



もう正午 を回った。赤坂宿を出て食事処から縁が遠くなってしまった。今日も、駅で買ったおにぎりで済ますしかないかと思う。
菅野橋を渡り、近鉄養老線の踏切を過ぎると安八郡神戸(ごうど)町中沢である。街道が「七回り半」の最初の角に突き当たる直前、案内看板に導かれて「日比野五鳳翁」の記念碑を見る為に左の小道に入る。少し入った左の畑の前に、比較的新しい銅像と歌碑と顕彰碑が建っていた。(右写真)
街道に戻ってすぐにT字路にぶつかる。正面に小さな祠と「加納薬師如来 是より北八丁」と刻まれた石標があった。(左写真)中山道は右折するが、左へ進むと安八郡神戸町加納に香林院という寺院があるが、薬師如来はここにあるのであろうか。祠の中には彫り出された石仏の下に「左 かのふ村 やくし道」と刻まれていた。
このT字路より中山道の「七回り半」が始まる。平坦な田んぼの中の道をどうして直角に何度も曲る道につくったのであろうか。現代なら耕地整理の結果そうなったといえるが。午後0時46分、
田んぼの中の何曲がり目かの人家の前に「中仙道七回り半」の石標があった。(右写真)写真をとっていると後方から中年男性の二人組がやってきたので追い立てられるように先に進んだ。この後、揖斐川の支流の平野井川の手前で「三回り半」と言うのもあったようだが、そちらの方は気付かずに通り過ぎてしまった。
「三回り半」のまだ手前に、大垣市三津屋町を進むと四つ角にコンクリート製の小さな祠があった。前に「道標 聖観音菩薩」という石標が立っていた。(左写真)祠の中の石仏(観音像)の光背には左右にそれぞれ「右 ぜんこうじ道」「左 谷汲山 ごうど いび 近道」と刻まれていた。今は祠の中に入ってしまったが、かっては道標として置かれた石仏だったのであろう。ここで先程の中年男性二人組に追い抜かれた。
「三回り半」の手前に目立つ屋敷があった。とんがり屋根のある洋風建築と、入母屋造りの和風建築と、鉄板屋根の現代建築が一つ屋敷に並んで立つ不思議な家であった。(右写真)
土手を降りて平野井川を渡る。渡った先は再び安八郡神戸町に入った。午後1時44分、食堂もないので、表に「中仙道 神戸町 日本歴史街道」の道標のある小さな祠のある社叢で、駅で購入してきたおにぎりを食べ昼食に代えた。(右写真)
瑞穂市に入ってすぐ右に小簾紅園(和宮遺跡)があった。すぐそばならここで昼食にすればよかったと話しながら公園に入る。入口に「和宮御遺跡」の石碑と「揖斐川呂久渡船場跡」の石柱が立っていた。(左写真)「呂久の渡し」に付いては案内板があった。
公園に入ると池のそばで、大垣市三津屋町で追い越していった中年男性二人組がラーメンをすすっていた。昼食にはこの方法もあった。今度は燃料と鍋を持参しようかと話す。「小簾紅園」の案内板があった。(右写真)
呂久の集落を抜けて、揖斐川の土手に出る手前で、寺の鐘が鳴った。午後2時 である。良縁寺の鐘楼にお尚さんの姿が見えた。(右写真)
旧中山道は呂久の渡しから揖斐川を舟で渡る。現代は土手に出て揖斐川に架かる鷺田橋を渡る。渡り終えたら、斜面に黄色い花がびっしりと咲いている土手に沿って北へ200mほど進む。(左写真)黄色い花は菜の花ではないが、花の名前は判らなかった。さらに旧中山道は、東西南北に碁盤の目になっている田んぼの中を、約0.8km、斜めに横切って北東にまっすぐに美江寺宿に向かっている。
「アクアパークすなみ」の部分を少し迂回して、県道156号線を100mほど北進し、橋を渡ってJAの手前で右側の道に入る。JAの敷地内には桜の木が一本あった。(右写真)この桜は2、3分咲きで、今日おそらく初めての桜の花であった。このあと中山道は犀(さい)川の右岸を進む。
間もなくT字路を右折し、午後2時41分、犀川を渡ったすぐ左側に千手観音堂があった。(左写真)お堂の背後には田舎の風景が広がっている。小さくて見難いが桜の土手が見える。これはこの土地独特の「輪中」の土手だという。土手の右側にある美江寺宿は「輪中」の中にあったことになる。
富有柿の中でも「すなみ柿」という新品種があるという。「すなみ柿」は巣南町で戦前に富有柿の中で他の木に比べて大玉で着色が早い木が発見され、品種改良の結果、1988年に県農業試験場により新品種「すなみ柿」として認定された柿である。富有柿の新品種である。美江寺宿の途中で、「二十一世紀の味覚 すなみ柿」の看板も見つけた。
T字路を左折して宿内を300mほど進んだ右側、大きな屋敷の生垣の前に、「瑞穂市指定史跡 美江寺宿本陣跡」の石標があった。(右写真)「瑞穂市」の部分は「巣南町」と刻まれた上に「瑞穂市」のプレートが張られているようだ。(右写真の左端)町村合併の影響がこんな所にも出ている。
宿内を北進し突き当たった所に、美江神社がある。(左写真)熊野三所大権現を祀り、地元では権現様と呼ばれ親しまれてきたという。美江神社の境内には、前岐阜県知事上松陽助氏の揮毫による「美江寺宿跡碑」が立っていた。(左下写真)
美江神社の奥、北側に美江神社と並んで美江寺観音堂があった。(左写真)美江寺観音の由来はかなりややこしい。
美江寺観音の前の小道を通って街道に戻る。その入口に「美江寺観世音道」の石標があった。(左写真)
街道を東に進む。100mほど先の右側に「瑞穂市指定史跡 自然居士之墓」の石標があった。(左写真の右)素通りしたが、細道を入ると墓があるらしい。自然居士は和泉国(大坂府)日根郡自然田村で生まれた鎌倉後期の禅僧で、放浪、奇行の遊行僧だったという。美江寺に滞在し、千躰仏を作り、この地で没した。
間もなく左側に旧家があり、午後3時29分、本田代官所跡の案内板があった。(左写真)
この先の通りに「中山道町並 瑞穂市教育委員会」と書かれた木柱が立っていた。(右写真)ここを特に中山道の町並と紹介する理由が今一つ解らなかった。
糸貫川の手前右側に延命地蔵尊のお堂があった。(左写真)
糸貫川を渡ったところで、白い髭のおじいさんに女房が声を掛けられた。日焼けして精力的なおじいさんで、青い半被を着ている。そばに「天下の宝 文化遺産 中山道 河渡宿⇔美江寺宿 岐阜県花街道づくり サポーター登録10012 山田功」という看板が立ち、ボランティアで町興しに協力していると話す。首には以前中山道のイベントがあったときの、参加者と撮った写真をぶら下げていた。
たまたま出会ったわけではなくて、どうも中山道の旅人がやって来るのを張っていた感じがした。しかし、そのサポーターが山田翁の生きがいであるならば、それはそれで立派な老境ではないかと思った。変った人に遭うものである。せっかくだから写真を一枚取らせていただいた。(右写真)



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