第 3 回 〔後半〕
平成15年10月12日(日)
曇り
−愛知川−愛知川宿−豊郷町−葛籠−高宮宿
“伝承工芸品「びん細工手まり」 愛知川宿”
“江州音頭発祥地 豊郷町”
“多賀大社一の鳥居と高宮布 高宮宿”
午後0時21分
、愛知
(えち)
川に差しかかり、川岸に出た左側に石造の常夜燈があった。
(左写真の左側)
この常夜燈の笠部は神社の屋根のような形をして大変特徴的である。
常夜燈は愛知川を渡る御幸橋の向こう岸にもあった。
(左写真の右側)
こちらの物は随分大きなものであった。何れの常夜燈もいわば海の燈台のようなもので、暗い時に川を渡る人々を導いた。
愛知川町教育委員会の案内板によると、
史跡 常夜燈
この常夜燈は、高さ4.75メートル(積石部分は除く)、笠部の幅が2メートルもあり中山道にふさわしいものです。
これには、弘化三(1846)年二月の銘があり、愛知川・五箇庄の寄進者・世話方・石工などの名が多く見え、彼らの努力によって建立されたものです。また、現在のものは、以前にあったものを立て直したものと考えられています。
愛知川の川越えは、この常夜燈や「むちん橋」により安全に川を越えることができるようになりました。
むちん橋については更に詳しい案内板があった。
案内板によると、
恵智川むちんばし
文政十二年(1929)町人成宮弥次右衛門氏ら四名が共同して、愛知川に無賃橋を企画。天保二年(1831)完成。交通手段の維持が、幕府や領主でなく、町民の手にゆだねられはじめていた。
むちんはし‥‥この橋は無料で渡れる橋。旅人も在所の人も、有難かった。嬉しかった。本来橋を架ける事を許さなかったのが、幕府の政策だった。水が出れば、人々はたちまち足留めされる。人夫や舟を使えば、銭が出ていく。ほとんどの人は、裾をまくって渡河していく。これは楽なことではなかった。
むちんはし‥‥橋の畔で、人ばかりか、牛や猿までも、はしゃいでいるようだ。あの珍道中の弥次さん喜多さんも、江戸の帰りは、ここを通ったとか。
むちんはし‥‥以来、何度か姿を変えた。架けかえる度に、橋の位置も変わる。橋の畔の常夜燈も、その位置を変えていく。そんなところに、時の流れを思う人もいる。
旅人を あはれみかけて むちんばし ふかき心を 流す衛知川 西園寺藤原実文
この歌は成宮家に家宝として残る一部。鈴鹿山系の水を集める幅二百三十余メートルの愛知川は、出水すると「人取り川」の異名のとおり、沿岸住民をのみ通行の旅人を困らせた。愛知川に橋がかかっていなかった頃、旅人は「渡たし」を利用していた。このため、夜間の愛知川を照らし、旅人の水難防止と安全を守るため、四十七人の寄進者によって常夜燈が設けられた。
また、町人、成宮弥次右衛門(1781〜1855)は、四名の同志とともに、川を安全に渡れるよう彦根藩に橋の建設を申し出たのである。
これが文政十二年(1829)のことで、以来三年の歳月を経て、天保二年(1831)に完成したのが前身の無賃橋である。
当時の渡り橋は通行料を支払うのがふつうだったが、慈善事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ばれた。安藤広重も中山道六十九次にも「恵知川むちんばし」として描かれ、後世にその篤行を伝えている。
御幸橋はこうした歴史を秘めて昭和三十六年、国道八号線の新設とともにデビューした。明治十一年秋、天皇巡幸のさい建設した木橋から五代目の橋である。
国道8号線から右手に愛知川宿に分かれる不飲橋の交差点手前右側に、ひっそりと一里塚跡の石標が立っていた。
(右写真)
愛知川宿の入口には「中山道 愛知川宿」と記した冠木門を模したゲートがある。ゲートを潜ってすぐ気が付かないほどの小さな橋を渡るが、この川を不飲(のまず)川と呼び、橋が不飲橋である。
不飲川という変った川の名前はその水源である野間津(不飲)池からきている。昔、その池で平将門の首を洗ったところ血で濁り、そう呼ばれるようになったという。一説には、平将門は身体の汚れを洗っただけであるとか、昔この地に激戦があり池に血が流れ込んだとか、毒水が湧き出たものをいさめたとか、言い伝えが様々にあって興味深い。
不飲川は江戸時代には農業用水として利用され、水源の野間津池からの湧き水も豊富で田舟が通う水路でもあった。現在は水量も少なく往時を思い起こす縁もない。
愛知川宿に入ってすぐ右側に竹平楼という料亭がある。
(左写真)
その前に「明治天皇御聖跡」と刻まれた背の高い石碑が建っていた。
「竹平楼」のホームページによると、竹平楼は江戸時代には「竹の子屋」という旅籠であった。明治になって四代目平八の時に、「竹の子屋」から「竹」、「平八」から「平」をとり「竹平楼」と改めて料理旅館として現在に至っている。
明治天皇は明治11年北陸東海巡幸の行き帰りに竹平楼に立寄られている。隣の五箇荘町の市田邸に10月12日と同月21日に立寄っているから、竹平楼へもその前後に立寄られたものと考えられる。なおその折、岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟といった明治の重鎮が同行していたといわれる。
宿場に入って所々に石標が立つ。「問屋場跡」、「脇本陣跡」、八幡神社前には「高札場跡」。四つ角にポケットパークがあり、昔のポストの「書状集箱」や「中山道 愛知川宿」の石標と共に、広重の「木曽海道六拾九次之内 恵智川」が大きく展示されていた。
(右写真)
その絵を見て一つ疑問がわいた。「木曽海道六拾九次之内 恵智川」にはむちん橋が描かれているが、常夜燈は描かれていない。そこで後日よく調べてみた。
むちん橋 天保二年(1831)に完成
広重の版画 天保六年〜十三年(1835〜1842)に刊行
常夜燈 弘化三年(1846)の銘
広重の版画はむちん橋が架かり、まだ常夜燈が出来ない15年の間で刊行されている。描かれた景色は時代的にきっちり合っていることが判った。
続いて左手に「愛知川宿北入口」の石標と、かっては街道の路傍にあったであろう、沢山の石像物が集められていた。
(左写真)
すでに
午後1時
になった。旧街道には食事処が大変少なくていつも難儀する。ついつい携帯食で済ませてしまうことになる。今日もここまで食事が摂れなかった。食事処を探してJR愛知川駅まで横道に逸れた。
午後1時09分
、JR愛知川駅はコミュニティハウスを兼ねた新しい駅舎になっていたが、昼時の駅前は閑散として附近にも食事処はなかった。駅舎前に不思議な造形物があった。丸いビンにきれいな手毬が入っている。
(右写真)
これはポストだというが、「びん細工手まり」は愛知川の伝承工芸品だという。愛知川町の案内地図には駅の南に「愛知川町びんてまりの館」があるとあった。
愛知川郵便局長の案内碑文によると、
お知らせ
このポストは愛知川の伝承工芸品「びん細工手まり」を参考にしました。郵便局もこの手まりの普及宣伝と観光の拠点として町の活性化の一助になりますように作成しました。現在もポストとして一日二回取りあつめを行っていますのでご利用ください。
ともあれ、飲み物と携帯食で腹を誤魔化し、手洗を借りて先へ進む。
旧街道に戻ると間もなく入り口にあったと同じゲートがあった。
(左写真)
「愛知川愛盛会商業協同組合」と柱に書かれていた。町興しの会なのであろうか。紋章のように描かれた絵は「びんてまり」であった。
15分ほど歩いて宇曽川に架かる歌詰橋を渡る。川の土手に「歌詰橋」の石標
(右写真)
と案内板があった。
案内板によると、
宇曽川
一級河川宇曽川は、秦川山及び押立山に水源を発し、当地大字石橋を経て琵琶湖の注いでいる。
この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資を運び、重い石も舟で運んでいた。また、木材は、丸太のまま上流から流したという。
このことから、運槽川と呼ばれていたが中世になって、うそ川となまったようである。
歌詰橋
宇曽川に架けられていたこの橋は、十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に塗りこめた土橋であった。
天慶三年(960)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷は、京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追い駆けてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、言われた将門の首は歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。
以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。
運槽川がうそ(宇曽)川になったという類の話は大変多い。何れも言葉を文字にすることの少なかった口承の時代の話である。歌詰橋の伝説には歌も詠めない田舎者に対する蔑みの気持ちが色濃く感じられる。将門の乱の根底にそのような蔑みへの反発があったことは否めない。
宇曽川を渡ると犬上郡豊郷町である。
午後2時08分
、300mほど先の左側に千樹寺というお寺がある。その道路沿いに「江州音頭発祥地」の石碑とモニュメントが出来ていた。
(左写真及び右写真)
「伝統芸能 扇踊り 日傘踊り 中山道千枝の里 豊郷町下枝」の文字も見える。
案内碑文によると、
観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源
天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄十一年五月七日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。
当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は 羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 等(時の住職根與上人)経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。
その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年八月十七日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。
続いて左側に「又十屋敷」があった。
(左写真)
近江商人の屋敷として、200円の入館料を払って入った。
江戸時代の後期、農家に生まれた藤野喜兵衛(初代四郎兵衛)は20歳の時北海道松前に渡り、余市に漁場を開き、「又十」の商号で北海道漁業に活躍し、廻船業にも進出した。「又十屋敷」は二代目の四郎兵衛が天保飢饉の窮民救済の一策として建築されたものといわれる。その後、初代四郎兵衛が隠居して住んだ屋敷である。
「又十屋敷」は藤野家が豊郷を去ったあと、「豊会館」として町の管理となっている。邸内には書院や庭園等が残り、狩野派の屏風など逸品を所蔵し、ここに宿泊した井伊直弼から拝領の武具や民俗資料が展示されている。
なお、その後、「又十」の事業は引継がれ、「あけぼの印の缶詰」として日本を代表する缶詰を世に出している。
中に入ると元校長先生といった老管理人がお茶を出してくれた。見学者は我々だけで館内の説明を詳しく聞いた。
(右写真)
この内陸部の近江に生まれて、どうして北海道への進出を思い至ったのかという疑問があったが、はっきりした答えは聞けなかった。しかし近江は琵琶湖という海に面していたことに気付いた。北海道の産物が日本海から琵琶湖を通り京大阪に運ばれるルートもあったであろう。そして蝦夷地の情報は四郎兵衛にももたらされていたに違いない。そんな想像をした。
「豊会館」の前には豊郷町石畑の一里塚の石標や五輪塔が移され、また遠く逢坂峠の「車石」が展示されていた。
(左写真)
五分ほど先の左側に金田池という湧水がある。
(右写真)
往時は旅人の喉を潤したという。案内板碑の下に「水の香る里 四ツ谷」と刻まれていた。
案内板碑文によると、
金田池
この地より北約五十米の所、大字澤一番地に金田池と称する湧水があり、田の用水にまた中山道を旅する人達の喉をうるおしてきた。
近年の地殻変化により出水しなくなり埋め立てられたが当区の最上流で永年名水として親しまれた池ゆえにそれを模して再現した。
数分歩いて右側に黒板塀の間口が大変広い邸宅があった。「伊藤忠兵衛記念館」である。
(左写真)
伊藤忠商事、丸紅といった大手総合商社の創始者の初代伊藤忠兵衛の旧邸である。ここにも近江商人の精神が生きていた。邸内に入ったが庭だけ覗いて出て来た。
案内板によると、
伊藤忠兵衛記念館
伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、“近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。
近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。
午後3時09分
、豊郷町石畑に入り右手に八幡神社がある。ここにかって石畑にあった一里塚が場所をここに移して復元されていた。
(左写真)
この石畑は愛知川宿と高宮宿の間の宿として栄えたという。
(左写真の方形内)
案内板によると、
私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都‥石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉二年)に創建した称名寺があります。
また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。
さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。
八幡神社にはケヤキの巨木が何本かある。御神木になっている一本はおそらく幹周りが4m以上はあるであろう。
(右写真)
このケヤキを「石畑(間の宿)の巨木」としよう。
八幡神社の筋向いに「中山道 やりこの郷 安食南」の看板と案内板があった。
(左写真)
安食南区の案内板によると、
やりこの由来
安食南には、古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、
「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」
とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と言われるようになったと思われます。
今日、その大木の生えていたところが「矢り木」という知名になって伝わっており、はるか昔の名残をとどめています。
やりこの看板の先の右側に豊郷小学校がある。何か気になり写真に撮った。
(右写真)
後日調べて、改築か保存かで揉めに揉めている、ニュースにもなったあの豊郷小学校であることが判った。
豊郷小学校の校舎は昭和12年に総合商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎が建てて町へ寄贈した、当時としては珍しい洋風の校舎である。古川鉄治郎は丸紅の創始者伊藤忠兵衛の丁稚奉公から始め、商魂をきたえあげ、忠兵衛の右腕として活躍した。私生活では徹底して始末に徹し、一方、公共のためには大金を寄付して悔いないという典型的な近江商人であった。
現代、校舎の文化財的価値を言い保存活用を求める住民と、児童の安全性が最優先と裁判所の差し止めを無視して解体を強行しようとした町長との間で大揉めに揉めているという。そんなニュースであった。古川氏も罪な建物を残したものだと思う。もっと普通の校舎を寄贈しておればこんなもめごとにはならなかっただろうに。かっての気宇壮大な近江商人とその子孫たちとの、この落差は興味深い。
10分ほど北へ進んだ左側に阿自岐神社の鳥居と石燈籠があった。
(左写真)
阿自岐神社はここから0.8kmほど西に行った所にある。先ほど看板のあった「矢リ木
(やりこ)
」の伝説はこの神社に伝わるものである。「安食
(あんじき)
」という地名は「阿自岐」の神社名と同じ語源から出ているものであろう。
中山道は間もなく彦根市に入り、彦根市出町に珍しいケヤキ並木ががあった。
(右写真の左)
まだ並木には緑が残り落葉には間がありそうであった。
午後3時46分
、彦根市葛籠
(つづら)
町に入ると松並木となった。右側に白い石の三本柱の上に、大きな荷物を背負った旅人
(近江商人であろう)
の像が載ったモニュメントがあった。
(右写真の右)
「おいでやす彦根」と書かれている。
葛籠町の集落に入ると何箇所かに「舟板塀」を見受けた。
(左写真)
舟板を家の壁に再利用したものである。ごつい板に舟を形作っていた斜めの切断面をそのまま残して張られている。琵琶湖のそばならではの風物である。
日が傾いてきた。左手に若宮八幡宮があるが、参道の小道の入口に「産の宮」の案内板があった。屋根を付けた下に、石組の井戸と四角く切り出した石の手水鉢があった。
(右写真)
手水鉢の前面には「足利氏降誕之霊地」と刻まれていた。葛籠町の地名は土着した家臣が生産した葛籠だという。
案内板によると、
由緒 若宮八幡宮「産の宮」
南北朝の争乱の頃足利尊氏の子義詮が文和四年(1355)後光厳天皇を奉して西江州に戦い湖北を経て大垣を平定し翌五年京都へ帰ることになった。
その時義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、こゝで男子を出産した。付け人として家臣九名がこの地に残り保護したが君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして醒悟と称して尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。
ここに土着した家臣九名が竹と藤蔓でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀りてこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。
「産の宮」の隣に月通寺がある。正面の薬医門の前左側に、「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた立派な石柱が立っていた。
葛籠町を抜けてやがて犬上川に架かる高宮橋を渡る。橋を渡れば高宮宿に入る。橋の手前に大きな一枚板に「中山道 高宮宿」と書かれた看板が立っていた。
(左写真)
高宮橋は別名「むちん橋」と呼ばれている。
(右写真)
橋を渡った左の袂には「むちん橋地蔵尊」が祀られている。その周りに若者達がたむろしていたので、お参りは遠慮する。
高宮街づくり委員会の案内板によると、
むちん橋
天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。
当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。
むちん橋地蔵尊奉賛会の案内板によると、
むちん橋地蔵尊由来記
昭和五十二年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。
近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代天保三年(1832)最初に架橋された「むちん橋」の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、お堂を建立「むちん橋地蔵尊」と名付けてお祀することにした。
以来、河川・交通安全並びに町内の守り本尊として多くの人達の信仰を集めている。
午後4時26分
、この橋から先、高宮宿の古い町並が始まった。
(左写真)
すぐに左側に円照寺がある。
(右写真)
山門に「明治天皇行在聖跡」と刻まれた石柱が立っていた。
(右写真の左端)
また境内には枝を両側に広げた松の幼木があった。
(左下写真)
根元には「止鑾松」と刻まれた石標があった。
明治11年11月11日、明治天皇が円照寺に宿泊された。その折、天皇の乗り物をつけるのに境内の松の大木が邪魔になり、切ることになった。しかし、住職は松の木の命を惜しみ、天皇に伺いをたてたところ、天皇は「歩くことなどいとわない」と、松の木の前に乗り物を止め、御座所まで歩かれた。その後、住職はこの松が天皇の乗り物の「鑾」
(らん)
を止めたと言って、「止鑾松
(しらんのまつ)
」と名付け大切に手入れをしていたが、枯れてしまったのだろう、今は2代目が育っている。
高宮街づくり委員会の案内板によると、
円照寺
明應七年(1498)、高宮氏の重臣、北川九兵衛が剃度して釈明道となり仏堂を建立したのが起源。元文五年(1740)には火災で本堂は焼失したが、九年の歳月を費やし再建された。
境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」と呼ばれる松の木(二代目)や老紅梅の垣の中に徳川家康が腰掛けたとされる「家康腰懸石」がある。
円照寺の向いに本陣跡の案内板があった。
(右写真)
門と白壁の塀が往時を偲ばせる。
高宮街づくり委員会の案内板によると、
本陣跡
江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。
高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396uであったという。現在では表門のみが遺存されている。
この後、左側に連子格子の小振りの民家の脇本陣跡を見て、次いで、左側に二階が黒い塗り壁、一階が連子格子の町屋の前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」の石碑があった。
(左写真)
高宮街づくり委員会の案内板によると、
芭蕉の紙子塚
たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。
続いて太田川を渡ってすぐの四つ角右側に、道路をまたいで大きな石の鳥居があった。多賀大社の一の鳥居である。
(右写真)
この交差点から東へ3kmほど行った所に多賀大社がある。
多賀大社は古事記にも「その伊耶那岐
(いざなぎ)
の大神は淡海の多賀に坐す」とあり、もちろん「延喜式」にも名前が出ている古社である。昔から「多賀参り」は「伊勢参り」と同じように全国より参詣者が多かった。
「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り」
と、俗謡にあるが、古事記では多賀大社の伊耶那岐の大神が禊をしたおり、左眼を洗った時に生まれたのが伊勢神宮の天照大神となっている。このあたりを面白く謡ったものである。
高宮街づくり委員会の案内板によると、
高宮の大鳥居
中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永十二年(1635)に建立されたもの。柱間は約8メートル、高さは約11メートルあり、県の文化財に指定されている。鳥居建立工事は、多賀町四手の山中から花崗岩を切り出し、足場は妙蓮寺の裏あたりから階段式に高く土嚢を築いたといわれている。
滋賀県教育委員会の案内板によると、
滋賀県指定有形文化財 多賀大社鳥居(一の鳥居)
多賀大社から西方約四キロメートルの表参道の面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。
多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。
「一の鳥居」は社蔵文書に「寛永十二年三月鳥居着工」の記述があり、社殿が元和元年(1615)の火災の後、寛永年間に造営されているので、この時に建立されたものと考えられる。
この鳥居は円柱を内転びに建て、頂上に反り返り付きの島木とその上に笠木をのせ、やや下がったところに貫を通して、中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中で最も多い形式の一つである。
県下の石造鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構である。
「多賀大社一の鳥居」の南西側柱の根元に道標が立っていた。
(右写真の右端)
「是より多賀みち三十丁」と刻まれている。また南西側柱の背後には大きな石燈籠が建っており、竿柱部に「多賀大社」の名が見えた。
多賀大社の名前を見て、「高宮」の名前は「多賀宮」から由来するものであろうと思いついた。確証はなかったが、多賀大社への入口として宿場も栄えたのであろうと思う。一の鳥居のすぐ先左側に案内書にも紹介されていた古い提灯屋さんがあった。
(左写真)
看板代わりに少し大きめの「中仙道 高宮宿」と書かれた提灯が軒下にぶら下げられていた。
(左写真の左上方形内)
100mほど進んだ左側に高宮神社参道の入口がある。
(右写真)
鳥居のはるか奥に見える随身門には嘉永ニ年(1849)の棟札があり、随身門の脇に
「をりをりに 伊吹も見てや 冬籠
(ふゆごもり)
」
の句碑があるという。夕方が迫ってきて、今日はそこまで足を延ばせない。
高宮街づくり委員会の案内板によると、
高宮神社
明治三年の大洪水で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯篭が残っている。
また、「高宮の太鼓祭」として知られる春期例大祭は毎年四月に行われ、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦を曳く。なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻である。
高宮神社の真向いの大きなお店は「高宮布の布惣跡」である。
(左写真)
高宮布はこの周辺で生産された麻布で、上流階級の贈答品として珍重されていた。布惣は高宮布の問屋として栄えた。
案内板によると、
高宮布の布惣跡
高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。
布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。
高宮には
右写真
のような軒まである竹格子を取り付けた町屋が散見される。近江独特の町屋構えである。
午後4時48分
、すぐ先の角で本日の中山道歩きを終える。右折して300mで近江鉄道高宮駅に着く。高宮駅から一駅で彦根駅、それよりJRで帰途につく。今回、2日間の歩数は
77,878歩
、一日目の歩数は
33,520歩
、二日目は
44,358歩
であった。本日が多いのは昨夜食事に出て歩いた分が少々入っている。
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