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カリー人々 古代から中世にかけてのインド
 
 

インドのダレイオス大王。

ンドレキサンドロス大王
    アレクサンドロスインド侵入; 前326〜前325。

      紀元前335年にペルシャ帝国征服の事業を始めたアレクサンドロス大王は、歩兵3万と騎兵5千からなるマケドニア・ギリシャ
      連合軍を引き連れて、マケドニアを出発して小アジアに侵入した。 前333年イッソスの戦い、前330ごろにバビロンを占領して
      ペルシャ帝国を滅亡させた大王は、引き続き軍隊を東へ進め、まずペルシャ帝国の領土だったパルティアに進撃、ついで
      カイバル峠の西側にある要衝カーブル渓谷に達したあと、
 

<マウリヤ朝>(前317ごろ〜前180ごろ) 首都;パータリプトラ
ャンドラグプタ (紀元前321〜前297?)
   古代インド・マウリヤ朝の始祖。  アレクサンダーのインド侵攻後のゴタゴタをついて、建国。   

     アレクサンドロス大王が前327年にインドに侵入したとき、ガンジス川の流域にはナンダ朝チャンドラマースが騎兵2万、歩兵2万、戦車2千台、
      3〜4千の象と伝えられる強大な勢力を擁していた。  この王チャンドラマース(別名ダナ・ナンダ)は理髪師の子で下賤な性格の持ち主であったが、国王
      の妃の情人となり、ついに王を殺して自ら王位についたといわれる人物であった。

     チャンドラグプタはこのナンダ朝の王家の出身。 母は低い身分だったが、彼はこのナンダ朝の将軍になっていた。 しかし国
     王チャンドラマースの不興を買って逃亡、 プルタークによれば彼はこのときギリシャ軍のところにいって、アレクサンドロス大王
     と会見したという。 そして彼と同じくナンダ王から逃げてきたバラモンのカウティリアに出会い、彼と謀ってついにナンダ王を殺
     して自ら王位についた。 この新しい王朝はチャンドラグプタの母ムラーの名にちなんでマウリヤ朝と呼ばれるようになったと
     いう。 カウティリアは大臣としてチャンドラグプタに仕え、彼を補佐した。
      (上の文章の王の出自はヒンドゥーの伝承に伝えられるものだが、ジャイナ教の伝承では村長の娘の子とされ、また仏教では仏陀と同じ釈迦族の出であるという)

     アレクサンドロス大王が病死して帝国が崩壊したとき、インド内の混乱に乗じて北西インドを平定し、マケドニア軍をインダス
     川の彼方に追い払った。  しかしアレクサンドロスの後継者として帝国東部領の支配者となったセレウコスがインダス川を
     越えて侵攻してくると、 インドには十分な軍隊があったのにも関わらず、 セレウコスに500頭の象を送った。  これによって
     チャンドラグプタはヒンドゥークシュ山脈までの広大な領土を所有することを確認させ、またセレウコス1世が近親の娘をインド王
     に嫁がせ、さらにインドの首都パータリプトラに使節メガステネスを派遣するほど、両国の関係は親密になった。

      このメガステネスの著した『インド誌』は断片しか残っていないが、当時を知る重要な資料となっている。 しかしこれらを含むギリシア側の文献では、この後(イン
      ドをギリシアの支配から解放したあと)、チャンドラグブタは圧制者に転じ、人民を奴隷状態に置いたと伝えている。  
      
     ジャイナ教の伝承によると、王は晩年に王位を息子ビンドゥサーラに譲り、ジャイナ教の行者になったという。
     第2代ビンドゥサーラも(ギリシャ人に)「敵を殺戮するもの(アミトラガータ)の別名で知られた。
 

ョーナキヤ(カウティリヤ、ヴィシヌグプタ)    
    チャンドラグプタを補佐した名宰相。 別名インドのマキャベッリ。インドでは人気者?   

     西北インド出身のバラモンで、彼がマガダ国ナンダ朝の宮廷を訪れたときに廷臣たちの面前で王に罵倒されたので、彼はナン
     ダ朝に対する報復を決意し、旅の途中で見つけた少年(=チャンドラグプタ.....少年?)に王となるために必要な教育を授
     けた。
     チャンドラグプタの戦略により、ナンダ朝は倒され、新しくマウリヤ朝が創始された。 このとき参謀として、チョーナキアの知略が
     フルに大活躍した。 彼はその後も大臣として辣腕を振るい、新王朝の基礎固めに尽力した。  さらに古代インドの政治論書
     として名高い『実利論(カウティルヤ・アルタシャーストラ)の著者と伝えられてもいる。 この書の編纂年代についてはいろいろな
     説があるが、この中に彼自身の言葉が相当残されている。
     この書によって彼の政治論を窺うとすると、徹底した専制国家主義の立場に立っており、また人生観に対しては明瞭に功利主
     義の立場を貫いている。
     インドでは、彼を主人公としたマンガがあるらしい。
 

ショーカ王(阿育王) (位;前268〜232ごろ)    
    マウリヤ朝、第3代国王。 性格が非常に暴虐だっが、仏教をあつく保護したことで有名。   

     マウリヤ朝第2代、ビンドゥサーラの多数の息子のひとり。
     青年のとき、反乱鎮圧のために西北インドのタクシラに派遣されたが、ここで見事任務を達成したことで父王に認められた。
     その後、西インドの大都市ウッジャインに太守として駐在したが、そこで父王の重病の急報を聞いて、直ちに都に急行し、兄たち
     と王位を巡って激しく争って、勝利を収めた。 この争いでアショーカが殺害した兄弟の数は、99名だったという。
     アショーカは即位すると暴虐の限りを尽くし、人々から「チャンダ・アショーカ(暴虐阿育)と呼ばれ、怖れられた。
     とくに「地上の牢獄」という建物を建設したことが有名である。 この建物は入り口に意匠を凝らし、人々を魅惑して中へ招き寄せ
     たが、中には獄吏が待機していて入ったものすべてが殺害されたという。 (・・・・・・・)
     しかし、この残虐な国王は、即位後8年目のある日、突然仏教に改宗した。 彼が改心するきっかけとなったのは、この「地上の
     牢獄」にうっかり入り込んでしまってこの世のものとは思えない惨状を目の当たりにして悟りを開いた(??? 諸行無常の真理を知った)
     とある名もない比丘が、王に説法をしたからだという。
     これ以降、アショーカ王は仏法を奉じて正しい政治を行ったため、人々から「ダルマ・アショーカ(法阿育)と呼ばれて敬愛され
     たという。 (・・・・・・・・・この坊主は、いったい何を王に話したのか、教えていただきたいものだ・・・)
     以上は、仏典による伝説だが、別の伝説では、アショーカの即位8年目にインド阿大陸東南部の大国・カリンガ国に対する征服
     争を起こしたとき、アショーカの軍隊が民間人の女子供を含む数十万人の人々を殺害し、その死体が山野に累々と横たわるのを
     見た王が、突如、世と人生の無常を悟り、仏教に帰依するきっかけとなったという。
 

<グプタ朝>(320〜560ごろ) 首都;パータリプトラ
ムドラグプタ     (335ごろ〜385)
    インド・グプタ朝第2代の王。 父の名はチャンドラグプタだが、上のチャンドラグプタとは関係
    ない(^ー^。

     グブタ朝の建国者チャンドラグプタ1世と、リッチャヴィー族の出のクマーラ・デーヴィーの子。
     アラッハーバードにはこの王が残した石柱碑文があって、その治績と人柄がかなりよく分かる。(この石碑の成立年代・編年の
     順序は明らかでないが、王の征戦の次第を詳しく述べ、帝国の発展に関する重要な資料となっている。)

     この石文によればサムドラグブタが中部インドを従えたのみならず、南はキストナー川まで進出、東はカーマルーパ、北方は
     ネパール、西方ではマーラヴァならびにアービーラ族などを帰順させ、さらには北西インドのサカ族やクシャン朝ともかなりの
     交流があったことも伝える。  この記述が正しいとするならば、その版図は前3世紀のマウリヤ朝アショーカ王以来はじめて
     みる雄大なものであり(その後この王朝にはチャンドラグブタ2世(超日王)が出てさらに大きくなっていくが)、しかもこの王の
     鋳造した貨幣は数も多く型もいろいろあって、その帝国の富強をものがたっている。

     またこの碑文によれば、サムドラグブタは武将として戦いの中に多くの勲功を挙げ、偉業を達成したばかりでなく、文芸音楽の
     道にも広く通じていたという。 この碑文の文章自体が長短語句の配列、用語の選択、修辞の技巧、独創的な表現によって
     全体を完成した文学作品に築き上げていて、この王の宮廷で文芸が栄えていたことを明らかにしている。  この王が若い頃
     仏教教学の高名な世親と交遊があったことも伝えられているが、また一方で王は後継者たちから「アシュヴァ・メーダ(馬の犠
     牲祭)の再興者」と讃えられていて、またこの王の貨幣のうち馬を刻印したものに「アシュヴァ・メーダの再興者なる覇王は大地
     を征服して天を征服す」とあり、王が古いバラモン教の祭祀も復活していたことも分かる。
 

ヒラクラ     (6世紀前半)
   古代インド北方の白い匈奴とも呼ばれる謎の民族・エフタルの王。 残忍。  

     5世紀の末にエフタルはインドの中原に進出し、グブタ朝と衝突した。 エフタルの攻撃は激しく、当時のエフタル王トーラマーナ
     の勢力は東マーラヴァ地方のエーランにまで及んだ。  ガンジス川流域地方と西インドを結ぶこのエーランの占領で、グブタ朝
     は南北に分断されることになり、グブタ朝に決定的な打撃を与えた。 
     しかし、グブタ朝の王ブダグブタの反撃もすさまじく、トーラマーナとブダグブタの戦いは、一進一退を続けた。 この戦いは彼ら
     の息子の世代まで続き、 510年頃、トーラマーナの子ミヒラクラはふたたび、グブタ朝のバーヌグブタにエーランを奪還されてし
     まった。  さらに530年頃までにマガダ国のバーラーディティヤ(グブタ朝のナラシンハグプタ?)とダシャプーラ地方のヤショー
     ダルマンの連合軍に敗れて、首都サーガラを放棄してカシミール地方に後退することを余儀なくされた。  ミヒラクラはその後し
     ばらくカシミール地方に君臨したらしい。  カルハナの『ラージャ・タランギニー』に所伝があるが、 その記事には混乱がある。
     530年頃にインドに来たアレクサンドリアのコスマスは、「千象に乗るゴラス王」と記しており、インドの仏教徒の伝説では仏教の
     迫害者として有名だったという。 519年に中国から来た宋雲がガンダーラで面会したエフタル王は、このミヒラクラだと考えられ
     るが、宋雲は「王は性凶暴にして多く殺戮をおこない、仏教を信ぜず、好みて鬼神を祀る」「王は凶慢無礼」「王は勇力を恃ん
     で??と境を争い、戦闘すること3年、師は老い民は労し、百姓怨嗟す」と述べている。

     ここまでなじみのない名前が頻出すると、かえって想像力がかき立てられますね。
 

ルシャ・ァルダナ   (位;606〜647)
    7世紀インドの名王 戒日王。
    別名、ハルシャ。 シュリー・ハルシャ。 ハルシャ・デーヴァ。 
    シーラーディティヤ(徳の太陽 =戒日王) 

      スターネーシュヴァラ(ターネサル)の王、プラバーカラ・ヴァルダナの次子。 兄ラージャ・ヴァルダナが謀殺されたので、ハ
      ルシャがあとを継いでカニヤークブジャ(カナウジ)を都として即位し、兄のかたきである東インドのガウダ王国の王シャシャー
      ンカに報復する兵を起こした。 そしてカーマルーパ王バースカラヴァルマンし同盟してマガダのマーダヴァ・グプタを服属さ
      せることで、東インドをほぼその支配下におさめた。
      さらに西インドにも進出してまずマーラヴァ地方をしたがえ、グルジャヤおよびヴァーラヴィーを服属させた。 さらにシンド地
      方も征服、北西インドに住んでいたトハラ族にも入貢をさせることにも成功した。
      こうしてハルシャ王は、北インドのほとんどをその支配下に置くことに成功したのだが、ほぼ同時期にデカン高原に台頭して
      
 

ラケーシン2世   (位;609〜642ごろ  
    デカンの覇王 ハルシャ=ヴァルダナを破る。   

     7世紀にデカンの西南部の都市バーダーミを中心に繁栄した、前期チャールキヤ朝の第4代国王。
     即位後、彼は領内に存在する敵対勢力を一掃すると、征服事業に着手し、デカン高原のほとんどをその支配下に置いた。
     さらにそのころデカン方面に関心を抱いていた、北インドの英王・ハルシャ=ヴァルダナの遠征軍をナルマダー河畔の戦いで
     さんざんに打ち破って、見事ハルシャの野望をうち砕いた。
     その一方で、デカンの南方にあったパッラヴァー朝に対する征服を推進し、激しい戦いの末パッラヴァーの領土の北部を併合
     することに成功した。 この チャールキヤ 対 パッラヴァー の戦いは長期化することになったが(王の死後も継続)、プラケー
     シンはベンガル湾に面した、肥沃なゴーダーヴァリー河とクリシュナ河の河口に位置するデルタ地帯をパッラヴァーから奪取し
     自分の弟を派遣して、統治させた。 (のちにこの弟は兄から独立して、「東チャールキヤ」を建国。首都ヴェーンギー)。
     また、プラケーシンは海外との交易にも興味を持ち、ササン朝ペルシャのホスロー2世と、使節や贈り物の交換をしている。

     首都付近のアイホーレというヒンドゥの聖地に、この王が建てさせた碑文があり、それでこの王の業績が詳しく分かる。
     また、唐の玄奘三蔵もプラケーシン王の晩年(636ごろ)に王国を訪れており、『大唐西域記』に「この国の住民は恩義や友情を
     重んじ、そのために命を投げ出すことも辞さず、また辱めには必ず報復した」という内容のことを記している。 また玄奘によれ
     ば「王はクシャトリヤの出自を誇って善政に努め、臣下たちも忠誠心を持って王に仕えた」という。

     しかし、642年頃にパッラヴァー朝との戦いの中でプラケーシンは敗死し、首都も破壊され、その復興には時間がかかった。 

ルマパーラ      (位;770〜810年)
   中世インドのベンガル地方にあったパーラ王国の国王 戦争には弱いが、機を見るに敏で、
   パーラ王国100年の繁栄の礎を築いた。  
   この時代のインドは群雄百乱だ。

    父はパーラ王国の建国者・ゴーパーラ。 各地に広がっていた混乱を収めるために、この地の名士たちによって、王に選ばれ
    た人物。 
  
    この当時、インドに覇を唱えていたのは、北インドに広大な領土を有していたプラティーハーラ王国(首都;カナウジ)と、南インドで
    軍事大国として名をとどろかせていた、ラーシュトラクータ王国(首都;マーニャケータ、デカンの中央)であった。 786年に北に進出し、
    プラティーハーラを打ち破ったラーシュトラクータの王ドルヴァ(位;780頃〜793)に、ダルマパーラは戦いを挑み、負けた。 
    しかし、めざましい軍事的成果をあげたドルヴァ王が、そのままデカンに帰ってしまったので、ダルマパーラはすばやく体勢を立
    て直して北インドを進軍し、当時北インドの文明の中心だったカナウジを占領した。
    ダルマパーラはカナウジを占領すると、そこで大会議(ダルバール=謁見)を開催した。 会議にはパンジャブやラージャスタンなど
    から多くの封建諸侯が集まった。 しかし、北インドでは地下に潜った反抗勢力も多く、ダルマパーラはカナウジでの支配を固
    めることはできなかった。  一時衰退したプラティーハーラの勢力は、ナーガパタ2世(位;?〜833頃)のもとに再結集し、ダル
    マパーラは後退せざるを得なくなった。 さらにビハールのモンギール近くでプラティハーラ軍と対決したダルマパーラは破れ、
    北インドへの進軍を一時期断念した。
 

トゥブッディーン・イバク      (位;1206〜1210年)
   デリー=スルタン朝の五代王朝のうちの初代王朝である「奴隷王朝」の第1代君主。

    中央アジア出身のトルコ系で、最初はニーシャプルのとある富豪の奴隷だった。 その富豪が死んだのでゴール朝のムハンマド・
    グーリー王の奴隷となる。 まもなくアイバクは、その優れた才能を主人に認められてムハンマド王の軍隊の将校として抜擢され、
    そしてムハンマドのインド攻略に部将として随行して大きな戦績を挙げた。
    このころにはムハンマド王の諸将のうちで彼が最も王に信頼されるようになり、ゴール朝軍が1192年にタライーン近郊の大戦闘にお
    いてラージプート諸侯の連合軍を撃滅して、さらにアジミールその他の領土を占領して、インドの地にイスラム勢力が進出する確固と
    した足がかりを築くと、ムハンマド王はアイバクを、インド方面の知事兼総司令官に任じた。 さらにムハンマド王はアイバクに、ゴ
    ール朝の勢力範囲の拡大、周辺地域の完全征服の事業を委任したのだった。
    アイバクは、1193年にデリーを攻略、その翌年にカナウジ、ベナレスなどのガンジス川中流域などを手中に収め、さらにアジミール
    で起こった叛乱を鎮圧した。 ついで1196〜7年にかけてグジャラートを攻めてその首都を略奪し、1202〜3年にはカーリンジャルを
    占領するなどの軍事行動を続け、広大な領土を征服して莫大な戦利品と多数の捕虜を得た。 アイバクの作戦によって、ヴェンドゥ
    ヤ山脈以北の全ヒンドゥスタン地方はすべて、ゴール朝の領土に組み入れられた。
    この十余年にわたるアイバクの幾多の勲功に対して、主君であるムハンマド王は、「クトゥブ・ウッディーン(=「信仰の極星」の意)
    という称号を与えた。 アイバクは、インドおける居城をデリーと定めたが、1206年に主君のムハンマド王が暗殺されると、その後継者
    ギヤース・ウッディーン・ムハンマド王から独立を承認され、インドの地において新しい王朝を開始することとなった。
    主君のムハンマド王が存命の頃から、アフガンのガズニにある主君に成り代わってアイバクがインドにおける事実上のイスラム教主と
    なっていたため、この移行はすみやかに行われた。
    その後の彼は、とくに1208年から9年にかけて、アイバクと同じく奴隷出身だったイーヤルドゥーズと、ラホール地方の支配権を巡って
    激しい戦いを繰り広げ、一時は彼の首都まで攻め込んだが、一進一退を繰り返した。
    1210年アイバクは、パロの競技中に落馬して死んだ。 王権を得てから、たったの4年の歳月だった。
    アイバクののち、養子のアーラーム・シャーがあとを継いだが、無能だったため、アイバクの奴隷でアイバクの娘を妻としていたイルトゥ
    トミシュが彼を殺害して、奴隷王朝第3代目となった。

ェール・シャー   (位;1539〜1545)
     インドのスラム王朝、スール朝始祖。 同時期成立したムガール帝国の最大ライバル。
     ああもったいない、こんなスグレモノ早死にしちゃうなんて。 でも派手だから可。

       本名はファリード・カーン。
       ロディー朝の末期からムガール帝国建設期にかけて、北インドの各地にはアフガン諸族の勢力が割拠していた。 シェル・
       シャーの祖父と父も、そのような地方的小勢力のひとつであった。 したがってシェール・シャーが部族を継いだときもはじめ
       は微弱で、シェール・シャーは自己の勢力拡大のために大きな勢力に追随し、一時は国外からの侵入勢力であるムガール
       帝国建国者のバーブルにまで仕えたこともあった。  どこに仕えていたときのエピソードか定かではないが、ある日仕えてい
       た君主と共に狩りに行ったとき、見事に虎をしとめたので「シェール・カーン(虎の汗)」という名を与えられたと伝えられる。
       しかしやがて自分の属するスール族を中心に着々と全アフガン部族を統合する事業を始め、ムガール帝国第2代のフマー
       ユーンの時代には、東インドのベンゴール、およびビハールを支配下におく、かなりの勢力を保有するようになっていた。
       1539年、フマーユーン帝がベンゴールを併合する目的で派遣した軍勢を撃破してここに「シェール・シャー(虎の王)」を名
       乗り、翌1540年にはカナウジで完勝してムガールの勢力を完全にインド外に追い払った。 シェール・シャーの勢力はインダ
       ス・ガンジス両河領域の全北インドに及び、スール朝と呼ばれた。 さらに南インドおよび西南方面にも支配地域を拡大して
       いったが、1545年遠征中に不慮の死を遂げ、その子が後を継いだ。

       シェール・シャーはインドのもっとも偉大な王者の一人である。 その在位期間は短かったが、戦陣にある間も努力して行政諸
       組織を整備し、これまで割拠していた封建的貴族の権力を押さえて強力に支配し、貴族たちの支配下にあった軍隊を最も効
       果的に掌握して王権を強化し、短期間に広範な領地の秩序を回復した。 また国家財政の根本である地税の賦課徴収のた
       めに徴税官と査察官との整然たる組織を作り、貨幣制度を改革して重量と純度の統一された金銀銅貨を鋳造し、さらに首都
       のアーグラを中心に縦横に通じる道路を建設し、道路の両河に果樹を植え、諸所に宿泊所を設け、駅伝の制度を維持する
       など、多くの天才的施策をおこなった。 その統治が短期間であったために諸制度の基礎を置いただけにとどまったが、その
       多くはのちにムガール帝国の完成者となったアクバルが受け継いで完成し、さらにはイギリスがインドを支配していく際にも引
       き続いて採用されたものまである。 なお、公共建築物も多く造ったが、イスラム建築がインド古来の形式を離れて独特の美を
       形成するようになったのも、彼のころに始まると言われている。
       ビハールのササラームには、水の上に浮かぶ八角形の見事な廟が残っている。
 

ヴァージー、ボンスラ  (1627〜1680)
    17世紀のインドでマラーター同盟を結んで、ムガール帝国のアウラングゼーブ帝に対抗した人物。
    ムガールと対等に渡り合い、ムガル皇帝からは「山の鼠」呼ばわりされたが、フランス・イギリス東インド
    会社にも、その名は鳴り響いた。。

     マラーター族とは、南インドの西海岸側にあるタブティ川の南岸と、ガーツ山脈との間の狭い地域に居住した種族の名。
     大多数はヒンドゥー教徒で身分はシュードラ(奴隷階級)に属し、東方にアーマドナガル朝やビージャプル朝のイスラム政権が
     誕生しても、これらに服属することはせず、傭兵としての剽悍さをうたわれていた。
     19世紀英国出身のボンベイ知事エルフィンストンが彼らを評した「ラージプート族は一般人ですらなにか高貴な様子であるが、
     マラーター族は地位のあるものですらなにか野卑なところがある」という言葉は常識として昔からよく言われていたことで、その
     なかでもとくにこのシヴァージーという人物は、ムガール側および欧米の識者たちからこの悪評高いマラーター族を代表するか
     のように「無頼漢」「悪魔の狡猾の子」「欺瞞者の父」などという(主としてイスラム教徒たちの罵倒の)ことばを長らく(今日まで)
     甘受しなくてはならなかった。

     シヴァージーはマラータ族の藩王のひとつであるボンスラ家に、シャージー・ボンスラの子として誕生した。 父のシャージーは
     はじめアーマドナガル朝にこころを寄せていたが、のちにビージャプル朝にもよしみを通じるようになっていた。 母はジジ・バー
     イー。 熱心なヒンドゥー教徒で、息子シヴァージーがのちにバラモンと牛とカーストとを擁護するようになるほどの信仰上の影
     響力を与えた人物であった。 シヴァージーは少年時代からガーツ山脈中の無頼の徒を集めて匪賊になったと伝えられて
     いるが、事実はどうあれ、その後彼が持ち前の天性を発揮して、マラーターを本来の野性とヒンドゥー主義に立ち返って導いて
     いくことを予感させるエピソードである。 
     マラーター族内の対立者チャンドラ・ラーオと、ビージャプル朝がシヴァージーを除くために送り込んできた将軍アフザル・ハー
     ンを相次いで残虐な奸計でもって撃滅すると、シヴァージーは南部インドに確固とした勢力を築くことができた。 その時点で
     彼は矛先を富裕なインド北部の大国ムガール帝国に定め、皇帝アウラングゼーブが派遣したムガル将軍シャーイスタ・ハーン
     をさんざんに打ち破って、いのちからがらに敗走させた。 このことでこの盗賊王国に対し、帝国は真剣に対処する必要性に
     駆られ、皇帝はさらに息子ムアッザムを派遣したが効果無く、逆に1664年には都市スラットまで略奪されるはめとなった。 
     ムガールの新しいデカン総督となったジャイプールの太守ジャイ・シングは懐柔策に転じ、巧みな外交でシヴァージーとの間
     にプランダルの条約を結んで、彼をムガル帝国に使えさせることに同意させ、シヴァージーをデリーの宮廷に招致することに
     成功した。  しかしまもなく彼は単に五千人の禄臣(マンサブダール)にすぎなく、また皇帝の扱いが冷たいことに腹を立て、
     監禁から逃れて南インドに帰り、アウラングゼーブから認められたラージャ(王、太守)の地位を権威づけるために、1674年に
     みずからライガールの要塞で荘厳な戴冠式を取り行い、マラーター王国の建国を宣言した。  この式にはボンベイの東
     インド会社の使節オクシンデンも出席し、記録を残している。

     1676年、「その過熱した信仰心によって強力な軍事力を浪費し、戦わないでも済む敵を懸命に量産した」と言われるアウラン
     グゼーブ帝がインドの西北地域でアフガン人との激しい戦いを繰り広げていた間に、着々と力を蓄えて南方に勢力を広げた
     シヴァージーは、たまに起こるムガール帝国との戦いに必ずしも全戦全勝をしたわけではなかったが、マラーター族のすべ
     てに「王は疑いもなく神の権化であり、このような英雄はかつて生まれたことはなく、将来も類ないだろう」と賛嘆させるほどの
     尊敬の絶頂でこの世を去った。 53歳、赤痢であったという。

     彼の王国は暴力と威嚇とで建設され、近隣の地域で略奪をまぬがれようとする場合は、自分の政府に納める正規の地税の
     4分の1,チャウトという税をマラーターに納めねばならず、ムガール帝国の地方の一部(カーンデーシ地方の一部)さえこ
     れに服従していたとされる、といわれるのは、後世の、マラーターの野性に対する反感が加味されている。
     彼の軍勢は正規の訓練を経たものではなかったが、歩兵を主力とし、自分の馬によるシラーダールと国有の馬によるバールダ
     ールと区別される騎兵も若干あった。 海上ではコラーバを根拠地とする艦隊も駆使した。 彼の略奪はコーランを入手しても
     破棄せず、既婚の婦女に危害を加えず、貴重な財産は国庫に納入するなど、わずかながら原始的な平等と共有の様相を持
     っていた。  マラーターがイスラム政権に抗し、やがてイギリス勢力とも反抗する性格は、すでに彼一身にも凝縮していた。

     シヴァージーの死後は彼の長男のシャムブージーが後を継いだ。 彼は父から戦争の才能と外交の感性を受け継いでいた
     がいささか軽はずみな性格で、間もなくそれが原因で命を落とした。 その後はその弟ラージャー・ラームが後を継いだ。 彼
     は父、兄ほど鮮やかに戦うことは出来なかったものの、ゲリラ戦術を駆使してムガル帝国を大きく衰退させていった。

           おすすめ図書  陳舜臣・著 『インド三国志』 (講談社文庫) 
                   面白い! ただ、物語の前半ではシヴァージーが傑出した英雄なんだけど、そのうちいろいろな人物が出てきて「このころの人物は英傑だらけ?」
                   と思ってしまう。  なによりも題名が「三国志」なのに、三国志のはじめの「群雄の割拠」のような状況だ。   あとがきによれば物語は途中で終わ
                   っていて、さいごにこれからつづく物語のあらましが簡単に書かれている。 これが非常に楽しそう。 岩波文庫版三国志の第8巻、ってかんじ。