第 7 回 〔前半〕
平成16年3月27日(土)
快晴、寒く、桜はまだか
垂井宿−青墓−昼飯−赤坂宿−赤坂港跡−
“照手姫伝説と義経伝説 青墓宿(鎌倉時代の宿駅)”
“石灰山(金生山)と赤坂港 赤坂宿”
2月の末に何度目かの中国に行って来た。最初に言ってから10年近く経つが、この間に中国の変貌は著しいものがある。私が行くのは上海から杭州に限られているのだが、行く度の高速道路が増え、高層ビルが雨後の筍のように建つ。
中国で不思議な光景を見た。杭州市の景勝の地、西湖の周りを車で走っていて、土木工事の現場に遭遇した。通訳に工事の目的を聞くと、平地を掘り込んで西湖の湖面を増やしているのだという。ウォーターフロントを増やす工事であった。景勝の地というと数々の施設を造り込んで台無しにしてしまう日本のやり方と随分違う。中国人の奥深さを窺い知ったような気がした。
もう一つ、仕事で知り合った中国人としばらく振りに昼食を共にした。今度街中にビルが出来るので事務所が移転するという。新しいビルのテナントに入居するのだと理解していたが、翌日そのビルのそばを通ったおりに、通訳に聞いて驚いた。見上げるような高層ビルがあの人のビルだというのである。お金持ちだからと通訳は言うが、おそらくお金は金融機関が出しているものであろう。テナントさえ埋まれば返済も出来るのであろうが、埋まらなければどうなるのであろう。これは日本のバブルよりひどいと思った。今後中国は要注意であろう。
JR東海道線垂井駅を
午前9時25分
に出る。快晴ながら風は冷たい。旧街道に戻って、相川に架かった相川橋を渡る手前に垂井宿の「東の見付」の案内板があった。
垂井町の案内板によると、
東の見付
垂井宿は58番目、ここの東の見付から広重も描いた西の見付まで、長さ約766メートルの宿場でした。
見付は宿場の入り口に置かれ、宿の役人はここで大名やお茶壷日光例幣使などの通行を迎えたり送ったりしました。また、非常事態が発生した際には閉鎖することになっていました。
また、相川橋を渡る手前に「相川の人足渡跡」の案内板があった。普通は大井川と同じように人足渡となっていたが、特別な時は木橋を架けたという。
垂井町の案内板によると、
相川の人足渡跡
相川は、むかしから大洪水があり、橋は流れ、淵も変った。川幅約百メートルのこの川は大井川と同じ、江戸時代人足渡で、特別の姫君や朝鮮通信使等の大通行には木橋を掛けた。天保六年(1835)以後、渡川は一切人足渡になっていた。
享保八年の人足渡し賃(一人)
一、ちち切水 四十五文
一、腰切水 二十四文
一、ひざ上切水 十六文
相川橋から北を眺めると、相川を何重にも渡る鯉のぼりが泳ぎ、そのはるかに、どの辺りの山であろうか、雪をいただいた山が見えた。
(左上写真)
相川橋を渡ると道は二つに分かれ、右手に進んで、相川の支流の継父
(ままて)
川を渡ると追分である。
(右写真)
右手に進むと中山道と東海道をつなぐ美濃路である。
角に自然石に刻んだ道標があった。文字がはっきり判読ができなかったが、多分、「是より 右東海道大垣みち 左木曾みち」と書かれているようだ。裏側に、「宝永六
己丑
年十月」とある。1709年、約300年前に建立されたものである。
(左写真)
この追分を左手の木曾街道へと進む。
垂井町教育委員会の案内板によると、
垂井追分道標について
徳川幕府は成立直後、日本の五街道を造り、中山道と東海道を結ぶ街道として美濃路を造った。その大切な街道の追分に宝永六年(1709年)、この道標が建てられた。
木曽路(中山道)は東海道と並ぶ重要な幹線道路であり、大名や姫宮・日光例幣使・谷汲・善光寺参り等の通行があった。
また美濃路は将軍上洛の道であり、朝鮮通信使及び琉球使節、大垣湊への重要な道でもあった。
これより中山道は赤坂宿に向けて東北東にほぼまっすぐに進む。この辺りはかっては青野ヶ原とよばれた原野であった。途中に辻堂や稲荷神社や「平尾御坊道」の石標などを見ながら30分ほど歩いた左側に注連飾りの張られた立派な石燈籠があり、かたわらに「史跡 中山道一里塚跡」の石標が立っていた。
(右写真)
ここが青野一里塚跡である。
5分ほど進んで、
午前10時11分
、街道から左へわける小道の角に、常夜燈を兼ねた道標があった。一面に「国分寺道」、もう一面に「薬師如来御寶前」と刻まれていた。
(左写真)
地図によると、これより300mほど北へ入った所に美濃国分寺跡がある。さらにその北側には薬師如来坐像(国重要文化財)が祀られている国分寺がある。道標はそれへ導くために建てられた。寄り道は止めて、国分寺道を入ったすぐ左にある、春日局ゆかりの教覚寺に詣でることにした。
三代将軍家光の乳母となり、その後大奥で権勢をふるった春日局は乳母となる前は美濃の稲葉正成の妻であった。ここ青野は稲葉氏の領地であり、稲葉氏は教覚寺の再建に力を尽くしたという。
その後、正成から数えて四代目の稲葉正休が大老堀田正俊に刃傷におよび、その場で斬殺され、青野稲葉家はお家断絶となった。教覚寺の外に大きな「稲葉石見守正休公碑」が建っていた。
(右写真)
教覚寺の境内に入ると鐘楼
(左写真)
の前に案内板があった。鐘楼の石垣に化石がついているとの案内板である。
(左写真の円内)
案内板によると、
化石の鐘楼石垣
この石垣には “フズリナ” という化石が一ぱい付着しています。これは今から約2億5千万年前の大昔、赤坂の金生山がまだ海底であった時に繁茂した貝の一種です。それが長い間に土地が隆起して現在に至ったのです。陸地では巨大な恐龍たちが生息していました。幸いなことに、大正十三年に、故松波氏がこの化石の寶庫、金生山の石を使用したため、ここに残っているのです。
街道に戻って大谷川を渡ると大垣市青墓町である。青墓
(あおはか)
は昔は宿駅があったといわれるが江戸時代には廃れていたようだ。
青墓の町に入ると左側に「よしたけ庵跡」がある。今は西町集会所の建っているところである。その敷地の街道沿いに、玉垣の中に五輪塔がいくつか集められている。ここは「小篠竹の塚」と呼ばれ、照手姫の墓と伝わっている。これも「小栗判官と照手姫」の伝説の一つである。右側に供養するためか、身の丈2mほどの石の観音像が立っていた。頭上の天蓋が傘をさしているように見えてユーモラスである。
(右写真)
大垣市立青墓小学校の案内板によると、
小篠竹の塚
青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里 慈円
(後の慈鎮、天台宗座主、愚管抄の作者でもある)
案内板は「青墓小学校」が出したものであった。小学校の名前に「青葉」ではなく「青墓」とよく付けたものである。縁起でもないと反対する人はいなかったのであろうか。
「よしたけ庵」は義経ゆかりのお寺である。都落ちする牛若丸が葦の杖地面に差したら芽をふき竹の葉が茂ったという伝説が残る。その案内板が半分壊れて集会所の壁に立てかけてあった。
大垣市立青墓小学校の案内板によると、
青墓のよしたけあん
牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄のれいを供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面につきさし、
さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えは よし竹となれ
の歌を詠み東国へ出発しました。
その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にしてきたよしが大地から芽をふき根をはりました。そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、しかし根や幹はもとのままのよしでした。このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶようになりました。
街道に戻り、すぐ右手南に小道を100mほど行った青墓総合研修センターの裏手に「照手姫の水汲み井戸」の伝承地が残っている。井戸は現在材木で井桁に組み、グリーンの蓋がされていた。
(左写真)
大垣市教育委員会の案内板によると、
伝承地 照手姫の水汲み井戸
伝説 照手姫
昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られて来ました。
長者は、そのp美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒の倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。
この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。
街道に戻ってすぐ左手に長屋門があった。
(右写真)
最近建て直されたもののようだが、土台は古い石組みで、元々あった長屋門を改装したものであろうか。寄せ棟造りの屋根が軽快であった。
白髭神社を左に見て、右側に「古墳 粉糠山」の道標があった。あたりに古墳らしきものも見えず、開発されなくなったものと思い通り過ぎた。後日調べたところ、中山道の北側に全長100mの前方後円墳がそのまま残っていたらしい。この粉糠
(こぬか)
山には、青墓宿の遊女たちが化粧に使った粉糠を捨てたのが山になったという伝説が残っているという。
すぐにJR東海道本線のガードをくぐると、大垣市昼飯
(ひるい)
町である。これもまた変った地名である。まだ
午前11時前
で昼飯にはまだ早い。昼飯町の由来については案内板があった。
大垣市立青墓小学校の案内板によると、
昼飯町の由来
むかし、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れ、すばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯をとりました。
それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして、「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。(大垣市史 青墓篇より)
地名由来の昼飯善光寺がすぐ左手にあった。
(左写真)
提灯で飾られてお祭りでもあるのかとみると、ポスターが貼られ
(右写真)
、明日から1週間、信州善光寺秘仏御本尊の一体分身如来、8年目の御開帳があるという。一日違いで御開帳には立ち会えない。その昼飯善光寺(別名如来寺)の案内板があった。
大垣市立青墓小学校の案内板によると、
如来寺の由来
善光寺如来が、難波より信濃へ向う途中、昼飯の供養をした関係から、建久六年に僧の定尊が村東の花岡山の上に三尊仏を安置し、名を如来寺といいました。後年、織田信長の兵火にあい当地に移り、秘仏となりました。また、御本尊の開帳は八年目毎に行われています。(大垣市史 青墓篇より)
御本尊は善光寺の分身仏としては日本で最初ですから特に一体分身の如来といい、現在は大垣市重要文化財の指定を受けています。(昼飯善光寺分身略縁起より)
「一体分身如来」については案内板があった。
大垣市教育委員会の案内板によると、
大垣市指定重要文化財 善光寺式阿弥陀三尊仏
当時の本尊は長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから、善光寺式阿弥陀三尊仏と呼ばれています。
この仏像は鎌倉時代の作と伝えられ、法身は中央の阿弥陀如来像が49.5センチメートル、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像がともに33.5センチメートルと三体の均整がとれた作風です。
また、三尊が一つの光背に納まっている一光三尊仏であり、善光寺の分身仏にふさわしい浄土来迎を思わせる紋様も彫刻されています。
昼飯善光寺の前後の街道には、門々に赤や白の「昼飯善光寺御開帳」の幟旗が立っていた。それぞれ施主の名前が入っている。これが延々と続いた。おそらく一本幾らで奉納金を取られるのであろう。御開帳で集まるお金はこの幟旗だけでも大変なものであろうと、想像している自分が浅ましくなった。
十分ほど進むと右側の人家の裏手に小山のような昼飯大塚古墳が見えてきた。所々の軒間にみえるが、裏へ出る道がなく、通り過ぎた辺りで路地を見つけて裏へ回った。前方後円墳の後円部の方から眺めることになった。
(左写真)
国指定史跡というがこの方向には案内板も案内碑も何もない。前方部にはあるのであろうか。
昼飯大塚古墳は全長150mの前方後円墳で、周りの濠を掘下げて、その土を積み上げて三段に築き上げた古墳である。高さは周濠の底から後円部では13m、前方部では8mであった。被葬者は4、5世紀にかけて大和政権と密接な関係のあった、この地方でも有力な大首長であったと考えられている。
古墳周辺の歴史公園整備事業が始まるらしく、何軒か回りの家が壊され更地になっていた。
数分歩いて左手に石灰採掘工場が見えてきた。辺りが石埃で白っぽくなっていた。背後の石灰山の金生山は先ほど通った教覚寺鐘楼の石垣を産出した山である。2億5千万年〜3億5千万年前、地殻変動によって海底が隆起、古生物の堆積で石灰岩層を形成して金生山は出来た。そのため、フズリナ・ウミユリ・巻貝・二枚貝などの化石が多数発見されている。これらの化石が「金生山化石館」に収められているという。
石灰採掘工場を過ぎると街道は大垣市赤坂町に入った。左側に「史跡 赤坂宿御使者場跡」の石標が建つ小公園があり
(右写真)
、石段を登ると「兜塚」の石碑が建っていた。
(左写真)
大垣市教育委員会の案内板によると、
兜塚
この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年九月十四日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。
以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。
赤坂宿に入って左側の子安神社への参道の角に「憂国の青年志士 所郁太郎生誕地」の石標が建っていた。
(右写真)
すぐ先の日蓮宗妙法寺前にも、左右に「史跡 所郁太郎墓」および「史跡 戸田三弥墓」と刻まれた石柱があった。
(左下写真)
所郁太郎および戸田三弥という人がどんな人か知らなかったが、そばの案内板で紹介されていた。
大垣市教育委員会の案内板によると、
大垣市指定史跡 所郁太郎の墓
所郁太郎は天保九年(1838)に中山道赤坂宿の酒造家矢橋亦一の四男として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子となった。
その後、勤王の志を胸に国事に奔走し、長州藩遊撃軍参謀となった。井上聞多(後の元老井上馨)が刺客に襲われ、重傷を負うと外科手術を施し一命を救った。
元治二年(1865)山口市吉敷の陣営において二十八歳の若さで病没した。
大垣市指定史跡 戸田三弥の墓
戸田三弥(寛鉄)は文政五年(1822)に大垣藩家老の家に生まれ、幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力した。
また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として東北各地を転戦し軍功をあげた。
明治維新後は新政府の要職を歴任した。
子安神社参道の向い側に「お嫁入り普請探訪館」という施設があった。
(右写真)
「お嫁入り普請」とは、皇女和宮降嫁の大行列が中山道を下り赤坂宿で宿泊することになって、見苦しくないようにと幕府が金を貸して街道筋の家を建て替えさせた。赤坂の人々はこれを「お嫁入り普請」と呼んだ。このときの借金は幕府の崩壊でチャラになったというから、赤坂の人達にとってはラッキー!である。
中山道赤坂宿まちづくりの会の案内板によると、
「お嫁入り普請」とは
、 慶長七年(1602年)に中山道の宿駅として指定された赤坂宿は、江戸から数えて57番目の宿場町です。
町並みは、金生山を背にして、東西に一筋にのびています。文久元年(1861年)の和宮降嫁のとき、大行列一行が宿泊しましたが、赤坂宿ではそのために54軒もの家が建て直されました。それを「お嫁入り普請」と言います。短期間での建築工事であったため、街道沿いの表側だけが二階建てという珍しい家であり、数は少なくなりましたが、現在も残っている家があります。
「お嫁入り普請探訪館」は往時の建物を保存展示したもので、街道沿いが二階建、裏が平屋の内部構造が見られる。今日は残念ながら閉まっていた。「お嫁入り普請探訪館」の看板は「神代杉」で作られているという。
(右上写真の右端)
中山道赤坂宿まちづくりの会の案内板によると、
正面表札について
正面表札「お嫁入り普請探訪館」の文字は、地元郷土史家 清水春一先生の筆によるものです。
また、板につきましては本会員の清水幸太郎氏から提供いただいた「神代杉」です。この木は秋田県八郎潟の湖底に約2,500年間沈んでいた貴重なもので、ご覧のような面白い筋目が見られます。
案内書にある「お茶屋屋敷跡」に道草しようと探したが通り過ぎたらしい。少し戻って南へ小道を進む。途中の人家に「淡墨桜二世」と名札の付いた桜が白っぽい花を咲かせていた。
(左写真)
この淡墨桜は根尾村の淡墨桜の二世なのであろう。
午前11時30分
街道から100mほど入った所に、お茶屋屋敷の茅葺きの門があった。
(右写真)
お茶屋屋敷の牡丹園は有名らしいが、今は季節ではない。
徳川家康は京都に上洛するために、中山道に四里ごとに将軍家専用の休憩および宿泊所として「お茶屋屋敷」を造営した。現在その遺構で残っているのは赤坂宿のここだけだという。明治維新後は民間に払い下げられ、寛政年間から本陣を務めた矢橋家がその遺跡を守り、東海一のボタン園として無料公開している。
大垣市教育委員会の案内板によると、
史跡 お茶屋屋敷跡
ここは慶長九年(1604)徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構えであった。
現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上重要な遺跡である。
広い邸内には花の咲く色とりどりの灌木が植わっている。
(左写真)
広い牡丹園にまだ花はなかった。芝地には銅のうさぎがコマ取りで跳ねていた。
(左写真の円内)
街道に戻って100mほど進んだ右側に榎屋旅館がある。
(右写真)
ここは赤坂宿の脇本陣跡である。赤坂宿では唯一の脇本陣で、飯沼家が務めていた。明治維新後一部が解体され町役場となり、母屋は榎屋旅館として現在も営業している。建物には、賊が入らぬように紙でできた天井や槍が残り、宿泊者を記載した大福帳も残っているという。
大垣市赤坂商工会観光部会の案内板によると、
脇本陣跡
江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。
当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。
脇本陣の先、路地を隔てた角から、江戸時代の代表的建築として国の有形文化財建造物にも選ばれている、矢橋家の屋敷が始まる。
(左写真)
格子戸や桧皮を張った壁など立派な町屋である。東側の門は本陣の門が移築されたものという。
矢橋家の東端の四ッ辻は中山道赤坂宿の中心で、北へゆくと西国三十三所観音霊場の満願所である谷汲山華厳寺に至る谷汲巡礼街道である。江戸時代には巡礼数が急増し、年間四千人に及ぶ巡礼が往来していたという。南へ進むと伊勢神宮へ通じる養老街道の起点となっている。左の角は小公園となっており、道標を兼ねた常夜燈が建っていた。
(右写真)
一面に「左 たにくみ道」、もう一面に「谷汲山観音夜燈」と刻まれている。「史跡 中山道 赤坂宿」の新しい石碑も出来ていた。
史跡赤坂宿環境整委員会・大垣市赤坂商工会・大垣市の案内石板によると、
赤坂宿
近世江戸時代 五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当る。
大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。
町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。
東西に連なる街筋には、本陣脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁昌していた。
この先の右側に赤坂本陣跡が赤坂本陣公園として整備されている。皇女和宮が降嫁された際宿泊されたのが赤坂本陣である。
(左写真)
公園入口には和宮の顕彰碑がある。また公園の奥には先ほど生誕地を見た「憂国の青年志士 所郁太郎」の銅像があった。
大垣市赤坂商工会観光部会の案内板によると、
中山道赤坂宿 本陣跡
当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十六歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
寛永以後、馬淵太郎左衛門に次いで平田又左衛門が代々本陣役を継ぎ、天明・寛政のころ暫らく谷小兵衛が替ったが、以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。
続いて西濃鉄道市橋線を渡る。その手前に「赤坂本町駅跡」の石碑が建っていた。
(左写真)
西濃鉄道市橋線は金生山の石灰岩を積み出す貨物線である。赤坂本町駅は一時一般旅客の輸送を始めたときに旅客専用駅として開設した。しかし旅客輸送が中止されるとともに駅も廃止された。現在、西濃鉄道市橋線は時々石灰石を積んだ貨物列車が通るだけであるようだ。
3分ほど進んだ左側に赤坂港跡公園があった。
(右写真)
かって揖斐川の本流であった杭瀬川は享禄3年(1530)の大洪水で流れが大きく変って支流になってしまい、川幅も狭くなってしまった。しかし上流からの豊富な水量があり、舟運が盛んで赤坂港は港としての機能を十分に果してきた。一時は三百隻の舟がもやっていたとも言われている。古くからこの地域では石灰や大理石産業が盛んで、その搬出に赤坂港が重要な役割を果たしていた。しかし、鉄道が引かれると舟運は鉄道に取って代わられ、赤坂港も廃れてしまった。
明治の洋風建築の記念館や、川灯台を兼ねたであろう大きな常夜燈も残されている。今は狭い水路に過ぎない川端を望むと雁木というのであろう、丸石がタイルのように敷き詰められた緩やかな斜面が水路に向けて下っていて、往時の繁栄を偲ばせる。
(右写真)
赤坂宿が宿場に指定されるまでは、隣接した青墓が東山道の宿駅として利用されていた。しかし、赤坂には杭瀬川の渡し場があったため、渡舟を待つ旅人のため赤坂宿ができ、青墓の宿場が衰退したといわれている。つまりは赤坂宿はここ赤坂港とともに栄えたのであった。
擬宝珠
(ぎぼし)
の付いた朱色の橋を渡って、右側の人家の前に「史跡 赤坂宿御使者場跡」の石碑があった。
(左写真)
同じ石碑が赤坂宿の西の入口の「兜塚」の所に立っていた。「御使者場」の意味が不明であるが、宿場の東と西の入口にあるところからすると、宿場の東木戸と西木戸に当たるものであろう。
杭瀬川の現在の本流は7分歩いた先にあった。杭瀬川は昔からホタルで有名であった。そもそもは今から300年前、初代大垣藩主の戸田氏鉄が「天の川ホタル」と命名し、保護したことに始まる。橋を渡った左側の土手に「杭瀬川の蛍」の石碑と案内板があった。
(右写真)
大垣市教育委員会の案内板によると、
大垣市指定天然記念物 杭瀬川の蛍
市内北西部に位置する南市橋町の中央を流れる杭瀬川とその支流である奥川には、昭和四十二年九月1日に本市の天然記念物に指定されたゲンジボタルが生息しています。
ゲンジボタルは体長が十二〜十八ミリメートルにもなる我が国最大のホタルで、広く本州・四国・九州に分布しています。
幼虫のときから清流に住み、カワニナやタニシなどの巻貝を食べ、水中で過ごします。成虫は五月下旬から発生し、卵、幼虫、蛹、成虫と生涯を通じて発光します。
戦後の急激な河川汚濁や乱獲に伴い、一時期絶滅の危機に瀕していましたが、地元自治会らの尽力により環境整備が図られ、美しい姿が再び見られるようになりました。
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