第 3 回 〔前半〕
  平成15年10月12日(日) 
 曇り
 武佐宿−西生来−老蘇−五箇荘−
 “近江の名刹、武佐寺 武佐宿”
 “近江商人発祥の地「てんびんの里」 五箇荘町”



 昨晩は彦根の町をぐるりと回って、結局駅近くのビル内のレストラン キングダムで夕食をとった。ホテルへの帰りにぱらぱらと雨に降られ、今朝の天気が心配された。

 朝、ひこねステーションホテルの窓から金亀山に彦根城の天守閣が見えた。曇りだがお天気はなんとか今日一日持つであろうと思われた。

 JR彦根駅前のロータリーに、馬上で鎧兜の武将の銅像があった。(左写真)徳川四天王の一人、井伊直政の像である。ちなみに徳川四天王とは徳川譜代の功臣、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人をいう。

 井伊直政(1561〜1602年)の軍団は旗印や装束を赤色で統一し、「井伊の赤備(あかぞなえ)」と呼ばれ、その勇猛果敢ぶりもあって敵に恐れられた。関ヶ原の戦いの功労で、石田三成の居城、佐和山城で十八万石を領した。佐和山城址は彦根城から東へ直線距離で1.5kmほどの所にあり、後に彦根城を築城の折に石垣など材料がほとんど移された。

 駅前の銅像に往時の通り彩色すれば、鎧甲や馬具などが赤で統一され、見事な武者姿に見えるに違いない。今は銅像の裾を飾る赤い花畑がその代りをはたしている。

 江戸幕府を開く関ヶ原の戦いに大活躍した井伊家は、幕末には安政の大獄や桜田門外の変で、大老井伊直弼が結果的に江戸幕府の幕引のきっかけを作ったというのは皮肉である。

 昨日の逆コースで、電車で武佐駅まで戻ることを考えてJR彦根駅へ出た。彦根駅には近江鉄道もJRとホームを並べていて、近江鉄道にも直接武佐へ行く便があった。しかも運賃が少し安い。時刻表を見て少し待って近江鉄道に乗った。

 八日市駅を経由して、午前8時58分、武佐駅に着く。駅に武佐宿の案内板があった。
 「中山道 武佐駅(近江鉄道)」と看板の出た駅を出て右へ進み、旧中山道の宿内に入る。日曜日の朝、道路の清掃や立ち話をする人たちがちらほら見える。宿の初めに、すぐ左側に愛宕山のお札を納める石碑と石燈籠が並んでいた。(右写真)

 武佐宿には要所要所に、1989年度武佐小学校卒業生の掲げた立て札があった。(右写真の右下端)最初の立て札には「中山道武佐宿 高札場跡 おきてを書いた板をかかげたやぐらのところ」とあった。武佐宿の西の高札場跡である。

 右折する道の角に石標が立っていた。読むと「武佐寺長光」と読め、「従是三丁」とあった。武佐寺は、「東関紀行」に「ゆき暮れぬればむさ寺といふ山寺のあたりに泊りぬ」とあり、昔から近江の名刹であった。現在、武佐寺という寺は無く、この道標から右手300m先にある長光寺と、この先の中山道沿いにある広済寺がそれぞれかっての武佐寺であると名乗りを上げている。

 街道右側の民家に、「中山道武佐宿 松平周防守陣屋」の武佐小の立て札があった。その家の右側に立派な愛宕山の石碑と石燈籠があった。(左写真)ここはガイドブックにも写真が載っていた。

 すぐ右側、右折する道の左角に 「いせ道 ミな口 ひの 八日市」 と刻まれた「八風街道道標」が立っていた。(右写真)八風街道は武佐宿を起点として、八日市、永源寺を抜け、鈴鹿山脈の八風峠を越え伊勢に抜ける街道である。

 続いて右側に中村屋という旅館がある。のれんには旅籠と染め抜かれている。中村屋は中山道武佐宿が成立した当初から創業していて、武佐小の立て札には、「中山道武佐宿 旅籠屋 旅人が泊った宿場内に残るただ一つの旅館」と紹介されていた。

 
 中村屋の向いには武佐宿唯一の本陣跡があった。白壁の築地塀と小振りの門があった。(左端写真)武佐小の立て札には、「中山道武佐宿 本陣跡 下川家 公家、幕府役人、大名、武士の宿泊休憩所」とあった。

 四つ角の武佐郵便局前に、今までにも何度か見た書状集箱があった。(左円写真)明治の郵便ポストである。そばに案内板のあった。

 続いて左側に、表に武佐小の立て札が貼られ、「中山道武佐宿 大橋家 商家・役人宅 米、油などの商家、又武佐宿場の伝馬、人足取しまり役人、裏に名園あり」とある古い町屋があった。(右写真)二階屋の軒が低く土壁の塗籠、虫籠窓で出格子や霧避けの幕板もついていた。

 間もなく右側に木造二階建、外壁板壁の洋風建築があった。(左写真)案内板に「登録有形文化財 旧八幡警察署 武佐分署庁舎 明治十九年建築」と書かれていた。

 すぐ向かい側に脇本陣跡が武佐町会館となっていた。会館前に馬頭観世音碑(右写真の左)、前庭の右側に愛宕山の碑(右写真の中)があった。馬頭観音碑には武佐小の立て札があり、「中山道武佐宿 馬頭観音碑 街道を往来する馬の安全を願い伝馬組合が建てた碑」との案内があった。

 さらにその先に「明治天皇御聖蹟」の碑(右写真の右)が続いた。

 先ほどの大橋家とよく似た町屋があり、武佐小の立て札で、「中山道武佐宿 平尾家 役人宅 大橋家と共に武佐宿場を取りしきったしまり役人の家」とあった。

 牟佐神社前、東の高札場跡には「中山道武佐宿 高札場跡 おきてを書いた板をかかげたやぐらのところ」の武佐小の立て札があった。午前9時27分、牟佐神社に入ると、由緒を書いた黒い石碑があった。
 鳥居を入った正面にドンとケヤキの巨木があった。(左写真)本殿は右手にある。このケヤキは「日本の巨樹巨木林」によれば、幹周囲4.46m、樹高30m、樹齢は300年以上はあるという。昨日の「若宮神社前のクスノキ」に続いて、二本目の「武佐宿の巨木」としよう。

 牟佐神社の向いは学校のグラウンドで、運動会でもあるのであろうか、人寄りがしていた。消防団の服装をしている人達もいた。

 牟佐神社の先で武佐宿が終る。出入口に大門があったのであろう、武佐小の立て札に「中山道武佐宿 大門跡 旅人や宿場への出入りの者を検問したところ」とあった。(右写真)

 西生来町に入って、右側に西福寺があり、西福寺前に地蔵堂があった。(左写真)この地蔵堂には泡子地蔵が祀られており縁起が木板に書かれている。字が細かくて読むのは諦め先へ進むと、少し先で渡る小川の脇に、「泡子延命地蔵尊御遺跡 大根不洗の川」と刻まれた石碑があった。(右下写真)そばに案内板もあった。
 近江八幡市西生来町から安土町西老蘇に入る。信長が築いた安土城の城跡はこの町にあるが、中山道から4kmほど北へ外れた安土山にある。西老蘇の街道左側に東光寺がある。(左写真)
 左手に鎌若宮神社の鳥居を見て間もなく、左手に安土町立老蘇小学校がある。道路に沿って井上多喜三郎の文学碑が建てられていた。(右写真)初めて聞く名前だが文学碑を読むと、昔、小学校の教科書で読んでいそうな懐かしい詩であった。
 そばに井上多喜三郎を紹介した案内板が立っていた。
 中山道は間もなく安土町東老蘇の集落に入る。集落は中山道整備の一環であろうか、きれいに道路整備がされて、辻名などが新しく表示されていた。街道は集落の半ばで左へ45度ぐらい曲がっていく。その曲がる辺りで小川を渡るが、この川を轟川、橋を轟橋という。(左写真)とどろくほどの若の流れも落差もないが、「轟」が歌枕になっており、その歌枕に因んで付けられたようだ。新しく架け替えられた轟橋の袂に「轟地蔵」の案内板があった。
 
 午前10時18分、続いて左手に奥石(おいそ)神社の鳥居が立っていた。脇に「奥石神社」と大きく刻まれた石柱が建つ。(右写真)背後の柿の木に実がたわわに実っていた。この神社の森は「老蘇の森」と称せられ、歌枕ともなっていた。「後拾遺和歌集」に採られた大江公資の一首は有名である。
東路の 思ひ出にせん ほととぎす 老蘇の森の 夜半の一声
 
 「日本の巨樹巨木林」では老蘇の森に6本のスギが巨木として挙げられている。その中でおそらく最大と思われるスギが御神木になっていた。(右写真)幹周囲4.80m、樹高30m、この「老蘇の森の巨木」としよう。

 森は「老蘇」、神社は「奥石」どちらも「おいそ」と読む。それぞれに歴史があるのであろう。混乱があってもあえて合わせない、こういうこだわりは大切にしたい。本殿(右写真)には案内板があった。
 境内の一画に本居宣長の歌碑があった。(左写真)

夜半(よわ)ならば 老蘇の森の郭公 今にもなかまし 忍び音のころ  本居宣長

 明らかにこの歌は前述の大江公資の歌を受けて詠んだもののようだ。「郭公」は和歌では「かっこう」ではなく「ほととぎす」と読む。「忍び音」は広辞苑によると「ホトトギスがまだ声をひそめて鳴くこと。また、その声。」とある。

 先ほど渡った轟橋にはかって三枚の橋石が架かっており、その橋石は奥石神社に保存されていると案内板に有ったので、女房と手分けして境内を探す。意外と広い境内で諦めかけた頃、入口近くまで戻って見つけた。そばの木を切ったおがくずで白くなっているが、立派な橋石であった。(右写真)

 中山道は田んぼの中で新幹線の土堤に突き当たる。その角に「中山道 東老蘇」の新しい石標が建っていた。街道は右折してしばらく新幹線沿いに国道8号線を進む。

 新幹線を潜り北側に出てすぐに、国道8号線から左に逸れて山に沿って進む。その山(繖山)には観音寺城跡がある。

 繖(きぬがさ)山(標高432.7m)は通称観音寺山と呼ばれ、かって中世山城として全国有数の規模をもつ佐々木六角氏の観音寺城があった。観音寺山の南の端を清水鼻と呼ぶ。午前11時、清水鼻の麓の中山道沿いに「清水鼻名水」(左写真)があり、「近江ノ国 清水鼻の名水 旧中山道」という石碑(左写真の円内)が立っていた。飲んでみたがあまり冷たくない。冷たくないと美味しく感じられにくいものである。

 東からやって来た夫婦者に名水を譲って先へ進む。すぐに右手の国道8号線に出た。向い側を数人の中山道歩きのお仲間が国道をまっすぐ歩いて行ってしまった。中山道はこの先で国道を斜めに渡って、国道の南側の旧道を行く。(右写真)ここはもう近江商人発祥の地の五箇荘町である。国道8号線との緑地帯に「てんびんの里」の石柱の上に振り分け荷物のてんびんを担いだ近江商人の像がのっていた。(右写真の方形内)

 10分ほど進んだ左側に藁葺屋根の家があった。(左写真)ここはかって「ういろう」を売っていた家だという。ういろうは透頂香(とうちんこう)ともいわれ、痰の妙薬で、口臭を消すのにも効くという薬である。14世紀に元から渡来し、京都で外郎(ういろう)家と称し、江戸時代になって小田原に伝えられた。東海道の小田原宿には現在も“ういろう本舗”としてお城のような建物で現存していた。角には金毘羅大権現の常夜燈が立っていた。

 
 左手に市田郷の氏神である大郡神社の鳥居と石燈籠を見て、数分で左側に市田邸跡がある。(右写真)玄関鉄柵内に「明治天皇御聖蹟」の石碑があった。(右写真の左端)この旧家はかって明治天皇の御小休所となったところである。
 向い側には小公園があり、ここには「明治天皇北町屋御小休所」の石碑が建っていた。市田邸跡の先の角を左折した先に、近江商人の屋敷が残る五箇荘の古い街並みがあるという。また近江商人博物館のある“てんびんの里文化学習センター”がある。今日は寄れないが、いつか又訪れようと女房と話す。

 数分歩いた右手には田の脇に「太神宮」と刻まれた立派な石燈籠が建っていた。(左写真)「太神宮」は伊勢神宮の内宮と外宮を総称したものである。台石には「左 いせ ひの 八日市」「右 京道」と刻まれていた。

 さらに4分歩いて右手に西沢梵鐘鋳造所がある。(右写真)玄関口にでんと釣鐘が置かれ、脇から覗くと工場らしき建物群と大小の梵鐘が五つほど見えた。幕末から3代続く釣鐘の鋳造所だという。

 すぐ先の右側に小公園が出来て、「中山道分間延絵図」の五箇荘の部分が拡大して展示されていた。

 五箇荘町役場前に街道の松並木の名残の1本が立っていた。(左写真) 正午に5分前 で、うす曇りで明るい道に人影が絶えた。中山道はすぐ先で通りから右折して古い町を進む。

 左手の小さな広場で地域の運動会をやっていた。通りすぎた直後、お昼で運動会が終ったのか、ぞろぞろ通りに出て来て、たちまち賑やかになった。

 五箇荘町小幡に入って、黒板塀の前に東嶺禅師御誕生地の石碑が建っていた。(右写真)東嶺禅師は享保6年(1721)、近江国神崎郡小幡の薬種商、中村善右衛門の子として生まれ、郷里の能登川大徳寺で出家し、その後駿河へ下り白隠禅師に師事し、禅の道を極めた。白隠禅師寂後は、その生前に開創された三島の龍澤寺に入り、自らは第2代となり一門の興隆に尽した。寛政4年(1792)、郷里の齢仙寺にて72歳で没した。

 午後0時20分、旧街道は間もなく愛知川に至る。










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