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フィン・マックール(フィンガル)  (2〜3世紀?)
ケルト神話に出てくる英雄騎士王。「ダーナ神話」(紀元前)→「アルスター神話」(1世紀、英雄クー=フーリン)に続く「フィオナ神話」の主人公で、勇猛で華麗なフィオナ(フィアナ、フィニア)騎士団を率いて、請われればどこにでも出向いて戦った。巨人族だったという。ダーナ神族の“銀の腕の”ヌァダ王の曾孫で、フィンの名は“美しい”の意。少年時に“知恵の鮭”を食したため、賢さに比類無しと言われた。息子はオシァンとファーガス。オシァンの子がオスカル。
麾下のフィオナ騎士団は、エリン(アイルランド)南部のタラの大王コーマック・マッカート(コルマック・マックアート)王に従っていたが、フィン自身がどこの出身だったのかは、エリン、スコットランド、ウェールズ、マン島、ヘブリディーズ諸島など各地に伝説が残っていて、一定していない。ヴァイキング物語の影響もあるとされる。メンデルスゾーンの音楽で有名な“フィンガルの洞窟”は、スコットランド北西部のヘブリディーズ諸島にある。スコットランドの伝説には、フィン・マックールがローマ軍や北欧の戦士たちと戦ったとの物語も含まれている。
「フィンの話を書きたいって? なぜだい? どうしてコーマックとか、ク=フーリンとか、千の戦いのコンとか、ボルーじゃなくてフィンなんだ? 恐ろしい手のマクヒューガルなんかどうだい? それともウシュナーの戦士たちなんかは? フィンなんかよりずっといい」 「それはね、フィンはときどき負けたりするからさ」 (中  略) 「そう、ほんのかすかにだが、人間味を感じさせるのはフィンだけなんだ。ほかの連中は頭の中まで筋肉の塊だ。彼らは剣で物を考える。一方、フィンの内部には痛々しいぐらい敏感な知性が脈打っている。コーマックやク=フーリンは朝に戦場に出掛けていって午前中に一万の兵を倒して、昼休みを入れた後にまた夕方までにさらに一万の敵を屠るけれど、フィンは敵に出くわすたびに、手を焼いてしまうんだよ。運がついていないんだね。その、ツキの無いところがおもしろいんだよ」 「ねえ君、君はアイルランド気質ってものを理解してないね。われわれアイルランド人は、自分たちは絶対負けはしないんだという観念にしがみついているんだ。そうでなくて、どうして戦うたびに負けていながら、俺たちは世界一の戦士なんだと自負しつづけ、他者にもそれを感じさせたりできるかね?」
……バーナード・エヴスリン
≪少年フィンと知恵の鮭≫
フィンはドルイド僧フィネガスの弟子になった。フィネガスは“フェックの溜まり”と呼ばれる小さな湖のほとりで知恵の研鑽をしていた。この池の傍らには知恵のハシバミの木が生えていて、水の中に落ちたその小さい実を水の中の鮭が食べてとても賢い鮭になっていたので、フェネガスはその鮭を捕らえようとしていたのである。7年かけ、フィネガスはようやくこの鮭を捕らえた。賢者は弟子に、その鮭を料理するように命じた。(その際に、「絶対食うな」と命令した) しかし、フィンが鮭を焼いていたとき油が跳ね、火傷した少年はとっさに親指をなめてしまった。これ以来、何か困った時に親指を噛めば、とっても良い知恵が浮かぶようになったのである。

・・・・・という話が一番有名なのですが(井村君江の本に載っているから)、エヴスリンの本には異説が載っていて、こっちの方がおもしろい。

フィンが幼児だった頃に彼がやり込めた魔女ドラヴネは、双子の妹の魔女フィッシュ・ハグ(魚の魔女)に復讐を依頼した。しかし、魚の魔女には「知恵の鮭を見張る」という大事な仕事があったため、彼女は魔法と“火のムチ”と“生きた鋏”でフィンを捕らえていじめ、ついでにフィンに知恵の鮭を見晴らせ、鮭を世話させた。毎年“洗礼者ヨハネの夜”には島中のドルイドが集まって、この鮭を食べるという集会があった。(この魔法の鮭は、身体の半身だけ切り取って料理すれば数百人分の料理になるし、切り取られた部分は数日で元通りになるのである) 今年もその日が近づいてきたので、魚の魔女はますますフィンをいじめ、仕事は厳しくなった。だから夜中にフィンが湖に行ってシクシク泣いていると、目の前に魚が現れていろいろアドバイスしてくれるようになり、フィンと仲良くなった。鮭はフィンに魔女に仕返しする方法を与え、ついにフィンが最後にピンチになった時、「私を生のまま頭から食え」と言った。フィンが言われた通りにすると(でも魚はとても不味かった)、食べたはずの鮭(の亡霊?)がふたたび目の前に現れてフィンに最後のアドバイス。まず、ドルイドの集会をなんとか乗り切るために、池にいる“間抜けの鱒”を捕らえること。その鱒を特別の調理法で料理すること(その料理法で料理すれば、あまりの美味さに、みんな本物の鮭だと間違えてしまう)。「呪いを破るときは詩を作れ」。フィンはそれをやり遂げて、魔女たちを騙し、無事自由の身になる事ができた。
この時、“鮭の調理法”を身につけたことが、後々役に立つことになる。フィンはいつでもとても美味しい料理を作ることが出来るようになったため、それでたびたびピンチをくぐり抜けることができた。間抜けな鱒を料理した時に特別な炎を浴びた両手は魔力を帯び、誰かが死にかけている時に(時には死んだばかりの人にも)フィンが手から水を飲ませてやると、どんな人でも生き返った。魔女の使い魔だった美しい黒猫が、フィンの大事な友達となった。フィンは困ったとき、変な詩を作るクセがついた。
 

★参考本★
◎『ケルトの神話 〜女神と英雄と妖精と〜 井村君江 (ちくま文庫) 1950年
◎『フィン・マックールの冒険 〜アイルランド英雄伝説〜 バーナード・エヴスリン (現代教養文庫) 1983年
◎『オシァン 〜ケルト民族の古歌〜 中村徳三郎・訳 (岩波文庫) 1971年

 
 
アッチラ大王    (406?〜453)
ナゾの民族フン族の王。別名アッティラ、エッツェル、アトリ、フムリ王(?)。
★参考本★
◎『ニーベルンゲンの歌』(前・後) 相良守・訳 (岩波文庫) 1955年
◎『中世文学集III エッダ グレティルのサガ』 松谷健二・訳 (ちくま文庫) 1986年
◎『エッダ 〜古代北欧歌謡集〜 谷口幸男・訳 (新潮社) 1973年

 
 

コナン王 (コモール、コノメル、クォノモリウス、コナン・メリアドク、シナン・メリアダウク) (5世紀?)

ブルターニュに王国を建設したとされるブリトン人?の伝説の王。暴虐な王だったとされ、ジル・ド・レーと並んで“青髭”のモデルともなった。
ブルターニュ半島には、すでに前3千年頃からカルナック列石などを建造した謎の民族が暮らしていたそうで、さらに前6世紀頃になってケルト人の段階的な移入が始まったらしいが、5世紀頃サクソン人の活発な征服活動に押されてブリテン島から大規模なブリトン人(=ケルト系)の移動があった。その頃のブルターニュは、ローマ時代の呼称のアルモリカという地名で呼ばれていた。
5世紀と言えば、メロヴィング朝フランク王国によるフランスの統一があった頃だが、ブルターニュ地方は頑強にフランク族の支配に対して独自性を主張していたらしい。クローヴィス王の子のパリ王キルデベルト(511〜558)の時代に、この王と交渉を持った“ブルターニュ伯コノメル”の名が、歴史の本に出てくる。

ブルターニュ地方は中世・近世を通じて、文化的に他のフランス諸地方とは文化的に隔たっていたため、土俗的な習俗が数多く育ち、伝承・伝説のたぐいも独自な物がいろいろと展開された。とりわけ“ブルターニュの建国王”とされるコノメル王についても、さまざまな逸話が追加・変容されていった。

まず、9世紀に書かれた『聖ジルダ伝』。
残虐な性格で、家族と領民を次々と殺したコノメル王が、聖ジルダに退治される。
同時期の『聖リュナール伝』、『聖サムソン伝』、『聖ポル・オーレリアン伝』にも王は登場する。

12世紀にモンマスのジョフリが著した『ブリテン列王史』では、ローマ人によって支配されていた時代に、ブリテン王だったオクタヴィアヌスが男子なく死去したので、元老院議員マクシミリアンをローマから招き、王女の婿として王位に就けた。ところがこれに不満を持った前王の甥コナンは、新王に戦争を挑む。戦争はスコットランドを舞台として戦われたが、決着がつかなかった。数年後にマクシミリアン王は海を渡ってアルモニカを攻め、征服したので、コナンに言った。「貴卿が失ったブリテンの代わりに、新しい王国を与えよう。ここを新しいブリテンとしたまえ」。アルモリカの王となったコナンは、レンヌを手始めに、次々とガリア諸都市の攻略を始め、その権勢はゲルマニアのトリーアにまで及んだ。
ジョフリは、ケルンの守護聖人である聖ウルスラの伝説も、コナン王に結びつけている。小ブリテン(ブルターニュ)に王国を築いたコナン王は、部下たちに血筋正しい結婚をさせるために、ブリテン国王にブリトン島の娘たちを送って結婚相手とさせてくれるよう頼む。国王の命を受けたコーンウォル王ディオノトゥスは、自分の娘ウルスラを頭に、1万1千人の貴族の処女と6千人の平民の処女を、船に乗せて送った。ところがその船は嵐に遭い、粉々になってそのほとんどが溺れ死んだ。
ミルトンの『英国史』では、ただ単にウェールズのデンビ王国の王コナン・メリアドックが、ブリテン王となったローマ将軍マクシムスと共に海を渡って押し入り、ブルターニュを征服したことになっている。

15世紀末の僧ピエールの『ブルターニュ史籍年代記集成』では、征服王コナンは征服地で故郷のブリトン語が汚く変容しないように、原住民の男はすべて殺戮し、女たちの舌をすべて切り取った。(半島東部でだけ製作が徹底しなかったため、独自の方言ができてしまった) 聖女ウルスラがケルンで殉教するのも、ウルスラを嫌ったブルターニュ王コナンの策謀のせいである。コナン・メリアデックは11年間(381〜392年)王位にあった。

ブルターニュに伝わるむかしばなしで伝わるコノメル王は、予言者に「自分の子供に殺される」と言われた王は、妻が身ごもると妻を殺害して、新たな妃を娶った。五番目の妻はなんとか殺害を逃れて男児を産むが、その子が成長して聖トレムール(聖トレヴェールとも)となった。成長した息子の事を噂で知った王は聖者を捕らえ、その首を刎ねるが、聖者は自分の首を抱えたまま王の城に砂を投げつけた。すると城はガラガラと崩れ、王も呪われた。この城の跡といわれる岩山が、ブルターニュ半島の南部のライタ川のほとりにある。
 
 

同じ“コナン”という名前の伝説人物としては、ケルトの伝説の中のアルスター神話にもフィオナ神話にも勇猛なコナンが(勇猛じゃないことで有名なコナンも)数人出てくるけど、中でも、それより数百年前の「巨人フォモール族の神話」に出てくる“征服王”コナン・モー・マクフェバルは、ロッホラン(スカンディナヴィア)から攻めてきて、エリン北岸にあるトーリー島に“コナンの塔”を建設し、先住民に過酷な支配と重い貢税を掛けたが、その暴政に我慢しきれなくなった先住民(ネウェズ族)はコナンを攻めて殺してしまう。ところがそれに復讐するために新たな巨人の王モルク・マクデラが来襲し、大津波を起こして先住民を壊滅させた、、、、 という物語は、ブルターニュのコナン王の伝説(および沈んだイスの都)と類似点が大きいように思う。

★参考本★
◎『フランス中世史夜話』 渡邊昌美 (白水社ブックス) 2003年
◎『中世騎士物語』 ブルフィンチ・著、野上弥生子・訳 (岩波文庫) 1942年
◎『フランス民話 ブルターニュ幻想集』 植田祐治・山内淳 (現代教養文庫) 1991年
◎『幻獣大全I 〜モンスター〜 健部伸明・編 (新紀元社) 2004年

 
 

テオドリック大王(ディートリッヒ・フォン・ベルン)
 

将軍アルトリウス    (5世紀)

イギリス人なら知らぬものはないアーサー王伝説のモデルとなった人物。
ローマ人とブリトン人(ケルト系民族)の血を半分ずつ引く。
度重なるサクソン人の侵入を受けていた民族大移動期のイギリスで、ブリトン人をひきいて戦い抜き、
「バドンの丘の戦い」で大勝利。  「一撃で九百人の兵を屠った」
4世紀末までイギリスはローマ帝国の支配下に置かれていたが、ゲルマン人の大移動が始まり、ローマの支配体制が崩壊していくと、ブリテン島は混乱のただ中に取り残されることとなった。

「最後のローマ人統治者」コンスタンティンが職を退くと、ケルト人たちは部族の結集を求め、逆にケルト人の間にも一時期大混乱が起こった。  ヴォーティガーンという暴君が誕生したり、また一説にローマ人コンスタンティンとの息子とも言われるアンブロシウス・アウレリアスという人物(この人は有能な人だったようである)が権力を握った後、アンブロシウスの後継者でローマ名を持つブリトン人アルトリウスが「戦いの王」なる勇ましい称号を名乗って、ブリトン人を率いるようになった。

アルトリウス率いるブリトン人は12回にもわたる激しい戦いを繰り広げ、サクソン人、ピクト人、それにスコットランドやアイルランドから撃侵入する敵を撃退した。  再三再四、ブリトンの騎馬軍団は異民族の歩兵の防護壁をうち砕き、戦場から退却させた。最大の勝利を挙げたのが「モンテ=パドニクス」の戦闘である。  この戦いで、あまりにも多くの犠牲者が出た完敗だったので、サクソン側は和睦を願い出た。  その後30年の間、サクソン人の勢力がブリトン人に襲いかかることはなかったと言われている。


アーサー王

シャルルマーニュ

クードルーン

赤毛のエイリーク

ゴドフロア=ド=ブイヨン  (1060ごろ〜1100)

第1次十字軍の英雄。 称号は「聖墓の守護者」。  フランス人だが神聖ローマ皇帝に仕える。
第1回十字軍の実質的なリーダーとして活躍し、イスラムから聖地エルサレムを奪回、「エルサレム王国」を建国。


アマディース・デ・ガウラ   (?)

15世紀になってスペインで星のように生まれた騎士道物語体系の主人公のひとり。
とりわけアマディス譚は、同時期に流行した数多くの物語の中でも最も優れた作品であるとされる。イベリア半島はレコンキスタ戦での異教徒との戦いのために最も遅くまで騎士たちが活躍した地域で、それも影響して、他国のロマンスに比べて年代が遅く成立したスペインの騎士道物語は、シャルルマーニュ・ロマンスやアーサー王ロマンスの物語的な影響を直接には受けておらず、なおかつ古今の騎士道ロマンスの集大成となった。一方で、通俗を狙いすぎたために格調が低く、内容的には全く見るべきところが無いとも卑下される。
セルバンテスの『ドン・キホーテ』の中で頻繁に言及され、大航海時代の南米の征服奢(コンキスタドーレス)たちの欲望に大きな影響を与え、リュリやヘンデルのオペラ作品の題材となっていることでも知られるが、日本では訳本が出ていない。
アマディスは大ブルターニュ国(ソプラディーサ国)の国王ペリオンとエリゼーヌの息子で、ブリテン島の王リスアルテの娘オリアーナを愛する。試練の末アマディスとオリアーナは結ばれ、ふたりの間には、息子エスプランディアンが生まれた。
アマディスには異母兄弟のフロレスタンがいて、その恋人がグラウザント王の妃コリザンド。忠実で恐れ知らずな従者ガンダリン。アマディスの敵として、魔女アルカボンヌ、アルダン・カニルとアルカラウスの魔法使い三兄妹などがいる。
 

≪アマディース・デ・ガウラを筆頭とするスペイン騎士道物語たち≫ (※岩波版ドン・キホーテの脚注より)
▼『アマディース・デ・ガウラ』(ガルシア・オルドニェス・モンタルボ作)…スペイン騎士道物語のモデルとなった作品。全四巻に集成された。現存する最古の版が1508年である。種本となったフランス語版『アマディース』があったそうである(未発見)。モンタルボの『アマディース・デ・ガウラ』は「読むに値する唯一の騎士道小説で、文章も調子もすばらしく良い」とされる。
▼『アマディース・デ・ガウラの息子エスプランディアンの功名』(ガルシア・オルドニェス・モンタルボ作、1510年)

▼『パルメリン・デ・インガラテルラ』(作者不詳)…アマディース・デ・ガウラに次ぐ傑作とされている作品。ポルトガル王ジョアン2世の作だという説もある。

▼『リスアルテ・デ・グレシア』(フェリシアーノ・デ・シルバ作)
▼『アマディース・デ・グレシア』(フェリシアーノ・デ・シルバ作)…主人公の異名は“燃ゆる剣の騎士”。生誕時に身体に呪われた大きな剣の文様を持って生まれた。
▼『フロリサール・デ・ニケーア』(フェリシアーノ・デ・シルバ作)
▼『ロヘール・デ・グレシア』(フェリシアーノ・デ・シルバ作)…フロリサール・デ・ニケーアの第三部。

▼『ベリニアース・デ・グレシア』(ヘロニモ・フェルナンデス作)…作者によってわざと未完結にされている。セルバンテスはドン・キホーテに、その結末の付け方を感嘆させている。

▼『ティラント・ロ・プランク』(1490年)…アマディース・デ・ガウラよりも古いかも、とされている作品。5巻。レモシン語で書かれている。1511年にイスパニア語で訳刊された。写実と生彩が豊かな作品らしい。
▼『賢人メルリンの獅子吼』(1498年)…アマディース・デ・ガウラよりも古いかも、とされている作品。

▼『ロマンセーロ・デ・アンベーレス』
▼『ロマンセ・デ・ランサローテ』

▼『マントヴァ公爵のロマンセ』…カール大帝の十二騎士のひとりの“森の騎士”ことバルドビーノス(ボードワン)が、その妻を奪おうとする大帝の息子に襲われて山の中で瀕死のとき、彼の叔父のマントヴァ公が通りかかる、という物語。各行八音節諧韻よりなる叙情性叙事詩(ロマンセ)

▼『無敵の騎士ドン・オリバンテ・デ・ラウラの伝記』(アントニオ・デ・トルケマダ作、1564年)

▼『公子フェリズマルテ・デ・イルカーニャの伝記』(メルチョール・オルテガ作)…前・後編。

▼『騎士プラティールの記録』(作者不明、1533年)

▼『十字架の騎士と呼ばれるレポレモの記録』(アロンソ・デ・サラサール作、1521年)
▼『十字架の騎士ドイツの皇子レポレモの第二巻』(ペドロ・デ・ルハン作、1563年)

▼『騎士道之鑑』(正編1533年、セビーリャ)(続編1536年、印刷地不明)(続々編?年、セビーリャ)
▼『騎士道之鑑』(1586年、メディーナ・デル・カンポで刊行)…恋するオルランドを主題とし、オルランドとレイナルドス・デ・モンタルバンの事績を扱っている。

▼『無敵の騎士ベルナルド・デル・カルピオの功名』(アグスティン・アロンソ作、1585年)…長詩。主人公はロンセスバリェスの戦いでローランを絞め殺した。
▼『真書ロンセスバリェスの戦い、附・フランス十二将の死(フランシスコ・ガリード・デ・ビリェーナ作、1583年)…長詩。

▼『騎士パルメリン・デ・オリバの書』(作者不詳、1526年,1580年)

▼『騎士シファール』(作者不詳)…13世紀の小説だが、出版は1511年。

▼『サン・グリアール(聖杯)の探求、附・ランサローテ・デル・ラーゴおよびその子ガライの驚嘆すべき事績(?作、1515年以後)

▼『豪勇の騎士ドン・シロンヒーリオ・デ・トラシア』(ベルナルド・デ・バルガス作、1545年)
 
 
 

★参考本★
◎『ドン・キホーテ (正編・続編) セルバンテス、永田寛定・訳 (岩波文庫) 1948年
◎『古代アステカ王国 〜征服された黄金の国〜 増田義郎 (中公新書) 1963年
 


アレクサンドル・ネフスキー   (1220〜1263)

中世のロシアの英雄。ロシアの大公。
「タタールのくびき」(モンゴル帝国のキブチャク=ハン国による支配)の下に苦しむロシア人民をよく導いた。
第二次大戦中のスターリンの時代、ソ連人民の愛国心を高めるために、エイゼンシュテインが命ぜられ、この英雄を題材にして制作した映画が有名。    ただし、わたくし(太陽領)は観たことがないのですーー(^ヘ^)    それよりも、この映画のために「鉄と鋼鉄の作曲家」プロコフィエフが作曲した音楽が、とっても英雄的でおすすめです。
自分の祖国が内部から崩壊の兆候を示しているとき、そして西から東からさらに南からの侵略者の侵攻がせまるという危機的な状況にあったとき、どういう振る舞いをすることが「英雄的」なのだろうか。 アレクサンドル・ネフスキーについて、(天才的な軍隊指揮力がありながら)モンゴル人に降ることで徹底的な祖国防衛を避け、数百年にわたる異民族支配に祖国をさらした、という見方も可能であると思われるが、現在のロシアで彼が英雄の評価を受けているのは・・・・・  

アレクサンドル・ネフスキー、本名はアレクサンドル・ヤロスラヴィチ。 ヴラジーミルの大公ヤロスラフの息子。 
少年・青年時代をノヴゴロドで過ごす。 

≪当時のロシアの状況≫
中世のロシアの版図は、現在の旧ソ連で言うと、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア極西部あたりの限られた地域で、主な中心地はノヴゴロド、キエフ、ヴラディーミル、ロストフあたりだった。9〜10世紀にヴラジーミル聖公とヤロスラフ賢公が治めるキエフ公国が一時期まとまりを見せたが、その後(ロシアの分割相続制のせいで)ふたたび分裂状態になって国力は分散し、このロシアの弱体化を狙って西方からスウェーデンやドイツ人が押し寄せた。また南方からも黒海沿岸のステップ地帯に暮らす遊牧民族のポロヴェツ族などが略奪にやってくるようになっていた。 そして、はるか東方のモンゴル高原では、チンギスハーンが登場し、彼と彼の息子の代で、西方征服の事業を急激に押し進めていたのだった。
このような状況の中で、若いアレクサンドルはヴラディーミル大公の息子として、ドイツ人、スウェーデン人、およびリトアニア人と戦って勇名をとどろかせていた。とりわけ有名なのが20歳のときにスウェーデンの軍隊をネヴァ河畔で破った戦闘で、この「ネヴァ川の戦い」にちなんで彼はこれ以降、「ネフスキー」と呼ばれるようになった。その2年後、今度はチュートン人のゲルマン騎士団が大軍勢で侵攻し、リトアニアとの国境近くの要衝の都市プスコフが陥落した。アレクサンドルはノヴゴロド防衛のために手兵に農民軍を加え、チュード湖付近でドイツ軍を迎え撃ち、凍結したチュード湖面での有名な「氷上の戦い」でドイツ軍を大々的に打ち破ってプスコフに入城した。

≪モンゴルの侵攻≫
それ以前に一度、猛将ジェベとスベタイ率いるモンゴル軍が、カスピ海岸に侵攻し、さらにコーカサス山脈を越えて黒海とアゾフ海にまで至って「カルカ河畔」の戦いでルーシ(ロシア)諸侯軍とキブチャク人の連合を破ったあと、反転してロシア諸侯領の領土の南端をかすめて1000qほど北東に住むブルガール族を掃討したのち、モンゴルに帰っていった、ということがあった。 (第1次キブチャク遠征、1219〜23)
そのおよそ15年後、モンゴル帝国のオゴタイハーンは金国を滅ぼすと、クリルタイを召集し、亡き兄ジュチの子バトゥを総司令官とする西方大遠征軍を派遣することを決定した。 1年の準備期間ののちバトゥは副官のスベタイととともに進軍を開始。1237年〜38年にかけて北東ルーシを、続いて1240年に南ルーシを攻めた。
このときにルーシ諸侯国は依然十ぐらいの勢力に分裂していて、モンゴルの進軍に対しては効果的な連携を取ることが出来ず、戦略に長けるモンゴルに各個ごとに撃破され、町々は蹂躙を受けることになる。
ウラディーミル大公国では、それまで大公だったユーリーがモンゴルに破られて戦死し、代わってアレクサンドルの父ヤロスラフが大公位に就いた。 しかしこのときルーシ領はモンゴル勢だけでなく、上記のように西方からスウェーデン、リトアニア大公国、バルト海岸のドイツ騎士団からの侵攻の動きを受けていたのである。 この両ばさみの危機にあって、新大公とその息子たちは苦渋の決断を迫られたと考えられる。  その結果彼らの選んだ道は、完全な異民族でありながら圧倒的な兵力を誇るモンゴルの下に降り、モンゴルの助けを借りて王家の遠い始祖の同族であるゲルマン勢から自分たちの土地を守る道であった。 20歳のアレクサンドルのネヴァ川の勝利はその2年後だが、そのさらに2年後の1242年には父ヤロスラフはバトゥの召還を受けて彼のもとへ駆け参じ、また同時にアレクサンドルの兄弟コンスタンチンをオゴタイのいるカラコルムに派遣した。

≪タタールのくびき下のアレクサンドルの治世≫ 
1250年、父の死によって、モンゴル帝国の大ハーン(グユク?)から、アレクサンドルがキエフ及びノヴゴロドの大公に任命され、さらに1252年ヴラディーミル大公国の大公に任ぜられた。  彼が活躍した時期はバトゥのヨーロッパ遠征(1236〜42)、キブチャク=ハン国の成立(1243〜55頃)の直後で、ロシアにおけるモンゴル帝国の勢力の最盛期だった。 この情勢の中、アレクサンドル・ネフスキーは、タタール(モンゴル)の支配から抜けだそうとして西欧諸国に助けを求めるのではなく、西ヨーロッパからロシアへの襲撃を撃退する手段として、タタールの支持を利用する道を選んだ。このアレクサンドルの身の振り方は、すこし時代が降った中国で、同じようにモンゴルの南下を受けながら最後まで抵抗をつらぬき通した南宋の名将・文天詳とは対照的で、このあたりが人によって評価が分かれるところ。 悲劇的な最期を遂げた文天詳の方が有名だが、見方によったら運命の決断に際して屈辱的な選択を迫られながらも最終的に国土と人民を守ったアレクサンデルに、英雄性があると言ってもいいのではないか。
アレクサンデル・ネフスキーは、巧みにロシアの封建領主とモンゴル勢力の間の衝突を調停し、またモンゴルからの重い貢税に不満を持つロシア人民の動揺を抑制した。  彼が死んだとき、「彼の死と共にロシアの太陽は没した」と嘆かれたが、彼の功績は民謡の形で残され、1723年にはピョートル大帝がネヴァ河の古戦場の跡に壮麗な修道院を建設し、遺骨をそこに移した。

@ 蒙古人の圧制にあえぐロシア (Molto andante
A アレクサンドル・ネフスキーの歌 (Lent
B プスコフの十字軍士 (Largo - Andante - Largo come prima - Andante - Largo
C 目覚めよ、ロシア人民  (Allegro risoluto
D 氷の上の戦い 
     (Adagio - Moderato - Allegro moderato - .Allegro - Andante - Allegro - Adagio - Allegro quasi doppio movimento
E 激戦のあと (Adagio
F アレクサンドルのプスコフ入城  (Moderato - Allegro,ma non troppo - Piu largamente