第 7 回 〔後半〕
  平成16年3月27日(土) 
 快晴、寒く、桜はまだか
 −呂久の渡し−美江寺宿−美江寺観音−穂積 
 “美江寺観音と「すなみ柿」 美江寺宿”



 もう正午 を回った。赤坂宿を出て食事処から縁が遠くなってしまった。今日も、駅で買ったおにぎりで済ますしかないかと思う。

 杭瀬川から国道417号線は取らずに、左手の旧道を0.7kmほど東へ進んだ人家の脇に、ひっそりと池尻一里塚跡の石碑が立っていた。(左写真)

 菅野橋を渡り、近鉄養老線の踏切を過ぎると安八郡神戸(ごうど)町中沢である。街道が「七回り半」の最初の角に突き当たる直前、案内看板に導かれて「日比野五鳳翁」の記念碑を見る為に左の小道に入る。少し入った左の畑の前に、比較的新しい銅像と歌碑と顕彰碑が建っていた。(右写真)
 歌碑の書は五鳳翁であるが、歌は誰の作なのかと読み取ってみる。

東の ヽにかぎろひの 立つみえり かへりみすれば 月かたぶきぬ

 判読が少し大変であった。後日調べたところ、これは「万葉集巻一(雑歌)」の柿本人麻呂の詠んだ短歌であった。軽皇子(かるのみこ)が安騎野を訪れたとき、かってこの野で猟を催した亡き父君、草壁皇子を偲んで、柿本人麻呂が長歌の後に詠んだ短歌4首のうちの1首である。「東」は「ひむがし」と読む。「かぎろひ」は「陽炎(かげろう)」という意味もあるが、ここでは「日の出前に東の空にさしそめる光」(広辞苑)。これで思い出すのは、与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」という句である。人麻呂の歌とは逆の時間的状況である。蕪村の発想のベースに当然人麻呂の歌があったであろうと思う。

 五鳳翁は自らを「岐阜のタニシ」と呼んでいたという。賞を受賞しても「自分は一介の書生だ」と素朴で謙虚な翁の生き方はそのまま翁の作品に現れていると言えそうだ。亡くなった人ではあるが思わぬ出会いがあった。

 街道に戻ってすぐにT字路にぶつかる。正面に小さな祠と「加納薬師如来 是より北八丁」と刻まれた石標があった。(左写真)中山道は右折するが、左へ進むと安八郡神戸町加納に香林院という寺院があるが、薬師如来はここにあるのであろうか。祠の中には彫り出された石仏の下に「左 かのふ村 やくし道」と刻まれていた。

 このT字路より中山道の「七回り半」が始まる。平坦な田んぼの中の道をどうして直角に何度も曲る道につくったのであろうか。現代なら耕地整理の結果そうなったといえるが。午後0時46分、 田んぼの中の何曲がり目かの人家の前に「中仙道七回り半」の石標があった。(右写真)写真をとっていると後方から中年男性の二人組がやってきたので追い立てられるように先に進んだ。この後、揖斐川の支流の平野井川の手前で「三回り半」と言うのもあったようだが、そちらの方は気付かずに通り過ぎてしまった。

 「三回り半」のまだ手前に、大垣市三津屋町を進むと四つ角にコンクリート製の小さな祠があった。前に「道標 聖観音菩薩」という石標が立っていた。(左写真)祠の中の石仏(観音像)の光背には左右にそれぞれ「右 ぜんこうじ道」「左 谷汲山 ごうど いび 近道」と刻まれていた。今は祠の中に入ってしまったが、かっては道標として置かれた石仏だったのであろう。ここで先程の中年男性二人組に追い抜かれた。

 10分ほど進んで水路を渡ったが、その水路の両側に植えられた桜の蕾はまだ硬かった。

 「三回り半」の手前に目立つ屋敷があった。とんがり屋根のある洋風建築と、入母屋造りの和風建築と、鉄板屋根の現代建築が一つ屋敷に並んで立つ不思議な家であった。(右写真)

 「三回り半」のあたりを歩くが、近辺で河川改修と道路改修が随分進んでしまい、地図で道を探しながら歩いたのであるが、いまいち旧道を歩いたとの確信がない。「中仙道三回り半」の石標も見つけられなかった。

 
 とにかく平野井川に沿って進み、土手上に古い石の道標を見つけてようやく中山道上にあることを確認した。(左写真)道標には「右 すのまた宿道」「左 木曽路」と刻まれていた。道標は「す」と「の」の間で一度折れて補修されていた。墨俣宿は美濃路の宿場で、長良川の右岸にあり、秀吉の「一夜城」で有名な町である。向かい側からやってきた夫婦者の中山道の旅人が道を聞きたそうにしていたが、我々も確実に教えられる情報を持たなかった。中山道を歩く人のために、もう少し標識が欲しい。

 土手を降りて平野井川を渡る。渡った先は再び安八郡神戸町に入った。午後1時44分、食堂もないので、表に「中仙道 神戸町 日本歴史街道」の道標のある小さな祠のある社叢で、駅で購入してきたおにぎりを食べ昼食に代えた。(右写真)

 中仙道はすぐに瑞穂市に入った。瑞穂市は2003年5月に本巣郡穂積町と本巣郡巣南町の2つの町が合併して誕生した市である。「平成の大合併」と呼ばれる市町村合併である。これからの旅で合併でややこしくなりそうである。

 瑞穂市に入ってすぐ右に小簾紅園(和宮遺跡)があった。すぐそばならここで昼食にすればよかったと話しながら公園に入る。入口に「和宮御遺跡」の石碑と「揖斐川呂久渡船場跡」の石柱が立っていた。(左写真)「呂久の渡し」に付いては案内板があった。
 公園に入ると池のそばで、大垣市三津屋町で追い越していった中年男性二人組がラーメンをすすっていた。昼食にはこの方法もあった。今度は燃料と鍋を持参しようかと話す。「小簾紅園」の案内板があった。(右写真)
 小簾紅園の前で長屋門のある屋敷は呂久の渡しの船頭頭をつとめた馬淵家である。(左写真)長屋門の前に「明治天皇御小休所跡」の石碑が朱色の柵に囲われて立っていた。(左写真円内)

 呂久の集落を抜けて、揖斐川の土手に出る手前で、寺の鐘が鳴った。午後2時 である。良縁寺の鐘楼にお尚さんの姿が見えた。(右写真)

 旧中山道は呂久の渡しから揖斐川を舟で渡る。現代は土手に出て揖斐川に架かる鷺田橋を渡る。渡り終えたら、斜面に黄色い花がびっしりと咲いている土手に沿って北へ200mほど進む。(左写真)黄色い花は菜の花ではないが、花の名前は判らなかった。さらに旧中山道は、東西南北に碁盤の目になっている田んぼの中を、約0.8km、斜めに横切って北東にまっすぐに美江寺宿に向かっている。

 斜めの道の最後に、「アクアパークすなみ」と名づけられた施設の築山にぶつかり、旧中山道の石標が二つ、間隔を空けて立っていた。この幅で中山道がまっすぐ続いていたのであろう。ところで「アクアパークすなみ」は「汚泥リサイクル推進事業」として建設された施設である。しかし敷地内を旧中山道が通っているのだから、そこには建物も建っていないことだし、公共施設ならば中山道を敷地内に残すような配慮は出来なかったのであろうか。逆に築山を築いてこだわる旅人が構内に入ってこないように防禦しているようにみえる。

 「アクアパークすなみ」の部分を少し迂回して、県道156号線を100mほど北進し、橋を渡ってJAの手前で右側の道に入る。JAの敷地内には桜の木が一本あった。(右写真)この桜は2、3分咲きで、今日おそらく初めての桜の花であった。このあと中山道は犀(さい)川の右岸を進む。

 間もなくT字路を右折し、午後2時41分、犀川を渡ったすぐ左側に千手観音堂があった。(左写真)お堂の背後には田舎の風景が広がっている。小さくて見難いが桜の土手が見える。これはこの土地独特の「輪中」の土手だという。土手の右側にある美江寺宿は「輪中」の中にあったことになる。

 そして、この先の右側一面は延々と柿畑が広がっていた。巣南は富有柿の産地である。(右下写真)

 富有柿の中でも「すなみ柿」という新品種があるという。「すなみ柿」は巣南町で戦前に富有柿の中で他の木に比べて大玉で着色が早い木が発見され、品種改良の結果、1988年に県農業試験場により新品種「すなみ柿」として認定された柿である。富有柿の新品種である。美江寺宿の途中で、「二十一世紀の味覚 すなみ柿」の看板も見つけた。

 
 美江寺宿に入って街道はT字路に突き当たる。この角に石の道標が立っていた。(左写真)一面に「右 大垣赤坂二至ル」、もう一面に「左 大垣墨俣ニ至ル」と刻まれていた。「大垣赤坂」の方角は我々が歩いて来た中山道を示している。「大垣墨俣」はT字路を右手にとって南へ下る。中山道が北へ進むのとは反対側である。道標がどの位置にあったのか、記憶が確かでなかったが、写真を見てみると左手前に道標の影が落ちている。これらの情報を判断すると、この道標はT字路の右側手前角に立っていたものと推定できる。

 T字路を左折して宿内を300mほど進んだ右側、大きな屋敷の生垣の前に、「瑞穂市指定史跡 美江寺宿本陣跡」の石標があった。(右写真)「瑞穂市」の部分は「巣南町」と刻まれた上に「瑞穂市」のプレートが張られているようだ。(右写真の左端)町村合併の影響がこんな所にも出ている。

 美江寺宿の本陣は問屋場をも兼務していた山本家である。本陣の建物は明治24年に起こった濃尾地震で倒壊した。その後復元されたが、老朽化したため取り壊されたという。

 宿内を北進し突き当たった所に、美江神社がある。(左写真)熊野三所大権現を祀り、地元では権現様と呼ばれ親しまれてきたという。美江神社の境内には、前岐阜県知事上松陽助氏の揮毫による「美江寺宿跡碑」が立っていた。(左下写真)
 美江神社境内にもう一つ、ケヤキの巨木があった。幹周りは3.5m位かと思う。「日本の巨樹・巨木林」には載っていない。しかし歴史は感じられるので「美江寺宿の巨木」としよう。(右写真)

 美江神社の奥、北側に美江神社と並んで美江寺観音堂があった。(左写真)美江寺観音の由来はかなりややこしい。

 美江寺観音の由緒は遠く霊亀3年(717)に遡る。時の帝の元正天皇が都を美濃に遷すことを考えられた。(こんな史実があったのかどうか、聞いたことがない。かって、岐阜県を訪れた時、「東京から東濃へ」という首都移転のスローガンを書いた看板を見たことを思い出した。)そして、伊賀国名張郡の伊賀寺に祀られていた十一面観音を美濃に移すことを発願された。養老3年(719)に美濃に入り、本巣郡十六条村(美江寺)の地に養老7年(723)伽藍を建立し、寺号を美江寺とした。

 それから800年余経って、天文8年(1549)、美濃の国を手中に収めた斎藤道三が築城した稲葉城鎮護のために、美江寺観音を井ノ口(現在の岐阜市美江寺)移し、大日山美江寺と号した。美江寺観音は現在もその地で国の重要文化財になっている。

 「美江寺」は宿場の名前としてだけ残って350年、明治35年(1904)になって、庄屋の和田家(現在も美江神社向いの街道角にある旧家)の蔵の中にあった観音像をお堂を建ててお祀りしたのが、ここにある美江寺観音である。

 美江寺観音の前の小道を通って街道に戻る。その入口に「美江寺観世音道」の石標があった。(左写真)

 ところで美江寺はかって十六条村と呼ばれていた。地図を見ると周囲には、十四条、十七条、十八条、十九条等の地名が残っている。これは条里制の名残である。条里制とは、「広辞苑」を参照すると、古代の耕地の区画法で、おおむね郡ごとに、耕地を六町(約654m)間隔で縦横に区切り、六町間隔の列を「条」、六町平方の一区画を「里」と呼び、一里はさらに一町間隔で縦横に区切って合計36の坪とし、何国何郡何条何里何坪と呼ぶことで地点の指示を明確にし、かつ耕地の形をととのえた制度である。こんな地名を見ていると、元正天皇の美濃への遷都の計画が現実味を帯びてくる。

 街道を東に進む。100mほど先の右側に「瑞穂市指定史跡 自然居士之墓」の石標があった。(左写真の右)素通りしたが、細道を入ると墓があるらしい。自然居士は和泉国(大坂府)日根郡自然田村で生まれた鎌倉後期の禅僧で、放浪、奇行の遊行僧だったという。美江寺に滞在し、千躰仏を作り、この地で没した。

 さらに200mほど先の人家の前に「瑞穂市指定史跡 美江寺一里塚跡」の石標があった。(左写真の左)

 
 美江寺駅を左に見ながら樽見鉄道の踏切を渡る。美江寺宿ともお別れである。これより20分歩いて本田を過ぎる。本巣郡の巣南町と穂積町が合併して瑞穂市となった。本田は同じ瑞穂市だが旧穂積町に属していた。本田の道の狭くなる所に高札場跡があった。(右写真)
 間もなく左側に旧家があり、午後3時29分、本田代官所跡の案内板があった。(左写真)
 この先の通りに「中山道町並 瑞穂市教育委員会」と書かれた木柱が立っていた。(右写真)ここを特に中山道の町並と紹介する理由が今一つ解らなかった。

 糸貫川の手前右側に延命地蔵尊のお堂があった。(左写真)
 糸貫川を渡ったところで、白い髭のおじいさんに女房が声を掛けられた。日焼けして精力的なおじいさんで、青い半被を着ている。そばに「天下の宝 文化遺産 中山道 河渡宿⇔美江寺宿 岐阜県花街道づくり サポーター登録10012 山田功」という看板が立ち、ボランティアで町興しに協力していると話す。首には以前中山道のイベントがあったときの、参加者と撮った写真をぶら下げていた。

 たまたま出会ったわけではなくて、どうも中山道の旅人がやって来るのを張っていた感じがした。しかし、そのサポーターが山田翁の生きがいであるならば、それはそれで立派な老境ではないかと思った。変った人に遭うものである。せっかくだから写真を一枚取らせていただいた。(右写真)

 4分歩いて、変則四叉路の左角、道路より1mほど高くなった所に、馬場の地蔵さんがあった。(左写真)これより街道は右斜めの道を進む。この辺りは生津と呼ばれる。昔は鯰村と書かれている文献もあるようだ。

 750mほど歩いて左折し、次の岐阜トヨタのある大きな交差点で、午後4時、本日の街道歩きを終える。街道から外れて南へ下り、糸貫川を再度渡って、20分で、JR東海道本線穂積駅に着いた。本日の万歩計の歩数は38,666歩であった。










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