



コミュニティバスは「ふれあいバス 小原・津橋線」で、御岳町を北へ進んで、御嵩富士の麓の「臥竜の石庭」で有名な愚渓寺の前まで周り、町内を一回りして小原へ向かう。客は自分達のほかは数人が乗ったり降りたり。一見無愛想な運転手さんであったが、中山道を歩いていると聞き、本来停留所ではない耳神社の真ん前までバスを進めて降ろしてくれた。昨日タクシー代で1,530円掛かった所が今朝は無料で来れた。
午前8時19分、本日の中山道歩きを始める。空気はややひんやりし、快晴微風で、今日はお天気の心配が全くなさそうである。(左写真)
謡坂の登り口の右側、人家前に句碑があった。(左写真)
これより謡坂石畳がはじまる。「謡坂」の名は鵜沼宿から岩屋観音のある木曽川河畔に出る途中の峠にも付いていた。そのときの案内板では「謡坂」の「うとう」は疎(うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると書かれていた。
女房に断わって寄り道をする。何本も立つ「マリア像」の道標に導かれて、山道を下って広い車道に出た。マリア像はそのアスファルト道路に面してあった。(左写真) 向かい側には休憩舎やトイレもある。マリア像の裏手に樹木に囲まれてたくさんの五輪塔が集められていた。(右写真) それが道路工事で移転されたという七御前の墓石なのであろう。その墓地から十字架を彫った自然石が出土したのだという。そんないきさつを記した案内板と、マリア像建立の趣旨を刻んだ石碑があった。
マリア像の隣に中山道ではすでにお馴染みの正岡子規の「かけはしの記」の一節を刻んだ石碑が立っていた。(左写真)
石畳に戻って右手、自然石の段の先に石を積んで小さく築かれた岩屋に石仏が2体祀られていた。(右写真) 雪の多い中山道にはこのように人の手で作られた岩屋に祀られた石仏が多くみられる。
青い屋根の家の先、左側に「十本木の洗場」と立て札の立つ白く濁った池があった。(右写真) 広重版画では画面左下の小川で洗い物をする姿が描かれている。流れのある小川とは随分印象が違うが、この池が共同洗場だったといわれている。
さらにその先には右側に「謡坂十本木の一里塚」が規模を縮小して復元されていた。(左写真) 塚に植えられたトウダンの紅葉が美しい。
アスファルト道を少し歩くと右手に屋根が架けられた「一呑清水」がある。(右写真) 「岐阜県の名水 一呑の清水」の標柱が立っている。泉の中に地衣類を身にまとった石仏が2体立っていた。
山道を登っていくと、「森のケーキ香房 ラ・プロヴァンス」がある。まさかこんなところにケーキ屋さんがあるとは知らず、脇を抜けて進んだ。後に案内書で知って、立ち寄れば良かったと思った。物見峠にさしかかると、左側についた階段を上った高台に「御殿場」といわれる場所が残っている。皇女和宮の大通行の際、一行が休憩するための御殿がこの場所に造営されたため、この地を「御殿場」と呼ぶ。大通行が終わった後、御殿は解体されたはずである。今はその地にハイカー用の休憩舎が立っていた。(右写真) 見晴らしがよく御嶽山も見えるといわれるが、周りの木が大きくなったためか、天気は良かったのに、山岳展望案内図の山名と比定してみるに至らなかった。
その先、山中に開墾地があり、表と裏にそれぞれ「整田碑」と「若鷲碑」の言葉が刻まれた真新しい石碑があった。内容は、陸軍少年飛行兵から特攻に志願し、九死に一生を得た。戦後は長くバスの運転を職業とし、定年後、この地で農業に従事、土地改良に努めたという、建立者佐賀源一氏の一代記である。こんな石碑を立てて何になると批判する人もいるであろう。しかし佐賀源一氏にとって、この石碑は生きた証なのであろう。自分が街道歩きの記録を延々とホームページに記録しているのと同じである。ただ方法は人それぞれでなのだ。
午前9時58分、県道65号線を横切って、街道は再び登りに掛かる。「藤あげ坂」と名付けられたこの坂道がなかなかきつく、女房の後ろで遅れがちになる。女房は「お父さんは登りが弱い」と言う。逆に女房はひざが悪いから下りが弱い。街道左側に立派な石垣が築かれ、その前に「山内嘉助屋敷跡」の標柱が立っていた。(左写真) 山内嘉助は江戸時代酒造を生業として、中山道脇の傾斜地に、石垣を組んで敷地を造り、豪奢な屋敷を築いていた。現在、建物は跡形もなく跡地は棚田になっていた。
街道は落ち葉の散り敷く、林の中の平坦な尾根道で気持が良い。(右写真) やがて三叉路に出る。右に折れれば2kmで松野湖を経て鬼岩公園へ通じるハイキングコースになっている。中山道は左に折れて東へ進む。
午前10時37分、10分ほど進んだ先に「鴨ノ巣一里塚」があった。北塚(左写真の上)が南塚(左写真の下)より東へずれた形になっている。地形を利用して造った結果、こんな形になったのだろうと思った。
このあと中山道はアスファルト道路を行く。左側の斜面の裾を石垣で土留めした前に、「くじ場跡」の標識が立っていた。(右写真) 「くじ場」は宿場の人足たちのたまり場だった場所で、一説には仕事をくじで決めていたからこう呼ばれていたという。
左手山の端に神社が見えた。(右写真)「壬戌紀行」では、「細久手の駅に入れば、左の方なる林の中に鳥居あり。石坂のみゆるを『何ぞ』と問えば、『産土の神なり』と答ふ。」と書かれている社で、今は「日吉・愛宕神社」である。
「壬戌紀行」の通り、これより細久手宿に入る。細久手宿には昔の面影を残しているものはほとんどない。左側の人家の前に本陣跡の石標が立ち、(左写真) 向いの空地に脇本陣跡の看板が立っていた。また、左側に細久手郵便局を見つけて入る。中に往時の細久手宿の鳥瞰図が展示されていた。宿場の雰囲気をよく伝える絵であった。その中に記載されている内容で、「文化十年(1813)ころ、人口256人、男134人、女122人、戸数83戸、旅舎25軒、年間通行人20万人、一日通行人550人、年間宿泊者7万人、一日宿泊者190人(旅舎1軒に約1夜8人が宿泊した事になる)」という記載は大変興味深かった。
午前11時44分、郵便局の先のやはり左側に、現在も昔のとおりに宿屋を営んでいる大黒屋があった。(右写真)(左下写真) 途中で出会った3人の男性が泊まったという宿である。両側に卯達のある建物で、先ほどの細久手宿の鳥瞰図には「尾州家本陣・問屋場 大黒屋吉右衛門」と記載されていた。脇本陣が狭いのと、他大名との合宿を嫌った尾張藩は本陣・脇本陣とは別に尾張藩定本陣と定め、問屋酒井吉右衛門家を充てた。それが現在も宿場で唯一残る大黒屋である。




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