第 5 回 
  平成15年11月3日(月) 
 雨降り止まず
 醒井宿−梓河内−柏原宿歴史館−柏原宿
 “「ハリヨ」と「バイカモ」 醒井宿”
 “「伊吹艾」と「監督 吉村公三郎」 柏原宿”



 チサンホテル大垣の朝、お天気はいかにも悪そうであったが、雨はまだ降っていなかった。大垣の街は芭蕉の奥の細道のゴール地点で、句碑のようなものも見えたが、今回の目的ではなかったので目をつぶって通りすぎた。JRの車中で雨が降り始め、地面がすっかり濡れて本格的な雨になった。世紀が変って11月3日の晴れの特異日もあてにならなくなったのであろう。少し駅頭で迷ったが、女房と話して、行ける所まで行くことに決めて、傘を差して歩き始めた。これほどの雨に見舞われたのは、豊橋の東海道吉田宿から御油宿の間以来である。

 午前8時44分、醒井駅頭に立つ。駅前には「醒井水の宿駅」と書かれた立て看板が幾つもあった。昨日電車待ちの時間に駅を出た右側の地元物産を販売している建物に入ったが、そこが「醒井水の宿駅」であった。建物前や店内に水を湧き出させたところがあり、昨日は地元産の焼柴栗の実演販売などのイベントもやっていて賑やかであった。今朝は雨でまだひっそりしていた。

 醒井宿は、「居醒の清水」を水源とする地蔵川に添って栄えた、湧水に潤された特徴のある宿場である。南に霊仙山や醒井渓谷を擁し、豊富な湧水が絶える事がない。すぐ南の山腹に沿って名神高速道路が通り心配されたが、その影響も受けなかった。湧水は町に迫る山裾の岩根から湧きだし、地蔵川に注ぎ込んでいる。湧水として西行水、十王水、居醒の清水の三ヶ所が知られている。今、醒井宿は湧水と宿場を前面に売り出している。

 雨の降る中、駅から旧街道に戻った所に中山道の石碑があった。(左写真)前面に「中山道 醒井宿」、右面に「番場宿へ一里」などと書かれている。次の柏原宿への距離も示されていたのだろうが、見落とした。

 先へ進むと右側に「西行水」と呼ばれる湧水がある。(右写真)岩の根元の割れ目から湧き出している。この泉には武佐宿の先の西生来町の泡子地蔵とよく似た伝説が残っている。
 この二つの伝説を比べるとほとんど同じであった。
 「旅僧」が「西行法師」に、「泡子地蔵」が「泡子塚」に、「西生来」が「児醒井」に変っただけである。

 街道に戻ってすぐに地蔵川を渡る。(右写真)橋の下を町中では珍しい清流が流れている。橋の名前は醒井大橋、大橋とは名ばかりの小橋である。

 雨は降り止まない。地蔵川は道の右側に流れている。十王水という標識があった。向かい側の人家の間から細い流れが合流する所に、竿柱に「十王」と刻まれた石燈籠があった。(左写真)この人家の裏手から湧き出している泉を「十王水」という。近くに十王堂があったためという。

 左に少し入った所に了徳寺がある。了徳寺には国の天然記念物に指定されている「御葉附銀杏」があった。(右写真)女房がギンナンを拾ってきた。(右写真の円内)葉から芽を出して発育不全のギンナンが付いている。お葉付イチョウといえば、山梨県に上沢寺(国)、本国寺(国)、八木沢(国)、顕本寺(県)の四本、静岡県にも静岡市安居の石蔵院にお葉付イチョウがある。

 このイチョウは珍しい「お葉付イチョウ」で国の天然記念物になっているが、巨木としてはまだまだである。だが、二本目の「醒井宿の巨木」とせざるをえまい。
 清流、地蔵川には清流にしか育たない二種類の生物が生息している。一つはバイカモ(梅花藻)という植物(左写真)で、今一つはバイカモの中に生息するハリヨという魚である。

 ハリヨはこの先の醒井延命地蔵尊の境内の水槽の中で見れた。(右写真)口先と尾の尖った木の葉のような小魚である。地蔵川に繁茂する藻の中に白い花がちらほらと見えた。ハリヨとバイカモの案内板があった。
 右側に例によって、「明治天皇御駐輦所」の石柱があった。立派な門の屋敷はもと醒井宿役人を勤めた江龍家の屋敷である。(左写真)明治天皇の北陸東海巡幸で、明治十一年十月二十二日に小休止されたという。

 地蔵川の対岸に醒井宿の問屋場の建物があった。(右下写真)意外と小振りの平家で整備され公開されていた。入場料がいると看板に書かれていたが、中は開放され係員はいなかった。雨で休みという訳でもあるまい。行燈の灯る暗い中で、しばし雨宿りをさせていただいた。
 午前9時29分、地蔵川に沿って200mほど行った右側に、地蔵川の川名の由来となった延命地蔵尊の御堂が、川向こうの迫る山との間の狭い境内に雨に濡れていた。(左写真)醒井延命地蔵尊と呼ばれている。「ハリヨ」の水槽もここにあった。

 案内板によれば、かってこの地蔵は地蔵川の水中にあって、「尻冷し地蔵」と呼ばれていたという。
 醒井延命地蔵尊の隣に地蔵川の源流の清水が湧き出す「居醒(いざめ)の清水」があった。(左写真)山の斜面に、かって、「醒井の不断桜」という天然記念物の桜があったが、枯れてしまった。その後、桜のあった位置にヤマトタケルの銅像が建てられた。(右写真)どうしてこの地にヤマトタケルなのかという疑問は案内板が晴らしてくれた。
 この話は日本書紀にある話で、古事記にはその部分は次のように書かれている。

 伊吹山の神を討ち取りに出でましき。「この山の神は、素手で直に取りてむ」とのらして、伊吹山に登りましし時に、白き猪、山の辺に逢へり。その大きさ牛のごとし。しかして、言挙げしてのらししく、「この白き猪に成れるは、その神の使者にあらむ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのらして、登りましき。ここに、大雨を降らして、倭建命を打ち惑はしまつりき。かれ、還り下りまして、玉倉部の清水に到りて憩ひましし時に、御心やくやく醒めましき。かれ、その清水を号けて、居醒の清水といふ。

 日本書紀と古事記では、「大蛇」が「白き猪」に、「剣」が「素手」に、「大蛇の毒」が「大雨」に変っているだけで、ほぼ同じような物語である。しかし、さすがのヤマトタケルも終焉が近付いて、身も心も衰えてきている。それをより濃く表しているのは古事記の物語だと思った。

 湧水は岩に固められた池になって、透き通った水が流れていた。湧き口らしき所に湯のみが置かれていたが、これだけの川をなすほどの湧水は見出せなかった。この池の複数個所から湧き出しているのかもしれない。

 岩場の上部には加茂神社の社殿が見えた。そのすぐそばまで名神高速道路が迫って、かってもっと南にあった社殿がそこまで追いやられたようだ。
 雨はやむ様子を見せない。一組の家族が車で来て地蔵堂に参り、水辺に下りていく。それを機に「居醒の清水」を後にした。向いのお寺は案内書にもあった門に鐘が吊るされているお寺であった。(左写真)お寺の名前は緑苔寺という。

 案内書に確か古い郵便局舎があると書かれていた。どこで見過ごしたのかと地図を確かめると街道から少し入った所にあり、通り過ぎて来てしまった。戻ってみようと、醒井大橋まで300mほど戻って、橋を渡らずに右手に入った街中に旧醒井郵便局があった。(右写真)中には入らずに外からの見学にした。
 戻り道で、現在も旅館業を営んでいるようで玄関右手に自然石の石燈籠がある、多々美家という旧旅籠(左写真の左)があり、続いて白壁、虫籠窓、連子格子の残る醤油屋さん(左写真の右)もあった。先ほど通った時には右側の地蔵川の清流ばかり気にしていて見過ごしたものであった。

 「居醒の清水」を過ぎた先で、一組の中山道歩きの夫婦とすれ違った。折り畳み傘を差しただけの我々と違って、大きなザックまで覆う合羽を着て、完全防備の出で立ちである。足早に醒井宿に入っていく。今日はどこまで歩くつもりなんだろう。

 午前10時16分、やがて道は国道21号線に合流するが、中山道は右折して山沿いの道を行く。(右写真)その角に「中山道醒井宿」の新しい石碑(右写真の円内)と「中山道分間延絵図」の醒井宿の部分を描いた石碑が建っていた。良く見ると絵図には地蔵川も現在ある通りに描かれている。ここは醒井宿の東の桝形である。

 米原町一色の集落を過ぎていく。右手山側に一里塚の標識が立っていた。(左写真)
 左側に八幡神社があり、ケヤキの巨木が見えた。その先で国道21号線に出た。大きなサイコロ状の石を四つ積み上げて「左 中山道」と刻んだ標識があった。今歩いて来た一色の集落の旧街道に導く標識であろう。

 国道を400mほど歩いて道路北側のコンビニに入った。雨は小降りになったり、篠突くようになったりしながら、止み間を見せない。飲料を購入し傘を差して先へ進む。国道の向こう側の山の斜面を削った一段高い所を名神高速道路が通っている。コンビ二のすぐ先で旧中山道は左手の国道の北側に入って国道に並行して進む。

 この旧中山道には松並木が所々に残っていた。(右写真)またその先には紅葉した桜並木もあった。

 すでに坂田郡山東町に入っていた。午前11時09分、旧道が国道と接する所に、梓河内のバス停がある。すぐそばの草むらの中に、「墓跡黒谷遺跡」の石標が立っていた。(左写真)そばに案内板もあるが、文字が消えてしまって読めない。黒谷遺跡の石標と隣に、「左 中仙道」の石碑があった。

 この梓河内の集落は醒井と共に古代の東山道の「横川駅」の比定地とされている。近江国の鳥籠(とこ)駅と美濃国の不破駅の間に置かれた駅家(うまや)である。鳥籠(とこ)駅は歌枕の「床の山」の地である。不破駅は不破の関のあったところである。

 梓河内には古い遺跡や縁のありそうな地名が幾つも残っている。その一つが黒谷遺跡である。「墓跡 黒谷遺跡」は「石垣を伴う三段の郭に土塁・石塁・空堀・竪堀等が残存」しているというが、近くにはそれらしきものもない。「墓跡」とあるから昔のお墓だったのであろう。道路などで地形がすっかり変ってしまい、黒谷遺跡も今は無いのかもしれない。

 近くに石仏や五輪塔が沢山集められた祠が二ヶ所あった。(右写真)路傍やあるいは黒谷遺跡から出てきたものかもしれない。

 すぐに杉林の山道に入る。左の道端に「集落跡 番の面遺跡」の石碑が立っていた。(左写真)
 かっては旧中山道はもっと北側の山の中にあって、「粉河坂」と呼ばれた。しかし大正時代に現在の道が開けて、現在は「粉河坂」は廃道になっている。

 杉林を抜けると左側から旧道の土道が合流する。その角に古い「小川関趾」の石碑があった。(右写真)「小川」は(こかわ)と読み、「古川」「粉川」とも書き、横川駅の横川が転訛して「こかわ」と称するようになったともいう。この辺りが「横川駅」と比定される理由の一つである。「小川関趾」は中世の関所跡である。

 すぐ先の山東町長沢のT字路の角の人家石垣前に石標が一基あった。(左写真)一面に「従是明星山薬師(道)」、一面に「やくしへのみ(ち)」、もう一面に「屋久志江乃(みち)」と刻まれていた。いずれも一番下の文字はアスファルト路面の下に隠れていて、この通りかどうかは判らない。漢字、ひらがな、変体仮名の3種類の文字で書き分けられている。

 この石標はこれより南へ名神高速道路を越えた先にある、岩ケ谷の明星輪寺(西薬師)のことを指している。

 雨の中を歩いて行くと、左側の山際に松の幼木が一列に植えられていた。(右写真)案内板には「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹」、また「柏原学区史跡保存会 平成14年(2002)3月」と書かれていた。ごく最近に植えられたものである。

 
 柏原宿に近づいて街道に松並木が何本か残っていた。中には幕末に混植された楓も混じっている。(左写真)途中に「北畠具行卿墓」の看板があった。400mほど山の中に入った所にあるようだ。雨も降るし、道草は止めた。

 北畠具行卿は御醍醐天皇に仕え、倒幕に立ち上がったが笠置山で捕えられ、バサラ大名で知られる京極道誉により、鎌倉に護送される途中幕命が下り、近くの「首切三昧」と呼ばれる所で斬首された。

 すぐそばにカシワの木が植えられて、「柏原区里の木かしわの木」と刻んだ石柱が立っていた。(右写真)納得の里の木選定である。

 松並木の中、道路脇に「ここは中山道柏原宿」の石碑を見た。そして、松並木の終りに西見付の案内板があった。

 さらに、一里塚跡の案内板の南側に、新しく築いた一里塚が出来ていた。(右写真)植えられた幼木はやはりエノキであろう。
 午前11時44分、柏原宿の入口に常夜燈が一基立っていた。(左写真の左)雨がアスファルト道路を濡らし、町はもやにけむっている。

 柏原宿に入って最初の右側黒板塀の加藤家は郷宿跡であった。(左写真の右)
 右折する細い道の角に、先ほど山東町長沢で見たのと同じ「従是明星山薬師道」の石標があった。(右写真)長沢の道標は京からきた人のため、この道標は東から来た人のためのそれぞれ案内標識である。
 右側に立派な造りなのだが崩れかかっている屋敷があった。柏原銀行跡という。(左写真)いずれ町で改修するんだろうと女房と話した。街並みを残すためには是非とも必要な建物であろう。
 正午、左側に屋根が幾重にも重なった民家を改造した「柏原宿歴史館」があった。(右写真)大正6年建築の旧松浦久一郎邸を改築したものだという。雨宿りを兼ね、300円の入館料を払って入った。館内では江戸時代の柏原宿の史料を保存展示して紹介している。

 奥の展示館二階には広重の「木曽海道六拾九次」の複製が六十九次すべて展示されていた。「木曽海道六拾九次」の版画は歌川広重と渓斎英泉の合作だと言われている。東海道五十三次の版画とは明らかに違う絵だと思った。柳の下に2匹目の泥鰌を狙ったのであろうが、東海道五十三次に見た斬新な構図など画面に張り詰める何かが、「木曽海道六拾九次」には欠けていると思った。

 また館内では「郷土出身の映画監督 吉村公三郎と吉村家の人々」という企画展をしていた。祖父で柏原宿の庄屋役や滋賀県県議であった逸平、父で広島市長であった平造、吉村公三郎の兄弟なども色々な史料で紹介されていた。

 吉村公三郎監督は柏原を故郷に持ち、父の任地の関係で住所を転々と変えた。1929年松竹蒲田撮影所に入り、「源氏物語」「自由学校」「偽れる盛装」「夜明け前」「夜の河」「暖流」「足摺岬」「越前竹人形」など数々の名作の監督をつとめた。和室の方にはそれらの映画のポスターが沢山展示されていた。

 すでに午後1時近く になっていたので、出口西側の「軽食喫茶 柏」に入った。メニューに「やいとうどん」というのがあった。柏原宿の名物は「もぐさ」である。ならば、「やいとうどん」を食さない訳にはいくまい。出て来たうどんは、もぐさの代わりのおぼろ昆布を大きな「やいと」の形に積み上げ、火種の代わりに刻んだ紅生姜が載っている。(左写真)これで400円。

 「喫茶 柏」には地元の中年親父達がたむろしていて、話し掛けてくる。今日は雨であるが、清瀧寺の紅葉だか桜だかは素晴らしいと話す。近在から見に来る客が絶えないと自慢する。

 清瀧寺は柏原宿より北西へ1kmの山東町清滝にある。清瀧は近江の佐々木一族の京極氏代々の居城の地である。清瀧寺徳源院は京極氏代々の菩提寺であった。京極家の歴代の墓所である。

 柏原宿歴史館の出口に「やいと祭」の黒いポスターが張られていた。(右写真)まちのあちこちに張られていたポスターである。「やいと祭」は11月22日〜23日に催される。柏原宿の名物「いぶきもぐさ」をメインテーマに行われる町興しの祭である。やいとの体験コーナーもあるのだろうか。

 柏原宿で伊吹もぐさ(艾)を売る店は往時には10軒を越えたという。確かに家々の表に昔の屋号を書いた板があり、その中に艾屋の表示が多い。

 現在、残るのは「伊吹堂亀屋左京」(左写真)一軒のみと聞いていた。その亀屋左京は「木曽街道六拾九次」の柏原にずばり店先が描かれている。「亀屋」と「薬艾」の文字もしっかり描かれている。何しろ行商で江戸へ下って、吉原の遊女に「江州柏原の伊吹山の麓 亀屋左京の切り艾」と謡わせ、コマーシャルソングの初まりといわれたほどだから、流行の街道版画に自分の店を載せるべく画策する位のことは朝飯前であろう。

 街道右側に古い大きな町屋があり、二階軒下に「伊吹堂」の看板が掲げられていた。(左上写真の方形内)しかしお店は「改修中」ということで、しっかり閉じられていた。未練たらしく格子の間から覗こうとしたが、内部を窺い知ることは出来なかった。版画にも描かれ有名な大きな福助人形も見ることが出来なくて大変に残念であった。

 やがて街道は市場川を渡る。この橋は吉村公三郎監督縁の橋として看板が出ていた。(右写真)これは柏原宿歴史館の企画展に合わせた臨時の看板のようであった。
 
 その橋を渡ったすぐ左に柏原宿に入って二つ目の秋葉山の常夜燈がある。(左写真)そこはかって高札場のあった所だという。
 また、その先左手には「問屋役年寄吉村逸平」の看板と「映画監督吉村公三郎の実家」(右写真)の看板があり、柏原宿の詳しい案内板があった。
 雨は止みそうにないし、柏原宿歴史館を出るときから、少し早いが今日はJR柏原駅までとしようと女房と話してきた。午後1時31分、駅は間もなく左折してすぐのところにあった。駅舎に「柏原驛の由来」という案内板が出ていた。もちろんこの「柏原驛」はJR柏原駅のことではない。現代でいえば “道の駅” といった方が近いかもしれない。案内板は文語調で理解し難いかもしれないが、書き写す。
 今回、2日間の歩数は51,711歩、一日目の歩数は32,115歩、二日目は19,596歩であった。










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