

“「伊吹艾」と「監督 吉村公三郎」 柏原宿” |


雨の降る中、駅から旧街道に戻った所に中山道の石碑があった。(左写真)前面に「中山道 醒井宿」、右面に「番場宿へ一里」などと書かれている。次の柏原宿への距離も示されていたのだろうが、見落とした。
先へ進むと右側に「西行水」と呼ばれる湧水がある。(右写真)岩の根元の割れ目から湧き出している。この泉には武佐宿の先の西生来町の泡子地蔵とよく似た伝説が残っている。
「旅僧」が「西行法師」に、「泡子地蔵」が「泡子塚」に、「西生来」が「児醒井」に変っただけである。
雨は降り止まない。地蔵川は道の右側に流れている。十王水という標識があった。向かい側の人家の間から細い流れが合流する所に、竿柱に「十王」と刻まれた石燈籠があった。(左写真)この人家の裏手から湧き出している泉を「十王水」という。近くに十王堂があったためという。
左に少し入った所に了徳寺がある。了徳寺には国の天然記念物に指定されている「御葉附銀杏」があった。(右写真)女房がギンナンを拾ってきた。(右写真の円内)葉から芽を出して発育不全のギンナンが付いている。お葉付イチョウといえば、山梨県に上沢寺(国)、本国寺(国)、八木沢(国)、顕本寺(県)の四本、静岡県にも静岡市安居の石蔵院にお葉付イチョウがある。
清流、地蔵川には清流にしか育たない二種類の生物が生息している。一つはバイカモ(梅花藻)という植物(左写真)で、今一つはバイカモの中に生息するハリヨという魚である。
ハリヨはこの先の醒井延命地蔵尊の境内の水槽の中で見れた。(右写真)口先と尾の尖った木の葉のような小魚である。地蔵川に繁茂する藻の中に白い花がちらほらと見えた。ハリヨとバイカモの案内板があった。
右側に例によって、「明治天皇御駐輦所」の石柱があった。立派な門の屋敷はもと醒井宿役人を勤めた江龍家の屋敷である。(左写真)明治天皇の北陸東海巡幸で、明治十一年十月二十二日に小休止されたという。
午前9時29分、地蔵川に沿って200mほど行った右側に、地蔵川の川名の由来となった延命地蔵尊の御堂が、川向こうの迫る山との間の狭い境内に雨に濡れていた。(左写真)醒井延命地蔵尊と呼ばれている。「ハリヨ」の水槽もここにあった。
醒井延命地蔵尊の隣に地蔵川の源流の清水が湧き出す「居醒(いざめ)の清水」があった。(左写真)山の斜面に、かって、「醒井の不断桜」という天然記念物の桜があったが、枯れてしまった。その後、桜のあった位置にヤマトタケルの銅像が建てられた。(右写真)どうしてこの地にヤマトタケルなのかという疑問は案内板が晴らしてくれた。
雨はやむ様子を見せない。一組の家族が車で来て地蔵堂に参り、水辺に下りていく。それを機に「居醒の清水」を後にした。向いのお寺は案内書にもあった門に鐘が吊るされているお寺であった。(左写真)お寺の名前は緑苔寺という。
案内書に確か古い郵便局舎があると書かれていた。どこで見過ごしたのかと地図を確かめると街道から少し入った所にあり、通り過ぎて来てしまった。戻ってみようと、醒井大橋まで300mほど戻って、橋を渡らずに右手に入った街中に旧醒井郵便局があった。(右写真)中には入らずに外からの見学にした。
戻り道で、現在も旅館業を営んでいるようで玄関右手に自然石の石燈籠がある、多々美家という旧旅籠(左写真の左)があり、続いて白壁、虫籠窓、連子格子の残る醤油屋さん(左写真の右)もあった。先ほど通った時には右側の地蔵川の清流ばかり気にしていて見過ごしたものであった。
午前10時16分、やがて道は国道21号線に合流するが、中山道は右折して山沿いの道を行く。(右写真)その角に「中山道醒井宿」の新しい石碑(右写真の円内)と「中山道分間延絵図」の醒井宿の部分を描いた石碑が建っていた。良く見ると絵図には地蔵川も現在ある通りに描かれている。ここは醒井宿の東の桝形である。
米原町一色の集落を過ぎていく。右手山側に一里塚の標識が立っていた。(左写真)
国道を400mほど歩いて道路北側のコンビニに入った。雨は小降りになったり、篠突くようになったりしながら、止み間を見せない。飲料を購入し傘を差して先へ進む。国道の向こう側の山の斜面を削った一段高い所を名神高速道路が通っている。コンビ二のすぐ先で旧中山道は左手の国道の北側に入って国道に並行して進む。
すでに坂田郡山東町に入っていた。午前11時09分、旧道が国道と接する所に、梓河内のバス停がある。すぐそばの草むらの中に、「墓跡黒谷遺跡」の石標が立っていた。(左写真)そばに案内板もあるが、文字が消えてしまって読めない。黒谷遺跡の石標と隣に、「左 中仙道」の石碑があった。
近くに石仏や五輪塔が沢山集められた祠が二ヶ所あった。(右写真)路傍やあるいは黒谷遺跡から出てきたものかもしれない。
すぐに杉林の山道に入る。左の道端に「集落跡 番の面遺跡」の石碑が立っていた。(左写真)
杉林を抜けると左側から旧道の土道が合流する。その角に古い「小川関趾」の石碑があった。(右写真)「小川」は(こかわ)と読み、「古川」「粉川」とも書き、横川駅の横川が転訛して「こかわ」と称するようになったともいう。この辺りが「横川駅」と比定される理由の一つである。「小川関趾」は中世の関所跡である。
すぐ先の山東町長沢のT字路の角の人家石垣前に石標が一基あった。(左写真)一面に「従是明星山薬師(道)」、一面に「やくしへのみ(ち)」、もう一面に「屋久志江乃(みち)」と刻まれていた。いずれも一番下の文字はアスファルト路面の下に隠れていて、この通りかどうかは判らない。漢字、ひらがな、変体仮名の3種類の文字で書き分けられている。
雨の中を歩いて行くと、左側の山際に松の幼木が一列に植えられていた。(右写真)案内板には「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹」、また「柏原学区史跡保存会 平成14年(2002)3月」と書かれていた。ごく最近に植えられたものである。
午前11時44分、柏原宿の入口に常夜燈が一基立っていた。(左写真の左)雨がアスファルト道路を濡らし、町はもやにけむっている。
柏原宿に入って最初の右側黒板塀の加藤家は郷宿跡であった。(左写真の右)
右側に立派な造りなのだが崩れかかっている屋敷があった。柏原銀行跡という。(左写真)いずれ町で改修するんだろうと女房と話した。街並みを残すためには是非とも必要な建物であろう。
正午、左側に屋根が幾重にも重なった民家を改造した「柏原宿歴史館」があった。(右写真)大正6年建築の旧松浦久一郎邸を改築したものだという。雨宿りを兼ね、300円の入館料を払って入った。館内では江戸時代の柏原宿の史料を保存展示して紹介している。
すでに午後1時近く になっていたので、出口西側の「軽食喫茶 柏」に入った。メニューに「やいとうどん」というのがあった。柏原宿の名物は「もぐさ」である。ならば、「やいとうどん」を食さない訳にはいくまい。出て来たうどんは、もぐさの代わりのおぼろ昆布を大きな「やいと」の形に積み上げ、火種の代わりに刻んだ紅生姜が載っている。(左写真)これで400円。
柏原宿歴史館の出口に「やいと祭」の黒いポスターが張られていた。(右写真)まちのあちこちに張られていたポスターである。「やいと祭」は11月22日〜23日に催される。柏原宿の名物「いぶきもぐさ」をメインテーマに行われる町興しの祭である。やいとの体験コーナーもあるのだろうか。
柏原宿で伊吹もぐさ(艾)を売る店は往時には10軒を越えたという。確かに家々の表に昔の屋号を書いた板があり、その中に艾屋の表示が多い。
やがて街道は市場川を渡る。この橋は吉村公三郎監督縁の橋として看板が出ていた。(右写真)これは柏原宿歴史館の企画展に合わせた臨時の看板のようであった。
また、その先左手には「問屋役年寄吉村逸平」の看板と「映画監督吉村公三郎の実家」(右写真)の看板があり、柏原宿の詳しい案内板があった。



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