第 5 回
平成15年11月3日(月)
雨降り止まず
醒井宿−梓河内−柏原宿歴史館−柏原宿
“「ハリヨ」と「バイカモ」 醒井宿”
“「伊吹艾」と「監督 吉村公三郎」 柏原宿”
チサンホテル大垣の朝、お天気はいかにも悪そうであったが、雨はまだ降っていなかった。大垣の街は芭蕉の奥の細道のゴール地点で、句碑のようなものも見えたが、今回の目的ではなかったので目をつぶって通りすぎた。JRの車中で雨が降り始め、地面がすっかり濡れて本格的な雨になった。世紀が変って11月3日の晴れの特異日もあてにならなくなったのであろう。少し駅頭で迷ったが、女房と話して、行ける所まで行くことに決めて、傘を差して歩き始めた。これほどの雨に見舞われたのは、豊橋の東海道吉田宿から御油宿の間以来である。
午前8時44分
、醒井駅頭に立つ。駅前には「醒井水の宿駅」と書かれた立て看板が幾つもあった。昨日電車待ちの時間に駅を出た右側の地元物産を販売している建物に入ったが、そこが「醒井水の宿駅」であった。建物前や店内に水を湧き出させたところがあり、昨日は地元産の焼柴栗の実演販売などのイベントもやっていて賑やかであった。今朝は雨でまだひっそりしていた。
醒井宿は、「居醒の清水」を水源とする地蔵川に添って栄えた、湧水に潤された特徴のある宿場である。南に霊仙山や醒井渓谷を擁し、豊富な湧水が絶える事がない。すぐ南の山腹に沿って名神高速道路が通り心配されたが、その影響も受けなかった。湧水は町に迫る山裾の岩根から湧きだし、地蔵川に注ぎ込んでいる。湧水として西行水、十王水、居醒の清水の三ヶ所が知られている。今、醒井宿は湧水と宿場を前面に売り出している。
雨の降る中、駅から旧街道に戻った所に中山道の石碑があった。
(左写真)
前面に「中山道 醒井宿」、右面に「番場宿へ一里」などと書かれている。次の柏原宿への距離も示されていたのだろうが、見落とした。
先へ進むと右側に「西行水」と呼ばれる湧水がある。
(右写真)
岩の根元の割れ目から湧き出している。この泉には武佐宿の先の西生来町の泡子地蔵とよく似た伝説が残っている。
案内板によると、
泡子塚
岩の上には、仁安三戌子年秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。
伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、
水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん
と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました、西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。
今もこの辺の小字名を児醒井といいます。
この二つの伝説を比べるとほとんど同じであった。
(1) 茶店の娘が旅僧
(西行法師)
に恋をした。
(2) 旅僧
(西行法師)
の飲み残しの茶を飲んだ。
(3) 娘は不思議にも懐妊し男の子を産んだ。
(4) 再度訪れた旅僧
(西行法師)
が事情を聞き、男の子に息を吹きかけて泡となって消えた。
(5) 旅僧
(西行法師)
はこの子のために泡子地蔵
(泡子塚)
を祀った。
(6) 最後は「西生来」
(「児醒井」)
の地名の由来と結びつける。
「旅僧」が「西行法師」に、「泡子地蔵」が「泡子塚」に、「西生来」が「児醒井」に変っただけである。
街道に戻ってすぐに地蔵川を渡る。
(右写真)
橋の下を町中では珍しい清流が流れている。橋の名前は醒井大橋、大橋とは名ばかりの小橋である。
雨は降り止まない。地蔵川は道の右側に流れている。十王水という標識があった。向かい側の人家の間から細い流れが合流する所に、竿柱に「十王」と刻まれた石燈籠があった。
(左写真)
この人家の裏手から湧き出している泉を「十王水」という。近くに十王堂があったためという。
左に少し入った所に了徳寺がある。了徳寺には国の天然記念物に指定されている「御葉附銀杏」があった。
(右写真)
女房がギンナンを拾ってきた。
(右写真の円内)
葉から芽を出して発育不全のギンナンが付いている。お葉付イチョウといえば、山梨県に上沢寺(国)、本国寺(国)、八木沢(国)、顕本寺(県)の四本、静岡県にも静岡市安居の石蔵院にお葉付イチョウがある。
このイチョウは珍しい「お葉付イチョウ」で国の天然記念物になっているが、巨木としてはまだまだである。だが、二本目の「醒井宿の巨木」とせざるをえまい。
米原町・米原町観光協会の案内板によると、
御葉附銀杏(おはつきいちょう)
周囲 約2.5m、高さ 約12m、樹齢 約150年。
毎年8月から11月上旬ごろの間、数多くの銀杏(ギンナン)を実らせますが、その一部は葉面上に付いています。
銀杏の発育が不完全なものが多く、小さくて、長楕円や、細長く普通の銀杏と著しく形が異っています。
葉面上に生じる銀杏の数は、多いもので5〜8個ですが、おおむね1〜2個で葉脈が次第に太くなり、先端の所が主に形作られていきます。
化石から出土された「いちょう」に良く似ていて、銀杏が葉面上に生じるのは、花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。
「いちょう」は、中国、及び日本の特産で、我が国においては神社仏閣の境内に数多く植えられていますが、この「おはつきいちょう」のような葉面上に銀杏を生じるものは少なく、貴重なものとされています。
昭和4年12月17日、国の天然記念物として指定されました。
清流、地蔵川には清流にしか育たない二種類の生物が生息している。一つはバイカモ(梅花藻)という植物
(左写真)
で、今一つはバイカモの中に生息するハリヨという魚である。
ハリヨはこの先の醒井延命地蔵尊の境内の水槽の中で見れた。
(右写真)
口先と尾の尖った木の葉のような小魚である。地蔵川に繁茂する藻の中に白い花がちらほらと見えた。ハリヨとバイカモの案内板があった。
醒井区の案内板によると、
ハリヨ(トゲウオ科 イトヨ属)
体長4〜7cmで生息分布は限られ、滋賀県東北部と岐阜県南西部の湧水をもつ水温20度以下の清流に生息している。ウロコはなく鱗板が前半身に6枚ほど一列あるだけで、後半身は黒緑色の雲状模様がある。トゲが脊部に3本、腹部に1対、臀鰭の直前に1本ある。繁殖期になると雄は婚姻色が現れ、その頭部の下側部は朱紅色を呈し、胴部は暗青色を帯びる。雄は縄張りを持ちその中心に水草や根などの繊維質のものを用いてトンネル状の巣を作り、雌を誘い入れて産卵させる。雄は卵が孵化するまで餌もとらず辛抱づよく巣を見張り続ける。寿命は短く年魚である。
バイカモ(沈水植物 キンポウゲ科)
水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年草水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ約50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花様の白い花が咲く。
バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している。
右側に例によって、「明治天皇御駐輦所」の石柱があった。立派な門の屋敷はもと醒井宿役人を勤めた江龍家の屋敷である。
(左写真)
明治天皇の北陸東海巡幸で、明治十一年十月二十二日に小休止されたという。
地蔵川の対岸に醒井宿の問屋場の建物があった。
(右下写真)
意外と小振りの平家で整備され公開されていた。入場料がいると看板に書かれていたが、中は開放され係員はいなかった。雨で休みという訳でもあるまい。行燈の灯る暗い中で、しばし雨宿りをさせていただいた。
案内板によると、
米原町指定文化財 醒井宿問屋場(旧川口家住宅)
この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中から後半と推定される貴重な建物です。
平成十二年より修理をおこない、再び江戸時代の宿場の問屋として公開されることになりました。
利 用 案 内
■入場料 大人(高校生以上)200円 小人(中学生以下)100円 ※ 郵便局舎と二館共通
■開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
■休館日 月曜日(月曜日が祝・祭日の場合はその翌日) 年末年始(十二月二十七日〜一月五日)
中山道醒井宿概要
町並み 東西八町二間 人口 539人 戸数 138戸
本 陣 1軒 脇本陣 1軒 旅籠 11軒 問屋 7軒
午前9時29分
、地蔵川に沿って200mほど行った右側に、地蔵川の川名の由来となった延命地蔵尊の御堂が、川向こうの迫る山との間の狭い境内に雨に濡れていた。
(左写真)
醒井延命地蔵尊と呼ばれている。「ハリヨ」の水槽もここにあった。
案内板によれば、かってこの地蔵は地蔵川の水中にあって、「尻冷し地蔵」と呼ばれていたという。
米原町・米原町観光協会・醒井区の案内板によると、
醒井延命地蔵尊縁起
弘仁八年(西暦817年)百日を越える旱魃が続き、野も山も草木は枯れ、川や湖は干上がりました。
御心配になった嵯峨天皇の命により、伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨をお祈りになりますと、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げになりました。
伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里へ来られますと、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えてゆきました。
大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6米)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念されますと、黒い雲がみるみるあらわれ、大雨が三日間降り続きました。
この雨で緑は甦り、生気を取り戻した人々は、地蔵菩薩の深いお慈悲と、伝教大師の比類なき知恵と徳行に、尊信の念をいっそう深くしたということです。
本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていましたので、俗に「尻冷し地蔵」と唱えられていましたが、慶長十三年九月濃州大垣の城主石川日向守が霊験を感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。
米原町教育委員会の案内板によると、
米原町指定文化財(歴史資料) 石造地蔵菩薩坐像
花崗岩を丸彫りした半跏像で、その彫刻の特徴から鎌倉時代後半の製作であろうと考えられます。総高270cmを測る大形の丸彫り地蔵尊の類例は全国的にも少なく、滋賀県下では本像が唯一のものです。
明治時代に火災に遭い補修が激しいのは惜しまれますが、体部の納衣や手足の彫刻はよく残されており、特に光背の蓮弁のレリーフは鎌倉期の写実彫刻の作風をよく伝えています。
古くより延命地蔵尊の名で親しまれ、毎年八月二十三・二十四日におこなわれる地蔵盆は盛大で、近郊はもとより遠方からも多くの人々が参詣に訪れます。
醒井延命地蔵尊の隣に地蔵川の源流の清水が湧き出す「居醒
(いざめ)
の清水」があった。
(左写真)
山の斜面に、かって、「醒井の不断桜」という天然記念物の桜があったが、枯れてしまった。その後、桜のあった位置にヤマトタケルの銅像が建てられた。
(右写真)
どうしてこの地にヤマトタケルなのかという疑問は案内板が晴らしてくれた。
案内板によると、
居醒の清水
景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。
この話は日本書紀にある話で、古事記にはその部分は次のように書かれている。
伊吹山の神を討ち取りに出でましき。「この山の神は、素手で直に取りてむ」とのらして、伊吹山に登りましし時に、白き猪、山の辺に逢へり。その大きさ牛のごとし。しかして、言挙げしてのらししく、「この白き猪に成れるは、その神の使者にあらむ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのらして、登りましき。ここに、大雨を降らして、倭建命を打ち惑はしまつりき。かれ、還り下りまして、玉倉部の清水に到りて憩ひましし時に、御心やくやく醒めましき。かれ、その清水を号けて、居醒の清水といふ。
日本書紀と古事記では、「大蛇」が「白き猪」に、「剣」が「素手」に、「大蛇の毒」が「大雨」に変っているだけで、ほぼ同じような物語である。しかし、さすがのヤマトタケルも終焉が近付いて、身も心も衰えてきている。それをより濃く表しているのは古事記の物語だと思った。
湧水は岩に固められた池になって、透き通った水が流れていた。湧き口らしき所に湯のみが置かれていたが、これだけの川をなすほどの湧水は見出せなかった。この池の複数個所から湧き出しているのかもしれない。
岩場の上部には加茂神社の社殿が見えた。そのすぐそばまで名神高速道路が迫って、かってもっと南にあった社殿がそこまで追いやられたようだ。
案内板によると、
水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで 芳州
雨森芳州(1668〜1775) 滋賀県高月町雨森出身
江戸時代の儒学者、教育者、外交家、26才の時木下順庵の推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮、中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折捗、応接に貢献する。その善隣友好、互恵対等のの外交姿勢は現在も高く評価されている。八十才で一万首の歌を詠む決意をした芳州は古今和歌集を千回も復読したという。この歌も、その中の一首である。
雨はやむ様子を見せない。一組の家族が車で来て地蔵堂に参り、水辺に下りていく。それを機に「居醒の清水」を後にした。向いのお寺は案内書にもあった門に鐘が吊るされているお寺であった。
(左写真)
お寺の名前は緑苔寺という。
案内書に確か古い郵便局舎があると書かれていた。どこで見過ごしたのかと地図を確かめると街道から少し入った所にあり、通り過ぎて来てしまった。戻ってみようと、醒井大橋まで300mほど戻って、橋を渡らずに右手に入った街中に旧醒井郵便局があった。
(右写真)
中には入らずに外からの見学にした。
案内板によると、
醒井郵便局
旧醒井郵便局は大正四年(1915)に米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって建てられた木造二階建の疑似風建築です。現在のこされているたてものは昭和9年(1934)に外側を木造モルタル張りの建物に改築されたもので、基本的な内部構造は創建時の建物を利用しています。平成十一・十二年度に実施した修理工事中には各所にその痕跡が認められました。尚、この建物は平成十年度に国の登録文化財に登録されています。
利 用 案 内
■入場料 大人(高校生以上)200円 小人(中学生以下)100円 ※ 問屋場と二館共通
■開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
■休館日 月曜日(月曜日が祝・祭日の場合はその翌日) 年末年始(十二月二十七日〜一月五日)
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
明治十三年(1880)米国に生まれる。二十四歳で英語教師として来日。近江兄弟社を設立しキリスト教の伝道活動をする。宗教以外にも各種芸術活動に携わり、中でも建築にはとりわけ熱心に取り組みヴォーリズ建築事務所を開設する。彼の関わった建築作品は全国各地に存在し、その数は一千件を越える。
戻り道で、現在も旅館業を営んでいるようで玄関右手に自然石の石燈籠がある、多々美家という旧旅籠
(左写真の左)
があり、続いて白壁、虫籠窓、連子格子の残る醤油屋さん
(左写真の右)
もあった。先ほど通った時には右側の地蔵川の清流ばかり気にしていて見過ごしたものであった。
「居醒の清水」を過ぎた先で、一組の中山道歩きの夫婦とすれ違った。折り畳み傘を差しただけの我々と違って、大きなザックまで覆う合羽を着て、完全防備の出で立ちである。足早に醒井宿に入っていく。今日はどこまで歩くつもりなんだろう。
午前10時16分
、やがて道は国道21号線に合流するが、中山道は右折して山沿いの道を行く。
(右写真)
その角に「中山道醒井宿」の新しい石碑
(右写真の円内)
と「中山道分間延絵図」の醒井宿の部分を描いた石碑が建っていた。良く見ると絵図には地蔵川も現在ある通りに描かれている。ここは醒井宿の東の桝形である。
米原町一色の集落を過ぎていく。右手山側に一里塚の標識が立っていた。
(左写真)
案内板によると、
一里塚
慶長九年(1604)江戸日本橋を元点に諸国の道の一里毎に、道の左右に一里塚を築かせた。
塚は五間四方で、塚上には榎(えのき)をうえさせた。ここ一色の一里塚には榎三本づつ植っていた。
左側に八幡神社があり、ケヤキの巨木が見えた。その先で国道21号線に出た。大きなサイコロ状の石を四つ積み上げて「左 中山道」と刻んだ標識があった。今歩いて来た一色の集落の旧街道に導く標識であろう。
国道を400mほど歩いて道路北側のコンビニに入った。雨は小降りになったり、篠突くようになったりしながら、止み間を見せない。飲料を購入し傘を差して先へ進む。国道の向こう側の山の斜面を削った一段高い所を名神高速道路が通っている。コンビ二のすぐ先で旧中山道は左手の国道の北側に入って国道に並行して進む。
この旧中山道には松並木が所々に残っていた。
(右写真)
またその先には紅葉した桜並木もあった。
すでに坂田郡山東町に入っていた。
午前11時09分
、旧道が国道と接する所に、梓河内のバス停がある。すぐそばの草むらの中に、「墓跡黒谷遺跡」の石標が立っていた。
(左写真)
そばに案内板もあるが、文字が消えてしまって読めない。黒谷遺跡の石標と隣に、「左 中仙道」の石碑があった。
この梓河内の集落は醒井と共に古代の東山道の「横川駅」の比定地とされている。近江国の鳥籠
(とこ)
駅と美濃国の不破駅の間に置かれた駅家
(うまや)
である。鳥籠
(とこ)
駅は歌枕の「床の山」の地である。不破駅は不破の関のあったところである。
梓河内には古い遺跡や縁のありそうな地名が幾つも残っている。その一つが黒谷遺跡である。「墓跡 黒谷遺跡」は「石垣を伴う三段の郭に土塁・石塁・空堀・竪堀等が残存」しているというが、近くにはそれらしきものもない。「墓跡」とあるから昔のお墓だったのであろう。道路などで地形がすっかり変ってしまい、黒谷遺跡も今は無いのかもしれない。
近くに石仏や五輪塔が沢山集められた祠が二ヶ所あった。
(右写真)
路傍やあるいは黒谷遺跡から出てきたものかもしれない。
すぐに杉林の山道に入る。左の道端に「集落跡 番の面遺跡」の石碑が立っていた。
(左写真)
山東町教育委員会の案内板によると、
山東町指定文化財 史跡 番の面遺跡
番の面遺跡は、昭和30年に京都学芸大学(現、京都教育大学)により発掘調査が実施され、後方の小高い丘陵から近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・石器などが発見されました。
竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その底面をたいらに整えて床とし、上部に屋根をかけたもので、番の面遺跡で発見されたものは一辺の長さが四m前後の方形をしており、その内に四本の柱の穴と、中央に炉の跡と思われるくぼみ(0.7×0.5m)が一個ありました。
土器は、中型の甕と思われる破片が多く発見されましたが、文様などから関東地方と深いかかわりを持っていたと思われ、また、石器類は、石鏃(矢の先に付けた矢じり)、石錐(いしのきり)、石斧(いしのおの)などが発見されましたが、石鏃の中には中部山岳地産の黒曜石で作られたものも含まれており、広い交流圏を持った遺跡といえます。
かっては旧中山道はもっと北側の山の中にあって、「粉河坂」と呼ばれた。しかし大正時代に現在の道が開けて、現在は「粉河坂」は廃道になっている。
杉林を抜けると左側から旧道の土道が合流する。その角に古い「小川関趾」の石碑があった。
(右写真)
「小川」は(こかわ)と読み、「古川」「粉川」とも書き、横川駅の横川が転訛して「こかわ」と称するようになったともいう。この辺りが「横川駅」と比定される理由の一つである。「小川関趾」は中世の関所跡である。
すぐ先の山東町長沢のT字路の角の人家石垣前に石標が一基あった。
(左写真)
一面に「従是明星山薬師(道)」、一面に「やくしへのみ(ち)」、もう一面に「屋久志江乃(みち)」と刻まれていた。いずれも一番下の文字はアスファルト路面の下に隠れていて、この通りかどうかは判らない。漢字、ひらがな、変体仮名の3種類の文字で書き分けられている。
この石標はこれより南へ名神高速道路を越えた先にある、岩ケ谷の明星輪寺(西薬師)のことを指している。
雨の中を歩いて行くと、左側の山際に松の幼木が一列に植えられていた。
(右写真)
案内板には「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹」、また「柏原学区史跡保存会 平成14年(2002)3月」と書かれていた。ごく最近に植えられたものである。
柏原宿に近づいて街道に松並木が何本か残っていた。中には幕末に混植された楓も混じっている。
(左写真)
途中に「北畠具行卿墓」の看板があった。400mほど山の中に入った所にあるようだ。雨も降るし、道草は止めた。
北畠具行卿は御醍醐天皇に仕え、倒幕に立ち上がったが笠置山で捕えられ、バサラ大名で知られる京極道誉により、鎌倉に護送される途中幕命が下り、近くの「首切三昧」と呼ばれる所で斬首された。
すぐそばにカシワの木が植えられて、「柏原区里の木かしわの木」と刻んだ石柱が立っていた。
(右写真)
納得の里の木選定である。
松並木の中、道路脇に「ここは中山道柏原宿」の石碑を見た。そして、松並木の終りに西見付の案内板があった。
案内板によると、
柏原宿西見付(入口)
ここから東へ拾三丁(約1500メートル)柏原宿が始まる。昔も今も殆んど変っていない。
さらに、一里塚跡の案内板の南側に、新しく築いた一里塚が出来ていた。
(右写真)
植えられた幼木はやはりエノキであろう。
案内板によると、
一里塚跡
徳川家康・五街道を整備し、一里毎に一里塚を設けて旅人の便を計った。道の両側に五間四方、土盛りをして榎が植えられていた。
午前11時44分
、柏原宿の入口に常夜燈が一基立っていた。
(左写真の左)
雨がアスファルト道路を濡らし、町はもやにけむっている。
柏原宿に入って最初の右側黒板塀の加藤家は郷宿跡であった。
(左写真の右)
案内板によると、
郷宿跡
柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた。
右折する細い道の角に、先ほど山東町長沢で見たのと同じ「従是明星山薬師道」の石標があった。
(右写真)
長沢の道標は京からきた人のため、この道標は東から来た人のためのそれぞれ案内標識である。
案内板によると、
やくし道「道標」
明星山明星輪寺泉明院こと通称西やくし、寺は門徒も四散、衰退しているが、往時は仲々賑わったお寺。この道標は享保二年(1717)と陰刻され、案内も三字体と非常に珍しく、滋賀県下でも道標として古いものの一つであり、枝郷長沢にも同型のものが現存している。
右側に立派な造りなのだが崩れかかっている屋敷があった。柏原銀行跡という。
(左写真)
いずれ町で改修するんだろうと女房と話した。街並みを残すためには是非とも必要な建物であろう。
案内板によると、
柏原銀行跡
明治中頃山根氏によって開業、長岡及岐阜県今須村(関原町)に支店を出す。昭和の初期廃業、現滋賀銀行の先駆となる。
正午
、左側に屋根が幾重にも重なった民家を改造した「柏原宿歴史館」があった。
(右写真)
大正6年建築の旧松浦久一郎邸を改築したものだという。雨宿りを兼ね、300円の入館料を払って入った。館内では江戸時代の柏原宿の史料を保存展示して紹介している。
奥の展示館二階には広重の「木曽海道六拾九次」の複製が六十九次すべて展示されていた。「木曽海道六拾九次」の版画は歌川広重と渓斎英泉の合作だと言われている。東海道五十三次の版画とは明らかに違う絵だと思った。柳の下に2匹目の泥鰌を狙ったのであろうが、東海道五十三次に見た斬新な構図など画面に張り詰める何かが、「木曽海道六拾九次」には欠けていると思った。
また館内では「郷土出身の映画監督 吉村公三郎と吉村家の人々」という企画展をしていた。祖父で柏原宿の庄屋役や滋賀県県議であった逸平、父で広島市長であった平造、吉村公三郎の兄弟なども色々な史料で紹介されていた。
吉村公三郎監督は柏原を故郷に持ち、父の任地の関係で住所を転々と変えた。1929年松竹蒲田撮影所に入り、「源氏物語」「自由学校」「偽れる盛装」「夜明け前」「夜の河」「暖流」「足摺岬」「越前竹人形」など数々の名作の監督をつとめた。和室の方にはそれらの映画のポスターが沢山展示されていた。
すでに
午後1時近く
になっていたので、出口西側の「軽食喫茶 柏」に入った。メニューに「やいとうどん」というのがあった。柏原宿の名物は「もぐさ」である。ならば、「やいとうどん」を食さない訳にはいくまい。出て来たうどんは、もぐさの代わりのおぼろ昆布を大きな「やいと」の形に積み上げ、火種の代わりに刻んだ紅生姜が載っている。
(左写真)
これで400円。
「喫茶 柏」には地元の中年親父達がたむろしていて、話し掛けてくる。今日は雨であるが、清瀧寺の紅葉だか桜だかは素晴らしいと話す。近在から見に来る客が絶えないと自慢する。
清瀧寺は柏原宿より北西へ1kmの山東町清滝にある。清瀧は近江の佐々木一族の京極氏代々の居城の地である。清瀧寺徳源院は京極氏代々の菩提寺であった。京極家の歴代の墓所である。
柏原宿歴史館の出口に「やいと祭」の黒いポスターが張られていた。
(右写真)
まちのあちこちに張られていたポスターである。「やいと祭」は11月22日〜23日に催される。柏原宿の名物「いぶきもぐさ」をメインテーマに行われる町興しの祭である。やいとの体験コーナーもあるのだろうか。
柏原宿で伊吹もぐさ(艾)を売る店は往時には10軒を越えたという。確かに家々の表に昔の屋号を書いた板があり、その中に艾屋の表示が多い。
現在、残るのは「伊吹堂亀屋左京」
(左写真)
一軒のみと聞いていた。その亀屋左京は「木曽街道六拾九次」の柏原にずばり店先が描かれている。「亀屋」と「薬艾」の文字もしっかり描かれている。何しろ行商で江戸へ下って、吉原の遊女に「江州柏原の伊吹山の麓 亀屋左京の切り艾」と謡わせ、コマーシャルソングの初まりといわれたほどだから、流行の街道版画に自分の店を載せるべく画策する位のことは朝飯前であろう。
街道右側に古い大きな町屋があり、二階軒下に「伊吹堂」の看板が掲げられていた。
(左上写真の方形内)
しかしお店は「改修中」ということで、しっかり閉じられていた。未練たらしく格子の間から覗こうとしたが、内部を窺い知ることは出来なかった。版画にも描かれ有名な大きな福助人形も見ることが出来なくて大変に残念であった。
やがて街道は市場川を渡る。この橋は吉村公三郎監督縁の橋として看板が出ていた。
(右写真)
これは柏原宿歴史館の企画展に合わせた臨時の看板のようであった。
案内板によると、
吉村公三郎監督の「初恋橋」
若き日の思い出の橋。監督作品「地上」(川口浩・野添ひとみ共演)を生んだ。
その橋を渡ったすぐ左に柏原宿に入って二つ目の秋葉山の常夜燈がある。
(左写真)
そこはかって高札場のあった所だという。
案内板によると、
柏原宿高札場跡
徳川幕府時代各村々に、必ず一ヶ所高札場
(現公示板)
が設けられ、藩主の名に於て制札が掲示されて来た。総桧木造りの立派なものであった。
また、その先左手には「問屋役年寄吉村逸平」の看板と「映画監督吉村公三郎の実家」
(右写真)
の看板があり、柏原宿の詳しい案内板があった。
柏原宿整備調査委員会・山東町教育委員会の案内板によると、
中山道 柏原宿
ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿で東海道と合流)の内六十一番目になり、約百十二里(一里は約3.9キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。
江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。
幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は一軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(1420メートル)は十番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。
しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。
現在、一軒も残っていないのは残念である。
本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ヶ原から番場までの五宿は、それぞれ六、七軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった。
この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである。
柏原の総社は、野瀬の神明神社である。
又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は三十ヶ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。
中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。
宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。
また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。
この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。(後略)
雨は止みそうにないし、柏原宿歴史館を出るときから、少し早いが今日はJR柏原駅までとしようと女房と話してきた。
午後1時31分
、駅は間もなく左折してすぐのところにあった。駅舎に「柏原驛の由来」という案内板が出ていた。もちろんこの「柏原驛」はJR柏原駅のことではない。現代でいえば “道の駅” といった方が近いかもしれない。案内板は文語調で理解し難いかもしれないが、書き写す。
案内板によると、
柏原驛の由来
今中山道の驛次なり。往古より驛路の鈴の鳴り傳ふるは此驛也。古昔木曽口は青墓。美濃口は大熊、上は四十九院・小脇へ驛路の鈴を傳へしと也。野上・小野等の驛は後世の事也とぞ。今町數二十三町家五百軒餘、村高二千百五十石餘あり、總じて此町東を柏原町といひ、西を箕浦町といふといへり。然れどもおしなべて柏原といふ。古老の曰く、此の地を柏原と號する事は、毎年正月御歯固の餅を長二寸六分幅一寸八分に製し、柏の葉に盛りて獻ぜしより地名となる云々と。臣按ずるに食物を柏の葉に盛る事珍しからず上古の常也。膳を今にかしはでといふも其意也。柏にもればとて此地計りを柏原とはいふべからず。いかにも此餅は色紙餅とて近江火鑚(ひきり)の餅といへる是也。元日歯固に近江火鑚の餅を用ふる事諸書に見えたり、審に土産門に出す。坂田めとて雑煮に入る物も此柏原の中の長澤といへる處の根芹也と深草元政の説にも見えたり。今此地にて多く伊吹山の蓬艾を賣る也。
ふく風は まだ来ぬ秋を 柏原 はびろが下の 名には隠れず 一條兼良
おひくだる 山の裾のゝ 柏原 もとつ葉交り 茂るころかな 冷泉為相
今回、2日間の歩数は
51,711歩
、一日目の歩数は
32,115歩
、二日目は
19,596歩
であった。
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