍しい。
(左写真)
200m進むと広い道に出て、渡った右側に「行合ふれあい広場」という小公園があった。その公園に入母屋の屋根のかけられた下に、背の高さの違う二体の石の地蔵さんが祀られていた。
(右写真)
案内碑文によると、
鎌倉時代のもので、東山道(のちの中山道)を旅行く人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。毎年七月二十四日は、農機具、陶器、電気器具などで作った作り物を展示する地蔵まつりが開催される。
「行合ふれあい広場」の背後にある木立は行事神社の森である。女房をそこに残して行事神社に足を伸ばしてみた。鳥居をくぐると、本殿前に2本の鉄柱の間に渡して、枯枝が吊るされていた。これは1月に五穀豊穣を祈願して奉納された勧請吊
(かんじょうつり)
(左写真)
というものである。この地方の神社に残る習慣である。
蓮照寺の項でも触れたが、ここで蓮照寺の中山道道標を見逃してきたことに気付き、200mほど戻った。その道標がもとあった「八まん道」との追分は、「背くらべ地蔵」の交差点の先100m所に三叉路になっている。中山道はその三叉路を右手に進む。すぐ先の野洲小学校前の交差点左側に、「中山道・外和木の標」があった。
(右写真)
野洲町の案内板によると、
中山道・外和木の標
中山道は、東海道に対し東山道、あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています。
ところが、新しい道路に役目を取って代られ、中仙道が千数百年もの長期にわたって果たしてきた大切な役割を知る人は年々少なくなっています。
この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり、歴史的に意義深い場所であり、将来に永くこの意味を伝え、この道がいつまでも町民に広く親しまれ愛されることを目指して修景整備事業を実施しました。
外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものです。
すでに
正午
を回った。広い道を少し逸れた野洲病院の向い側に見つけた「葡瑠斗
(ぼると)
DEサブール」という定食屋で昼食を摂り、午後の部に入った。
「外和木の標」の交差点から東へ斜めに中山道は続く。東海道新幹線を潜った先の左側に、城門のように石垣を積んだ門のある民家があり、その先に藁葺き屋根を残した造り酒屋が続いていた。
(左写真)
3分進んだ左側奥に養専寺というお寺があった。門の真ん中に見えた太い幹に釣られて中に入ってみる。幹回り三メートルは十分あるイチョウの巨木であった。
(右写真)
野洲は中山道の宿には入っていないが、この木を「野洲の巨木」としよう。
更に10分進んだ左側民家前に、本藍染の案内板があった。民家の庭には大きな壷が並んでいた。
(左写真)
藍を入れた信楽焼の壷なのであろう。
野洲町観光協会の案内板によると、
本藍染
古くから「紺九」の屋号で親しまれている森義男氏宅では県下で唯一の本藍染を伝承しています。
奈良時代以前から始まったといわれる藍染めでありますが、森氏宅は明治三年に創業、現在の森義男さんは四代目で古くから伝わる延喜式という藍染法で染色されます。
百年以上もたつ信楽焼の壷の中で染めた本藍染は「ジャパンブルー」と呼ばれる独特の美しさでピカ一。国内はもとより海外でもたいへん人気があります。
先代の森卯一氏は戦時中の食糧難や戦後の科学染料に押されながらも本藍染を守り続け、これまでに京都桂離宮松琴亭のふすま、壁紙の市松藍染め、昭和宮殿内連翠の間の明り障子市松模様紙の藍染めを手がけられました。県無形文化財保持者、国有形文化財選定保存技術認定保持者であり昭和六十二年十一月には地道な努力が認められ勲六等瑞宝章を受けられています。
先代卯一氏の技術は今も四代目義男氏の手によって受け継がれ、いつまでも藍の独特の美しさを私たちの目の前に見せてくれることでしょう。
午後1時9分
、中山道は三ツ坂の集落を通過する。三ツ坂児童集合所というブロック積みの建物に、「中山道三ツ坂このあたり立場」と書かれた板が貼られていた。その向かいに小さな祠と石碑が立っていた。
(左写真)
そばにいたおばさんが「何とか行者の碑だ」と説明してくれたのだが、後日調べようと思ったが判らなかった。
左手に並行する東海道新幹線の土手が行き先に近寄って来て、「銅鐸の里桜生(さくらばさま)」の看板が出てきた。前方の右から迫ってきた山に桜生史跡公園が広がっている。
野洲町といえば三上山(近江富士)と銅鐸の町である。標識によると銅鐸博物館が桜生史跡公園の向うにあるらしいが、今日は足が延ばせない。
右手の小高くなった上に疎林越しに饅頭を載せたような小山が見えてきた。
(右写真)
道路の側に「史跡甲山古墳」の石標が立っていた。遊歩道をほんの少し登ると芝に覆われた円墳の前へ出た。
甲山古墳は玄室の中が見学できるようになっていた。中に入るとスイッチが入り案内が流れる。家形石棺の蓋の部分が意味ありげに横へずれている。
(左写真)
屋根部分に彩色の痕跡とみえる部分があった。外の案内板では触れてなかったから見間違いであろうか。
案内板によると、
甲山古墳
標高110mの丘陵先端につくられた6世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mの規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室があります。
整備前は、部屋(玄室)手前の天井石が落下しており、内部に大量の土砂が堆積していました。また、墳頂部も陥没し、墳丘盛土も流出しつつあり危険なことから、通路(羨道)の石組みを積み直し、墳丘盛土についても復元整備を行いました。
石室は、奥に向かって下がっている通路(羨道)があり、部屋(玄室)は、奥から見て右側に袖をもち、長さ6.8m、幅2.8m、高さ3.3mの規模で、床面には玉石が敷き詰められています。中央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇土半島の凝灰岩でつくられた家形石棺を安置しています。
整備に伴う発掘調査によって装身具(金糸、銀製くちなし玉、空玉、碧玉製切子玉、ガラス玉)、鉄製の武具(甲冑、太刀、矛、鏃、小刀)、馬具(金銅製鏡板付轡、金銅製透彫入雲珠。馬甲)などが出土し、特に金糸や馬甲は珍しいものです。
午後1時30分
、甲山古墳の東の並びに甲山古墳の案内所があり、大岩山古墳群と呼ばれる周囲一帯の古墳が案内展示されていた。数えると20基を越える古墳がある。受付のおじさんに断ってトイレを借りた。案内所を出てから彩色について聞けば良かったと思った。
野洲町教育委員会の案内板によると、
国史跡 大岩山古墳群 桜生史跡公園
大岩山古墳群は、野洲町冨波・辻町・小篠原一帯の大岩山丘陵を中心に立地し、冨波古墳、古冨波山古墳・大塚山古墳・亀塚古墳・天王山古墳・円山古墳・甲山古墳・宮山二号墳の8基が国史跡に指定されています。
ここ桜生
(さくらばさま)
には全長50mの前方後円墳である天王山古墳、直径28mの円墳である円山古墳、直径約30mの円墳である甲山古墳、いずれも近江を代表する後期古墳です。
古墳の一部が崩れたために1994(平成6)年から文化庁・滋賀県教育委員会の補助を受け、保存のため発掘調査と整備を行い「桜生史跡公園」として公開することになりました。
街道に戻って5分ほど進んだ左側に、子安地蔵を祀る地蔵寺があった。
(右写真)
地蔵堂の左側に中央の地蔵坐像を囲んで、恐らく近隣から集まったものであろう、沢山の道祖神、石仏、墓石などが山をなしていた。昔の名も知らぬ民衆のパワーをみる思いがした。
野洲町観光協会の案内板によると、
地蔵菩薩(子安地蔵)(野洲町大字辻)
往時、この地方は比叡山三千坊に数えられた数多くの巨刹があり、その中に天台系嘉祥寺に安置され、元亀の兵火をまぬがれたのがこの地蔵菩薩像である。
極彩色等身大にして蓮台に腰をかけ、左手を垂下し、右足を曲げて左膝に置き、左手に薬玉を、右手に錫杖を持ち、材は桧と思われる。眉間に水晶製白毫をはめ、目は彫眼で表し、丸顔でふくよかな顔つきや丸みのある体躯、彫りの浅い衣文など平安時代末期(十二世紀)の造像と考えられる。
秘仏となっているが安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年一月、八月の縁日には開扉される。
この辺りは野洲町辻町、白壁の重厚な長屋門
(左写真の左)
や、この辺りに多いのか黒く焼いた板に紅殻の縁取りがされた美しい塀
(左写真の右)
などが目に付く。
ここで久しぶりに天井川のトンネルに行き当たった。
(右写真)
トンネルの題額に「家棟隧道 大正六年十月竣功」とあった。旧東海道のトンネルよりもかなり新しい時代である。家棟川は旧東海道の甲西町にもあった。甲西町の家棟川は野洲川に流れ込んでいるから全く別の川である。天井川だから家の棟ほど高い川というネーミングで、同じ発想で付けられた名前であろう。
トンネルを抜けると辺りが一変していた。天井川の川筋を変えて普通の川に付け替える大工事が進んでいた。おそらくトンネルはそのまま残すのであろう。
川を越した左側にポツンと高台が残り、上がると草地に常夜燈が新旧2基立っていた。そして火伏せの愛宕山の石碑が立っていた。
(左写真)
石碑の窪みにお札が納められていた。
まもなく国道8号線に出て、しばらくは国道を行くことになる。
午後2時5分
、右手にススキの繁茂した土手が始まる。篠原堤と呼ばれる。篠原堤の歴史は古く、中世の旅行記「東関紀行」にすでに篠原に長い堤があったことが書かれているという。土手の向うは西池
(右写真)
である。灌漑用の池であろうか。中間辺りで土手に上がる道を見つけて登ってみた。思った以上に大きな池で真ん中の土手道で二つに分かれていた。釣人も見えた。
旧中山道はこの後、一度左へ旧道に入り、また国道へ戻る。西池から20分進んだ。案内書によるとそろそろ「平宗盛終焉の地」を見るはずである。回りに狭められて小さくなった池の先に建材屋があり、その向うに「平宗盛胴塚」の案内板があった。「平宗盛終焉の地」は建材屋と小山の際の道を100mほど入った所に、自然石に刻まれた石仏像、石碑、五輪の塔がそれぞれ一基ひっそりと並んでいた。
(左写真)
この終焉の地からみると先ほど見た池が「首洗い池」または「蛙鳴かずの池」と呼ばれる池であろう。建材屋の向うにわずかに池の水面が見えた。
野洲町観光協会の案内板によると、
平家終焉の地
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲町である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに敗れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲町が日本中のとこよりもやすらぐ安住の地であろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。
野洲町から竜王町鏡に入る少し手前に、街道は一度右側の旧道に分かれる。その集落に入った所に「明治天皇聖跡」の石碑
(右写真の左)
や愛宕山の御札の入った石碑
(右写真の右)
などがあった。
間もなく竜王町鏡に入る。鏡宿は鎌倉時代に宿駅として知られていた。源義経は鏡宿で元服し、敵の目をかわそうとしたことで知られている。江戸時代には守山宿と武佐宿が正式な宿場となり、鏡宿は外された。しかし、その後も旅人を宿泊させていたようで、武佐宿から訴えが出ていたという。
午後2時53分
、義経元服の池は国道八号線北側の道路脇にひっそりとあった。
(左写真)
そもそも旅の途中のこんな地でどうして元服をしたのかという疑問が浮かぶ。
牛若丸は平家討伐の機会を待つために金売り吉次の案内で奥州を目指す。鏡宿に宿泊中に平家の侍たちが十六、七歳の稚児を探せと触れ回っていた。それを聞いて、それならば成人男子となって逃れようとこの地で元服したという。一方、元服したのは尾張の熱田神宮との話もある。
国道を挟んだ向かい側に、道の駅「竜王かがみの里」の工事が急ピッチで進んでいた。
(後日調べたところ「竜王かがみの里」は11月22日にオープン)
歩道を行くと交通整理の警備員が妙に親切であった。
100mほど進んだ左側に鏡神社がある。
(右写真)
この辺りは古代には天日槍
(あめのひぼこ)
が新羅から技術集団と共に渡来したといわれ、近くに須恵器を生産した窯跡群もある。この鏡神社の祭神はその天日槍である。
石段を登った上に室町中期建設の本殿があった。本殿右手には580年前の石燈籠が立っていた。
(右写真の右端)
滋賀県教育委員会の案内板によると、
重要文化財 鏡神社本殿
神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あまのひぼこのみこと)を祀る。
現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿。蟇股(かえるまた)を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。
重要文化財 鏡神社宝篋印塔
宝篋印塔は、この境内より西南方約五百メートルの山裾、西光寺址といわれる林の中に建っている。鎌倉時代中期に建てられたもので、軸石の四隅に鳥形を造りだした形態の優れた作品である。
重要文化財 石燈籠
応永二十八年辛丑八月八日(1421)の銘がある。
源義経元服の話を元にした謡曲の案内板があった。
謡曲史跡保存会の案内板によると、
謡曲「烏帽子折」と鏡神社
謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を脱出して奥州に向かった牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物である。
この鏡神社は、平家のきびしい追手をのがれるため東男に変装し、俄に左折りの烏帽子を作らせて、自らを源九郎義経と名乗って元服したところと伝えられている。
即ち、謡曲「烏帽子折」の前半の場面の舞台となった所である。
此の地を出立の後、赤坂の宿で熊坂長範に襲われるが、これを退治して奥州へ下った勇壮な謡いが後半の場面となっている。この二つの全く異った二つの場面は、牛若丸の守刀「こんねんどう」によってつながりを見せている曲なのである。
鏡神社の先から鏡宿が始まる。広い国道に貫かれた宿場に由緒ありそうな家屋は見られない。しかし、鏡の里保存会により平成3年3月に建てられた立て札が何本か立っていた。何れにも「江戸時代 鏡の宿(中山道)」とあり、旅籠加賀屋、本陣跡 元祖林惣右衛門則之也、脇本陣跡 白井弥惣兵衛などが確認できた。
中でも本陣のすぐ東隣には源義経が宿泊といわれる白木屋跡があり、「源義経宿泊の館跡」と刻んだ石碑が立っていた。
(左写真)
鏡景勝会建立の案内碑文によると、
義経宿泊の館
沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。牛若丸はこの白木屋に投宿した。義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが、現在では鏡神社宮司林氏が保存している。西隣は所謂本陣で、元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である。
やがて旧中山道は善光寺川を渡り、
午後3時32分
、竜王町西横関の交差点に至る。右手前の角に石の道標が立っていた。
(右写真の円内)
一面に「是より いせみち」、もう一面には「ミなくち道」と刻まれていた。
この後、旧中山道は交差点から右手斜めに細い道を行く。
(右写真)
西横関の集落を抜けて、日野川に沿ってもう一度国道8号線に出て横関橋を渡る。日野川を渡ると近江八幡市である。川沿いに左折、東横関町も抜けて田の中を行く。ここでホテルの予約をしなければならないと気付いて携帯で電話する。今日は近江鉄道の武佐駅までと決めていた。電車で彦根に出て泊まることにして駅に近いところから電話をしてみるが、一杯だと2ヶ所に断わられ、今日は何かあるのかと聞くと別にいつもこんなものだという。3ヶ所目でようやく宿を決めた。ひこねステーションホテルである。
すぐ先の左手に田舎のビジネスホテルが見えてきた。ここで泊まっても良かったなあと話す。みすぼらしくて少し悲しいか。
午後4時11分
、近江八幡市馬淵町で再度国道8号線に出る。出たすぐ左に八幡神社がある。その前に高札所跡の石碑があった。
(左写真)
国道8号線を進み、馬淵町から千増供町へ入り、右側の田んぼで野焼きをしていた。
(右写真)
火の勢いが大きくなりすぎて道路に炎がかぶり、自転車で抜けてきた女学生が驚いた顔をしていた。側には大型の稲刈機が置かれていた。気がつくと稲刈りも終えてあちこちで野焼きをしている。しかしあの火の勢いはルール違反であろう。
やがて、国道8号線が左へ別れて行き、静かな通りに入る。右手家並の背後、200mほど離れた田んぼの中に島のように残った古墳らしきものが見えた。
(左下写真)
道路端に「住蓮坊 安楽坊 御墓」と刻まれた石標が立っていた。
(左下写真の左端)
住蓮房、安楽房は鎌倉時代に法然上人の興した念仏教団の僧侶である。1207年の承元の法難が起こった。
御所勤めの女官であった松虫・鈴虫の二人が禁を破って帰依した。夜中寝所に僧を招きいれたと疑われ、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪になり、住蓮房、安楽房は死罪となった。安楽房は京都六条河原で処刑され、住蓮房は故郷の千僧供村で処刑された。江戸時代になって、千僧供古墳群のひとつの円墳のうえに住蓮坊、安楽坊の墓が作られたという。
間もなく街道はT字路に突き当たり左折、100mほど先に六枚橋の交差点で国道8号線に戻る。かって辺りは低湿地で時の領主によって板石6枚の橋が架けられた。命名の由来である。
国道8号線を進むこと1kmほどで、街道は再び右手に別れて旧道に入る。近江八幡市西宿町である。いよいよ本日のゴールの武佐宿に入る。
若宮神社前に広い空地がある。看板には「伊庭貞剛翁 生誕の地」とあった。空地にクスノキの巨木があった。幹周りは5mはありそうである。根は上がっているため、正式に地上130cmのところで測れば8mぐらいあるかもしれない。高さは15〜20mもあろうか。このクスノキを「武佐宿の巨木」としよう。
ところで、伊庭貞剛翁は弘化4年(1847)1月5日、この地、近江国西宿村に生まれ、青年時代には、勤皇の志士として国事に奔走するが、22才の時に司法官に任命され裁判所に勤務。明治12年、住友本店へ入社。後に住友の二代目総理事となり、住友系企業の基礎を築いた。四国別子銅山の煙害問題では工場の移転や植林事業などに取り組み、環境問題の先駆者としても知られている。トップ就任わずか4年で「事業の進捗発展に最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈
(ばっこ)
である」といい57歳の若さで引退した。
午後4時54分
、近江鉄道八日市線の踏切を渡りすぐ右手の武佐駅に着いた。本日の街道歩きをここで終る。
武佐駅から近江鉄道八日市線で近江八幡駅に出て、JR東海道線で彦根に出た。今日の泊まりのひこねステーションホテルにチェックインした。本日の歩数は
33,520歩
であった。
このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp