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18〜19世紀欧州。
 
 

エドワード・モンタギュー、サンドウィッチ伯  (1625〜1772)
    英国海軍提督。 クロムウェル片腕。 サンドイッチの名付け曾祖父(^^;

      国務会議員だった彼はクロムウェルから信頼を受け、彼の片腕と見なされながら、フランスに亡命している皇太子チャール
      ズと連絡を取り、ひそかに着々と国王の帰還の下準備を進めていく。
      1660年5月に王政復古がなり、チャールズ2世が王位に返り咲くと、モンタギューはサンドイッチ伯爵の称号と4000ポンドの
      年金を得るようになった。 
      1662年に始まった第2次英蘭戦争に参加し、ロウェストフトの海戦で殊勲をあげ、戦後英国の駐スペイン大使となった。
      1672年第3次英蘭戦争で、戦死。
      「サンドイッチの名付け親」として知られている横着者のサンドウィッチ伯爵は、彼の曾孫である。
 

リンツ・イゲン  (1663〜1736/73歳

Eugen, Franz.  Prinz von Savoyen
    オーストリアの名将。

     サヴォイ・カリニヤノ公オイゲン・モーリッツの第五子として、パリに生まれる。 母は宰相マザランの姪であったが、ルイ14世の宮廷の
     中では軽んぜられ、また青年となったオイゲンがルイ14世の軍隊に加入する願いを何度も提出したに関わらず、国王がそれを拒ん
     だため、ついに20歳のオイゲンはフランスを棄ててウィーンへ行き、ブルボン家の最大のライバルであるオーストリア・ハプスブルク家
     の皇帝レオポルト1世に仕えることになった。
    
     彼はまず、破竹の勢いでウィーンに向けて進軍していたトルコ軍との戦いに加わり、その年の9月のウィーン城外の戦いでロートリン
     ゲン公カールの指揮下に入って武勲をあげ、その功によってたちまち竜騎兵連隊の長に任命された。 さらに退却するトルコ軍を追
     って1686年にブダ、88年にベルグラードの攻略に向かい、ここで重傷を負ってウィーンに帰った。
     翌年、ルイ14世の圧力イタリア方面で高まると、レオポルト1世はオイゲン公をイタリアに派遣。 オイゲンはサヴォイ公との連携を
     計ること、そしてさらにイタリア、スペインの軍事的協力を得ることでルイ太陽王の圧迫をはねのけようとした。 とくにこのオイゲンの巧
     みな外交手腕は太陽王の勢力をイタリアから駆逐することに成功し、逆に1692年にはオイゲン公は南フランスにまで兵を進めた。 
     しかし直後、サヴォイ公が裏切ってこれ以上のフランス進撃が不可能になったため、ウィーンに引き上げざるをえなくなった。
     次に彼は再びハンガリー軍を率いてトルコ軍との戦いを始め、1997年の9月にタイス河畔ツェンタを急襲してトルコ軍を大々的にうち
     破り、ハンガリーからトルコの影を完全に打ち払うことに成功した。 1699年、オーストリアとトルコとの間にカルロヴィッツの和約が成
     り、これによってオーストリアは東欧・中欧に確固たる基盤を築くことになった。 
     さらに1701年にスペイン継承戦争が起こると、オーストリアは、イギリスオランダと同盟して、フランススペインバイエルン
     対決する。  オイゲン公はティロルから精兵を率いて出立し、アルプスを越えてイタリアに入って活躍し、また1704年には、英国の
     名将マールバラ公ジョン・チャーチルと共にバイエルンを攻め、このときにドイツに侵入してきたフランス軍を、ヘッヒシュテットの戦
     いで破った。 そしてそのままイタリアに転戦して、1706年にトリノで勝利を得るなど、華々しい活躍で大いに名をあげた。
     このときの功績によって、彼はミラノ総督となったが、フランドル地方で続く戦争はさらにオイゲンを必要とし、彼はマールバラ公と共
     にオランダの地からフランス軍を追って、1708年にハーグに入城した。
     しかし1711年にイギリスのアン女王は突然政策を変え、オイゲン公自身がロンドンまで行って嘆願したに関わらず、マールバラ公が
     更迭され、イギリスは戦争から脱落、次いでランドレシーの戦いで大きな打撃を受けたオランダも、1713年にユトレヒトの和約を結んで
     戦争を放棄してしまったため、孤立したオーストリアも翌年のラシュタットの和約で、フランスと講和しなければならなくなった。
     この和約のためにオイゲン公自身が全権として会議に出席し、そのまま彼がオーストリア領ネーデルラントの総督となったが、再び
     オーストリアとトルコとの戦いが始まると、東欧に舞い戻って野戦に駆けることとなった。 1716年のペテルヴァルダインの戦いの勝利
     ではローマ法王から剣を与えられ、17年8月にはわずか4万の軍隊で、3万の守備兵が守り20万のトルコの援軍が押し寄せるヘルグ
     ラードを見事攻略し、全ヨーロッパにその名を轟かせた。
     この勝利の結果、ふたたびオーストリアとトルコの間に1718年6月、パッサロヴィッツ条約が結ばれ、カール6世が支配するハプスブル
     ク帝国は、その絶頂を誇ることとなった。
     晩年のオイゲン公は、その輝かしい武名に対して、それをねたむ多くの人々の悪口、策謀の的にもなったが、皇帝カール6世の信任
     は厚く、トルコとの戦争の後17年近くは各界の著名人と交わり、芸術および文学に入れ込んで、平安な生活を送った。 その最晩年、
     オイゲンは常に宮廷内で反対し続けたのに関わらず、1735年にポーランド継承戦争が始まると、老体を押してライン河畔に出征した
     が、常に平和を主張し、その年の10月に和を結ぶことに貢献した。 その翌年4月、ウィーンで生涯を閉じた。
     彼は一生を未婚のままに過ごし、ヴィーナス無きマルスとさえ言われ、その遺骸は聖シュテファン寺院に葬られている。 ハプスブルク
     の3代に渡る皇帝のもとで、軍事における飛び抜けた功績と並んで、政治、外交にも優れた手腕を示し、皇帝に対して熟慮に富んだ
     忠告役をつとめたことが、オーストリア帝国の隆盛を築き上げた、いう評価をされている。 
      

ーコーツィ=ェレンツ 2世、    位;1703〜11)
   ハプスブルク家の圧力に対抗しようとした、ハンガリ−王。 (ん? 国王にはなっていない?)

    17世紀のオーストリア・ハプスブルク帝国の勢力の拡大は、それまでバルカン半島およびドナウ川流域の東欧地域に大きな影を落とし
    ていたオスマン=トルコ帝国の圧力を、大きく払拭することとなった。 しかし、逆に今度は、それまでオスマン帝国の所有する領土で持
    ち主がわからなくなった土地がオーストリアの国庫に否応なく入れられ、それがオーストリアの貴族や官吏に与えられてしまったり、また、
    ハンガリーを統治したオーストリア軍政局の政治的無策と、皇帝軍兵士の蛮行・収奪が激しさをまし、それまでのオスマン帝国に対する
    以上に、ハンガリーの人民のハプスブルクに対する不満は大きくなっていった。

    そんななかで、1703年にトランシルヴァニアの名家の出身であったラーコーツィが指導者として推され、彼の強固な民族意識のもとで、
    ハンガリーのオーストリアに対する解放戦争が開始されることになった。
    ちょうどそのころ、オーストリアは北方戦争ならびにスペイン継承戦争に関わっていて東欧方面に大きな力を割くことができなかった。
    その意味でラーコーツィの独立運動は国際動勢に助けられた形となったが、しかし一方で同時にハンガリーも他の諸国からの援助・支
    援をいっさい受けることができず、さらに国内のハンガリー系大貴族さえもがラーコーツィの運動に加担するよりもオーストリアの動向を
    うかがい静観する姿勢をとったので、戦闘は長期化することになった。
    このような厳しい情勢の中で、ラーコーツィは、勝利ののちに自由身分を与えることを約束することによって、農民たちをまとめ上げ、さ
    らに地道な努力で中小貴族たちにも支持を拡大させていった。 こうしてハンガリー全土に勢力を広げたラーコーツィは、選挙によって
    1704年にトランシルヴァニア侯に選ばれ、さらに翌年ハンガリー国王となった(推薦された?)。
    このラーコーツィ勢の攻勢によって、ハンガリーの国会でもハンガリー皇帝としてのハプスブルクの廃位を決議するまでハンガリー内で
    の解放意識は高まっていったが、やはりそれでもハンガリー一国で強大なハプスブルクからの圧力から脱するのは無理であるという意
    識は依然としてハンガリーの有力者層の間には根強くあり、ラーコーツィが各国を飛び回ってハンガリーへの支援を取り付けるために
    奔走したに関わらず、1711年ラーコーツィがロシアへ説得に赴いていたときに、長引く戦争に疲れたハンガリー貴族軍は、勝手にサト
    マールでハプスブルク帝国と講和する和約を結んでしまった。 ここに長年にわたる解放戦争は終結を迎えることとなったが、ラーコ
    ーツィはこの条約を認めず、彼はフランスへ逃れ、さらにオスマン帝国へと亡命した。
    
    ラーコーツィの解放運動は、結果として実を結ぶことはできなかったが、 しかしこの戦争を通じてハンガリーとトランシルヴァニアの国
    民意識および国制が維持・確立されることとなり、オーストリア帝国に完全に飲み込まれることはなくなった。 のちにハンガリーはハプ
    スブルクの皇帝を君主にいただいて、いわゆる二重帝国を形成するが、信仰の自由に代表されるハンガリー貴族の諸特権は保証さ
    れ、のちのちにまでハンガリー人の強力な民族意識とウィーンの宮廷との距離感を形成するという、大きな役割は果たしたとは言える。
 
 

ウ提督(伯爵)、リチャード     (1726〜99)
   アメリカ独立戦争当時のアメリカに同情的な英国の海軍提督。  英国のために連戦連勝。
   戦争の指揮は上手だったけれど、アメリカ相手には本気で戦わなかったんだね、たぶん。 

    第2代ハウ子爵の次男として英国に生まれ、14歳のとき海軍に入った。 性格が俊敏だったので、昇進も早く、はやくも20歳で艦長
    となった。 ヨーロッパで七年戦争が始まり、イギリスがそれに参戦すると、イギリス海峡守備の任務につき、フランス沿岸で多くの戦
    功をたて、急速に名声を高めた。 1762年下院議員に選出され、また軍隊の中でも海軍本部部員、海軍出納官、海軍少将、と出
    世を重ね、1775年に中将に任ぜられた。  
    76年、アメリカ方面のイギリス海軍司令官となり、ゲージ将軍の後継者としてアメリカ駐在の英国陸軍の指揮官となっていた弟のウィ
    リアム・ハウと協力して、独立宣言が発布されたばかりのアメリカ独立戦争に対処しようとした。  しかしこの兄弟はホイッグ的な思
    想の持ち主であったため、アメリカ独立戦争にはどちらかというと同情的で、フランクリンと親しく交わり、アメリカとイギリス軍の間に
    和解をもたらそうとしたこともあった。  76年9月には大陸会議で任命された委員と折衝したが、成果は得られなかった。 逆に78
    年には合衆国とむすんだフランスの精兵からなる海軍と戦闘になったが、見事これをうち破った。  しかしこのような戦果に関わ
    らず、イギリス本国のノース首相と合わず、辞職してしまった。
    82年、このノース内閣が総辞職すると、ふたたび彼はイギリス海峡艦隊司令官に任ぜられた。  このころのイギリス海軍はパリ条
    約(イギリスの敗戦)の直前でボロボロなものだったが、この年の秋には優勢なフランス・スペインの連合艦隊を相手に大勝利をお
    さめて彼らを遁走させ、危機に瀕していたジブラルタルの領土を救った。
    82年に子爵、88年には子爵になった。この間、83〜88年にわたり、ピット内閣の中で海軍大臣を務めた。  1789年に隣国フラン
    スで大革命が勃発すると、ふたたびイギリス海峡艦隊司令官に任命され、94年、「光栄ある6月1日」として知られるアシャント島沖
    海戦で、画期的大勝利をおさめた。   彼の海戦史上における功績は、新しい組織と戦術づくりに直感がよく働いたこと、危機を
    目前にすると大胆不敵になり、部下に同情的であったことである。  1797年にはガーター騎士勲章を授けられた。

 
 
 

スマルク、オットー・エドゥアルト・レオボルト   (1815〜1898)
   ドイツ帝国の鉄血宰相。  外国に対しては「鉄と血」、自国民に対しては「飴とムチ」。

    ビスマルクといったら、あの顔から想像して、謹厳実直で頑固で曲がったことが大嫌いで、彼の放つ言葉には16トンぐらいのパワ
    ーがあって、頭の中は常にドイツ帝国のことでいっぱいで・・・・・というイメージがあると思う。(わたしだけ?)  しかし、今回調べて
    みて分かったのだが、彼にも若気の至りというか、、、 なんと若いころがあったのである。(おいおい)  むしろ、若い頃と壮年の頃
    と老練のころってキャラクターが違うような気がするんだが・・・・・ わたしだけ?

    彼はプロイセン王国のブランデンブルク州のユンカー(土地貴族)の家に生まれた。  若い頃は父から受け継いだ領地で、女遊
    びをしたり喧嘩をしたり、勝手気ままに暮らしていた。  身長は約190pで、決闘に及ぶこと28回、負けたことがなかったという。 
    32歳で地方議会の議員になると民主主義に対する攻撃とプロイセン中心主義を主張して有名になり、また三月革命の時に自分
    の領地の農民たちを武装させて、国王を守ると称してベルリンに乗り込むというパフォーマンスで、まだこのとき皇太子だったのち
    のヴィルヘルム1世の知遇を得た。  
 
 

ンドラシー、ユリウス(ギュラ)   (1823〜90)
                     Julius Andrassy ( Gyula )
   19世紀後半のオーストリア帝国の首相。 

     ハンガリーの土地貴族、いわゆる「マグナーテン」Magnaten 階級の出身。 
     19世紀中葉、ハプスブルク家に対するハンガリー民族、とくにマジャール人の反抗はしばしば繰り返されていて、1848年
     コッシュートの指導のもとにおこなわれた独立戦争に、25歳のアンドラシーも参加していた。
     しかし、この独立運動は失敗し、アンドラシーは死刑の宣告を受けたため、捕まる前にパリへ亡命した。
     異国へ逃れた息子の身を悲しんで、彼の母親の各方面へ根回ししたことが功を奏して十年後の1858年に特赦されて帰国。
     1861年、ハンガリー議会の議員に選ばれたが、このころのオーストリア帝国は領内のスラヴ系民族を支配するには、マジャ
     ール人と妥協する道を選ばねばならない、という状況に直面していた。 とくに1866年の普墺戦争以後、オーストリアはドイ
     ツの統一から閉め出されるようになって、マジャールとの提携の意義はますます重要事項となり、いわゆる「アウグスライヒ(
     妥協)」によってオーストリア=ハンガリー「二重帝国」が成立するのであるが、このハンガリーの独立内閣の初代の首相とし
     てアンドラシーが任ぜられたのであった。
     ハンガリーの貴族を代表する立場に立ったアンドラシーは、ハプスブルク・オーストリアと妥協しつつ、帝国の中で重要な位
     置を占めるに至ったが、さらに彼はドイツ帝国とも接近することを図る。
     1870〜1年の普仏戦争では、アンドラシーは中立を保つことに努め(プロシアの力を削ぐためにはフランスの側に立つ方法も考えられた)
     1871年にオーストリア=ハンガリーの共同内閣の外相となると、ビスマルクと交渉を重ね、1873年の露、普、墺の三帝同盟の
     当事者となった。 この三帝国の親密さは1877年の露土戦争をきっかけに崩壊したが、アンドラシーは1878年のベルリン会
     議においてボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得。
     しかし、急速にロシアの掲げる汎スラヴ主義が東欧・バルカン一帯に大きな影響を広げるようになったことを受けて、1879年
     には新しくビスマルクとの間にロシアに対する普墺同盟を締結した。
     このように、新しく外国に進出をする動きを見せていたドイツ帝国と連携して、二重帝国の中にもハンガリー貴族を中心とし
     てロシアに対抗すること(とくに汎ゲルマン主義を掲げること)で帝国の新たな局面を開こうとする活動が始まっていたのであるが、
     アンドラシーは普墺同盟締結の直後に、病気を理由に政界から引退した。 
 

ードン、チャールズ・ジョージ (中国名は戈登)(1833〜1885)
     両大陸の英雄(笑)。 常勝将軍。 

       ケント州ウーリッジに生まれる。 
       1852年工兵中尉、54年クリミア戦争に従事したことで、東方世界の事情に通じる機会を得る。 1860年(咸豊10)アロー
       号戦争で英仏両軍が北京を攻撃した戦いに少佐として従軍し、ついで62年(同治元)4月から天津駐屯軍司令官C.W.
       ステーヴリーに従って太平天国軍と戦い、上海の外国人居留地を防衛する。 翌年の3月、清朝政府とイギリス側の了
       承のもとにアメリカ人F.T.ワルドが創始した常勝軍の指揮官となった。
       ゴードン率いる常勝軍は、昆山に本営を置き、まず常熟(←人名?)を救出して部下の信頼をつかみ、清軍を補佐するた
       めに各地を転戦してまわり、11月には蘇州を奪回した。
       しかし、その戦いの際に清朝の高官として常勝軍を管理する役割にあった江蘇巡撫の李鴻章と仲違いをし、64年の2月
       まで活動が出来なくなる。
       その年の5月についに太平天国のもっとも重要な根拠地である常州を落としてこの反乱軍に決定的な打撃を与えたあと、
       この勝利を最後として常勝軍は解散した。
       同治帝はゴードンに提督の称号黄袍を与えてその労をねぎらった。
       1880年(光緒6)にはふたたび清朝から招聘を受けて、イリ問題のために献策をおこなった。
       1884年、アフリカのスーダンで起こったマフディー党の叛乱を鎮圧するためにハルトゥーム市に籠城したが、援軍が
       間に合わずに戦死
       ゴードンは廉潔な武人であったが、その生涯は英国支配に抵抗する者たちを弾圧する、帝国主義を象徴する一面を持つ。
       大英博物館にある「才登文書」は、ゴードンが太平天国との戦いの最中に受け取った清朝やイギリスからの文書や太平天
       国から押収した文書である。


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