第 10 回
平成16年10月23日(土)
晴れ
鵜沼宿−うとう峠−日本ライン−太田宿−太田の渡し
“坪内逍遥の故郷・播隆上人の終焉地 太田宿”
台風23号(TOKAGE)は今年日本に上陸した台風としては、実に10個目の台風である。10月20日に土佐清水市に上陸、和歌山県に再上陸し、中部山岳地帯で砕け散った。そんな中で兵庫県北部の私のふるさとでは大事になっていた。市の全人口に近い四万三千人に避難指示が出て全市が水没した。全市水没は伊勢湾台風以来のことである。舞鶴で水没した観光バスの屋根で救助を待った乗客ら37人の映像は台風23号の象徴のように語られたが、乗客は故郷の町のお年寄の団体であった。色々な方からお見舞いの言葉をいただいた。
幸いにも故郷のわが家は水没する街の中で離れ小島のように残って、水に浸かることなく済んだ。伊勢湾台風でも免れたので今回も助かるとは思っていたが、不幸中の幸いであった。しかし、親戚や知人に被害にあった人も多い。近くなら手伝いに行きたいがそれもままならない。
こんな時にと思うが、中山道歩きに出て来てしまった。中山道にもまだ台風の爪あとが残っているかもしれない。
JR東海道線、JR高山線と乗り継いでJR鵜沼駅に
午前9時45分
に着いた。案内書に魅力的な写真が載っていたので、鵜沼に着いたら旧中山道とは方向は反対になるが、木曽川河岸に出て対岸の犬山城を見ていくことにしていた。
駅から歩き始めてすぐに、女房が「京花美容室」の看板を見つけて「ここだ」という。何事かと聞くと、親戚の美容師の女性Gさんの店だと言う。昔、女房の母が身体を壊していたときに何度も来て散髪をしてもらった。随分昔にご亭主の仕事の都合で鵜沼に引っ越したと聞いていたがここであった。
看板に導かれて裏道に入りたどり着いた。先の名古屋の集中豪雨の時にこの辺りも水に浸かり、その後に建替えたという新しい自宅に、小さな美容室が付属していた。運良く在宅していたGさんと女房は玄関口で昔話になる。ご亭主は亡くなり、今は息子と住んでいるそうだ。上がってゆっくりしてという誘いに、「今中山道を歩いている途中だから」というが、最後まで我々がやっていることを理解してもらえなかった。
Gさん宅を辞去して戻り道、我々の趣味は知らない人からみると全く理解できないだろうなと話す。第一「中山道」といっても歩く道などと考える人はほとんどいない。せいぜいそんなドライブインがあったかしら?道の駅のこと?程度の反応だと女房も言う。
思わぬ道草をしてしまった。目的は犬山城である。県道27号線に出て南へ。JRと名鉄の踏切を渡り400mほどで木曽川河畔に出る。犬山橋の手前を右折して川に沿って少し進む。すでの対岸に犬山城が見えている。写真にあった常夜燈を建物の向こう側に見つけて前景に常夜燈、川の向こうに犬山城を入れて写真に取った。
(右写真)
常夜燈の周りの雑木が大きくなって、なかなかいい構図にならなかった。
犬山城は「白帝城」と呼ばれる。これは、成瀬氏四代正幸の時、一日舟を浮かべて犬山城の美しさに感嘆した荻生徂徠が、さながら “白帝城” を行くようだとして命名したものである。白帝城は揚子江上流の城の名前である。李白の「早発白帝城」という漢詩で当時からよく知られていた。
「早發白帝城」 李白 早
(つと)
に白帝城を発す 李白
朝辞白帝彩雲間 朝
(あした)
に辞す 白帝 彩雲の間
千里江陵一日還 千里の江陵 一日にして還る
両岸猿声啼不住 両岸の猿声 啼いて住
(や)
まざるに
軽舟已過萬重山 軽舟 已
(すで)
に過ぐ 万重の山
中国的な美辞麗句を外せば、大意は「白帝城から紅陵まで約300kmを舟で一日で下った」というだけのことである。反乱に加担した咎で流罪の身となった李白は、江陵から船に乗って白帝城まで着いたときに赦免の知らせを受け、遡ってきた揚子江を一気に江陵まで下っていく。そういうシチュエーションでこの詩が出来たことを理解すると、美辞麗句の中に李白の抑えようも無く湧き上がってくる解放の喜びが感じられる。「彩雲」は吉兆であり、「猿声」や「万重山」は今までの苦難であろう。それらの苦難をすべて捨てて「軽舟」が「千里」を「一日」で帰るのである。少し脱線したが漢詩って案外面白い。
木曽川は台風23号の影響で、増水して揚子江のように泥色に濁っていた。徂徠先生がこんな木曽川を見ていれば、白帝城命名の意を強くしたに違いない。
木曽川岸から県道27号線を取って返し、国道21号線との交差点から東へ20mほどずれた細い坂道を北へ登る。
午前10時45分
、100mも行かないうちに前回の最後に見たお地蔵さんの辻に出た。
(左写真)
ウォーキングのイベントでもあるのか、親子ずれの家族が三々五々辻を横切り東へ向かって行く。我々はそれに逆らって、中山道を北へ向かう。
中山道はうとう峠へ向かって赤坂を登ってゆく。左側に赤坂神社がある。前回、南から登ってくる参道のあった神社である。
(右写真)
赤坂神社の脇の街道沿いには草生した中に、石碑・石仏・石塔が立ち並んでいた。「東見附観音碑」と石仏群である。
(右写真の円内)
街道は住宅団地の西縁を登ってゆく。左側はガードレールに守られた崖地で眼下に鵜沼の町が広がっていた。
坂道は突き当って合戸
(かっこ)
池に至る。左側に池を見ながら進む。コスモスが咲いていた。
(左写真)
やがて「日本ライン うぬまの森」と命名された森林公園に至る。児童図書館の「もりの本やさん」の側のトイレを借りて、峠を前に体調を調えた。
(右写真)
女房を待つ間に近くに次のような案内板を見つけた。
各務ヶ原市の案内板によると、
生活環境保全林 日本ライン うぬまの森
自然豊かな日本ラインうぬまの森は、旧中山道が杉木立とともに延び、一里塚など貴重な文化財や、モミジ・ハギ・ツツジなど四季折々の森林が楽しめ、野鳥も数多く生息しております。
また、標高233メートルの頂上は、信州木曽を源とし、伊勢湾まで延々と流れる母なる木曽川を眼下にし、また、豊かな濃尾平野が一望できる展望台があります。
中山道は公園内の石畳の道をまっすぐに進む。少し登った左側に「市指定史跡 旧中山道うとう峠一里塚」の標柱が立ち、案内板があった。
(右写真)
林の中で少し小高くは見えるが、一里塚の形がは確認できなかった。
各務原市教育委員会の案内板によると、
市指定史跡 旧中山道うとう峠一里塚
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は、慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の整備に着手しました。美濃を通る中山道では、慶長九年(1604年)に大湫宿、同十一年〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634年)には加納宿、元禄七年(1694年)には伏見宿が新設されて美濃中山道十六宿体制が完成しました。また、この間の寛永年間(1624〜1644年)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿駅に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651年)にそれまでの木曽川を越えて犬山善師野〜可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ「うとう峠」を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8キロメートル)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・賽の神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」と総称されていました。
うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。北塚は直径約10メートル・高さが約2メートルでよく原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中の航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
かって各務原地域には、ここ以外に各務山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産と言えます。
これだけの山道を通るのは久しぶりである。もちろん中山道では始めてである。
(左写真)
東海道では箱根峠、さった峠、宇津谷峠、中山峠、鈴鹿峠などで山道があった。
中山道はうとう峠、観音坂が通じていなかったときは、鵜沼で木曽川を渡河し、木曽川の向こう岸を犬山善師野から可児へ抜ける道筋を通っていた。うとう峠から観音坂を越えて太田宿に至る道は慶安四年(1651)に切り開かれたという。
うとう峠の頂上は意識しないうちに越えていた。案内書によれば頂上少し手前に、上部に地蔵を浮き彫りにし、「小田原宿喜右衛門菩薩 鵜沼へ十六丁 太田へ三里甘丁」と刻んだ石碑があったというが、それにも気付かずに峠を越えてしまった。この石碑はこの峠で盗賊に殺害された小田原宿の喜右衛門のために鵜沼の村役人が建立したものという。ちょっと案内標識があれば見逃さなかったけどなあ。
下りは上りほど整備されていない山道となった。しかし最近の400年祭で整備されたのであろう、少し前の案内書では道を見つけるのさえ困難であったというが、迷うところはなかった。
(右写真)
午前11時34分
、うとう峠の最後に水路トンネルを抜けた。
(左写真)
丸型の部分はJR高山線、角型の部分は国道21号線を潜っている。階段を登って木曽川河畔の国道に出た。木曽川は泥色の上薬のような濁流が流れている。かなり高いところまで草木の屑が引っかかり、水がそこまできていたことを示していた。
国道21号線を800mほど進んで、左から岩山がせり出した直下に、岩屋観音堂への急な石段が付いている。岩屋観音堂は岩山にへばり付くようにあった。
(右写真)
中山道の旅人がこの難所を安全に通行出来るように祀られているという。
この岩山の頂上には猿啄
(さるばみ)
城跡がある。信長が美濃攻めの手始めに猿啄城を攻め落し、戦勝を祝して勝山城と改名したという。今は絶好の展望台となっているようだ。
岩屋観音堂の参道に、石碑類が玉垣のように並んでいた。
(左写真)
刻まれた文字を読むと、「岩窟觀世音」「太田宿 林観兵ヱ」「京都 金百疋 東洞院三条下 白木屋文右ヱ門 近江屋好兵衛」「金二百疋 彦根■■」「金百疋 鵜沼宿 問屋庄屋■本陣 野口貞■■」など、中山道の沿道の各地から寄進を受けていることが判る。
「疋」は「銭を数える語。古くは鳥目一〇文を一疋とし、後に二五文を一疋とした。(広辞苑)」
この先の中山道は岩山を削って造った棚状の道が東へ続いている。
(右写真)
往時の中山道はこんな雰囲気だったんだろうと思う。少し登った踊り場のような位置に「巖屋坂の碑」と刻まれた大きな板碑があった。
(右写真の左上)
この坂は「観音坂」と呼ばれているが、別名「岩屋坂」とも呼ばれていたのであろう。
案内書によれば、ほぼ垂直に近い岩山の下では、しばらく前までは落石の危険があって、立入禁止になっていたようだ。今は岩壁に落石防止のネットなどを張り、補修も終って安全なようだ。川側にはかってあった高さ50cmほどの柵が少し残っているが、今は鉄柵に人の背丈ほどしっかりとしたネットが張られ、完璧に安全が図られている。
直下には国道21号線が走り、そのはるかに下に木曾川がたっぷり増水して流れている。
(左写真)
ネット越しによく見ると、増水した川に数隻のカヌーが出ていた。
(左写真の円内)
激流に乗るスラロームという競技の練習のようだ。流れの淀むところで休み、激流へ出て乗り切り、また淀みで休むということを繰り返している。
観音坂は岩山をトンネルで抜けたJR高山本線のすぐ横を下る。観音坂の東の入り口には「中山道 坂祝町 日本歴史街道」の標識があった。
国道21号線に降りて歩道を5分ほど歩くと、前方に土手と勝山陸閘
(りくこう)
が見えてきた。
(右写真)
昭和58年の台風10号で、この辺りはダムの一斉放水により、浸水の深さ最大3mの大洪水に襲われた。その後、木曽川と集落の間に堤防が築かれたが、堤防の西の端で堤防の外と内を貫いて通る国道の部分に、木曽川の水の逆流を防ぐため、鉄製の水防ゲートが作られている。これを陸閘と呼ぶ。平常時は脇の倉庫に収納されており、洪水時に引き出されて国道を塞ぐ。
「閘
(こう)
」は「ときどき開閉して、用水または舟などを通す門。」
(新字源)
この後コースを土手の上に取った。土手の上は茶色の舗装がされて、右に木曽川、左に国道21号線、その向こうに集落が続いている。
土手に上がってすぐに、水神の大きな石碑と小さな祠が祀られていた。
(左写真)
元は低地にあったものが、土手の築造に伴い、集落と木曽川を見下ろす土手の上に引っ越したものと思われる。
土手に点々とある三角屋根は水門になっているのであろう。また水門の周りには幾本も、「日本ライン ロマンチック街道」と書かれた幟が立っていた。
(右写真)
この堤防上の遊歩道を、ドイツのライン川沿いのロマンチック街道にちなんで、そう命名したらしい。遊歩道の全長は3.5kmあるという。
案内書に、「右江戸善光寺 左せきかじた」と刻まれた道標が残っているとあったので、途中で国道へ降りて道標を探しながら歩いたが、見逃してしまったようで、そのうちに木曽川に向いた緩斜面に墓地が広がるところへ出てしまった。お寺は墓地より高いところにあるようだ。堤防の無い時代には何年かに一回は墓地が木曽川の濁流に洗われたのかもしれない。墓地の側の壊れそうな祠の中に、2体の石の地蔵像が祀られていた。
(左写真)
石像には元禄八年(1695)とか、文化十四年(1817)の年号が読めた。後日調べたら、そこのお寺の名前を付けて、「宝積寺の石仏」と呼ばれているようだ。
少し進んで、
午後0時30分
、土手上に行幸巖の碑が見えてきた。
(右写真)
今は土手上の一点に過ぎないが、土手が出来る前は小高い岩の上で、木曽川の絶景が見渡せたのであろう。
木曽川は濁流が草をなぎ倒した痕がまだ生々しい。ここからの景色は言うほどでもなく、日本ラインの絶景は舟で下ってこそ味わえるのであろうと思った。
(右下写真)
案内碑文によると、
飛騨木曽川国定公園「日本ライン」 ・ 名勝 木曽川 ・ 名所 行幸巌
(みゆきいわ)
“日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからず”といわれた如く、正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた油の如く渦をなして流れ、軽舟飛沫をあびて下る。
対岸に迫るは鳩吹山、ここ坂祝(さかほぎ)河畔は、「ライン下り」第一の佳景。
特に「行幸巌」からの展望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い。
昭和二年十一月二十日 昭和天皇陛下
昭和四年九月二十四日 閑院宮殿下
昭和五年五月二十二日 グロスター公ヘンリー殿下
昭和五年八月二十五日 李王殿下同妃殿下
昭和五年十月十五日 梨本宮殿下
昭和六年八月四日 澄宮崇仁親王殿下
昭和八年五月十一日 賀陽宮殿下
昭和八年五月十二日 秩父宮殿下
昭和九年六月十六日 陸軍大臣林洗十郎閣下
昭和二十八年八月五日 清宮貴子内親王
昭和三十二年三月七日 高松宮殿下
昭和三十二年七月十九日 今上天皇陛下
土手から降りて国道21号線を進む。7分ほど歩いた坂祝町の商工会館の建物に「難読町村名 坂祝
(さかほぎ)
」の看板あった。「祝」は「いいことがあるように祝いの言葉を述べる」という意味で「ほぐ」と読む。「ことほぐ」と同じような意味である。聞いてみれば成る程と思うがなかなか読めないだろう。その先の「一億」という食堂で昼食をとる。この狭い食堂で、我々の後、地元のおじさんたちが野球の試合の慰労会をするらしく、テーブルを並べて準備が進んでいた。
昼食後はパジェロの工場を左に見てから、坂祝町池端で国道から分かれて右折し、もう一度木曽川の土手に出た。ところが川には水が無く荒れ地になっている。実は対岸の一色という集落が島のようになっていて、木曽川は一色のさらに向こうを蛇行して流れている。どういう訳でここに水が流れなくなっているのかはわからない。水の出るときはここも川になってしまいそうである。ということは遊水地として残されているのかも知れない。
午後1時32分
、加茂川が木曽川へ流れ込む所の橋の袂の土手下に「史跡 大まや湊口」の標識が立っていた。
(左写真)
これより西へ向かう観音坂では大きな荷駄が通れないので、この大まや湊で荷駄を舟に積み、鵜沼辺りまで下ったという。
加茂川の橋を渡った先、土手上に兼松嘯風の句碑があった。
(右写真)
刻まれた句は残念ながらもう一歩のところで解読出来なかった。
案内碑文によると、
兼松嘯風略歴
通称甚蔵 加茂郡深田の人 承応三年 生家富家 俳諧を好み 澤露川に師事し、東美濃俳壇芭蕉門の老先輩たり。初句は
ころころと 臼引きあるく よさむ哉
が、元禄九年の <浮世の北> にある。
嘯風屋敷を訪れた俳人は蕉門の露川、丈草、支考、恕風、魯九等数知れず。宝永元年嘯風は東美濃の諸家の俳諧を選し、「國の華」十二巻の内第四「薮の花」を編輯した。その中に芭蕉翁の大針観音奉納前書きの句がある。翌二年、「袋角」を選したが、上梓及ばず、宝永三年五月七日没。如碩全無信士 深田の墓地に眠る。行年五十三才。その後息子水尺が魯九の助力を得て嘯風の追悼集を付して発刊した。
なつかしき お経の聲や 朧月 水尺の母
木曽川の 上から匂ふ 梅の花 水尺
一家揃って俳諧を良くし、水尺には「國曲集」の撰集がある。
左手土手下に深田神社を見ながら進み、国道41号線が木曽川を渡る中濃大橋の手前で、土手から下った所の虚空蔵堂裏にムクノキの巨木がある。
(左写真)
このムクノキは坪内逍遥ゆかりのムクノキといわれている。大正八年の記念写真が案内板に載っていた。80余年前と今で変らないのはムクノキだけである。いや少し太くなって変ったか。とにかく3m以上は問題なくクリアしているから、これを「太田宿の巨木」とする。
美濃加茂市教育委員会の案内板によると、
坪内逍遥ゆかりのムクノキ
坪内逍遥(1859〜1935)は安政六年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれました。
その後、明治二年の引退にともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化をうけました。
十八才にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築きました。
逍遥の明治四十二年から二十年間にわたる「シェークスピア選集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。
大正八年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をしました。逍遥六一才でした。
虚空蔵堂の前には、一面に「大井戸の渡し跡付近」、もう一面に「承久の変・木曽川古戦場跡付近」と書いた標柱が立っていた。
(右写真)
今から約八百年前の鎌倉時代、承久3年(1221)に、北条義時率いる幕府軍と、後鳥羽上皇を総師とする朝廷軍が互いに軍を進めて、ついに、ここ大井戸の渡しから鵜沼の渡し、さらにその下流辺りで木曽川を挟んで対峙し、戦闘になった。結果朝廷軍が惨敗し、後鳥羽上皇は隠岐に流された。この天下を分けた戦いを「承久の乱」と呼ぶ。
「承久の変」といったり、「承久の乱」と呼んだりするが、何を規準に「変」「乱」を使い分けているのであろう。「変」は「事件」で、「乱」は「戦争」というなら、天下を分けた承久の乱はやはり「変」ではなくて立派な「乱」だろう。「変」が似合うのは「本能寺の変」か。
午後2時04分
、国道を潜ってすぐにマンションの角を左折する。マンションの名前は「カーザ桝形」という。つまりこの角は太田宿の枡形である。
(左写真)
案内板によると、
枡形
道が直角に続けて二度曲がるのを枡形といいます。
宿場の入り口に設けられ、本陣や脇本陣のある宿を守るため、城下町にならって作られました。
太田宿では、祐泉寺の裏と下町に見られます。
100m進んで右折するが、その突き当たった店の前に、三面に「左 西京伊勢 右 関上有知」、「名古屋市塩町四丁目 伊藤萬蔵」、「明治二十五年六月建之」と刻まれた石標があった。
(右写真)
この道標は太田小学校の庭に移されているとあったが、本来あったこの場所にいつ戻されたのであろう。隣りに高札場跡の案内板があった。
案内板によると、
高札場跡
江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。
太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。
太田宿の往還を進むと古い町屋が多く残っている。最初に左側に「亀谷酒店」がある。
(左写真)
間口はそれほど広くはないが、卯建
(うだつ)
が上がった店で、表に縁台が置かれ休憩所にもなっていた。一休みして、女房が今日のこの時にここに居た証明のため、家宛てに葉書を書いて、そばのレトロなポストに入れた。宿場ごとに葉書を出すルールは中山道になってから始めた。
5分歩いて左側に旧太田宿本陣跡がある。現在はその門だけが残っている。
(右写真)
脇に「美濃加茂市指定有形文化財 建造物 旧太田宿本陣門」の標柱が建っていた。本陣の福田家は庄屋も兼ねていた。本陣の建物で現存するのはこの西門だけで、文久元年(1861)の皇女和宮の大通行のときに建てられたいう。
本陣の斜め向かいに、国の重要文化財に指定されている脇本陣の林家住宅がある。今日は改修工事を行っていて近くに寄れなかった。
(左写真)
この林家は脇本陣の役目を果たすとともに、太田村の庄屋、尾張藩勘定所御用達も務め、質屋、味噌・醤油製造販売も営んでいた。なお、槍ヶ岳開山の播隆上人はこの脇本陣で亡くなっている。また「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助は岐阜で暴漢に襲われる前日までこの林家に逗留していたという。
美濃加茂市の案内板によると、
旧太田脇本陣林家住宅(国指定重要文化財)
旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。
この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建(うだつ)が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。
また、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。
脇本陣の斜め向いには、御代桜醸造の工場がある。広場から覗くと白壁と黒板壁のコントラストが美しい建物群が見えた。
(左写真)
店は通りにあった。明治20年(1887)に旧本陣から酒造権を譲り受けて営業を始めたという。
その先にも中山道宿場町の雰囲気のある町並が続いていく。
(右写真)
ここは美濃加茂市に入るが、JR高山本線の駅はこれより北へ800mほど行った所にあり、美濃太田駅といい、美濃加茂駅とはなっていない。町村合併のなせる業であろうが、ややこしい。
右側に一階も二階も窓に格子がはまって、軒の高い立派な町屋である小松屋があった。
(右写真)
ここは旧吉田家住宅で中が見学できるようであったが、少し覗いただけで先を急いだ。
午後2時46分
、すぐ右側に祐泉寺があり、街道はこの先でクランク形に曲がり、枡形になっているのが知れる。宿場の東の入り口である。
(左写真)
祐泉寺と中山道太田宿について、案内板があった。
案内板によると、
中山道太田宿
“木曽のかけはし、太田の渡し、碓井峠がなくばよい”と、中山道三大難所に数えられたこゝ太田宿は、中山道六十九次の江戸日本橋から数えて五十二番目の宿場であります。
こゝには今もなお千本格子造りの家並がつゞき、旧宿場の面影を伝えています。
木曽川を眼下にのぞむこゝ祐泉寺は臨済宗妙心寺派で文明六年(1474)の建立、御本尊の聖観世音菩薩は七年目ごとの開帳の時しか拝見できない。静かな境内には、松尾芭蕉、北原白秋、坪内逍遥などの歌碑や数多くの石仏が並んでいます。槍ヶ岳を開山した播隆上人の墓碑や日本ラインの名づけ親の志賀重昂の碑もあります。
また、近くには江戸時代の建物をそのまゝ残している国指定重要文化財 旧太田脇本陣林家住宅、広大な敷地に母屋、離れなどがあり屋根には卯建が立つみごとなもの、明和六年(1769)に建築された脇本陣は上段の間や書院が往時の風格を伝えています。なお、毎週火・水曜日の両日に限り午前10時から午後4時まで、無料開放しています。
又、福田家本陣跡や古風な酒屋の建物があり、旧宿場の風情を味わうことができます。
祐泉寺は文明六年(1474)に東陽英朝が開創した臨済宗の古刹であるが、堂宇は随分新しい。
(右写真)
しかし境内には歴史を示す墓や碑が多い。
境内には三基の句碑、歌碑があった。
左写真は左から、
北原白秋の歌碑、坪内逍遥の歌碑、芭蕉の句碑である。両歌碑は本堂前に、芭蕉の句碑は鐘楼の脇にあって近くに水琴窟が造られていた。
北原白秋の歌碑は昭和7年11月に訪れた際に、祐泉寺の茶席でしたためた歌を、その筆跡のまま歌碑にしたものだという。
細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石灯籠の 青苔の色 白秋
坪内逍遥の歌碑は、祐泉寺の住職が歌碑建立のため短歌を頼んだところ、早速葉書で書き送ってきたものだという。逍遥が太田宿を離れたのは10歳位であった。歌を頼まれたとき、故郷の昔を懐かしく思い出しながら作ったのであろう。
山椿 咲けるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ
この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿花 いとなつかしも 逍遥
芭蕉の句碑は、芭蕉の門人であった脇本陣三代目の林由興(冬甫)が芭蕉の死を悼んで建てたものという。
春なれや 名もなき山の 朝がすみ 芭蕉
この芭蕉の句は「野ざらし紀行」で「奈良に出づる道のほど」という詞書のあとに詠まれている。
ほかに、播隆上人や志賀重昂の墓碑があるという。播隆上人は文政十一年(1828)に槍ヶ岳に初登頂して開山したアルピニストの先駆けとも言える僧である。登頂から12年後の天保十一年(1840)に脇本陣の林家で6日間臥せ亡くなっている。また、志賀重昂は地理学者で「日本風景論」などの著者、大正二年(1913)に太田から木曽川の川下りをし、その木曽川の部分を欧州のライン川に見立て「日本ライン」と名付けた人である。
実はこの二つの墓碑は見逃して祐泉寺を後にした。
中山道に戻って枡形をたどる。街道が北へ道路の幅ほどずれたすぐ左側に面白い看板を見つけた。
(右写真)
古い魚屋さんの「魚徳」の看板である。色は最近塗りなおしたものであろうが、大変明快な看板であった。額縁部分がかなり時代を感じさせる。
案内書では国道21号線に出る手前で木曽川土手のほうに出るようになっていたので、路地から木曽川土手に出た。土手沿いに面白いものを見つけた。古い石碑を集めたものであるが、5基の石碑が左から、「山神」「天照大神 神明神社」「正一位秋葉神社」「御嶽神社」「水神」とあった。
(左写真)
この並びは色々考えさせるものがある。
木曽川沿いにあると思っていた「古井一里塚」が見つからず、
午後3時21分
、太田橋の近くまで来てしまった。眼下の木曽川河川敷は「化石林公園」として3年前に整備されたものというが、最近の台風で泥に埋まり、今盛んに泥の除去作業が行われている。
(右写真)
1994年に異常渇水で太田橋下流の両岸河床に1900万年前の直立樹幹化石群(化石林)が多数発見された。美濃加茂市ではこの地を「化石林公園」として整備した。園内には太田の渡し跡や中山道石畳跡がある。
その様子を見ながら、この太田の渡しをどう渡るかを女房と話した。この公園を横切ると中洲から橋の中間辺りに登れるようであり、それが一番旧中山道のコースに近そうであるが、それには泥の残る河原に降りなければならない。ここは遠回りでも太田橋を渡ったほうが無難だと決めて、太田橋の袂まで行った。
ところが国道248号線の太田橋に歩道も自転車道もなかった。人の通る白線すら引いてなかった。どうも現在歩道の工事が進んでいるようであるが、もちろん我々には間に合わない。これはかなわないと河原に降りることにした。意外と整備は進んでいて、泥を踏まなくて済むかと思ったが、最後に泥の上を渡らなければならず、シューズを汚してしまった。橋の中間辺りに上って、残り半分をやはり歩道のない道を渡った。
(左写真)
車が来ない間に進んで欄干に張り付いて車をやり過ごす。「達磨さんが転んだ」のように進み、ようやく渡り終えた。こんな恐ろしい経験は東海道の天竜川の橋以来であった。
泥に埋まって太田の渡し跡を確認することは出来なかったが、案内板は泥が落されて読むことが出来た。
案内板によると、
中山道の難所「太田の渡し」
中山道は、江戸時代に五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)のひとつとして開かれましたが、信濃国(今の長野県)を木曾街道・岐蘇路などとも呼ばれています。江戸日本橋を起点に六十七の宿場が整備されており、岐阜県内には、十六の宿場がおかれました。この地には太田宿があり、往きかう旅人たちで賑わいました。
江戸から京都までの距離およそ136里の間に、いくつもの峠越えや川を渡る難所がありました。木曽川を行き来する渡し場は「太田の渡し」と呼ばれ、中山道の難所のひとつとして「木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」とうたわれました。
渡船は時代によって何度も場所や姿を変えてきました。当時の渡船場跡は、昭和2年(1927)に太田橋が完成するまで使われてきましたが、今では木曾川の流れと石畳だけが往時をしのばせています。
太田橋を渡った左側にポケットパークがあり、「太田の渡し」の南側渡し場の「今渡の渡し場」の案内碑があった。
(右写真)
日本ラインの川下りの乗り場は太田橋のすぐ上流にあるようだ。
案内碑文によると、
中山道の三大難所の一つにうたわれた「太田の渡し」南側渡し場(今渡の渡し場)は、川瀬の変化と共に上流へと変更され、最終的には現太田橋下流付近となりました。明治三十四年に鉄索(ワイヤー)を用いた岡田式渡船となり、昭和二年二月には太田橋の完成とともにその役目を終えました。太田橋のすぐ下流の今渡神明弘法堂下には、渡し場に通じた石畳が今も残されています。
午後3時51分
、太田橋から10分歩いた今渡公民館南の交差点で本日の旧中山道歩きを終えた。万歩計の歩数は35,817歩であった。
駅まで迎えに来た息子に新潟県中越地震の発生を聞いた。夕方の午後5時56分ごろ、新潟県中越地方を震源とする大きな地震があった。最大震度は6強(後に震度7と訂正があった)、この地震は本震を凌ぐような余震が多発し、また上越新幹線「とき325号」の新幹線初の脱線などもあり、台風23号のことはすっかり影が薄れてしまった。
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