第 12 回 〔前半〕
  平成16年11月22日(月) 
 快晴微風
 耳神社−十本木−津橋−平岩−細久手宿− 
 “旅籠屋を今に伝える大黒屋 細久手宿”



 昨夜は名古屋の娘の家に泊まった。御嶽駅前で明朝のコミュニティバスの時間を調べたところ、午前8時駅前発のバスがあった。御嶽駅へ午前8時に着くように、名鉄の時刻表をネットで調べて貰った。朝、駅まで車で送ってもらう。教えてもらった電車はすぐに来た。そして乗り込んでから特急券の必要な電車であることに気がついた。今更降りるわけには行かず、特急券・急行券の必要な電車には乗らないというルールを破る事になってしまった。しかしおかげで御嶽駅前8時ちょうど発のコミュニティバスに間に合った。

 コミュニティバスは「ふれあいバス 小原・津橋線」で、御岳町を北へ進んで、御嵩富士の麓の「臥竜の石庭」で有名な愚渓寺の前まで周り、町内を一回りして小原へ向かう。客は自分達のほかは数人が乗ったり降りたり。一見無愛想な運転手さんであったが、中山道を歩いていると聞き、本来停留所ではない耳神社の真ん前までバスを進めて降ろしてくれた。昨日タクシー代で1,530円掛かった所が今朝は無料で来れた。

 午前8時19分、本日の中山道歩きを始める。空気はややひんやりし、快晴微風で、今日はお天気の心配が全くなさそうである。(左写真)

 300mほど進んで、バス道から右手に折れて旧街道に入る。いよいよ中山道は長い長い山道に入る。5分進んで謡坂の登り口に至った。(右写真)

 謡坂の登り口の右側、人家前に句碑があった。(左写真)

錦繍の 泉の水も 錦かな   鶏ニ

 季節は同じなのだが、残念ながらあたりには錦秋といえるような紅葉樹が見当たらなかった。
 これより謡坂石畳がはじまる。「謡坂」の名は鵜沼宿から岩屋観音のある木曽川河畔に出る途中の峠にも付いていた。そのときの案内板では「謡坂」の「うとう」は疎(うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると書かれていた。

 石畳を5分進んだ「右 御殿場 左 マリア像」の石標のそばにあった案内板では、登りの苦しさを紛らわすために歌った「うたう坂」から転じたものと書かれていた。おそらくどちらの「謡坂」も同じ言葉から転じたと思うのだが、どちらの説に軍配を上げるべきか。日本の地名には地形の特徴をそのまま言葉にしたような、見たまま感じたままの命名方法が多い。その発想では「疎(うとう)坂」の方が、ありそうな命名方法ではあるが。
 昨日立ち寄った「中山道みたけ館」で、隠れキリシタンの展示があったが、謡坂石畳から左側へ入ったところに、その隠れキリシタンの遺跡がある。「右 御殿場 左 マリア像」の石標はその場所へ我々を導いていた。(右上写真)

 女房に断わって寄り道をする。何本も立つ「マリア像」の道標に導かれて、山道を下って広い車道に出た。マリア像はそのアスファルト道路に面してあった。(左写真) 向かい側には休憩舎やトイレもある。マリア像の裏手に樹木に囲まれてたくさんの五輪塔が集められていた。(右写真) それが道路工事で移転されたという七御前の墓石なのであろう。その墓地から十字架を彫った自然石が出土したのだという。そんないきさつを記した案内板と、マリア像建立の趣旨を刻んだ石碑があった。
 昨日、「中山道みたけ館」で、「どういう訳でこの地に“隠れキリシタン”なのか」という疑問を残してきた。ここで少し分かったところもあるが、まだ、誰がこの地に布教し、また布教を許してきたのかということが分からない。おそらくご禁制前のことだと思う。この疑問、もう少し持って行こう。

 マリア像の隣に中山道ではすでにお馴染みの正岡子規の「かけはしの記」の一節を刻んだ石碑が立っていた。(左写真)
 案内板に紹介されている「暫らくは‥‥」の一節がどの辺りかについてははっきりしない。「かけはしの記」には、この節の直前に、「けふ(今日)より美濃路に入る。余戸村に宿る」とある。またこの句の後には「御嵩を行き越えて‥‥」と、もう御嵩宿を過ぎてしまう。前夜の宿泊地の「余戸村」は今の瑞浪市釜戸と大湫両地区を含んだ村名であり、宿泊したのが大湫であれば中山道の「上街道」、釜戸であれば「中街道」を通ったことになる。この旅は明治24年6月末のことで、中街道は整備されて間がなくて、中街道の利用者は上街道より多かったようだ。伏見からは愛知県の木曽川町まで舟で下って、そこから東海道線に乗り松山に帰郷した子規に、我々のような旧街道へのこだわりはないから、皆んなが通る新しい中街道を通った可能性が高い。そう考えるとこの石碑は場所が違うのかもしれない。

 石畳に戻って右手、自然石の段の先に石を積んで小さく築かれた岩屋に石仏が2体祀られていた。(右写真) 雪の多い中山道にはこのように人の手で作られた岩屋に祀られた石仏が多くみられる。

 
 石畳を登りきったところが十本木立場跡である。人家が2、3軒あり、安藤広重の版画、「木曽海道六拾九次之内 御嶽」のモデル地とされている。位置的には藁屋根に青いトタン板を掛けた街道沿いの家が、版画に描かれた、坂を登りきった所の木賃宿は、当りそうである。(左写真)
 青い屋根の家の先、左側に「十本木の洗場」と立て札の立つ白く濁った池があった。(右写真) 広重版画では画面左下の小川で洗い物をする姿が描かれている。流れのある小川とは随分印象が違うが、この池が共同洗場だったといわれている。
 さらにその先には右側に「謡坂十本木の一里塚」が規模を縮小して復元されていた。(左写真) 塚に植えられたトウダンの紅葉が美しい。
 街道はまもなく山道からアスファルト道に出る。先ほどのマリア像のあった自動車道が旧道の北側を通ってこの道に繋がっているようで、出た所に「十本木立場」の案内碑があった。
 アスファルト道を少し歩くと右手に屋根が架けられた「一呑清水」がある。(右写真) 「岐阜県の名水 一呑の清水」の標柱が立っている。泉の中に地衣類を身にまとった石仏が2体立っていた。
 旧中山道は、「御殿場」と記された標識に導かれて、自動車道から右手に分かれる。数軒の人家を抜けて山道を登っていくと、やがて「唄清水」に至る。

 
 午前9時15分、唄清水の前で東から来た二人の男に出会った。年配の男性は、中山道を東京から歩いて来たといい、「京都から歩こうかとも思ったが、案内書が東京からになっているので」と、脇に抱えた「今昔中山道独案内」を示した。いつも女房がコースが反対で判りにくいとこぼしている、まさに同じ理由で東京からのコースを取ったようだ。東海道・中山道で輪を描きたかった自分としては、京都からのこのコースしか思い付かなかった。話すうちに、中山道をはじめから歩いているのは年配の男性で掛川在住、若い方は浜松の人でこの旅だけの参加だという。案外ご近所ですねと笑い合った。昨夜は大黒屋に泊まった。同宿にもう一人いたが、のんびり歩いていて我々よりずっと後を歩いているはずだという。我々も大黒屋へは泊まってみたかったが、昨日はそこまで辿り着けなかった。お互いに写真を取り合い励ましあって分かれた。(左写真)

 おっと、話にかまけて、清水の隣に立つ「唄清水」の句碑をじっくり見るのを忘れてしまった。

馬子唄の 響きに浪たつ 清水かな    五歩

 「唄清水」の名前の由縁である。「五歩」は、久々利九人衆(木曾衆)の一人、千村助右衛門重次の分家で、日吉町に住んでいた千村征重の俳号である。千村征重はこの先の弁天池の造営にも関わっており、街道に縁の深い人のようだ。久々利九人衆(木曾衆)は関ヶ原の戦いの後、木曾代官を命じられ、この地域は木曾衆の知行所となった。その後、知行所はそのまま尾張藩領となった。久々利九人衆が尾張藩の家臣でありながら将軍直属の家臣といわれるのはそんな理由による。

 山道を登っていくと、「森のケーキ香房 ラ・プロヴァンス」がある。まさかこんなところにケーキ屋さんがあるとは知らず、脇を抜けて進んだ。後に案内書で知って、立ち寄れば良かったと思った。物見峠にさしかかると、左側についた階段を上った高台に「御殿場」といわれる場所が残っている。皇女和宮の大通行の際、一行が休憩するための御殿がこの場所に造営されたため、この地を「御殿場」と呼ぶ。大通行が終わった後、御殿は解体されたはずである。今はその地にハイカー用の休憩舎が立っていた。(右写真) 見晴らしがよく御嶽山も見えるといわれるが、周りの木が大きくなったためか、天気は良かったのに、山岳展望案内図の山名と比定してみるに至らなかった。
 その先、山中に開墾地があり、表と裏にそれぞれ「整田碑」と「若鷲碑」の言葉が刻まれた真新しい石碑があった。内容は、陸軍少年飛行兵から特攻に志願し、九死に一生を得た。戦後は長くバスの運転を職業とし、定年後、この地で農業に従事、土地改良に努めたという、建立者佐賀源一氏の一代記である。こんな石碑を立てて何になると批判する人もいるであろう。しかし佐賀源一氏にとって、この石碑は生きた証なのであろう。自分が街道歩きの記録を延々とホームページに記録しているのと同じである。ただ方法は人それぞれでなのだ。

 
 山道(左写真)の左側に石室に入った石仏を見つけた。(左写真の円内) これからの道中にも多くの石室と石仏をみることになると思う。諸木坂を下って津橋の集落に下る。そういえば今朝乗せてもらったふれあいバスの行き先に「津橋」の名前もあった。

 集落に降りた道で、昨夜大黒屋に泊まったもう一人の男性に出会った。二人組には随分先で逢ったと話す。なるほどゆっくりした足取りで、サンダル履きの、随分投げやりな街道歩きに見えた。津橋は久しぶりの人里で、平らな田圃が広がる平地であった。右手の田圃の向こう、山の裾に津橋薬師堂が見えた。(右写真) 薬師堂の脇には石仏群があるというが、道草には少し距離があった。

 午前9時58分、県道65号線を横切って、街道は再び登りに掛かる。「藤あげ坂」と名付けられたこの坂道がなかなかきつく、女房の後ろで遅れがちになる。女房は「お父さんは登りが弱い」と言う。逆に女房はひざが悪いから下りが弱い。街道左側に立派な石垣が築かれ、その前に「山内嘉助屋敷跡」の標柱が立っていた。(左写真) 山内嘉助は江戸時代酒造を生業として、中山道脇の傾斜地に、石垣を組んで敷地を造り、豪奢な屋敷を築いていた。現在、建物は跡形もなく跡地は棚田になっていた。

 街道は落ち葉の散り敷く、林の中の平坦な尾根道で気持が良い。(右写真) やがて三叉路に出る。右に折れれば2kmで松野湖を経て鬼岩公園へ通じるハイキングコースになっている。中山道は左に折れて東へ進む。

 午前10時37分、10分ほど進んだ先に「鴨ノ巣一里塚」があった。北塚(左写真の上)が南塚(左写真の下)より東へずれた形になっている。地形を利用して造った結果、こんな形になったのだろうと思った。
 
 すぐに右側に花の木ゴルフ場のグリーンを垣間見て進む。ほぼ尾根をたどる林間の街道には点々と石造物や案内標識が現れる。むかし、牛を追って来た人が盗賊に斬られたという場所には「切られヶ洞」と刻まれた石柱が立っていた。(右写真の左) 日吉辻という三叉路には道祖神の石碑(右写真の中)と「日吉辻」「右 鎌倉街道まで約一里半」と刻まれた標柱が立っていた。続いて右手に珍しく茶畑を見た後、右側に「鴨之巣道馬頭文字碑」の標柱が立ち、数メートル南の尾根上に石碑が見えた。(右写真の右) 馬頭観音の文字が何とか判読できる。往時は中山道はこの尾根をたどっていたのだろう。

 
 秋葉坂の下りに入ってまもなく、下り坂の左側に石垣を築いて台状にした上に、三つに分けた石室が造られ、それぞれに石仏が安置されていた。(左写真) 「平岩の秋葉坂三尊」と呼ばれている。これまでにも何ヶ所か石仏の納まった石室を見てきたが、ここの石室はそれらの秀逸である。石室を造る行為はお地蔵さんによだれかけをかける行為に相通ずるものがあると思う。
 石垣を降りてすぐに秋葉坂の東の登り口であった。右側に「瑞浪市内仲山道の影」と題して、今までたどってきた中山道を逆に東から紹介している石碑があった。(右下写真の左) また登り口左側には「左中仙道西の坂」の標示に「旅人の上り下りや西の坂」の句が刻まれていた。(右下写真の右)
 
 出た集落は平岩という。午前11時 を回っていた。県道366号線に出た角の店で、食事処の所在を聞いた。しかし、この先も山の中で全くないというので、菓子パンなどを購入した。県道に沿って川が流れている。中山道は県道と川に架かる平岩橋を渡って東へ進む。橋の袂に「土岐頼兼の菩提所 曹洞宗開元院」の標識が立ち、また「北 たこうど やをつ道」「西 つばし みたけ道」「南 まつのこ おに岩道」と刻まれた石標があった。(左写真) 東側にも細久手方面の標示があったのだろうが、見逃した。

 土岐頼兼は美濃国土岐郷の守護であったが、正中元年(1324)、後世に正中の変と呼ばれる後醍醐天皇の倒幕計画に参加し、計画が発覚、探題軍に攻められ討死した。

 このあと中山道はアスファルト道路を行く。左側の斜面の裾を石垣で土留めした前に、「くじ場跡」の標識が立っていた。(右写真) 「くじ場」は宿場の人足たちのたまり場だった場所で、一説には仕事をくじで決めていたからこう呼ばれていたという。


 続いて北側から迫る緩斜面の道沿いに、津島神社の小さい祠 (左写真の左)や、「細久手坂の穴観音」と呼ばれる石室の中の石像(左写真の右)がある。この観音様は近寄ってみるとどうやら馬頭観音のようであった。

 左手山の端に神社が見えた。(右写真)「壬戌紀行」では、「細久手の駅に入れば、左の方なる林の中に鳥居あり。石坂のみゆるを『何ぞ』と問えば、『産土の神なり』と答ふ。」と書かれている社で、今は「日吉・愛宕神社」である。

 「壬戌紀行」の通り、これより細久手宿に入る。細久手宿には昔の面影を残しているものはほとんどない。左側の人家の前に本陣跡の石標が立ち、(左写真) 向いの空地に脇本陣跡の看板が立っていた。また、左側に細久手郵便局を見つけて入る。中に往時の細久手宿の鳥瞰図が展示されていた。宿場の雰囲気をよく伝える絵であった。その中に記載されている内容で、「文化十年(1813)ころ、人口256人、男134人、女122人、戸数83戸、旅舎25軒、年間通行人20万人、一日通行人550人、年間宿泊者7万人、一日宿泊者190人(旅舎1軒に約1夜8人が宿泊した事になる)」という記載は大変興味深かった。


 午前11時44分、郵便局の先のやはり左側に、現在も昔のとおりに宿屋を営んでいる大黒屋があった。(右写真)(左下写真) 途中で出会った3人の男性が泊まったという宿である。両側に卯達のある建物で、先ほどの細久手宿の鳥瞰図には「尾州家本陣・問屋場 大黒屋吉右衛門」と記載されていた。脇本陣が狭いのと、他大名との合宿を嫌った尾張藩は本陣・脇本陣とは別に尾張藩定本陣と定め、問屋酒井吉右衛門家を充てた。それが現在も宿場で唯一残る大黒屋である。

 大黒屋の向かいは連子格子となまこ壁をデザインした細久手公民館である。ここで休憩とし、パンを食べたりトイレを済ませたりした。
 細久手宿、大湫(おおくて)宿と「くて」と付く地名が続く。「くて」といえば秀吉と家康が戦った「長久手の戦い」で有名な名古屋の近郊の長久手がある。この「くて」は広辞苑によれば、「(愛知県で)低湿な土地。沼などのように水草の生えた地。」をいう。










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