ムサイリマ (7世紀前半)
預言者ムハンマドの死後数多くあらわれた、偽預言者のひとり。
預言者の死後、預言者の生存中はその勢力に従っていたもののこのままずっと貢納金(ザカート)の支払いをつづける
つもりは無かったアラビア半島の諸勢力たちは、預言者の後継者であるメディナ政権に対抗して、替わりの預言者たち
を擁立した。 この時期に誕生した偽預言者たちの名は、以下の通り。
アル・ヤマン(イェメン)のアル・アスワド、 トライハ(ナジドのアザド族など)、
女預言者サジャーフ(アル・バフラインのタミー族)
そのなかでもムサイリマは、中央アラビアのアル・ヤマーマのパニーファ族を率いてもっとも頑強に抵抗した人物であ
る。 かれは同じ偽預言者であるサジャーフと結婚し、勢力拡大に努め、一時はイスラム軍を大敗させたが、イスラム
の初代カリフのアブー・バクル配下の猛将ハーリドによって鎮圧された。
”ムサイリマ”とは、「ムスリム」の縮小形で、イスラム帝国的にさげすんで呼ぶ名。
タバリーによれば、ムサイリマの教義にはキリスト教の影響が見られるという。
ハッジャージ、イブン・ユースフ・アル・サークァフィ (664〜714)
ウマイヤ朝第5代目カリフ、アブドゥル・マリクに仕えた武将。アラビア総督。シリア総督。政治の道にも長ける。ヒジャーズ(アラビア半島の西岸、メッカ&メディナの付近)の都市ターイフの出身で、最初私塾の教師をしていた。
やがてウマイヤ朝に仕えるようになり、692年に、ウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを自称していたアブドゥッラ・ビン・ズバイル(初代正統カリフ;アブー・バクルの孫)を討伐して、アラビア総督に任じられ、その後2年間でヒジャーズを平定した。
694年にイラクの総督。 当時のイラクは、ウマイヤ朝に頑強に抵抗し続けるアリー派やハーリジ派の根拠地であったため、総督として赴任したハッジャージは断固とした弾圧政策で抵抗勢力に臨むことに徹し、12万人の人々を虐殺したといわれる。 このことが、のちにシーア派学者を含むアッバース時代の史家たちによって、ハッジャージが貪欲、不敬で血に飢えた暴君として描かれるもとになった。
彼自身はバスラとクーファの間にあるワーシトに居城をおき、そこにシリア人から成る兵団を駐屯させ、この兵力を使ってイランからイラクに広がる広大な地域にウマイヤ朝の勢力圏を確立した。 そればかりでなく、オマーンを征服し、また貢税を怠ったアフガニスタンをみずから討伐した。 さらに配下のホラサン知事であるクタイバ・ビン・ムスリムに中央アジアを、おなじくムハンマド・ビン・カーシムにペルティスタンからシンド、パンジャブ地方に侵入させ、これらの地域がのちにイスラム化する基礎を作った。政治上のハッジャージの功績とされているものは、以下の通りである。@ 新通貨(デュルハム銀貨)の鋳造。
A 税を逃れるために都市に集まった改宗者(マウラー)を農村に返す。
B ムスリムに改宗して納税を逃れる元・異教徒たちに以前と同じ税を課す。
C サワード地方に灌漑をおこない、新しい肥沃な農耕地帯を確保する。
D もともと母音字の無いアラビア文字に付ける母音符号を考案。
クタイバ・ビン・ムスリム・アル・バヒーリー (屈底波) (?〜715)
ウマイヤ朝の武将で、ハッジャージによりホラーサーン総督に任じられた。中央アジアの征服をおこない、彼の征服によって、中央アジアにイスラム教が広まった。ムハンマド・イブヌル・カーシム (?〜715)イスラムの勢力は667年(イスラム暦47年)以来、すでにオクサス河を超えて中央アジアの大地へ徐々に侵入し始めていたが、この地へのさらなる地盤の確保を求めて、705年(イスラム暦86年)にシリアの総督ハッジャージによりクタイバがホラーサーンの知事に任命されると、彼の指導により占領地の拡大、被征服民の軍隊への編入、土着諸侯の懐柔、植民政策、などの政策が次々と成され、この地方に初めてウマイヤ・カリフの主権と威光が浸透するようになった。
ゾロアスター教が大きな勢力を持ったこの地に、イスラム教の旗を大きく掲げることに、クタイバは成功した。彼はホラーサーン知事に就任した705年に、まずアム・ダリヤからオクサス河を渡って中央アジアのバイカンドに侵入し、ここを征服した。それからホラズム王国を相手にはなばなしい戦勝を飾り、サマルカンド、シャーシュ、ホージェンド、カシャーンなどの諸地方を奪取して、オクサス河とシルダリヤ河の河間地方をウマイヤ朝の支配に帰さしめ、都市フェルガーナまでを傘下におさめた。
最後の遠征は715年(イスラム暦96年)で、パミールの高峰を超えてカシュガルに入城し、唐朝の使節との交渉をおこなったともいわれるが、それは史実とは認められてはいない。 この歳、ダマスカスのカリフ・ワリード1世が死去し、クタイバの上司であるハッジャージも窮死すると、中央アジアのクタイバの軍にも混乱が生じ、急ぎクタイバは新カリフ・スライマーンに叛乱する動きを示したが、新カリフに忠誠を誓う部下にフェルガナであっけなく殺された。
ウマイヤ朝の武将で、インド征服をおこなう。征服者・メフメット2世 (1430〜1481年)710年にハッジャージの命令で、シリア兵を含む6000の軍勢を率いて、バルティスタンを東進。
711〜712年、インダス川下流域のシンド地方を征服。 まずムハンマドはダイブールを陥落させてそこにモスクを建造、さらにニールーン(現在のハイデラバード)からインダス川を遡ってパンジャブに侵入、都市ムルターンを獲得。 そこで多数の仏教僧、巡礼者などを捕虜とした。 これ以降ムルターンはインドにおけるアラブ勢力の中心地となり、イスラム教の前進の拠点としてその後のインド史に大きな役割を持つようになった。
ムハンマドの主人であったハッジャージは、ムハンマドと、同じく命令を受けて中央アジア征服に従事していたクタイバ・ビン・ムスリムの両方に、「さきに早くシーン(中国)を従えた者を中国の総督とする」と約束していたという。715年にハッジャージが死亡したとき、イラク以東に強大な勢力を持つようになっていたハッジャージ勢力に脅威を感じていたときのウマイヤ朝8代目カリフ、スレイマーンは、ハッジャージ勢力を一掃することを決意する。
そのときムルターンにいたムハンマドは、まんまとカリフの策に嵌ってシリアに出向き、捕らえられて獄死した。
インドの人々はこの征服者の死を悲しみ、その善政をしたって像を建てて祀ったという。
父ムラト2世はオスマン帝国を周辺諸国の侵略から守り続けた王だったが、神秘主義者の傾向を持ち、たびたび自ら王の地位を
降り、引退してしまうという困った王だった。 かわって若いメフメットが王となったが、帝国に危機が訪れるたびに(外敵の侵入を
受けるたびに)、側近たちによって帝位からおろされ、ふたたび父ムラトが返り咲くという、奇妙な青年時代を送った。 この時代に
側近たちのいうがままに為らざるを得なかったことが、のちにメフメットが専制的な傾向を強める原因だと思われる。
政権確定後は老いた聖都コンスタイティノープル征服に強い熱意を抱き、大軍を率いてとうとう占領してしまった。この際、メフメッ
トが都市攻略のために綿密な計画を立てたこと、イタリアの発明家を招き寄せてまで新兵器・新技術開発に熱心だったこと、そし
て大艦隊の山越えという奇策でもって老帝国にとどめを刺したこと、などが彼の名を高めることとなった。
コンスタンティノープルを占領した後、ここに首都を移し、さびれまくったこの都を活性化させる政策をおこなった。 ビザンツの名
寺院アヤ・ソフィアをイスラム寺院に改造するほか、征服者のモスクを建造。 壮麗なトプカプ宮殿も建てた。 さらに病院・貧民施
設・公衆浴場・バザール・ハン(宿泊&ビジネスセンター)・キャラヴァンサライ・水道・泉などの公共施設を充実させた。
コンスタンティノープル占領以降もヨーロッパ侵略の野望はますます高まり、バルカン半島方面をじわじわと侵略していった。しかし
かれの興味は領土的野心だけではなく、イタリアから有名な画家を呼び寄せて自分の肖像画を描かせるなどして、ヨーロッパでも
芸術に造詣の深い君主として知られるなど、ただものではないと感じさせる。 王自身もイタリア語が堪能だったそうだ。 しかし、
そのイタリアに対しても侵略の軍をおこし、イタリア半島南部を占領するなどしている。 このときは何故か引き上げているが、この
ままヨーロッパに侵攻していたら、どうなっていただろう。
彼の最期も、どこかへ侵略する大軍を編成して、首都から対岸へ渡ったところで、ポックリいってしまうなど、彼らしい。いったい、ど
こへ行くつもりだったのだろうか。 一説にはイタリアだったというが、ヴェネツィア商人に暗殺されたという説もある。 49歳。 織田
信長と同じだ。
ナーディル・シャー(ナーディル・クリー)(?〜1747 位;1736〜1747)
アフシャール朝イランの創始者。
長い間イランを支配していたサファヴィー朝が滅びると、トルコ系のアフシャール族の首領だったナーディル・クリーは、サファ
ヴィーの回復を呼称して立ち上がり、アフガン族を打ち破った。
ムハンマド=アリー、Muhammad
Ali (1769〜1849/80歳)
エジプトの太守。
マケドニアの小さな港町(カヴァラ、現ギリシャ領)生まれ。 幼くして孤児となる。
フランス革命&ナポレオンの登場に際し、トルコ政府がカヴァラの町で300名のアルバニア人兵士を募集したときに応募。 すぐ
さまその小部隊の副官に任じられた。
エジプトに侵入してきたナポレオン率いるフランス軍を打ち破ると、ムハンマド=アリーは次第に勢力を拡大してエジプトの実権を
握って1805年頃には事実上の支配者となり、1806年にオスマン=トルコ政府から太守(パシャ)の称号を与えられた。
彼はエジプトを近代化するために、マムルーク諸侯の勢力を一掃すると同時に、近代的な陸海軍の創設、マニュファクチュア、
工場・造船所の建設、灌漑貯水池や道路の新設、綿花栽培の奨励、ヨーロッパ式の学校の創設、軍事技術研究のための留学
生の派遣、という意欲的な政策を推進した。
ムハンマド・アフマッド (アフマド・イブン・サイイド・アブダラー) (1848〜1885)
大英帝国に反抗した、スーダンのイスラム教徒指導者。
ナイル川中流域の、ドンゴラ(スーダン)の生まれ。
この当時大英帝国がエジプトのケディーウ(藩王)に取り入ってその勢力を伸ばしはじめていて、エジプトは英国の影響の
もとに近代化を強行しつつあり、その勢力は次第にスーダンにも及んできていた。 スーダンにはエジプト藩王が任命し
た英国人の総督が駐在していたが、中国で太平天国の乱鎮圧に功のあった高名な将軍、ゴードンがその任にあった。
その当時はスーダンでは深刻な飢饉と重税に民衆は苦しみ、またイギリス&エジプトから官吏たちに支払われる給料が滞
っていたために、下級官僚の腐敗がいちじるしかった。 しかし戦時は有能な将軍であるゴードンも政治の面では無能で、
施策らしい施策をせず、さらに19世紀後半のイギリス国内での急速な奴隷制廃止の動きは、アフリカ大陸にいた上級官
吏にも大きな不満を与えるようになっていて、北アフリカでのイギリスの支配は、ゴードンのもとで揺らぎを見せ始めていた。
このスーダン国内の情勢に好機を察知したアフマドは、1881年にマフディーを自称して、「トルコ人、エジプト人、イギリ
ス人を追放する」ジハード(聖戦)を宣言した。
彼はまずデルヴィーシ(修行僧)たちを糾合してアッバ島に立てこもり、奴隷売買業者のオスマン・ディグナと交流を持って
彼から支援を受けた。 83年にイギリス将校ヒックスの率いるエジプト軍を破り、コルドファンの首都エル・オベイドを占領。
それ以降、地の利を民衆の支持を武器に、イギリス・エジプト軍を翻弄し、各地を攻略しまくる。 1884年、ハルトゥームでゴ
ードンを破り、そして1898年にキッチナー将軍にオムドゥルマンを陥落させられるまでの約15年のあいだ、ワジ・ハルー
ファ以南のスーダンは、アフマッドの支配の元にあった。
彼はマフディーとして、イスラム教の教義にいくつかの変更を加えた。 そのもっとも最たる物はハディース(預言者ムハンマド
の言行録)を否定して代わりに自分のスンナ(言葉)を記したマジュリスと置き換えたことである。 彼の教えには、スーフィ
ズムの隠遁的傾向、原始イスラム教への憧れ、シーアの貧富平等論などが混入していた。 ワッハーブからも、聖者崇拝、呪
術、酒、煙草、音楽の禁の思想に大きく影響を受けていた。 彼の説く「末法思想」はマフディーによる世界征服という面から
説くものであり、自分がマフディーとして、スーダン平定の後、エジプト、メッカ、シリア、コンスタンティノープルなどを征服する
ことを計画していた。
ケマル=アタテュルク、ムスタファ・ケマル・パシャ (1881〜1938)
トルコの「国父」。 ”アタテュルク”とは「トルコの尊父」の意。
第一次大戦の敗北で瀕死の危機にあったトルコを救うために「国民党」を結集し、ギリシャ軍を
撃退した。 セーヴル条約を廃してローザンヌ条約を締結し、さらにスルタン制を廃止して共和
制を樹立するなど、数々の近代化を実施。 政権掌握後は、独裁的傾向を強めたものの、国民
から絶対的信頼を受けた。