

“「車返しの坂」から「常盤御前の墓」の間 今須宿” |


JR東海道本線の柏原駅で下車。駅広場に立つと駅舎の上に伊吹山が稜線付近に雪を残して見えた。(左写真)雨に追われた前回に見残したものがあってはと思い、宿場に入って「柏原宿歴史館」あたりまで戻ってみた。もぐさ屋の「伊吹堂」は今日も閉じられたままであった。「福助人形」には今日も会えなかった。その他は見覚えのある町並に見落としは無さそうであった。
午前9時56分、本日の出発点、柏原宿と駅への道の交差点に戻る。すぐ左手に八幡神社があった。(右写真)桧皮葺の社前に、立派な裸馬の銅像があった。奉献と書かれているが、謂れは判らない。
柏原宿の外れの左側に、「照手姫地蔵堂」があった。(左写真)中世の仏教説話の「小栗判官・照手姫」に基づく伝説が、少しづつ形を変えて、各地に伝わっている。これもその一つである。堂内に大小の地蔵が祀られていた。(左写真の円内)
街道はやがてJR東海道本線の踏切を渡る。杭状の道しるべに「白清水 0.2km」、「寝物語の里 1.0km」とある。「寝物語の里」への道が右へ東海道本線に沿って進む中山道である。「白清水」へは左へ山に沿って進む。
「白清水」は右側の道路側溝からすぐの山側にあった。(右写真)今は湧水も無く捨て置かれた感じであった。
街道には両側に100年以上経ったと思われる楓の並木の名残が続いていた。(左写真)
すぐ先の左手には小公園があって、「寝物語の里」の石碑と「寝物語の由来」碑文があった。(右写真)
近江と美濃の国境は細い溝一本で区切られている。(左写真の中央)現在もその溝が滋賀県と岐阜県の境になっている。どうしてこんな中途半端なところが国境になってしまったのかが判らない。
午前10時42分、滋賀県から岐阜県に入る。滋賀県を抜けるのに5日と半日掛かったことになる。
東海道線の踏切を越えると今須宿に入る。美濃に入って最初の宿場である。道路のすぐ右の一段高い山裾にほんの少し旧中山道が残っていて、(左写真)上に「車返地蔵堂」があった。(右下写真)石柱に「舊蹟 車返 美濃国不破郡今須村」と刻まれていた。
今須宿に入って、立派な常夜灯をいくつか見た。写真左端と2番目の常夜灯は人家の間の一角に一段高く石を積んだり、ブロックで囲ったりされて、注連縄をつけて祀られている感じである。右から2番目の常夜灯は集会所のような建物の前の小広場にあった。右端の常夜灯は人家の木塀を内に引っ込めて出来た方形の空間に立っていた。最後の常夜灯には案内板があった。
往時の連子格子の町屋で唯一残っているのは問屋場であった山崎家だけであった。(左写真)
問屋場跡から100mほど進んだ四つ角を左折すると突き当りに曹洞宗の妙應寺がある。道元の弟子峨山が開山した古刹である。国道21号線と東海道本線のガードを潜った先にある。ガード下を歩く参詣者がシルエットになって面白い。(右写真)
四つ角に戻って進み、今須宿の東の外れ、今須橋の手前右に、宿最後の常夜灯が立っていた。(左写真の左)街道はやがて国道21号線と合流する。国道右側に新しく作られた一里塚(左写真の右)を見て街道はすぐに国道より左側に分かれていく。角には「これより中山道 関ヶ原宿山中 関ヶ原町」の標識が立っていた。
道は下ってJR東海道本線の下り線の踏切を渡る。この辺りにもカメラの男達がいる。山中の集落に入って、小さな祠を見つけた。(左写真)何やら白い文字で四文字の漢字が書かれている。当初は判読出来ずに通り過ぎたが、この跡の「常盤御前の墓」まで来てこの文字は右から左に「常盤地蔵」と読むのだと判った。常盤御前を祀ったお地蔵さんであった。
常盤地蔵のすぐ先で北側の山が切れてJR東海道本線の背後に、今朝、柏原駅頭で見た伊吹山が再び見えた。(右写真)
午後0時05分、車道から左に別れて少し入った左、人家に囲まれた小広場に、何本かの古木に囲まれて常盤御前の墓はあった。(左写真)二つの小さな宝篋印塔が並んでいる。どちらが常盤御前の墓なのかは判然としないが、一つは乳母の千草のものであろうか。
地名通りの山の中の集落には藁屋根の人家もある。(右写真)庭に白梅や紅梅が満開のところもあった。
東海道新幹線のガードを潜った先の右側の川を覗き込むと形のよい滝が見えた。「鶯の滝」と呼ばれている。(左写真)
滝とは反対側に二つの祠が並んでいた。(左写真)左が「鶯瀧地蔵菩薩」、右が「黒血川地蔵尊」とそれぞれ扁額に書かれていた。日本のお地蔵さんは変幻自在、何にでも節操なく化けてしまう。今日だけでも「照手姫笠地蔵」「車返地蔵堂」「常盤地蔵」「鶯瀧地蔵菩薩」「黒血川地蔵尊」と続いてきた。
「鶯瀧地蔵菩薩」は判るが「黒血川地蔵尊」が判らない。疑問に思って進むがその疑問はすぐに解けた。
続いて左側に石段があってカメラを担いだ青年が登っていく。(左写真)若宮八幡神社の参道である。JR東海道本線を越えた山裾に社殿があるようだ。街道際に石柱が立ち、「宮上 大谷吉隆陣地」と読めた。関ヶ原といえば天下分け目の関ヶ原合戦が思い浮かぶが、これが最初の関ヶ原合戦の史跡である。
3分ほど進んだ道路右側に「弘文天皇御陵候補地跡」及び「自害峰の三本杉」の道標があり、右手の山道を指している。いずれにも「150m 3分」と書かれていた。
街道に戻ってすぐ先に「矢尻の井」の標識を見つけた。(左写真)右手の旧道をほんの少し戻った左側に「矢尻の井」があった。これも壬申の乱関連の歌枕となっている。
中山道は少し下って藤古川を渡る。(右写真)ここも関の藤川と呼ばれた歌枕である。土手に桜と梅が交互に植えられて、今は梅の白い花が満開であった。
午後0時50分、街道が段丘上に登って左手に不破関資料館があった。(左写真)100円の入館料を払って入る。
不破の関は701年に置かれ、789年には廃止されている。置かれていた時期はわずか90年足らずであるが、それから1200年の間、関守が絶えることなく不破関址を守りつづけてきた。同時期にあり三関と呼ばれた鈴鹿関、愛発関が今ではその場所さえも不明であるのと比べると、大きな違いである。不破関は元々軍事的な施設であったが、この交通の要所で軍事施設のままであったならば、いくつもの時代を越えて、守りつづけられることは不可能であったであろう。幸いにも不破の関から軍事色は消えて歌枕となった。それぞれの時代の文化人達がこの地をこよなく愛し、この歌枕の地を訪れ守ってきた。だから現代まで細々ながら繋がってきたのだと思う。
街道に戻ってすぐ右手に白壁の塀と門があり、「不破関舊跡」の石柱が立ち案内板があった。(左写真)門は閉じられて見学者を迎えてくれそうになかった。




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