第 8 回
平成16年5月15日(土)
晴れのち曇り、顔、腕、少し日焼け
穂積-河渡宿-小紅の渡し-加納宿-細畑
“柳行李と合渡・小紅の渡し 河渡宿”
“御鮨街道と加納傘 加納宿”
かってはふるさとの我家にも、行商のおばさん達が毎日のように、野菜や魚介類をリヤカーに乗せてやってきた。野菜は近郊の農家で朝取って来た、まだ朝露の落ちきらないほど新鮮なものである。魚介類は朝水揚げされたものを漁港で仕入れ、茶箱ほどの缶に詰め、早朝の汽車に幾つも積み込んでやってくる。売り声はあったかもしれないが、あまり聞いた記憶がない。おおよそ時間が決まっているのであろう、お得意さんの門口で声を掛けて店を開くと、近所の奥さん連中が集まってくる。それぞれ鍋、籠持参で包装材はせいぜい新聞紙ぐらいであった。
子供の眼に印象に残っているのは、大きなナマズを注文に応じ家の前で開き、腸と骨を外してくれる川魚専門の行商のおばさんもいたことである。その鮮やかな包丁さばきを目を丸くして見入っていた。その夜はナマズの蒲焼、あのウナギと違って淡白な味が忘れられない。その後、この歳まであのウナギの蒲焼は口にしたことがない。
流通手段の発展と全国規模の産地化によってマーケットに行けば何でも手に入る便利な世の中になった。しかし、その分、新鮮さや味や香りが失われてしまった。包装は過剰になり、本来形がそろうはずのない自然の産物がきっちり規格化される不自然さを、誰も不思議に思うことはなくなってしまった。しかし近年、食の安全からスタートして、トレーサビリティや地産地消の波が大きなうねりになりつつある。
静岡県島田市の山あいに、「ジャパンバザール」という農家が農産物を出しあって直接販売するお店が出来た。自分が少し関与しているホームページ、「一耕一旗」で紹介されている。茶農家で畜産も営む青年が、自分が育てた牛肉を直接消費者に食べてもらいたいとの気持ちから、一念発起してつくったお店の「ジャパンバザール」。70軒の農家が賛同して農産物をお店に並べているという。私も牛肉と野菜を買ってきてスキヤキをにして食べたが、結構美味しくいただけた。
(詳しくは「一耕一旗」のバナーをクリック)
さて、話は変わって中山道である。お茶もほぼ終って季節も良くなり中山道に出かけた。JR東海道本線穂積駅を下車し、町を北へ進み糸貫川の土手に出て苗田橋を渡る。橋の袂には苗田橋のポケットパークがあり、苗をイメージしたらしいモニュメントが立っていた。
(左写真)
午前10時8分
、岐阜トヨタの交差点で前回の終りの中山道に戻った。そういえばこの辺りは生津という地名である。生津はナマズと読み、鯰とも表記したという。糸貫川では鯰が取れたのであろうか。鯰はやはり蒲焼にして食べたのであろうか。
ところで、この旧穂積町はかって柳行李(やなぎごうり)が名産品であった。西堀弥一(1854~1925)は湿地を好む柳の栽培が、水害に苦しむこの地に合っている考え、先進地の兵庫県の但馬から職人を招き、柳行李などの柳を使った製品を製造する産業を興した。大正時代には海外に輸出されるまでになり、この穂積の主要産物となった。しかし、今では廃れてその名残も見ないという。その兵庫県但馬の柳行李の産地が私のふるさとである。昔から水害に毎年のように苦しめられた土地柄は、輪中の地のこの辺りと共通のものであった。
広い通りを東へ10分進み、天王川を渡ると生津から河渡(ごうど)宿に入る。橋の近くの道沿いに「中山道 河渡宿 日本歴史街道」の木製の標識が建っていた。
(右写真)
右手に杵築神社の森が見え、ひょっとして巨木が見つかるかとも思ったが、入口が分らないままに通り過ぎてしまった。宿中の左に、正面に「中山道 河渡宿」、側面に「一里塚」と刻まれた太い石柱があった。
(左写真)
中山道河渡宿文化保存会の案内碑文によると、
中山道河渡宿
江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。
加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁栄した。
ここはかって一里塚のあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。
脇にもう一面、案内の石碑があった。
中山道河渡宿文化保存会の案内碑文によると、
松下神社
中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり、土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。
この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。
碑は太平洋戦争の戦災で焼こわれ、今は一部しか残っていない。
もとは川に挟まれた湿地帯のような場所の河渡宿は何度も何度も水害に見舞われ、家を流された宿場だったのであろう。古いものは何も残っていない。そんな苦難が伝わる碑文である。
宿場が尽きてすぐに長良川の堤防に出てしまった。堤防に上がって河渡宿を振り返ってみた。何の変哲もない町並が一筋あるだけであった。
(右写真)
堤防を降りて、案内書に載っていた観音堂を探しながら長良川を渡る橋の方へ歩く。
午前10時39分
、観音堂は土手から少し離れたところにあった。
(左写真)
かっては渡し場のそばに建てられ道中の安全を祈ったものであったが、水害で壊れる度に場所が移り、昭和56年に河川が改修されて、現在地に安置されることになった。
元々は愛染明王像であったが、いつか地元では馬頭観音として親しまれてきた。馬頭観音像としては中山道美濃16宿で最大級の、高さ1.7mの石像である。
(左写真の左)
河渡町内中の案内板によると、
観音堂縁起
正徳より天保年間にかけて、徳川幕府大平の記録に中山道六十九次の内第五十四河渡宿大概帳に、本陣水谷治兵衛、問屋久右衛門、八兵衛、庄屋水谷徳兵衛とあり、本陣一軒、旅籠屋大四軒、中九軒、小十一軒あり、酒屋・茶屋・豆腐屋・煙草屋など建ち並び、西国諸大名の江戸幕府への参勤交代時には、御転馬役、歩行役の命令あり。東へ加納一里半、西へ美江寺一里七丁。
この荷駄の送迎、旅人の往来、宿泊に賑わい、この荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づヽ寄進し、道中と家内安全、五穀豊穣祈願し、愛染明王を奉祀す。地元では馬頭観音さんと仰ぎ、猿尾通称お幕場に六間四面の堂宇を建立、毎年九月十七日を祭日と定め、祖先は盛大に讃仰護持し来れり。
その後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊、同二十九年九月大洪水に本堂流出す。堤外中段渡船場右側に再建。昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る。同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置、同五十六年本川拡幅に伴う遷座となる。島川東洋子氏御一家の篤志を受け、現聖地37.3坪に奉遷新築す。町民の総意と協力により、工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成。
観音堂の境内には真新しい石柱や石燈籠が建っていた。
(右写真)
石燈籠には「中山道 河渡宿」の文字が、石柱には「中山道開宿400年記念」「いこまい中山道河渡宿」の文字が踊っていた。
往時、長良川を渡るには河渡(または合渡)の渡しで渡った。ところでこの地を「河渡(または合渡)」と呼ぶのは、かって河上で二つに分かれ長良川がこの地で再び合流したことによるらしい。それならば「合渡」の方がふさわしい。河渡の渡しは河川改修が著しくて渡し場の場所を特定することすら難しいようだ。現在は長良川に架かる県道の河渡橋を渡るしかない。
(左写真)
県道に出る緑地帯に前回の最後に出会った、中山道のサポーター山田翁の案内板に出会った。「江戸ロマン姫街道 ようこそ河渡宿へ ありがとうございます いつまでもお元気でお幸せに 河渡宿町内会 岐阜県サポーター 登録№10012 山田功」と書かれていた。
岐阜で長良川を渡る唯一の渡し舟が残っている場所があるとの情報があった。それは「小紅の渡し」という渡し場である。河渡橋から長良川を川上に1km余り遡った所で現在も運航されているという。その渡しを使うと対岸の岐阜市鏡島に着き、中山道に合流できる。少し街道を逸れるが、どうしても渡し舟に乗ってみたいと女房の同意を得る。河渡橋から下りて土手道を行くことにした。
土手を約20分、長良川の支流の伊自良川に架かる寺田橋を渡り、左手にとんがり屋根の水門を見て間もなく、
午前11時17分
、小紅の渡しに着いた。
(右写真)
しかし、本日は欠航。この結果は予想していなかった。小屋のそばでおじさんが所在無さそうに器具を整備していた。水位が1mほどオーバーしているという。一昨日あたりに雨が降ったらしい。川の流れはそんなに増水しているようには見えなかった。「舟は出せないことはないのだが、かたく禁止されているので悪いね。」この渡しは現在も「県道文殊茶屋新田線」として、岐阜県が運営していて、地元に委託されているのだという。したがって渡し賃は無料である。残念であるが引返すしかなさそうだ。代わりにおじさんに一枚写真を取らせてもらう。
(右下写真)
岐阜県岐阜建設事務所施設管理課の案内板によると、
小紅の渡しについて
由 来:
渡しがいつ頃からあるかは定かでありませんが、最初に史実に登場するのは元禄五年(1692年)です。以後、長良川の川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えていました。また、加納藩の支領北方、文殊領本領への主要道であり、鏡島弘法(乙津寺)への近道としても大変賑わっていました。
「小紅」の名前は
1.お紅という女船頭がいたとする説。
2.対岸からお嫁入りするときに、花嫁が川の水面に顔を映して紅を直したとする説。
3.ベニを採る草が生えていた説。
など、色々な説がある。
現在、この渡しは「県道文殊茶屋新田線」として、岐阜市に通じ、(空白)が委託を受けて運営にあたっており、岐阜市内では唯一の渡しです。
利用料金:
無料
利用時間:
4月1日~9月30日 午前8時~午後5時00分
10月1日~3月31日 午前8時~午後4時30分
休 航 日:
毎週月曜日、年末の12月29日、30日、31日
(月曜日が国民の祝日に関する法律に定める休日もしくは21日と重なる場合はその翌日)
※ 悪天候の場合、川の増水などで休航するときがあります。
午前11時40分
、戻り道で少し早いが、今日は昼食にはありつけそうにないからと豊橋の駅で買ってきたおにぎりを、長良川の土手の草地に座って食べた。暑くもなく寒くもないすばらしい陽気で、上空ではせわしなく雲雀がさえずり、川原の葭原のそこここでオオヨシキリのジャズ演奏が聞こえた。
河渡橋を渡りながら上流側をみると今歩いて来た土手がたどれた。この橋から上流では伊自良川と長良川は中洲でしっかりと区切られている。
(左写真)
長良川を渡るといよいよ岐阜市内に入った。
長良川から東へ歩いて1km余り、鏡島を通る。街道から北へ200mほどの長良川沿いに「鏡島弘法」がある。行基菩薩が天平10年(738年)に開創し、弘法大師が乙津寺と名づけて七堂伽藍を造営したと伝わり、「鏡島の弘法様」として知られている。小紅の渡しを渡ると鏡島弘法に着いたはずであった。
鏡島の街道で、案内書に「街道風情の残る蕎麦屋」と紹介されていた町屋があった。しかし、のれんや幟がなく、商売を止めてしまったように見えた。
(右写真)
5分ほど進んで、
午後0時34分
、岐阜街道との追分に至る。
(左写真)
中山道は右折をするが、直進する道が岐阜街道である。岐阜街道は岐阜市内で中山道と交差したのち、南へ下り、笠松町から木曽川を渡って、一宮市北方町、木曽川町、一宮市、稲沢市赤池・下津を通って、起点の稲沢市井之口に至る。県道岐阜稲沢線及び名古屋一宮線の元になった街道である。
10数分歩いて県道77号線を渡り、すぐに県道92号線を渡る右手に天満神社と八幡神社が並列している。参道に御神木の夫婦イチョウが並んでいた。
(右写真の右)
その道路端に石の道標が立っていた。一面に「→本荘村ヲ経テ加納二至ル」、一面に「←市橋村ヲ経テ墨俣ニ至ル」と刻まれていた。
(右写真の左)
ややうらびれた駅裏のような町を進み、JR東海道本線のガードをくぐり、西へ進んで県道151号線を横切る。ここまで約50分歩いた。
午後1時42分
、渡った角に中山道加納宿の案内板があった。
岐阜市教育委員会の案内板によると、
中山道加納宿
あなたが立っている道は、五街道の一つ、中山道です。またこの場所は江戸時代の加納宿九町目の西の端にあたり、右手は本荘村でした。九町目は加納宿の一番西の町ですから、ここは宿の西の入口にあたります。
加納の町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(1601)三月、10万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、城下町として整備したことに始まります。その後、寛永十一年(1634)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、21の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く岐阜・熱田道(御鮨街道)と交わっており、交通の要になっていました。
4分歩いて左側の秋葉神社の祠
(左写真の右)
の前に「中山道加納宿西番所跡」の石碑が立っていた。
(左写真の左)
ところで「番所」とは広辞苑によると、
「江戸時代、交通の要所に設けて通行人や船舶などを見張り、徴税などを行なった所。」
とあった。
加納栄町通りを横切り左側に脇本陣跡の石碑を見て、すぐに左手に加納天満宮があった。境内に入った左側に樹木に囲まれて、傘祖彰徳碑があった。
(右写真)
そばに加納傘の沿革を案内した碑文があった。
案内碑文によると、
加納傘の沿革
加納の傘は今から323年前即ち寛永16年(1639年)、松平丹波の守光重が播州明石から加納城主となったとき、傘屋を連れてきて傘の製造に従事させたのに始まると伝へられている。同業者結束、藩主の奨励により発達してきた。
明治十三、四年頃、美濃加納製傘商会が創立された。明治十九年美濃傘問屋組合を結成して専ら改善販路を拡張し漸次隆盛に向かうこととなった。明治四十二年岐阜県傘同業組合に改組して発展に努めた。昭和十年八月取引上の欠陥製品の改善をはかる為同業組合を解散して岐阜県一円を区域とする岐阜県和傘工業組合を組織し事業は一段と進んだ。
昭和十二年より支那事変が起り、昭和十六年十二月八日大東亜戦争に発展し、生産と価格が統制され、昭和17年傘統制組合に改組して生産部と販売部の二部制にして統制された。昭和二十四年新しく組合法が制定され、岐阜県和傘商工業協同組合を組織され、海外引揚者が製造に従事し、傘製造戸数1200戸、従業者三万人を越え、年産数1350万本、全国首位を占め、敗戦した日本の復興を援けた。
昭和三十五年頃より洋傘の進出と交通機関の発達により年と共に生産が減少するに至るも、傘祖の遺徳は永久に忘れてはならない。
真新しい本殿の石段手前の左右に一本づつクスノキの巨木があった。
(左写真)
このクスノキを「加納宿の巨木」とする。クスノキと並んで臥せる牛の石像が一対奉納されていた。明治二十七八年役戦捷紀念の表示があった。「明治二十七八年役」とは日清戦争のことである。
石段の上にももっと新しい黒い臥牛像が一対奉納されていた。天満宮と牛はどんな縁があるのか、疑問に思って後日調べてみた。丑
(うし)
の年に生れ、丑の日に薨ぜられた菅原道真公は遺言で、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とされ、その牛は、東に歩いて安楽寺四堂のほとりで止まったので、そこを墓所と定めたという。道真公が牛に特別な思いを持っていたことが知れる。そんな言い伝えに基づく臥牛像の奉納なのだろう。道真公といえば死後猛威をふるい崇りと恐れられた雷の話がある。雷の鬼の角はまさに牛の角であると思うが、これらの伝説の間に何らかのつながりがあるのであろうか。
境内に「加納天満宮の山車」の案内があった。
岐阜市教育委員会の案内板によると、
岐阜市指定重要有形民俗文化財 山車
加納天満宮の山車は、総高498.5cm、屋根を大唐破風造とした三層構造で、二層目高欄間が正面205.5cm、側面(奥行)323.5cmの規模をもつ。各層と屋根を動物や花の彫刻で装飾し、二層目が後方へ向かって曲線でせり上がっていることは、この山車に変化と美しさを与えている。
附属するからくり人形の収納箱に墨書があり、これから推定すると、この山車は濃尾大震災(明治二十四年)で焼失したものを明治35年前後に再建したものと思われる。
大唐破風や高欄の手法などから、長野県諏訪の立川流と呼ばれる一門の作と推定されている。
天満宮入口の左右には立派な一対の石燈籠があった。
(右写真)
上から宝珠、請花、笠、蕨手、火袋、中台、竿、基礎と揃って繊細な彫物が施されている。基礎の一段目には「加納」とか「以呂波組」などの文字も見え、江戸時代のものであろうか。
街道に戻って、左側に「中山道加納宿脇本陣跡」の石標が黒い門の家の前にあった。
(左写真)
続いて「加納宿西問屋跡」の標柱には案内文があった。
岐阜市教育委員会の案内標柱によると、
加納宿西問屋跡
西問屋は加納の宿問屋でした。万治元年(1658)、松波清左衛門が開業しました。ここでは西は河渡宿から、東は鵜沼宿から加納宿へ出入する人馬の継ぎ立てをしました。
続いて左側に白い塀の人家の前に、「皇女和宮御仮泊所跡」の石標があった。
(右写真)
石標の側面には「中山道加納宿本陣跡」とあった。玄関口に赤茶色の皇女和宮の歌碑が建てられていた。
中山道加納宿文化保存会の案内板によると、
皇女和宮の歌碑
仁孝天皇の皇女、和宮親子内親王は将軍家茂との結婚のため、文久元年(1861)十月二十日京都桂御所を御出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。
同年十月二十六日当地加納宿本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。
遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており和宮の直筆である。
本年は中山道宿駅制度が設置されて四百年記念に当り、幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。
この加納宿の本陣は松波家が務めていた。皇女和宮の行列が通過するだけでも4日間かかったといい、宿場始まって以来の大騒動であったという。
加納桜道の角には木製の「中山道加納宿 日本歴史街道」標識があった。さらに桜道を横切った左側の民家の駐車場前には、「中山道加納宿当分本陣跡」の石碑があった。
(右写真)
その側面には「明治天皇御小休所跡」とあった。この「当分本陣」というのは、文久三年(1863)から当分の間ということで補助的に置かれた本陣であったようだ。和宮の行列が通った時はまだ本陣ではなかったことになる。
午後2時35分
、右側に昔の旅籠の「二文字屋」があった。
(右写真)
二文字屋のトレードマークは左甚五郎が宿賃代わりに彫ったと伝わる欄間のウサギだというが、現在、二文字屋はウサギならぬウナギ料理で有名だという。
案内板によると、
左甚五郎とウサギの欄間
昔当店あたりは中山道加納宿でございました。
当店の初代上野長七郎がこの場所で旅籠二文字屋を始めましたのが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎が二文字屋に泊り彫ってくれた欄間でございますが火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。
向いの二文字屋の敷地内の角に、道標があった。「ひだり京」と読める。
(右上写真の円内)
案内板があった。
案内板によると、
中山道加納宿(二文字屋)
東海道とともに江戸時代の五街道の一つ中山道はその前身を東山道と呼ばれ古代から中世にかけて西国と東国とを結ぶ重要な官道でございました。
正徳六年(1716)四月■書に五畿七道の中に中山道、山陰道、山陽道のいづれも山の道を「セン」とよみ申候。東山道の中筋の道に候故に中山道と申事に候と説明しています。
この中山道加納宿は江戸板橋より大津までの六十九次の一つ、江戸時代には東海道とともに江戸と京と結ぶ重要幹線の宿場町として賑わいました。また東海道のように浜名、桑名の渡しや川留めの多い大井川など水による困難の少ない中山道は女性道中に愛用されました。
家並こそ戦災で失われましたが、加納宿の道幅と二文字屋の屋号は今も昔の姿を止めています。
創業元和六年 十二代目二文字屋主人敬白
3分ほど進んだ右側に灰色の古い鉄筋コンクリートの建物があった。
(左写真)
入口や窓のアーチ型意匠が古さを示している。ここは旧加納町役場である。建築家武田五一の設計により、大正十五年(1926)に建設され、現在は岐阜市の学校給食会が使用している。現在、文化庁に対して国の有形文化財に登録申請しているという。
中山道はやがて左折して、右折左折を繰り返し古い町を東へ抜ける。その最初の角を中山道の往還とは反対に右折した先に加納城跡があるというので、道草をすることにした。500mほど南へ歩いて突き当たった先に、加納城の石垣があった。
(右写真)
城内は広い草地になって家族ずれがちらほらと憩っていた。
(右下写真)
城内に案内板があった。
岐阜市教育委員会の案内板によると、
国史跡 加納城跡
徳川家康は、慶長六年(1601)三月、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与え、また亀姫の粧田として二千石を給した。
築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、南曲輪(大藪曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的な城郭であった。
加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治二年加納城第十六代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年七月十四日に廃藩に至った。
加納城跡は、この本丸のほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。
中山道に戻って、歩道橋の根元に「加納城大手門跡」の石碑が建っていたのに気がついた。
(左写真)
右折した角を突っ切って左折する方向へ進む。すぐに清水川を渡るが、その橋の袂に高札場跡の案内板があった。
岐阜市教育委員会の案内板によると、
加納宿高札場跡
ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りの辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿のこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約3.5メートル、幅6.5メートル、横2.2メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に、「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚もの高札が掲げられました。
午後3時15分
、橋を渡ってすぐに街道は右折する。
(右写真)
角に「長良川ツーデーウォーク 30kmコース 主催 岐阜県ウォーキング協会・大垣歩こう会」の案内板が赤い矢印とともに立てられていた。
(右写真の円内)
しばらくはこの標識に導かれながら少しややこしい中山道を行く。
すぐ左側に「岐阜問屋跡」の案内板があった。
岐阜市教育委員会の案内板によると、
岐阜問屋跡
加納新町の熊田家は、土岐・斎藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の問屋役をつとめていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入する商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。
江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立てをしており、御用堤燈を許されていました。
献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、御鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。
岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。
尾張藩が長良川で取った鮎を「なれずし」に加工し、岐阜街道から美濃路、東海道を経由して江戸幕府に献上した。そのため岐阜街道は御鮨街道と呼ばれた。この岐阜問屋で継ぎ立てをしたというから、岐阜街道もこの近くを南へ下り、この近くで中山道と交差したはずである。なお「なれずし」は広辞苑によると、
「塩漬にした魚の腹に飯をつめ、または魚と飯を交互に重ね重石(オモシ)で圧し、よくなれさせた鮨。魚介類とめしなどを発酵させて、自然の酸味で食す。」
とあり、大津の鮒ずしは有名である。
続いて右側に戦国時代の文書が数多く残る専福寺を見て、すぐ左側に、連子格子と黒い板壁の目立つ町屋が一軒あった。
(左写真)
通りを斜めに突っ切り左折してもう一度通りに出る手前の三角地に柳の木が一本と「中山道加納宿東番所跡」の石柱が建っていた。
(右写真)
通りを北に渡るとすぐそこが名鉄名古屋本線加納駅である。名鉄新岐阜駅の一つ手前の駅になる。
中山道は通りに出ないで手前を右折して東へ進む。
県道を突っ切って進むと交差点の左の駐車場角に、自然石に文字を刻んだ道標があった。
(左写真)
「右 岐阜 谷汲 左 左京 明治十八年八月 上可能後藤松助 六十一」とあった。御鮨街道と呼ばれた岐阜街道はここで中山道と合流し、加納大橋を渡った後に東に進む中山道と分かれて南へ下っているようだ。
新荒田川に架かる加納大橋を渡ると、右側に加納八幡神社があった。 境内に入って県道181号岐阜那加線側に出た所が神社の正面で、巨木が2本ある。「日本の巨樹・巨木林」によると、「八幡神社のクスノキ」と「八幡神社のイチョウ」である。いずれも岐阜市の特定保存樹木となっている。イチョウの方は傷みが激しいので、「八幡神社のクスノキ」を2本目の「加納宿の巨木」としよう。幹周囲3.4m、樹高22m、枝張13m。
(右写真)
そばに加納八幡神社の由緒が書かれた案内板があった。
案内板によると、
御由緒 銀弊社 加納八幡神社 御祭神応神天皇
八幡神社の創建年代不詳。慶長五年(西暦1600年)関ヶ原合戦後、徳川家康は岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築した。その際に八幡神社が城郭内に入ったので、本神社を加納城の東北に遷じ、本状鬼門除並に守護神として、現在地に遷座し奉った。これが加納八幡神社の起源である。加納城主奥平信昌正室亀姫を始め歴代城主と共に住民たちの信仰は篤く、現代に受つがれている。(後略)
この後、中山道は岐阜街道と分かれて県道181号岐阜那加線を東へ進む。名鉄名古屋本線の踏切を渡る手前の茶所薬局の角を右折して、すぐ右に「鏡岩の碑」がある。
(左写真)
お堂の側面、道路に面して丸く削られた石に「鏡」と刻まれ、台石に「鏡岩濱之助門弟中」とあった。またそばに伊勢道の道標があった。
(左写真の左)
北面に「江戸木曽路 うぬま いぬやま せんこうじ みのふさん」、東面に「東海道いせ路 かさまつ 竹かはな つしま なこ屋 みや」、後ろ側に「京都 大坂 西国道 きふ こうと たにくみ こんひらさん」、そして南面に「天保十二年 辛丑十一月 鏡岩濱之助内建之」と刻まれていた。
案内板によると、
ぶたれ坊と茶所
この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。
鏡岩は皆んなにぶたれるために身替りの木像を置いたという。ということは、江戸時代もぶつことでストレス解消をしたのであろうか。またそんなストレスを持った人が多かったのであろうか。
名鉄名古屋本線の踏切を渡る。すぐ右側が茶所駅である。駅の敷地内に中山道加納宿の石碑が立っていた。
1kmほど西へ進むと右側から伊勢道が合流してくる。その三角地に延命地蔵堂と道標があった。
(右写真)
道標には線刻の指型の方向指示とともに、「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松江 凡一里」、「西京道 加納宿迄 凡八丁」、「木曽路 せき 上有知 郡上 道」、「明治九年一月建之 遠藤平左ヱ門」の文字が読めた。
200mほど進んだ道の両側に「細畑の一里塚」があった。
(左写真の左右)
植わっている木はやはりエノキであろうか。
案内板によると、
細畑の一里塚
中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約3.9キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約9.1メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。
細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約13.3キロメートル)、西方の加納宿まで三十町(約3.3キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている。
今日も
午後4時
を回った。進盛堂小木曽薬局の母屋のほうに唐破風屋根付の古い看板が掛かっていた。
(右写真)
ほとんど消えかかっているが「明治水」と読めた。「明治水」とはやはり薬なのであろうか。
本日はここまでとして、すぐそばの名鉄各務原線の細畑駅に行き、待つ間もなく来た電車にとび乗った。万歩計の歩数は33,752歩であった。
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