第 6 回 〔前半〕
平成16年3月21日(日)
晴れ
柏原宿−寝物語の里−今須宿−不破の関−
“近江と美濃の国境は細い溝 寝物語の里(山東町長久寺)”
“「車返しの坂」から「常盤御前の墓」の間 今須宿”
ムサシは当家の愛犬である。一昨年の4月生まれで、6月に当家にやって来た。だからもうじき2歳である。当家にやって来た経緯は「旧東海道夫婦旅」の第20回に書いた。
今もまだ当家の2階で一番広い洋間を一人(匹)で専有している。女房は夜も外に出して飼いたいというが何時になることであろうか。
犬を飼わない前は何を考えているかわからない犬畜生と言う意識しかなかったが、飼ってみて彼の小さい脳でも考えることをいっぱい持っていることに気付かされた。
まず家族(群)の中での自分の序列をはっきりして置かねばならない。もっとも序列は時々変わるようだが。怖いもの、嫌いなものの認識をはっきりして置かねばならない。来たばかりの時階段から落ちかけて、彼にとっては階段は怖いところである。二階で放しておいても決して下へ降りてくることはない。水が身体に掛かることが嫌いである。散歩の途中雨が降ると空を見上げて動かなくなる。水溜りに入って行けないから迂回する方法を探す。身体をシャンプーする時は仕方なく身を任せ、借りてきた猫のように大人しくなる、等々。女房から仕入れた話である。
前回、雨に降られて醒井宿から柏原宿までの一宿しか進まなかった。あれから四ヶ月半ほど経って、ようやく中山道に出かける機会ができた。幸いと今年は花粉症も症状がほとんど出ない。去年の夏が冷夏だったため、今年は軽くて済んでいる。しかし、今日も目薬だけは準備して出かけてきた。
JR東海道本線の柏原駅で下車。駅広場に立つと駅舎の上に伊吹山が稜線付近に雪を残して見えた。
(左写真)
雨に追われた前回に見残したものがあってはと思い、宿場に入って「柏原宿歴史館」あたりまで戻ってみた。もぐさ屋の「伊吹堂」は今日も閉じられたままであった。「福助人形」には今日も会えなかった。その他は見覚えのある町並に見落としは無さそうであった。
午前9時56分
、本日の出発点、柏原宿と駅への道の交差点に戻る。すぐ左手に八幡神社があった。
(右写真)
桧皮葺の社前に、立派な裸馬の銅像があった。奉献と書かれているが、謂れは判らない。
さらにその先の左には人家に挟まれて、お堂と自然石の石燈籠、石碑らしきものや庭石が集められ、「寺院跡 竜宝院遺跡」の石柱が立っていた。竜宝院がどんなお寺であったのか。由緒のあるお寺なのだろうか。「?」を付けたまま過ぎる。
柏原宿の外れの左側に、「照手姫地蔵堂」があった。
(左写真)
中世の仏教説話の「小栗判官・照手姫」に基づく伝説が、少しづつ形を変えて、各地に伝わっている。これもその一つである。堂内に大小の地蔵が祀られていた。
(左写真の円内)
山東町大字柏原壱丁目の案内板によると、
「照手姫笠地蔵と蘇生寺」由来記
地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠地蔵」と云う。
現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った。蘇生寺の本尊ということから「蘇生寺笠地蔵」ともいう。中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。
昔、常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、狂女のようになり、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。
立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ
勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。これを「蘇生寺」と云う。近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが、慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り、「照手の笠地蔵」として親しまれてきた。
この辺りには照手姫に関わる伝承地として、大字長久寺に「狂女谷」が地名として残り、姫の白粉のため水が白く濁ったという「白清水」などがある。
以上が柏原に伝わる説話であるが、他所のそれは照手が夫と知らず供養のための車引きであり、青墓から大津までとなっている。この様に話は若干異なるが本筋では変らず、夫婦愛に基づき夫の車を引く照手の素朴な庶民的なここの伝承は、もっとも仏教説話に相応しい物語である。
江戸時代の民衆は、教科書で学んできたこととは違って、意外と全国をうろうろ動き回っていたことが判ってきた。照手姫の仏教説話が流布すると、それに触発されて熊野詣に出かける人々も多かったに違いない。現代でいえば大河ドラマで取り上げられた地に縁を求めて旅をするようなものである。もちろん宗教心に裏打ちされているとはいえ、物見遊山の旅の要素も強かった。おそらく仕掛人がいて高野聖のように全国を巡る人達が広めたのであろう。
街道左側に楓の並木が残っていた。街道の並木は松だけではなかったようで、このあたりの並木には楓をよく見る。
街道はやがてJR東海道本線の踏切を渡る。杭状の道しるべに「白清水 0.2km」、「寝物語の里 1.0km」とある。「寝物語の里」への道が右へ東海道本線に沿って進む中山道である。「白清水」へは左へ山に沿って進む。
「白清水」は右側の道路側溝からすぐの山側にあった。
(右写真)
今は湧水も無く捨て置かれた感じであった。
山東町教育委員会の案内板によると、
白清水
小さな泉で、古くより白清水または玉の井と呼ばれています。
「古事記」に、倭建命が伊吹山の神に悩まされ、この泉で正気づいたとあり、また、中世仏教説話「小栗判官照手姫」に、姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水というようになったとあります。
踏切まで戻って先へ進む。坂道を上るとほどなく左側に神明神社がある。鳥居脇に杉の巨木が見えた。
(左写真)
赤くなった樹叢に恐れをなして遠くから写真を撮るに止めたが、幹周りは3m以上ありそうである。この「神明神社のスギ」を「柏原宿の巨木」としよう。鳥居の左手から林間に山道が延びていて、「東山道の名残」の標識があった。人の通りそうにない道が草が刈られてきれいに整備されていた。何かのイベントがあったのかもしれない。
先刻の案内板によれば、「照手姫笠地蔵」は「JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った」と書かれていた。確かに一段高い平地があり、そこには「法華塔」と刻まれた石碑一つ置かれていた。
(左写真の右上隅)
「大乗妙典一百部讀誦 玄端女」とあった。
街道は左手に山が迫り、右手のJR東海道本線に挟まれた間を行く。辺りが妙に明るいのは山が落葉樹あるいは草地のためである。草地の山の斜面に石碑が立ち、「弘法大師御佗水」と刻まれていた。
(右写真)
今は水がかれているが、往時は湧水があって旅人に飲み水を提供していたのであろう。
街道には両側に100年以上経ったと思われる楓の並木の名残が続いていた。
(左写真)
やがて中山道は山東町長久寺の集落に入る。ここが有名な「寝物語の里」である。この集落で溝一つを境にして、近江と美濃に分かれている。その両側に旅籠が接していたからややこしい。それぞれ別の国にいて両者が寝ながら話が出来るほど近かったのである。
右側の長久寺集会所前に「ここは中山道 寝物語の里」の標識と案内板があった。
案内板によると、
寝物語の里
大字長久寺を言う。
江濃国境の近江側に「かめや」、美濃側に「両国屋」と言う旅籠屋が狭い溝一つ隔てて、寝乍ら話ができたことから寝物語、つまり此の地を寝物語りの里と言う。
又静御前・常盤御前等義経ゆかりの伝承も生まれた里である。
すぐ先の左手には小公園があって、「寝物語の里」の石碑と「寝物語の由来」碑文があった。
(右写真)
案内碑文によると、
寝物語の由来
近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。
ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道潅
近江と美濃の国境は細い溝一本で区切られている。
(左写真の中央)
現在もその溝が滋賀県と岐阜県の境になっている。どうしてこんな中途半端なところが国境になってしまったのかが判らない。
近江側には石柱に、「近江美濃両国境寝物語 近江国長久寺村」と刻まれていた。
(左写真の右側)
また、美濃側にも石柱が立ち、「舊蹟 寝物語 美濃国不破郡今須村」と刻まれていた。
(左写真の左側)
女房が二つの国にまたがって、ポーズ。今まで何人の旅人がこんなポーズをとったことであろうか。
午前10時42分
、滋賀県から岐阜県に入る。滋賀県を抜けるのに5日と半日掛かったことになる。
岐阜県に入ってすぐの左側に小公園
(右写真)
があり、大きな自然石に刻んだ芭蕉の句碑があった。
正月も 美濃と近江や 閏月
芭蕉翁顕彰会の記念碑文によると、
貞享元年十二月、野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため、熱田よりの帰路、二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟
ちなみに後日調べたが、この句は「野ざらし紀行」には載っていない。ここで休憩をとっていると老夫婦が車でやってきて、どうやらこの碑を見に来たようであったので、場所を譲って先へ進んだ。
東海道線の踏切を越えると今須宿に入る。美濃に入って最初の宿場である。道路のすぐ右の一段高い山裾にほんの少し旧中山道が残っていて、
(左写真)
上に「車返地蔵堂」があった。
(右下写真)
石柱に「舊蹟 車返 美濃国不破郡今須村」と刻まれていた。
関ヶ原町の案内板によると、
車返しの坂
南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破の関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基という人。
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。
二条良基はときの摂政関白、廃止されて久しい不破関に来ると聞いて、不破の関守は見苦しいものを見せては申し訳ないと、荒れ果てた関屋を修理して関白を迎えようとしたのである。それをこの地まで来て聞いた良基はがっかりして歌を残し、京へ引き返してしまった。
葺きかえて 月こそもらぬ 板庇 とく住みあらせ 不破の関守
えらい人が来ると道が綺麗になるという話は現代でもよく聞く。昔、南アルプスの千枚岳から赤石岳を縦走したとき、その次の週に皇太子さんが登られるということで、登山道が整備されていて有難かったのを思い出す。さらに、観光地を整備しすぎて野趣を失い、観光客の足が遠のき閑古鳥が鳴いている観光地もよく目にする。今も昔も日本人の思考回路は変っていないということであろう。
今須宿に入って、立派な常夜灯をいくつか見た。
写真左端
と
2番目
の常夜灯は人家の間の一角に一段高く石を積んだり、ブロックで囲ったりされて、注連縄をつけて祀られている感じである。
右から2番目
の常夜灯は集会所のような建物の前の小広場にあった。
右端
の常夜灯は人家の木塀を内に引っ込めて出来た方形の空間に立っていた。最後の常夜灯には案内板があった。
関ヶ原町の案内板によると、
常夜灯
街道が賑わっていた江戸期は、文化五年(1808)のことです。
京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿附近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。そこで金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りをしました。
幸いに荷物は出てきて、そのお礼にと建立したのがこの常夜灯です。
午前11時10分
、今須宿の町並は、往時の建物はほとんど残っていないが、旧街道の雰囲気を感じることの出来る町並である。
(右写真)
往時の連子格子の町屋で唯一残っているのは問屋場であった山崎家だけであった。
(左写真)
関ヶ原町の案内板によると、
問屋場
江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。
美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。
縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。
問屋場跡から100mほど進んだ四つ角を左折すると突き当りに曹洞宗の妙應寺がある。道元の弟子峨山が開山した古刹である。国道21号線と東海道本線のガードを潜った先にある。ガード下を歩く参詣者がシルエットになって面白い。
(右写真)
この四つ角を右折すると突き当たりが今須小学校である。その右側の駐車場前、三色すみれが咲き乱れる花壇に、本陣跡と脇本陣跡をそれぞれ案内する立て札が2本立っていた。幼い文字は小学生が書いたもののようだ。
立て札によると、
中山道今須宿 本陣跡
本陣は一つあり学校の駐車場と改善センターの東隣りにありました。本陣には身分の高い人がとまり二百十五坪ありました。昔からさいている紅梅という花がいつまでも今須小学校の門の前にのこっています。
立て札によると、
中山道今須宿 脇本陣跡
今須宿は他の宿とちがって、脇本陣が二つありました。脇本陣があった場所は、農協の辺りと、改善センターの辺りにありました。脇本陣とは、本陣にお客さんがいっぱいになった時の予備の宿のようなもので、身分の高い人がとまりました。
本陣にあった紅梅が今も古木となって小学校校舎の前庭に保存されていた。
(右写真)
そして開きかかった赤い蕾をたくさんつけていた。
(右写真の円内)
四つ角に戻って進み、今須宿の東の外れ、今須橋の手前右に、宿最後の常夜灯が立っていた。
(左写真の左)
街道はやがて国道21号線と合流する。国道右側に新しく作られた一里塚
(左写真の右)
を見て街道はすぐに国道より左側に分かれていく。角には「これより中山道 関ヶ原宿山中 関ヶ原町」の標識が立っていた。
この辺りは中山道で今須峠と呼ばれている。地図をみると峠道の下をJR東海道本線の今須トンネルが通っている。今須トンネルは上りと下りが別のトンネルになっていて中山道はその二つのトンネルの間を進んで行くようだ。先ほどから大きなカメラを担いだ男達に何度か出会った。この2本の今須トンネルの辺りが電車の撮影ポイントになっているのであろう。間もなく右下に下り線のトンネル入口が見えた。
(右写真)
石を積み上げた古い立派なトンネルの構えであった。
道は下ってJR東海道本線の下り線の踏切を渡る。この辺りにもカメラの男達がいる。山中の集落に入って、小さな祠を見つけた。
(左写真)
何やら白い文字で四文字の漢字が書かれている。当初は判読出来ずに通り過ぎたが、この跡の「常盤御前の墓」まで来てこの文字は右から左に「常盤地蔵」と読むのだと判った。常盤御前を祀ったお地蔵さんであった。
常盤地蔵のすぐ先で北側の山が切れてJR東海道本線の背後に、今朝、柏原駅頭で見た伊吹山が再び見えた。
(右写真)
常盤御前は源義朝の妾となり、今若丸(後の頼朝)、乙若丸(範頼)、牛若丸(義経)の3人の子供をなした。源義朝は1159年(平治元)に起きた平治の乱に敗北し殺されたてしまい、捕えられた常盤御前は宿敵平清盛の妻となるのと引き換えに、3人の子供たちの命を守った。
その後時代が移り、常盤御前はみちのくへ落ちて行った末子の牛若丸を追って、不破の跡の手前(関ヶ原山中)まで来て、付近の土賊に襲われ命を落とす。
義経の人生でみちのくへ落ちていく時が2度ある。一度目はまだ牛若丸と呼ばれていた時代、鞍馬山から金売り金次に導かれて奥州へ落ちて行くときで、義経はその途中で元服している。二度目は、源氏の旗上げ、源平の合戦、平家の滅亡と時代が動き、今度は兄頼朝に追われ奥州へ逃れ、衣川で藤原泰衡の裏切りに遭って最期を迎えることになる。
常盤御前が我が子を追ったのはこのどちらかなのだが、インターネットで調べると両説あってややこしい。常盤御前の最期の時ともなるので大問題である。来年はNHKの大河ドラマは「義経」と決まったが、この辺りはどのように描かれるのであろうか。
午後0時05分
、車道から左に別れて少し入った左、人家に囲まれた小広場に、何本かの古木に囲まれて常盤御前の墓はあった。
(左写真)
二つの小さな宝篋印塔が並んでいる。どちらが常盤御前の墓なのかは判然としないが、一つは乳母の千草のものであろうか。
関ヶ原町の案内板によると、
常盤御前の墓
都一の美女と言われ、十六歳で義朝の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ仕方なく清盛の側室となります。
伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。
常盤御前の墓の背後には芭蕉の句碑があった。
義朝の 心に似たり 秋の風
この句は「野ざらし紀行」に、
「今須・山中を過ぎて、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武が言いける「義朝殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。われもまた、」
と書いた後に出てくる。
地名通りの山の中の集落には藁屋根の人家もある。
(右写真)
庭に白梅や紅梅が満開のところもあった。
東海道新幹線のガードを潜った先の右側の川を覗き込むと形のよい滝が見えた。「鶯の滝」と呼ばれている。
(左写真)
関ヶ原町観光協会・関ヶ原歴史を語る会の案内板によると、
鶯の滝
旧中山道の山中村は、古くは東山道の山中宿でもあった。荷を運ぶ馬をひく馬子や、駕籠をかく人夫たちが杖を立てて休む立場もあった。
今須峠をのぼる人や、峠をこしてきた旅人にとって、ここには旅の心を慰める珍しい滝があった。滝の高さは一丈五尺(約4.5メートル)と記録されており、水量も豊かであった。何より冷気立ちのぼり、年中、鶯の鳴く、平坦地の滝として、街道の名所のひとつとなった。
室町期の文学者で、関白太政大臣でもあった一条兼良は、次の歌を詠んでいる。
夏きては なく音をきかぬ 鶯の 滝のみなみ(南)や 流れあふらむ
案内板にはないが、この滝はかって馬糞の滝とも云われ、牛馬の往来が盛んだったころは牛馬の糞が雨水で滝に流れ落ちて汚かったという。牛馬の往来が絶えた現在は清流が流れているように見える。ふと思いついたのだが、鶯の滝は水が鶯色に濁っていたので付いた名前かもしれない。まさかねとは思うが。
滝とは反対側に二つの祠が並んでいた。
(左写真)
左が「鶯瀧地蔵菩薩」、右が「黒血川地蔵尊」とそれぞれ扁額に書かれていた。日本のお地蔵さんは変幻自在、何にでも節操なく化けてしまう。今日だけでも「照手姫笠地蔵」「車返地蔵堂」「常盤地蔵」「鶯瀧地蔵菩薩」「黒血川地蔵尊」と続いてきた。
「鶯瀧地蔵菩薩」は判るが「黒血川地蔵尊」が判らない。疑問に思って進むがその疑問はすぐに解けた。
続いて鶯の滝のある川に流れ込む小さな支流を渡る。その橋の袂に黒血川の案内板があった。
(右写真)
関ヶ原町観光協会の案内板によると、
黒血川
壬申の乱(672)のとき、関の藤川の西岸の近江軍、東岸に吉野軍が布陣し、対峙していました。
「日本書紀」によりますと、七月の初め近江軍の精鋭が玉倉部をつき、吉野軍がこれを撃退します。これを機に吉野の大軍は藤川を越えて、近江の国へ進撃を開始します。
この時の激戦で、この山中川は両軍の血潮で黒々と染まったといいます。その後、川の名も黒血川と変り、激戦のようすを今に伝えています。
白波は 岸の岩根に かかれども 黒血の橋の 名こそかはらね
(室町時代の文学者 関白太政大臣 一条兼良)
歴史はいきなり千年遡って壬申の乱である。しかし当地にとっては、壬申の乱も常盤御前も中山道の賑わいもすべて同列の昔の出来事なのであろう。
続いて左側に石段があってカメラを担いだ青年が登っていく。
(左写真)
若宮八幡神社の参道である。JR東海道本線を越えた山裾に社殿があるようだ。街道際に石柱が立ち、「宮上 大谷吉隆陣地」と読めた。関ヶ原といえば天下分け目の関ヶ原合戦が思い浮かぶが、これが最初の関ヶ原合戦の史跡である。
裏切りと策謀が渦巻いた関ヶ原の戦いは、戦争に好き嫌いもないが、個人的にはあまり好きではない。その中にあって、大谷吉継(吉隆)の関ヶ原の戦いに見る挙手振舞は見事と賞賛に値する。秀吉の小姓時代からの無二の親友の石田三成の決起を無謀と諌めながら、決意が固いと知ると、病をおして最後まで奮戦し、自刃して果てた。その大谷吉継の陣跡と墓が若宮八幡神社の山上にあるという。
街道は一度、国道21号線に出るがすぐに右手に分かれる。その別れ道に「これより中山道 関ヶ原宿藤下 関ヶ原町」の標識が立っていた。
3分ほど進んだ道路右側に「弘文天皇御陵候補地跡」及び「自害峰の三本杉」の道標があり、右手の山道を指している。いずれにも「150m 3分」と書かれていた。
山道は左側の山を巻くように付いていて、少しずつ山の中に登っていく。途中先ほど見た「黒血川」の案内板と同じものが立っていた。右のはるか下の谷川が先ほどの黒血川の下流になるのであろう。やがて前方の林に紛れて3本に分かれた杉の巨木が見えてきた。
(右写真)
杉のそばに「天然記念物 自害峰の三本杉」の木杭標識とともに、2枚の案内板が立っていた。
関ヶ原町の案内板によると、
自害峰
壬申の乱に敗れた弘文天皇は大津の山前で自害されました。東軍の武将 村国男依は天皇の首をいただき、不破の野上に帰り、天武天皇の首実検のあと、この丘陵に葬ったと伝えられています。
関ヶ原町の案内板によると、
町天然記念物 自害峰の三本杉
壬申の乱(672)は天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いでした。
その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。
天智天皇というと大化の改新の立役者である。その子大友皇子と実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いが壬申の乱である。敗れた大友皇子は自害し、その首がこの山に埋められ、三本杉がその印となっているとの伝承があった。大友皇子は天皇に即位したとの記録は残っていないが、明治になって弘文天皇として追諡された。その御陵を決めることになって、伝説の残るこの地が一時候補地となったが、結局大津市役所裏、園城寺境内の亀丘と呼ばれた古墳が弘文天皇陵と決められた。
ところで、この三本杉は樹齢1300年とも云われているが、幹の樹皮がむけて全体に虫が入ったようで樹勢が感じられない。幹の中の空洞化はかなり進んでいると思われる。なお「日本の巨樹・巨木林」によれば、幹周囲8.2m、樹高35mというが、幹周囲は3本まとめての太さのようだ。ともあれ「自害峰の三本杉」を「関ヶ原の一本目の巨木」とする。
街道に戻ってすぐ先に「矢尻の井」の標識を見つけた。
(左写真)
右手の旧道をほんの少し戻った左側に「矢尻の井」があった。これも壬申の乱関連の歌枕となっている。
関ヶ原町の案内板によると、
矢尻の池(井)
関ヶ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤川と続くこの辺りは、「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。
この窪みは壬申の乱(672)のとき、水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。
長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません。
中山道は少し下って藤古川を渡る。
(右写真)
ここも関の藤川と呼ばれた歌枕である。土手に桜と梅が交互に植えられて、今は梅の白い花が満開であった。
関ヶ原町の案内板によると、
関の藤川(藤古川)
この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。
壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。
藤古川を渡るとすぐ右に狭い茶畑の前に、「不破関西城門」の案内板があった。ここから不破の関が始まる。
関ヶ原町の案内板によると、
町・県史跡 不破関西城門と藤古川
不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約十〜二十米の急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。
ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。
不破の関はてっきり東国からの侵入に備えた施設だと思っていた。天然の要害として河岸段丘を利用して関を築くのは常道である。川の東側ではなくて西側に造ってこそ天然の要害を利用できる。不破の関は藤古川の西岸にあってこそ意味があると思った。
よく歴史を調べてみると、不破の関は、壬申の乱で大海人皇子が隠遁先の吉野を出て、東国への交通の要衝の不破(関ヶ原)の野上に本営を置いたのが始まりであった。この地で西から来る大友皇子軍と藤古川を挟んで対峙した。大友皇子軍は大海人皇子に阻まれて、頼みの東国との連絡も絶たれ、近江へ押し返されて敗れる結果となる。つまり不破の関は元々西への備えとして自然の要害を利用したものであった。
午後0時50分
、街道が段丘上に登って左手に不破関資料館があった。
(左写真)
100円の入館料を払って入る。
関ヶ原町教育委員会・不破関資料館の案内板によると、
美濃不破関跡
壬申の乱(672年)後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大宝令(701年制定)によって東海道の伊勢鈴鹿関・北陸道の越前愛発(あらち)関とともに東山道の美濃不破関が「三関」として規定された。
不破関は軍事、警察の機能を兼備する重要な拠点であった。美濃国府の国司四等官が分番守固し、多くの兵士が配置されて国家の非常事態に備え、また一般の通行を取締まっていた。
このように不破関は奈良時代の重要な国の施設であったが、延暦八年(789)七月、三関は突如として停廃された。兵器・粮糒は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移建されてしまった。
岐阜県教育委員会が昭和四十九年から五次にわたって実施した不破関跡発掘調査によって、不破関の概要が明らかとなり、これを契機に昭和五十七年三月、不破関跡の一角に資料館を建設した。岐阜県教育委員会をはじめ関係諸機関の多大の協力を得て、不破関の関する諸資料を収集・保管し、一般公開することによって奈良時代の不破関研究の一助に資することとした。
不破の関は701年に置かれ、789年には廃止されている。置かれていた時期はわずか90年足らずであるが、それから1200年の間、関守が絶えることなく不破関址を守りつづけてきた。同時期にあり三関と呼ばれた鈴鹿関、愛発関が今ではその場所さえも不明であるのと比べると、大きな違いである。不破関は元々軍事的な施設であったが、この交通の要所で軍事施設のままであったならば、いくつもの時代を越えて、守りつづけられることは不可能であったであろう。幸いにも不破の関から軍事色は消えて歌枕となった。それぞれの時代の文化人達がこの地をこよなく愛し、この歌枕の地を訪れ守ってきた。だから現代まで細々ながら繋がってきたのだと思う。
不破関資料館では鎧兜に身を固めた古代の兵士の人形(不破関駐屯兵模型)が展示されていた。
(右写真)
その後の武士達が身に付けたきらびやかにして重厚な鎧兜に比べ、なんとも簡素で機能的で、こちらの方がはるかに実戦的であると思った。
街道に戻ってすぐ右手に白壁の塀と門があり、「不破関舊跡」の石柱が立ち案内板があった。
(左写真)
門は閉じられて見学者を迎えてくれそうになかった。
関ヶ原町の案内板によると、
町・県史跡 不破関跡
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされています。
延暦八年(789)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。
不破関資料館で買い求めた「不破関守址」によると、内部には江戸時代に不破関の故事来歴を漢文で記した「美濃国不破故関銘の碑」や、芭蕉の句碑などたくさんの碑が建ち並んでいるという。
なお、芭蕉の句碑は「野ざらし紀行」の中の句である。
秋風や 薮も畠も 不破の関
前述した「車返しの坂」の二条良基のように京からこの地をわざわざ訪れる人も多かった。新古今和歌集には次の一首が採られている。
人住まぬ 不破の関屋の 板廂 荒れにしのちは たゞ秋の風 九条良経
標識に導かれて左手の小道を入り、人家に囲まれた畠の畦を右へ左へ進み、ぽつんと離れ小島のように残された大海人皇子縁の「兜掛石」
(右写真)
や「沓脱石」
(右写真の円内)
を見て回る。辺りは不破関関庁跡で発掘調査がされたはずである。芭蕉の時代には既に「秋風や薮も畠も不破の関」状態になっていたのであろうか。
関ヶ原町の案内板によると、
町・県史跡 不破関関庁跡と兜掛石
この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(108米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。
ここに祀られている石は、壬申の乱の時、天武天皇が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同天皇使用の沓脱石があります。
午後1時12分
、街道に戻って民家の庭先にロウバイが咲いているのを見つけた。
(左写真)
ロウバイは「蝋梅」と書き、中国の原産の落葉低木で、早春に葉に先立って蝋細工のような光沢の黄色い花をつける。江戸時代初期に中国から渡来し、観賞用の庭木として好まれるという。
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