第 3 回 〔後半〕
  平成15年10月12日(日) 
 曇り
 −愛知川−愛知川宿−豊郷町−葛籠−高宮宿
 “伝承工芸品「びん細工手まり」 愛知川宿”
 “江州音頭発祥地 豊郷町”
 “多賀大社一の鳥居と高宮布 高宮宿”



 午後0時21分、愛知(えち)川に差しかかり、川岸に出た左側に石造の常夜燈があった。(左写真の左側)この常夜燈の笠部は神社の屋根のような形をして大変特徴的である。

 常夜燈は愛知川を渡る御幸橋の向こう岸にもあった。(左写真の右側)こちらの物は随分大きなものであった。何れの常夜燈もいわば海の燈台のようなもので、暗い時に川を渡る人々を導いた。
 むちん橋については更に詳しい案内板があった。
 国道8号線から右手に愛知川宿に分かれる不飲橋の交差点手前右側に、ひっそりと一里塚跡の石標が立っていた。(右写真)

 愛知川宿の入口には「中山道 愛知川宿」と記した冠木門を模したゲートがある。ゲートを潜ってすぐ気が付かないほどの小さな橋を渡るが、この川を不飲(のまず)川と呼び、橋が不飲橋である。

 不飲川という変った川の名前はその水源である野間津(不飲)池からきている。昔、その池で平将門の首を洗ったところ血で濁り、そう呼ばれるようになったという。一説には、平将門は身体の汚れを洗っただけであるとか、昔この地に激戦があり池に血が流れ込んだとか、毒水が湧き出たものをいさめたとか、言い伝えが様々にあって興味深い。

 不飲川は江戸時代には農業用水として利用され、水源の野間津池からの湧き水も豊富で田舟が通う水路でもあった。現在は水量も少なく往時を思い起こす縁もない。

 愛知川宿に入ってすぐ右側に竹平楼という料亭がある。(左写真)その前に「明治天皇御聖跡」と刻まれた背の高い石碑が建っていた。

 「竹平楼」のホームページによると、竹平楼は江戸時代には「竹の子屋」という旅籠であった。明治になって四代目平八の時に、「竹の子屋」から「竹」、「平八」から「平」をとり「竹平楼」と改めて料理旅館として現在に至っている。

 明治天皇は明治11年北陸東海巡幸の行き帰りに竹平楼に立寄られている。隣の五箇荘町の市田邸に10月12日と同月21日に立寄っているから、竹平楼へもその前後に立寄られたものと考えられる。なおその折、岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟といった明治の重鎮が同行していたといわれる。

 宿場に入って所々に石標が立つ。「問屋場跡」、「脇本陣跡」、八幡神社前には「高札場跡」。四つ角にポケットパークがあり、昔のポストの「書状集箱」や「中山道 愛知川宿」の石標と共に、広重の「木曽海道六拾九次之内 恵智川」が大きく展示されていた。(右写真)

 その絵を見て一つ疑問がわいた。「木曽海道六拾九次之内 恵智川」にはむちん橋が描かれているが、常夜燈は描かれていない。そこで後日よく調べてみた。
 
    むちん橋    天保二年(1831)に完成
    広重の版画  天保六年〜十三年(1835〜1842)に刊行
    常夜燈     弘化三年(1846)の銘

 
 広重の版画はむちん橋が架かり、まだ常夜燈が出来ない15年の間で刊行されている。描かれた景色は時代的にきっちり合っていることが判った。

 続いて左手に「愛知川宿北入口」の石標と、かっては街道の路傍にあったであろう、沢山の石像物が集められていた。(左写真)すでに午後1時 になった。旧街道には食事処が大変少なくていつも難儀する。ついつい携帯食で済ませてしまうことになる。今日もここまで食事が摂れなかった。食事処を探してJR愛知川駅まで横道に逸れた。

 
 午後1時09分、JR愛知川駅はコミュニティハウスを兼ねた新しい駅舎になっていたが、昼時の駅前は閑散として附近にも食事処はなかった。駅舎前に不思議な造形物があった。丸いビンにきれいな手毬が入っている。(右写真)これはポストだというが、「びん細工手まり」は愛知川の伝承工芸品だという。愛知川町の案内地図には駅の南に「愛知川町びんてまりの館」があるとあった。
 ともあれ、飲み物と携帯食で腹を誤魔化し、手洗を借りて先へ進む。

 旧街道に戻ると間もなく入り口にあったと同じゲートがあった。(左写真)「愛知川愛盛会商業協同組合」と柱に書かれていた。町興しの会なのであろうか。紋章のように描かれた絵は「びんてまり」であった。

 15分ほど歩いて宇曽川に架かる歌詰橋を渡る。川の土手に「歌詰橋」の石標(右写真)と案内板があった。
 運槽川がうそ(宇曽)川になったという類の話は大変多い。何れも言葉を文字にすることの少なかった口承の時代の話である。歌詰橋の伝説には歌も詠めない田舎者に対する蔑みの気持ちが色濃く感じられる。将門の乱の根底にそのような蔑みへの反発があったことは否めない。

 宇曽川を渡ると犬上郡豊郷町である。午後2時08分、300mほど先の左側に千樹寺というお寺がある。その道路沿いに「江州音頭発祥地」の石碑とモニュメントが出来ていた。(左写真及び右写真)「伝統芸能 扇踊り 日傘踊り 中山道千枝の里 豊郷町下枝」の文字も見える。
 
 続いて左側に「又十屋敷」があった。(左写真)近江商人の屋敷として、200円の入館料を払って入った。

 江戸時代の後期、農家に生まれた藤野喜兵衛(初代四郎兵衛)は20歳の時北海道松前に渡り、余市に漁場を開き、「又十」の商号で北海道漁業に活躍し、廻船業にも進出した。「又十屋敷」は二代目の四郎兵衛が天保飢饉の窮民救済の一策として建築されたものといわれる。その後、初代四郎兵衛が隠居して住んだ屋敷である。

 「又十屋敷」は藤野家が豊郷を去ったあと、「豊会館」として町の管理となっている。邸内には書院や庭園等が残り、狩野派の屏風など逸品を所蔵し、ここに宿泊した井伊直弼から拝領の武具や民俗資料が展示されている。

 なお、その後、「又十」の事業は引継がれ、「あけぼの印の缶詰」として日本を代表する缶詰を世に出している。

 中に入ると元校長先生といった老管理人がお茶を出してくれた。見学者は我々だけで館内の説明を詳しく聞いた。(右写真)この内陸部の近江に生まれて、どうして北海道への進出を思い至ったのかという疑問があったが、はっきりした答えは聞けなかった。しかし近江は琵琶湖という海に面していたことに気付いた。北海道の産物が日本海から琵琶湖を通り京大阪に運ばれるルートもあったであろう。そして蝦夷地の情報は四郎兵衛にももたらされていたに違いない。そんな想像をした。

 「豊会館」の前には豊郷町石畑の一里塚の石標や五輪塔が移され、また遠く逢坂峠の「車石」が展示されていた。(左写真)

 五分ほど先の左側に金田池という湧水がある。(右写真)往時は旅人の喉を潤したという。案内板碑の下に「水の香る里 四ツ谷」と刻まれていた。
 数分歩いて右側に黒板塀の間口が大変広い邸宅があった。「伊藤忠兵衛記念館」である。(左写真)伊藤忠商事、丸紅といった大手総合商社の創始者の初代伊藤忠兵衛の旧邸である。ここにも近江商人の精神が生きていた。邸内に入ったが庭だけ覗いて出て来た。
 午後3時09分、豊郷町石畑に入り右手に八幡神社がある。ここにかって石畑にあった一里塚が場所をここに移して復元されていた。(左写真)この石畑は愛知川宿と高宮宿の間の宿として栄えたという。(左写真の方形内)
 八幡神社にはケヤキの巨木が何本かある。御神木になっている一本はおそらく幹周りが4m以上はあるであろう。(右写真)このケヤキを「石畑(間の宿)の巨木」としよう。

 八幡神社の筋向いに「中山道 やりこの郷 安食南」の看板と案内板があった。(左写真)
 やりこの看板の先の右側に豊郷小学校がある。何か気になり写真に撮った。(右写真)後日調べて、改築か保存かで揉めに揉めている、ニュースにもなったあの豊郷小学校であることが判った。

 豊郷小学校の校舎は昭和12年に総合商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎が建てて町へ寄贈した、当時としては珍しい洋風の校舎である。古川鉄治郎は丸紅の創始者伊藤忠兵衛の丁稚奉公から始め、商魂をきたえあげ、忠兵衛の右腕として活躍した。私生活では徹底して始末に徹し、一方、公共のためには大金を寄付して悔いないという典型的な近江商人であった。

 現代、校舎の文化財的価値を言い保存活用を求める住民と、児童の安全性が最優先と裁判所の差し止めを無視して解体を強行しようとした町長との間で大揉めに揉めているという。そんなニュースであった。古川氏も罪な建物を残したものだと思う。もっと普通の校舎を寄贈しておればこんなもめごとにはならなかっただろうに。かっての気宇壮大な近江商人とその子孫たちとの、この落差は興味深い。

 10分ほど北へ進んだ左側に阿自岐神社の鳥居と石燈籠があった。(左写真)阿自岐神社はここから0.8kmほど西に行った所にある。先ほど看板のあった「矢リ木(やりこ)」の伝説はこの神社に伝わるものである。「安食(あんじき)」という地名は「阿自岐」の神社名と同じ語源から出ているものであろう。

 
 中山道は間もなく彦根市に入り、彦根市出町に珍しいケヤキ並木ががあった。(右写真の左)まだ並木には緑が残り落葉には間がありそうであった。

 午後3時46分、彦根市葛籠(つづら)町に入ると松並木となった。右側に白い石の三本柱の上に、大きな荷物を背負った旅人(近江商人であろう)の像が載ったモニュメントがあった。(右写真の右)「おいでやす彦根」と書かれている。

 葛籠町の集落に入ると何箇所かに「舟板塀」を見受けた。(左写真)舟板を家の壁に再利用したものである。ごつい板に舟を形作っていた斜めの切断面をそのまま残して張られている。琵琶湖のそばならではの風物である。

 日が傾いてきた。左手に若宮八幡宮があるが、参道の小道の入口に「産の宮」の案内板があった。屋根を付けた下に、石組の井戸と四角く切り出した石の手水鉢があった。(右写真)手水鉢の前面には「足利氏降誕之霊地」と刻まれていた。葛籠町の地名は土着した家臣が生産した葛籠だという。
 「産の宮」の隣に月通寺がある。正面の薬医門の前左側に、「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた立派な石柱が立っていた。

 葛籠町を抜けてやがて犬上川に架かる高宮橋を渡る。橋を渡れば高宮宿に入る。橋の手前に大きな一枚板に「中山道 高宮宿」と書かれた看板が立っていた。(左写真)

 高宮橋は別名「むちん橋」と呼ばれている。(右写真)橋を渡った左の袂には「むちん橋地蔵尊」が祀られている。その周りに若者達がたむろしていたので、お参りは遠慮する。
 午後4時26分、この橋から先、高宮宿の古い町並が始まった。(左写真)

 すぐに左側に円照寺がある。(右写真)山門に「明治天皇行在聖跡」と刻まれた石柱が立っていた。(右写真の左端)また境内には枝を両側に広げた松の幼木があった。(左下写真)根元には「止鑾松」と刻まれた石標があった。

 明治11年11月11日、明治天皇が円照寺に宿泊された。その折、天皇の乗り物をつけるのに境内の松の大木が邪魔になり、切ることになった。しかし、住職は松の木の命を惜しみ、天皇に伺いをたてたところ、天皇は「歩くことなどいとわない」と、松の木の前に乗り物を止め、御座所まで歩かれた。その後、住職はこの松が天皇の乗り物の「鑾」(らん)を止めたと言って、「止鑾松(しらんのまつ)」と名付け大切に手入れをしていたが、枯れてしまったのだろう、今は2代目が育っている。
 
 
 円照寺の向いに本陣跡の案内板があった。(右写真)門と白壁の塀が往時を偲ばせる。
 この後、左側に連子格子の小振りの民家の脇本陣跡を見て、次いで、左側に二階が黒い塗り壁、一階が連子格子の町屋の前に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」の石碑があった。(左写真)
 続いて太田川を渡ってすぐの四つ角右側に、道路をまたいで大きな石の鳥居があった。多賀大社の一の鳥居である。(右写真)この交差点から東へ3kmほど行った所に多賀大社がある。
 多賀大社は古事記にも「その伊耶那岐(いざなぎ)の大神は淡海の多賀に坐す」とあり、もちろん「延喜式」にも名前が出ている古社である。昔から「多賀参り」は「伊勢参り」と同じように全国より参詣者が多かった。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り」

と、俗謡にあるが、古事記では多賀大社の伊耶那岐の大神が禊をしたおり、左眼を洗った時に生まれたのが伊勢神宮の天照大神となっている。このあたりを面白く謡ったものである。
 「多賀大社一の鳥居」の南西側柱の根元に道標が立っていた。(右写真の右端)「是より多賀みち三十丁」と刻まれている。また南西側柱の背後には大きな石燈籠が建っており、竿柱部に「多賀大社」の名が見えた。

 多賀大社の名前を見て、「高宮」の名前は「多賀宮」から由来するものであろうと思いついた。確証はなかったが、多賀大社への入口として宿場も栄えたのであろうと思う。一の鳥居のすぐ先左側に案内書にも紹介されていた古い提灯屋さんがあった。(左写真)看板代わりに少し大きめの「中仙道 高宮宿」と書かれた提灯が軒下にぶら下げられていた。(左写真の左上方形内)

 100mほど進んだ左側に高宮神社参道の入口がある。(右写真)鳥居のはるか奥に見える随身門には嘉永ニ年(1849)の棟札があり、随身門の脇に「をりをりに 伊吹も見てや 冬籠(ふゆごもり)の句碑があるという。夕方が迫ってきて、今日はそこまで足を延ばせない。
 高宮神社の真向いの大きなお店は「高宮布の布惣跡」である。(左写真)高宮布はこの周辺で生産された麻布で、上流階級の贈答品として珍重されていた。布惣は高宮布の問屋として栄えた。
 
 高宮には右写真のような軒まである竹格子を取り付けた町屋が散見される。近江独特の町屋構えである。

 午後4時48分、すぐ先の角で本日の中山道歩きを終える。右折して300mで近江鉄道高宮駅に着く。高宮駅から一駅で彦根駅、それよりJRで帰途につく。今回、2日間の歩数は77,878歩、一日目の歩数は33,520歩、二日目は44,358歩であった。本日が多いのは昨夜食事に出て歩いた分が少々入っている。










このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp