第 9 回
平成16年9月23日(木)
くもり時々晴れ夕刻パラパラ雨が降る
細畑−切通−新加納宿(間の宿)−各務ヶ原−鵜沼宿
“航空基地の町 各務ヶ原”
“犬山城と芭蕉縁の坂井邸 鵜沼宿”
今年の夏は暑かった。その暑さも手伝って、この夏売れたものにペットボトルの緑茶がある。一説によるとペットボトルなどの飲料の4割は緑茶系飲料だという。どの商品群を指すのか今一つはっきりしないが、コンビニに行っても緑茶系の飲料がずらりと並んでいる。しかもこの暑さで売れ行き絶好調なのだろう。
中でも「伊右衛門のお茶」が発売されてから、清涼感のお茶から味わえるお茶へと流れが変わった。伊右衛門というと四谷怪談を思い出す。おいおい何というネーミングをするんだと思ったのは自分だけではなかろう。しかし、四谷怪談の伊右衛門のイメージはもう払拭されたみたいだ。コマーシャルの力であろうか。
従来のペットボトルのメーカーも味わいを競う商品を出し始めた。今までペットボトルでは一本2グラムのお茶を使っていたが、「伊右衛門のお茶」は4グラムのお茶を使っていると聞いた。同じ量を作るのに倍の緑茶が必要だとすると緑茶の需要は大変な増え方になる。それを反映して、この夏の2番茶、3番茶のお茶の相場は20〜30%の高値で推移しているという。
今年は、お茶の主流が葉っぱで飲むお茶からペットボトルに移った年だと、何年か先に言われるようになるかもしれない。それほどの流れが今茶業界には起こっている。
前回の帰りと逆をたどって、JR岐阜駅から名鉄新岐阜駅まで岐阜の繁華街を歩き、名鉄各務原線に乗って二駅目が細畑駅である。高架の駅から降りて広い国道156号線を南へ150mで、
午前9時32分
、国道を渡る細い中山道に戻る。振り返ると前回最後となった国道の向い側に黒い板壁の木造倉庫群が並んでいたのがみえた。
(左写真)
前回は細畑駅を探すのに気を取られ気付かなかった。中山道は東へ進む。右側には境川が並行して流れている。町場の汚れた川である。間もなく広い道を渡って細畑から岐阜市切通に入る。
300mほど歩いた左側に伊豆神社があった。
(右写真)
御祭神は大山祇神
(おおやまつみのかみ)
の娘の石長姫命
(いわながひめのみこと)
。この神社はこれより1kmほど東に鎮座する天手力雄命
(あめのたぢからをのかみ)
を諌めるために置かれたという。
天手力雄命はいわずと知れた天照大御神が天岩屋戸
(あめのいわやと)
にお隠れになり、この世界が真っ暗になったとき、天照大御神の御手をとり、天岩屋戸からお出ししたという力持ちの神である。天照大神の孫の瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)
が高天原
(たかまがはら)
から高千穂に降臨されたとき、天手力雄命も随行している。
降臨された瓊瓊杵尊は大山祇神の娘の木花之開耶姫
(このはなのさくやひめ)
に求婚するが、その折、木花之開耶姫の姉の石長姫命を添えて奉ったが、その醜さゆえに帰されたという。そんな石長姫命がにらみを利かせていれば、いかに荒ぶる神であっても大人しくなりそうである。
氏子中の案内碑文によると、
伊豆神社の由緒
当神社の創立年代は不詳であるが御祭神は大山祇神の娘石長姫命で生命は岩の如くゆるぎないようにと健康長寿をつかさどる神であり、全国主要神社でこの神を主祭神とする神社は皆無である。
また天手力雄命(手力雄神社の御祭神)が男の荒神であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字石長あたりに鎮座されていたのを水害等のため当地に遷されている。
伊豆神社の右隣に馬頭観音の祠があった。
(左写真)
祠の添って道標が立っていた。かなり風化が激しくて、「左 京ミち」は何とか読めるが、「右 ・・・」がもう読めなくなっている。
案内板によると、
馬頭観世音菩薩
煩悩・濁悪の世にあってひたすら衆生の苦を救うことを本願とする観音です。(広辞林)
交通安全・赤ちゃんの夜泣き封じに霊験あらたかとか。(古老談)
切通の通りは何やら懐かしさを感じる町並が続いている。
(右写真)
左手に岐阜信用金庫の前に「切通」の案内板があった。
(左写真)
案内板によると、
切通の由来
切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞留水を境川に落していたことによると言う。
文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられ、この地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し、長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり、以後幕府領・大垣藩預り地と変わり、享保三年(1802)磐城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ、幕末までこの地を治めた。
切通は古来東西交通の要路にあたり、江戸初期中山道が開通されるや、手力雄神社前から淨慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ、旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。
まもなく正面に鳥居が見えて、500m先の手力雄神社の参道が始まる
(右写真)
が、中山道はここを左へ折れて進む。鳥居の足元の角にやや傾いた石標が立っていた。
(右写真の円内)
正面に「左 木曽路」、裏側に「左 東京 善光寺」とあった。どういう形で立っていたのか想像してみたが、両方の文字を生かす石標の立て方は思いつかなかった。
後で思いついたことであるが、今まで見てきた石標で正面と裏面に刻んだ例は少ない。二面に刻むならば、裏面は隠れて見にくいから、正面と側面に刻まれる。裏面には刻んだとしても建立年月や建立者を目立たぬように刻んでいる例が多い。また「木曽路」と「東京善光寺」は同じ方向を示している。
そこで考えたのであるが、この石標はもとは「木曽路」と刻まれただけであった。明治になって石標の裏面に、時代に合うように「東京善光寺」と刻んで、それを表面にして立て直したのではないかと考えた。そうすれば正面裏面共に「左」と表示されているのも納得がいく。車時代になって、石標が標識としての役割を失った頃、もう一度裏表を逆にして立て直され、現在の形に戻ったのであろう。「左 木曽路」の方が中山道の雰囲気が出ると思われたのであろう。すべてが想像である。
この角は街道の「枡形」でもあった。
手力雄神社では毎年4月に「手力の火祭り」が行われ賑わうという。三河地方で行われる手筒花火と同じように、男たちが手筒花火を手に境内を駆け回り、火棚に仕掛けられた「山焼花火」は滝のようになって御輿を担ぐ裸男たちに降り注ぐ勇壮な火祭りである。
午前10時12分
、10分ほど歩いた左側に「ギャラリ長森」という民家の表を改造したギャラリーがあった。
(左写真)
店に入ると「志津野克己写真展」をやっていた。第18回とあったから素人としてもかなりのベテランである。ひたすら花を取り続けた人らしく、花を撮るに色んな技術が使われている。アップの花と遠景の花を二重写ししたり特殊レンズを使ったテクニックを見せたりと、面白い写真が並んでいた。ギャラリーにいた人に声をかけると御本人であった。帰りに写真を撮らせていただいた。
少し歩いた右側の民家の塀に、郷土史講演会の案内ポスターが貼られていた。題は「古文書にみる 平成18年 NHK大河ドラマの主人公 山内一豊(土佐藩祖)美濃ゆかりの人」、講師は郷土史家の田中豊氏という。山内一豊は土佐に移封になる前にご近所の遠州掛川の藩主であった。家のそばの大井川には、「一豊堤
(かずとよつつみ)
」も残っている。講演会は11月7日でまだ先の話である。
そんなことをポスターを見ながら女房と話していた。その家に自転車で戻ってきた女性が我々を追っかけてきて、「ご興味がおありかと思って」といい、チラシをくれた。「旅をしている者で、参加は出来ませんが記念にいただきます」と言って受け取った。「旅をしている者で」というフレーズを一度は使ってみたかった。
すぐに境川を渡る。桜並木の土手には彼岸花の赤が目を引いた。
(右写真)
桜の季節にはさぞかし華やかな川縁となるであろう。境川には沢山の真鯉が泳いでいた。この鯉は10年前から岐阜東ロータリークラブが毎年稚ゴイの放流を続けているものだという。
高架の東海北陸自動車道を潜って各務原市に入る。右側の善休寺前に、今風童顔の道祖神があった。
(左写真)
道祖神の前には供花のように彼岸花が生えていたが、花が終ってしまっていたのが残念である。
午前10時48分
、街道は変則四叉路に至る。まっすぐの道、右斜めの道なりの道、右折の道。中山道は右折する。100mほど南へ進んで左折し、100m行って先ほどの道なりの道と合流する。左折した角の医院の前
(右写真)
に、「右 京みち」「左 木曽みち」と刻まれた石標があった。
(右写真円内)
さらに道なりの道と合流する鋭角の角には新加納立場の案内板と「新加納一里塚跡」の標柱が並んで立っていた。
(左写真)
加納宿から次の鵜沼宿までは16.8kmある。宿場間の距離が長いので、この新加納立場は「間の宿」の役割を果たしていた。
各務原市の案内板によると、
中山道新加納立場(各務原市那加新加納町)
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行なった。
中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約536km)の間に六十七の宿場が設けられた。各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は四里十町(約17km)と距離が長いため立場(たてば)〔建場茶屋〕と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。
午前11時23分
、各務原の市街地の通りに出て新境川に掛かる那加橋を渡る。
(左写真)
歩道には「なか21モール」の文字および図案化されたトンボのマークのタイルと、人が空を飛ぼうと試行した飛行モデルの絵が所々にはめ込まれていた。
(左写真の左下)
各務原市街地のすぐ南側には航空自衛隊岐阜基地があり、各務原航空宇宙博物館があるという。このタイルはそれを意識したものである。「モール」は遊歩道のことである。
那加橋を渡ると左手に芝がうわった市民公園が広がる。ここは元岐阜大学農学部の跡地で道路に近い方に各種のかなりの太さの木が並んでいる。その多くに各務原市の保存樹木の標識が付いていた。樹種も記入されている。中にメタセコイヤが一本あった。
(右写真)
戦後植えられたものであろうが、すでに巨木の水準に近づいている。成長の早い樹種であるから10年経てば巨木と呼ばれることが出来そうだ。この木を「各務原の巨木」としよう。メタセコイヤは和名を「アケボノスギ(曙杉)」という。命名は昭和天皇だと聞いた。
市民公園の一郭が終わり、道路を渡った左角の駐車場にナッシーと名付けられた張子の恐竜がいた。
(左写真)
台車に「シートベルト着用日本一 今すぐシートベルトを」と書かれていた。ここは警察だった。
案内板によると、
愛称 ナッシー
ネス湖のネッシー、池田湖のイッシーにたとえ、那加のナをとり、ナッシーと名付けました。
那加地区内での事件、交通事故の皆無(ナッシー)を目指し、皆さんの安全で平穏な生活をとの願いが込められています。
■ 学名 ・ ティラノサウルス レックス(竜盤目、獣脚亜目)
■ 生きていた時代 ・ 6700万年〜6500万年前(白亜紀終わり頃)
■ 食性 ・ 肉食
■ 全長 ・ 最大15メートル
■ 体重 ・ 最大 7 トン
■ 時速 ・ 約60キロメートル
皮膚の色は、現生しているトカゲなどを参考にしました。
午前11時40分
、少し早いが昼食にする。ガストというファミリーレストランに入る。ファミリー向けのレストランであった。熟年夫婦は要領が分らずにいると、水や橋などは自分で取って来るのだと説明をしてくれる。隣のボックスでは大学生らしい男女が講義ノートのようなものを出して情報交換をしていた。
市街地を抜けた蘇原六軒町に入り、
午後0時30分
、左手に神明神社があった。
(左写真)
神明神社の前に馬頭観世音菩薩の祠があった。
(左写真円内)
周りに沢山の幟が立て回されていた。さらにその隣には山神の碑が立っていた。
これより100mほど東へ進んだ左側に「旧中山道六軒一里塚跡」の標識が立っていた。
(右写真の左)
そしてまもなく中山道は国道21号線に合流し、しばらく国道21号線を行くことになる。このあたりは各務原市三柿野町という。明治七年、三滝新田・柿沢村・野村の三つの村が合併し各村から一字づつとって三柿野村と命名したのが地名の由来である。
名鉄各務原線を高架で越える。この辺りは鵜沼川崎町という。近くに川崎重工業や川崎航空機工業といった会社がある。企業城下町なのであろう。六軒一里塚跡からは約30分ほど歩いた左側に御堂があり、境内に石燈籠と石地蔵と祠があった。
(右上写真の右)
「中濃三弘法第弐番處」「中濃新四国第七十八番處」の石碑が立っていた。
午後1時23分
、次の鵜沼三ツ池町の街道北側に三ツ池神明神社があった。本殿右側に空地があり、拝殿の礎石があった。
(左写真)
その拝殿も伊勢湾台風で樹木が倒れ倒壊してしまった。旧東海道を歩いたとき、各地に伊勢湾台風の傷跡として語り継がれている事柄が残っていた。伊勢湾台風は今でも戦後最大の台風であった。
三ツ池町の案内板によると、
三ツ池町文化財 三ツ池神明神社拝殿礎石
拝殿創建は不明ですが、明治三十五年(1902)三月二十四日に再建された当時の神明神社拝殿の規模は正面五間、側面四間の本格的な舞台建築で祭りには村芝居が行なわれ、区民の思い出深い拝殿でしたが、昭和三十四年(1959)九月二十六日の伊勢湾台風で、境界の樹木の転倒により拝殿は倒壊しました。当時使われた礎石をここに永久保存するものです。
街道(国道21号線)は北のJR高山本線と南の名鉄各務原線の間を東へ進む。左にJR各務ヶ原駅、右に名鉄各務原駅の間を通り、案内書にあった「播隆上人碑」と「一里塚跡碑」を探しながら、JR高山本線を高架で越えてJRの北側に出た。結局目的の二つの碑は見つけられなかった。
午後2時23分
、県道205号長森各務原線が合流する交差点に馬頭観音の祠があった。
(右上写真)
国道は右へ別れて、中山道は細くなって直進し、14分ほど歩いた左側に村社津島神社があった。境内で一休みする。拝殿そばに、鉄柵で囲われて背の高いヒノキの巨木があった。
(左写真)
この津島神社のヒノキを「鵜沼宿の巨木」とする。ここでゆっくりと休憩をとった。
拝殿は道路から鳥居を潜るとすぐに参道を通せんぼするように建っていた。
(右写真)
この拝殿の裏側は皆楽座という回り舞台になった珍しいものだという。
午後3時03分
、鵜沼羽場町を15分ほど東へ歩いて、空安寺の東側に衣裳塚古墳があった。
(右写真)
後から気付いたので、少し手前の街道南側にあった坊の塚古墳は見逃していた。
各務原市の案内板によると、
県指定史跡 衣裳塚古墳
衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。
墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形を留めています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります。
衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定はできませんが、およそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築造されたと考えられます。
街道に戻ってまもなく右手遠くに犬山城が見えてきた。
(右写真)
ここから2km以上はなれた木曽川右岸の岸辺の岡の上に三層の天守閣がある。
犬山城は天文六年(1537)、信長の叔父の織田信康が現在の地に天守を造営し、城主となったのが始まりである。その後、何回か城主が替り、元和三年(1617年)、成瀬隼人正正成が城主となり、成瀬氏が代々継いで明治に至った。明治四年(1871年)、9代目正肥のとき、廃藩置県で廃城となり、天守を除くほかはほとんど取り壊された。明治二十四年(1891年)、濃尾大地震で一部が壊れ、旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ、個人所有となっている。昭和10年国宝に指定され、昭和40年解体修理が完了した。現存する天守建築の中で最古の遺構とされている。別名、白帝城と呼ばれている。
鵜沼西町入り信号のある四つ角に中山道鵜沼宿の石碑があり、周りを整備中であった。鵜沼西町公民館の前には「中山道 鵜沼宿 日本歴史街道」の木製の標識がある。
右側には間口の広い連字格子の町屋が三軒並んで、往時の宿場町を想わせた。
(左写真)
町屋と町屋の間には石燈籠や祠があった。
鵜沼宿の往還を5分歩いた左側、二宮神社鳥居の右側に白壁の塀をバックに三基の碑が立つ芭蕉塚がある。
(右写真)
この辺りが脇本陣坂井邸のあった所である。
芭蕉は貞享二年(1685)三月、貞享五年(1688)七月、同年八月の三度、坂井邸に宿泊している。一度目は「野ざらし紀行」の途中であり、二度目は岐阜で鵜飼見学の帰りであり、三度目はここより「更科紀行」に旅立った。
三度目の来邸の折り、坂井邸の主人に所望されて、
ふく汁も 喰へは喰せよ きくの酒
と珪化木に即興の句を書き、刻んで句碑とした。この珪化木の句碑は坂井邸にあったものを、現在は犬山の薬師寺に奉納され、境内に設置されている。この芭蕉塚は昭和四十年に、白い円筒形の石碑に刻んで菊酒の句碑を復元した。さらにその左右に二基の石碑を建立した。右側の石碑には
「更科紀行首途の地」
と刻まれ、
おくられつ 送りつ果ては 木曽の秋
と、美濃を離れるときに吟じた句が刻まれている。左側の句碑は二度目の来邸時に吟じた句で、
汲溜れ 水泡たつや 蝉の声
と刻まれている。
各務原市の案内板によると、
鵜沼宿と芭蕉
一、貞享二年(1685)陰暦三月、「野ざらし紀行」の芭蕉は、大垣を経て鵜沼に来り二十四・五日ごろ脇本陣坂井邸に一泊し、大針に吟行した。そして木曽川を船で下り、桑名を経て熱田に留杖し、四月末江戸に帰庵した。
一、貞享五年(1688)岐阜で鵜飼見学をした芭蕉は、七月五日ごろ再び鵜沼に来り坂井邸にて、
「汲溜の水泡たつや蝉の声」
を吟じ名古屋を経て鳴海に至り、名古屋に戻って滞留した。
一、同年八月八日ごろ名古屋から越人等と鵜沼に来り三度び坂井邸に宿る。主の所望にて楠の化石に、
「ふぐ汁も喰へば喰せよ菊の酒」
と即興の吟を書き翌九日は一か月早い菊花酒の饗応をうけ十日は句碑を彫りあげた。
一、翌十一日鵜沼を発ち木曽路を更科紀行に旅立ったが、美濃を離れるとき、
「送られつ送りつ果ては木曽の秋」
と吟じ美濃の俳人達との別れをおしんでいる。そして十五日は姥捨て山の月見をなし善光寺に詣で八月末江戸に帰庵した。
一、明治維新となり宿駅が廃止され明治十五年頃(1882)坂井邸の句碑は犬山高桑某の庭に移されたが同三十七年(1904)薬師寺へ奉納された。
一、昭和四十年(1965)五月脇本陣坂井邸跡(現武藤邸)にこれ等の三碑を建て俳聖芭蕉塚を建立した。 昭和四十年五月二十三日紀 芭蕉翁顕彰会
すぐ隣りに鵜沼宿の案内板があった。
各務原市の案内板によると、
中山道 鵜沼宿
鵜沼は古代から、交通・経済の要衝として栄えた土地で県下屈指の古墳や歴史を秘めた城跡・神社仏閣が残っています。
特に交通関係では、古代・中世の東山道各務駅や宇留間市の立った所、近世では中山道「鵜沼宿」として宿駅制度の拠点であり、人と物の集散地であったようです。
碑の建つ現在地は「鵜沼宿」の中心であり、脇本陣坂井家の跡地で本陣の桜井家に隣接しています。
宿場として、西町と東町が正式に中山道鵜沼宿として決定されたのが、慶安四年(1651年)で中山道六九次中江戸から五三番目の宿場で約100里30町(396km)です。太田宿から木曽谷最後の山路「うとう峠」の難所を越えて2里9町(約9km)、加納宿まで広大な「各務野」を越え、会の宿(立場)の新加納を経て四里七町(約17km)です。
旅篭の数は年代によって増減はありますが、天保14年には大8軒・中7軒・小10軒で人口246人、家数68軒であったようです。本陣は桜井家、脇本陣は野口家と坂井家で交替で勤め問屋も兼ねていたようです
鵜沼宿の面影は明治二四年の濃尾大地震により壊滅的な打撃を受けたのは残念な事です。わずかに残る遺跡をたどって歴史を探訪してみるのもおもしろいと思います。
まもなく大安寺川に架かる「板橋」という橋を渡る。江戸時代は板橋だったのだろうが、今は普通の橋で、新しく作られた木造の燈籠と欄干が往時を偲ばせる。
(右写真)
橋の袂の石標には「太田町へ二里八丁」とあった。
橋を渡った左側に、ここも芭蕉塚と同様の白壁の塀をバックに、英泉の「木曽街道 鵜沼ノ駅従犬山遠望」の版画を刻んだ石碑が建っていた。
(左写真)
犬山城を聳えさせた思い切ったデフォルメが楽しい。
(左写真の右)
10分ほど進んだ五叉路で信号を渡った直進する旧中山道と主要道に挟まれた三角地に、「ここは中山道 鵜沼宿 これより うとう峠」の石碑が立っていた。
(右写真)
急に細くなった旧中山道を進む。少し高台に登りながら車がようやく通れるほどの道となる。
左側に見える坂道は赤坂神社の参道である。
(左写真)
参道右側の茶色の石燈籠には「寳暦六丙子歳三■」とあった。 1756年で250年前のものである。
まもなく住宅地の十字路に出る。その三角地に地蔵尊の祠があった。
(右写真)
これより中山道は左折して “うとう峠” へ向かう。
午後3時43分
、街道歩きは今日はここまでとする。この後、まっすぐに細い道を進み、国道21号線を渡って、JR高山本線鵜沼駅から帰途につく。終わりがけになってぱらぱらと雨が降り一時傘を出したりした。
本日の万歩計の歩数は31,994歩となった。
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