僕の友人・高奥昌幸くんのこと

 高奥昌幸くんは僕の大学からの友人だった。青森県の五戸町という小さな町の出身で、知り合ってからもう十四年になる。同じサークルにいたこともあって、学生時代からよく遊んでいたのだが、高奥は大学を卒業する時に突然、「芸術家」になると言い出した。
 もともと、高奥は小学校の美術教員を目指す課程に籍を置いていたのだが、あまり学校の先生になる気はなさそうだった。絵が好きで、そっちで生きていこうと決めたらしい。
 奇遇なことに、高奥が制作の拠点とした場所は僕の郷里、藤枝の隣町、志太郡岡部町の山の中だった。同じく芸術家を志す友人の菊元と一軒家を借りて「アトリエ」と称した。東京の練馬には共同で安アパートを一室借りた。芸術家では食えないので、東京で猛烈にバイトして月に二十万円以上稼ぎだし、画材を買い込んで次月を静岡での制作活動にあてていた。
 高奥が静岡に来たときは、僕は安い酒を持って土曜の夜に遊びに行った。一晩中、飲み明かすのには安酒で充分だった。僕が現実の憂鬱を語ると、高奥は夢を語った
 酒を酌み交わしながら、「芸術家ってのは、どうすりゃなれるんだ」と訊いたことがある。その時、高奥は「あきらめなけりゃなれるんだ」と答えた。どんなに才能があっても、本人があきらめてしまったらそれで終わりなのだと言った。そして、「死後、認められてもつまらないけどな」と言って笑った。
 何年かすると、高奥の作品が「行動展」に入賞するようになった。高奥はよく版画をつくってハガキで僕のところに送ってきてくれたが、入選を知らせる高奥からの手紙の文字はとても嬉しそうだった。
 芸術活動をはじめて五年目、高奥は青森に帰ることになったと僕に告げた。高奥の家は五戸では旧家で、山や畑の仕事をやりながら家の離れをアトリエにして制作活動を続けるつもりだといった。
 帰郷する時に高奥は僕に版画を送ってきてくれた。そこには「春からはいよいよ青森で制作活動開始です」と書かれた大学時代から見慣れた高奥の文字があった。



 一昨年の四月、高奥が事故で亡くなったという突然の電話をうけた。はじめて訪れた青森のアトリエには多くの遺作となった作品が残されていた。もう高奥はいなかったが、そこはよく遊びに行った静岡のアトリエと同じ空気が漂っていた。ベッドの脇に高奥が好きだったゴッホの本が何冊かあった。
 高奥の遺作はご両親によって整理され、昨年、遺作画集が出版された。遺作展も何度か開かれた。
 今年の夏、三回目の墓参に青森にうかがったおり、ご両親にこのホームページをつくりたいとお願いしたところ快く承諾をしてくださった。高奥のことを思い出しながら今、僕はパソコンに向かっている。
 高奥はいなくなってしまったが、高奥の作品は遺されている。「死後、認められてもつまらないけどな」と笑っていた高奥だったが、今となっては、高奥の作品がひろく世に認められることを切に願ってやまない。
 それと同時に、僕も高奥のように何かを遺せる生き方をしたいと思っている。

 平成10年9月、藤枝にて

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