オドアケルOdoacer
(430ころ〜493年.3.15)
西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン人傭兵隊長。
傭兵としてローマ軍に入隊し、やがてゲルマン人部隊の指揮官となったが、反乱に乗じて王と称し、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。彼は皇帝にはならなかったが、東ローマ皇帝はオドアケルのイタリア支配を認めた。
しかしやがて東ローマとの関係が悪化し、親・東ローマの東ゴート王テオドリックがイタリアに進撃。オドアケルは敗北し殺害された。
オドアケルはローマの行政機構を踏襲しつつ元老院貴族層の支持を受け、ローマとゲルマンの共存を図った有能な支配者であった。バルカン半島のドナウ川中流域にいた小部族スキラエ族の出身。父のアエディコは、スキラエ族の王エディカ(エデコ)と同一人物であるともされる。スキラエ(スキュリ、スキル)族は451年まではフン族の支配下にあったが、アッティラの死後、族長エディカは宿敵の東ゴート族と対決姿勢を強め、469年前後にボリア河畔の戦いを起こし、敗北した。オドアケルは暴君ではなかった。支配ぶりは賢明であった。これまでのローマの行政機関はそのまま、オドアケルは執政官を含む官吏を任命するが、たとえ形式的であれ、東皇帝の名においてである。(中 略) オドアケルがイタリアで悪政を敷き、テオドリックがそこからイタリアを解放して大王と讃えられるようになった・・・・・ 旧制中学時代、筆者はなんとなくそう考えていたものだが、そうではなかったらしい。オドアケル自身にも大王と呼ばれうる可能性がなかったわけではないようだ。そうなるのとそうならないのには、器量の差もさることながら、周辺の状況とさまざまな運が働きかけている。あたり前のことであるが、それまで庶民にきびしかった課税制度の緩和にオドアケルが努力したと聞くと、もっと同情したくなる。自分はアリウス派でありながら、オドアケルはローマのカトリック教会にもずいぶん気を使った。それでもローマ人に愛されなかったのはなぜだろう。のちの英雄伝説にもかれの名はたえてない。・・・・・・松谷健二東ゴートと戦って負けたスキラエ族は、ちりぢりになりつつ、その多数がパンノニアから西ローマ領ノリクム(パンノニアの北西の州)に逃れる。若いオドアケルもその中にあった。ギボン『衰亡史』には、この放浪期にノリクムにいた“オーストリアの聖者”セウェリヌスのもとを訪れると、聖者はオドアケルの謙虚な物腰にこの若者が将来大物となる兆しを感じ、「考える通りに進むがよい。イタリアへ行け。すぐに富が得られるだろう」と言ったというエピソードがある。30歳のころオドアケルはローマ(の帝国の当時の首都ラヴェンナ)に行き、軍に入って、まもなく、当時の西帝国の最高実力者リキメルと近付きになった。(リキメルはスエビ族出身のゲルマン人司令官。パトリキウス。高名なローマ人将軍アエティウスの死後に権力を握り、「皇帝メーカー」として西ローマの事実上の支配者になっていた)。リキメルは、461年に皇帝マヨリアヌスを捕らえて斬首。次のセウェルス3世の死後に皇帝となったアンテミウス帝がヴァンダル遠征に失敗したので、リキメルが責任を持って、472年7月に皇帝を攻め殺した。続けて貴族オリブリウスを帝位につけた。この一連の事件の中で、オドアケルはリキメルとその軍隊と共にあり、アンテミウス帝の死の前後に(その乱での功績を認められて?)皇帝の親衛隊に配属されたらしい。
472年8月にリキメルが病死し、彼が遺言で指名したブルグントの王子グントバート(リキメルの甥となる)がローマ軍の司令官となるが、彼は故国の王位争いのためにローマを去り、そのすきにリキメル時代の蛮族の専行と皇帝殺害を嫌悪していた東帝国が介入してきて、東皇帝の妃の妹の夫でダルマティア(現在のクロアチア・ボスニア。ラヴェンナとアドリア海を挟んで対岸)の領主であったユリウス・ネポスを西帝とした。軍才をうたわれたネポスは元老院・民衆から歓迎をもって迎えられたが、新皇帝はあまりに東帝国寄りで、またオーヴェルニュ地方を西ゴート王国に割譲するという条約を勝手に結んでしまったため、ローマの民衆は新皇帝に落胆。その声を受けて、475年に、ネポス帝の命を受けてガリア遠征に向かっていた傭兵隊長オレステスが急遽、帝都ラヴェンナに向けて進軍し、皇帝ネポスを追放した。(オレステスはパンノニア出身でタティウスの息子、長くアッティラの側近であったが、その死直後にローマの軍営に入り、軍司令官となった。軍中で非常に尊敬を集めていたという) オレステスは自身が次の皇帝に推挙されたことを辞退して、自分の息子をローマ皇帝の地位につけた。(=最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス。475年10月31日。オレステスもその息子も、それまでのローマ皇帝の血筋とは全く関係がない)ゲルマン人傭兵たちから大きな支持を受けていたオレステスであったが、権力を握ってからはその兵士たちの要求に悩み、強い態度に出ることになる。ネポス帝を追ってイタリアに進軍するとき、オレステスは兵士たちにイタリア全体の農地の三分の一を分譲することを約束していた。しかし事がなってみると、それを実行することは無謀だった。「部下のはずの蛮人傭兵らは、奴隷の如く要求を受け入れるか血祭りかのどちらかを要求した。異民族兵士たちとの危険な契約は、ローマの自由と尊厳に、圧迫と侮辱を加えていた。皇帝が交替するごとに兵士たちの報酬と特権はますます拡大されていくのに、さらに彼らの厚かましさは度を越して増していった。彼らは、ガリア・ヒスパニア・アフリカ等にいる彼らの仲間たちが勝利と武器に物を言わせて獲得した独立と幸運を羨み、イタリア全土の三分の一を即刻自分たちに分与せよと、断固たる要求を主張してきた。オレステスは、状況が違っていればわれらの尊敬に値したかも知れぬ気概を見せて、罪なき自国民の滅亡に署名するよりは、むしろ武装した烏合の衆に対抗する方を選んだ(ギボン)」 オレステスは初めて、自分が寄って立つ権力の裏付けであるゲルマン人傭兵たちを、あえて(やむにやまれなかったのだが)失望させる方法に出たのである。そして、この時にオドアケルが歴史の主人公として登場する。
オドアケルはこの頃すでに軍隊の中で一定の地位を築き上げていた。指揮官オレステスに対する怒りに満ちたゲルマン人兵士たちに対しオドアケルは言った。もし自分に支配権を預けてくれるのなら、諸君の望みはすべてかなえよう。この提案は兵士たちに喝采で受け入れられ、476年8月23日、オドアケルはイタリア在住ゲルマン諸族の王として担ぎ上げられた。オドアケル軍はパヴィアにいたオレステスを襲って町を掠奪し、逃亡したオレステスは8月28日にピアツェンツァで捕縛され、処刑された。そして476年9月4日、西帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、ここに西ローマ帝国の皇位は途絶えた。
こうしてイタリアの支配者となったオドアケルは、自分の権力を安定させるために、自分が帝位につくことを敢えてせず、東帝国の後ろ盾を得て外交の武器としようと試みる。ロムルス帝の退位前にオドアケルはロムルス帝と元老院の名で、コンスタンティノープルに使節を送る。その口上は、イタリアには諸般の事情から独自の皇帝は不要になった。西と東の皇帝はひとりで充分である。ロムルスの西帝位は東帝国にお返しする。ついては皇帝ゼノンがオドアケルなる者にパトリキウスの権威を認め、西ローマを支配することを許して頂きたい、というものであった。
東帝ゼノンは、まだ前西帝ユリウス・ネポスがダルマティアに逃れて皇帝を名乗り健在であったため、オドアケルに正式な称号授与は行なわず表向きは憤激する態度を見せたが、裏ではオドアケルをパトリキウスと呼ぶ書簡を送り、事実上オドアケルのイタリア支配を認めた。480年にネポス前帝が死去(暗殺)したので東帝ゼノンは正式にオドアケルが任命した西ローマ執政官に承認を与える。以後、オドアケルはイタリアの執政官の任命を東皇帝の名においておこなった。オドアケルはイタリア人に対し、自分を「〜〜人の王」とか「〜〜国王」とか地域や部族を限定した称号ではなく、ただ「主君」(ドミヌス)と呼ばせた。オドアケルは部下のゲルマン傭兵に自由にイタリア内の土地を分配したが、支配に関しては西ローマの行政機構を踏襲しつつ、元老院の地位強化(銅貨鋳造の委任など)の土地笂分割に際しての一部賠償などの施策により元老院貴族層の支持を得て、また自身はアリウス派のキリスト教信徒であったのにカトリックにはあまり干渉しないなど、ローマとゲルマンの共存を図った。オドアケルが復活した執政官という職にオドアケル自身が就くことは無く、この職には元老院の中で名が高い者が次々と(オドアケルの時代中に11名)つくことになった。また、オドアケルはローマ古来の法を厳格に守らせた。税金の徴収もローマ人役人に任せたが、何かあった時に(=民衆の人気を得る必要があるときに)減税することを発表するのはオドアケルの役目であった。
外交的にもオドアケルは少しずつ慎重に成果を上げた。まずイタリアを取り巻き侵入の機会をうかがっているゲルマン諸族に対しては細心の工作をほどこし、もしくはオドアケル自身の武名によって、侵略する機会を与えなかった。476年、ヴァンダル王ゲイゼリックはシチリアをイタリアに返還。イタリアに侵攻する気配を見せた西ゴートには477年にプロヴァンスを割譲して講和。ブルグント王国とも協定。アドリア海の対岸のダルマティアには480年、「前帝ネポスを暗殺したグリュケリウスを伐す」という名目で軍を送り、占領。次に487年、東ローマの密命を受けてノリクム(現オーストリア西部)で叛乱の気配を見せたルギ族の討伐に向かった。ルギ族の王フェレテウス(ファウァ、フェワ)と王妃ギーゾは捕虜となり、その部族の多くとともにイタリアへ連行され、そこで処刑された。
東ローマ皇帝ゼノンは、しばらく前からイタリアのオドアケルのことを煩わしく思うようになっていた。オドアケルの態度は表向きは慇懃ながらも、次第にイタリアの支配に対して断固な要求をするようになってきたからである。488年にルギ族の王子フリデリックがオドアケルに対して再び叛乱を起こし、打ち破られて王子が母の縁故である東ゴート族のテオドリックのもとに逃れてくると、ゼノン帝はテオドリックと共謀してオドアケルを追い落とすことにした。東ゴート族の王テオドリックは長年東帝を翻弄し続けて、ようやく487年にコンスタンティノープルを攻囲したのちに帰順したばかりだったので、その忠意を確認する必要があったのである。ときにオドアケルは56歳、テオドリック大王は34歳。東帝ゼノンはテオドリックに、オドアケル追討後はしばらくイタリアの支配権をテオドリックに与えることを約束し、テオドリックは東ゴートと縁戚のルギ族の故地を回復することを名目に、十万の兵を率いて領地の下モエシアを出発した。現ベオグラード付近で行く手を阻もうとしたゲピート族の王トラウスティラを打ち破って戦死させ、パンノニアの平原で越冬して、翌年の夏にイタリアに侵入。489年の8月28日にイタリア最東端のトリエステでオドアケル自らが率いるイタリア軍と対戦した。イゾンツァの戦いである。この戦いで、オドアケルはテオドリックの用兵に手も足も出なかった。
オドアケルはヴェローナに退き再び迎え撃ったがここでも敗戦、ラヴェンナの堅砦に立て籠もる。勢いに乗った東ゴート軍はミラノまで占領した。ところがここで事態は混乱し、戦争は492年まで長引くことになる。オドアケルの軍事長官であったゴート人のトゥファがテオドリックに偽りの投降をし、与えられたゴート人の兵を奪って再び逃走した。負け続けのオドアケルが一時攻勢に転じ、それに乗じてブルグント族がイタリア北西部に侵攻した。西ゴートのアラリック王がテオドリック側に付くことを表明した。トゥファ軍は遊軍となって東ゴート軍を悩まし、アフリカのヴァンダル族もシチリアに攻め寄せてきた。ルギ族の王子フリデリックが支配地に災難を振りまき、あろうことかオドアケル側のトゥファに走ったので、それを討ち果たさねばならなかった。テオドリックはそれらの苦難を、巧みな手腕でひとつずつ解決していった。
492年の8月に、テオドリックはラヴェンナを包囲して、大激戦が行われた。双方に甚大な被害が出たが、直後にラヴェンナ司教ヨハネスの仲裁で講和が成立する。その講和の約束は「イタリアはオドアケルとテオドリックの両者が共同統治する」ということだったが、493年の3月5日にテオドリックがラヴェンナに入城し、その十日後にテオドリックはオドアケルを食事に招き、その場で自らの手でオドアケルを刺し殺した。オドアケルの最後の言葉は「神はどこにいる!」だったという。
オドアケルの死骸は埋葬されず、彼の妻スニギルダは幽閉されて餓死、兄のフンウルフは矢で針鼠にされ、幼い息子テーラはガリアに追放されやがて処刑された。
確か、オドアケルの名前は高校の世界史の教科書に出てくるのに、テオドリック大王は出てこないんですよね。一方で、オドアケルの出身のスキラエ族はゲルマン民族でも無名の小部族なのに、テオドリックの東ゴートは、移動するゲルマン民族の活躍を代表する大部族だ。オドアケルが周辺の状況に細心の注意を配る人間であったことに対して、テオドリックが細かいことはさておいて豪快に振る舞う豪傑タイプだったことを見比べると、とても皮肉なものだと思う。
オドアケルには、遥か千年後のルネッサンス時代のイタリアの傭兵隊長たちと同じ魂を感じるです。名はとらず実を取る。譲歩できるところは最大限まで譲歩して、おいしいところだけ奪う。態度はすごく丁重だが、目の奥の光はとても鋭い人だったと思う。オドアケルの人となりについては全く分かりませんが、なんとなく自分に厳しく人を大事にする人だったと思う。戦争だって決して下手ではなく、むしろ部下たちを最大限に生かして戦う将だったと思うんですが、それが英雄王テオドリックに完全に歯が立たなかった、というのが悲しいところだね。
オドアケルというのは、「西ローマ帝国を消滅させた」ということで歴史に名前が残っている人物ですが、それから476年から488年までの12年間は平和にイタリアを統治しているわけで、そのときがオドアケルの絶頂であるし、その間オドアケルがどんな様子であったのかを知りたい。この混乱した時勢にあって、イタリアが12年も平和であったと(そしてその間オドアケルが何をしたのか良く分からないと)いうのは、オドアケルがすばらしい為政者であったという証拠じゃないのか? オドアケルにはテオドリックに比べ、リキメルやオレステスや歴代諸帝など、素晴らしき(反面)教師に恵まれていたわけだから。
クローヴィス(クロービス、クロヴィス) Clovis (465ころ〜511年 在位;481〜511年)
メロヴィング朝フランク王国初代の王。
ライン川北側のサリー人と下流のフランク系リブアリ人を統一し、現在のフランスからベルギー・ドイツ西部におよぶフランク人の王国を築いた。ゲルマン族のサリー支族の王キルデリク1世の息子。クローヴィスは単に「フランク族の領土」の建設者であったばかりでなく、それ以上に人心の収攬に長けた人物であった。彼は、さまざまな個性あふれる地方を一つに結びつけ、外部の権力から完全に独立した人々の王国を、ガリアの地に初めて作り出したのである。それは数世紀の時代の流れの中で、フランスという世界を実現するための歩みを始めるはずであった。けれども、この国王の歴史は何世紀にも渡り、中世初期の爾余の国王のそれほどには知識人の注目は引かなかった。またこの人物は、ダゴベルト王やシャルルマーニュほど大衆の人気を博してはいない。それというのも、彼には心を和ませる好人物然としたところがまったくなかったからである。…ルネ・ミュソ=グラール
母バシナについてはあまり明らかではないが、(彼女の名を「バシリスカ」とするいくつかの異本もあるが)、その母の名はビザンツ的でもあり、父王がビザンツを巡歴したときに出会った宮廷女性であるとも考えられる。(母が東ローマの出身であるとすると、後年のクロヴィスのキリスト教改宗に、少なからずの影響があったとも考えられる。) 同母の兄弟としてアルボフレドとランテチルド、そしてラヴェンナのテオドリク王の妃となった妹アウドフレドがいた。
481年ころ父王が死に、まだ10代半ばの青年であったクロヴィスがトゥールネー(今日のベルギーの南西部のドゥールニク)の小王国を相続した。当時のサリー・フランク族の支配領域は、現在のベルギーと北部フランスのノールバドカレー県を合わせたあたりの小さなものであり、現在のフランスの他の有力勢力としては、パリ・ソワッソン・ランスのあるフランス中心部には西ローマ帝国からガリア軍司令官として任命されたローマ人シアグリウス、また南東部フランスには東ローマ皇帝ゼノンからガリア軍司令官に任命されたブルグント王キルペリクがいた。またスペイン方面からの南西部には394年のアキレイアの戦いで、ローマ帝国に大きな勢力を持っていたフランク人アルガボストを打ち破った西ゴート王エウリックが進出してきており、アキテーヌ・ポワトゥ・ロワール川流域・オーヴェルニュ等の広大な領域を支配下に置いていた。そしてブルターニュ半島はブリトン人、ノルマンディのコカンタン半島はサクソン人のものであった。ローマ軍と手を結んで強大な権勢を誇っていた父王の死と、野心高い若年の青年族長の即位は、周辺諸族に困惑と混乱と騒動を巻き起こしたに違いないが、初期のクロヴィスが巻き込まれた戦争については、ほとんど記録が残っていない。
まもなくクロヴィスはガリア全土の征服を企てるようになり、父王と強い同盟関係にあったローマ人支配者シアグリウスと袂を分かつことに決める。そのころシアグリウス(シャグリウス)はソワッソンに拠点を持っていて、クローヴィス王国のサリー族よりも、中部・南部フランスの大半を支配していた西ゴート王エウリックと急速に結びつきを強めていた。そのエウリックがロワール河を越えて北フランスに圧力を掛けてきていたのである。
484年にエウリック王が突然死去し、跡を若い息子(アラリック2世)が継いだので、クロヴィスはそれに乗じて攻勢に転じることに成功し、486年にシアグリウスが都にしていたソワッソンと首都司教座のあったランスの両方を攻略した。シアグリウスは西ゴート王アラリックを頼って南フランスに落ち延びたが、裏切られてフランク勢の手に渡され、最後のローマ人総督として処刑された。クロヴィスはソワッソンとランスを拠点として短期間のうちに同族の他の小王を排除。491年チューリンゲン族を攻撃してフランス北部を押さえ、中東部フランスを支配していたブルグント王国とは、グンディオク王の孫娘クロティルデを娶ることで同盟を結び、495〜496年(とおそらく505〜506年にも)現在のスイス方面にいたアラマン族を攻撃して征服、さらに509年ころケルンのリブアリ族の王シゲベルトとその息子を殺害して,ライン川左岸のドイツにも覇権を確立した。この間に、妻であったブルグント族の王女クロティルデのすすめでアリウス派からカトリックに改宗したクロヴィスは、さらに507年ポワティエ郊外のブイエで、西南フランスを支配していた西ゴート人の王アラリックAralic2世に打ち勝ってアキテーヌを併合した後、都を河川交通の要衝であるパリに移し、511年オルレアンに公会議を召集する。そのころ、フランク王クロヴィスは、まだ異教徒であった。王妃は、信仰心の厚いキリスト教徒であったが、どんなに熱心に説き勧めても、王を改宗させることができなかった。あるとき、アラマン人たちが強大な兵力をもってクロヴィスを襲ってきた。クロヴィスは、妻に、彼女の信仰する神の助けがあってアラマン人との戦いに勝つことができたならばその神を信仰しようと約束した。彼は、望み通り勝利をおさめることができた。それで、洗礼を受けるために聖レミギウスのところに出かけた。彼らが洗礼盤のところに行くと、王に注ぐ聖油が無かった。すると、そのとき、一羽の鳩がくちばしに聖油の入った小さなガラス瓶をくわえて天から舞い降りてきた。レミギウスは、その聖油を王に注いだ。そのガラス瓶は、ランスの司教座聖堂に保管されていて、今日でもフランスの国王たちは、この聖油瓶で戴冠の塗油式を受けるのである。〜『黄金伝説』(聖レミギウス伝−13世紀)
このようなクロヴィスの事績,とくに彼の改宗の時期については,基本史料であるトゥールのグレゴリウスの《フランク人の歴史》の記述の解釈が困難なことから,異説が多い。しかし,ゲルマン人諸部族王のなかで,ただひとりクロヴィスだけがカトリックに改宗したことの政治的効果は絶大で,このことによって彼はガリア住民の支持を得たばかりか,その後のフランク王権と教会との同盟に確固たる基盤を置くことになった。★フランス王家の紋章
ユリはフランスのブルボン家の紋章になっている(ただしブルボン家の紋花 fleur‐de‐lis をユリではなくアイリスと解する説もある)。
クロヴィスがアラマン族と戦い苦戦したときのこと、味方は敵の攻勢を支えきれず敗走しそうになった。クロヴィスは熱心にイエスに祈り、もしも自分が勝利者としてこの戦いを終えることができたらキリスト教徒になることを約束した。すると天使が現れ、百合を渡してこれを武器として子孫に伝えるようにと指示した。すると軍の士気はにわかに上がり果敢な抵抗の末アラマン族を敗退させた。クロービスは感謝の心から多くのフランク人とともに洗礼を受けた。このとき以来ブルボン家は白ユリを尊び王家の権力の印がユリで飾られることになった。1197年に初めてフランスの王家の紋章としてユリが登場したとされ,ルイ9世は十字軍遠征の際に三つのユリでその旗と紋章を飾った。
ヘラクレイオス (ヘラクリウス、イラクリオス) (575ころ〜641年2.11. 在位;610〜641年)
ビザンティン帝国の皇帝。ヘラクレイオス朝(610〜695、705〜711)の始祖。
カルタゴ総督の息子としてビザンツの暴君を討伐する軍を指揮し、コンスタンティノープルに進軍。その後即位した。
スラヴ族・アヴァール族・ペルシア帝国との戦いの中で苦境にあった帝国の再生を図る。ペルシア遠征でホスロー2世と戦い(622‐628)、ペルシャの首都を陥れ戦役に終止符をうった。一方、皇帝の不在を襲ったスラブとアヴァールの連合軍を、留守軍が撃退。以後バルカンからの攻撃も低調となった。しかしながら、新興のイスラム勢力が瞬くまに北上し、636年以後ビザンティツはシリア,メソポタミア,エジプトを失った。ヘラクレイオスの父は息子と同名で、アルメニア人貴族出身のカルタゴ総督であった。カッパドキアの出身だという。
「歴史上著名な人物で、ヘラクリウスは最も異常な矛盾に満ちたひとりである。長い治世の最初と最後の数年間、この皇帝は国家の受ける災厄を無気力に傍観し、不精・快楽・迷信の奴隷として過ごした。しかし、この明け方と夕暮れを覆う霧の中の倦怠の狭間に、白昼の太陽の光輝が照り光り、宮殿のヘラクリウスは戦場のカエサルとして立ち上がり、ローマと皇帝の名誉は六度の外征で見事によみがえった。彼のこの謎の沈黙と、興奮の入れ替わりの原因の解明は、ビザンツ史家の義務であった」・・・・ギボン「ヘラクレイオスは英雄か。ヘラクレイオスが帝国の難局にあたって見せた不屈の精神・決断力・行動力には、私たちに強く訴えるものがある。ユスティニアヌス1世と比べて見れば、私たちはヘラクレイオスの方に共感を覚えるであろう。(中略) にも関わらず、ユスティニアヌス1世が大帝国の支配者として生涯を終えることができ、後世“大帝”と呼ばれたのに対して、ヘラクレイオスの晩年の暗さは否定できない。ヘラクレイオスの苦労は、報われることがあまりにも少なかった。
なぜであろうか。平凡なようであるが、答えはやはり、人はみな時代の制約の中で生きている、ということになろう。(中略) 世界の歴史が古代から中世へ大きく進んでいく中で、古代のローマ帝国の後継者を自認するビザンティン皇帝としてそれとは逆の道を歩まねばならなかったヘラクレイオスは、最初から英雄たる資格がなかったのである。
にも関わらず、弱い人間でも良心的に生きてゆける社会ができるまでは、ヘラクレイオスのような強い精神が必要なのである」・・・・井上浩一
602年にアヴァール族との戦いに不満を抱いて叛乱を起こした百人隊長フォーカスが、皇帝マウリキウスを放逐・殺害して帝位に就いたが、性格が残忍で嫉妬深かったので、恐れた皇帝の婿クリスプスは、カルタゴ総督に暴君の討伐を密かに要請した。(総督ヘラクレイオスは若い頃マウリキウスの将軍であり、マウリキウスによって北アフリカの総督に任命された。フォーカス帝に対し2年間も貢納を拒否し続け、抵抗していたのである) 総督ヘラクレイオスは老齢だったため、610年10月に自分の息子とその友人ニケタスを、暴君征伐に派遣した。カルタゴから海路で進軍したヘラクレイオスはクリスプスの手回しによってやすやすと首都に上陸し、あっけなく皇帝を捕縛。フォーカスは処刑され、すかさず征服者ヘラクレイオスが民衆の熱烈な支持を受けて聖ソフィア寺院で帝位に就いた。この時にビザンツ皇帝として初めて、「バシレウス(王)」という称号も名乗った。ヘラクレイオスが即位した当時の帝国が直面していた一番の問題は、ササン朝ペルシャとの長きにわたる戦争であった。
572年以降、ビザンツとペルシャは長らく激しい戦闘を繰り返していたのだが、591年前後にマウリキウス帝はササン朝のホスロー2世と同盟を結ぶことに成功。ところがまもなくマウリキウス帝がフォーカス帝に惨殺されたために、ホスローは「盟友マウリキウスの仇を討つ」(即位直後に下剋上に遭ってビザンツに亡命し、ビザンツの援助を受けてペルシャに復位したホスローは、マウリキウスに恩義を感じていたのだった)ことを宣言して、再び激しくビザンツに攻撃を仕掛け始めてきたのだった。
アンティオキア陥落の報が即位した直後の皇帝に届けられ、皇帝は以後18年にわたる長く苦しいペルシャとの戦争に駆り立てられることとなる。既に帝国は、“輝かしい”ユスティニアヌス帝の時代の遠征や建築事業などによって国力が疲弊し、ユスティニアヌスの死後は帝権は急速に衰退していて、財政と軍事力の窮状は深刻な状態に陥っていた。
≪ペルシャとの戦争(前半、最初の12年)≫
すでにホスロー2世は、フォーカス帝の在世中にメルリン、ダラ、アミダ、エデッサ、ヒエラポリス、カルキス、アレッポ等を陥落させていた。
即位したばかりのヘラクレイオスはホスローの進軍に対処しようとしたが、有効な手を打つことができなかった。
611年にアンティオキアが奪われ、カッパドキア地方も掠奪されて数万の捕虜が連れ去られた。614年には聖地イェルサレムが占領された。聖地にあった重要な聖遺物「聖十字架」は大司教ザカリアとともにペルシャに奪われ、持ち去られた。聖都の9万人のキリスト教徒が殺害された。続けてホスローは自ら617年から619年にかけてエジプトの中心都市アレクサンドリアを攻め、ナイルの上流(エチオピアとの国境付近まで)を探検した。また、別の一隊が615年にコンスタンティノープルの対岸のカルケドンまで兵を進め、海越しに対峙して帝都に圧力を掛けるようになっていた。アジアの東ローマ軍があまり熱心な抵抗活動をせずやすやすと攻撃勢の前に屈したのだが、ペルシャに征服されると今度はホスローの威令にも反抗する様子を見せ始めたという。ペシリアとエジプトの潤沢な穀倉地帯が失われ、帝都コンスタンティノープルの眼前まで精強なペルシャ軍が押し寄せ、呼応して北国境付近でもアヴァール族が残虐行為を繰り広げているという事態に、ヘラクレイオスは絶望した。彼はマウリキウス帝時代の友好関係にすがって、ホスローに和平を乞うたのだが、戦勝に奢るホスローは拒否した。(ホスローの元にはマウリキウスの息子を名乗る者がいて(←詐欺師だったといわれる)、それでホスローはビザンツ攻めの大義名分を正当化していた)
へラクレイオスはカルタゴに逃げることにした。しかし、皇帝自身が出帆する前に、先に出発した財宝でいっぱいの船が嵐で難破した。ヘラクレイオスは絶望した。一方で神の声を聞いたようにも思った。コンスタンティノープルの総主教も皇帝に嘆願した。我らを見捨てずに異教徒と戦えと。
≪ペルシャとの戦争(後半、のこりの6年)≫
まず皇帝は、ローマ帝国の慣習であった「パンとサーカス」を廃止することにした。戦費に充てるためである。市民からは(観念していたのか)、さしたる抵抗はなかったという。続けて、帝国内の教会から財政の供与を受けるために「戦争の目的は聖十字架の奪回を第一とする」とする声明を出した。コンスタンティノープルの総主教セルギオスは、全面的に皇帝を後援することを表明し、アレクサンドリアの大司教はたまたま発見された珍しい秘宝を奇蹟だと言って皇帝に捧げた。さらに皇帝は帝国内の教会や修道院から多額の金を借り、それでも足りなかったので聖ソフィア寺院の豪華な装飾品が売り払われた。
そうして622年春、皇帝率いる軍勢が出撃したが、作戦として帝国領に近いカルケドンやシリア、エルサレム、エジプト等にいるペルシャ勢と当たることを避け、直接急行してペルシャの首都クテシフォンを攻めることをもくろみた。ペルシャの軍勢は多方面に展開していたので、それが再び集まる時間を惜しむ必要があったし、エルサレムやエジプトのかつてのビザンツ領の帝臣は、帝国に不誠実なことが分かっていたからである。
皇帝の軍はまずカルケドンにいるペルシャ軍を避け、帝都から大艦隊で出発。小アジアの南岸を海路で陸地に沿って進み、見事ペルシャに見つからぬまま、アンティオキアの北方50kmにある隠された浜辺に上陸。ここで皇帝は、寄せ集めの軍隊を、とてつもなく厳しい訓練で短期間に精兵に鍛え上げた。やがて、ここでペルシャのシリア方面軍との初めての会戦が行われるが、皇帝は巧みな指揮で見事勝利。そのままシリアの平原には入らずに山沿いに進軍し、カッパドキアを解放してさらに山の中をその先まで進んだ。しかしアヴァールが帝都に迫ったとの報に、皇帝は一旦帝都へ戻る。二度目は皇帝と5000の精兵が黒海沿いの山の中をアルメニアに向かい、その地で兵力を集め。高地から神出鬼没にペルシャ領を攻めて回ったらしい。ここで初めてホスローみずからが、イラン北部に侵入したビザンツ軍を、タブリーズにほど近いウルミエ湖の付近で迎え撃った(624年)。ここでもビザンツが勝ったが、戦線はしばらくこのイラン北部で膠着する。一時は皇帝軍はペルシャ軍の裏をかきつつイスファハン付近まで進出に成功したらしいが、ホスローが大軍を召集し、さらにホスローの手回しでアヴァール族がますますビザンツ北部を荒らし回るようになっていた。626年にはカルケドンのペルシャ軍とアヴァールが合流して、コンスタンティノープルを激しく包囲するまでになった。
この状態に対し、ヘラクリウスは軍を3つに分けた。主力軍を皇弟テオドロスに任せ、また一隊を帝都防衛に向かわせた。そして自分は、一隊を率いて戦場を離れ、山の中を300km離れたグルジアに向かったのだ。そこにはハザール族がいた。皇帝はハザールの族長と話をつけ、同盟を結ぶことに成功した。こうして4万近くの兵力がビザンツ側に付き、一気に形勢が有利になった。皇帝はシリアとメソポタミアを転戦し、ペルシャに奪われた領土を次々と回復、大量の捕囚を解放した。ペルシャ王ホスローの権威は地に墜ち、コンスタンティノープル包囲軍の司令官サルバルもビザンツに寝返ろうとした。(が、結果的にいろいろあってしなかった)三度目の遠征。帝都の防衛成功の報を聞き、意気高くクテシフォン目指して進むビザンツ軍を、将軍ラザテス率いるペルシャ軍がかつての古都ニネヴェの付近で(しかし、この当時は古都は土に埋もれて平原となっていた)迎え撃つ。(627年12月12日金曜日)。これが、ササン朝ペルシャとビザンツの400年続いた抗争の実質の最終決戦となった。ヘラクレイオス自身が軍の先頭に立ち、兵を鼓舞しながら奮戦。皇帝自身が唇を槍で突き抜かれ、愛馬ファラスは脛にケガをしたが、自分で敵の大将ラザテスを討ち取ったという。11時間に及ぶ戦闘で数倍の数の敵を前にして、ビザンツ軍は50人の死者を出しただけでペルシャの名高い方陣密集隊形を壊滅させた。そのまま首都クテシフォンまで進撃しようとしたが、新たにホスローが送った3千の新兵の前に苦戦。ホスローの宮殿のあったダスタゲルドは焼き払ったが(ホスローは何かの迷信が原因で、決して首都クテシフォンには入城せず、別の場所に宮殿を営んでいたという。ダスタゲルトはクテシフォンから100km北のティグリス川の対岸)、ペルシャ騎兵の決死の防衛によりクテシフォンから数kmの地点にある川を渡河することができなかった。大皇帝は諦めて量の戦利品と財宝を持ってタウリス(タブリース)まで退却した。
かろうじて命をながらえたホスローは、しかし、次の回生の策を考えることができなかった。ニネヴェの敗戦後は名誉も考えず遠方へ逃亡したが、ビザンツ退却したので(不吉な迷信を振り払って)初めてクテシフォンへ入城。しかし628年2月に長男のカヴァード(シロエス)によって殺害された。ペルシャ新国王はビザンツ皇帝に和平を申込み、この数十年にペルシャがビザンツから奪った領土と捕虜、そして聖十字架はすべて返還された。ヘラクレイオスは和平に対して旧状回復だけを望み、それ以上は求めなかった。(ペルシャの財宝は大量に持ち帰っていたけど)
≪アヴァール族の脅威≫
トルコ系かモンゴル系とされるアヴァール族は6世紀半ばに最盛期を迎えて欧州各地を荒らし回り、557年にユスティニアヌス大帝にパンノニアの地(ハンガリー)の居住権を要求して、大帝はそれを承認しさらに歳費を与えた。575年以降はスラヴ族と合同でビザンツ領内への侵略を開始し、散発的に起こるこれが、帝国を悩ませた。バルカン半島の諸都市はアヴァール人とスラヴ人によって破壊され続けた。一方スラブとアバールの連合軍はペルシア軍と相呼応するがごとく皇帝不在のコンスタンティノープルを襲った(626)が,二重の城壁に阻まれて失敗。これ以後バルカンのアバール族の統率力は急速に衰えていった。また彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシャ語へ変わり、また軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制度の起源に付いては諸説あり)、古代ローマ帝国から中世のギリシャ的要素の強い、いわゆる「ビザンティン帝国(ビザンツ帝国)」と呼ばれる時代への転換の幕開けともなった。
しかしアラビア半島に興ったイスラム教徒は瞬くまに北上し,カリフ,ウマル1世のときビザンティン領内に侵入した。シリアのヤルムークの戦(636)に敗れたビザンティン帝国は数年のうちにシリア,メソポタミア,エジプトを失い,ヘラクレイオスのペルシア遠征の成果は一瞬のうちに崩壊した。同帝の時代は内外の混乱が原因で従来のローマ的支配体制が揺らぎビザンティン的支配体制(中央のロゴテシア制,地方のテマ制)の確立の端緒が開かれた時代と言える。また公用語もラテン語からギリシア語に移行した。ペルシア戦役により帝国領となったアナトリアをはじめとする諸異端派の離反を防ぐため《エクテシス Ekth^sis》なる信仰提示が発布(638)されるが,正統派と異端派の融和の実効があがらぬうちに異端派の人々はイスラムの支配下に入っていった。
皇帝は敗戦のショックで病に倒れた。これ以降、東ローマ帝国はアラブ軍の度重なる侵攻を受け、再び滅亡の危機に直面することになった。
病に倒れた後は、自身の後継者問題や単性論をめぐる宗教対立などに苦しみ、641年2月11日、失意と苦悩のうちに没した。
後妻のマルティナは、実の姪であったため近親結婚として非難された。また先妻エウドキアの子コンスタンティノス3世派とマルティナの子ヘラクロナス派の間で後継者争いが発生した。
コンスタンティノス5世 (719? 720?〜775 /位;741〜775)
ビザンツ帝国史の中でもっとも評判の悪い皇帝。英雄的な要素 = 同時代人の悪評を気にかけず、強烈な施策をおこなう。
あだ名は「コプロニュモス(=糞の皇帝)」。
偶像禁止令を発布したことで有名なレオ3世の息子。 父のイコノクラスム(聖画崇拝禁止策)を本格化する目的で,教皇も他の東方教会の総主教たちも欠席したいわゆる〈頭のない教会会議〉をヒエリアで開催(754),ローマとの関係の悪化をも招いた。対外的にはウマイヤ朝からアッバース朝への転換期にあったイスラム勢力と内紛に揺れるブルガリアを巧みに抑えたが,イタリアのランゴバルド進出は防げず,西欧の橋頭堡ラベンナ総督府を失った。
「サラセン好み」と呼ばれたレオーン3世(“シリア朝(イサウリア朝)”の創始者)の息子。
テオファネスは年代記の中で、コンスタンティノスの誕生のとき、司教が幼児に洗礼を与えている間に「聖なる洗礼盤の上に大便をした」と書いている。 続けて、「総司教ゲルマノスは次のように予言した。これは将来においてこの子のために、キリスト教徒と教会にひどい災難が降りかかるしるしである」この皇帝が「糞」と呼ばれるまでに同時代人および年代記作者に評判が悪いのは、この皇帝がおこなった宗教政策のせいである。父皇帝も「偶像破壊令」を発布した皇帝として著名な皇帝であるが、コンスタンティノスは父の政策をさらに推し進め、キリスト教徒がキリストや聖母マリアの聖像に向かって祈りを捧げることを禁止し、さらに聖像(イコン)そのものを宗教生活から取り除こうとした。 この皇帝たちの政策主張の根拠は、モーゼの十戒の最初の戒めであり、また聖書の中の「キリストをかたどるものは、ミサにおいて用いられるパンと葡萄酒のみである」との語句であった。 しかしながら、当時のビザンツ帝国の熱烈な信徒の中には聖像崇拝をもってみずからの信仰生活とする者が大多数を占め、また、同じく「偶像崇拝の禁止」を掲げるイスラム教徒との類似に反発を感じて、この皇帝たちの政策に反発する者も少なくなかった。
コンスタンティノスは彼と彼の父の信念にもとづく宗教政策を強力に実施し、違反する者には容赦ない弾圧を加えた。聖像崇拝をあくまで主張した修道士たちは、皇帝の命によって、軽ければ鞭打ち、悪ければ眼をくり抜かれたりした。ある者はその髭に油や蝋を塗られ、それに火をつけられて、顔と頭を焼かれたという。 とくに有名なのは、山中の修道院で60年近くも孤独な祈りの生活を送っていた高名な聖者ステファヌスの殉教である。彼は皇帝の聖像破壊政策に反対したかどで修道院から引きずり出され、見せしめのために首都の街路で手足を一本一本切り落とされる、という方法で処刑され、最後に残った胴体は、道ばたに掘られた穴の中に蹴り落とされたのだという。
皇帝の生存中からこれらの政策の是非については熱い議論を巻き起こしていたが、皇帝の死後、聖像の崇拝の儀礼は復活されて、同時に聖像崇拝を擁護する書物が数多く書かれた。皇帝死後の詳細な神学研究によって、父レオ3世とコンスタンティノスの「まちがった」政策はおとしめられ、否定的なあだなをつけられるにいたったのである。しかしながらこんな悪評にもかかわらず、コンスタンティノスは皇帝としてはかなり特筆すべき業績を残した有能な皇帝であった。 とくに軍人としての手腕には眼を見張るものがある。
父の死によって即位した直後、父の盟友(であったが聖像禁止令については反抗していた)アルタヴァスドスが反乱を起こしたのをすみやかに制圧。747年にはウマイヤ朝イスラム帝国(ただし滅亡寸前。750年にアッバース朝が成立)の海軍とキプロス沖海戦で戦ってみごと撃破した。 一方、ビザンツがイタリアに領有していた重要な拠点であったラヴェンナがランゴバルド人から攻撃を受け占領されたが、皇帝は援軍を送らず奪われるにまかせた。 ローマ帝国の後継たるを誇りとするビザンツの常識から考えると、偉大な6世紀のユスティニアヌス1世とその妃テオドラの絢爛たる獲得地・ラヴェンナを見捨てるのに、彼のなかにどのような心理がはたらいたかは分からないが、彼は西方の故地をあきらめることを代償に、積極的に北方に対する征服活動を重ねた。 (このラヴェンナ一帯はフランク王国のピピンによってまもなく再征服され、756年にローマ法王に寄進された。 しかしビザンツはイタリア半島における領土をすべて失ったわけではなく、半島最南端にわずかながらの領土があった)
コンスタンティノスのバルカン半島に住むスラヴ人・ブルガリア人に対する遠征は数度におよび、 763年のアンキアロスの戦いでは大々的な勝利をあげた。 彼が没したのもブルガリアにたいする遠征の陣中であったが、ローマにこだわらずスラヴに目を向けたこのような彼の積極的な姿勢は、ビザンツ帝国の新たなる発展のもとになった、と評価することが出来る。コンスタンティノス5世”コプロニュモス”(Konstantinos V ギリシャ語表記:Κωνσταντ?νο? Ε' 719年?775年9月14日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第2代皇帝(在位:741年?775年)。初代皇帝・レオーン3世の子。「コプロニュモス」は「糞」を意味するあだ名。741年、父・レオーン3世の死により即位する。しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスに反乱を起こされて、一時皇位を追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができず、小アジアのテマ(軍管区)の支持を受けたコンスタンティノスは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年にコンスタンティノス5世は皇帝に復位したのである。
コンスタンティノスは軍事に優れた手腕を発揮し、ウマイヤ朝の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め、またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し、東方で主導権を握ることに成功した。さらに帝国西部のブルガリアに9度も親征を行ない、多くの勝利を収めた。
ただし東方やブルガリアに集中せざるを得なかったため、751年イタリアにおける最後の帝国領・ラヴェンナをランゴバルド族に占領された。これによって東ローマ帝国によるイタリア中・北部における支配は終わり、ローマ教皇庁は東ローマ帝国から離反・自立を図るようになってしまった。また、コンスタンティノス5世は父のはじめた聖像破壊運動を推し進め、反対派の聖職者などを容赦なく弾圧・処刑した。このため後に「糞」という非常に不名誉なあだ名をつけられることになる。
コンスタンティノスは、775年、ブルガリア遠征中に陣没した。このためブルガリア問題を最終的に解決することは出来なかったが、ブルガリアを疲弊させることには成功したのである。
ビザンツ皇帝。
モンフォール伯 (シモン4世) 1150ころ〜1218年 Simon IV,Le Fort de Montfort弟コンスタンティヌスと共に、父ロマヌス2世の在位中に加冠された。
しかし963年の父の死後、ビザンツの実権は父の同治帝だったニケフォロス2世フォカスとヨハネス1世チミスケスが握り、ヨハネス1世が976年に死去して初めて実権を握ることができた。
大土地所有者バルダス・フォーカスたちの反乱を押さえ,中小自由農民の保護策をとるが,実効は薄かった。マケドニア王国を滅ぼしテマ・ブルガリアを新設,アルメニア王国を保護下に置き,さらにシリアにも進出しユスティニアヌス1世以来最大の領土を獲得。キエフ公国のキリスト教受容によりその影響は拡大し,帝国の最盛期を築いた。
パリ盆地の一角モンフォール・ラモーリーに居城をもつフランス王の直臣。リチャード1世(1158〜1199、在位;1189〜99)その妻が相続したイギリスの領地によってレスター伯とも呼ばれる。
第4回十字軍に参加したが、ヴェネツィア人の奸策に加担することを拒んでコンスタンティノープル攻めには加わらず、パレスティナに向かった。
そののち、インノケンティウス3世により宣布された南フランス異端討伐のアルビジョア十字軍に従軍。1209年、カルカソンヌの攻囲戦で頭角を現し,果断な戦術家として評価され,選ばれて十字軍の指揮者となり,ベジエを攻略,ベジエとカルカソンヌの支配者レーモン・ロジエから奪取した両子爵領を領有した。
この所領近傍の多くの城は難なく陥れたが,さらにミネルブ,テルム,ラボールのように,ほとんど難攻不落とされていた要塞をも制圧した。1213年,ミュレの戦で,トゥールーズ伯レーモン6世とアラゴン王ペドロ2世との連合軍に奇跡的な勝利をおさめ,翌年トゥールーズに入城した。
ラテラノ公会議(1215)で,彼は教皇によってトゥールーズ伯に任ぜられ,その征服したすべての土地の領有を認められた。しかし翌16年春,シモンはあらためてフランス王フィリップ2世に臣従の手続きをとったから,南フランスはローマ教皇直属の封土とはならなかった。インノケンティウス3世が死去すると,レーモン6世とその息子は民衆の支持を得て,旧領の再征服に乗り出し,トゥールーズは包囲され(1217‐18),この合戦のさなかにシモンは戦死した。
息子がシモン・ド・モンフォール。
イングランドのプランタジネット朝第2代の国王。十字軍での勇猛さから『獅子心王 the Lion Hearted』と呼ばれる。
ヘンリー2世の第3子、母はエレアノール・ダキテーヌ。
王としてリチャードがイングランドに滞在したのは、10年の在位の中で半年程度で、たの活動の大半を十字軍遠征にささげ、フランス王フィリップと神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサと共におこなった第3回十字軍(1188‐91)では、イスラーム側のサラディンと激闘を繰り広げて勇名を挙げた。王が続けた戦乱はイングランドに深刻な影響を与えたが、王は戦いの中で没した。オックスフォード生れであるが母エレアノールと同じくフランスのポアトゥー人として成長し,1170年アキテーヌ公となった。この地の封建貴族とともに謀反を起こすなど,母やフランス王とくみして終始父王と対立した。
2人の兄が没して後89年には父王を継いでイングランド王に即位し,アンジュー家の大陸の所領をも相続した。しかし王としてリチャードがイングランドに滞在したのは戴冠式の89年と94年で、合わせて6ヵ月間に過ぎない。国政にとりくむまもなく、もっぱら十字軍遠征に生涯を賭け,とくに91年にアッコンをイスラム教徒から奪回したこと、そのとき捕虜2700人全員を処刑したこと、エルサレム近傍でのサラディン(サラーフ・アッディーン)と戦ったことで勇名を挙げ≪獅子心王 the Lion Hearted≫の名を得た。しかし末弟ジョンの陰謀を知って、聖地エルサレムの奪還をはたせないまま休戦協定を結び、帰国の途に付き、その途上でオーストリア公に捕らわれ,皇帝ハインリヒ6世に引き渡された(1194)。身代金15万マルクで解放されたが,その負担はイングランド人の不満を高めた。この間フランスのフィリップ2世はノルマンディーやトゥーレーヌを占領してアンジュー家の勢力を排除しつつあったが,リチャードはその奪還にむけて戦いを続けるなかで没した。リチャード王不在のイングランドは行政長官が統治の任に当たったが,1193年から98年まで国内政治を有能な行政官であるカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターにまかせ(彼の元で前王ヘンリー2世時代の行政組織は新たな展開を示した)、自身は大陸の領土をまもるため、ただちにフランスのフィリップ2世に戦いをいどんだが、99年、この戦いで負傷して死去。
彼の治世中、イングランドの行政組織は整備・確立されたが、国民は十字軍の遠征費用と多額の身代金をまかなうための重税に苦しんだ。
ヘンリー3世
1207‐72 在位1216‐72年。 Henry III
プランタジネット朝第4代のイングランド王。父ジョン王の没後9歳にして即位した。摂政ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル(1219没)のもとで,ジョン王と争ったフランス皇太子ルイと和解し,またジョン王の破棄したマグナ・カルタ(大憲章)を改訂を重ねて2度公布し諸侯の忠誠を得た。成年に達して1225年にはマグナ・カルタの確認書を公布したが,このころから父王が失った大陸のアンジュー家所領の回復を志して遠征を繰り返した。しかし成果はなく,59年パリ条約でガスコーニュの領主権以外はすべて公式に放棄するにいたった。他方,次男エドマンドのシチリア王戴冠の約束で教皇アレクサンデル4世の要請に応じ,神聖ローマ帝国皇帝の勢力下にあるシチリア征服を計画した。しかしそれまでの遠征にともなう重税に不満をもつ諸侯に反対され,さらに国政改革を要求された(1258)。王妃がプロバンス伯の出であることから,プロバンス人など外国人を多数登用し,寵臣政治を行ったことも諸侯の不満となっていた。ヘンリーはシチリア遠征の費用調達と引きかえに,改革要綱の〈オックスフォード条項〉を承認し,ここに行政全般を監視する15人委員会が成立した。しかし遠征費用の問題が解決しないため,教皇はエドマンドのシチリア王権を解消した。ヘンリーは失望し,諸侯に譲歩して承認した〈オックスフォード条項〉の解除を教皇に願い出た。しかし一方,国内では騎士階層はじめ国制改革の徹底を求める声が高く,59年には〈ウェストミンスター条項〉が成立した。このころから諸侯は王と結ぶ保守派とシモン・ド・モンフォールを先頭とする改革派に分裂した。調停に当たったフランスのルイ9世が〈アミアンの裁定〉(1264)で〈オックスフォード条項〉の無効を宣言すると,両派は戦いとなり,ヘンリーはルーイスで改革派に捕らわれた。しかし,翌年皇太子エドワードの指揮で王軍が勝利を収め,以来政治の中心は皇太子に移った。
シモン・ド・モンフォール
1208‐65 Simon de Montfort
イングランドの貴族。英国議会制度の父。フランスの貴族モンフォールの息子で,22歳のころイングランドに渡り,ヘンリー3世に迎えられたが,1238年王の妹エリナーと結婚して貴族の憤りをかった。翌年にレスター伯領を正式に下賜された。
友人であった大学者 のR. グロステストの影響を受け、40年には十字軍に加わった。
48年に王の命でフランスのガスコーニュ総督となったが、当地の貴族との不和で54年に帰国を命ぜられた。 このころ王との対立が明らかになり,58年の議会でそれは決定的となった。議会開催は王の課税承認を目的としていたが、かねてから王が外国人ばかりを重用する政治に反感をもっていた貴族たちは、王の要求と引きかえに国政改革を主張。シモンも改革派貴族の有力な一員となった。 彼は24人委員会の一人として改革の要綱『オックスフォード条項』を起草し、この条項は王の承認を得て、国王顧問の役割を担う15人委員会が成立した。 シモンもこの委員会に加わり行政全般の管理の任に当たった。 しかし委員会の貴族寡頭政は騎士階層の不満をかい,改革の徹底を望む声が高まった。 シモンはこれを受けて改革推進の指導者となり、新たに『ウェストミンスター条項』(1259)を作り上げたが、今度はこれに反対する保守派貴族が現れて、国内の貴族と騎士は分裂した。
シモンの改革派は王と結ぶ保守派貴族と対立したが、両派の調停に当たったフランス王ルイ9世が『アミアンの裁定』(1264)でオックスフォード条項の無効を宣言したため、シモンは兵を挙げて王の軍と開戦した。 戦いはルイスで王を捕らえてシモン側の勝利となり、65年、貴族・高位聖職者・州選出の騎士と都市の代表を議会に招集した。 この会議で、王の政策に対して国民の代表者たちが意見を述べることを国王に認めさせたことが、英国議会のはじまりだとされる。 しかしシモンの政治は困難をきわめ、またまもなくふたたび王および保守派の貴族が勢力を強めるようになった。 同年戦いが再開され、シモンはイーブシャムで皇太子エドワードの軍隊と戦って敗死した。しかし彼の改革の多くはエドワード1世に引き継がれた。
エドワード1世 (1239〜1307、 位;1272〜1307)
歴代イギリス国王随一の名君(プランタジネット朝)。 大征服王。プランタジネット朝イングランドの王。父王ヘンリー3世晩年の貴族による国政改革の争いに,自らも参加し,即位ののちその経験を生かして,1295年には高位聖職者,有力貴族,各州と諸都市の代表からなる議会(後世〈模範議会 Model Parliament〉とよぶ)を召集して課税協賛を得た。また土地保有制を秩序化する法律を制定して中世以来の法を整えるなど,後世のイギリスの国政に基礎をあたえた。ヘンリ3世の長子。 エドワード懺悔王にちなんでエドワードと名付けられた。
ヘンリ3世の治世の末期に国王と有力貴族のシモン・ド・モンフォールとのあいだの抗争が勃発すると、最初皇太子エドワードはシモンと結んで、共に父に対して政治改革を求める態度を示したが、やがて父と和解し、今度は父のためにシモン・ド・モンフォールと戦い始める。 1264年には「リュイスの戦い」でシモンと戦って捕虜となったが逃亡し、翌年「イーヴシャムの戦い」でふたたびシモンと戦って、彼を戦死させた。 しかし、シモンを敗死させたあとも皇太子エドワードはシモンの遺志を良く継ぎ、戦いに勝って反動となりがちな父の政治を努めて制御し、亡きレスター伯の理想を実現するように努力したという。
1272年(33歳)、父の死と共にイングランド王位を継ぎ、以後35年にわたる彼の栄光の治世が始まった。
エドワードは治世の初期に、大がかりな法制の整備をおこなった。 彼は「ローマ法大全」を編纂した東ローマ皇帝ユスティニアヌスに比して、「イングランドのジャスティニアン」English Justinian と呼ばれることもあるが、ユスティニアヌス帝が累々たるローマ法の伝統の上にその業績を打ち立てたのに対して、エドワードの場合はまだほとんど定まらぬイギリスの法制度の状況からその業績を築いていったことが特筆すべきところである。 (19世紀の英国法学の最高権威スタッブズは、ヘンリ2世、エドワード1世、ヘンリ8世の三名を、イギリス憲法に不滅の影響を与えた三大王、と評している)
ウィリアム・ウォレス (1270〜1305)
スコットランドの救世主。
ウォレスとともに血を流せしスコットランド人よ、
ブルースの指揮するスコットランド人よ、
いざ、行かん 血染めの床へ、
然らずんば 勝利目指して
『ロバート・バーンズ詩集』
ロバート・ザ・ブルース(ロバート1世) (位;1306〜26)
英国王エドワード3世の長子。 黒太子の名は着用していた甲冑の色に由来する。
百年戦争で活躍。16歳のときの「クレシーの戦い」の勝利、1356年「ポワティエの戦い」(フランス王ジャン2世を捕虜に)、63年のスペイン遠征などにおける武勲が有名である。 71年に病のために帰国したが,当時政治の実権をもっていた弟のジョン・オブ・ゴーント(ランカスター公)に対立する司教たちを援助して名声を上げた。彼の息子はのちにリチャード2世として即位する。1348年ころに創設された〈ガーター騎士団〉の指導者のひとりとなったが,これは今日のガーター勲章のはじまりである。
エドワード黒太子は生まれながらの戦士であると同時に任侠の精神にも富み、英国中世騎士道の「華」としてうたわれている。
シャルル8世 (1470〜1498 位;1483〜98)イングランド南部のウッドストックで誕生したため、同時代の人からは「ウッドストックのエドワード」と呼ばれた。
「黒太子」の異名は、彼が黒色の鎧を愛用していたからだとされるが、しかしこの呼称は16世紀以前には使用されていないようである。
1333年(3歳のとき)にチェスター伯、37年にコーンウォール公に叙せられ(※これはイングランドにおける最初の公爵である)、1343年にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)となった。
1337年頃に百年戦争が勃発。 黒太子は1345年(当時16歳)になって初めて、父のエドワード3世に従ってフランス遠征に向かい、翌年の「クレシーの戦い」でイギリス軍の右翼を指揮して、勝利を獲得するのに重要な役割を果たした。 彼は最初のガーター騎士団のひとりで、1349年には父の企てたカレー占領の騎士的な冒険に参加し、翌年には英仏海峡の臨むウィンチェルシー港外の海戦にも武勇をふるった。 1355年には軍勢を率いて南仏のガスコーニュで戦い、この地方を荒らし回った。 翌年、有名な「ポワティエの戦い」でフランス王ジャン2世と戦ってこれを破り、王を捕虜とした。 黒太子の勝利は彼の優れた指揮にもよるが、それにもまして当時の英国軍の優秀な戦闘力のたまものでもあった。 英国では以前から一般の自由人が平時より武器を持って軍事的訓練を積む義務を課せられていたが、とくにエドワード1世がウェールズを征討したときにウェールズ人の持つ長弓の威力のすばらしさに目を付けてより、イギリス人兵隊は長弓の訓練を課せられていた。 このヨーマン(独立自営農民)出身の長弓を持つ歩兵隊の放つ矢の洪水に対して、フランスの槍兵主体の旧式な封建的な騎士の軍隊は、対抗する手段がなかった。
1362年、エドワード3世は黒太子に南フランスのアキテーヌとガスコーニュを領土として与えたので、黒太子はその翌年にその地に赴き、以後8年間当地に滞在し、統治に力を傾けた。 1367年にはカスティーリャの廃王ペドロ(位1350〜69)を擁してスペインに攻め込み、ペドロを王に復位させたが、この遠征の費用のためにアキテーヌ侯の名でガスコーニュの領民に重税を課したため、当地の貴族たちがフランス王に訴訟する、という事件が起こった。フランス王の勧告に対して、黒太子は挑発する態度に出たため、領内で黒太子に対する叛乱が勃発し、69年には百年戦争も再開された。 すでにそのとき、黒太子は病がちであったが、重病をおして良く戦った。しかし、1370年に叛乱したリモージュの市民たちを虐殺したことは、黒太子の名声に影を落とした。
1371年に英国に帰国したとき、彼の健康はますます悪くなっていた。 しかし弟のランカスター公(ジョン・オブ・ゴーント)の圧政に対して司教たちが反抗した事件に際しては、黒太子は司教たちを支援した。
1376年、黒太子は死去し、カンタベリーに葬られた。 かれのただひりの息子はエドワード3世の死後にリチャード2世として即位。
フランス国王。
ルイ11世の子。
13歳で王位に就いたが、ボージュー侯妃でシャルルの姉であるアンヌ・ド・ボージューが摂政として王権の伸張に努めた。 1491年(シャルルが21歳のとき)、アンヌの摂政が終わり、シャルルの親政となったが、彼はハプスブルク家との婚約を破棄して、逆にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の婚約者であったブルターニュ公の娘アンヌと結婚してしまった。 このためハプスブルクは怒り、さらにイギリス、スペインがドイツ側に加担して戦争となったが、サンリス条約(1493)によって和睦した。 これによるシャルルの意図は、有力な地方勢力を持ったブルターニュ家の継承権と同時に、フランス王位の継承権まで持ったアンヌが、ハプスブルク家と結びつくことを防ぐものであった。
彼はロマネスクで武勇を好む性格だった。
かつてからフランスが狙っていたイタリアの地にターゲットを定めたシャルルは、父ルイ11世がアンジュー家から不確定ながらナポリ王家にある一定の権利を得ていたのを利用して、1494年ナポリ国王の死に乗じてイタリアに遠征し、ほとんど無抵抗のうちにナポリに入城した。 しかし彼はナポリの貴族たちをかえりみず、部下を勝手にナポリの要職に任命してしまったりしたためにナポリ市民の不満を買った。 このイタリアでのシャルルの情勢に乗じ、同じくイタリアに対して野心を持つハプスブルグ家が、ドイツ&スペインの軍隊をイタリアに入れ、ローマ法王、ヴェネツィア共和国軍と共同してシャルル8世に戦いを挑んできた。 1495年7月、シャルル率いるフランス軍はフォルノヴォの戦いにおいて優勢な敵を破ったが、自軍の損害も大きく、退路を遮断されることを怖れて本国へ引き揚げ、ナポリはスペインの手に落ちた。 そののちもシャルルは再度のイタリア侵攻を企てていたが、奇禍にあって没した。
彼のイタリア遠征にはなんらの政治的収穫はなかったが、それ以降16世紀半ばまでつづくイタリア戦争の端緒をつくることとなった。 またこの遠征は、文化的には当時絶頂にあったイタリア・ルネッサンスの文物をフランスに移入するきっかけとなり、フランス・ルネッサンスの発展に大きく寄与した。
鉄腕ゲッツ(ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン、ゴットフリート・フォン・ベルリヒンゲン) (1480〜1562年)
宗教改革期のドイツ帝国騎士。ゲーテの出世作となった戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)によって有名となった。疾風怒濤期のゲーテの代表作であるこの戯曲では、ゲッツは神と皇帝をこのうえなく敬愛しているが、それ以上に正義と自由と正直を守り抜くことを信条とし、自らの判断でどんな危険な状況にもためらわずに飛び込んでいく。ゲッツは戯曲では皇帝軍に捕縛され、牢獄の中で自由を叫びながら死んでいくことになっていく。この作品がきっかけで、ゲッツは「ドイツで一番勇猛で強い男」との名声を博すことになった。ゲッツの生まれたヤークストハウゼンは、ドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州の北部にある。生誕の城ゲッツェンブルク城(ヤークストハウゼン城)には今でもベルリヒンゲン男爵家の末裔が住んでいて、城は古城ホテルとして公開されている。成長したゲッツは略奪騎士の典型として無数の私闘に参加し、そのなかで右手を失い、鉄の義手を用いたので“鉄腕ゲッツ”のふたつ名を得た。これ以上黙ってられるか。さあ、どいつでもいいから出てきて言ってみろ。一体この俺が皇帝陛下に仇なすようなことを、ただの一度でもしたことがあるか。このドイツを治められるお方に対して治められる方は何をなすべきか、とりわけ騎士や平民が自分たちの皇帝であられる方に何をなすべきか、誰よりもよくわきまえた人間であることを、この俺は昔からすべての行動であらわしてきたではないか。みみっちい私欲のためや、守りのない弱い者から領土や民を掠め取るために、俺はいくさをしたことはない。捕まった家来を取り戻したり、わが身を守ったりするためだ。それのどこが悪いのだ? 陛下や他のお偉方は、俺たちが困っていようがとんと平気の高枕だったろうからな。さいわい俺には手が片方残ってたから、当然それを使ったまでだ。
お前らのいくさは何のためなんだ? お前らの権利や自由を取り戻したいということなのか? なんで暴れ回って国をめちゃめちゃにするんだ? お前らがこれから一切の乱暴狼藉をやめて目的をわきまえたちゃんとした人間らしくするというのなら、俺はお前たちの言い分のために一肌脱いで、そうだな、むこう一週間お前らの隊長になってやろう。
1525年にドイツ農民戦争が起こると、ゲッツはオーデンワルト農民団の最高指揮官となったが、6月2日のケーニヒスホーフェンの戦を前にして脱走。37歳のときに購入してあったネッカー河畔の美しいホルンブルク城で、82歳に死去するまで平穏に暮らした。喧嘩屋として生きた騎士が、晩年になって自慢混じりに語った回顧談として書かかれた自伝が、18世紀になって発掘され、1731年に出版された。これが若いゲーテの戯曲のもとになったのである。
ゲッツェンブルク城とホルンブルク城の両方に、ゲッツの使用した義手と甲冑が展示してあるというが、ゲッツェンブルク城にあるものの方が本物のようである。
ゲーテは24歳のとき、匿名でこれを作品として発表。信念を高らかに叫び実行に移す時代遅れの理想家が、実は一番近代的な人間であるということを、実在の人物を主人公として描き、貴賤とわず数多くの人物が歴史的な出来事の中で活躍するこの劇は、これまでの古典劇とはまったく違う国民劇だとして、またたくまに評判となった。
(戯曲の内容)
帝国騎士である彼が考える理想とは、「人々が皇帝をうやまい、隣どうしが仲よくし、下々の者がむつみあう気風が、世の中でいちばん大切な宝となって子や孫にうけつがれていく社会」である。社会の不正・権力の腐敗が許せない彼は、暴利をむさぼる貴族や商人をこらしめるために、追い剥ぎのようなことも頻繁にする。実際にゲッツの姿を目の当たりにした人間は、その素朴で正直な姿に好感を覚えるが、エスカレートする人間の欲望・社会の駆け引き・分別の無い上からの命令をゲッツが憎み、それを激しく糾弾するため、ゲッツとは敵対しなければならない羽目となる。ゲッツは自分を裏切った者に激しく悪態をつきつつ、サバサバと数少ない味方とともにそれと戦う準備をする。彼は自分がもはや同じ世界の人間とはみな考え方が違うと知っているが、しかし自分の正しさはこれしか無いと思っているのである。
ゲッツをこころよく思わない廷臣たちの陰謀でゲッツは国家に対する謀反の罪で囚われ、あやういところを弟の援軍にたすけられる。農民戦争が勃発すると一揆のリーダーとしてかつぎだされたゲッツは、農民たちの仲間割れを収拾することができず、皇帝軍の捕虜となり、戦争中に行方不明になった忠実な小姓のゲオルク(実はもう死んでいる)の行方に心を痛め、また逝去した皇帝マクシミリアンのことを悼みながら、獄中で「自由だ、自由だ」と叫びながら死んでいく。
ゲッツを主題にした作品は、ゲーテのものの他に、サルトルの『悪魔と神』(1951)、ハイドンの劇音楽(消失作品、弟のミヒャエルの作品だという情報も)、ポール・デュカスによる序曲(1884)、スイスの作曲家フェジーによる前奏曲(19世紀後半) などがある。