第 6 回 〔後半〕
平成16年3月21日(日)
晴れ
−関ヶ原古戦場−関ヶ原宿−桃配山−垂井宿−垂井の泉
“壬申の乱と関ヶ原の戦いの舞台 関ヶ原宿”
“「垂井の泉」と大ケヤキ 垂井宿”
やがて街道は三たび国道21号線に出て、そのあとしばらくは国道を進む。
午後1時19分
、300mほど歩いた左側に「西首塚」の史跡があった。
(右写真)
石柱に「史蹟 関ヶ原古戦場 西首塚」とあり、国の史跡になっている。
ほとんどの枝をを剪定されてしまい無残に見えるケヤキ(幹周囲3.1m)の巨木を間に、右に十一面千手観音、左に馬頭観音が祀られている。
関ヶ原町教育委員会の案内板によると、
西首塚
関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観世音および馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。
首塚は東西2ヶ所あるが、それぞれ東軍西軍の首級を埋葬し分けた訳ではなさそうだ。とにかく数千といわれる戦死者を埋葬するのは大変だったと想像できる。北に東海道線の鉄道を敷設する際に、相当数の白骨が出たと伝わることから、かなりの広い場所に埋葬された様子が判る。
200mほど進んだ国道の右側に常夜燈があった。
(左写真)
竿部に両皇大神宮と刻まれている。珍しいのは脇に大きな御幣が立てられていることである。和紙の部分がかなり萎れているから立てたままにしてあるようだ。
ここまで山の中を来たので食堂もなかったが、気が付くともう既に
午後1時半
を回っていた。西町交差点を南に少し入ったレストラン伊吹で昼食を摂った。
午後2時20分
、西町交差点から東へ150mほど進み、東首塚の標識に従って左折すると、突き当たりが八幡神社である。入口右手にスダジイの巨木があった。
(右写真)
「日本の巨樹・巨木林」によると、幹周囲7.8m、主幹3m、樹高10mとなっている。主幹が大きく裂けてはらわたをさらしているが、若々しい支幹が周りを囲み威厳を保っている。案内書には本陣から移したと書かれているものがあるが、これだけの巨木を移設することはほとんど不可能だと思われるので、元本陣庭の隅にあったものが庭ごと八幡神社の境内に取り込まれたのが真実であろう。案内板では表現がぼかされている。本陣のスダジイとくれば、「関ヶ原宿の巨木」(二本目)に指定しなければなるまい。ところで案内板の「スタジイ」は「スダジイ」が正しい。時々同じ間違いをみることがある。
関ヶ原観光協会の案内板によると、
本陣スタジイ
この椎は昔本陣の庭の隅にあったといい、次第に衰えて来た老木である。
昭和十七年三月岐阜県は天然記念物として指定した。
八幡神社に人寄りがしており、入ろうとすると子供を連れた叔父さんが女房に、「3時からもちを撒くから拾っていけばいいよ」という。なるほど境内に盆踊りに使うようなやぐらが二つ組まれ、準備の人たちが数人いる。触手は動いたがまだ30分以上あるので遠慮した。
神社の左脇を通って北へ行く道はかっての北国脇往還だという。その道をJR東海道を陸橋で越えた向こう側の右手に朱塗りの建物が見えてきた。これは徳風会名古屋支部によって昭和15年に建てられた東首塚の供養堂である。
(左写真)
東首塚は供養堂の北隣りにあった。
東首塚には目印に椎の木が植えられ、根上がりした根っ子が玉垣で囲われた塚を包んでいるように見える。
(右写真)
関ヶ原町の案内板によると、
国史跡 東首塚
この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。
東首塚に左側には「首洗いの古井戸」があった。
(左写真)
石枠で固め竹で編んだ蓋がされていた。戦いの後、西軍の主な武将の首実検が行われた。それに先立ちこの井戸水で首を洗って実検をやり易くしたのである。
(なお案内板の「首実験」はもちろん「首実検」が正しい。ワープロで打つと間違えそう。)
関ヶ原町の案内板によると、
首洗いの古井戸
合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。
首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くと言うのがならわしだったのです。
戻りに神社脇を通るとおばさん達が数人いて「最近、辺りに猿が出るのだ」と女房に話す。塀の上にいて犬をも威嚇するのだそうだ。八幡神社では餅まきはまだ行われていなかったが、人が増えてきていた。でも何で今日は餅まきなんだ。
街道筋に戻るとすぐ左側にそれらしい門に「脇本陣 関ヶ原宿」との木看板の掛かった家があった。
(右写真)
脇本陣跡で門の右側に至道無難禅師誕生地の石碑が建っていた。
至道無難禅師は慶長8年(1603年)美濃、関が原で生まれ、本陣問屋の家業のかたわら、宿泊された愚道国師から「本来無一物」の法題を授かり、在家のまま30年間修業をし、47歳で愚堂国師の法を嗣ぎ、52歳で江戸に出て出家した。往時としては珍しい経歴の人である。臨済宗の中興の祖として有名な白隠禅師はその孫弟子にあたる。家業を隠居してから足で歩いて日本地図を創った伊能忠敬と似た、二つの人生を生きた人である。
街道を3分、左側に現在も旅館営業している「旅籠桝屋」があった。
(左写真)
行燈型看板に「創業永長元年旅館桝屋」とある。永長元年というと、1096年で平安時代の創業ということになる。本当かな。
また次の左角には二階建ての大きな町屋とうしろに工場らしき建物や煙突まで見えた。
(右写真)
側壁の前面に大きく看板が書かれていたが、剥げて錆びてほとんど見えなくなっていた。写真を拡大してみると、「関ヶ原たまり」と何とか読めた。「たまり」は広辞苑によると、
「醤油の一種。大豆を煮て麹菌を作用させ、これを食塩水に仕込んで発酵させ、その液汁をとったもの。醤油より濃厚で美味であるが、芳香はない。愛知・岐阜などの特産。」
とあった。「たまり醤油」ともいう。この工場は特産の「たまり醤油」を製造する醸造工場だったようだ。屋号は判らなかった。
10分ほど東へ進んだ左側に若宮八幡宮があった。先ほどの八幡宮の新宮なのだろう。ここでも餅まきをするのであろうか、数人の氏子衆がやぐらを組んで準備をしていた。
さらに300mほど進んだ所から、街道は400mほど国道21号線からすぐ北側に並行する道を行く。途中、一部遊歩道のように整備され、松の幼木が植えられ松並木が復元されていた。
国道へ戻ると、国道の向こう側の小山に階段が付き、幟がたくさん立っている。
(左写真)
ここは家康が関ヶ原に押出してきて最初に陣を張ったところである。
案内板によると、
桃配山
天下をわける壬申の大いくさは千三百年ほどまえであった。吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二十七日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」 皇子は、行宮につくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。
「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに1こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。
「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」
このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。
この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。九百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。
この桃配山で900年を隔てた共に東軍の大海人皇子と家康が出会う。そして共に勝者となり、天下に号令する立場となった。
午後3時6分
、階段を上ると上に、古い「桃配山 徳川家康本陣古趾」の石柱と、「史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地」と刻まれた大きな石碑があった。
(右写真)
葵の御紋を染め抜いた幟が幾本も立っていた。
関ヶ原町の案内板によると、
国史跡 家康最初陣地
慶長五年九月十五日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と掲げ指揮にあたりました。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。ここにある二つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられています。
元に戻って、再び国道21号線のすぐ北側に並行する中山道に入る。すぐに松林の残る街道筋となる。
(左写真)
関ヶ原町の案内板によると、
町指定天然記念物 旧中山道松並木
江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木蔭は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。
しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。
そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。
その松林の途中のポケットパークに「六部地蔵」を祀った祠があった。
(右写真)
関ヶ原町の案内板によると、
六部地蔵
六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。
「六部地蔵」から関ヶ原町野上の集落を15分ほど東進した左に、注連縄と榊で飾られた鳥居があった。
(左写真)
その脇に、「式内 縣社 伊富岐神社」と刻まれた石柱が立っていた。
「式内」は「しきない」と読み、平安時代の初期に編纂された延喜式の神名帳に記載されている神社であることを示している。延喜式は平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記したもので、その内の神名帳は全国の神社と祀られたの神々の名称を記した帳簿である。「式内」とあれば千年以上の歴史にある神社であることになる。「縣社」は戦前の神社の社格の一つで、上から、官幣社、国幣社、縣社、郷社の順になる。「伊富岐神社」は「伊吹神社」であろう。御神体とはなっていなくても、伊吹山を信仰対象にした神社なのであろう。境内に幹周り6.6mの大スギがあると後から知ったが、ここより神社まで1km近くあるので、道草はしないで通り過ぎた。
さらに800mほど進むと、新道が交錯してややこしくはなっているが、国道21号線を渡って国道の南側の垂井町日守の集落に入る。
午後3時51分
、前方右側に小高い樹叢が見えて来た。「垂井一里塚」であった。
(右写真)
中山道では古い時代のまゝ残った一里塚は大変珍しい。この一里塚は玉垣で囲われた立派なものであった。
垂井町教育委員会の案内板によると、
国指定史跡 垂井一里塚
慶長九年(1604)徳川家康の命により主要街道に築造された一里塚の一つである。
江戸日本橋より一里ごとに街道の両側へ、五間四方の塚を築き、頂上に榎(桜、松)を植えた。垂井の一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されている。
中山道には、国指定一里塚が二つあり、その一つで貴重な一里塚である。
この付近では関ヶ原の戦いの時には浅野幸長が陣を構えたという案内板もあった。家康の本陣の後ろで少しぼやけた布陣のように見えるが、ここから真南へ2〜3kmの南宮山の毛利秀元の軍に備えた布陣であった。
垂井町教育委員会の案内板によると、
浅野幸長陣跡
五奉行の一人である浅野長政の長男、関ヶ原合戦の時は、甲斐府中十六万石の領主でした。石田三成とは犬猿の仲で、前田利家が亡くなると、加藤清正ら七将で三成を襲いました。
関ヶ原合戦では東軍に属し、池田輝正らと岐阜城を攻略。合戦当日には南宮山の西軍に備え一里塚付近に陣を構えました。
合戦後は和歌山三十七万六千石に加増されました。
「垂井一里塚」の東隣には入母屋造り平家の「日守の茶所」があった。
(左写真)
建物はよく整備されてそれほど古いものとは見えなかった。
垂井町の案内板によると、
日守の茶所
江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。
また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。
街道はもう一度国道を渡り、JR東海道本線の踏切を越えて垂井宿へ入っていく。途中斜めに右折、小川を渡った右側に、「垂井宿西の見付」の案内板があった。
広重の「木曾海道六拾九次の内 垂井」はここから西を見た図というので、そばにあった版画のパネルと現代の町並を撮って並べてみた。
(右写真の左と右)
松並木が消えてほとんど面影は感じられないが、版画でも画面奥で街道が左へ曲っていくように見えないこともない。
垂井町の案内板によると、
垂井宿 西の見付と広重の絵
一、西の見付
垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。
二、安藤広重の垂井宿の絵
広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。
垂井宿を3分ほど歩くと、左側に本龍寺がある。
(左写真)
山門右側の高い建物は鐘楼かと思ったが、鐘楼は左側にある。後日ネットで調べた所、太鼓楼であった。鐘と太鼓をどのように打ち分けたのであろうか。左側には山門右前に「明治天皇垂井御小休所」の石碑が立っていた。明治11年10月22日、北陸、東海の御巡幸の際、本龍寺で休憩をとられたという。
明治になって脇本陣から移築したといわれる門と玄関は右写真の山門とその奥に見える玄関である。
(右写真)
垂井町の案内板によると、
脇本陣門と時雨庵 高札場
一、脇本陣門 文化十三年(1816)頃より西町にあった建坪135坪の金岩脇本陣門及び玄関を明治初期移築した。
一、時雨庵 獅子門の化月坊が芭蕉ゆかりのこの寺に安政二年(1855)時雨庵を建立す。
一、高札場跡 山門左前に高さ約四メートル、横巾約五メートル、奥行1メートル余の高札場を建て、人馬賃、キリシタン禁止等の六枚の告知板をかけた。
本龍寺境内の左手奥に「時雨庵」がある。
(左写真)
この建物は先ほどの「日守の茶所」の秋風庵を建てた化月坊がこの時雨庵も建てたという。そういえば入母屋の造りもどこか似ている。しかし秋風庵と違って、時雨庵はかなり痛みが激しいようだ。由緒ある建物であるならば修復する必要があると思った。
時雨庵脇の庭には、幾面もの句碑が立つ中に「作り木塚」があった。
(右写真)
作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 芭蕉翁
という句碑で、最も奥の最も背の高いのが「作り木塚」である。「作り木」とは広辞苑によると、
「手入れをして枝ぶりなどをととのえた木。」
と説明し、使用例として、この芭蕉の句を紹介している。
垂井町教育委員会の案内板によると、
垂井町指定 史跡 作り木塚と芭蕉翁木像
俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友が深く、元禄四年(1691年)冬、当時にて冬籠りをした。この間に次の句を詠んでいる。
木嵐に 手をあてゝ見む 一重壁 規外
四日五日の時 雨霜月 翁
作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 翁
いささらば 雪見にころぶ 処まで 翁
句に詠まれた作り木塚と当寺に伝わる芭蕉の木像を指定した。
本龍寺を出てすぐ街道右側に江戸後期の商家が残されていた。
(左写真)
2階は黒壁、虫籠窓で軒下にはぬれ蓆を掛ける釘がついている。
(左写真の円内)
その釘も鍛冶屋が打って造ったものであろう。
垂井町の案内板によると、
垂井宿の商家
この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して旅人宿を営んだ。
土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。
続いて交差点右に道路を跨いで南宮大社大鳥居が立っていた。
(右写真)
両脇に常夜燈も立っている。「南宮大社」は美濃国一の宮でこれより南に1.5km行った南宮山の麓にある。金山彦命を祀る鉱山、金属業の神様である。
垂井町の案内板によると、
南宮大社大鳥居
寛永十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約400両の金で、石屋権兵衛が建てた。
横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cm。
正一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆蹟である。
午後4時36分
、この鳥居の角を右折して200mほど行った右側に「垂井の泉」がある。
(左写真)
ケヤキの根元から今も湧き出している泉は「垂井」の地名の由来ともなっている。芭蕉は本龍寺で冬ごもりをしたとき、この泉を訪れ、
葱白く 洗いあげたる 寒さかな 芭蕉
という句を詠んでいる。
泉のそばの大ケヤキはなるほど太い。しかし傷みも大きくて正面にかなり目立つ補修がされていた。
(右写真)
しかし、これを置いて「垂井宿の巨木」とすべき木はあるはずはないので問題なく指定である。
案内板によると、
垂井の泉と大ケヤキ
この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀」天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原_隆経は、
昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける (詞花集)
と詠んでいる。のちには芭蕉も
葱白く 洗ひあげたる 寒さかな
という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。
この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。
「垂井の泉」の上に専精寺というお寺がある。専精寺のあたりには関ヶ原の前には垂井城があった。「垂井の泉」の南側に登った所に「垂井城跡」の石碑があった。
(左写真)
石碑の周りには椿の花びらが散り敷いて見ものであった。
垂井町教育委員会の案内板によると、
平塚為広と垂井城跡推定地
ここは、関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれています。
平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、一万二千石の垂井城主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には、病気の吉継にかわり、大谷隊を指揮しました。小早川秀秋隊が西軍を裏切り大谷隊に攻めかけると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。
敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。
名の為に 捨つる命は おしからじ ついにとまらぬ 浮世と思えば
南宮大社の大鳥居まで戻って、垂井宿を行く。すぐに右側にかって垂井宿の問屋であった金岩家の建物があった。
(右写真)
垂井町の案内板によると、
垂井宿の問屋
間口5.5間、奥行7.5間の金岩家は、代々彌一右衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。
問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。
当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。大通行が幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。
その先で宿は道が北へずれて明らかに桝形も形状を示していた。
(左写真)
ここが宿の東の入口にあたるのであろう。
桝形の角に現在もなお営業している旅籠亀丸屋があった。
(右写真)
垂井町の案内板によると、
旅籠 亀丸屋
亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。
安永六年(1777)に建てられた間口5間、奥行6.5間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。
この後、街道は200mほどで三叉路になり、左を進んで相川を渡って進むが、本日はその三叉路で右折し、300mほど南へ下ったJR東海道本線の垂井駅に出て、終わりにした。時間はちょうど
午後5時
になった。本日の万歩計の歩数は
32,808歩
であった。
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