Home
イタリア史
 

聖アウグスティヌス (アゴスティーノ) (354〜430/66歳

キリスト教神学、およびキリスト教哲学を初めて体系的に築き上げた聖人。
著書『告白録』『三位一体論』『神国論』。
北アフリカの小都市タガステ(現アルジェリア)で生まれる。
カルタゴの大学を卒業したのち、イタリアに。 ローマやミラノの大学で修辞学を教える。
最初、マニ教の熱心な信者となり、また享楽的な生活を送って素性の良くない女性と16年間も同棲して、信心深いキリスト教徒である母親モニカを悩ませた。 だがやがて、母親とミラノ司教の聖アンブロージオの根気強い働きかけにより、キリスト教に改宗。(32歳のとき)
まもなく母親と愛児が死去すると、それまでの生活と惜別するように北アフリカのヒッポに移住。 
43歳の時その地の司教に叙任され、以後34年間、布教と研究に従事した。
「聖人の方も立派な母親であるに違いないとはいえ、教育から私生活にまで口を挟まれても「ハイ、ママ、ハイ、ママ」と従順だったようだから、かなりの「マザーコンプレックス」にかかっていたように思えてくる。 それとも、この聖女と聖人の息子の関係は、勿論母も子供も頭が良い場合に限るが、「母親は教育ママ、子供はマザコンであるべき」との良い例として受け取るべきなのであろうか」  〜坂本鉄男〜
『黄金伝説』による彼の死。
440年にヴァンダル族がアフリカに侵入してヒッポの町にも現れたとき、その略奪と蛮行を目の当たりにして彼は、悲しみと苦しみと恐怖の日々を送った。 彼は神に祈った。「私たちをこの危険からお救いください。さもなければこの難局を乗り越える忍耐力をお与えください。 それも駄目ならば、悲惨を見なくてもいいように私の命をお召しください」  ・・・・神はこの3つの願いの3つ目を聞き届けた。
3ヶ月後に彼は重病の床につき、いくつかの奇蹟を示してから死んだ。

 
 

エッツェリーノ・ダ・ロマーノ  (1194〜1259/63歳

イタリアの武人。皇帝フリードリヒ2世と組んで活発な軍事活動を行い,ヴィチェンツァ、パドヴァ、ヴェローナなどの重要な都市の君主となった。
武勇にすぐれ、ギベリン党の筆頭として恐れられ,フリードリヒ帝の死後も破門されたまま教会と戦い続けた。
多くの伝説を残し、ダンテも『神曲』でとりあげている。
「この人の活動はもっぱら北イタリア東部における支配権獲得のために終始したので、統治や行政の体系を代表する人間ではないが、後世にとっては政治家の典型としてその保護者である皇帝に劣らず重要である。中世の征服と簒奪は全て現実的な財産を目当てにか、あるいは不信仰者・破門者に対して行われるものだったが、エッツェリーノに至って初めて、王位の創設が大量殺戮と無際限の凶行によって、すなわち目的だけを考えて手段を選ばずにこころみられる。後世の何人も、その犯罪の規模の大きさにおいて、どう見てもエッツェリーノには及ばなかった。あのチェーザレ・ボルジアでさえも」(ブルクハルト)
北イタリアのトレヴィゾ (ベネト地方) の小領主の子として生まれ、幼少時から武将としての鍛錬を受け、17歳の時に初陣。このときの相手のエステ家が、彼の生涯をかけての宿敵となる。
戦いのとき、エッツェリーノは黒馬にまたがり、黒い鎧を身にまとい、長槍を手に戦場を疾駆するのを常とし、エッツェリーノの部下たちは行軍のとき、あるいは市街に突入時に「エッツェリン! エッツェリン!」と大きく叫ぶので、この怒号はとても恐れられた。
1231年にヴェローナを、1236年にヴィチェンツァ、1237年にジョルダーノ・フォルツァーティの守るパドヴァを攻略、自分の領土とする。とても残忍な性格で、戦闘のたびに、市の有力者を城壁からさかさ吊りにしたり、令嬢たちを兵士に犯させる等をくりかえした。エッツェリーノは、流れる血を見ると、とりわけ凶暴に暴れ狂う習癖があったという。
結婚相手は、はじめツィーリア・デ・サンボニファッツォ、ついで皇帝フリードリヒ2世の皇女セルヴァッジア。その死後に、パドヴァ領主の娘のベアトリーチェ。
1250年、皇帝フリードリヒ2世が死去すると、エッツェリーノの勢力にも翳りが見えるが、1358年にはトリチェリの戦いで教皇軍を打ち破る。その余勢を駆ってミラノを攻略しようとしたが、戦いの中で負傷し、捕らえられてまもなく死んだ。
★参考本
『イタリア・ルネサンスの文化』 ブルクハルト、柴田治三郎・訳 (中公文庫) 1974

オドリック、デ・ポルトゥ・ナオニス   (1265?1274?1285?1286?〜1331)

東方布教に功績のあったフランチェスコ会の宣教師。1755年に福者に認定。
北イタリア、当時フリウリ領であったポルデノーネ近郊で生まれる。
若くしてウディーネの修道院に入り、1314年に東方の異教徒の土地を目指した。(一説には1315〜16年)
コンスタンティノープルから黒海を通り、ペルシア領の小アジアを横断して海路でインドに入った。 彼は南海諸島を訪問して多数の異教徒を改宗させ、ついで中国へ行き、広州→福州で上陸→杭州から大運河→華北のルートで、大元国の首都カンバリク(大都)に到着。
中国に3年滞在したあと、中央アジアを乗り越えて西方への帰還を目指し、1330年に帰国を果たした。出発から16年であった。
アヴィニョンの法王庁へ帰国の報告に行こうとしたが、その途中で病気となり、引き返す途中ウディーネで死去。
帰国した直後にパドヴァで、同じフランチェスコ会のギレルモ・デ・ソラーニャがオドリックから旅の詳細を聞き取ってその記録を取っていた。その紀行記には中国・南洋に関して他には見られない貴重な記述が多く含まれ、評判が高まってその物語はつぎつぎと書写され翻訳もなされたが、マルコ・ポーロの『東方見聞録』と同じくただのホラ話として見なされることも多かった。まもなく出版されて、「幻のプレスタージョンの国」の情報があるとして評判を呼んだジョン・マンダヴィルによる『東方紀行』(=架空の旅行記)も実はオドリックの本を種本としている。
一方で、生前のオドリックの素行は高徳を讃えられるものであったといい、死後もさまざまの奇蹟を示したと伝えられ、土地の人々の尊崇を受けた。


マッテオ1世(ヴィスコンティ)(1250〜1322)
 

ホークウッド、ジョン (ジョヴァンニ・アクート、アクウッド)  (1320〜94)

イギリス出身の傭兵隊長である騎士。
そこそこ裕福な革職人の息子としてエセックスに生まれた彼は、少年時代をロンドンで徒弟として働いていた。

まもなく、ひとはたあげることを夢見た彼は(悪いことをしすぎて、イギリスにいられなくなったという話もある)、百年戦争中のエドワード3世の軍に参加して、フランスに渡る。英国軍が初めて大砲を使用した戦いとして有名な1346年のクレッシーの戦いでは黒太子の下で戦い、彼も大きな武勲を挙げたらしい。その後も彼は目覚ましい戦いぶりをつづけ、1356年のポワティエの戦いの殊勲によって、騎士となった。
1360年のブレティニー・カレー条約によって百年戦争の第一期が終わり、つかのまの平和が訪れると、することのなくなった40歳の彼は、100名あまりの配下の傭兵たちを引き連れて、戦乱渦巻く北イタリアへと流れていく。そこで彼は、ドイツ出身の傭兵隊長アルプレヒト・ステルツの、ホワイト・カンパニー(白の軍団)に加わることとなる。 ホークウッドは、たちまちステルツの信任を得て副長になった。

◎「白の軍団」の編成
この「ホワイト・カンパニー」の編成は、甲冑に、槍、剣、楯というふつうの装備の兵と、弩射手の、バランスの取れた配分であった。それに、攻城用の小さな梯子を持つ。城攻めに重装備は避けなければならない。後代の槍騎兵はふつうは4人だが、「ホワイト・カンパニー」では3人。騎士、従者、徒歩の小姓という中世の伝統を守っている。しかし、先任の兵はイタリアでいう伍長(カルボナーレ)だが、これは厳密に騎士である必要はない。つまり、誰でも伍長になれる。そして、靴に拍車を付けた者、それに戦争があるときだけに指揮をとる者は、しばしば騎士号を与えられた。この三人の単位(ユニット)が、五つで一分隊になり、五分隊(パンディエッラ)と呼ばれる。つまり、全員は75人の騎士と小姓という編成になる。
〜『世界の戦争6 大航海時代の戦争』 樺山紘一・編/中田耕治
「ホワイト・カンパニー」がピサと契約を結んでフィレンツェと戦ったとき、ホークウッドが指揮をとった。この時のホークウッドの指揮ぶりと、ピサの当局との交渉の手腕で、次第に部下からの多大な心酔を受けるようになり、やがてそうして隊長のステルツの支持が急落し、ホークウッドが隊長としてまつりあげられた。こうしてホワイト・カンパニーは「ホークウッドの軍団」となる。彼の名声は鳴り響き、各地から腕利きがホワイト・カンパニーに入隊しようと参集。旗色が悪くなったフィレンツェは、ホークウッドに密使を送って、莫大な報酬と引き替えに、寝返りを打診した。そこで、ホークウッドは部下を集めて、意見を聞いた。「このままピサのために戦うか、フィレンツェの側に寝返るか。」 意見はまっぷたつに分かれた。ほとんどの傭兵は、金に目がくらんでフィレンツェにくだることを選んだが、ホークウッドのイギリス時代から従っている古参の兵とホークウッド自身は「信義」を主張してピサに残ることを選んだのである。こうしてホワイト・カンパニーはふたつに分裂し、ホークウッドは残った800の兵を率いて、ピサに入城した。
ところがこれは、謀略であった。以前からホークウッドは、ピサの政権を奪取したいと考えるこの町の大商人ジョヴァンニ・アニェッロから打診を受けていて、ピサの市民から歓迎されて市内に迎えられたホークウッドは、一転して、武力をたてに無理矢理なクーデターを成功させたのである。 これによりピサの政治を掌握したアニェッロから、ホークウッドは30000フィリオーニという約束よりも多くの報酬を受け取ったという。 また、一方でフィレンツェとも、つてができたのだった。
◎ホークウッド軍団の戦いぶり
(ホークウッドの軍団は)軍団といえば聞こえはいいが、飢えた狼のように作物を荒らし回り、家畜を屠殺し、家財を略奪し、おんなを引っさらったりするような、荒くれた戦国牢人の集団だった。ここでも、彼はたちまち頭角をあらわす。
 ( 中 略 )
伍長と直接の部下は軍馬に乗る。ここにホークウッド軍団の特徴があって、ほかの諸国の重装備の傭兵軍団と違って、少しでも装備を軽いものにしようとした。(中略) ドイツ兵、ブルグント兵、イタリア兵の騎士は、まだ中世的な重装備に身を固めていたし、その従兵は、それよりはいくらか軽い装備だった。ところがイギリスの騎士隊は甲鉄の鎧を着けないため大きな機動力を持ち、接近戦にあたっては徒歩で戦い、敵陣に馬で突っ込む作戦を採らなかった。
馬の防護にも同じ思想があらわれて、イギリス兵の軍馬は装備が軽いものだった。馬が先陣を切るようなことはなかった。戦闘の際は、従兵(ラガッツォ)、または小姓(ページ)が馬を戦線から退避させる。敵が崩れて追撃するときとか、敵に敗れて退却するときに、馬は無傷のまま利用できるのだった。ところが、馬で敵陣を突破する戦法のドイツ騎兵は、敵に囲まれた場合、まず馬が狙われる。弩で馬が負傷してしまうと立ち往生してしまって、わらわらと襲ってくる敵兵に討たれることが多かった。
ホークウッドは部隊を機動的に行軍させる目的で、装備を軽くしたために有名になった。
〜『世界の戦争6 大航海時代の戦争』 樺山紘一・編/中田耕治
数十年におよぶアヴィニヨン捕囚からローマへと帰還した、聖人的な教皇であるウルバヌス5世は、人々を苦しめる戦争を食い物にしている傭兵隊長たちを、とても憎んでいた。教皇は、すべての傭兵隊長に破門を宣告して、諸国の君主は一致団結して傭兵隊長たちを追放するように、と呼びかけた。ほとんどの君主がこの呼びかけに応じ、強力な連盟が結ばれたのだが、いざ強力な勢力を有する傭兵隊長たちを前にすると、何もすることができなかった。 やがて“征服者”メフメットが率いるトルコ軍がイタリア半島に進出してきたため、教皇も傭兵隊撲滅の十字軍を中止するハメになってしまった。 教皇はローマに帰還するにあたって教皇に大きな敵意を抱くミラノのヴィスコンティ家の当主ベルナボーと微妙な駆け引きを続けていたが、ホークウッドはこのベルナボー・ヴィスコンティに雇われる。ヴィスコンティの指示で、ホークウッドはローマを強奪し、「地獄絵図を現出させた」という。このヴィスコンティによる攻撃にくわえ、ペルージアでも教皇に対する反乱が起こったので、教皇ウルバヌスはアヴィニヨンに逃げ帰り、まもなく死去した。 ついで、ホークウッドはヴィスコンティの命を受け、今度はフィレンツェとピサを相手に戦争を始めるが、さすがにフィレンツェの潤沢な資金を受けた軍隊は強く、ホークウッドは敗北を喫してしまう。それに怒ったヴィスコンティが報酬をケチったため、激怒したホークウッドはウルバヌスのあとを継いでローマに帰還した新教皇グレゴリウス11世に、鞍替えしてしまった。
教皇は彼にバニャガヴァッロ、コティニョーラ、コンセリチェを与え、ホークウッドは今度は教皇の警察官という役柄を、熱心に演じ始めることになる。ところが1377年に、教皇がホークウッドに命じたチェゼーナの反乱の鎮圧に際して、またもホークウッドが目を覆いたくなるような虐殺・乱暴を繰り広げたおかげで、イタリア国民の教皇に対する怒りが大きくなり、教皇はふたたびアヴィニヨンに逃げ出してしまう。
1787年から、フィレンツェと5年契約を結び、13万フローリンの報酬を受け取った。この年、同時に同じ契約をピサ、アレッツォ、ルッカ、シエナなどとも結んだため、彼の年収は22万フローリンという額となった。これは、普通の傭兵隊長がうけとる額の、十倍以上の数字だという。
ミラノ公ベルナボー・ヴィスコンティは、ふたたびホークウッドを傘下に入れるために、1万フィオリーニの持参金をつけて庶子のドニーナをホークウッドの嫁に与えた。しかし1年もたたぬうちにホークウッドとヴィスコンティの仲は決裂し、以後10年にわたるミラノとホークウッドの戦闘が始まる。1390年の戦闘でホークウッドの7千の陣は、2万6千のミラノの大軍に大敗し、これがホークウッドの最後の戦いとなった。
戦争に負けて、70歳を越えていたホークウッドは故郷のイギリスに対する懐旧の念が強くなり、帰国の準備を整えている最中、脳卒中を起こして死んだ。

フィレンツェ市はホークウッドの死に対して厳粛な弔意をあらわし、また英国王リチャードが強く望んだこともあって、死骸は英国へ運ばれた。

参考本
世界の戦争6 大航海時代の戦争』 樺山紘一・編/中田耕治 (講談社) 1985
『傭兵の二千年史』 菊池良生 (講談社現代新書)2002
『ルネサンスの歴史』 モンタネッリ、ジェルヴァーゾ (中公文庫)1987
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1350〜1402)

ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ(1369〜1424)

スフォルツァ家の祖。
ロマーニャのコティニョーラに生まれ、一介の平民より身を起こして傭兵隊長(コンドティエリ)となり、ナポリ女王やローマ法王のために各地を転戦して武勲を立て、「スフォルツァ(=“強襲のひと”の意)」の名を得た。


ジョヴァン・マリア・ヴィスコンティ(?〜1412)
フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(1392〜1447)

ミラノ公。
たぐいまれな才能と、偉大な精神を備えていたが、恐怖におびえつつ毎日を過ごした。何年ものあいだ砦に閉じこもり、ときおり所領の視察に城から城へと巡回するだけで、けっして市内には足を踏み入れなかった。
外部の敵に合図を送るのを防ぐため、家臣たちは城の窓際に立つことを禁じられた。
一方で彼はスパイや密告者を大量に雇い、配下の傭兵隊長や役人たちも、互いに密告しあうことを奨励された。
かれはまたひどく迷信的な男で、魔術や予言を信じ、見えざる力にはなんであれかまわず祈りを捧げ、その加護を求めた。
だが同時に彼は複雑な国際問題をやすやすと処理する能力を持ち、戦場では大胆不敵に振る舞った。
参考本
◎『ボルジア家』、マリオン・ジョンソン(中公文庫)
オナルド・ルーニ  (1401〜1466)
ルネッサンス期最初の万能人。フィレンツェ市の実権を握る「書記官長」。


バラ  1407‐57  Lorenzo Valla

ルネサンス・イタリアの代表的人文主義者。ローマに生まれ,若年でキケロ,クインティリアヌス論を書いて古典学の才を現す。パビア大学教授となり,《快楽論》(執筆1430‐33)を著してエピクロス的幸福論を唱え,世の注目を浴びる。つづいて《真なる善》(執筆1433),《真なる善と偽りの善》(執筆1434‐41)を著す。地上的快楽に対する天上的幸福の優位性を認めるが,所論の進め方はきわめて合理的である。37年以後アルフォンソ王の書記となりナポリに赴く。39年に完成した《自由意志論》は,近代的理性のあり方を表明した先駆的作品として評価される。また同じころ著した《“コンスタンティヌスの寄進状”の偽作について》は,ローマ教皇の土地領有権の正当性の根拠とされる《コンスタンティヌスの寄進状》が,実は後世の偽作であることを文献学的に実証して,革命的物議をかもした。ほかに多くの文献学的研究があるが,なかでも《ラテン語の優雅さについて》6巻(1444)は古典的言語論として広く名声を得た。また《ナポリ史》3巻(執筆1445ころ)は,フェルディナンド王治下の十数年のみを扱ったにすぎぬが,すぐれた歴史記述の書である。時代を先駆するバラの見解には,激しい非難も浴びせられ,《弁護》(執筆1435‐40)を著してこれにこたえねばならなかったが,晩年(1448)には教皇庁に招かれて,そこで死んだ。


フィチーノ  1433‐99  Marsilio Ficino

 
ルネサンスの代表的哲学者(フィレンツェ・プラトン主義)
メディチ家の家庭教師として、ギリシア各地から買い集められた貴重な古典芸術を研究。“アカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)”と呼ばれるようになる。
なかでも、錬金術の原典としてのヘルメス文書から訳出された『アスクレピオス』『ポイマンドレス』や、プラトンの全著作の翻訳が、人々に争って読まれた。ここに初めてプラトンの全貌がヨーロッパに紹介されることになった。これらの活動とともにフィチーノの名声は高まり、周囲にフィレンツェの知識人が集い、アカデミア・プラトニカはイタリアのみならず全世界に知れわたって,大きな影響を与えた。
主著『プラトン神学』は単なるプラトンの注解ではなく、プラトン哲学とキリスト教との統一を試み,古来あらゆる哲学はその本質的同一性の自覚において相対的対立を解消すべきであるとする自由寛容の哲学を主張した。
フィレンツェ近郊のフィリーネに生まれる。メディチ家の侍医であった父の勧めで,医学,哲学,ギリシア語を学び,コジモ・デ・メディチに才を認められて,その孫ロレンツォ・デ・メディチの家庭教師となるかたわら,メディチ家からギリシア各地から買い集めた貴重な古典手稿類をカレッジの別邸とともに委託された。これはのちに〈アカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)〉と呼ばれる。ここでフィチーノは,古典手稿の研究翻訳に着手し,《オルフェウス頌歌》やプロクロス,ヘシオドスの神学的作品などを訳了した。なかでも錬金術の原典としてのヘルメス文書から訳出(1471)された《アスクレピオス》や《ポイマンドレス》は,当時の人々に争って読まれた。1463年にはプラトンの全著作の翻訳を始め,それらは注解を付されて84年に出版され,ここに初めてプラトンの全貌がヨーロッパに紹介されることになった。つづいてローマ帝政期の新プラトン主義の哲学者プロティノスの訳注が完了して92年に出版された。これらの活動とともにフィチーノの名声は高まり,その周囲にフィレンツェの知識人を集めて精神文化の中心となり,アカデミア・プラトニカはイタリアのみならず全世界に知れわたって,大きな影響を与えた。
1473年に司祭に任じられたのち、フィレンツェの大聖堂(→ サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の司教座聖堂参事会員になる。
主著《プラトン神学》(1482)は,たんなるプラトン注解ではなくて彼独自の哲学を説く。すなわち人間中心性の哲学である。世界存在は,神,天使,霊魂,質,量の5秩序に分かたれ,その間には上昇,下降の絶えざる運動が繰り返されている。人間はこの存在秩序の中央に位置して,上下の世界を結ぶきずなの役を果たしている。ここに人間霊魂の奇跡的本質があり,これを自覚するところに,彼独自の〈敬虔の哲学〉〈永遠の哲学〉は成り立つ。この立場から,彼はプラトン哲学とキリスト教との統一を試み,古来あらゆる哲学はその本質的同一性の自覚において相対的対立を解消すべきであるとする自由寛容の哲学を主張した。人間の魂の不死性の記述からは、彼がトマス・アクィナスの思想を知っていたことがわかる。また、プロティノスの宇宙論や、人間の生活に対する星の影響力にもふれている。プラトンの「饗宴」についての彼の注解に、プラトニック・ラブという概念がはじめてもちいられた。神の愛にもとづくこの特殊な友情の概念は、その後のルネサンスの文献において多くの実りをもたらした。

 

ピコ・デラ・ミランドラ  (1463〜1494)   Giovanni Pico della Mirandola

フィチーノと並ぶルネサンス期イタリアの代表的プラトン主義思想家。
貴族の出身で、大学にいたころから天才的博識で名をとどろかせていた。
フィチーノの“永遠の哲学”に共鳴して、現実世界の対立をその底を貫いて存在する同一性の自覚によって融和させようと試みる“哲学的平和”を主唱した。1486年ローマで世界哲学会議を開催する。
主著は『人間の尊厳について』(1486)。しかし、教会から異端視されてパリに逃げ、さらにフィレンツェに移るが、サボナローラ事件に巻き込まれ、94年に毒殺された。
北イタリア・エミリアロマーニャ州のモデナ県にある小都市ミランドラの城主(ミランドラ伯)の末子として生まれる。勉学のためにイタリアやフランスを遍歴し、ボローニャ大学とパドヴァ大学で学んだ。少児のころから神童のほまれたかく、大学では古代哲学のほかに、ギリシア語、ヘブライ語からアラム語、アラビア語まで修得し、非常な博識で知られていた。
1482年(19歳のとき)に遍歴の途中に訪れたフィレンツェで、アカデミア・プラトニカを主催していたフィチーノと出会う。フィチーノに惹かれたピコは、フィチーノの〈永遠の哲学〉に共鳴し,現実世界の対立を,その底を貫いて存在する同一性の自覚によって融和させようと試みる〈哲学的平和〉を主唱した。
1486年(23歳のとき)にローマにおちつき、「あらゆる主題についての900の論題や命題」を公表、ピコの言う哲学的平和の実現と、900の論題・命題を討議するために、全世界から自費で哲学者・神学者を招いてローマで世界哲学会議を開催し、諸教義に一致点を見いだすことができるのかどうかを討議しようとした。この冒頭を飾るべきピコの演説草稿が,有名な《人間の尊厳性について》(1486)である。しかしこの計画は教会から異端視されて妨害をうけ,ピコはパリに逃れる。その後フィレンツェに招かれてプラトン・アカデミーの有力な会員となるが,サボナローラ革命に巻き込まれて94年毒殺された。
 ピコの哲学は,人間中心性の自覚という基本点で,フィチーノの同一線上にあるが,多くの点でそれを超えた独創性にみちている。世界は天界,天使界,元素界に三分され,中間の天使界はすなわち精神界であり,これが全世界秩序の中間に位置して両世界を結ぶロゴスの世界,すなわち人間の世界であると考えて,人間中心性の立場をとる。しかし神と人間との間には,フィチーノと異なって,無限の隔りがあるとして,神の超越性が強調される。一方,人間精神は,みずからの選択によって神の世界にも生まれ変わることができるし動物界に成り下がることもできると考え,その自由な選択にこそ人間の価値があるとして,瞠目すべき自由意志説を唱えた。これは占星術的宿命論に対する攻撃とともに,ピコを近代思想の先駆者とするものである。ピコが融合を試みた諸思想は,ヘルメス,ゾロアスター,オルフェウスからオッカムやドゥンス・スコトゥスに至る,あらゆる時代と民族の思想を包括した遠大なもので,ルネサンスの自由精神の頂点を形成するものである。

彼は、ローマで世界哲学会議を開催し、この論題や命題について討議しようとしたが、その冒頭をかざるべきピコの演説草稿が「人間の尊厳について」(1486)である。しかしローマ教皇は、カバラを論じたその論題のいくつかが異端的だと考え、この会議の開催を禁じた。1489年には宇宙の創造についての神秘主義的説明である「ヘプタプルス」を完成した。

彼の蔵書は、当時もっとも大規模で広範囲におよぶものであった。裕福な貴族の出であった彼は、すべての財産を放棄し、放浪の説教者になろうと決意したが、この計画を実現する前に死去した。死の前年、教皇アレクサンデル6世は、彼の異端の罪をゆるした。
 

ランチェスコ・フォルツァ 1世  (1401〜1466)
ミラノのヴィスコンティ家の傭兵隊長。
ムッツォ・アッテンドロの息子。サン・ミニアトで生まれる。
傭兵隊長として、ミラノの領主フィリッポ・マリア・ヴィスコンティに仕える。
主人の娘ビアンカ・マリアと結婚し、1447年に主人が死ぬと「アンブロージア共和国」の対ヴァネツィア戦争の総司令官となったが、敵国ヴェネツィアと内通して、1450年に、断絶したヴィスコンティ家を乗っ取ってミラノ君主の座を手に入れた。
マキャベリは、フランチェスコ・スフォルツァをチェーザレ・ボルジアに比肩する存在として評価していたが、ただ一点、彼が築城に力を傾けたことで後継者に災いをもたらしたことを非難しているそうな。 1488年にチェーザレ・ボルジアがミラノを攻めたとき、当主ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの未亡人カテリーナ・スフォルツァは、堅固なスフォルツァ城の防備を当てにして籠城し、チェーザレ・ボルジアの策謀の前に敗れ去った。


ェデリーコ・ダ・ンテフェルトロ  (1422〜82)

ウルビーノ公。 モンテフェルトロ家は13世紀初頭以来、代々ウルビーノを支配する「辺境伯」の家柄。
勇猛な武人であり同時に文芸の保護者であった典型的ルネッサンス領主。
ウルビーノ辺境伯グイダントニオの庶子として生まれる。 ”ウルビーノ”はイタリア半島の中部・マルケ州。 フィレンツェの東方60qにある小都市。 
庶子ではあったが父の意向で、少年時にマントヴァ公が建てた学校へ入学し、ここで各地の貴族の子弟たちと広い交流を持ち、また優れた人文学者ヴィットリーノ・ダ・フェルトレを師として得る。
21歳のとき父伯が死去し、そのあとを兄オッダントニオが継いだが、放縦な性格が元で翌年暗殺されてしまったので、突然家督がフェデリーコのもとに舞い込む。 すぐさまフェデリーコは兵を率いて領内の反抗勢力を平定し、さらに先祖代々からの野望であった領土拡張に乗り出した。
彼はまず領内の貧しい農家の次男・三男を兵卒として雇い上げ、厳しい訓練で優秀な兵士に鍛え上げたうえでこの精兵を、学生時代に築き上げた人脈をもとにヨーロッパの各国に売り出した。 こうした彼の配下の中から、のちにフランスのシャルル豪胆王に仕えたコーラ・ディ・モンテフォルテ将軍や、ルイ12世の元帥となったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオなどが登場した。 フェデリーコはこの傭兵派遣を通じて、たちまち巨万の富を築き上げた。

ときの教皇シスト4世は、フェデリコの勢力の急激な盛り上がりを見て、彼の領地をそれまでの伯爵領から公爵領へと格上げした。 昇爵してもフェデリコの生活が贅沢になることはなく質素なままだったが、ありとあらゆる文学・芸術・建築・絵画の収集にだけは金に糸目は付けず、積極的に人材を収集した。 フェデリコの芸術政策のおかげで、ウルビーノはそれまでの地方の一田舎都市から一躍イタリア有数の文化都市へと一変した。
フェデリコの栄華は彼が建設した優雅な宮殿ドゥカーレ宮の姿にうかがい知ることができるが、栄光はフェデリコの息子グイドゥバルドの時代まで続き、領内に大画家ラファエロと大建築家ブラダマンテが誕生して、ルネッサンスの一時代を築いた。 フェデリコ以後、ウルビーノは「理想都市」と呼ばれる。

16世紀になるとウルビーノの支配権はデッラ・ローヴェレ家へ移った。


 

サヴォナローラ、ジロラモ  (1451〜1498)

一時期フィレンツェ市を牛耳ってしまったドメニコ修道会の狂信的な修道士。
塩野七生の「神の代理人」の中の『アレッサンドロ6世とサヴォナローラ』を読め!
アレッサンドロパパ、かっちょええーーーー。
ルネッサンス期イタリアにおける、「宗教改革」の先駆けと目されている人物。
フェラーラに生まれる。 祖父がパドヴァの高名な医学者ミケーレ・サヴォナローラ(1385ごろ〜1468)。←「人相学」という著書が有名。
幼年期から強い感受性を示し、青年期まで中世的教育を受けたが、その明敏な学才でもって周囲に知られるようになった。 早くから自分も周囲もいずれ医学への道を進むことを期待。
しかし、やがて生地フェラーラを支配するエステ宮廷の腐敗した様子を目の当たりにして、生来生真面目なかれは俗世嫌悪の感情を抱くようになり、ちょうどストロッツィ家の庶娘ラオダミダと失恋したのをきっかけに生家を去ってボローニャのドミニコ修道会に入会してしまった。 (24歳のとき)
厳しい見習い期間を経たのち、1482年にフィレンツェのサン・マルコ教会に派遣。 当時のフィレンツェはロレンツォ・デ・メディチの最盛期、絢爛なルネッサンス文化が華開いていたが、その一方でかつてのキリスト教的信仰と道徳は忘れ去られ(修道士のあいだですら)、生真面目なサヴォナローラは次第に現状に危機感を感じるようになり、彼の行う説法は教会と俗世の道徳的腐敗に対する痛烈な攻撃へとなっていった。
サヴォナローラの演説は、最初不人気であったが、次第に少しずつ衆民の注目を惹くようになっていく。 ついに1491年にサンタ・マリア・デル・フィオレでした説教がフィレンツェ全市民に深い感銘を与えたことがきっかけで、サヴォナローラはフィレンツェ市の精神的指導者としての地位を確立。
たてつづけにサヴォナローラは以前にも増して厳しく聖俗両方の腐敗を強固に批判し、改革を絶叫し続けたため、とうとうフィレンツェの支配者ロレンツォは現実の君主としての立場から、サヴォナローラを懐柔する道に出た。
しかし、サヴォナローラは頑固に政府側の手には乗らず、そのうちに偉大な大ロレンツォは世を去る。(92年)
次にフィレンツェ領主の座に着いたピエロ・デ・メディチは凡庸で、まもなく市の統制が乱れ治安が悪化したため、人々のメディチ家に対する信頼は揺らぎ、逆にサヴォナローラに対する民衆の傾倒は一段と熱狂を増した。
このころ、サヴォナローラの演説は一層神秘的、啓示的な方向に。
1494年、ナポリ王の王位を狙うフランス王シャルル8世のイタリア侵攻が始まった。 フィレンツェ市は最初フランス軍の圧力に抵抗したが、ピエロはやがて屈し、市民には無断でシャルル8世との間に屈辱的な和議を結ばされてしまった。これが原因でメディチ家は怒った市民にフィレンツェから追放されてしまい、代わりにサヴォナローラを擁するピアニーニョ派が市政の実権を握った。 サヴォナローラは民衆に押され、とうとうフィレンツェの指導者となった。
実権を握ったサヴォナローラは貴族政治を排撃し、領内にキリスト教的民主政治をうち立てようとこころざし、市民の大会議を招集し、全市民が神をおそれうやまいそれまでの背神的行為をあらため、私利を捨て去って公に尽くさせる方向に向けさせようとした。 政治犯に対する大赦令が発布され、ヴェネツィア共和制に範を取った会議制で、新しい市民政府が結成された。 ヴェネツィアの共和制総督(ドージェ)のような官職は置かれなかったが、実質的にサヴォナローラが独裁的な地位についた。
サヴォナローラが行った、自由の解放宗教改革のための諸政策は、その雄弁な演説のおかげもあってフィレンツェの町を一躍「神の都」としたかであった。 サヴォナローラは1497年、98年と連続して「虚栄の焼却」と呼ばれる儀式をおこない、

 

ルトヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)(1452〜1508)

フランチェスコ・スフォルツァの第四子ルドヴィーゴは、肌も髪も眼も黒かったので、「イル・モーロ」(ムーア人、黒人)と綽名された。どういうものかこの綽名が気に入ったかれは、家紋をムーア風に変え、黒奴を大勢傭い入れた。 長身で頑丈で異相のこの公子は、一代の碩学フィレルフォを家庭教師として古典を修めていたが、幼い頃から狩り、釣り、弓、馬などスポーツの方が好きだった。魔法や占星学を信じ、美女と美食を愛したが、耽溺することはなかった(モンタネッリ『ルネサンスの歴史』)
ミラノのルネサンス君主。通称のイル・モーロは肌の黒さ,あるいは別称のマウロMauro に由来する。
フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリア・ビスコンティの間に生まれた。
特にレオナルド・ダ・ビンチ,ブラマンテや他の芸術家たちのパトロンとして有名。1476年兄のガレアッツォ・マリアが暗殺された後,その7歳の息子からミラノ公爵位を影奪しようとして失敗し,追放される。しかし80年甥の後見人として帰還に成功し,実権を掌握。エステ家の娘と結婚し,甥の死後,94年公爵位を授けられる。反フランス・イタリア同盟の推進者であった彼は,ビスコンティ家系からの公爵位の相続権を主張するルイ12世に攻撃されて逃亡し,再帰還を企てたが,スイス傭兵に裏切られ,1500年フランスに捕らえられ,ロシュに幽閉されたまま死去する。
ブルクハルトによれば,こうした甥からの権力簒奪がフランスの干渉と全イタリアの悪運をもたらしたといわれている。
シャルル8世  (1470〜1498 位;1483〜98
フランス国王。
ルイ11世の子。 
彼はロマネスクで武勇を好む性格だった。
13歳で王位に就いた。ボージュー侯妃でシャルルの姉であるアンヌ・ド・ボージューが摂政に。 
1491年(シャルルが21歳のとき)、姉の摂政が終わり、シャルルの親政開始。
彼はハプスブルク家との婚約を破棄して、逆にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の婚約者であったブルターニュ公の娘アンヌと結婚してしまった。 このことは当然マクシミリアン帝を怒らせ、イギリス、スペインがドイツ側に加担する戦争となったが、サンリス条約(1493)によって和睦。 そこまでにしてシャルルがブルターニュとの結婚を強く望んだ意図は、有力な地方勢力を持ったブルターニュ家の継承権を得ることと同時に、フランス王位の継承権まで持っている公女アンヌが、ハプスブルク家と結びつくことを防ぐことであった。

イタリア戦争(1494〜)
かつてからフランスが狙っていたイタリアの地にターゲットを定めたシャルルは、父ルイ11世がアンジュー家から不確定ながらナポリ王家にある一定の権利を得ていたのを利用して、1494年ナポリ国王の死に乗じてイタリアに遠征し、ほとんど無抵抗のうちにナポリに入城。 しかし彼はナポリの貴族たちを無視して、自分の部下を勝手にナポリの要職に任命してしまったりしたためにナポリ市民の不満を買った。 
このイタリアでのシャルルの情勢に対し、同じくイタリアに対して野心を持つハプスブルグ家が、ドイツ&スペインの軍隊をイタリアに入れ、ローマ法王、ヴェネツィア共和国軍と共同してシャルル8世に戦いを挑んできた。 1495年7月、シャルル率いるフランス軍はフォルノヴォの戦いにおいて優勢な敵を破ったが、自軍の損害も大きく、退路を遮断されることを怖れて本国へ引き揚げ、ナポリはスペインの手に落ちた。 
そののちもシャルルは再度のイタリア侵攻を企てていたが、奇禍にあって没した。
彼のイタリア遠征にはなんらの政治的収穫はなかったが、それ以降16世紀半ばまでつづくイタリア戦争の端緒をつくることとなった。 またこの遠征は、文化的には当時絶頂にあったイタリア・ルネッサンスの文物をフランスに移入するきっかけとなり、フランス・ルネッサンスの発展に大きく寄与した。


リヴェロット・ウフレドゥチ・ダ・ェルモ  (〜1502)

フェルモの町の簒奪者。 チェーザレ・ボルジアに殺される。
マキャベッリ『君主論』の、「悪辣な行為によって君主の地位をつかんだ人々」という章で取り上げられている。
”フェルモ”は、イタリア半島中部マルケ州の州都アンコーナ南方40qにある小都市。 
幼少で父を亡くし、フェルモの名士である叔父ジョヴァンニ・フォリアーニに引き取られて養育されたが、青年になるとすぐに身を立てるために傭兵君主ヴィテッリ家のパウロの兵士となった。 パウロが死に、その弟のヴィテロッツォが軍団を率いるようになるころには、オリヴェロットはその知略と頑健な体力が認められ、軍団を代表する戦士と見なされるようになっていた。
まもなく、故郷のフェルモの攻略を思い立ったオリヴェロットは、自分の養父である叔父に手紙を送り、「傭兵として名を挙げた自分が故郷に錦を飾るために部下100騎を率いて帰郷するから、歓迎してくれ」と申し入れた。 帰郷し、叔父の邸宅で数日を過ごしたあと、彼は盛大な宴を開いて、町の主だった人々をすべて招待した。 宴のなかばあたりで料理や余興が一段落した頃、オリヴェロットはおもむろに当時のイタリアで最大の関心となっていた教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレの脅威を話題に持ち出した。 参会者の全てが恐るべきチェーザレ・ボルジアについてそれぞれ議論しだそうとしたとき、オリヴェロットは、このような重要で内密の議論は、宴の広間でなく自分の自室でしようと提案した。 そして参会者である政治に関心のあるフォルリ市民がみな密室に入った途端、この恐るべき傭兵隊長は虐殺を開始し、自分の叔父ともども彼らを全て殺してしまった。 こうして彼はフォルリの町を手に入れた(1501年12月) 彼はすぐさま領地を恐怖の力で平定し、まもなく近隣から最も畏れられる存在となった。
しかし翌年、ヴィテッリやオルシーニの傭兵たちがシニガッリアでチェーザレ・ボルジアと戦って敗れたとき、オリヴェロットもチェーザレの策略にはまって囚われてしまった。 かれはかつての主人であり策謀の師であったヴィテロッツォ・ヴィテッリと共に、絞殺された。

マキャベッリは、オリヴェロットの政権が長続きしなかった理由を、「残酷さがへたに使われたか、立派に使われたかの違いから生じ」た、と述べている。 君主たるものは残酷行為も時と場合に応じて行わねばならず、オリヴェロットの場合のように最初は残虐行為が控えめだったのに、時が経つにつれて行為がエスカレートしてますます激しくなるようでは、国の維持は難しいものになるだろう、という。 「ある国を奪い取るとき、征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気呵成におこない、日々それを蒸し返さないことだ」


カテリーナ・スフォルツァ(1460〜1509) 
 
 
 ェーザレ・ルジア (1475〜1507)

ヴァレンティーノ公。  悪名高いローマ法王・アレクサンドル6世の庶子。
マキャベリが『君主論』の中で、目的のためには手段を選ばない理想的な君主として激賛した人物だが、悲願のイタリア統一は果たせず、不慮の出来事が重なり、劇的な最期を遂げた。
1493年(17歳)、枢機卿となる。
1499年(23歳)、シャルロット・ダブレ(ナヴァル王の妹)と結婚。
1501年(25歳)、ロマーニャ公に。
1502年(26歳)、フィレンツェ攻撃の中断。マキャベッリと知り合う。
1503年(27歳)、父アレッサンドロの急死。チェーザレ捕らわれてスペインへ。
1507年(31歳)、スペインで戦死。

マキャベッリ『君主論』

「さて、前述の2つの方法、力量によって君主になるか、それとも運によって君主になるかをめぐって、最近の私たちの記憶に生々しい、二つの実例を引用しておきたい。 フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアの両人である。
フランチェスコのほうは、適切な手段と、彼自身のみごとな力量によって一私人からミラノ公になった。したがって、彼は手に入れるには幾多の苦難を乗り越えたが、維持するうえで取り立てて苦労をしなかった。 いっぽう、世間でヴァレンティーノ公と呼ばれるチェーザレ・ボルジアは、父親の運に恵まれて国を獲得し、またその運に見放されて国を失った。 ただし、ボルジアは、思慮があり手腕のある男としてとるべき策をことごとく使ってみずから力の限りを尽くした。 (中略) ここでヴァレンティーノ公の取った態度をつぶさに考えれば、彼が将来の権勢を築く立派な土台づくりをしたことがよく理解できよう。 新君主にとって、この人物の行動にまさる指針は考えられないと、わたしは思うので、ここで彼の歩みを論じるのも無駄では無かろう。 たまたま彼の布石が成功しなかったとしても、されは彼のせいではなかった。 つまりは、常識はずれの、ひどい運の悪さから生まれたことだった」 (第7章)

「だから、ユリウス2世が選出されたその日のこと、彼はわたしにこう語ったことがある。「父が死ねばなにが起きるかを、あらかじめ考えていた。対策もすべて立てておいた。 ただその父が死ぬときに、自分が死にかけていようなど、夢にも考えなかった」、と」 (第7章)

「敵から身を守ること、味方をつかむこと、力、あるいは謀りごとで勝利をおさめること、民衆から愛されるとともに恐れられること、兵士に命令を守らせて、かつ畏敬されること、君主に向かって危害に及ぶ、あるいはその可能性にある輩を抹殺すること、旧制度を改革して新しい制度を作ること、厳格であると同時に丁重で寛大で闊達であること、忠実でない軍隊を廃止し、新軍隊を創設すること、国王や君侯たちと親交を結び、あなたを好意的に支援してくれるか、たとえあなたに危害を加えようにも二の足を踏むようにしておくこと、以上すべてのことがらこそ、新君主国にあって必要不可欠なものと信じるならば、人は、彼の行動ぐらい生々しい好例を見いだせないだろう」 (第7章)

参考本
◎『チェーザレ・ボルジア、あるいは優雅なる冷酷』、塩野七生(新潮文庫)
◎『君主論』、ニコロ・マキャベッリ(中公文庫)
◎『ボルジア家 〜悪徳と謀略の一族〜、マリオン・ジョンソン(中公文庫)
◎『イタリア史(II、III)』、グイッチャルディーニ(太陽出版・2001、2002)
教皇ユリウス2世、本名;ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ)   (1443〜1513 在位1503‐13年。
外交および学芸保護で名を成した教皇。 イタリアのサボナ東郊のアルビッソラに生まれ,伯父の教皇シクストゥス4世から多くの司教領を与えられ,1471年枢機縁に昇進。 教皇インノケンティウス8世(在位1484‐92)の即位と政策に大きな影響を及ぼしたが,次のアレクサンデル6世の在位中(1492‐1503)はフランスに亡命。 1503年教皇に選ばれた。 巧みな外交でフランスと結んだり,反仏諸勢力を糾合したりしつつ,教皇権力を大いに強化し,その保護を受けて活躍したルネサンス盛期の巨匠ブラマンテ,ラファエロ,ミケランジェロらから期待された。しかし宗教者であるよりも世俗的国王であったため,教皇庁の世俗化を押し広め,教会刷新を意図した第5ラテラノ公会議(1512‐17)も功を奏せず,着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設は,後年ルターの反発(九十五ヵ条提題)を誘発する一因となった。
サヴォナ近郊のアルビツォラに生まれる。 若くから聖職者となり、18歳の時に叔父のローマ法王シクストゥス4世の引き立てで早くも枢機卿となる。
1503年に宿敵であったローマ法王アレクサンデル6世の死去のおかげでローマ法王となった。
彼は、並みいるルネッサンス期の教皇の内でも第一級の人物で、とくにその業績として外交におけるものと芸術保護が挙げられる。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 (1759〜1824 位;1802〜1821
サルデーニャ国王。ウィーン会議後「反動政治」をおこない、領内に革命が起こる。
即位した当時、サルデーニャ王国は、イタリア本土内にある領土をナポレオンによって奪われ、サルデーニャ島を領有するのみであった。
ナポレオンの没落後、ようやく旧領のピエモンテを恢復。 そればかりでなく、「ウィーン会議」の結果ジェノヴァまでも併有することになった。
ところが、首都トリノに復帰した彼は、極度な「反動政治」を行って、領民の大きな反感を買ってしまう。
そして、1821年3月に、「軍隊革命」が勃発。
革命派の勢力は、国王に対して憲法の発布、ロンバルディアへの進軍に際して国王が陣頭に立つこと、オーストリアの手からイタリアを解放することを誓うこと、などを要求され、温厚な性格の彼は、ウィーン会議で成立したオーストリアをはじめとする列強の保守政策とのあいだで板挟みになってしまった。
とうとう国王は王位をモデナにいた弟のカルロ・フェリチェ(1765〜1831)に譲ることを決め、こまごまとしたことを従弟のカルロ・アルベルト(1798〜1849)に委任して、ニースへ退いた。
マッツィーニ、   (1805〜1872)
「青年イタリア党」の指導者。 カヴールにくらべて理想主義者。
北イタリアのジェノヴァに生まれる。
青年時代、イタリアの自由と統一を目指す秘密結社、カルボナリ(炭焼き)党に加わったが、その運動は失敗し、彼も投獄された。
その後追放されてパリに赴き、その後スイス、ロンドンなどで亡命生活を送った。 フランスの七月革命ののち、その経験をもとに青年イタリア党を結成したが、これは以前のカルボナリ党が少数の陰謀団体的なものであったことを改めて、より大衆的な人民の結合組織を目指すものであった。 これは依然共和主義的な革命団体であったが、この組織はイタリアの青年の間に大いに広まり、しばしば革命を意図する行動まで行うものだったが、その都度失敗した。
このため、青年イタリア党の中にも、より穏和な手段によって目的を達成しようと考える派閥も出現し、マッツィーニの影響力も、やや衰えた。 しかし「1848年の革命」の勃発は、求心的なリーダーとしてのマッツォーニを必要とし、イタリアに帰った彼はイタリアの青年たちから各地で熱烈な歓迎を受けた。 11月、ローマで背年イタリア党が政権を握ってイタリア共和国を成立させると、マッツィーニはその指導者的位置に就いた。 しかしこの共和国は、翌年の6月ローマ教皇の以来により出兵したフランス軍のために打倒され、マッツィーニは再び外国に亡命した。 
彼はフランス革命の「自由」「平等」という標語にさらに「ウマニタ(ヒューマニティ)という言葉を加え、終生熱烈な革命家であるとともに人間の国家への義務を強調し、神を信仰する精神家であった。 しかしイタリア統一事業は彼の理想主義的な共和主義によっては達成されず、より現実主義的なカヴールによって達成されたのである。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世  (1820〜1878 位;1849〜
初めて「イタリア統一」を成し遂げたサルディーニャ国王。
サルデーニャ国王カルロ・アルベルトの子。
1849年3月のオーストリアと戦ったノヴァラの戦いでの敗戦の直後、陣中で父王が退位した。
そのあとを継いだヴィットーリオは、即位すると同時に、敗戦後の事態収集という難局に直面することとなる。 オーストリアは寛大な講和条件と引き替えに、憲法の破棄とイタリアの民族運動からの王家の絶縁を迫る。 しかしヨーロッパ全土で保守的な勢力がふたたび力を盛り返し、反動的な体制が世界を覆いつつあった当時の情勢の中で、若王は父が国民に与えた憲法と、イタリア民族の解放を象徴する三色旗の国旗を敢然と守ることを強く宣言。 このことにより、のちに彼は国民から「誠実王」 Regalantuomo という称号で呼ばれることとなる。
(しかしながらこの時点では、そういう言葉を吐きつつ国王が最終的にオーストリアと講和を結べたということは、やがて国王が憲法を破棄するという密約をオーストリアとしたからであろう、という懐疑的な眼でもって国民に見られた)
国王は、そういう国民の猜疑を晴らすために、自由主義的愛国者として知られるダツェリオ伯(1820〜1866)を首相に任命。 また有名な「モンカリエリの宣言」で、憲法ならびに国民の希望に国王は常に誠実であろう、と国民に訴えるのだった。
そしてまもなく、農商大臣として内閣にカヴールが迎えられる。 カヴールにより次々と近代的な改革が強力に成し遂げられていったので、時がたつとともに共和主義のものさえイタリア復興の望みに期待を持つほどになった。 イタリア各地の自由主義者、民族主義者たちがこぞってサルディニアに集まり、国王の王政下でイタリア解放運動が急速に進展。
1852年11月に国王はカヴールを首相に任命。カヴールのもとに国力はますます充実していくことになった。
国王自身は武人肌の単純な性格で、カトリックに対する信仰心が強く、ときには教会による俗権の弾圧のように身近な者たちによる反動的な進言にもこころを動かされることがたびたびあったが、カヴールの施策をよく受け入れ、彼を重用して自由に彼の思うがままにさせた。
民族的期待を強く受けながらやがて逆の道をたどることになった教皇ピオ9世に代表される当時の他のイタリア諸君主とくらべ、彼の態度はまったく対照的で、国民的大目的のまえにローマ教会や旧教諸君主などの反感や圧力に良く耐え、王家発祥の地サヴォイアのフランスへの割譲など、王個人としては苦痛な諸条件も甘受したことは、クリミア戦争へカブールが英仏側に加わって参戦することを決定したことに対するイタリア国民の積極的支持ともあいまって、1861年春にイタリアの中南部併合にともなってトリノで開催された「第一回イタリア国会」で、国民の熱狂的支持のもとにヴィットーリオ・エマヌエーレが「初代イタリア王」の称号を得ることになった。
王はさらにヴェネツィアとローマを併合したのち、1871年7月に、ローマのクィリナレ宮殿を王宮とさだめる。 ここに、ダンテ以来数百年のイタリア国民の悲願だった「イタリアの統一」を完成した。
しかし、新しい統一王国の基礎がまだ定まらぬ1878年の1月に国王は急逝し、国民は挙げてその死を篤く悼んだ。
その墓標には、「祖国の父」 Padre della Patria との献辞の文字が刻まれている。
 

Home