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分裂の時代 魏晋南北朝時代
 
 

三国時代
献帝 けんてい 劉協 シャン・ディ 181〜234 (在位189〜220年)

中国,後漢最後の皇帝(第14代)。
霊帝の中子で,9歳で即位。董卓が実権を掌握し,190年(初平1)に袁紹の挙兵を恐れた董卓に強制されて長安に遷都した。董卓が殺されたあとは,董卓の部曲将である李育(りかく),郭皇(かくし)らに擁立された。196年(建安1)に洛陽に帰り,翌年に許に遷都して曹操を頼ったが,曹操の死後(220),魏王曹丕(そうひ)(曹操の子)に帝位を禅譲し,退位とともに山陽公となった。ここに後漢は滅亡し,魏・蜀・呉の三国鼎立の時代をむかえる。
董卓仲穎 とうたくちゅうえい ドン・ツゥオ ?〜192
後漢末の辺彊総督。献帝を帝位につける。
中国,後漢末の群雄の一人。臨降(甘粛省)の人。字は仲頴。性格は粗暴で腕力にまさり,羌族の呑長を懐柔して勢力を養う。霊帝の末年に稀州牧となり,強大な軍隊を率いて時勢を観望する。189年に外戚の何進の宦官誅滅計画に応じて洛陽に進軍すると,献帝を擁立して政権を掌握するとともに暴虐のかぎりをつくした。190年(初平1),袁紹を盟主とする董卓討伐軍が組織されると彼は長安に遷都したが,いよいよ凶暴となり,部下の呂布に殺された。黄巾の乱につづく董卓の暴挙によって漢は事実上滅亡し,群雄割拠時代に入る。
曹操孟徳 そうそうもうとく (魏の太祖・武帝) チャオ・カオ (155〜220)
乱世の姦雄” 三国・魏の事実上の建設者。すごい人。
“命世の才”(橋玄の評)、 “治世の能臣、乱世の姦雄”(許劭の評)、 “清平の姦賊、乱世の英雄”(許劭の評「後漢書」)、 “漢末天下大いに乱れ、雄豪並び起こりて袁紹四州に虎シ(日+示)し、(略)太祖は籌(はかりごと)を運らし謀(はかりごと)を演べ、宇内を鞭撻し、申・商の法術をとり、韓・白の奇策を該ね、官方受材、各おの其の器に因り、矯情任算(=感情に任せず)、旧悪(=過去のいきさつ)を思わず、終に能く皇機を総御し、克く洪業を成すは、惟れ其の明略の最も優なるなり。非常の人、超世の傑”(陳寿の評)、 “神武、期に応じ、典と刑を興復し、まさに凶慝を撥平して、海内を清定せんとすること、信(まこと)に徴(しるし)あり”(陳珪の評)、“豺虎(さいこ=山犬と虎)なり”(周瑜伝)、
父は後漢の有力な宦官曹騰の養子・曹嵩。
曹操は若いときは策略にたけた非行少年として悪名が高かったが、《孫子》13編の注を書くなど兵法の勉学にも励んでいた。
20歳で宮仕えを始め,いくつかの官を歴任したのち,184年(中平1)黄巾の乱では手柄を立てて済南国(山東省)の相(代官)となった。やがて首都に戻って近衛部隊長になっていたとき,189年に西方から武将の董卓が強大な武力を背景にして上洛し、首都・長安は大混乱に陥った。都を脱出した曹操は、翌190年(初平1)に袁紹を盟主とする董卓討伐連合軍にみずから集めた兵を率いて参加したが、同盟は名ばかりで事実上中国はこれより群雄割拠の状態になる。曹操は山東省西部から江蘇省北部に及ぶ地方を勢力下に収め、董卓が192年に殺されたあと,それまで董卓が擁していた後漢最期の皇帝・献帝を自分の拠点・許(昌)に迎えた。(建安元年、196)
曹操は献帝から大将軍の地位を授けられ、200年(建安5)官渡の戦いでライヴァル・袁紹を倒すと、207年には遼寧省にまで進出して華北征服を完了した。一転して208年には湖北省を征服して,襄陽に流寓していた名士たちを召し抱えてさらに南進を図ったが、赤壁の戦いで呉と蜀の連合軍に阻まれ、ここに天下三分の形が生じた。 献帝は210年(建安15)に曹操を丞相に、213年(建安18)に冀州(河北省)10郡をもって魏公に封じ、216年(建安21)には魏王に進めたが,帝位を譲られる寸前(建安25年、220)に病死。66歳。
「建安七士」のひとり・陳琳の評 (後漢書)
「贅閹の遺醜(宦官の余った肉)にして、もとより令徳無く、(イ+票)狡鋒(イ+夾)、乱を好み禍いを楽しむ」「鷹犬の才、爪牙任ずべし」「愚佻短慮、軽く進み易く退き、傷夷折衂して、しばしば師徒を喪う」「資(財産)に乗じて跋扈し、ほしいままに酷烈をおこない、元元(民のもちもの)を割剥し、賢をそこない善を害す」「志をほしいままにした行いを専らにし、威もて省禁をおびやかし、王僚を卑侮し、法を破り規を乱し、坐しながら三台(尚書、御史、謁者)を召し、朝政を専制し、爵賞、心に由り、刑戮、口に在り。愛するところならば五宗をかがやかし、怨む所は三族を滅す。群談する者は顕誅を受け、腹議する者は隠戮を蒙る。道路にては目を以てし、百辟(=百官)口をつぐみ、尚書は期会を記し、公卿は員品(=定員)を充たすのみ」「身は三公の官に処れども、桀虜の態を行ない、国を汚し民を虐げ、毒をば人鬼にも施す」「加うるに其の細政は苛惨にして、科防(刑罰と禁令)を互いに設け、ソウ(矢+曾)シャク(糸+(激のツクリ))(=四つ手網)は蹊(=谷間の道)に充ち、コウ穽(=落とし穴)は路を塞ぎ、手を挙ぐれば網羅に挂り、足を動かせば機カン(土+啗)(=仕掛けの罠)を踏む。是を以てエン州・予州に無聊の人有り、帝都に呼嗟の怨み有り」「古今の書籍の載する所を歴観するに、貪残虐烈無道の臣、(曹)操に於て甚だしと為す」「操は豺狼の野心あり、潜かに禍謀を包み、乃ち棟梁をトウ(木+尭)(=次々に曲げる)し、漢室を狐弱にせんと欲して、忠を除き善を害し、専ら梟雄を為す」
★参考本
渡辺精一 「三國志 人物鑑定事典」 学習研究社、1998年
曹操に与えられた24ページのうち、8ページが上記の陳琳の檄文で、読んでいて非常に痛快(^_^) 
原文を全部読んでみたいものだ。後漢書ってどこで読めるの?
曹丕
孫権
劉備
司馬懿 しばい  179‐251
中国,三国魏の将軍。晋朝建国の基礎を固めたので,のちに宣帝と追尊される。字は仲達。河内郡(河南省)温県の豪族。曹操の知恵袋といわれた荀砧(じゆんいく)の推薦で出仕し,ことに魏の文帝曹丕(そうひ)に重用されて,遺詔により明帝,叡(在位226‐239)を補佐すべき重臣に指定された。かくて呉,蜀に対する戦争指導の最高責任を負い,諸損孔明の指揮する蜀軍と対決して,234年(青竜2)には五丈原で孔明を病死に追いこみ,蜀の脅威を根絶したあと,238年(景初2)には遼東太守の公孫淵を討って朝鮮半島北部に至るまで魏の版図を広げた。239年,明帝の遺詔を受けて新帝の斉王,芳(在位239‐254)を補佐することになったが,政敵であった帝室の曹爽(そうそう)一派に実権を奪われ,一時は雌伏を余儀なくされた。その後249年(嘉平1),クーデタによって曹爽一派を誅滅したあとは,司馬懿とその子の司馬師・司馬昭兄弟がつぎつぎに実権を完全に握り,昭の子の司馬炎が晋の初代皇帝(武帝)となった。
諸葛恪 元遜 しょかつかくげんそん  (203〜253)
三国時代・呉の太傳(皇帝の指導補佐役)諸葛瑾の息子。死の床の孫権から後事を託され呉国の全権を握るが、一年後に暗殺される。一説によると、彼の驕慢な性格が暗殺を招いたのだといい、また、呉国の安定のために皇族の勢力を抑制しようとしたために弑されたのだともいう。
「自分の才能を過信しすぎた才人」との評あり。 呉書に『諸葛恪伝』。
陳寿曰く、「諸葛恪は、才気に溢れ大きな見通しを持って仕事のできる人物であって、広く国内の人々の称賛を受けていた。しかし彼は驕慢で狭量であった。たとえ周公であってもその長所を台無しにしてしまう。まして諸葛恪の如き人物であれば、尚更のことである。己を誇って他人を踏みつけにしたのだから、どうして身を滅ぼさずに済むはずがあろう。もし彼が陸遜や弟の諸葛融に与えた手紙に述べたところを自ら実行していたならば、後悔をすることにもならず、災禍を被ることもなかったのである」
 
恪は幼少の頃から非常に聡明で機知に富んでおり、とりわけ孫権にかわいがられていた。20歳前後にして騎都尉に任命され、顧譚・張休らとともに太子孫登の近侍としてその教育にあたり「太子四友」などと呼ばれた。さらに中庶子から左輔都尉に昇進。
彼の身の丈は七尺六寸(2m30cm? …古代中国の尺は日本と違うのか?)の長身で、鬚や眉は薄く、鉤鼻で額は広く、口が大きく声が高かった。若いときから優れた弁舌を持ち、父・諸葛瑾でさえ「藍田に玉が生ずるというのは確かに虚言ではない」と言うほどであった。ただし正史には「傲慢で人を踏みつけにする性格であった」とも記してある。
 
諸葛恪のエピソード
主君・孫権が馬ヅラの諸葛瑾をからかって、宴会の席で一頭の驢馬を引き出してその首に「諸葛子瑜」記した札をかけて大笑いした。いあわせた諸葛恪(当時6歳)は、主君に許しを得て、その下に「之驢」と書き記した。満座は爆笑、孫権は褒美として驢馬を彼に下賜した。

孫権が諸葛恪に下問した。
「そなたの父の諸葛瑾と叔父の諸葛亮は、どちらが優れているか?」
「それはわが父です。父は仕えるべき主君を知っていますが、叔父は何もわかっておりません」
孫権はそれを聞くと、たいそう機嫌を良くした。

孫権が諸葛恪に命じ、宴席で酒を勧める役をさせた。彼が張昭の前まで来たとき、酔いがかなり回っていた張昭は恪からの盃を受け取ろうとはせずこう言った。 「老人に無理を強いるのはに背くぞ」
それを見ていた孫権が言った。 「諸葛恪、張公を上手く言い負かしてみよ」  そこで、諸葛恪は言った。
「その昔、師尚父は、歳が90になっても旗を片手にもう一方に杖をついて陣頭に立ち、老などを理由に役目を辞退しなかったと聞きます。わたくしは老公に対して戦さで先頭に立って欲しいとなどは申せませんが、しかしいま、この晴れがましい酒の席の場で張公に先陣に立つことを請わずして、どうして老人を大切にするなどと申せましょう」
張昭は反論ができず、やむを得ず杯を飲み干した。

あるとき孫権の宮殿の庭に頭の白い鳥が飛んできた。孫権が諸葛恪に「これは何という鳥か」と尋ねると、諸葛恪は「白頭翁でございます」と答えた。たまたまそこにいた張昭が、自分が最も年長の存在であることから、諸葛恪が鳥に喩えて自分の白髪頭を笑っているのだと考えて、憤慨して言った。「諸葛恪は嘘つきだ。白頭翁などという鳥の名など聞いたこともない。もしいるのだとすれば諸葛恪に白頭翁と対になる鳥、すなわち白頭母という鳥を捜してきてもらおう」。これに対し諸葛恪は切り返した。「鸚母(おうむ)という鳥は存在しますが、対になる鳥など聞いたことがありません。必ず対になる鳥がいるというのであれば、張昭殿には鸚父という鳥を捜してきてもらいましょう」。張昭は返答ができず、満座に笑われた。

あるとき孫権が諸葛恪に「近頃、お前はどうしてそんなに太ったのか。そんなにつやつやして、何か楽しみごとにふけっているのか?」と尋ねた。諸葛恪は答えた。「富は家を潤し、徳は身を潤すといいます。わたくしは楽しみごとにふけっているのではなく、己の行動を正しておるだけなのでございます」

蜀からの使者が呉に来た。呉の群臣が参集した席で孫権は使者に言った。
「とりわけわが臣の諸葛恪は乗馬を好む。帰国されたら丞相殿に申されて、彼のために良馬を送ってくれぬか」
場にいてこれを聞いた諸葛恪は、即座に平伏して感謝の言葉を奏上した。
孫権が笑って、「これこれ、いま頼んだばかりだから馬はまだ来ておらんし、蜀が贈ってくれるとも限らぬぞ」と言うと、諸葛恪は言った。
「蜀は陛下の、遠く離れた厩でございます。只今特別の思し召しによる詔がありましたうえは、馬は必ずやって参ります。どうして謝意を表さずにおられましょう」

孫権が死の床で後継者・孫亮の補佐役として諸葛恪を選び、遠い荊州・武昌の地から諸葛恪を呼び寄せたとき、戦友の上大将軍・呂岱は「世はまさに多難の時代だ。どんなことにでも必ず十回繰り返し考えた方が良い」と忠告した。諸葛恪はそれに対し「むかし季文子は何事にも三度考えて実行したが、孔子はこれを批判して『二度考えれば十分だ』と言ったという。今、君は私に十回も考ろと言う。これは私に考える力が無いと言っているのか?」と返答した。呂岱は言葉を失い、沈黙。

……つくづくイヤなヤツだねえ〜〜(笑)

このように諸葛恪は頭のめぐりの速さで幼時から知られ、それによって出世したが、一方で煩雑で単調な仕事が苦手で、任された事務仕事にまったく身を入れなかった。諸葛恪の性格について叔父の諸葛亮が陸遜に当てた書簡(『與陸遜書』)にこうある。 「我が兄・諸葛瑾は歳をとり、しかもその息子恪はいい加減な性格である。呉はその彼に穀糧のことを任せたと聞いた。糧秣は軍事の最重要事である。遠方にいる私でさえそのことには不安を感じます。どうか陛下に申し上げて、役目を変えていただくように」。 諸葛恪を嫌う陸遜はこの手紙を読んで、諸葛恪の役職を代えた。(一説では軍司令官に(…)
陸遜は諸葛恪につねづねこう忠告した。「私は上には敬意を払い下には目をかけるように努めてきた。しかし君は上の者を憚り、下の者を見下している。私とは全く逆である。これでは先が思いやられるよ」   一方で諸葛恪自身も陸遜の政策に対して不満を持つこともあったが、彼に対してだけは(陸遜が常に彼を気に入らないことを知っていて)、おもてだっては常に賛同の意を示すことにしていたという。
32歳の時、諸葛恪は孫権に、地勢堅牢でなかなかまつろわぬ丹陽の鎮圧を願い出た。息子の作戦を聞いた父・諸葛瑾は「息子は、一族を滅亡させるだろう」と嘆いたが、孫権は恪を撫越将軍・丹陽太守に任じ、彼は兵糧攻めと巧みな人心操作によって一年で丹陽を帰順させた。この功で威北将軍に昇進。   その後、淮南のハン城の戦い、舒の鎮圧、柴桑の防衛などで武功を挙げる。

241年(ハン城の戦いの翌月)に父が、245年に陸遜が死去すると、諸葛恪は大将軍(地位としては三公よりも上)に任じられ、荊州方面の軍事全般の指揮にあたることになる。251(嘉平3)年に孫権が重病におちいる。 太子亮が幼少なので、死の床で孫権は重臣たちと孫亮を補佐する人物について協議した。皇族である孫峻が、その才気を買って諸葛恪を推薦するが、最初は孫権は諸葛恪の性格が素直でないことを案じて、難色を示した。しかし孫峻の度重なる強い説得によって、最期に諸葛恪を宮廷に呼び寄せることに決意。臨終の際に孫権は、諸葛恪と滕胤らに後事を託して崩御。
しかし、孫権の死の混乱に乗じて、(孫権後期に後継者争いが激しく起こったこともあって)呉の宮廷ではことさら嫌われ者の諸葛恪に実権を与えまいとする動きももちあがった。とくに、もともと諸葛恪と仲が悪かった皇族の孫弘が、諸葛恪によって粛清されるのではないかと畏れて、孫権の死を伏し詔を勝手に改作して諸葛恪を排除しようと企てた。孫峻がそのことを諸葛恪に知らせ、諸葛恪は孫弘を招いて、その場で誅。
このときに諸葛恪は太傅(皇帝の指導補佐役)に任命された。初期の諸葛恪の政策は、官吏たちを監察する校官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税を廃止したりするといった、呉の内政面の改革にそそがれた。これによって呉の宮廷は見通しの良いものになったため、宮廷の誰もが諸葛恪による呉の政治の未来に期待した。諸葛恪が外出するたびに、民衆たちが首を伸ばして彼の様子を見たいと願ったという。この頃の諸葛恪は、弟の諸葛融(=父の死後、兄に代わって父の名跡を継いだ)に当てた書簡(『與弟公安督融書』)の中で、叔父の諸葛亮に恥じぬように若き主君を輔弼したいという抱負を、熱く語っているという。

252(建興元)年に巣湖の堰き止め堤を修復し城を築いたことを契機に、魏が呉に侵攻してきた。諸葛誕胡遵が率いる魏の軍7万は、諸葛恪が修復した東興の堤防と町を包囲。これに対し、諸葛恪は丁奉・唐咨と共に4万の兵を率いて救援に赴く。丁奉の奇襲作戦によって呉軍は大勝利をした。(東興の戦い)  この功によって諸葛恪は昇格し、国内の軍権全てを掌握。

東興の戦いで大勝した諸葛恪は、魏軍を過小評価するようになった。
翌年春に、彼は出兵を主君に申し出る。重臣達はみな、先年の戦いで呉軍は疲労しているといって反対したのだが、諸葛恪は一方的に反対意見を無視する態度をとった。彼の友人である聶友が反対したが聞き入れず、結局、20万の軍隊を引き連れて諸葛恪は出陣した。諸葛恪の強引な出兵と増税に対し、民衆は彼を嫌うようになった。
この遠征で、まず呉軍は合肥の新城を包囲したが、2ヶ月経っても一向に攻め落とすことは出来なかった。将軍達は諸葛恪の無謀な計画に終始反対し、猛暑のせいで兵士はつぎつぎと倒れていった。将が惨状を諸葛恪に報告しようとしても、彼は怒ってその者を斬ろうとしたため、彼の元には正しい報告が届かなくなった。やがて、魏から司馬孚が20万の大軍を率いて迎撃にやってきたため、やむを得ず呉軍は撤退。
退却は困難を極めたが、敵総大将・司馬孚がまったく無名の将軍であったことを侮って再起を図り、平然としてふたたび屯田による布陣を開始した。しかし、主君からの度重なる帰陣の命令があって、8月にやむなく都に戻った。この遠征によって、諸葛恪は廷臣・兵士・民衆の支持を完全に失った。
都に帰った諸葛恪は、自分が遠征している最中に任命された役人達を辞めさせ任命をやり直させるよう指示し、彼はますます威信を張るように努めた。また、禁中の宿衛をすべて自分と親しい者たちに入れ替え、青州・徐州に遠征しようとした。

かつて死の床の孫権に諸葛恪を推薦した孫峻は、この頃になると自分の選択に激しく後悔するようになっていた。思い余った末に彼は諸葛恪の誅殺を思い立ち、幼帝孫亮を抱きこんで酒宴の準備をした。直前に諸葛恪は不吉な予感をいくつも感じたと言うが、構わず宮廷に参内し、酒宴の場で孫峻に斬り殺された。享年51歳。彼の腹心である張約及び諸葛恪の一族も何時も経たないうちに殺された。

諸葛恪は酒宴の直前、変な胸騒ぎを覚え、一晩中眠ることができなかった。夜が明けて、顔を洗おうとするとその水は生臭く、従者が上衣を着せようとするとその着物も臭かった。諸葛恪はいぶかしんで衣服も水も変えさせたが、臭いは相変わらずで、彼は心が沈んでしまい面白くなかった。出かけようとすると、飼い犬が彼の衣服を咥えて離さなかったので、彼はうちに戻って坐った。また出かけようとすると、飼い犬が咥えて離さなかったので、従者に命じて犬を追い払い、そのまま馬車に乗った。
孫亮に目通りすべく、諸葛恪は馬車を宮門の前に駐めた。孫峻は諸葛恪の様子を探りに自ら彼に会いにいった。そこに腹心の張約らが、諸葛恪にこっそりメモを渡したので、彼は引き返そうとした。しかし、その途中で滕胤に会って、滕胤も孫峻が密かに策略を巡らせている事を知らずに、諸葛恪に参内をするよう勧めたので、諸葛恪は渋々酒宴に参加した。その後暫くして、彼は孫峻によってメッタ切りにされた。
後に、諸葛恪の遺体が石子岡で発見され、彼の元部下たちは孫亮・孫峻の許可を得て、彼の遺体を収容して埋葬した。数年後、孫峻は諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れの余り病気を発して死んだ。また、孫チンが誅殺されると、孫休は詔を下して、諸葛恪の墓を改葬させ、祭を捧げるよう命じた。
★参考本&サイト
夷陵賓館小賢しさ養成塾
講師のひとりである諸葛恪のセリフがやたらおかしいです(^-^)
◎「三國志VI 武将FILE」
諸葛恪のパラメータは、「登場年218 統率61 武力53 知力92 政治65 魅力72 性格;王佐
「能力; 交渉 武勇 都督 大喝 生捕 交替 説得 一撃 側面 必殺 先制 偽退」 です(^_^;)

西晋
 

東晋
司馬睿 しばえい (東晋の元帝)   276〜322 (在位317‐322年

中国・東晋初代の皇帝。妓号は中宗。司馬懿の曾孫。
八王の乱の末期,下ヒ(江蘇省)に鎮守し幕府を開いて揚州(江蘇,浙江,安虐,江西)の軍事権を統轄した。華北の混乱が一段と激化した307年(永嘉1),名臣王導の計に従って建噸(南京)に移鎮し,亡命貴族や三呉地方の豪族を幕下に招いて人心収攬に努める一方で,豪族相互の対立を巧妙に利用して勢力を固め,晋側諸勢力の盟主に推された。劉聡が愍帝(びんてい)を捕らえると317年晋王となり建武と改元して事実上の王朝体制をとり,翌18年(大興1)愍帝殺害の報に正式に即位した。晋の中興,晋室の南渡と呼び,ここに272年に及ぶ南北対立の形勢が定まった。貴族や豪族の力が強く,なかでも琅邪郡出身の王氏が内外に権をとり,〈王と馬と天下を共にす〉といわれた。帝は劉隗(273‐333)ら下級士人を重用して集権化をはかったが,王導の従兄王敦の反乱を招いて混乱の中で憂死した。
五胡

南朝
杜僧明 (と・そうめい:五○九年?五五四年)

字は弘照。広陵臨澤の人。陳覇先の武威を支えた陳朝初期の武将。
小柄だったが人並みはずれた胆力を持ち、騎射を得意とした。梁の大同年間(五三五年?五四四年)に盧安興に仕え、異民族討伐に
武功をかさね、兄の天合とともに頭角をあらわす。
盧安興の死後はその子、子雄につかえていたが、その盧子雄が謀反を疑われ死を賜ると、兄や周文育らとともに仇討ちの兵を挙げる。盧子雄を讒した新喩侯蕭暎を討つべく広州の州城を攻めるが、来援した陳覇先率いる官軍に降伏。兄の天合は戦死したが、僧明と周文育はともに助命され、陳覇先に仕えることになった。
これ以降は、常に周文育とともに行動し、陳覇先の両翼として活躍。侯景の乱では陳覇先軍の先鋒として先陣を切り、勝利に貢献し続けた。その武功により、梁元帝から明威将軍の位を授かる。のち、平北将軍に昇進。
承聖二(五五四)年、西魏侵攻による江陵失陥で元帝が崩ずると、陳覇先は杜僧明を将として援軍を送る。しかしその途上、江州において杜僧明は病を発し没した。四六歳。諡号は威。子の晋が家督を嗣ぐ。
陳朝の、と言うよりは、梁末期の武将である。あくまで梁の武将であった陳覇先に仕え、その簒奪を見ることなく没した。簡潔な杜僧明の列伝からは、練達の武人というイメージが伝わってくる。「萬人之敵」と称されたが、陳覇先は彼の欠点について「部下には親しく振る舞うが、上官には尊大な態度をとる。功を誇り、自分の欠点を直そうとしない」と語ったという。
馬を駆って戦場を馳せた武辺者であり、槍一本で将軍にまでのし上がった人物だった。

                              ?『陳書』巻八列伝二より