マリ日記



2/28   フランスからマリへ

  
西アフリカに位置するマリは日本から遠くてアクセスが悪い国だ。日本からの直行便は無いため、今回は航空券が一番安くてアクセスの良いパリ経由にする事にした。
 
初めてのヨーロッパ、しかも花の都パリということで、2日間の滞在はかなり楽しみだった。パリでは美術館を巡ったり、街を歩いて観光した。

それにしても外国人が多い。観光客が多いことはもちろんの事として、旧植民地国からの労働者や留学生が集まり、国際都市という感じだ。
 
パリはとにかく物価が高かった。一人で入ったレストラン。1500円ぐらい使ったけど、イマイチだった。きっと、お金を持ってオペラを見たり、御馳走を食べたりすれば、楽しいとこなんだろうけど・・・。

たった2日の滞在じゃ、パリの良さは解らなかった。
 
 いよいよ、パリからバマコへ。飛行機は満席だった。乗客の7割は黒人、2割は白人系フランス人といった感じだ。
 
飛行機の隣の席はマリ人。英語で一言、二言話かけるが、全く通じなかった。フランス語圏では英語は通じにくいとは聞いてはいたが、予想以上に苦戦しそうである。

後にその不安が現実のものとなるわけだが、ともかくその日はマリに無事着くことができた。

そして、暑苦しい熱風をまき散らすファンの下で寝た。
 


3/1   はじめてのマリ    
   
 
バマコにて

朝6時に起きた僕は、早速町を探索しに行った。
バマコでは朝早くから、杵を突く音や車の走り抜ける音が聞こえる。

それにしてもすごい田舎。三階以上の建物はほとんど無い。首都という感じがしないのはそのためだろう。

首都の規模としてみれば、エチオピアの首都のアジスアベバ、ザンビアの首都のルサカにも遠く及ばない。綿花やピーナッツなどの輸出に頼っていると聞いていたが、どのように経済がまわっているのかが不思議だった。

10時ぐらいになると、市場が活気を見せ始めた。
モスク前のこの市場では、農作物から電化製品にいたるまで、様々な商品が並んでいた。中には、狩った小獣の毛皮やジャガーの毛皮までもが売られていた。

激しい日射しと、砂埃の中、ド派手な衣装を着て、激しく物を売り買いする人達。とにかく日本には無いエネルギーを感じる場所だった。

街を駆け足でまわった後、早速ジェンネに移動することにした。本来ならば、もう少しゆっくりしたかったのだが、遠方を先に旅行し、バマコに早めに帰ってくることにした。

というのも、予測できないアクシデントに遭遇し、帰りのフライトに遅れるというリスクは避けたかったからだ。

早速、人込みをかき分け、バス停へ。   
バスのチケット売りに出発時間を聞くと、予約だけして、1時間後にまたこの場所に来いという。

その後、約束の時間にバス停に戻ったが、出発したのはさらに一時間半後であった。まあ、アフリカではよくあることだが、その後もトラブルは続くのであった。

結局ジェンネに到着したのは、翌朝3時。途中、エンジントラブルや積み荷の落下によって、到着時間が大幅に遅くなったのだ。

各国の援助のおかげか、幹線道路のコンディションは悪くなかったが、予想以上に時間がかかった。
 
良くも悪くもエネルギッシュな国、マリ。

合理的な経済先進国では味わえない、アフリカの毒に疲れ、癒され、僕の旅は始まった。



3/2   ジェンネは観光地


今日はジェンネを観光。とりあえず村にくり出した。

ここジェンネは泥のモスクと月曜市で有名だが、同じように泥を塗り固めてつくられた家が多く、味わいがあってすばらしい。これは、泥で作った日干しレンガを基礎として、塗り固められたものである。

それにしても地面の色から様々な建造物にいたるまで、砂色の、ほぼモノトーンの世界である。地味な背景に、原色の派手な衣装。とても不思議な感じがする。

しかし感動しているばかりでは無い。なぜなら、ここはすでにかなり観光客ずれしていて、自称ガイドにイライラさせられるからだ。
マリ人はとにかくしつこい。何かと現金収入が少ない国だから、しょうがないのかもしれないが、、。
 

午後からは、女性が大きなイヤリングを身につけることで有名なセネサ村を訪れた。村までは北へ片道4km。自称ガイドがうざいので、方位磁石を頼りにしながら、自力で歩いて行くことにした。

ジェンネの外に出ると道らしきものはなかった。あるのは限りなく続く、目の粗い砂漠。草は疎らに生えていて、あまり高い木は無い。こういうのをステップというのだろうか。

途中、羊の放牧が行なわれているのを目にした。草も疎らなこの土地で、羊達は僅かに生えた草を貪っていた。この地が完全な砂砂漠になるのも、そう遠くないかもしれない。

ジェンネから歩いて2時間後、村にようやく到着した。

まず子供達が集まってきた。子供達はとても無邪気で、僕に興味を示してきたが、珍しいそぶりは見せなかった。僕は彼等によって村長のところに案内され、村長はこの村を観光する許可をくれた。

 しかし、期待していたのとは裏腹に、事あるごとに『金くれ攻撃』。 ここもすでに侵されていたのだ。なんだか素直に楽しめない。観光地化の弊害だね。



3/3   ジェンネの月曜市



朝早く起きた僕は月曜市のあるモスクの前でのんびり過ごした。まだ午前7時、人はまばらだ。

9時ごろになると売り手がかなり増えてきた。土を掘り起こし、即席の日よけテントを作っている姿が見える。

モスクの前では各方面から来たバスが列をなし、積み荷を降ろしていた。人々の衣装から色んな民族が来ていることがわかる。マリ帝国が栄えた時代からずっと、色んな地域から人が集まり、交易がくりひろげられていたのだろう。

市場のピークは11時から12時ぐらいで、16時ごろになるとバイヤーは帰っていく。その間、激しい日ざしと埃の中で、売り買い合戦が繰り広げられていた。

規模的にはバマコのほうが大きいけど、この空間にこれだけ多くの商店が立ち並ぶとそれは圧巻である。

美しい衣装と賑やかな市場。そして、それに降り注ぐ激しい日ざしと埃。これが西アフリカなんだなー。



3/4    ジェンネからバンディアガラへ


今日はジェンネからバンディアガラへ移動の日。

当初午前9時出発の予定が、午後3時へと大幅に遅れた。人が集まらないと出発しないからしょうがない。アフリカでは余計なとこで時間を消費される。

でもこれにストレスを感じてばかりいては、アフリカは楽しめない。やっぱりアフリカはゆっくり、のんびりと旅しなきゃね、、。
短期(短気?)旅行者にはつらい国である。

ところでバンディアガラとはドゴン族が暮らす村の1つである。そしてサンガ、バンカスと共にドゴンツアーの出発地になる場所である。

『ドゴンのことはドゴン人に聞け。』そして、モプティやバマコよりも安くて質のいいガイドが多いとのこと。

ジェンネからバンディアガラへはセバレを経由し、運賃はジェンネ−セバレ(2250CFA/3時間ぐらい)、セバレ−バンディアガラ(2500CFA/2時間ぐらい)だった。

結局、今日は移動だけで1日が終ってしまった。ビールを飲むとガイドとの交渉も面倒くさくなり、すべては明日決めることとなった。   



3/5   ドゴントレッキング


朝早く起きた僕はすぐさまガイド探しに出かけた。早くガイドを見つけないと、トレッキングの時間が少なくなってしまうからだ。本来ならば交渉には時間をかけたいところだが、早めに妥協してツアーをスタートさせた。

早速Dourouまでバイクを二ケツして向かった。途中バイクに乗っている僕を見て、子供たちが大急ぎで逃げていった。誰かへんなことをふきこんだろうか。

Dourouに到着後、昼食をとった。昼食はスパゲッティ−。トマトベースで不味くはないが、甘くもない。明らかにゆですぎだった。

食後は2時間ほど休憩した。何しろドゴンの昼時は非常に暑いのだ。この時間はドゴンの人達とお話したり、茶を飲んだり、音楽を聞いたりして過ごした。ドゴントレッキングはのんびり過ごす時間が多いから、ガイドがカセットを持っていることは1つのポイントだと思う。

さて、のんびりして体力を回復した後、いよいよトレッキングスタート。ドウロウからベニマトまでの道のりは、勾配が激しくけっこう疲れた。でも崖の上から臨める果てしなく続く大地は圧巻だった。

陽もだいぶ落ちかけたころ、ベニマトに到着。ここは切り立った崖と谷に囲まれた美しい村だった。ここに住む人達は物腰の柔らかな人が多く、礼儀正しい人が多い感じがした。売り買いを強要する人もおらず、とてもリラックスできる。

夜は特にそうだ。ドゴンの夜は限り無く静かだ。そして明かりも無い。なんにも無い。
ただビールを飲んで、星空を眺めるだけ。

心にしまっていたことや、忘れていたことを思い出せる良い機会になった。時間を無駄に使うのもいいものだ。とにかくのんびりできて落ち着ける場所だった。


 
3/6   ドゴントレッキング2日目

 

タバコの加工
     

朝8時に起床。疲れていたということもあり、ぐっすり眠れた。しかし朝方はけっこう冷えた。

今日はDourouからティレリまで移動の日。本来3泊4日のツアーではベニマトまで行かないので、Dourouまで戻って、余分に歩かなければならなかった。明らかに大変そうである。

その予感は適中。移動距離は長いし、とにかく暑い。水はどんどんなくなっていった。

ドゴンはミネラルウオーターが非常に高い。1、5Lで1200CFAだから日本円にして250円ほどもする。まるでジョルダンのペトラのようなボリようである。金銭面で不安を抱える僕は途中にある井戸で水を汲んで飲む事にした。浄化剤無しで不安ではあったけど、こんな場所でミネラルウオーターを買っていては、きりがない。

しかし、飲んでから数時間はかなり不安だった。今でこそ水当たりしなくなった僕だが、昔、中国の帳家界という山で腹痛を起こし、列車で運ばれ、3日も入院するという苦い経験があるのだ。

さて、Dourou〜ティレリ間は農業に営む人達を見る事ができた。ドゴンの農業は極めて原始的で、今だに井戸から汲んだ水を、ヒョウタンのカラに入れて、手作業で水をあげている。これはかなりの重労働である。

しかしこの方法はマリでは珍しくはなかった。マリでは灌漑農業が発達していないのである。

この非効率な方法が現在においても何故用いられているのかは解らなかった。技術がないのか、費用が無いのか、やる気がないのか。なんでだろー?

そうこう、思っているうちに、日が暮れはじめた。この日は移動距離が長過ぎたせいか、もしくは休憩を取りすぎたせいかで、結局ティレリに到着できそうにない。そこでティレリの1歩手前の村に宿泊することになった。マイナーな村なせいか、客は僕1人。

夜は、ガイドの持ってきたカセットを聞いた。

彼のお勧めのミュージシャンはHABIB KOITE。使っている楽器はアコースティックギターや、ベース、バラフォン(木琴みたいなの)、数種のアフリカンパーカッション。

ギターとベース以外は西アフリカに伝わる伝統楽器で、川や大地が感じられるすばらしい音楽だった。



3/7   ドゴントレッキング3日目 

 

ミレットを挽く女


イレリでは急こう配な土地に雑然と家や倉庫が建っていた。その上にある断崖には小さな洞穴がたくさん見える。ガイドが言うには、その昔ピグミー族はこのあたりに住んでいて、ドゴン族との戦いに敗れ追い出されたらしい。

しかし、ヨーロッパの考古学者の調査によれば、それらはテレム族の穀倉として用いられていたもので、住居では無いとのこと。はっきりしたことは、まだ解っていないようだ。

村ではミレットをひく女性の姿や、水を組みに行く姿が見られる。これら重労働は女性の仕事である。逆に煙草の葉を加工するのなど細かい仕事を男がやっていて、そのアンバランスなところが面白い。

この日、泊まったイレリはかなり観光地化されていて、電気も走っていた。また、ドグラという神聖なくつろぎスペースにはコンクリートが使われていた。
過去、数百年に渡って守り続けていたその土地の文化や風土は急速に崩壊しつつある。文化の衰退を嘆く老人と、物質的主義に感化される新しい世代。こういうギャップはアフリカの至る所で見られる。



3/8 ドゴントレッキング最終日 

 

イレリ


今日はドゴン最後の日。サンガまでの道のりは旧勾配の連続だった。

サンガでは土産物を買った。ドゴンに限らずマリ人は交渉が上手い。交渉に時間がかかるのが、この地域の特徴である。

その後バンディアガラに戻り、乗り合いタクシーでモプティーに向かった。

モプティーは蚊が多い。着いて早々二ケ所刺された。ジェンネで感染者の重篤な症状を見たことから、僕はナーバスになっていた。

まあ、でも2箇所だから大丈夫か、、、。

この日泊まった宿は、、、。インド産であろうお香の臭いと、暑苦しい音楽にうんざり。

ロンプラには全く書いてなかったが、どうやら、ここは売春婦たちのライフベースになっているらしい。

まあでも、他に安い宿がないのでしょうがないか、、、。



3/9   モプティー 


モプティーは綺麗な町だ。よくモプティはガイドの勧誘がうるさいと言うが、全く遭わなかった。多分、すでにドゴンに行ったという情報が流れているのだろう。

マリはガイド同士の情報交換が盛んで、日本人が今どこに何人いるという情報はすぐに流れる。たいていどの町に行っても僕を知る人物がいたのは驚きだった。

早速、待ちに待ったニジェール川に行ってみた。川では洗濯物を洗う女性の姿や、対岸に渡る船を待つ人などで活気で満ちあふれていた。

昼は暑いので土産物屋で過ごし、夕方になってまた川に出かけた。

僕が旅した期間は砂嵐が激しく、夕日は結局この日しか見れなかった。コンディションは良くなかったけど、夕日に照らされて、水浴びする人達や舟のシルエットはとても美しかった。



3/10   セグー到着


川辺に積まれた塩板



午後からセグ−に移動。移動中でもお祈りの時間にはバスは止められ、メッカの方角にお祈りをしていた。結構、信仰心は強いようだ。

例のごとく到着時間は大幅に遅れた。到着時刻は午後10時。これから宿を探さねばならない。しかし、どうやらバスの停留所からホテルまではかなりの距離があるようだ。

とりあえず現在地を聞こうと、周りの人に尋ねるが誰も英語が話せない。バス停には何百人と人がいるのに、誰もしゃべれないのだ。

ガーン、、。どうしよう。そもそもフランス語がしゃべれない僕が悪いのだが、移動で疲れていて、自分にもあまり余裕がなかった。

イライラを周りの人にぶつけていると、ついに英語のできる人発見。

おおー。『このフランス語圏で,英語がしゃべれるとは、なんとインテリな方か』と 思いきや、彼はナイジェリア人。

そりゃあ、英語できるわな。

彼に通訳してもらったが、なんだか彼もフランス語がおぼつかない様子。とりあえず安く泊まれる場所を探しているということだけは伝わり、そのナイジェリアンは次のバスに乗って去っていった。

    急に心細くなった。

それにしても、フランス語圏に来たのに、何故、僕はフランス語の辞書も持っていなければ、簡易的な参考書も持っていないのだ、、。?

自分のアホさ加減に情けなくなってきた。かなりのマヌケである。しかし思っていた以上に、フランス語圏でフランス語が話せないことは致命傷のようだ。

そうこう実感しているうちに、係りの人がきた。どうやら案内してくれるようだ。よかったー。『一時はどうなることかと、、。』 僕は胸を撫で下ろした。

しかし、半ば安心しかけた僕の心は再び闇に突き落とされる事となった。 彼はバス停の裏に僕を連れて行き、地面を指差して、「ここに寝ればいい。ここならタダだよ。」と言ったのだ。

え、、、ここって地面じゃん。こんなとこに寝たら、寝てる最中にバックを盗まれるかもしれないし、蚊に刺されるかもしれない。

もちろんこれは彼は親切だったのだけど、その日はとても地面に寝る気にはならなかった。

頼りにしていた彼の助けも無くなり、途方に暮れた。どうしよう。言葉には言い尽くせない、苛立ちと空しさが交錯した。

今日は移動で疲れているのだ。

もういい。何かが吹っ切れた。高くてもいいからタクシーの運ちゃんに任せよう。結局、泊まったのは一泊7500CFAの今回の旅で一番高いホテル。ホテルでシャーワ−を浴びている時ふと思った。

     最初っからそうしときゃよかった。

とにかく大変な一日でした。チャン、チャン。



3/11   セグー

今日はセグ−を観光。川沿いを歩いているだけで一日が終った。セグ−はモプティーに似ていて、あまり新しみはないが、のんびりできた。土産物屋は例のごとく、しつこいんだけれど、、。

今日の収穫は小学校の先生に出会ったことだ。彼は先生というだけあって、知的で教養のある人物だった。彼に小学校で写真を撮りたいと言ったら、校長に伝えておいてくれるとのこと。僕は彼と翌日会うことを約束して別れた。


3/12   ニジェール川の漁村


セグ−3日目。旅もあと1週間ほどになった。ドゴンや、ジェンネはたしかによかったのだけれど、何かが物足りない。

そう、僕は川辺に住む人々の昔ながらの暮らしぶりが見たかったのだ。

   そうだ、川の向こうの村を訪れよう。

そう思い、さっそく英語を話せる人を探し、交渉した。

結局二泊三日のツアーで、対岸の漁村やバンバラ、フラ二族の村を訪れることになった。ガイド料は全て込みで1日あたり6000CFA。

小学校見学後、早速対岸のフィッシャーマンの村を訪ねた。
村はちょうど食事中だった。1つの皿を家族みんなで囲んでいる姿が微笑ましい。
食後はマンゴーやパオパブの実を取ったり、お茶をのんでくつろいだ。

ガイドの彼はその村の村長の息子らしく,なかなか居心地が良かった。ただ彼はどうもしゃべりすぎな性格で、のんびりしたい僕の感情を逆なでした。

夕方、この村の漁に連れていってもらった。漁はいたって小規模なもので、1人が漕いでいる間にもう1人が川に網を沈めていく。そして、円状に網を沈め終ったところで、絽で水面を叩き、驚いた魚が網に引っ掛かかるという方法だ。

非常に非効率な方法で、2時間ほどかけて、捕れた魚は手のひらサイズが6匹ほどだった。思っていたよりも魚がいない。

後に本を読んで知ったことだが、ニジェール川流域には魚を捕るのを専門とするボゾと呼ばれる民族がいる。彼等は12月から2月の減水期にかけて、支流の川を遮断し、本流に戻ろうとする魚を筌や手網で捕るようだ。

この方法は効率が良く、その時期の漁民の生活は潤う。

しかし、ニジェール川では最盛期以外の半年は魚が捕れず、その時期彼等は糧を失うことになる。それは、魚は長期保存が困難だからである。

その弱点を補填するのがマルカと呼ばれる人達で、彼等が作る米をはじめとする穀物を譲り受けることにより、彼等は生きていくことができる。

逆にボゾは最盛期に採れる魚の分配を行う。また宗教、政治など多岐にいたるまで古来より共存関係が成り立っているようだ。
古から行われてきた、この分業システムは自然や他民族とうまく共存していくための1つの知恵なのかもしれない。そして、僕の訪れた小さな漁村もこうしたシステムの中で生活していたのかもしれない。



3/13   バンバラ族の村

 

子供だけの昼御飯


朝御飯をパンとリプトンですごした僕は、ピロッグでバンバラ族の村に向かった。島に着いた後昼食をとり、さらに約一時間かけて村に向かった。一日6000CFAだが,彼はポーターもやってくれるので、ありがたかった。

バンバラの村に着くと、まず村長に御挨拶。風格のある村長は快く僕を受け入れてくれた。村では、子供と遊んだり、マンゴーやオレンジを採りにいったりした。村はゆっくりと時間が流れていた。

子供たちは最初、外人の僕を遠巻きに見ていた。そしてある者は泣叫び、ある者は好奇心から寄ってくるようになった。そういえば村長が村にきた日本人は始めてだと言ってたっけ。

小学校にも行った。村長曰く、この村では机が足りないのだそうだ。だから援助が必要なんだそうだ。このことを日本に帰ってから伝えてほしいと言われた。

僕は『そうですかー、大変ですね』と相づちをうちながらも、『村の裏にある木を一本切り倒せば、事はすむじゃないか』と思った。 が、黙っておいた。

どうもアフリカというのは援助に頼りすぎるようだ。

それはともかく、この村はゆっくりと時間が流れていた。

夜は屋外に蚊帳を張って寝た。しかし朝起きてみてびっくり。蚊帳を振ると蚊の大軍が飛び去っていったのだ。

あぶない、あぶない。蚊帳持っていってよかったー。

ガイドの彼は昨夜、蚊が気になってあまり眠れなかったようだ。大丈夫かな、、。



3/14   好好爺と意地悪じーさん


フラ二族の女性:唇の下が黒いのが特徴です

今朝は早起きして、バンバラの村から数分のところにある、フラ二族の村を訪れた。なんでも日が登りきってしまうと、男は牛を追いに、女は市場に売買に行くため、村に人がいなくなるそうだ。

例によって、また村長のもとに。だが、ここの村長、「意地悪じーさん」だった。最初は心よく迎え入れてくれているようだったが、そのうちに貢ぎ物を求めてきた。僕がドゴンで買ったネックレスや指輪をだ。

『いやいや、これは父さんの土産物で、これは母さんにあげないといけない』などとごまかしていると、村長は急に不機嫌になった。僕に向かってさっさと帰れというそぶりをみせる。

貢ぎ物を持っていくのが礼儀かもしれないが、まったくむかつくじじいだ。

バンバラの村に戻ってから、僕は帰りの準備を始めた。短い間だったが、素朴な人達が集まる良い村だった。

荷を詰め、村をあとにしようとしていると、村長の使いがやってきた。なんでも村長が村では貴重な鳥を御馳走してくれるとのこと。

感動。なんていいじいさんだ。さっきの村の意地悪じーさんとは大違いだ。

さばいたばかりの鳥は本当に美味しかった。『村長ありがとう。』感謝の気持ちを述べると、村長は優しく微笑んでいた。そして『この村に来てくれてありがとう』と。

こちらこそ、ありがとう。あなた達の優しさに触れられて、僕もとっても楽しかった。

もう会うことのないであろう人達へ、ありがとう。この村に幸あれ。

僕は写真を送る事を約束し、この村をあとにした。この村の名はカラビレッジ。カラとはバンバラ語でパオパブという意味だ。

セグ−に戻った僕はバスに乗り、バマコに戻った。



3/15   バマコ

バマコに戻ってきた。旅ももう終りだ。残金も残りわずか。残りの金で宿に泊まったり、お土産を買ったりしないといけない。

バマコに戻ってからは、やる事がないので(観光する気が失せたので)、ひたすら土産屋やカセット屋を巡った。

ここにきて写真を撮らなくなった。交渉や、もめるのに疲れたのだ。

今回の旅でマリにあてた期間は18日間。ちょうどよかったかもしれない。



3/18   マリ最終日



マリ最後の日。ふと、マリを訪れるきっかけとなったサリフケイタに会いたくなった。土産屋のにいさんにその話しをすると、どうやら彼はサリフのガードマンと友達らしい。ということで、彼の家に連れていってもらうことになった。

途中、道路が封鎖され黒山の人だかりができていた。なにやらリビアの大統領がきているらしい。

ん、リビアの大統領? 、、、ってガタフィー大佐のことじゃん。なんたる幸運。しばらく車は動きそうにないので、僕も人だかりの中に入っていった。

最初はサクラかな、と思っていたが、どうやらガタフィーはマリでかなり人気があるようだ。大人が太鼓を叩き、子供が踊っている。しかしそのダンスのうまいこと。リズムといい、ファッションといい、改めてセンスの良さに脱帽した。

しばらくすると、高級車や放送車が数十台続き、金ぴかの衣装をきたガタフィー登場。王様のような格好をしていた。かっこいー。しかし彼は何のためにマリに来たのだろう?

彼が去った後、しばらくして交通規制は解除された。そしてそこから車を数十分走らせたところに、サリフの家があった。土産屋がガードマンに頼んだところ、しばらくして、会ってもいいとのこと。

なんとなく会える気はしていたが、それがいざ現実になると緊張してきた。なにしろ彼は非常に著名な方で、ノーアポで会えるなんて普通はありえない。本当に運がよかった。

家に入ると、中から美しい歌声や楽器を弾く音が聞こえてきた。彼の家には若き音楽家がたくさん集まっているのだ。

そして奥の広間にサリフはいた。彼はマネージャーと打ち合あわせをしている最中で忙しそうだったが、心よく迎え入れてくれた。

彼にマリに行くきっかけになった旨を伝え、感動したことを伝えた。そして、日本やマリのことについて10分ぐらい話した後、サリフ家をあとにした。

 
夕方、ダウンタウンに帰ってきた僕はニジェール川に最後のお別れをして、マリを去った。
 


マリ旅行を終えてみて  



マリから帰ってきて3ヶ月がたった。あの国はエネルギーに満ちあふれていて、勢いがあった。
屋台があって、お世辞にも綺麗とは言えない家が立ち並び、道ばたの到るところで、木や金属などを加工する姿が見られる。人々は猛烈な暑さと埃の中、物を売り買いしている。需要は非常に高い。

人々は今日の食事分の穀物を杵でつき、家族全員で食べる。子供たちは鼻たれぼうずが多い。

  活気があって、生活感満点の国である。

マリでよかったのは日記でも記したが、なんといっても音楽だ。それらはニジェール川や、過酷なサヘルの大地に結びつく。

ニジェール川の夕暮れは美しい。昼の激しい日射しに反して、とても穏やかでやさしいのだ。

そこへ絽を漕ぐ音や魚の跳ねる音、穀物を雑穀する音が交わり、とても哀愁のある空間をつくり出す。それは多分、昔から変わらぬ光景だろう。

マリにはグリオという代々、音楽でメッセージを伝える吟遊詩人がいる。文字のなかったこの地域では、王や酋長の偉大さを後世に伝える方法をグリオに託したのだ。そのため1人のグリオの死は1つの図書館を失うのと同じように例えられる。

マリではフランスによる統治後も国によって、音楽を厳重に保護した。そのため、今でも昔ながらの土地に根付いた音楽が残っているのだ。
 
音楽を聞いて風土を感じられる。これはすばらしいことだと思った。農耕文化の中で、そこにあるものを叩き、そこにある日常を歌う。そんな音楽の原点を垣間見たような気がする。

アフリカは様々な意味で原点を感じさせてくれる。それは、コミュニティーのあり方にしろ、物質的なものにしろ多岐にわたるのだが。まず、生きていることを実感できる。

そんなアフリカと日本を比較すれば、日本の失ったものの大きさ、得たものの大きさがわかるだろう。

そして、アフリカは人類の古郷でもある。だから何か懐かしい優しい気持ちになれる。

マリにしても、人が擦れているという評判が先に立つが、決して、そんなところばかりではない。観光地を抜け、一歩入り込んだ旅をすれば、良きアフリカを感じられる国だと思う。

だから、そんなアフリカに興味を持っておられる方は是非一度訪れてみてほしい。



マリ日記終わり  



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