オドアケルOdoacer
(430ころ〜493年.3.15)
西バ
スペインの「国土回復運動(レコンキスタ)」期の名将。
「エル・シッド」とは、アラビア語で「わが殿」の意。「カンペアドール」とは「戦士」。
謀略により、祖国を追われてもなお、国王ドン・アルフォンゾに変わらぬ忠誠を誓ったことが有名で、
昔からさまざまな物語・歌に編まれる。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の逸話がある。この人物で思い起こされるのは、50〜60年代アメリカで全盛時代を迎えた「超スベクタクル史劇映画」。そう、「ベン・ハー」('59)とか「スパルタクス」('60)とか「アラビアのロレンス」('62)とか「クレオパトラ」('63)とか・・・・
アメリカ映画なのになぜかいつも舞台はヨーロッパ (またはその付近) でともかく舞台に凝ってて長くて、登場人物はみんな彫り が深くて、見せ場は語りぐさになってて・・・・
おもえばまもなくベトナム戦争を迎え、次第に落ち目になっていく大アメリカ世界帝国の最後の輝きの象徴、いわゆる「古き良きアメリカ」ってなものだったのだろう。 で、そういった映画のひとつに『エル・シド』(62)はあった。 舞台はスペイン、主演は十戒('56)、ベンハー('59)、猿の惑星('68)のチャールトン・ヘストン。 すでにベンハーの大成功があったので、この作品も評判は高かったと思うが、実際には(たぶん)ポシャったのだとおもわれる。 だってスペインという舞台もこの題材も地味だもん。 そして、まもなく、アメリカで不況が深まり、この手の映画は作られなくなっていくのだった・・・・・
しかし! 歴史好きには実際にこの映画を観てみて欲しい! 実際この時代の大作にありがちな堅苦しい雰囲気をこの映画も強く持っているが、そんなものベンハーとアラビアのロレンスを観られる者にならすぐ克服できる! あれを麻薬みたいなものだと感じられるようになってこそ、歴史の醍醐味を感じられるようになると太陽領は言いたい。
そうではなく、この映画の最大の見どころは、荒涼としたスペインの大地を背景に繰り広げられる歴史群像である。 そう、近年になって出来の良い歴史映画が再びたくさん作られるようになって、映像的に見事なものも多いが、それでもこの何十年前の『エル・シド』をここで太陽領がオススメする理由は、この背景込みの映像づくりのこの作品づくりのスタンスに、感銘を受けたからである。 この映画の物語は、常にスペインの大地の情景と共に語られる。 大河ドラマはこうでなくてはいけない。 めまぐるしく移り変わるはかない人間の歴史と、変わらない大地。 ああ、スペインに行きてぇぇぇぇぇーーーーー。でもやっぱり、この映画、分かりにくいね。 だって登場人物に知っている(有名な人)はいないし、カスティリヤだとかアラゴンだとかレオンだとかサラゴッサ・モロー王国だとかバレンシア・モロー王国だとかなんとか国名がぐちゃぐちゃだし、ヒロインが悪役顔で逆に悪役の王女がヒロインっぽい顔だし、物語は単調なようでいてけっこう複雑だし、なによりも、物語が一応史実をベースにしているものの、やっぱりめちゃくちゃだったりするのが。 というわけで以下、この時期のスペインの史実のところを長々と説明していきたいと思うのです。 そして、最後に映画と史実と伝説もどう違うのかもね。 どうやら、数年前にこの映画を観たときに唯一記憶に残っていた「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のエピソードも、史実ではないらしい・・・・・
〔11世紀後半のイベリア半島(スペイン)の状況〕
9世紀にアフリカ方面から、イスラムの勢力の怒濤の征服運動を受けたゴート人治下のスペインは、イベリア北海岸沿いを除いてイスラムのものになってしまったが、その直後からゴート人の国土回復運動(レコンキスタ)が始まった。
ブルゴスがカステイーリャの首都となったのは951年、フェルナンド1世によるカスティーリャ、レオン、アストゥリアスの三国統一が1037年、マドリー奪還が1083年、トレド奪還が1085年、バレンシア征服が1094年。〔エル・シッドとカスティーリャ王家〕
ロドリーゴは1030年頃ブルゴスに近いビバール村に誕生。ビバールの小領主であった父ディエゴ・ライネスの家系は9世紀のカスティーリャ王国創立期に大法官を勤めたライーン・カルボの血を引いていたものの、すでに下級貴族(インファンソーン)にまで落ちぶれていた。一方でロドリーゴの母親が名門上級貴族の出で、そのつてによりロドリーゴは幼少時より北スペインの統一王フェルナンド1世の皇太子ドン・サンチョのもとに入り、騎士になるための厳しい修行を積む。の 幼いころより宮廷に入り、はじめカスティーリャ国王フェルディナンド1世の宮廷に仕えた。ついでその息子サンチョ2世に仕え軍総帥として活躍した。反逆的なその弟であるレオン王国のアルフォンゾ王を討って捕虜とする。 サモーラの包囲戦でサンチョ王が暗殺され、その子のアルフォンゾ6世(勇敢王)がカスティーリャとレオンの統一王となり、ロドリーゴは続いて彼に仕えた。 最初はロドリーゴはアルフォンソ王の信頼厚く、国王の姪に当たるオビエド伯爵の息女ヒメーナ・ディアスと結婚をした。さらに王命により、セヴィーリャにいるイスラムの教王に使いをするほどだったが、次第にロドリーゴと主君アルフォンソとのあいだには、確執が生じていく。
サンチョ2世が暗殺されると、弟でレオン王のアルフォンソ6世(勇敢王)が後を継ぎ、カスティラとレオンの統一王となった。しかし、アルフォンソ6世には、兄王暗殺荷担の嫌疑がかけられていた。エル・シッドは家臣を代表して、アルフォンソ6世に対し、先王の暗殺には無関係であるとの宣誓書を書くよう要求した。エル・シッドらは、兄王の暗殺の疑いのあるままでは、アルフォンソ6世に仕える気にはなれなかったのだろう。しかし、これがきっかけとなって、エル・シッドはアルフォンソ6世に疎まれていく。
エル・シッドはアルフォンソ6世の姪と結婚したにも関わらず、かつてエル・シッドが打ち破ったことのあるガルシアなる人物が、当時は彼より活躍していたこともあり、アルフォンソ6世のもとでは不遇だった。
1081年にはついに追放の浮き目に遭い、諸方を放浪するはめに陥ってしまう。その末にアラビア人のサラゴサ王ムータミンに傭兵隊長として雇われ、アラゴン王サンチョ・ラミーレスらと戦ったが、エル・シッドは破れることがなかったという。
そののち、アルフォンソ6世と和解したエル・シッドは、再び彼のもとで活躍するが、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンの勢力の包囲にアルフォンソ6世が抗する際、助けなかったために再び追放される。
再度和解の機会を求めて、エル・シッドはアルフォンソ6世のグラナダ襲撃を助けようとしたが、なぜかまた不和を生じて仲たがいし、和解はならなかった。
エル・シッドは1094年から独立勢力として、大半がアラビア人で構成された7000の兵を率いてバレンシアを包囲した。9カ月の包囲戦の末、領主イブン・ディヤハークを殺し、イスラム勢力を一掃すると、エル・シッドの軍隊は、1099年までその地で無敵を誇った。一介のキリスト教騎士が、一国を持つまでになったのである。ちなみにバレンシア攻略の際、敵側が提示した降伏の条件をすべて受け入れておきながら、降伏するやそれに反して市民の大虐殺を行なったという。
エル・シッドのバレンシアは奇跡的なまでの反乱の鎮圧、敵軍の防衛を行ってもちこたえたが、1099年、ついにターシュフィーンの大勢力に襲われて敗北し、エル・シッドは死んだ。
その後、エル・シッドの未亡人が軍を指揮し、1102年まで奇跡的にもちこたえたが、アルフォンソ6世の命により、バレンシアには火が放たれ、エル・シッドの名も無き小国は滅び去った。
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スペインでは叙事詩「わがシッドの歌」で、アラビア人を打ち破った英雄として扱われている。さらに、多くの民話、歌劇、小説などにおいて彼の人生は脚色され、理想の騎士として称賛されるまでになっている。しかし、現実には一時期にしろアラビア人のサラゴサ王に彼が仕え、大半がアラビア人で構成された軍隊を率いていたことがあるのは興味深い。
エル・シッドは、世界初の癩病院を設立した人物としても知られる。エル・シッドを語るとき、彼の死の翌年1100年に死んだ、同じく敬虔にして冷酷な一面をもつ「白鳥の騎士」ゴドフロワ・ド・ブイヨンが思い出される。
ついついビデオ屋に行ったら、エル・シッドのDVDが売られていたので買ってきてしまいました。
もちろん、ユースフ様の顔をキャプチャするためだけにです(笑)
わたしの本棚に山脈を成しているビデオテープの山からは、見つけ出すことができなかったのです(笑)
かつてこの映画を見たとき、ムラービト帝国になんか全然興味なんか持っていませんでしたから、彼らの奇妙な服装に目が行くことはありませんでしたが、
改めて見ると、とても良い感じ。
単調な進軍の太鼓の響きが、とても魂を高ぶらせます。
映画の冒頭の小見出しが、『ベン・ユサフの野望』なのには驚いた。
彼が言っているセリフは、すべてムラービトの理想そのままです。
(↓)の身振りで、「世界を手中にせよとのお告げが出た」とか「書物を焼き、詩人を戦士に育てよ」とか
「殺せ、焼き払え!」とか「帝国の神はアラーのみ」とか言ってます。
黒い王、かっこいい!
★ムラービト朝二代目アミール・ユースフ★
★ついでにカスティーリャ&レオン王国の国王“戦闘王”アルフォンソ6世★
今週の気になる人69
ユースフ・イブン・ターシュフィーン (位;1061〜1106)
スペイン南半分を征服したベルベル人。
11世紀後半に、弱体化した後ウマイヤ朝のあとをおそって急速に南下するキリスト教軍を迎撃するべく、北アフリカから招き寄せられたムラービト王朝の覇王。
危険な援軍。宗教的使命に燃えた危険な男。
自分を迎えたアルアンダルスのイスラム諸侯たちが惰弱で腐敗していると見て取ると、敢然とイスラム勢力をも打破・吸収・征服してしまった。
彼を招いたセビーリャの王ムータミドも重々この男を迎え入れることが危険なのを承知していたが、最終的に彼も敗れて消え去った。
キリスト教国(カスティーリャ・レオン王国)の王アルフォンソ6世は強敵ムラービトの出現に大いに苦しめられた。野戦では無敵の強さを誇るムラービト軍が、攻城戦がとても苦手で(攻城成功率は4割ぐらい?)、追撃戦も得意ではなかったのは、ムラービト独自の戦術と陣立てによる。
『エル・シードの歌』ではユースフ王がエル・シッドに斬りつけられるシーンが出てくる。そんなことあるワケないよね(ぷんぷん)
2004年7月4日(日)高校の世界史Bで、イスラム勢力の伸張に関して、イベリア半島を征服したウマイヤ朝を継承した後ウマイヤと、その後ウマイヤ朝と11〜12世紀に入れ替わったとして名前が出てくるムラービト朝とムワッビド朝。
でも、ムラービトとムワッビドは出てくるのは名前だけなので「何なんですかこいつらは」「変な名前だな〜どうしてこんなの覚えなくちゃならんのや」というぐらいの認識だったと思う。ちょっと後に北アフリカを支配することになるイドリース朝とかハフス朝とかマリーン朝とかは、名前すら出てこなくなりますからね。(……だっけ?) だから、どうしてムラービトとムワッビドだけ?という不可思議な印象だけが残った。
ところがどっこい、本を読んでみると、このムラービトとムワッビドはなかなか特徴的な国家なのである。ムラービトとムワッビドは名前が似ているが、「宗教的使命に燃えた戦士集団が建てた国」という根本的な特徴が共通しているものの、その理念やとった政策は対照的と言っていいくらい正反対である。少人数の精鋭部隊がよそからやってきて電光のように建てて、すぐに消え去った、、、。本には、「遊牧的な気質を強く持った戦士集団なので、精強ではあったが華奢に溺れるのも早く、勢力を長く保ち続けることが出来なかった」とか書いてあるが、いやいや、このふたつの王国について言わなければならないのはそんなことじゃないぞ。左の地図を見てごらんなさい。ムラービト朝がたった十数年の間に征服した範囲は(これにイベリア半島南半分を加えて)こーんなに広いのだ。
この戦士集団は現世の利益に加えて、それ以上に大きい意味を持つ使命感によって動くから、味方にすればとても心強い代わりに、いつ期待と異なる行動を取り始めるか分からないという、周囲の全ての勢力にとって危険でもある存在だった。喩えて言えば、ルネッサンス時代の傭兵隊長たちや、洛陽の守備のために招請された董卓の軍勢みたいな感じかな。
8世紀にイベリア半島で興った後ウマイヤ朝では、アブド・アッラーフマン1世と3世を初めとして何人もの名君が出て、繁栄を極めた。しかし、やがて家臣団が国政を牛耳るようになり、1009年にコルドバの人びとによってカリフが廃位されると、急速に崩壊を始め、それから21年間のあいだに10人のカリフが次々と廃立されたあと1031年にカリフの血統が完全に途絶えた。すると、各地で諸侯(ターイファ)が群立する小国分裂の状態となった。後ウマイヤ崩壊後に名乗りを上げた諸侯国は30あまりもあったといわれるが、彼らはこぞって後ウマイヤ時代に栄えた文化の保護に熱心で、逆に国力の充実には不熱心なのであった。タイーファ諸侯内での権力抗争も激しく、不益な内部抗争と小競り合いと陰謀が激しく渦巻きおこなわれた。これを見て、キリスト教国勢力が奮い立った。キリスト教徒たちは、何百年ものあいだ、イベリア北部の山岳地帯に雌伏を余儀なくされていたのである。機が来たれりと旗を掲げたキリスト教軍の南への進軍が始まり、これまでとは逆に、イスラム諸侯がキリスト教王国に対して貢納をおこなうようになった。
そして現れたのが鋭敏なカスティーリャ国王アルフォンソ6世。1072年にレオンの王位も手にした彼は、大々的に国土回復(レコンキスタ)を開始し、なかなか意に従わないエル・シッドなどを操りつつ、アルバル・ファニェスやガルシア・オルドニェスらの名臣らとともにイスラム勢力との激しい抗争を始めた。1085年のアルフォンソによるトレド奪取は、イスラム勢力に大きな振動を与えた。
次第に悪化する情勢を目の当たりにして、群小諸侯のうちもっとも大きな勢力を持っていたセビーリャ(アッバード朝)の支配者ムータミドは苦渋の決断を迫られることになった。増大してくるキリスト教徒の勢力をはねのけるために、当時西部アフリカで急速に勢力を伸ばしつつあったムラービト朝に、力を貸してもらおうと。これまでのようにキリスト教徒たちに貢納金を払うことで攻撃を穏便にやり過ごそうと主張する他の諸侯たちに、ムータミドはこう言ったと伝えられる。「カスティーリャの草原でブタを飼わされるよりは、サハラの砂漠で駱駝を追わされる方がはるかにマシだ」話は、イベリアで後ウマイヤ朝の血統が途絶えたころにさかのぼる。
ジブラルタルから南方に2,500km離れたサハラ砂漠南辺の草原(サヘル)地帯に、サンハージャ族という駱駝を追うベルベル人の一氏族がいて、その中のひとつの部族(グダーラ族)の族長であったヤフヤー・イブン・イブラーヒームが、部族の貴顕を引き連れてメッカ巡礼を敢行した。
630年に預言者ムハンマドに率いられたイスラム軍がメッカを征服してから、ウマイヤ朝が西征を開始して、(ターリク・ブン・ジヤードがジブラルタルを超え)、メッカから4,000kmも離れたイベリア半島に攻め込むまでわずか80年だ。しかし、そこからイスラム教がアフリカ大陸の南方に広まっていくのは時間がかかる。肥沃なアフリカ西岸へのイスラムの浸透は、東方やイベリアのような武力によるものではなく、サハラを渡る駱駝商人により平和的な伝道、という形でおこなわれた。ニジェール河流域の先進的な都市社会では、イスラム教の伝達したのは早かったが、浸みこんでいくのはかなりな時間がかかったらしい。8世紀〜11世紀にセネガル・ニジェール河上流域で繁栄を誇っていたガーナ王国(黒人王朝)ではイスラム教は知られてはいたが、全然広がってはなかったという。(それに対して白人種であるベルベル人社会ではもっと早くイスラム教は迎えられたのかも知れませんけどね) ともかく、西アフリカではイスラムは数世代かかってジワジワ浸透していったそうで、もしかしたらこの地域でイスラム教徒の5つの義務のひとつであるメッカ巡礼を始めておこなったのは、このヤフヤー・ブン・イブラーヒームかもしれませんね(知らないけど)。
メッカに巡礼して、大いに感激した族長ヤフヤーは、帰途に、北アフリカの行政の中心地カイラワーンに立ち寄った。そこには、現在も(神秘主義者たちに)聖者として崇められている高名な法学者アブー・イムラーン・アル = ファーシーがいた。アル = ファーシーはスンナ派四学派の中では比較的教義が厳格なマーリク派の法学者であった。この高名な人物と会い、さらに感激が高まった族長ヤフヤーは、アル = ファーシーに、「誰か、頼りになるあなたの弟子を我らの地に連れ帰りたい、誰かくれ」と頼み込んだ。その願いに対し、師によって推薦され、族長ヤフヤーから熱心な説得を受けて、とうとうサハラを超えてサヘルの地までやってくる決意をしたのが、厳格にかけては並ぶもののない法学者イブン・ヤーシーンであった。(1039年のことである)
ところが、せっかくはるばるとやってきたというのに、サンハージャ族の人びとは、イブン・ヤーシーンの説くイスラム教の教えをあまり好まなかったらしい。マーリク派というのは、コーランの語句をすべて文字通りに忠実に実行することを主張しているので、厳格なのである。対してサンハージャ族は、イスラム教の持つ神秘の力を愛好していた。失意のイブン・ヤーシーンは、数人の若者を連れて、セネガル河の河口付近の中州にある古びた要塞に引き篭もった。ここで彼らはコーランの研究と敬虔な修行に専念したのだが、やがて、なぜか、何年も経って部族の前にふたたび姿を現した彼らは、恐れ知らずで神秘的な雰囲気を持つ勇猛な戦士たちに生まれ変わっただった! 生まれ変わったヤーシーンの帰依者たちは瞬く間にヤフヤーの部族の全体を従え、さらに近隣のラムトゥーナ族をも(力づくで)改宗させてしまった。イブン・ヤーシーンが作ったこの精強な兵士たちのことを、彼らが生まれた河中の砦にちなんで「砦の仲間たち」という意味の「ムラービトゥーン」または「ムラビティン」と呼ぶようになったという。(←この呼称の由来については本によって書いてあることが違う “ribat”は庵だとか修道院だとか絆だとか同盟だとか、彼らが戦闘の時に取った密宗隊形のことを“砦”というだとか)
やがて族長ヤフヤー・ブン・イブラーヒームが没し、後継者としてヤフヤー・イブン・ウマルが選ばれてアミール(総督)を名乗った1055年の頃から、ムラービト軍は積極的な征服活動を開始する。ムラービトの軍勢は、戦闘方法に特色があった。
ムラヒディンたちは口を不浄な物だと考え、兵士たちはみな首から口までを隠す大きな布のマスクを巻き付けていた。(彼らはマスクを付けない人間を見て、「口からウジがわいている」と言っていたという) 彼らは小隊の前列にオーロックス(野牛)あるいはカバのなめし革で作った背の高い盾を並べ、前列の兵士が膝をついて長槍を構え、後列に立った兵士が投げ槍(ジャベリン)を一斉に投げる。この密集陣形は、騎獣の能力に頼って突撃を繰り返す敵に対しては圧倒的な戦闘力を誇った。この戦術には練り込まれた布陣能力も必要となるが、もともと北サハラのベルベル人は十数騎の駱駝や馬でバリケードの陣を作ったのち一斉に突撃する、という戦術を採っていたため、それらに対してはムラービトの陣は無敗だった。一方でムラービトの戦術は何があっても陣を固くして敵を寄せ付けず、逐次(近寄ってきた者を)串刺しにしていく、というものであったため、機動力は0に近いもので、従って攻城戦や追撃戦には不向きだという欠点があった。やがてその欠点は、ムラービトが北サハラの遊牧諸族をくだし、ムラービトの鉄壁の防御方陣に加えて機動力に優れる突撃兵力を手に入れ、方陣で敵を食い止めたのち、盾の隙間から勇猛無比な戦士たちが飛び出して円月刀で敵を切りまくる、という戦術で補強されるようになる。(とはいえムラービト軍は追撃戦が不得手であった)
また、当初ムラービトの指導者たちは太鼓を異教徒が使う不浄な物と考えていたが、やがて雷のような太鼓の音を重用するようになり、鼓笛騎手の馬上からとどろき渡る小太鼓の連打の音は、とくにイベリアの地でキリスト教徒たちをパニックに陥れ、馬たちを怯えさせた。
ムラービトは1055年頃、シジルマーサのオアシスの小国を手始めに、征服活動を開始した。当初はアミールであるヤフヤー・ブン・ウマルが軍隊の指揮を、精神的な闘争心の高ぶりをイマーム(精神的指導者)であるヤーシーンが鼓舞していたが、1056年頃にヤフヤー・ブン・ウマルが暗殺されると、ヤーシーンはヤフヤーの弟のアブー・バクル・ブン・ウマルをヤフヤーの後継者の地位につけた。しかし今度は1058年頃にヤーシーンが暗殺され部族内が混乱し、1061年頃にアミールのアブー=バクルは従兄弟のユースフ・ブン・ターシュフィーンに、支配地の北部地域の半独立指揮権を与え、アミール自身は南部方面の経営に力をそそいだ。北部経営を委任されたことから、ユースフの輝かしい軍歴が始まるのである。(アブー=バクルは1087年に他界)ユースフは、1062年に北部アフリカの経営のために新首都マラケシュを造営し、1075年にアトラス山脈の北部にある都市トレムセンを、1084年にはジブラルタルの要衝セウタを攻略した。1085年になると、トレドが奪われたことに危機感を覚えたセビーリャの王ムータミドが、救援嘆願の使者を送ってきた。実はムータミドが遠征を要請してきたのはこれが初めてではなく、以前にもキリスト教徒王アルフォンソがターイファ諸侯に貢納を無理強いした1075年と、アルフォンソ王がセビーリャを攻撃した1082年にも、要請がなされていた。しかし、ユースフ王はそのときは「セウタを攻撃する方が先だ」と言って断り、ようやくセウタ攻略後にその気になったのだった。アルアンダルスの諸侯たちは、実はムラービト軍を招聘することに乗り気でない者が多く、敵であるアルフォンソ王さえも「ムラービトが来たらアルアンダルスの支配権が彼ひとりのものになってしまうぞ」と警告する始末だった。しかし、セビーリャ王ムータミドだけは違った。彼も他の諸侯と同じく学芸と詩歌を愛好する惰弱なイスラム君主であったが、宗教的な考えだけは他の君主とは違っていた。彼は、自身の窮状に対して異教徒に助けを求めることに我慢がならなかったのである。結局、北アフリカの蛮族軍団に助けを求めるという決断は、ムータミドの独断に近かった。
ムータミド王の要請を受諾したユースフ王だったが、セビーリャ王からはふたつの条件が課せられていた。ひとつは、アルアンダルスのイスラム諸侯の支配権を脅かさず戦闘が終わったらただちに北アフリカへ帰ること。(←なんという失礼な条件だ) もうひとつは、ムラービト上陸に当たって、セビーリャからジブラルタルにあるアルヘシラスの港をユースフに割譲するが、その準備がいるので30日上陸を待つこと。しかし、ユースフは危惧した。30日の準備期間と称して、セビーリャ王はキリスト教王と裏取引をして(つまりムラービトの侵攻のしらせがはキリスト教王に対するただの脅しとして使われるだけで)、ムラービトはに無駄足を踏ませるだけではないのか。ヨースフ王はただちに配下にアルヘシラス港の確保を命じ、1086年6月30日に5万の大軍を率いてアルアンダルスに上陸した。
北に向かって進軍を開始したユースフ軍に、セビーリャ王ムータミド、バダホース王ムタワッキル、グラナダ王アブド・アッラーフ、マラガ王の諸勢が加わり、セビーリャから北方へ200kmの中核都市バダホースで陣形を整えた。その知らせは、スペイン北部の都市サラゴッサを攻略していたアルフォンソ6世をひどく慌てさせた。ただちにアルフォンソはサラゴッサの包囲を中止し、援軍のアラゴン軍、フランス軍を引き連れて南下した。10月20日に、両軍はバダホースの北東8kmにあるサグラーハスの野(サラカ、アル・ザッラーカ)で、ゲレーロ河を挟んで対峙した。このときのイスラム教徒連合軍の兵士総数は約2万人。両軍のにらみ合いは3日に及んだが、とうとう、キリスト教徒軍の先陣の将アルバル・ファニェスがタイーファ諸侯軍の前衛を攻撃することで、戦いが始まった。最初、キリスト教徒軍が優勢で、キリスト教の騎馬軍団の猛攻ににセビーリャ王ムータミドだけが果敢にも踏みとどまろうとしたものの、他の諸侯たちは我先に逃げ出してしまった。ムータミドはこの攻撃で6回負傷した。
しかしこの時、ユースフ率いるムラービト軍はまだ戦闘に参加しなかった。ユースフは丘の上から、敗走するイスラム軍を激しく追撃するキリスト教軍を眺めながら、「ヤツらが皆殺しにされたとして、だから何だというのだ。どうせ、どちらも我らの敵なのだ」と吐き捨てたという。やがて、アルフォンソ率いるキリスト教軍の主力がムラービト軍を見つけ、ユースフの前衛に襲いかかってくると、ユースフは初めて動きを見せた。従兄弟であるラムトゥーナ族の族長スィール・イブン・アブー=バクルに命令を与えて、モロッコの騎隊で、動けないムータミドの救援に向かわせ、自身はサハラの(駱駝?)小隊を引き連れて、ムラービト主隊と激しい戦いを繰り広げるアルフォンソ軍の後ろに回り込み、突撃を仕掛けた。うしろからの奇襲によって、一気にアルフォンソのキリスト教徒軍は崩れたち、一方別動のスィール隊はムータミドの討ち死にを救っただけでなく、緒戦で勝利に油断していたアルバル・ファニェスの軍隊をも突き崩してしまった。ムラービト軍の完全な勝利であった。最後に投入された、インド刀とカバの皮の盾で武装した4000名の黒人親衛隊がアルフォンソの残軍に殺到し、足を負傷したアルフォンソ王は、大量の血を流し何度も気を失いつつ、一晩中馬で駆け続け、ようやく窮地を脱することが出来た。
最後に戦場では、キリスト教徒の首を山のように積み上げ、アッラーに捧げる礼拝を とりおこない、キリスト教徒軍が恐れるに足りないことを示すために、大量の首をスペインやマグリブの主要な都市に送った。各地のイスラム教都市たちは、この勝利と、送られてきた首に対して歓喜し、富者は喜捨し、奴隷たち を解放したという。*/
参考本
『刀水歴史全書39 レコンキスタ 〜中世スペインの国土回復運動〜』 D.W.ローマックス著 刀水書房、1996年
『イスラーム・スペイン史』、W.M.ワット著、岩波書店、1976年
『オスプレイ・メン・アット・アームズ エル・シッドとレコンキスタ 〜1050-1492 キリスト教とイスラム教の相克〜』 ディヴィド・ニコル著、新紀元社、2001年
『エル・シードの歌』 長南実・訳、岩波文庫、1998年
『物語 スペインの歴史(人物篇)〜エル・シドからガウディまで〜』、岩根圀和・著、中公新書、2004年
『アラブの歴史(下)』、フィリップ・K・ヒッティ著、講談社学術文庫、1983年
『イスラムの時代』、前嶋信次・著、講談社学術文庫、2002年
『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』、佐藤次高・著、中央公論社、1997年
『世界の歴史8 イスラム世界』、前嶋信次・著、河出書房新社、1968年
マルグリット・ド・ナヴァール(マルグリット・ド・ヴァロワ) (1492〜1594)
ナヴァラ王国の女王。 アンリ4世の婆。(つづく・・・アングレーム伯シャルル・ドルレアンとルイーズ・ド・サヴォワの娘。 フランソワ1世の姉。
1509年にアランソン公シャルルと結婚し、1515年にふたつ年下の弟フランソワがフランス王となると、彼女はたちまちその広い教養、すぐれた知性、やさしく雄々しい性格で、フランス宮廷の中心人物となった。 1525年、フランソワ1世がパヴィアの戦いに敗れてスペインに捕らわれると、彼女はマドリッドに飛んで囚われの弟を激励するとともに、弟の解放を求めて神聖ローマ皇帝カール五世と交渉を行った。
この年に彼女は夫を失い、未亡人となったが、たちまちカール五世や英王ヘンリ8世から求婚を受けたという。
1527年、ナヴァラ王アンリ・ダルブレと再婚し、身の回りに多くの人文主義者や芸術家を集めて「ルネサンスの愛すべき母親」と呼ばれるようになった。 彼女はクレマン・マローやエティエンヌ・ドレやラブレーを保護し、同時に宗教改革運動に深い理解と同情を持っていた。
彼女自身の手になる『エプタメロン』(七日物語)Heptameron(1559)は、ボッカチオの『デカメロン』と同じ傾向の作品で、フランス・ルネサンス文学の代表作である。 晩年、家庭的に幸福でなく、さらに1547年に最愛の弟に先立たれると、神秘的思想に走った。
作品として、詩集『王妃の花束』Les Margurites de la Margrite des princesses (1547)と『書簡集』も有名である。
ブルボン王朝の始祖ナヴァール王アンリは、マルグリットの娘ジャンヌ・ダルブレの息子である。