

“「瞼の母」番場の忠太郎 番場宿” |



中山道も4日目、今日は高宮宿からである。お天気は少し心配であったが、今日と明日の文化の日、2日の予定で出てきた。明日の文化の日は昔で言えば「明治節」、明治天皇の誕生日である。昔から晴天が多い特異日である。だから天気予報は悪かったが、何とか大崩れにはならないであろうと少々強引に考えた。
1kmほど進んだ左側に小山があり、階段が山上の石清水八幡宮に通じる。(左写真)その階段途中の斜面に「扇塚」がある。(左写真の左端)
石清水八幡宮の向い側に「是より多賀みち」の石標が立っていた。(右写真)高宮宿の「多賀大社一の鳥居」の所にあった「是より多賀みち三十丁」の石標と字体が同じであった。同時期に作られたものであろう。下の丁数の部分が塗りつぶされている。距離的には「多賀大社一の鳥居」の石標からとそれほど違わないと思う。おそらく別の所から移されてきて丁数が合わなくなって塗りつぶしたものであろう。
午前11時12分、石清水八幡宮のすぐ先に、芹川に沿った旭森公園がある。その角に「中山道旧跡 床の山」の石標が立っていた。(左写真の左端)そばの鶏頭が鮮やかであった。
数分歩いた先に、路傍の草むらにホトトギスが満開であった。(右写真)ホトトギスはユリ科の多年草で山地に自生している。秋に、白地に紫色の斑点のある花を咲かせる。ホトトギスの名前はその花の模様が鳥のホトトギスの腹の斑紋に似ているために名付けられた。
午前11時43分、中山道は国道306号線との正法寺町交差点を渡って進む。すぐ右側に常夜燈と六基の石標が立ち並んでいた。(右写真)最も新しい右端の石標には以下の碑文が刻まれていた。これは常夜燈の案内のようだ。
さらに進んだ左側の緑地にも石碑が二基あった。(左写真)手前左の石標は「天寧寺 五百らかん 江 七丁」と刻まれている。天保十五年の文字も見える。天寧寺は北へ1km余りの山麓にある。右の石標には「はらみち」とあった。ここは彦根市原町である。
その先で道が狭くなり、街道らしくなってきて、左側に八幡神社があった。ここには、先ほど通った芭蕉の「床の山」句碑(右写真の右)と、芭蕉門人の祇川の句碑(右写真の左)がある。何れの句碑も風化して文字は読めなかったが、それぞれに案内板があった。
彦根市原町の集落を抜けると、右側から東海道新幹線の土手下に出る。やがて新幹線のガードを抜けて新幹線の東側に出る。新幹線と名神高速道路に挟まれた間を旧中山道の小道が延びている。午後0時10分、名神高速の側壁との間に古い傾いた辻堂があった。(左写真)案内書に「小町塚」と書いてあったが見つからなかった。もしかしてと中を覗いてみると、木柱に書かれた文字が「小野小町塚」と薄く見える。(左写真の円内)磨耗した石像を中心に、一対の狐像、金色の御幣などが雑然と並んでいた。なぜここに小野小町塚があるのか不思議であった。しかしここの住所は彦根市小野町である。何か伝説が残っているのであろう。調べてみると小野小町の伝説の残る町は全国28都府県にわたっている。ここは何ヶ所かある出生地の一つであるという。
15分ほど北へ進んで彦根市鳥居本町に入る。鳥居本宿である。三叉路の左角に文政十年建立の朝鮮人街道道標があった。(右写真)「右彦根道 左中山道 京いせ」と読める。(右写真の左端)野洲町で中山道と分かれた朝鮮人街道は中山道より4kmほど北西を通り、近江八幡や彦根を経由して鳥居本宿のここで再び中山道に戻る。朝鮮通信使が通った脇往還である。
鳥居本という地名の由来は、多賀大社の鳥居があったためと伝わるが、宿内のどこにあったかも不明である。この鳥居本宿の名産は「道中合羽」と「赤玉神教丸」という腹痛や下痢止め薬だという。
看板のうちの右写真の右側は木綿屋という店に掛かるもので、「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれていた。木綿屋は白壁・虫籠窓・連子格子・竹格子の大きな町屋であった。(左写真)
この先は自然なカーブや藁屋根の家も残り、旧街道らしい道が続く。所々に松並木も残る。(左写真)看板に「彦根八景 旅しぐれ 中山道松並木」とあった。
国道8号線に出る手前の緑地に彦根の入口にあった三本の石柱の上の旅人像がここにもあった。(右写真)間もなく彦根市ともお別れになる。「またおいでやす」と石柱に刻まれている。入口の方には「おいでやす彦根」と刻まれていた。思わずデジカメを向けていると、道路わきの畑仕事のおばさんから声が掛かり、「みんなそこで写真を撮って行くよ」。ここで立ち止まり、写真を撮って行く旅人を毎日のように見送っているのであろう。苦笑いするしかなかった。
中山道は国道8号線を200mほど進んで、国道から右へ別れて山道になるが、その入口に「磨針峠望湖堂」の石碑があった。(左写真の左端)「舊中仙道 明治天皇御聖跡 弘法大師縁の地 磨針峠望湖堂 是より東へ山道八百米」と刻まれている。
摺針峠には「望湖堂」という本陣構えの大きな茶屋があった。旅人はここで眼下の琵琶湖の景色を楽しみながら「するはり餅」を食べて休憩した。東海道を東へ下って最初に遠州灘を見るのが白須賀宿の先の潮見坂であるのと同じように、東国から上って来る時、旅人はここで初めて琵琶湖に出会うわけである。安藤広重の「中山道六十九次之内 鳥居本」はこの摺針峠からの琵琶湖の風景を描いたものである。
東へ数分下ると前方に名神高速道路が見えてくる。下りた所に三叉路はあり、石標があった。(左写真)正面に「摺針峠 彦根」、左面に「番場 醒井」とあった。確認しなかったが、右面には「中山 鳥居本」と刻まれていたようだ。摺針峠を越えなくても鳥居本に至る道があるようだ。中山道は左手の名神の西側に沿う道を行く。
左手に山が迫り、右手には車が行き交う名神高速道路、その挟間に付けられた道を行く。(右写真)途中左の山際に「泰平水」と命名された湧水口と祠があった。(右写真の円内)かっては旅人の喉を潤したものであろう。
やがて道は名神高速道路の米原トンネルの上を越す。この小さな峠を小摺針峠という。この峠道は名神が出来る前は山中に細々と続く小道だったのであろう。道が整備されたのは名神の工事用道路としてであったという。現在もこの道を通る車はほとんどない。唯一番場に行くのしても8号線を米原へ出て迂回したほうがはるかに速い。雲が厚くなって、そばの高速に忙しく車が通り過ぎているものの、一人旅だと少し気味の悪い道である。
菜種川を渡って進んだ東番場が江戸時代の中山道番場宿である。中程に右手に広い参道があって。その両角にそれぞれ「史跡蓮華寺」「境内六波羅鎮将北条仲時及将士墳墓地」の石柱が立っていた。
勅使門のすぐ左、石を敷き詰めた何でもない溝に、いきなり「血の川」の案内板があった。(左写真の左)
本堂の右側に宝篋印塔が一基。(左上写真の右)これは前述の鎌刃城の開基城主、土肥三郎元頼公の墓だという。番場の忠太郎地蔵尊の看板に導かれて、本堂の右横を通って進むと、石段の上に合掌した石の地蔵尊が立っていた。(右写真)
忠太郎地蔵尊のかたわらに五輪塔が一基。(左写真)周りを囲んだ玉垣の一本一本には「番場史跡顕彰会」、「長谷川伸」、「島田正吾」、「中村勘三郎」、「市川寿海」、「片岡仁左衛門」、「片岡千ヱ蔵」、「長谷川一夫」、「三門博」、「広沢菊春」の名前が刻まれている。この五輪塔は誰の墓なのであろう。フィクションの番場の忠太郎に墓がある訳がない。地蔵尊は判るがお墓はやり過ぎであろう。しかも有名人が名を列ねている。
一度境内に戻り右手の山道をたどると、山の斜面にぎっしりと大小の五輪塔並んでいた。(左写真)北条仲時公並びに四百三十余名の墓とされる墓石群である。その数432基。数えたわけではないが、そばの案内板による。
午後3時13分、すぐ先で県道240号線との交差点に掛かった。渡った左側には「中山道 番場宿」の大きな碑が建つポケットパークがあった。(左写真)そして渡る手前の左角に、「米原汽車汽船道」の石標が立っていた。(左写真の左端)その石標を見落としていたので戻ってみた。石標には方向を示す指印が浮き彫りにされている。慶長年間に米原港が開かれて、この道を左折して4kmでその港に至る。その道は中山道と米原港をつなぐ産業道路として開かれたた。中山道の貨客を米原港に導くための道路であった。
カエデの並木と言えば、東海道の箱根宿にかって楓並木があった。もっとも現在はカエデの古木が一本だけ残っているのみであるが。
米原ジャンクションを潜って左折、そしてすぐに右折し、東へ向う。右折する角には「中部北陸自然歩道」の標識が目印である。




![]() ![]() |
![]() ![]() |

![]() |
このページに関するご意見・ご感想は: |