第 4 回
平成15年11月2日(日)
曇り
高宮宿−鳥居本宿−摺針峠−番場宿−醒井宿
“「道中合羽」と「赤玉神教丸」 鳥居本宿”
“「瞼の母」番場の忠太郎 番場宿”
姪からメールが来た。
「このほど、趣味のトールペイントのホームページを開設しましたのでよろしかったらごらんになってください。」
趣味でトールペイントを始めて、趣味が高じて資格を取り、教室を始めたとは聞いていたが、今度そのホームページ「ブルーベリーハウス」を開設したという。下のバナーからとべる。
トールペイントは、身の回りの家具や小物に絵付けをする工芸のことで、もとはヨーロッパ各地の伝統工芸として特徴ある色や模様が伝えられた。その後、アメリカへ渡って、手軽なクラフトとして親しまれるようになった。現在使用されているアクリル絵の具は、乾きが速く耐水性に富みツヤを自由に調節できる絵の具で、誰もが手軽にトールを楽しめるようになったという。
まだ故郷にいた頃、彼女が生まれて、はじめてまだ若い叔父さんになった。子守りをした記憶はないが、赤ん坊を抱いたのもその時が初めてのことであった。その姪が今では二人の子持ちである。
中山道も4日目、今日は高宮宿からである。お天気は少し心配であったが、今日と明日の文化の日、2日の予定で出てきた。明日の文化の日は昔で言えば「明治節」、明治天皇の誕生日である。昔から晴天が多い特異日である。だから天気予報は悪かったが、何とか大崩れにはならないであろうと少々強引に考えた。
午前10時30分
、高宮駅から歩き始める。お天気は曇り、天気は何とか持ちそうである。8分で高宮宿内の中山道に戻る。すぐに広い四つ角に出る。左角に黒く塗られた小さな辻堂があった。「大北地蔵」と呼ばれている。
(左写真)
高宮街づくり委員会の案内板によると、
大北地蔵
お地蔵様は石造が一般的であるが、この大北地蔵はめずらしく木彫りに彩色されたものである。側には明治三十三年四月の記で、「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、木之本の淨信寺にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。しかし、その由来等についての古文書は残念ながら不明である。
間もなく、中山道は近江鉄道本線の踏切を渡る。すぐ左手に背の高い常夜燈が立っていた。
(右写真)
また大きな一枚板に「中山道 高宮宿」の看板があった。高宮宿の西の入口の高宮橋の袂にあった物と同じ看板である。ここが高宮宿の東の入口なのであろう。
衆議院議員選挙の公示がされていて、投票日が11月9日、今選挙真っ最中である。この先のどこであったか、記憶が確かではないのだが、滋賀県2区の若い候補者が選挙カーを列ねて通り、狭い街道ゆえ避けるすべもなく、手を振ることを余儀なくされた。旅の者で選挙権はございませんと言いたいところだが、こぼれる笑顔と千切れるほど手を振る候補者と応援者、そこにいたのは恐縮の体の我々二人だけであった。
1kmほど進んだ左側に小山があり、階段が山上の石清水八幡宮に通じる。
(左写真)
その階段途中の斜面に「扇塚」がある。
(左写真の左端)
旭森小の案内板によると、
扇塚
“豊かなる時にあふぎのしるしとて ここにもきたの名を残しおく”
以前は扇塚と面塚とが一対になって建っていたそうだが、今は扇塚だけが残っている。井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多くあった。喜多古能は、門人の養成に力をそそぎ、彦根をたちさるとき、扇子と面を残していった。それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。
石清水八幡宮の向い側に「是より多賀みち」の石標が立っていた。
(右写真)
高宮宿の「多賀大社一の鳥居」の所にあった「是より多賀みち三十丁」の石標と字体が同じであった。同時期に作られたものであろう。下の丁数の部分が塗りつぶされている。距離的には「多賀大社一の鳥居」の石標からとそれほど違わないと思う。おそらく別の所から移されてきて丁数が合わなくなって塗りつぶしたものであろう。
午前11時12分
、石清水八幡宮のすぐ先に、芹川に沿った旭森公園がある。その角に「中山道旧跡 床の山」の石標が立っていた。
(左写真の左端)
そばの鶏頭が鮮やかであった。
石標の碑文によると、
中山道旧跡 床の山
鳥籠山につきましては、往々異説がありますが、旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました。
ひるがおに 昼寝せうもの 床の山
歌枕である「床の山」がどの山を差すのか、はっきりしていない。有力な候補に挙げられている一つは、大堀橋を渡ったすぐ右手に見える大堀山である。
(左上写真)
数分歩いた先に、路傍の草むらにホトトギスが満開であった。
(右写真)
ホトトギスはユリ科の多年草で山地に自生している。秋に、白地に紫色の斑点のある花を咲かせる。ホトトギスの名前はその花の模様が鳥のホトトギスの腹の斑紋に似ているために名付けられた。
10分ほど進んだ街道の左側に地蔵池という池があり、街道と地蔵池の間に春日神社という社がある。春日神社の森にはシイノキの巨木が何本かあった。最も太い御神木はツブラジイで、「日本の巨樹巨木林」によると、幹周4.05m、樹高20m、樹齢は300年以上という。
(左写真)
少し離れているが、このツブラジイを「高宮宿の巨木」としよう。
午前11時43分
、中山道は国道306号線との正法寺町交差点を渡って進む。すぐ右側に常夜燈と六基の石標が立ち並んでいた。
(右写真)
最も新しい右端の石標には以下の碑文が刻まれていた。これは常夜燈の案内のようだ。
石標の碑文によると、
多賀神社東参詣近道のしるべとして多賀町中川原住人野村善左衛門が発願。慶応三年二月野村善七が建立寄進した。
右から2番目の石標には「金毘羅大権現 是より十一丁」とある。金毘羅大権現は南東へ1.5kmの山中にある。右から3番目の石標には「安産観世音 是より四丁 慶光院」とある。慶光院は東へ600mの山麓にある。壊れた石標二基をとばして、その左の石標には「是より多賀ちかみち」とあった。
さらに進んだ左側の緑地にも石碑が二基あった。
(左写真)
手前左の石標は「天寧寺 五百らかん 江 七丁」と刻まれている。天保十五年の文字も見える。天寧寺は北へ1km余りの山麓にある。右の石標には「はらみち」とあった。ここは彦根市原町である。
その先で道が狭くなり、街道らしくなってきて、左側に八幡神社があった。ここには、先ほど通った芭蕉の「床の山」句碑
(右写真の右)
と、芭蕉門人の祇川の句碑
(右写真の左)
がある。何れの句碑も風化して文字は読めなかったが、それぞれに案内板があった。
案内板によると、
ひるね塚 芭蕉の句碑
ひるかおに ひるねせうもの とこのやま
俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている。つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。
案内板によると、
白髪塚
恥ながら 残す白髪や 秋の風
聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士
(陸奥の人)
で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。
彦根市原町の集落を抜けると、右側から東海道新幹線の土手下に出る。やがて新幹線のガードを抜けて新幹線の東側に出る。新幹線と名神高速道路に挟まれた間を旧中山道の小道が延びている。
午後0時10分
、名神高速の側壁との間に古い傾いた辻堂があった。
(左写真)
案内書に「小町塚」と書いてあったが見つからなかった。もしかしてと中を覗いてみると、木柱に書かれた文字が「小野小町塚」と薄く見える。
(左写真の円内)
磨耗した石像を中心に、一対の狐像、金色の御幣などが雑然と並んでいた。なぜここに小野小町塚があるのか不思議であった。しかしここの住所は彦根市小野町である。何か伝説が残っているのであろう。調べてみると小野小町の伝説の残る町は全国28都府県にわたっている。ここは何ヶ所かある出生地の一つであるという。
15分ほど北へ進んで彦根市鳥居本町に入る。鳥居本宿である。三叉路の左角に文政十年建立の朝鮮人街道道標があった。
(右写真)
「右彦根道 左中山道 京いせ」と読める。
(右写真の左端)
野洲町で中山道と分かれた朝鮮人街道は中山道より4kmほど北西を通り、近江八幡や彦根を経由して鳥居本宿のここで再び中山道に戻る。朝鮮通信使が通った脇往還である。
鳥居本宿に入ると、土壁・虫籠窓・袖塀・連子格子・竹格子が特徴的な町屋がちらほらと残る。
(左写真の左)
十字路の左角には桧皮葺破風付屋根の立派な常夜燈があった。
(左写真の右)
すでに
午後0時45分
、例によってまだ昼食にありついていない。左折してすぐ近江鉄道本線鳥居本駅がある。赤い屋根の洋風の駅である。近くに食堂がないかと探したが、それらしいものもなく諦めて中山道の戻った。
鳥居本という地名の由来は、多賀大社の鳥居があったためと伝わるが、宿内のどこにあったかも不明である。この鳥居本宿の名産は「道中合羽」と「赤玉神教丸」という腹痛や下痢止め薬だという。
もちろん現在、「道中合羽」を商う店がある訳はないが、「道中合羽」の形をした看板が宿内に今でも見られる。
(右写真)
鳥居本の合羽は馬場弥五郎という人が大阪で合羽製作技術を学んで商いを始めたのが初めであるという。琵琶湖周辺で生育する楮
(こうぞ)
を原料にし、菜種油を塗付して作った。やがて柿の渋を塗ることが考案され、防寒具として機能が高まった。天候の荒れやすい木曽街道の入口という地の利もあって文政年間には業者が15軒もあったという。
看板のうちの
右写真の右側
は木綿屋という店に掛かるもので、「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれていた。木綿屋は白壁・虫籠窓・連子格子・竹格子の大きな町屋であった。
(左写真)
案内板によると、
鳥居本宿
鳥居本は、江戸から数えて中山道六十七次の第六十三に当たる旧宿場町です。当時旅人に道中合羽を製造販売していた店の古い木製看板や、万病に効くといわれる道中薬を江戸時代から製造販売している有川家などに旧街道の名残りがみられます。
旅人たちに木陰を提供した松並木や格子構えの家が並ぶまちをぶらり歩いてみてはいかがでしょう。
街道はやがて突き当たり、右へカーブして進む。
(右写真の左から右へ)
その突き当たった大きな店が赤玉神教丸本舗の有川家である。今でも有川家では薬を商っているようで、店は閉まっていたが表の行燈型看板には、「二百年の伝統・創業万治元年 和漢健胃薬 赤玉神教丸 鳥居本宿 有川薬局」と書かれていた。有川家の母屋の右側には門があり。「明治天皇鳥居本御小休所」の石碑が立っていた。
(右写真の円内)
この先は自然なカーブや藁屋根の家も残り、旧街道らしい道が続く。所々に松並木も残る。
(左写真)
看板に「彦根八景 旅しぐれ 中山道松並木」とあった。
国道8号線に出る手前の緑地に彦根の入口にあった三本の石柱の上の旅人像がここにもあった。
(右写真)
間もなく彦根市ともお別れになる。「またおいでやす」と石柱に刻まれている。入口の方には「おいでやす彦根」と刻まれていた。思わずデジカメを向けていると、道路わきの畑仕事のおばさんから声が掛かり、「みんなそこで写真を撮って行くよ」。ここで立ち止まり、写真を撮って行く旅人を毎日のように見送っているのであろう。苦笑いするしかなかった。
国道8号線に出た所に、昭和五十四年十一月と日付の入った「右 中山道」の石標があった。
中山道は国道8号線を200mほど進んで、国道から右へ別れて山道になるが、その入口に「磨針峠望湖堂」の石碑があった。
(左写真の左端)
「舊中仙道 明治天皇御聖跡 弘法大師縁の地 磨針峠望湖堂 是より東へ山道八百米」と刻まれている。
旧中山道は車の道とは着かず離れずの山道だったようだ。所々にそれらしき道も見えたが草を分けるのは止めて車の道を登って行った。
(左写真)
峠道は車の通りも少なく、紅葉が進み気持ちの良い道であった。途中で道の脇に腰を下ろして駅の売店で買い置いた携行食を食べた。遅い昼食であった。
15分歩いて西側に視界が開き、
午後1時39分
、摺針峠
(すりはりとうげ)
に着いた。摺針峠(または磨針峠)とは変った名前である。山梨県に雁ガ腹摺山という山があるが、後日、峠名の由来を調べてみた。
「近江國輿地志略」によると、
「古昔一学生ありて、京師に学、半途にして去って此地を過に、老嫗の鉄斧をするにあへり。学生何の為に斧を磨やと問ば、老嫗こたふるに、此鉄を磨て鍼(はり)とせんと云。学生驚て我志のたらざることを恥、亦京師に行て学び業を立たり。是よりして、此巓を磨鍼巓と云とはいへり。」とある。この学生こそ若いころの弘法大師であったとし、摺針峠が弘法大師の縁の地とされる由縁である。
摺針峠には「望湖堂」という本陣構えの大きな茶屋があった。旅人はここで眼下の琵琶湖の景色を楽しみながら「するはり餅」を食べて休憩した。東海道を東へ下って最初に遠州灘を見るのが白須賀宿の先の潮見坂であるのと同じように、東国から上って来る時、旅人はここで初めて琵琶湖に出会うわけである。安藤広重の「中山道六十九次之内 鳥居本」はこの摺針峠からの琵琶湖の風景を描いたものである。
「望湖堂」の前に「明治天皇磨針峠御小休所」の石碑が立っていた。
(右写真)
残念ながら望湖堂は平成3年に焼失して、現在の建物は再建されたものという。
東へ数分下ると前方に名神高速道路が見えてくる。下りた所に三叉路はあり、石標があった。
(左写真)
正面に「摺針峠 彦根」、左面に「番場 醒井」とあった。確認しなかったが、右面には「中山 鳥居本」と刻まれていたようだ。摺針峠を越えなくても鳥居本に至る道があるようだ。中山道は左手の名神の西側に沿う道を行く。
左手に山が迫り、右手には車が行き交う名神高速道路、その挟間に付けられた道を行く。
(右写真)
途中左の山際に「泰平水」と命名された湧水口と祠があった。
(右写真の円内)
かっては旅人の喉を潤したものであろう。
やがて道は名神高速道路の米原トンネルの上を越す。この小さな峠を小摺針峠という。この峠道は名神が出来る前は山中に細々と続く小道だったのであろう。道が整備されたのは名神の工事用道路としてであったという。現在もこの道を通る車はほとんどない。唯一番場に行くのしても8号線を米原へ出て迂回したほうがはるかに速い。雲が厚くなって、そばの高速に忙しく車が通り過ぎているものの、一人旅だと少し気味の悪い道である。
峠をまっすぐに下っていくと番場宿に出る。
午後2時15分
、その入口に「中山道 番場」と大きく書いた真新しい石碑が建っていた。
(右写真)
番場宿といえば思い至るのは番場の忠太郎である。今の若い人にはなじみがないだろうが、長谷川伸原作の瞼の母の物語は、舞台でみる機会はもちろんテレビもある家は少なかった子供時代、もっぱらラジオから流れる浪花節だったような気がする。その忠太郎とこの宿がどんな縁があるのか知りたいと思った。
番場宿は東側の山寄りを名神高速道路が通っていることを除けば、近代化の歴史にとり残された静かな田舎の集落である。10分ほど歩いた西番場の左側に北野神社がある。境内に入るとケヤキの巨木が何本かあった。その内最も太い一本を「西番場の巨木」とした。
(左上写真)
二本の木なのか幹別れしたのかは不明だが、内の一本だけ見ても悠に幹周3.5mは越していると思う。
菜種川を渡る手前に「鎌刃城跡について」という案内板があった。番場の東側の標高384mの山頂付近にあった鎌刃城跡の案内であった。鎌刃城の命名の謂れは鎌の刃のような絶壁の尾根に造られた難攻不落な城を称したものであろう。
米原町教育委員会の案内板によると、
鎌刃城跡について
鎌刃城跡は滋賀県坂田郡米原町番場の標高384mの山頂に位置する典型的な戦国時代の山城です。
ここは戦国時代、江北と江南の境目にあたるところから鎌刃城も国境を警備する目的として、応仁の乱の頃には築城されていたようです。城主堀氏は当初浅井氏の家臣でしたが、元亀元年(1570)織田信長の与したため、信長軍の最前線基地となります。このため浅井長政や一向一揆勢に度々攻められ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の援軍によってかろうじて落城が食い止められています。
平成10年より実施された発掘調査で、門柱の礎石を伴う見事な枡形虎口(出入口)や、御殿の礎石をはじめ中心部の周囲が高さ3mを越える石垣によって築かれていたことが明らかになりました。
菜種川を渡って進んだ東番場が江戸時代の中山道番場宿である。中程に右手に広い参道があって。その両角にそれぞれ「史跡蓮華寺」「境内六波羅鎮将北条仲時及将士墳墓地」の石柱が立っていた。
何よりも番場の忠太郎の縁を求めて、蓮華寺に立ち寄ることにして左折して進む。
午後2時41分
、蓮華寺の前に名神高速道路が高架を通り、潜った先に蓮華寺の勅使門が見えてきた。
(右写真)
勅使門のすぐ左、石を敷き詰めた何でもない溝に、いきなり「血の川」の案内板があった。
(左写真の左)
案内板によると、
血の川
元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。
蓮華寺の案内板を横目にみて、境内の入口で無人の箱に拝観料を入れ、まずは我慢してきた手洗いを夫婦して借りた。
案内板によると、
蓮華寺
寺伝によれば聖徳太子の建立でもと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。
北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいは長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。
本堂の右側に宝篋印塔が一基。
(左上写真の右)
これは前述の鎌刃城の開基城主、土肥三郎元頼公の墓だという。番場の忠太郎地蔵尊の看板に導かれて、本堂の右横を通って進むと、石段の上に合掌した石の地蔵尊が立っていた。
(右写真)
地蔵尊の台座には、「南無歸命頂禮 親をたづぬる子には親を、子をたづぬる親には子をめぐりあわせ給え 昭和三十三年春 長谷川伸」と刻まれていた。現在では親子縁結びの地蔵尊として参詣者が多いという。
番場史跡顕彰会の案内板によると、
忠太郎地蔵尊の由来
昭和三十三年八月三日、文壇美雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮、親をたづぬる子には親を、子をたづぬる親には子を、めぐり合わせ給えと悲願をこめて、建立された地蔵尊である。
このお地蔵さまを拝めて、親子の縁はもとより、あらゆる縁が完全に結ばれて、家庭円満の楽しみを受ける事ができる。それにはお互がいがをがみ合うすなをな心が大切である。それをこのお地蔵さまは合掌せよとお示しになっている。
ところで、「瞼の母」は長谷川伸の戯曲で、番場の忠太郎はその主人公、フィクション上の人物である。忠太郎が五歳のとき、父親の身持ちの悪さから、母親のおはまが家出した。その後、やくざとなった忠太郎は母の面影を求めて江戸へ出て、柳橋の料亭の後妻となった母親を尋ね当てた。母親は実子と知りながら追い返した。「瞼をつむれば、昔のやさしいおっかさんの面影が浮かんでくるんだ」と忠太郎は言い残して、またあてのないの旅に出るというもの。長谷川伸の自らの身の上を投影した作品だという。
忠太郎地蔵尊のかたわらに五輪塔が一基。
(左写真)
周りを囲んだ玉垣の一本一本には「番場史跡顕彰会」、「長谷川伸」、「島田正吾」、「中村勘三郎」、「市川寿海」、「片岡仁左衛門」、「片岡千ヱ蔵」、「長谷川一夫」、「三門博」、「広沢菊春」の名前が刻まれている。この五輪塔は誰の墓なのであろう。フィクションの番場の忠太郎に墓がある訳がない。地蔵尊は判るがお墓はやり過ぎであろう。しかも有名人が名を列ねている。
そばに「一向杉」と名付けられた杉の巨木があった。
(右写真)
こんなところで巨木に出会うとは誠にラッキーと言うべきか。これは番場宿では2本目になるが、「番場宿の巨木」にしなければなるまい。
滋賀県の案内板によると、
滋賀県指定自然記念物
滋賀県自然環境保全条例第21条第1項により指定
1.名 称
蓮華寺の一向杉
2.所在地
坂田郡米原町大字番場字蓮華寺511番地
3.大きさ
幹周 5.53m 樹高 30.7m 樹齢 およそ700年(推定)
4.指定理由
蓮華寺を開山した一向俊聖上人が弘安10年(1287年)に亡くなられ、荼毘に付した地にスギを植樹したものと伝えられています。地域の人達からは、一向杉(いっこうすぎ)と呼ばれて親しまれており、県下有数の巨木です。
5.指定年月日 平成14年5月7日
一度境内に戻り右手の山道をたどると、山の斜面にぎっしりと大小の五輪塔並んでいた。
(左写真)
北条仲時公並びに四百三十余名の墓とされる墓石群である。その数432基。数えたわけではないが、そばの案内板による。
米原教育委員会・菊華会の案内板によると、
史跡 北条仲時公並びに四百三十余名の墓
元弘三年五月七日(約六百三十余年前)京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇、後伏見・華園二上皇を奉じて、中山道を下って番場の宿についたとき、又南朝軍の重囲に堕り、止むなく玉輦を蓮華寺に移し、大いに戦いたるも衆寡敵せず再び戦いに敗れ、遂に本堂前庭に於て仲時公以下随士四百三十余名悉く自釼す。
時の住職三代同阿上人深く同情し鄭重に葬ひ、その姓名と年令法名を一巻の過去帳に留め更に一々その墓を建立してその冥福を弔ふ。その墓はこの奥にあり過去帳は重要文化財として宝物館に収蔵せられてゐる。
街道に戻り、宿内を少し進んだ左側の民家前に、「明治天皇番場御小休所」と刻まれた石碑が立っていた。
(右写真)
この辺りに江戸時代には、高札場、本陣、脇本陣、問屋場が集中していた。
午後3時13分
、すぐ先で県道240号線との交差点に掛かった。渡った左側には「中山道 番場宿」の大きな碑が建つポケットパークがあった。
(左写真)
そして渡る手前の左角に、「米原汽車汽船道」の石標が立っていた。
(左写真の左端)
その石標を見落としていたので戻ってみた。石標には方向を示す指印が浮き彫りにされている。慶長年間に米原港が開かれて、この道を左折して4kmでその港に至る。その道は中山道と米原港をつなぐ産業道路として開かれたた。中山道の貨客を米原港に導くための道路であった。
この先、中山道は左手から迫った山の端を通って行く。その辺りは松並木の代わりのカエデの並木が続く。樹齢は100年以上はあろうか。幹周りは太いものでも3mには足らないが、紅葉が鮮やかで、ついついこれも街道の巨木にしてしまった。少し早いがこの先の「醒井宿の巨木」としよう。
(右写真)
カエデの並木と言えば、東海道の箱根宿にかって楓並木があった。もっとも現在はカエデの古木が一本だけ残っているのみであるが。
間もなく名神高速道路と北陸自動車道が接続する米原ジャンクションの下を潜る。そのすぐ手間の緑地に「中山道 一里塚」の石碑があった。
(左写真)
緑地が工事中でネットが張られていたが、ここは久礼の一里塚で、中に案内板があった。
米原町史談会の案内板によると、
久禮の一里塚
江戸へ約百十七里(459.5キロメートル)
京三条へ約十九里(74.6キロメートル)
江戸時代には、三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。川柳に、
「くたびれた やつが見付ける 一里塚」
とありますが、旅人は腰を下ろして一息し憩いの場にしたことでしょう。
久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。
米原ジャンクションを潜って左折、そしてすぐに右折し、東へ向う。右折する角には「中部北陸自然歩道」の標識が目印である。
十数分歩いて国道21号線を横切り、米原町樋口から河南へ入る。
午後3時47分
、河南には空家を改造した「茶屋道館」という中山道の旅人の休憩所が出来ていた。
(右写真)
ただ残念ながら鍵が閉まっていた。
米原町河南区自治会の案内板によると、
茶屋道館の由来
この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは、明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として、米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなりの財産家であったことが伺える。
この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。
丹生川橋を渡って、間もなく国道21号線から右手の醒井宿に入っていく。左に「六軒茶屋跡」と書かれた木柱が立っていた。
(左写真)
かって郡山藩主が彦根藩との境界に、自領域であることを明確にするために、6軒の茶屋を建てたのが始まりであると云われている。昭和三十年代までは草葺屋根の民家が6軒ほど並んで残っていたと云う。
JR東海道線の醒ヶ井駅は街道からすぐ北にあった。
午後4時10分
、本日はこれまでとした。本日の歩数は
32,115歩
であった。
途中で携帯電話からビジネスホテルの予約をした。最初、彦根のホテルを聞いたが、どこも満杯で予約がとれなかった。少し遠くなるが大垣で探し、チサンホテル大垣に予約した。醒ヶ井駅から大垣まで30分ほど掛かった。
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