Home / 58〜65

これは何の絵かというと、
このホームページのタイトルの元ネタとなった、ゲーム『白い熊と赤い月』
(現在は『ドラゴンパス』という題名)が発展した『ルーンクエスト(RQ)』
が2,3年前に『HeroWars(英雄戦争)』という題名でアメリカで作り直
されて、その英語版の表紙になった「嵐の神オーランス」なんだって。

格好いいからこのページの守護神とします。
あ、いや、わたくし自身の守護神は、「赤い月の帝国の公式聖英雄」剃刀の
ジャ=イール閣下(赤の皇帝の娘)なんですけどね。

そうそう、この絵は無断使用なので、誰にも言わないように(笑) 
ゲームの発売元、イサリーズ社はここ(英語) (イサリーズってのもオーランスの盟友なんだ)


41.正統カリフ・ウマル 42.フローラ・トリスタン 43.趙秩
44.サモリ=トゥーレ 45.ソレルチンスキイ 46.ペドロ大王
47.ロデリック王 48.サラ・ラ・ゴート 49.ルイザ・カルロタ
50.チャーチルの娘 51.ベルシャザル王 52.ヴィクトリア女王
53.ヴラディーミル聖公 54.海陵王 55.マリア・テレジア
56.無鹽君 57.シェア提督 58.フランクリンの妻

英雄リスト その41
雄カリフ;ウマル・イブン・アルハッターブ   (591?〜644  カリフ位;634〜655)
イスラム帝国の第2代目の正統カリフ
預言者ムハンマドの没後、2年で死んだその後継者アブー=バクルのあとを継いで、実質上イスラム帝国の覇権の確立者と評価されている。 彼の治世の時代にイスラム帝国はビザンツ帝国からシリアとパレスティナとエジプトを奪い、またササン帝国を滅亡させてペルシャ全域を併合した(たった10年でこれだけの土地を手に入れるとは、奇蹟としか思えない)。 また、国内制度の充実に関しても、数多くの画期的業績を残す。
本当はイスラムの猛将ハーリド・ブン・アルワリードについて書こうと思って本を読み始めたんだけど、こっちの人物の方に興味が出てきてしまった(笑) 
イスラムの歴史の本を読んでいると、この人物の業績は本当に凄まじくて、おまけに嫌味になるぐらい帝王然とした高潔な人物に書かれていて、イスラム帝国というのは本当に創立者ムハンマドだけではなくて、その協力者達の合議体制によって成立した国なんだな、と思えてくる。 預言者の没後に力を尽くした4人も本当に傑物揃いだし(まぁウスマーンの能力には疑問符も付くものの)これらの4人のうちひとりでも欠けたら、イスラム帝国はどうなっていたか、分からない。 砂漠の地アラブのような厳しい環境の中では、強烈な同じ信念(ここではイスラームという預言者ムハンマドへの帰依心をもつ人々が、同じ方向に向かっていくことが一番重要だったのだ。

ところが、その一番の功労者とされる2代目のカリフ、ウマルが曲者なの。
「ウマルは、メッカの下級貴族の出身だったが、大男で石のような拳を持ち、ひねくれ者で、力でもってメッカの町にその名を知られていた。ところが預言者ムハンマドが突然現れて、自分の仲間だった若者達が次々とムハンマドの話を聞きに行ってしまうのでムハンマドに対して悪意を抱き、ことあるごとにムハンマドに対して嫌がらせを行うようになった。ところが、メッカの有力者達がムハンマドの布教を禁止し、信者達がカーバ神殿に立ち入ることも禁じる。ウマルは、自分の友達たちが行きたいのにカーバ神殿に行けなくて悲しんでいるのを見て、ムラムラと町の大人達に腹を立て、さっさとイスラムに入信して、その剛力でもって(つまり暴れ回って?)ふたたび町の有力者たちにムスリムがカーバ神殿に礼拝することを認めさせた」
・・・・・・・ジャイアンかい

「預言者ムハンマドは、カーバ神殿にある「黒い石」唯一神アッラーが宿るといい、信者たちに黒い石に対する絶対の帰依を説いたが、ウマルはその黒い石に対して「ムハンマドがお前に接吻をするから私も同じことをするが、そうでなかったら絶対に接吻などしないだろう。私はお前がただの石であることを知っているから」と言ったという」  ・・・・・・・ミもフタもない(笑)

ムハンマドが死んだあと、教団は分裂寸前までに混乱し、信者たちはこの混乱をいったん収集するために、生前ムハンマドから最大の寵愛を得ていた天才少年アリー(のちの第4代正統カリフとなる)を後継者にしようということでまとまりかけるが、そうでなくて教団の最長老をリーダーに! と主張してアブー=バクルを押し、最終的に皆に納得させたのはウマルで、そしてアブー=バクルの死の間際に後継者に直接指名されるのはウマルであった。 さらに、自分が死ぬとき、周囲の人々に「後継者を指名してくれ」と嘆願されたのを拒否して、カリフを選定するための合議体制を作るように、と遺言したのも彼である。 彼の政策には、イスラム教徒が皆結束して全ての人々をおなじイスラム教徒にしてしまおうという考えよりも、強いイスラム教徒をそのまま強い状態で保って、周辺の地域の中で傑出した存在であり続けさせよう、という意図のものが多かった。

2000年12月31日(土)

英雄リスト その42
しい革命フローラ・トリスタン   (1803〜1844)
七月王政下のフランスで、不幸な自分の境涯に目覚めて社会主義の思想に共鳴し、労働者の団結女性の解放を叫んだ女性運動家。 彼女の声は世の知識階級からは嘲笑されたが、下層階級を中心とした多くの支持者を得て、「一八四八年の革命」の先駆となった。
著書;『あるパリアの遍歴』(1838)、『ロンドンの散策』(1840)、『労働者の団結』(1843)
ゴーギャンの祖母でもある。
ペルー出身のスペインの貴族/将校の私生児として、パリに生まれる。(母はフランス人 私生児ではあったが、父からは愛されて育ったらしい(後の彼女がペルーに旅行しているのは、亡き父を慕ってのことか)。 ところがこの父はフロラが幼いときに世を去り、以降は母の元で貧しい生活を送らざるを得なくなった。 17歳の時に生活を支えるためにパリの彫り師の女工として雇われるが、その容貌に魅せられた主人に請われ、母の薦めで承諾して18歳で結婚。 ところがこの結婚生活は、夫とのあいだに(多分)年齢差があったことと、夫が(多分)真面目なだけの男であったために、彼女にとっては不幸なものとなり、夫を「愛することも、尊敬することも」できない、という理由で、みずから家を飛び出してしまった。(離婚は当時法律で認められていなかった) これを読むだけでは、彼女の人生は(確かにやや不幸ではあるものの)当時の人間としてはありがちな、普通のものであったと思う。 仮にも下級の貴族の娘であるし、幼い頃に死に別れたと言っても庶子でありながら父と一緒に暮らし、貧しいながらも母に養育され、そしてきちんとした男性に求められて自分で決断して結婚した。 しかし、夫と別居するようになってからの彼女は、イギリスや父の故郷であるペルーを旅行して見聞を深め、またサン・シモンやフーリエ、オーウェンの著作を読んで彼らの社会主義思想に親しむ一方で、彼女は「自分は社会ののけ者(パリア)である」という考えを強くしていくのである。 彼女は、自分が不幸なのは自分が女であるから、女であることはこの国では不幸であるのだ、と強く思い、不幸に苦しむ人々がより良い生活を送ることの出来る社会の実現を強く訴えることを、自分の使命にしていくのである。 この最初の著作『あるパリアの遍歴』が発表された直後、この内容に驚き、またその評判と彼女の才能に嫉妬とコンプレックスを抱いた彼女の夫は彼女を追いかけ、ピストルを彼女の背に向かって発砲するのである。夫は禁固刑になり、彼女は完全に自由になった。 ところで、「労働者の団結の重要」「女性の地位向上」を彼女は同一視しているような感じがするんですが、これってどうなのかな?(1848年の革命から見てという意味で) 彼女は「美しき先駆者」と呼ばれるが、先駆者ってなんなんかな。

パリの主婦たちの「ヴェルサイユ行進」以降、フランスでは女性のために戦う女性革命家たちが数多く出現した。 大革命中もオランプ・ド・グージュやテロアーニュ・ド・メリクールといった華麗で知られる女性たち、あるいはサロンを運営して影の部分から政治に影響力を及ぼした女性たちがいた。 フローラと同時代にも、サン・シモン主義に影響を受けた勢力の中にはカルト集団的に神秘的な女性性を追求しよう、としていく集団もあった(アンファンタンの結社)。 こういった一連の女性とくらべてフロラがあまりにも地味に見えるのは、「女性であるからこその不幸からの脱却」を彼女が強く求めていながら、それを表にばばーんと打ち出さず、彼女の「女性解放」の主張は「労働者の団結」と並列に置かれているからだと思う。言い換えると他の女性闘士のように「目立つように華やかに」やっていない。 もちろん彼女は美人だと言われていて、それが彼女に注目を与えたということは否定できないけど。 彼女の言うことは、下層の人々の最大の不幸の原因が、労働者たちが各自で「分裂」「孤立」した状態で置かれたままであること。 彼らを救う最大の方法は「労働者の団結」で、労働者たちが強い自覚を持って職種、性別に関係なく同等にやりあう普遍的な組合を作ることが重要である、と説いた。つまりこの中では、彼女が「女性が解放されなければならない」と言う理由は、「男」「女」というささいな理由だけでその活動に差異を生じさせることは、労働者を分断させるだけで労働者の団結にとって不利になるから、と言っているだけのような気がするのだ。

彼女の死の直後に起こった「一八四八年の革命」(パリの二月革命)は「資本家抜きで、資本階級に対して行われた」(トクヴィル)労働者が主役となった革命であったとされるが、一方で、この革命中、女性たちが結集して女性の権利を主張した数多くの女性クラブは、嘲笑を受けるばかりでまったく相手にされなかったという。
結局、良く知られているようにヨーロッパでも女性の権利というのは、第二次大戦が終了するまで実現しないのだ。

彼女自身は、注目を受けてもなお最後まで「世間のはみ出し者」意識は消えず、「世間の人々はほとんどが皆私に反対しています。男たちは、私が女性解放を要求するから、という理由で。資産家たちは、私が労働者の解放を主張する、という理由で」と書いていたという。 彼女自身はやっぱり女性たちの代弁者のつもりでいたのか。 しかし、彼女が諸地域を巡っての運動中に、ボルドーで力尽きて死んだとき、葬儀には多くの労働者が出席し、彼女の棺は、指物師、仕立屋、鋳掛屋、錠前屋の4人の男によって、運ばれた。

くすくす、時間がたっぷりあっても書き込み足りないね。
今日は、「文章を適度な分量で、且つ完結させる」ということを念頭に置いて書いたので、結果はこんな感じだけど、実はこれを書くのに本を一冊しか参照していないのだ。 実際、彼女の著作をまったく読んだことがないのに「彼女の考えはコウだったっ」と断定することは、結構勇気が要るけど快感でもありますね。 これまでは、こういう場合は本を数冊読んで裏付けを取ることにしていたのだけれど。    
2001年1月2日(火)

英雄リスト その43
趙秩 ちょうちつ  (14世紀)
明の洪武帝期の外交官。 倭寇の侵略を食い止めさせるために、日本へ来る。
1369年(洪武2年)の3月に、前年に即位し大明帝国を創始したばかり洪武帝が日本の九州にいた征西将軍・懐良親王に対し、「新王朝の樹立の宣言」「朝貢の要請」「倭寇の禁圧の要請」の書簡を持った使節を派遣した。 ところがその国書の内容があまりにも高圧だったために、懐良親王は黙殺。 東方の蛮国の礼を失した行為に、英雄王・洪武帝は怒り狂う。

この懐良親王(かねながしんのう)とは、南北朝の動乱の張本人である後醍醐天皇の十人目ぐらいの皇子。 後醍醐天皇という人物は、日本の天皇史の中では傑出した存在であるが、古くさい理想主義を振りかざすばかりの、まるで、漢の王蒙のような人物のような気がして、なんだか私にとって好きではない歴史人物のひとりだ。(いや、実は王蒙はけっこう好きなんだけど・・・・・(笑)) ただ、彼の野望を実現する手段として、優れた能力を持つ皇子たちを次々と生みだし、彼らに理想世界の成立の夢を担わせたことは、すごい評価しても良いと思う(笑) 一説によると、18人の皇子がいたという(早世したのも数人いるが)。 このうち、九州方面で目覚ましい活躍を見せた懐良親王は、後醍醐の手足として働いた皇子たちの中ではもっとも年が若く、なんでも8歳の時に比叡山にいた後醍醐から「九州に行ってオレのために働け」という命令を受けて九州へ向かったんだそうで、なんだか涙無しには語れない苦難に満ちた生涯を送ったんだろうなあ、と察せられる。 洪武帝が使者を送った1369年には彼は40歳で、猛将・菊池武光を率いて北朝側から太宰府を奪取してから8年、次々と繰り出される太宰府攻めの北朝軍を果敢に追い払っている、もっとも輝いていた時期であった。(後醍醐天皇はすでに、30年前の1339年に没している)
親王が、大国・明からの使節に対し、強硬な姿勢に出たのは、南朝にとって厳しい情勢にあって我こそが正当な王朝の最大の護り手である、という自覚からくる奮気と、明の前王朝の元が起こした元寇に由来する中華世界への敵対心、それから(なにしろ明を建国してから1年後のことであるので)「朱元璋」(明の洪武帝)という素性も分からぬ人物に対して、不審の念を持っていたからだ、とされている。 太宰府は太古から日本政府の外交の担当役所であったので、その時点でそこの守護者である自分が、納得出来るまで対象を吟味しなければ、という自負はあっただろう。 どうも本を読んでいると、九州一の名族・菊池氏を従えた懐良親王は、九州在住の海賊衆にも影響力を持っていて、密かに彼らに命じて、中国沿岸を略奪させていたようだ。その目的は、元寇への仕返しと、南朝の名を高めることであった。

太祖・洪武帝はこのような懐良親王の態度に憤りながらも、建国したばかりの自分の威信の確立のために、どうにかして日本の政府から朝貢をさせる事を決意。(意外なことに、洪武帝はまだ、中国沿岸を荒らす倭寇の害を、それほど深刻なものだと考えていなかったそうであるが) 「日本の蛮人にはモンゴル人の国である元と、純潔たる中華民族の国である明との区別が付いていないに違いない」と考えた洪武帝は、今度は山東省出身の外交官・趙秩をふたたび日本に派遣するのである。 山東地方は元帝国のもっともゆかりが深い場所として知られており、そこから元帝国は滅び、明帝国が成立したと告げる人物が赴けば、東方の蛮人とて「明の威力」を思い知るに違いない、と考えたのだった。
ところが洪武帝の意に反して、使節・趙秩を迎えた懐良親王は激怒。 「我が国は栄光ある中華の文明には畏敬の念を抱いているが、かつて日本を襲った元寇の際、蒙古は我が国を小国扱いし、善人を装った趙良弼を送って日本国内をスパイさせた」と吐いて、趙秩を一刀のもとに切り捨てようとした。 (このエピソードだけで、懐良親王の激烈な性格と才気が分かってしまうような) そのとき趙秩はすこしもあわてず、懇々と親王の認識の間違いを指摘し、洪武帝のひととなりと明帝国の勢威と現在の東アジアの情勢を説明した。 ついに懐良親王は趙秩の説明に納得し、中国側の史書の語るところによると親王は趙秩の話に大きな衝撃を受け、思わず庭に駆け下りて趙秩の手を取り、それから丁寧に遇したという。 そして趙秩の帰国の時、僧の祖来を同行させて洪武帝に朝貢の礼と、南朝からの礼書と献上品を奉じさせ、また同時に日本の倭寇が捕虜としていた70人の中国人を送り届けさせた。(そんなことをしたら太宰府が海賊の元締めだと宣言してしまうことになるのに) 洪武帝はこのときの日本からの使節に大いに喜び、歓迎したという。(※洪武帝は、自分から朝貢を求めるくせに、難癖つけて外国からの使者を追い返すクセがあった)

その4年後に再び、洪武帝は日本に使者を送る。今度の使者は、日本で禅宗が高い評判を得ていると言うことを知った洪武帝が、中国の名僧を日本に送って中華文明のすばらしさを日本に知らしめよう、というものであったがそれと同時に、日本国内の「南北朝の分断」を憂えた洪武帝が、「宗主」として手打ちを勧める、という意図も持った使節であった。 使節はまず北朝の支配する京都へ向かい、北朝のひとびとに禅の講義を行ってそれを聴いた人々をことごとく感服させたあと、朝貢の催促と倭寇の取り締まりを室町将軍に要請し(将軍も承諾)、そのかえりに九州の懐良親王のもとに寄り、明の暦と皇帝からの下賜品を賜ったという。(明の暦(大統暦)とは中華帝国が朝貢国からの国書に記させるために使わせる暦で、これを賜ると言うことは相手を正当な独立政府と認めることを意味した) この使節にはすでに趙秩は加わっていなかったが、かつての訪日からの帰国の時、趙秩がどのように懐良親王のことを皇帝に報告したのかが、バッチリうかがえるではないか。 しかしそのとき、実は12年間太宰府を護り続けた懐良親王も、新たに九州探題になった足利尊氏配下の名将・今川了俊の猛攻を受けて太宰府を放棄し、南九州へ撤退していたのであった・・・・・・・

この文章を読んで、「この人物のどこが英雄なの?」と問われたら非常に困るのですが・・・・、いやぁ、立派に英雄的で、外交官の鏡じゃあないですか、趙秩って!!
本当は懐良親王のことをもっとずっと書きたかったですが(笑)、実は懐良よりもその兄の宗良親王(遠州地方で活躍)のことを派手に書きたい(笑) しかし一方で、懐良が駿河・今川氏の祖(の分家)である今川了俊貞世に破られた、と書かねばならないのは、複雑な気持ちです・・・・・・(涙)
2001年1月10日(水)

英雄リスト その44
サモリ=トゥーレ  (1830ごろ〜1900)
別名『アフリカのナポレオン』。 
19世紀のアフリカ;スーダン地方で、“マフディーの乱”(中央スーダン)、“ラビーフ帝国”(チャド湖周辺)と並んで、対植民地主義民族解放運動の三大拠点のひとつと称される“サモリ第一帝国”並びに“サモリ第二帝国”を建国する。
本によって、「フランスにとって、彼は最大かつ最も残酷な憎むべき敵であった」というのと、「(帝国の崩壊時期を除いて)フランスとサモリの関係は、緊張を孕みつつも決定的な破局のようなものではなかった」と書いてあるのがあるんだけど、どっちが本当かな?
「鼻筋の通った、目が良く動く、50がらみの、美男」「サモリはアフリカ大陸でフランスと戦ったどの黒人酋長よりも優れていた。これは決して誇張ではない。彼は実際に民衆指導者、戦略家、さらに政治家としての資質を兼ね備えていた、唯一の人物であった」
『列強のアフリカ分割』と称して、資料集に良くカラフルに色分けされたアフリカ大陸の地図が載っている。 そして、列強の中でも植民化の最大手だったイギリスの『アフリカ縦断政策』と、その好敵手フランスの『アフリカ横断政策』というのを双国が展開していて、広大なアフリカ大陸を舞台に、ヨーロッパの野望が交差していた、と矢印入りで図解される。 ・・・・・・大英帝国のア大陸侵略の場合、ボーア戦争、シャカ戦争、セシル=ローズの野望、ディズレーリの運河獲得、アラービーの乱、マフディー運動などとても派手だし、また『3C政策』との絡みでいろいろと壮大なエピソードにも欠かないが、フランスの『横断政策』の場合、「アフリカ大陸を横に突っ切ったって言っても、大した国は無いし、叢深いジャングルでもないし、ただの砂漠と草原で、その侵略はイギリスの場合と比べたら全然楽勝で、でもほとんど得るところはなかった」とか思われていないだろうか? いや、そんなことはない!(←自分つっこみ) どちらかというと、西スーダンのサバンナの方が、遙かにフランスの侵略活動は大変だったのである。だって、草原は古来から冒頓単干、アッティラ、チンギスハーン、ティムールを始めとする英雄の宝庫。 そして我らが西スーダンのサバンナには、黒アフリカの歴史に燦然と煌めく、サモリ=トゥーレがいたのだから!!
※「スーダン」というと、現在エジプトの南方、ナイル川をさかのぼった上流の「スーダン共和国」を思い浮かべてしまうのではないかと思うが、「歴史的に言う」スーダンとは、アフリカ大陸のうち、サハラ砂漠と今後の大密林に挟まれた、オビ状の草原地帯(サバンナ)全域を指す。 つまり、「スーダン共和国」だけでなく、マリもギニアビサウもコートジボワールもベナンもチャドもナイジェリアもガーナも、みーんな「スーダン」。 現在は地図で見ると、ちっぽけな国々がわらわらとひしめいていて、日本人にとっては非常に印象の薄い地域のひとつだと思うが、国がたくさん乱立していると言うことは、それだけ「民族」が多く対立していると言うことで、それだけで19世紀列強の進出の困難さがうかがいしれないか? 実際、17〜19世紀の黒アフリカは、民族英雄の宝庫でしたのさ。 さらに「西スーダン」の「奴隷海岸」や「黄金海岸」「象牙海岸」のネーミング、ガーナに由来するチョコレート、コートジボワールから来るココアのイメージのように、ここは欧米にとっては宝の山でありましたのさ。
サモリは、サナコロの開明的なムスリムのマンデ(マンディンガ)系民族の隊商(ジュラ)の一家に生まれる。 
15〜16世紀にガオ(ソンガイ)帝国を建て直した英雄、モハメド=アスキア=トゥーレの後裔であることが、一族の誇りだったという。 17歳頃から一族の習わしである交易の仕事を始めるが、ここで多くのことを学ぶ共に広い人間関係を得て、23歳の頃に小王国コニアの王セレ=ブレマに取り立てられ、ここで7年仕える間に本格的な軍事上の訓練を受けた。(サモリはこの王を、自分の父のように敬愛していた)
やがてサモリの優れた才能を知った兵士たちが続々とサモリのもとに集まるようになり、この軍隊にサモリは独自の軍事訓練を施して精鋭に鍛え上げる。1867年頃に故郷サナコロを征服したことを皮切りに、サモリは急激な征服活動を開始し、現在のコートジボワールとギニアにまたがる広い領域に「サモリ第一帝国」(1881〜91)を作り上げた。
サモリが、周辺の諸勢力の王たちと比べて、ずば抜けていたというのは次の諸点。
公正の精神、組織の才、現実主義(合理性)不屈の精神という、指導者にとって不可欠な4つの要素を兼ね備えていた。 子供時代に畑泥棒をしたとき、戦利品を仲間たちと平等に分け合った。 部族的差別を廃し、生まれよりも能力を重視し、自分の一族であろうと罰するときには罰した。 小王国に分裂していていわば無秩序状態であった西スーダンの民に、共通の目的を与えて団結力を高めた。 軍隊の人間の数よりも、ゲリラ的戦術を重要視した。 ヨーロッパの軍事技術を取り入れる。 フランス軍にスパイを放って情報を収集。 自分の領土の農作物の取れ高を綿密に調査。 少年時代自分の母親が囚われたとき、一週間不眠不休で行軍。
●自分の一族の交易ネットワークを最大限に有効利用し、イギリスから高性能の兵器(速射銃)を輸入。 しかし、武器だけに頼らず、あくまでも軍隊の高い機動性を保つために高度な軍事訓練を重要視。
●サモリ自身は、同時代の他の反帝国主義勢力とは違い、イスラム教というものを前面には打ち出さなかったが(彼はイスラムについての深い知識は持っていたが、それほど信仰心は持っていなかったらしい)一時期イスラムに対する深い信仰を支柱に人民の一体感を高めるための試策をいろいろとくりかえした。しかしある一定以上は高価が確かめられなかったので、これまたあっさりとそれを放棄。
●当時西スーダンに存在していた大小さまざまな勢力(とくにフランスの傀儡になっていたティエバ王国と反フランスで派手に戦っていたトゥクロール帝国)のあいだを上手く立ち回って(ときには仲直りしたり戦ったりしつつ)10年間のサモリの平和を現出。
●捕虜としたヨーロッパ人の士官を、和平の材料に使おうとする。

結局の所、アフリカのサバンナというところは今も昔も部族意識というのが異常に高いところで、その様な中で、サモリのような人物が現れたのは、驚くべき事でないでしょうか。

1891年に、ようやく強大なトゥクロール帝国(セグ帝国)を滅亡させたフランスは、本格的なサモリとのたたかいを開始する。さすがのサモリもこのとき圧倒的なフランスの猛攻をかわし切れず、苦肉の策としてあっさりと自分の王国を捨て、人民を引き連れて現在のガーナとベニンのあたりに「サモリ第二帝国」(1891〜98)を建国する。 サモリが、「国というものは領土ではなく、そこにすむ人間を基準として考えていた証拠」と賞賛される出来事である。

最終的に、サモリの帝国が決定的に崩壊したのは、ふたつの不慮の出来事がきっかけであった。
@1897年に、ヘンダーソン大尉が指揮するイギリス軍が、突然サモリ領内に侵攻。 サモリの息子サランケニ=モリは奇襲を掛けてたやすくこれを打ち破り、ヘンダーソンを捕虜とするが、サモリはここで(フランスと戦っているので)イギリスとは手を結んでおくのが得策と考え、ヘンダーソンの命を奪うのは止め、彼にヴィクトリア女王宛てのサモリの書簡を持たせて英国へ送り返した。 ところがサモリの考えはサモリの息子に行き届いてはおらず、指揮官がいなくなったヘンダーソンの軍隊にこれ幸いと息子は戦いを仕掛ける。怒ったイギリスは、意地になってさらなる本気のサモリ攻めを決意するのだった。
A困ったサモリは今度はフランスと一時的に和平することにし、「イギリスに先を越されてたまるか」と考えるフランスにサモリ領内にある重要な都市ブナを割譲する条件で、対イギリスの共闘を申し出る。 フランスは喜んでこれを了承するが、ブナを受け取りに派遣されてきたフランスのいち部隊と、ブナ守護のサモリのいち部隊とのあいだに、97年8月20日、原因不明の戦闘が勃発。 怒ったフランスはサモリ帝国に本気の全面攻撃を仕掛け、98年の9月29日にサモリは捕虜となってしまった。

サモリは幽閉先のガボンで、1900年に死んだ。
 

しまった。長すぎるぐらい書いた気がするのに、「どうしてそこまでサモリがフランスに憎まれる事になったのか」とか「周辺諸国王とサモリの人間的関係」(←太陽領はそういうのが一番好き)とか、全然書き足りていない。 これ以上長くなるのはアレなので、今日はここでやめるけど、いずれもっと詳しく調べて、もう一度きちんと書き直すぞーー。(いつも同じ事を言っている) 上の文章中にも書いたけど、アフリカって知られざる英雄の宝庫なのだ。 (インドとロシアのときも同じ事を言った・・・・・)      2001年1月16日(火)

英雄リスト その45.
ヴァンレルチンスキイ  (1902〜1944)
20世紀前〜中頃の、ソ連を代表する音楽研究家・評論家。
政治的な事柄に全く影響されない物言いと、歯に衣を着せぬ筆致で知られた。
彼が病死したとき、親友の大作曲家ショスタコーヴィチは、哀悼曲≪ソレルチンスキーの思い出≫を作曲して、捧げた。
わたくしがこの世で、もっとも怖くて怖くてたまらない音楽は、ショスタコーヴィチの『弦楽四重奏曲第8番ハ短調』なのですが、この曲は公式には「ファシズムと戦争の犠牲者を記念して」という題辞が掲げられている。しかし作曲者の娘ガリーナが語るところによると、1959年(53歳)に医師から不治の病を宣告された作曲者が、全身全霊をかけて作曲し「自分自身に捧げた」自伝的要素の濃い作品であるのだという。 過去の自分の作品の中から多くのパーツが引用され、その引用されたもとの曲は『ムツェンスク郡のマクベス夫人』『ピアノ三重奏曲第2番』『チェロ協奏曲』『交響曲第10番』などであるそうな。
第2楽章と第3楽章のこの作曲家特有の、果てしなく加速し金切り声を上げる「悪魔の諧謔」は他の曲にも増して私の脳味噌に鋭く突き刺さってくるのですが、やがてこの刺激感覚を何度も体験したくなって(とくに車の中で)良く聴き返す一曲である。 とっても異常な曲なのに、これを快感に感じている自分がいる、そこが怖い。で、2楽章の頂点の一番突き上がったところで、執拗に高く高く繰り返し繰り返しひっくり返るまで突き刺し突き刺し嘲り倒す単調な旋律を『ユダヤの主題』と言うそうなのですが、この旋律、最初は作曲者の親友、イヴァン・ソレルチンスキイがモスクワから遠い地で病死したときに、哀悼のために作られた『ピアノ三重奏曲第2番ホ短調』に使用されたものなんだって。
で、先日、たまたまこの三重奏曲を聴く機会があって(大好きな「ピアノ五重奏曲」のカップリングだった)、そのとき「あ、たしかにあのおそろしい旋律が使われてる」と気が付いたものの、「思ったよりはおとなしいな」と思った。あの刺しては飛び退き、噛み付いては飛び上がる攻撃的な『ユダヤの主題』が、ここではただ低く低温マグマのようにぶつぶつと囁き振動しているだけでござらっしゃる。 非常に地味で、静かで、悪いがとても「悪魔のドミトーリーの邪悪な仲間たち」の一員とは言えないな、と思ったものだ。(鎮魂歌だからあたりまえ)  ところが、ところが! (カップリングのピアノ五重奏曲が最愛の曲であるおかげで)何度も何度も繰り返し繰り返し聴いているうちに、この曲、私の身体と心に染みついちゃったのだ。 倒置法のようなおかしな構成のこの曲を、全然変に感じないのだ。 麻薬のように、3日に一遍はこの曲を聴かないと禁断症状が出るのだ。 とくに第2楽章のアレグロ・コン・ブリオ、この曲がおとなしくて静かで全然目立たないだなんて言っていたのはどこのドイツだ(オレだ)。 この曲、当然(鎮魂曲だから)最初は沈鬱な表情で低い音から始まり出すものの、始まってものの数分で、あきらかに作曲者は別の要素を曲に盛り込もうとしてますよね。 これは鬼才ショスタコだから当たり前。 鬼才が鬼才を語るに涙は必要としないのだ。 のちに作曲者がこの曲を「自伝的要素の強い」第8番に使用することからも分かるように、多分作曲者は死んだ親友と自分を同一視している。 これは「友達の生涯を語った一表現者によるオマージュであると同時に、卓越した芸術家が英雄を語った曲」である。 そこまで上段を切っていた方が、ショスタコらしいものな。 ちなみに冒頭で書いた、弦四第8番の『ユダヤの主題』は、実は第四楽章になってようやくのったり姿を現すのですが、必死に聴き続けてきたこっちには、もうどうでも良くなっている。 これは全部タコの計算通りなのだ。 ああ怖い、タコ・・・・。

さて、ここで、このショスタコにこんな曲を書かせたソレルチンスキイとはいかなる人物なのかが、どうしても気になるじゃないですか。 でも当然ながら、資料があまり無くて、どうにもよく分からない。 一応、CDの解説書なんかには、「ソ連の当局に睨まれがちだったショスタコーヴィチを擁護し、政府からの圧力には全然屈せずに常に作曲者の作品の真価をずばりと見抜く鋭い批評を発表し続けた。ショスタコーヴィチは彼に終生感謝の気持ちと尊敬の念を抱き続けた」ぐらいは、書いてあるのですが。 でも、ソ連の歴史とスターリンについて知っている人ならお分かりのように、この時代に、当局からの干渉をはねのけて自由な創造活動をおこなったということほど、英雄的なことはありませんよね。 具体的に何をやったのかが知りたいものです。 少なくともシベリアへ送られたということはなく、それどころか頻繁にモスクワで講演会をおこない、パーティーではお偉い方と忙しく交流していたようですから、私の想像とは全然違うかも知れませんが。

しかし、多分ソレルチンスキーについて一番多くの情報が載っている(であろう)、タコの自伝的書物である『ショスタコーヴィチの証言』には、タコがもっとも親しく交わり多くの影響を受けた人物のひとりとして、ソレルチンスキイーが頻繁に登場するのですが、期待に反して、タコによる回想には次のようなことしか書かれていないのだ。

「誰かの粗野な振る舞いに対して、その粗暴たらんとする欲望を断固としてうち砕くようなやり方で応ずるのはそれほど容易ではない。それこそ芸術のようなものである。私は良い教師に恵まれていた。 もちろん、音楽学者イワン・ソレルチンスキーである」「あるパーティーでソレルチンスキーがひとりの女性に近づいて、「今日のあなたは何と美しい!」と言おうとしたところ、その女性は彼の格好を馬鹿にして「私はあなたに同じ事は言えませんわ」と言ったので、彼は少しも慌てず、「それでもあなたは私を褒めなければなりませんよ、嘘をついてででも!」と切り返したこと(実の所、粗雑であることは非常に簡単である。(中略)しかし最も困難なのは、粗雑にも辛辣にもならずに真実を語ることだ。まさしくそのような自分の意見を表現する能力は、経験の歳月を経て身に付く物である。しかし、ここには別の危険も含んでいる。自分の意見を曖昧に表現し、嘘をつきはじめること)」「ソ連ではソレルチンスキーの名を知らない者はないが、それは良い意味ではなく、ある人物がテレビでソレルチンスキーを馬鹿扱いしたためだ。だが実際の彼は非常に勤勉で、24以上の国の言葉を知っており、古代ポルトガル語で日記を付けていた。しかし現在人々が彼について思い出すのは、ネクタイがいつも曲がっていたこととか、新しいスーツが五分後には古ぼけて見えたとかいうことばかり」「私は彼に三回紹介されたが、彼が私を覚えてくれたのは三度目のとき。彼の異常な記憶力を思えば、奇妙なことだ」「ソレルチンスキーは前もって冗談を用意していたことなど一度もなく、即席で冗談を言うのである」「作曲者たちはソレルチンスキーを非常に恐れていた。その機知力だけで殺されてしまうからだ。アサフィエフは、「バレエの舞台を見ているのは楽しいが、音楽を聴くと胸がむかつく」と言われただけで再起不能になってしまった」
「音楽院で講義をしていたとき、一人の学生が立ち上がって質問をした。「カラペチャンとはどんな人物でしたか?」ソレルチンスキーはカラペチャンという人物を知らなかったので、次の講義の時間に教えようと言った。しかし、調べても解からなかったので一週間後同じ講義でこの学生に「まだ調べている途中だが良く分からない」と白状したところ、その学生は「カラペチャンとは、私の名前です」というので、爆笑の教室で彼は「いまカラペチャンというのがどういう人物かが分かったよ。彼はとてつもない馬鹿だ」と言い捨てて帰ってきた」
同書の中で、同業者に対しては、とくにその業績と才能、世間に与えた影響について辛辣な評価、鋭い書き方をしているタコが、どうしてソレルチンスキーに関してだけは、こんなヨタ話しか、書いていないのか? 非常に気になると共に、ソレルチンスキーの底知れぬ恐ろしさを感じるのです(笑)

おまけ。
私が所有している『ソレルチンスキーの思い出』のCDは三枚。
でも、実際楽しんで聞くのはレオンスカヤがピアノを弾いているボロディン四重奏団のディスクで、その他の演奏家のは(たとえアルゲリッチがピアノを弾いていても)全然生ぬるくて駄目です。
ただ、この三枚、カップリングが面白いので、ここに書いておきます

●エリーザベト・レオンスカヤ(ピアノ)/ボロディン四重奏団 (95)(テルデック)
   〜ピアノ五重奏曲とカップリング
      とても順当な組み合わせに見えますが、実は「美しすぎるほど美しい」五重
      奏曲との並びはある意味やっぱり悪魔的だ。
      ただし、この曲も弦四第8番も、絶対にボロディン(=この盤)で聴くことね。

●マルタ・アルゲリッチ(ピアノ),ギドン・クレーメル(ヴァイオリン),
                ミッシャ・マイスキー(チェロ)     (98)(グラモフォン)
   〜チャイコフスキーの『ある偉大な芸術家の思い出』とのカップリング
      この三人の「夢の競演」で、題材から見ても、一見順当な組み合わせに見
      えますが、少し考えれば分かることで、気が狂っているとしか思えん。

●オリ・ムストネン(ピアノ),ジョシュア・ベル(ヴァイオリン),
                スティーヴン?イッサーリス(チェロ)   (94)(ロンドン)
    〜メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』とカップリング
       組み合わせとしては、これが一番まともだ(笑)。
       ただし、演奏者に、この現代の麗しき若者たちを組み合わせたことに、
       倒錯的な物を感じる(笑)

 こんな長い文章でも、音楽のことについて書くのは非常に楽だなあ(笑)  困ったこってす。
とりとめが無さすぎるけど。
2001年1月31日(水)


英雄リスト その46.
ペドロ大王 ウルヘル家のペドロ3世、(=ペラ2世、シチリア島のピエトロ1世) (1239?-1285 )
アラゴン(スペイン・カタルーニャ地方)の国王。 野心家で豪快な人物。
『シチリアの晩鐘事件』(1282年)でどさくさに乗じて、シチリア王国の王冠を勝ち取るが、シチリアの奪還を図る英雄王シャルル・ダンジューに決闘を挑まれた大王は・・・・・・。
両シチリア王国の国王であったホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が神聖ローマの皇帝となって以来、シチリア島は歴代ローマ法王、フランス王家、ドイツ諸侯が係争し、ヨーロッパの政治の行く末が占われる重要な土地となった。
1282年、とうとうシチリア島の住民は、暴政を行うアンジュー家のシチリア支配に対して、本格的な叛乱を起こす。ナポリ王でもあったシチリアの国王シャルル・ダンジュー(フランス国王ルイ9世の弟)は、激怒してシチリア島に大軍を派遣。 反乱軍は“シチリアの源義経”ルッジェーロ・ディ・ラウリア(ルジェ・ダ・リュリア)を指導者として奮戦するが、シャルル・ダンジューの虐殺作戦にやがて押され、鎮圧は目前になってしまった。 これを『シチリア島の夕べの祈り』事件という。
進退窮まったシチリアの反乱軍は、丁度チュニジアを占領した直後だったアラゴン国王のペドロ3世に、密かに使者を送り、シチリアの王冠を捧げることを約束に、ナポリ軍撃退を嘆願した。(※ペドロの妻コンスタンサが、シャルル・ダンジューに殺された前シチリア国王;勇者マンフレディ(ホーエンシュタウフェン家)の娘だった) アラゴン王はこれを快諾。
ペドロ王の軍隊は密かにシチリアに上陸。 背後よりシャルル・ダンジューの軍を奇襲してこれをやすやすと破り、意気揚々とシチリア王冠を戴冠。 あわてたシャルル・ダンジューはローマ法王に嘆願し、ペドロとシチリア住民をすべて破門させた。 ところがペドロ王は少しも動ぜず、逆に自らローマに乗り込んで、『力づくで我が領土を奪い取れるような人物がいたら、よろこんで総ての領土を捧げよう』と宣言するのだった。 発憤したシャルル・ダンジューは、ペドロに決闘を申し込む!
このときの決闘の条件は、英国領だったボルドー郊外の広場で、大将(=国王)ひとりと騎士100名だけで戦い合う、と定められた。 ところがその期日の日、シャルル・ダンジューは時間通り現れたのに、ペドロはまてどもまてども姿を現さない……。 結局約束をすっぽかされた側は当然、「ペドロは腰抜けよ」とヨーロッパの全君主に対して宣言しまくる。 ところがしばらくして、ペドロ王の言い分が書面の形で公表された。 それによると、「ペドロ王は決闘の数日前からボルドーに潜伏して情報を集めていたが、中立の領土として決闘の場に選ばれたはずのボルドーの町は、密約によって事前に英国王から仏国に返還されており、決闘場の周辺にはペドロ王を討ち取るために三千の兵が配備されていた。卑怯なのはフランスの側である」と。 真偽を巡って世論は二分し、数年間この問題は紛糾した。 当然教皇はアンジュー家を擁護したが、戦う弁論家ダンテはペドロ王を支持。(・・・・ダンテ・・・。)結局またもシャルル・ダンジューは教皇に頼み込み、「破門者」を征伐するための十字軍(指揮;フランス王フィリップ3世)を結成し、(この十字軍、なんと呼ぶんだろう.....)ピレネーを超えてアラゴンへなだれ込む。 これにはさすがのペドロも窮地に追い込まれた。(ペドロの実の弟のマヨルカ王ジャウマすら、ペドロ征伐の軍を出している、、、、 ま、もともと仲は悪かったが) しかし危機一髪のところで、シチリアの海軍を指揮していたルッジェーロが到着。 この海将のヨーロッパ中に鳴り響いていた「残虐さの」名声と同時に、フランス軍にたまたま蔓延した疫病が原因で、とうとうフランス軍は音を上げてペドロ王と和議を結ぶ。
このあと、仲が悪かった弟を征討に行く途中にペドロ王は急死し、アラゴンとシチリアは彼のふたりの息子に分割されるが、このふたりも仲が悪く(笑)、その後はすっごい混乱状態になるのだった。


住民一揆の決着をつけるために、国王同士が「果たし合い」をしようとするなんて、とても愉快な状況に見えるんですが・・・・・・・。
実際に『シチリアの晩鐘』では、悲惨な抗戦とむごたらしい虐殺が行われたので、そのギャップが・・・・。
でも、モンテネッリの本には、この決闘の失敗について「このエピソードは、中世騎士道のモラルが地に堕ちたことを示している」と書いています・・・・・・。中世騎士道・・・・・・。
ところで、ここに書いたことがヴェルディ作曲のオペラ『シチリア島の夕べの祈り』のあらすじに少しは関係するんですかねえ。 このオペラのDVDは買ってあるのに、まだ観て(聴いて)いないです・・・・(理由はふたつ、字幕が英語(笑)だから、『エルナーニ』の方を先に観てるから。まだ1/3だけど) おっと、いまオペラハンドブックで見てみたら、このオペラにはペドロ大王は登場しないや、残念。 

2001年2月9日(金)


英雄リスト その47.
ロデリック王 ロドリーゴ (位;710〜711)
中世のスペインに繁栄した西ゴート王国最後の王。
いや本当は、この英雄じみたところが全く無い王様のことを書きたいんじゃなくて、セウタの伯爵フリアンか、またはアラブの英雄総督ムーサー・ブン・ヌサイルのことを取り上げたかったんだけど、……最後の一文に惚れたのさ(笑) まるでアーサー王伝説だから。
その移動の過程で多くの英雄を生んだゲルマン民族であるが、中でも一番飽くなき移動を続け数多くの伝説を残したゴート民族も、8世紀頃には腐敗した宮廷生活を送るようになり、西ゴート王国の王都トレドでは、熾烈な権力争いが繰り広げられるようになっていた。
正当な王ウィティザを武力で倒し、自ら王位に就いたロデリック王であったが、国内は蜂起する各地方勢力と、ふたたび盛り返しを図る前王勢力の残党がうごめきあう、大変な状態になっていた。 そこを突くようにジブラルタルの向こうから、イフリキヤの英雄総督ムーサー・ブン・ヌサイルが精鋭を率いて押し寄せ、あっけなくイベリア半島はイスラム勢力に征服されてしまうことになる。 この背景には多分、(いろいろな本に、ゴート民族は海峡の向こうのイスラム勢力を必要以上に軽視していた、と書いてあるので) 簒奪王ロデリックに反撃を企む前王の勢力が、思いつきでイベリア半島内にイスラムを手引きしたんだと思う。
しかし、このゴート王国の滅亡に関して、あるひとつの美女伝説が伝わっている。

ある日、王は狩りからの帰りに、トレドの町の隣を流れるタホ川のほとりで水浴びをするひとりの娘を見る。 その娘の美しさに対し欲情した王は無理矢理てごめに。 ところがこの娘は先王ウィティザの娘婿であるセウタ(ゴート人がジブラルタルの向こう側に作っていた都市)の領主フリアン(ジュリアン)伯爵の愛娘フロリンダ(アラブの呼び方ではカーバであったから、(勉強のためにトレドに来ていて、王妃付きの侍女になっていた)、伯爵は娘からの知らせを受けて激怒。 ※伯爵は、ひそかに娘を領地に連れ戻すためにトレドを訪れるが、伯爵の復讐心を知らないロデリック王は、そのうち一緒に鷹狩りでもしようと話しかけ、それにたいして伯爵は「それなら、王がこれまで一度も御覧になったことが無いような見事な鷹を連れてきましょう」と答えたという。
領地に帰った伯爵は、ただちに遙かチュニジアのカイルワーンにいたアラブの総督ムーサーのもとに出向き、イベリアの素晴らしさを褒め称えた上で、「もしあなたがあの地まで攻め寄せる気があるのなら、自分がその手引きをしよう」と申し出た。 慎重な性格の老ムーサーは伯爵の言葉に対しては渋い顔を見せておきつつ、ひそかにまず有能な配下を送って、ゴート王国の中を調査することから始めたが、ロデリック王が王国北方のピレネー山中のバスク民族の反乱の鎮圧に忙殺されているという情報をつかむと、部下のターリク・ブン・ジヤードに兵7000を与えて、ジブラルタル海峡を超えさせた。(ジブラルタルとは、「ターリクの山」を意味するジャバル・アル・ターリクが語源である)
ターリクは711年の五月頃にアフリカ側のアラブの根拠地タンジールを出発して海峡を渡り、セウタの対岸に基地を建設。(現在のアルヘシラス) 一方、イスラム勢力上陸の報を聞いたロデリック王は、叛乱鎮圧をひとまず置いて、王国南部へ急行。 7月にはグァダレーデ(バルバーテ)河畔でターリク軍と対峙。 ※愛娘のかたきをはらすために、セウタ−トレド間の三倍の距離があるカイルワーンに赴いたフリアン伯爵も伯爵だが、10万の兵を率いて2ヶ月で1000km以上の距離を強行軍した王もすごい。 でもこの2ヶ月のあいだに、活動家でしられた将軍ターリクは、なにをしていたのか?
このとき王が率いていた軍隊の数は約10万というが、ターリクの側は1万2千。 しかし結果はイスラム軍の大勝利で、この戦いで王は行方知れずとなった。この圧倒的兵力の差なのに負けた原因として、王の軍勢中にいた前王派の勢力が大量に裏切り、士気が最悪に落ちたからだと言われるが、王の愛馬とサンダルだけ(一説には国王の肩章帯と手袋)が河のほとりにのこされ、王は戦いのさなか川で溺れて流されたのだろうという。 だが伝説によると、戦いのあときらびやかな飾りを数多く付けた王の愛馬がいななきながらさっそうと戦場を駆けるのが目撃され、そのあとに「王はひそかに逃れてどこかの小島に逃れた」という噂が流れたという。 その後、異教徒の支配が数世紀も続いていく間で、被支配民のあいだには「いつか王が再び姿を現し、異教徒を追い払い、キリスト教徒を救い出してくれる」という伝承が、細々と語り伝えられることとなった……。

2001年2月12日(月)

英雄リスト その48.
ゴートの王女サラ サラ・ラ・ゴート (8世紀)
かつての西ゴート王の孫娘。 (この西ゴート王とはウィティザかロドリーゴかそれとも別のか)
西ゴート王国滅亡後も、彼女はアラブの英雄たちからちやほやされる。
イフリキア総督ムーサーによる西ゴート征服後、イベリア半島はアル・アンダルスと呼ばれてイスラム帝国の支配を受けることになったが、ダマスクスにいるカリフはその統治者としてアミール(総督、太守、副王)を任命し、初代アミールとしてイベリアの征服に大きな功績があった、ムーサー・ブン・ヌサイルが指名を受けた。 やがて野心強いムーサーはダマスクスのカリフ;アル・ワリードからうとまれ、カリフと図った部下ターリクの陰謀でダマスクスに召還されて、そこでのたれ死ぬ。 その後はさらに野心深いムーサーの息子、アブドル・アジーズがあとを継いだ。

正確に何年かが分からないんだけど(…)、おそらく西暦740年前後にひとりの(多分)妙齢の女性が、アル・アンダルスからダマスクスにやってきた。 その女性の名はサラ。 セヴィーリャ(セビージャ)在住の彼女は、その高貴な血筋でゴートの民たちから尊敬を受ける身であったが、アミール宮廷のトレドからコルドバへの移転にともなって勢力を拡げたコルドバ在住の叔父のひとりが、彼女が相続するはずだったセヴィーリャの広大な土地を全部横取りして、返さないと言う。 ただそれだけだったらば、アル・アンダルスを支配するアミールの裁量に任せるべきであって、わざわざカリフが乗り出すような問題ではなかったが、野心家アブドゥル・アジーズは既に暗殺されていたものの歴代のアミールたちは独自の支配体制を確立しようと躍起で、さらに732年にイスラムの勢力拡大のためのピレネー越えがガリアの鉄宰相カール=マルテルによって挫折させられた直後(←大した問題でもないが)、それからゴートの民の中にまだ昔の生活を捨て去っていない者もまだ多くいるという状況であったから、ウマイヤ朝の聡明な名カリフ;ヒシャムは彼女を粗略に扱ってはいけないと直感で感じ、全面的にサラの言い分を認め土地を返すようにという処分命令をコルドバのアミールに対して発し、さらに(コルドバのアミールにサラが対等な立場で発言が出来るように)カリフの腹心と彼女を結婚させてから、送り返したのだった。
このダマスクス滞在中、サラはカリフの孫でありのちに「クライシュの鷹」と呼ばれる風雲児となるひとりの少年と出会ったという。 十数年後、ウマイヤ朝が滅亡し、この少年アブドゥル・ラフマーンが千里の道を単身はるばると逃避行をつづけ、とうとう地の果てアル・アンダルスで旗揚げを図ったとき、すでにセビーリャで強大な基盤を保っていたサラは、かつての恩を返すために、この青年を影からかなり支援したらしい。 
のちに後ウマイヤ朝の大君主となってからもアブドゥル・ラフマーン1世はサラに受けた恩をいつまでも忘れず、機会がある度に彼女を宮廷に招き、貴重な贈り物を数多く贈り、肥沃な農地を提供し、彼女の夫が死んだときには次の夫を世話したという。 

前回書いたロデリック王の結末とはうらはらに、キリスト教徒もうまく異教と折り合いをつけてるやん、と思う。キリスト教徒、とくにスペインの。というとガチガチの狂信者というイメージが(ちょっと)するのですが。
時間と距離を超えたこの二人の巡り合わせの運命は、なにか小説を読んでいるようで素敵♪

2001年2月14日(水)

英雄リスト その49.
ルイザ・カルロタ  (19世紀)
大臣を殴った女性。
ナポレオン失脚後、「望まれたる人(デセアード)として復位し、反動政治を開始したスペイン・ブルボン朝のフェルナンド7世(位;1814〜1833)であったが、長い間子供に恵まれず、即位15年後になってようやく4人目の妻マリア・クリスティーナとの間に一人娘イザベルが誕生する。 フェルナンド王はどうしてもこの娘に自分の王位を継がせたいと考え、女性が王位に就くことを認めないフランス王家由来のサリカ法典を廃止した。 晩年は悪政続きだったこの王は、娘の誕生の3年後に死去。

ところがこの王が重病の床に倒れたとき、王の弟でありポルトガルに追放されていたカルロス・マリアが「3歳の女児に国政を任せるのは反対である」とし(当然である)、またブルボン家の(廃止された)女子継承禁止令の有効性を主張して、王位を要求してきた。 その激しい勢いに、国王の代理としてすべてを任されていた王妃クリスチーナも弱気となり、一時、カルロスの言い分を全面的に認め、娘の王位継承権を放棄するとした文書まで作成する。 そこに現れたのがマリア・クリスティーナの姉ルイーザ・カルロッタ。  強気な彼女は王妃から譲位書類を受け取った法務大臣カロマルデにつかつかと近寄ってその顔面を思いっきりぶん殴って文書を奪い取り、それを破り去ってしまった。 この姉の行為にふたたび元気を得た王妃クリスティーナは、間もなく死亡した夫フェルナンドの死を隠して、マドリッドの宮廷に主だった貴族を集め、国王フェルナンドの意志遵守と王女イサベルへの忠誠をひとりひとり誓わせた上で、国王の崩御を発表し新女王イサベル2世の誕生を宣言するのだった。(母后クリスティナは娘の摂政に)

当然、前王の弟カルロスは黙っていず、バスク・カタルーニャ地方を根拠としてカルロス5世を自称した上で各地に潜伏するカルロス支持派に檄を飛ばして叛乱を起こす。(第一次カルリスタ戦争 〜1839年)  
またイサベル治下の35年間の間に、政府の主導権はさまざまな勢力に目まぐるしく移動し、さながら「すべての主義主張の実験場」のような有様となったが、そのすべては結局失敗し、「イサベル2世の治世は、やれ軍曹だとか将軍とかが勝手に剣を振り回してはことを決めた時代であり、いろいろと切り札は替わったものの、みんなまやかしだった」(文豪バーイエ・インクラン)と言われるほどだった。

仮にルイザ・カルロタが事を起こさず王弟カルロスが王位についてもフェルナンド王以上の反動政治が繰り広げられただろうから、彼女の行動の是否は言っても意味はないけど、悲劇を好む歴史好きのさがで、物心付く前に王位に付けられ、自分が何も出来ない間に35年が過ぎ、そして無理矢理王位から引きずり下ろされ、「彼女の時代は悪い時代だった」と悪口を言われつつ寂しいその後を送った美貌の女王イサベル2世が、可哀相で可哀相で可哀相でたまらないっす。 でも、同じく女子の継承問題から始まった女帝マリア=テレジアのオーストリア継承戦争と比べて、全然時代の勇ましさが感じられないのが、ちょっと空しい。

2001年2月18日(日)


英雄リスト その50.
チャーチルの娘  (1681〜1733)
いえ、チャーチルっても有名な「鉄のカーテン」ウィンストン・チャーチルでなくて、プリンツ・オイゲンの戦友でもあった17世紀の英国の英雄;初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの娘、ヘンリエッタ・チャーチル。 兄が早世したため、二代目マールバラ公爵位を継ぐ。 美貌の女公爵。
繊細な感情を持つ彼女は、芸術方面に強い感情を抱き、とくに詩人兼劇作家として売れていたウィリアム・コングリーヴに狂信的なまでに傾倒する。 この詩人が死んだとき、彼女は巨額の金を費やし、ウェストミンスター・アベイの回廊にコングリーヴを称える記念碑を建立。  遺産として詩人から大金持ちであるヘンリエッタ女公爵に1万ポンドもの大金を贈られたこと、またこの記念碑にはヘンリエッタ自身の手になる珍妙な(文章が下手で綴りも間違っている)銘文を刻ませたことと合わせて、ロンドン市民たちにさまざまな噂を立てさせることになった。
さらに、ヘンリエッタはコングリーヴから贈られた金を使って、二つの人形を制作させる。 ひとつはコングレーヴそっくりの動く自動人形で、女公爵はまるで生きている詩人を目の前にしているように人形に話しかけ、いつまでも飽きなかったという。 またもう一つの人形はすみすらすみまでコングレーヴに生き写しの精巧な人形で(ロウ人形?)かなりひどいコングリーヴの足の水虫まで忠実に再現してあった。 彼女はお抱えの医師に命じてこの人形の病気の跡を、生前と同じように治療させることを日課としていたという。
彼女には、3歳年下の夫(二代目ゴドルフィン伯)がおり、人々は彼女の奇行に対していろいろとうわさ話をしたが、彼女はまったくそれらを気にしなかったという。 素敵♪ (←おいおい)
いやは、この女性があのウィンストンのご先祖と考えると、歴史って楽しくてたまらないね(笑)
2001年2月19日(月)

英雄リスト その51.
ベルシャザル王  (摂政;前552〜前549)
古代の新バビロニア帝国の最後の王ナボニドゥスの息子。
「メソポタミアの三大女傑」のひとりアッダ・グッビに操られた父が晩年政治に全く興味を示さなくなると、父に代わってバビロニアの政治を牛耳る。
豪勢な「ベルシャザル王の饗宴」と、神をないがしろにした彼の哀れな末路は、旧約聖書の『ダニエル書』に語られ、音楽/絵画/文学のモチーフに最も好まれた題材のひとつ。
私の大好きなシューマンの歌曲に、ハイネの詩による『ベルシャザル王』(1840年)という、ちょっと長め(5分強)の作品がある。 いかにも「長い物語を語りますよ」という感じの控えめで叙情的な旋律を持つバラッド調の佳品だ。この作品では王の破滅を予言する預言者ダニエルは登場せず、前半の「ベルシャザル王の饗宴」と後半の「哀しい王の末路」がまったく対照的であるが、聴けば分かるとおり前半の王の治世のすばらしさを称える部分がシューマンの音楽の中でも最上の音楽で、明らかに作品の重点はこの部分に置かれている。それだけに一層後半が哀れで、まるで「西洋版平家物語」といった感じだ。
それから、20世紀英国を代表する作曲家ウィリアム・ウォルトンのオラトリオ『ベルシャザールの饗宴』(1931年)は、とても色彩的で音の洪水に圧倒される、とても好きな作品。
それ以上にわたくし太陽領が愛する作品は、中世のヨーロッパの地方都市で機会があるたびに上演された民衆の典礼音楽である『ダニエル劇の音楽』。 題名の通りこの劇ではダニエルが主人公であるが、前半のベルシャザル王の登場シーンで、ピケットの『カルミナ・ブラーナ集成』でも流用された、あの素朴ながらも力強い王の讃歌が歌われるところがもっとも印象的。

旧約聖書の『ダニエル書』では、読むと分かるとおり前半で世界を牛耳る王とされるネブカドネザル大王が異教を奉じながらもユダヤの教えに理解を示した(それなりに)優れた大王という感じで多くのページを割かれているのに対し、彼の息子とされるベルシャザルは自らの権勢に溺れてしまったばかりに神に不遜を示し無惨な最期を遂げたとして、実にあっけない取り扱い方をされている。 しかしながら、芸術作品の中では(もちろん「聖書中最大の預言者」といわれるダニエルが登場するからだが)ネブカドネザルよりもベルシャザルの方が取り上げられる頻度は多く、しかもその描かれ方は「帝王振り」を最大限なまで強調された、共感を持った描かれ方をされている事が多い。 この対比はおもしろい。 平家物語の中でも源頼朝なんかよりも、平清盛の悪の帝王ぶりの方が数億倍も好きなわたくしのような歴史好きにとって、注目の人物だ。
歴史的な重要度はさておき、一時代を築いた大繁栄の様子って、表現者にとって描く甲斐はありますもんね。日本人には当然なじみはないが、西洋人にとってはベルシャザルは贅と権の限りを尽くすことの出来た、数少ない典型的な人物だったらしい。

ところが、史実では、ベルシャザル王はネブカドネザルの息子なんかではなく、そんな豪奢な宴会ばかりしていた人物でもなく、神を嘲ったという出来事を証明する資料もなく、しまいには王ですら無かった、というのだから泣けてくる。 ネブカドネザルの息子はエビル・メロダク(アメル・マルドゥク)で、彼の治世は最悪で、バビロニア王国は混乱。そこに現れたナポニドゥスがクーデターによって実権を掌握し、でも政治なんてどうでも良かったので、王になってから3年後にすべてを息子のベルシャザール(ベル・シャル・ウツル)に任せる。その3年後にイランのメディア王国の軍勢が攻め寄せてきてバビロニア王国は滅亡。ベルシャザルの運命は不明だが、バビロニア最後の王ナボニドゥスはメディア軍の捕虜となり、連行される・・・・・・。
これだけの描写ではベルシャザールが王国の支配者としていったいどんな人物だったのかは、まったく分からない。ただメディア軍の侵攻の時、抵抗らしい抵抗を受けず無血のままバビロン市に入城したとされるから、ベルシャザルも威張るばかりの無策の男だったのかも知れないが、でも義侠心から、駄目な父親からなんとか実権を譲り受け(しかし自分が王になるということはせずに)王国の再建を目指そうとするが、迫り来る運命の波に打ち勝てず為すすべもなく彼は破滅。 後に残るは悪名ばかり。という(わたしが最も好むタイプの)別のイメージも透けて来るじゃないか。(・・・・・・無理?)

とまあ、こういう部分で聖書ってまったく滅茶苦茶な創造創作物語なんですよね。
これ以上に気になるのは、このときバビロニアを滅亡させたメディアの国王の名前。 史実(ヘロドトスの『歴史』による)ではバビロニアを滅ぼしたのは大英雄王キュロス大王であるが、『ダニエル書』ではメディア王ダリヨスとなっている。 とても優しい名君であるとされるが、ダニエルを獅子の穴に投げ込むんだよね。 で、この人物はやっぱりキュロスのひ孫であるダリウス1世(大王)のことなんだろうか? とか勘ぐってしまうのだが、史実のダリウス大王はもっとドラマティックな性格だし、聖書には「ダリヨスがバビロンの王となったのは63歳」とか「メデアびとアハシェロスの子ダリヨス」とか書いてあるし、やっぱり別人の架空の人物なんだろうかね。 (アハシェロスという名のメディア王も存在しない) 
 
 

まったく個人的な思い出話ですが、そもそも私がこの人物に巡り会ったのは、高校生の頃の私の心の師だったH.P.ラヴクラフトの夢幻的な中篇小説『インスマウスの影』に出会ったことがきっかけ。 陰気な町の寂しい海岸で主人公は町の秘密を知るひとりの老人に出会うが、おそろしい町の秘密を主人公に語る老人が突然深い海の向こうに「なにかを」見、錯乱して「ネメ ネメ テケル ウブハルシン!」と叫ぶのです。たったこれだけなのですが、この不思議な響きを持つナゾの呪文は長い間私の心の中に刻みつけられたのでした。
聖書ではベルシャザールの饗宴のさなかに突然、光る手だけが空中に出現し、壁に意味不明の語句を書く。 そこへダニエルが登場し、この言葉「ねめ ねめ てける うぷはるしん」は「今日中に王は死ぬ」という意味だと種明かしをするのです。 
2001年2月21日(水)


英雄リスト その52.
ヴィクトリア女王  (位;1837〜1901)
黄金時代の大英帝国に64年間も君臨しつづけた女帝。
叔父ウィリアム4世の死去により、18歳で即位。 従兄弟でドイツ人のアルバート公と20歳で結婚し、そのアツアツぶりは「世界の王室と世界中の家族の模範」と評価されたものだが、アルバート公とは1861年に死別。 
1876年には宰相ディズレーリの入れ知恵でインド皇帝に。
「君臨すれども統治せず」の近代君主制の原則を守り、王室の権威を高めることにも成功。
 
   
  
世界史の授業で、この時代のことをやるたびに上の二枚の写真を取り出して、「これこそ世界史七不思議のひとつ」と言ってしまう(笑)のですが、やっぱり歴史の上で一番怖いのは時間の流れ。

ヴィクトリア女王の時代は大英帝国の黄金時代といわれますが、それはイギリスでこの頃産業革命が大々的に華開いたから。 女王の夫アルバート公が総指揮を取った第一回ロンドン万国博覧会では、素晴らしい出来の工業製品を次々と諸外国に見せつけて、一躍イギリスの栄誉を高めました。

で、産業革命で最大の発明といったら、なんと言っても蒸気機関車
蒸気機関車の発明は、人々の生活と世界に対する考え方を全く作り替えてしまったと断言しても良く、グレートブリテン島の大地は瞬く間に鉄道の網に覆われていってしまいます。
さて、我らがヴィクトリア女王が初めて鉄道に乗るという体験をしたのは、1842年6月13日。
初めて実用化された旅客鉄道ストックトン・ダーリントン鉄道が開通したのが1825年、初めて大都市同士を結んだリヴァプール・マンチェスター鉄道が1830年の開通ですから、女王の初試乗は遅い、と思うかも知れませんが、それは女王の周辺の人々が皆女王がそんな「おそろしい化け物のような機械」に近寄ることを反対していたから。 考えてみれば当然のことですよね。 今、アメリカ大統領に大○航空機に乗れ、なんてきっと誰も言わないでしょうからね。(事実、当時の新聞で「皇太子はまだ若い(1歳)からもし(女王が死んで)摂政政治が行われるようになったら一体イギリスはどうなるか」とまで実際に書いたものもあったそうです)
さて、当日女王は夫君のアルバート公と一緒に(まだ結婚して1年目でらぶらぶ)ウィンザー宮殿の最寄りの駅のスラウ駅に赴き、女王のために用意された特別休憩室などには目もくれず、真っ直ぐ止まっている機関車の近くまで行って、その装備を詳しく検分しました。 それからロンドン市内のパディントン駅向けて、列車は走りだしますが、およそ18マイル半(29.6km)の距離を25分程度かかったそうです。 これは時速に直すと44マイル半/時(時速77km)ぐらい。 当時としては結構速いと思いますが、女王はこの速さにも全然怖がったりせず、降車後、感想を「大変素敵だった」と語ったとか。 
ところが、そのあと彼女は列車に乗ってどこかへ出かけることは極力避け、もしどうしようもなく列車に乗らないとならなくなったときも「時速40マイル以上は絶対に出してはならぬ」と厳命したといいますから、女王かわいい♪
(列車運行中に、連結通路を通って隣りの車両に乗り移ることを、絶対に拒否したそうです)

彼女が1901年に死んだとき、奇しくも遺体は鉄道でワイト島からロンドンへ輸送される事になったのですが、喪主の皇太子エドワード7世が時間にうるさい人だったので、その列車は時速80マイル(128km/時)というイギリス新記録を樹立した、というのは余談。


・・・・・とまあ、私はこんな内容のことを卒論で書きました(笑)。 たったこれだけの内容を原稿用紙10枚ぐらいに引き延ばして(笑) そもそもウチの講座は「イギリス産業革命期の百貨店とスーパーマーケットの流通史」という内容だったのに、どうしてこんな事を書く羽目になったのか?(自分にもわからん) しかも「鉄道とかそういうことはあまり知らなくて指導できないから」とダメ出しをしようとする教授の心配を振り切って。 さらに、最低10冊は専門書を読め、という教授の指示に対し、「あまり知らない」と言った教授の言葉を頼りに、存在しない架空の書名と架空の著者名を卒業論文中に3冊ぐらいまぎれこませたり(笑) 実質、3冊の本だけで卒論を仕上げたのですよ。おほほ。
と、こういういい加減なところは、今でも変わりません………(この経験は、役に立ってるけどネ)

2001年2月25日(日)


英雄リスト その53.
ヴラディーミル聖公  (955〜1015  位;980〜1015)
海賊たち(ヴァリャーグ)により建国されたキエフ・ルーシ大公国リューリック朝の6代目君主。
この王朝、リューリック、“蛇に咬まれた”オレーグ、イーゴリ公、「賢明なるオリガ」、スヴャトスラフ公と、注目すべき大君主を立て続けに輩出していて、ステキ♪ 
それまで自然崇拝をしていたスラヴの民にギリシャ正教を導入することを決め、一貫した世界観に基づく秩序だった統治を造り出そうとしたことが、評価されている。
「このものは偉大なるローマの新しいコンスタンティヌスである。このものは、彼と同じくその地に洗礼を施した」
キエフ聖母教会、聖ヴァシリー教会、ヴァシレフ聖変貌教会を建立。 教育の普及。 法律活動。 「血の復讐」を規制し金銭による罪のあがないを定める。 親衛隊。 兵士&僧侶たちとの合議体制。 合理的な領土の息子たちへの分配。 略奪国家からの脱皮。
 
キエフ・ルーシ大公4代目のスヴャトスラフ(位;964(945?)〜972)の末子。 
異母兄としてヤロポルクとオレーグ(母ハンガリー王女ペレドスラヴァ)がいた。 このふたりの兄に対し、ヴラジーミルは「賢明なるオリガ」(スヴャトスラフの母)女中頭マルフリードの子であった。
父スヴャトスラフは勇猛な武将で、歴代の公の中で最も旺盛な征服活動を行い、東方・大ブルガール族の地(ウラル山脈付近)からカスピ海岸のハザール族、西方ビザンツ帝国のアドリアノープル付近のフィリポポリス、ブレスラウ等に至る広大な領土を占領。 ウラジーミルはこの父から15歳の頃にノヴゴロドの町の公に任じられる (父が出征に当たって自分の領土の支配を息子たちに分配して任せようとしたとき、ノブゴロドの民がウラジーミルを望んだため)。長兄ヤロポルクはキエフ、次兄オレーグはキエフのすく西のドレヴリャーネ族の土地。 しかし972年に父がギリシャ軍と戦った(敗戦)帰途に戦死すると、その後継を巡って三兄弟の間に熾烈で陰惨な争いが繰り広げられることとなる。 父のあとを継いで大公を称した兄のヤロポルクは5年後に同腹の弟オレーグを殺し、続いてノブゴロドまで攻め寄せる。 その勢いに、さすがのウラジーミルも慌てて「海の彼方」(スカンジナヴィア方面)に逃亡。 しかし逃亡先で勇猛なヴァリャーグ(海賊衆)たちを部下とすることに成功したヴラディーミルは、勢力を増してルーシに舞い戻り、980年に兄を破ってキエフ公の地位に就く。
諸部族と大公家>
即位してから彼がもっとも苦労したのは、周辺諸民族の制圧。 そもそも「リューリク朝」はスカンジナヴィアからやってきた少数の支配民族である「バイキング(ヴァリャーグ)=ノルマン人」が圧倒的大多数の被支配民(スラヴ民族)を支配するというものだったから、なおさら土着の民であるスラブ諸部族の鎮撫は大変なものだったにちがいない。 もともと始祖リューリクがノヴゴロド付近の一部のスラヴ部族に招請されてこの地にやってきたという伝説があるから、事情は複雑だろうが、3代目イーゴリ公はドレヴリャーネ族に殺されたし、ヴラディーミルの父スヴャトスラフも、キエフ・ルーシ国の勢力の拡大を怖れたビザンツ帝国の奸計にはまって、南方との戦争に駆り出され、“スラヴのフン族”ペチェネグ族に捕らえられて、頭蓋骨を酒杯にされていた。 ウラジーミルも機会さえあれば反逆しようとするこのような領内/領外の数多くのスラヴの部族を巡撫し、制圧し、帰順させることに生涯を捧げることになった。
ロシア正教会>
歴史上でのウラジーミル1世の最大の功績とされている「スラヴ民族ギリシャ正教への改宗→ロシア正教会成立」(989年)もこの流れの中でとらえられるべきである。 ロシアの日本書紀と呼ばれる『原初年代記(過ぎし年月の物語)にはその経緯が次のように語られているという。 最初、ボルガ地方のブルガール人が来てイスラム教を大公に勧めた。 ウラジーミルはこのときイスラム教が淫行を奨励していること(一夫多妻制のことね)を知ってとても興味を持ったが、一方で割礼の風習、豚肉を食べないこと、飲酒が出来ないことには幻滅を感じた。 彼は「ルーシの民はウォッカを飲むことだけが楽しみなのだ。それが無かったら生きている甲斐が無い」と語ったという。(※あ、ごめん、いま調べたらこのころはまだウォッカは発明されてないです。ただの「酒」に訂正(笑)) 次に、法王の使者の西欧人がやってきてローマ=カトリックを勧めた。 ウラジーミルが彼らに「汝らの戒律は?」と聞いたら「適度の斎戒である」と答えたので、大公は「馬鹿め、帰れ、それがゆえにかつて我らの祖先は汝らを受け入れなかったのだ」と言って、彼らを追い払った。 (※ごめん、ここの話、意味がわからん) その次に、ユダヤ人がやってきてユダヤ教を勧めた。 ウラジーミルは彼らの話を聞いて、「もし神が本当に汝らを愛しているのなら、汝らがこんなに不幸で世界中に広がることはなかったのに」と言った。 最後に、コンスタンティノープルのギリシャ人が哲学者を使わして、大公に最後の審判の話をした。 哲学者は最後の審判の光景が描かれた絵を見せながら、「正しき者は天国へ行くが、洗礼を受けぬ者は地獄の火の中で苦しむことになるだろう」と語った。 (大公がこの話に対してどのような反応をしたかが詳しく分からないが)翌年ウラジーミルは10人の賢者をコンスタンチノープルに派遣して、ギリシャ正教の実態を詳しく調べさせた。 そして、彼らの報告によると「聖都の大教会での勤行は喩えようもないぐらい美しく荘厳で、自分がこの世にいるのか天国にいるのか分からないほどだった」というので、そんな感じで大公は最終的にギリシャ正教を受け入れることを決め、自分の領内の諸民族に対し、正教の洗礼を受けることを強制していったのである。大公自身は少し前に神の意志によって(←おい)目が見えなくなっていたが、大公が洗礼を受けると同時に神の意志によってふたたび目が見えるようになったという…………
…こんな馬鹿な話があるかと思うよね(笑) この本はロシア正教会の修道士によって書かれた本なのでそのあたりを割り引く必要があるが、とくに一番最初のイスラム教に対する反応だけ注目すべきだと思う。 実態は、ウラジーミル以前にウラジーミルの祖母の「賢明なるオリガ」がすでにキリスト教に篤い信仰を持っていたし、それともうひとつは、前々からウラジーミルがビザンツ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを嫁にもらう約束をしていたのに、ビザンツ皇帝がなかなかその約束を果たそうとしなかったということもある。 年代記によるとウラジーミルは、改宗と同時に、それまでの5人の妻と800人のを追放したんだって。 ……ロシア版ヘンリー8世じゃん。
もしこのときロシアがイスラム教を受け入れていたら、世界史はどうなっていただろう、ということだけ考えると、楽しい。

<聖なる大公
 

参考本
週刊朝日百科 世界の歴史38 『黄巣、ウラディミル1世 ほか、朝日新聞社、1989年
井上浩一 『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』 中央公論社、1998年
田中陽児 『世界歴史大系 ロシア史1 9世紀→17世紀』 山川出版社、1995年
外川継男 『ロシアとソ連邦』 講談社学術文庫、1991年
『平凡社 世界大百科事典』CD−ROM版
2001年3月7日(水)


英雄リスト その54.
海陵王 かいりょうおう、完顔亮 (女真名;迪古乃) (1122〜1161 位;1149〜1161)
中国の征服王朝・帝国(女真族)の第4代皇帝。
前皇帝・熙宗(きそう)を殺害して即位。 臣民は皆、暴君だった熙宗に代わって才気で知られた新皇帝が善政を行うことを期待したが、完顔亮は前帝を上回る暴政を開始。 宗室などの旧勢力を抑えて独裁権力を確立する。 彼は中国統一の野望に燃えて自ら南宋征伐に向かったが,遼陽では東京留守烏禄(世宗)が自立して大混乱。  こうした中で彼は部下によって陣中で殺害された。 世宗はのちに彼を皇帝の位から海陵郡王に降し,さらには庶人にまでおとした。
ついこの間文庫化された井上祐美子『梨花槍天下無敵』(学研M文庫)を読んでいたら、次のような記述があってドキッとした。 暗愚というなら、金には先に海陵王という暴戻の皇帝がいる。衛紹王の父の従兄弟にあたる人間で、やはり臣下に弑されたために廟号を贈られなかった。百年強の歴史の中で、臣下に殺された皇帝をふたりも出した金は、どこか尋常な国ではなかったのかもしれない」
海陵王。………って、田中芳樹『紅塵』(詳伝社文庫)で出てきた皇帝・完顔亮のことだよな。 芳樹の中ではこの人物、たしかに暴君だったけど、決して暗愚の人とは描かれてはいなかったような。 
田中芳樹の『紅塵』という小説は、12世紀中国の、北方からの金帝国の侵入と、一時は国土の北半分を金に奪われながらもなんとか踏ん張りきろうとする南宋の奮迅振りを描いたもので、いちばん驚愕するのは「文化に溺れて腐り切っていた帝国が、剽悍な北方騎馬民族の脅威に気付かず、むざむざとその侵入を許し、あっけなく滅び去った」という勝手に私が抱いていた情けないイメージとは裏腹に、宋側にも金側にもあまたの英傑が輩出し、正々堂々とお互いに持てる力を振り絞って激しく戦い合った、という感じに書かれていること。 「岳飛と秦檜」のと「徽宗と欣宗の悲劇」の話以外、ほとんど無名なこの時代について、田中芳樹が「こんなに凄い時代があったんだよー」と威張っている様子が伺えるし、密かにこの時代のファンが多いと言うことも、良く分かるのである。
一応、この本に出てくる英雄は、次のような感じ。(とくに完顔阿骨打(金の太祖)の4人の息子には注目)
大太子(ターターツ)・宗幹(そうかん)=斡本(オベン)   熙宗の父親?
二太子(アルターツ)・宗望(そうぼう)=斡離不(オリブ) ※離の正確な字は(離)の左側部分  熙宗の父親?
(三太子(サンターツ)・宗輔(そうほ)=訛魯観(カルカン)  完顔雍(金の世宗)の父親
四太子(スーターツ)・宗弼(そうひつ)=兀述、烏珠(ウジュ)   熙宗の父親?    
(阿骨打の弟(金の副帝)=呉乞買(ウチマイ)=金の太宗、 阿骨打伯父=粘罕、粘没喝(ネメガ)  完顔亮の父親
岳飛、梁紅玉、韓世忠、韓彦直、秦檜、張浚、劉リ、宗沢、虞允文、魏勝、
ただし、この小説の一番の欠点は、あまりにも名将がたくさんいて、あと抗金の戦いの見せ場を全部盛り込もうとしたためか、時間が行ったり戻ったり錯綜してしまって、全体を通しての印象が散漫というか、統一感がイマイチというか、ラストシーンがパッとしないというか、読んでいるときにちときつかった。 しかしながら、(もうこの本読んでから1年ぐらい経つんだけど)いまでもちょっと気になる人として脳髄の片隅に残っているのが、この「頭の切れる暴君」である海陵王/廃帝亮だったのです。 もちろん暴君中の暴君でありながら、物語の主人公である梁紅玉や韓世忠、韓彦直らが型にはまって堅苦しいのに較べて
(中略)

後世である現代の評価からすると、中華の文明に憧れて騎馬民族としての誇りを忘れた同化政策を行った熙宗や海陵王よりも、ふたたび国政に秩序を取り戻し、また騎馬民族国家・金としての強靱さをふたたび取り戻した完顔雍の方が評価が高い。 しかし明らかに田中芳樹は(あからさまに完顔亮に厳しい書き方をしながらも)完顔雍よりも完顔亮の方に共感を持って描いている。 完顔亮は、もっとも理想的な英雄タイプの人物なのだ。 頭が回り、実行力に富み、容色に優れ、漁色を好む。 きわめてシーザーや曹操や織田信長に似た性質を持っていると思わせる。ただひとつ、部下にも領民にも人望が全くなかったことを除けば。 歴史好き/英雄好きの中には、このようなドラマティックな生涯を送った海陵王のような人物を、「特筆すべき人物」として注目する人も多いかも知れない。 逆に「歴史は未来への教科書」と考えるような人々には、「トップにあるという自覚の無い、あるいは愚かな人物は君主として立つべきでは無い」と言うかも知れない。 あるいは野望だけは高くて、その割には戦争をあまり得意ではなかった(らしい)彼を「全然英雄でない」というかもね。 だけど、「中華の文明に憧れ、中国の文物を愛した」ことを含め、自分の思うがままに行動した彼が、もっとも騎馬民族の誇りを体現していると思うけどね。

(中略)のところに、完顔亮のひととなりを述べた文章を長々と挿入しようと思ったけど、『紅塵』をなんだか職員室においてきてしまったらしい。 だから省略。 どうせ本からの引用が延々と続くだけだから。 でもあそこを書かないと、どうしてワタクシ太陽領がこんなにこの皇帝のことを気に入っているかが分からないね。(うーーん)  
なおこの本、中国史中の「悪の大魔王」の代名詞・秦檜の書き方が、個人的にとても気に入っています。 逆に万人受けすると思われる梁紅玉はなぜかあまり好きではない。 でもって、「悲劇の皇帝」欣宗の最期には、本気で泣きました…・ 海陵帝の最期も哀れ。 んでもって、冒頭で書いた『李家槍天下無敵』は最後まで読んでないんです。 なんだか、中国史だけに限定しますがあまり女性を主人公にして書いて欲しくないね。(なんだかおもしろくない) 中国史は「漢の世界」であってほしい… (別に性差別的意図を持っているわけではありませんけど)
参考本
田中芳樹 『紅塵』、光文社文庫、1990年
ジョン・エドモンズ編 『世界探検アトラス』 ニュートン・ムック、2000年
『平凡社 世界大百科事典』CD−ROM版
2001年3月12日(月)


英雄リスト その55.
女帝マリア=テレジア (1717〜1780)  
     1740-1780 ハンガリー女王   1743-1780 ベーメン女王
オーストリア・ハプスブルク帝国の女帝。 神聖ローマ皇帝カール6世の長女。
ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと恋愛結婚する。父の死後ザンクツィオ・プログマティカにより1740年に全ハプスブルク世襲領を一括相続するが,プロイセンのフリードリヒ2世のシュレジエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続要求によりオーストリア継承戦争に直面。 この戦争によってシュレージェンを失ったが,全世襲領とともに夫フランツ1世に皇帝位を確保した。49年オーストリアとボヘミアの政庁を統合し,軍政,行財政,王領地管理を一本化するなど,戦後は国内改革を進めた。外交でも数世紀来の宿敵フランスとの同盟に成功し,イギリスを敵にまわした。仏露墺同盟によって七年戦争ではフリードリヒ2世を苦しめる。夫の死後,65年から長男ヨーゼフ2世との共同統治のなかで,賦役軽減による農民保護,イエズス会の解散,学制・法制改革,産業育成など啓蒙的諸政策によって近代化に努めた。ハプスブルク王家のなかで,マリー・アントワネットなど16人の子女の母として穏やかな市民的家庭をつくり,政治的にも有能な政治家を周囲に集めて難局に処し,敬虔なカトリックの啓蒙君主として,多民族からなる国民からも国母として敬愛された。
「女帝」という言葉のイメージと、父カール6世の「国事勅書」のせいで、彼女が「神聖ローマ皇帝」であったと勘違いしてしまいそうになるが、彼女はただ「ハプスブルク家の相続者」であっただけで、皇帝ではない。 ただし、実際に全面的に政治を行っていたのは彼女。
わたくし太陽領がこの女帝のエピソードでもっとも大好きなのは、次のはなし。
ゲーテが彼の母親から聞いた話なんだって。
1745年10月に、彼女の夫ロートリンゲン公フランツ・シュテファンがフランツ1世として神聖ローマ皇帝に選ばれたとき、ゲーテの生まれ故郷フランクフルトで戴冠式をおこなった。 マリア=テレジアはレーマー(旧市庁舎)でとりおこなわれた戴冠式には列席せず、フラウエンシュタイン城のバルコニーに立って、夫の帰りを待っていた。
ようやく儀式をすませた夫フランツが帰ってくる。 皇帝の冠をかぶり、重々しいガウンをまとい、神聖ローマ皇帝の象徴である「黄金の林檎」のついた笏をもった夫が近くに来ると、どうしたわけか彼女の目には夫の姿がとても珍妙に見えたらしく、けらけらととめどなく笑い出してしまった。 広場に参集した民衆たちも楽しそうに笑い続ける皇妃を見てつられて笑い始める。 バルコニーの上の皇帝夫妻と、広場の人々の間になんともなごやかに連帯感が生じた。 そのあとマリア=テレジアが人々に向かって手を振ったとき民衆からは熱狂的な挨拶がかえり、万歳の声がいつまで経っても止まなかった。
ゲーテは「このときのマリア=テレジアはこの上なく美しかったそうだ」と書いているのだそうだ。 ゲーテはこのときまだ生まれてなかったんだけど。
うーーん、絵になる(^−^)  このときマリア=テレジアは28歳。 夫のフランツ・シュテファンはロートリンゲンの公子であったがマリア=テレジアが6歳の時にウィーン宮廷にやってきて(異国からやってきた王子ということで心無いいじめなども受けたこともあったらしいが)、宮廷内でごくたまに見かけるこの凛々しい若者を見て、マリア=テレジアの方が一方的に思慕の念を強めていったらしく18歳の時に見事結婚を果たす。 ところが、本によって「フランツ・シュテファンは妻の七光りで皇帝にはなったが政治には才覚は無く、ただし経営の才はずばぬけていたので、財務管理の面で妻を支えることになった」と(ややマイナス気味に)書いてあるのと、「この影の人物すぐれたオーガナイザーであり、人間通だった。 彼には代々のハプスブルク君主には欠けていた経済の才を持っていた。 うちつづく戦争の時代にあって、ハプスブルクの財政が曲がりなりにも持ちこたえていたのは、いちはやくフランツ・シュテファンが取った重商主義政策のおかげである」とあるのがあって、実際はどうなんだか。 まぁ、マリア=テレジア自身が卓越した決断力を持つ理想的君主であって、彼女がほぼ全面的に世界を動かしたんだから、影の夫のことなどどうでも良いんだけど。 ただ、あまりにもこの夫、英国のヴィクトリア女王の夫君アルバート公と似ていてほほえましい。 まあ、フランツ・シュテファンの方は「神聖皇帝として戴冠」し、サクス・コバード・ゴータ家のアルバート公の方はただの「王婿殿下(プリンス・コンソート)にとどまったんですけどね。
で、マリア=テレジアの使用していた祈祷書に、次のような数字を並べた紙が一枚残されていたのだそうです。 「29年6ヶ月6日。29年、335ヶ月、1540週、1万781時間、35万8744分」 ……これは、マリア=テレジアとフランツ・シュテファンが一緒に過ごしていた時間だそうで。おそらく夫の死後、たったひとりになった夜などに亡き夫のことを思い悲しみながらに計算して紙に書き付けていったんでしょうか。ううう…… 泣ける。 ここで「秒」(35万8744分=21,524,640秒)までの計算をやっていないのは(中学生とか高校生なら絶対やるよね)、そこまでの必要を感じなかったのか、彼女が悲しくて悲しくてそこまでやり切れなかったせいなのか、彼女が計算が苦手だったせいなのか、「分」まで計算すれば十分自分の夫への愛を証していると彼女が思ったからか。(←こういうことを茶化すな)
マリア=テレジア、、、、、 思ったより文章が長くなってしまうな。 この項つづく……
2001年3月17日(土)


英雄リスト その55−a.
マリア・アマーリエ、フォン・ハプスブルク (1746〜1804)  
女帝マリア・テレジアの四女。パルマ公フェルディナンドの妃となる。
歴代のハプスブルク君主の歴史を見ていて、一番の問題が、後継者の問題。 「ハプスブルクの最大の武器は結婚」、とか「戦争は他の者に任せて、ハプスブルクは結婚だけしていれば良い」と言われるほど、ハプスブルク一族は婚姻政策を通じてその勢力を拡大していったが、マリア=テレジアやレオポルド2世など、子供を15人以上も産んでこちらをびっくりさせてくれる一方で、カール6世(マリア・テレジアの父)やヨーゼフ2世のように、こどもに恵まれなかったものもいたりして、「こども」というのがハプスブルクの最大の武器であると同時に、最大のネックでもあったのだと思えてくる。

ヨーロッパ最大の啓蒙君主とよばれる女帝マリア・テレジアは、政治の分野では数々の卓越した政策を繰り出したが、彼女は(多分当時は許されなかった)王家の恋愛結婚を創始したことでも画期的、ともいわれる。基本的に彼女は恋愛至上主義(笑)で、基本的にハプスブルクのためになるという部分に主眼を置きつつも、基本的には息子/娘たちの恋愛を重視して、こどもたちの婚姻を整えていった。ええ、基本的には。 しかしそんな彼女の唯一の政治上の失敗が、こどもたちの結婚だったと言われるのも皮肉。 末娘マリー・アントワネットが御存知のようにフランス革命を巻き起こした、というのは有名な話だが、『ハプスブルクの外交革命』と呼ばれるマリー・アントワネットのルイ16世との結婚を皮切りに、それまで数百年も犬猿の仲だったフランス・ブルボン王家との結びつき強化を図るために、子供たちをみなフランス方面に嫁がせてしまったため、ドイツ諸侯の反感を招いてしまったというのは事実。(次女クリスティーネだけは恋愛結婚のすえ、ザクセン王家の傍系の公子に嫁いだけど)

そして、彼女の子供達のなかでもっとも不幸だったのが、四女のアマーリア。
彼女は若い頃に、ドイツの小王国プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国の公子カールと恋に落ち、結婚まで考えていたのだが、母マリア=テレジアの反対で、許して貰えなかったのである。 母が反対した理由というのが「万能の宰相カウニッツが反対したから」というから、救いがない。 で、カウニッツが反対した理由が、身分不相応だからなんだって。 次女クリスティーネの結婚の時は、皇帝フランツ・シュテファンの反対にも関わらず母は娘の味方をしたというから、いったいなんだったんだろう。 カウニッツさん、ザクセン=テシェン公国ではよくて、プファルツ=ツヴァイブリュッケンではダメだったというのは、どうして?
ともあれ、四女アマーリアは母によって無理矢理恋人との仲を裂かれ強引にイタリア・パルマ公国(スペイン系ブルボン家)のフェルディナンドと結婚させられてしまう。 フェルディナンドはヨーゼフ2世の妻イザベラの兄。
当然、こんな状態では彼女はグレるよねぇ(笑)
しかも、彼女の夫になったフェルディナンドという人物が、オーストリアで素晴らしい妻として評判の高かった、ヨーゼフ2世の妻イザベラとは似つかぬ凡庸な男だったから、アマーリアの不満は積もる。 8歳も年上だったし。 彼の趣味は「栗を焼くこと」(笑)と「教会の鐘を鳴らすこと」(笑)だったし。(おいおいっ、ブルボン家ってこんなのばっか?) グレた彼女は政治に関心を持たぬ夫の代わりに、勝手気ままにパルマの政治を操るようになり、夫の忠実な部下たちの言うことをことごとく無視し、女帝の命令を受けてやってきたローゼンブルク伯を追い払い(さすがアントワネットの姉)、政治に卓越した眼を持つ母からの忠告をすべてはねのけた。 母はそんな娘の国を非常に心配したのだが、何を言っても無駄だったため(ここがアントワネットと違うところ)、とうとう母はアマーリエを勘当してしまった。 勘当してどうすんねんアンタ……
やがてフランス革命が勃発し、やがてナポレオンが台頭し、やがてナポレオン率いるフランス軍がイタリアになだれ込んできたので、彼女はパルマを捨ててプラハに逃げ、2年後にそこで死んだ。

惜しいっ、ここで彼女が反体制の志士として、ナポレオンと堂々とした駆け引きを繰り広げてくれたら面白かったのに、と勝手ながら思っちゃったりして。 

あはは、全部本を丸写ししてしまった(笑) いつもは本を数冊は参照するようにしてるんだけどね。今回はしようがない〜〜。
AKINONAさん、この本にはヨーゼフ帝のふたりの奥さんのそれぞれの容貌と性格について、詳しい解説がありますよ〜〜(笑) ってもうすでに、こんなの読んでますか?(泣) …基本書ですもんね。
以前、ヨーゼフ2世に子供がいないのはマザコンだったから? と言ったのは、まったくの見当違いでした。
原因はヨーゼフが「美人が好き」だったから……
っていうか、2番目の妻バイエルン公女ヨーゼファ、、、、 かわいそすぎ、、、、、、、。
2001年3月30日(金)


英雄リスト その56.
無鹽君 ぶえんくん  (?)  
斉の国を救った女性。(?)
宣王の時代、無鹽君という名のひとりの女性がいた。 彼女の容貌は醜く、顔色は黒く、喉は細くてうなじが肥え太っており、腰が曲がっていて、胸は突き出ていた。 よもぎのように乱れまくったその髪は登徒の妻よりももの凄く、ぼろ切れのような衣服は董威の仲間たちのありさまを遙かに超えていた。 はなびせ(鼻の詰まり具合)折アツ(安+頁)と、まかぶらだか(目の周囲のもりあがり具合)高匡に、顎の細さはケンフ(僉+頁、阜+頁)似ていて、その顔立ち全体はまるで隅目(猛獣が目をつり上げて恐ろしく怒ったさま)のようであった。 そんなわけでこの女性、30歳近くになるまで結婚しようとする者があらわれなかったのだ。
ある日、この無鹽君が突然宣王の宮殿に姿を現わして言った。「わたくしは宣王の聖徳が素晴らしいと聞いて、后のひとりにしていただく思い、やってまいりました」 平和のうちに享楽の日々を送っていた宣王は、噂に高い彼女の容貌のことを聞いて興味を覚え、是非一目見てみたいと思って、自慢の漸臺(…宴会の為の台座のこと?)に酒肴を用意し、多くの人々を集めてから、彼女を招き入れた。 集まった人々は、噂以上の彼女の容貌に大笑い。 宣王もことばを発することが出来なかった。
そんな様子の中で彼女、鋭い目をカッと見開いて、自分の手で胸を強く打ち、「危哉、ゝゝ(あぶないかなあぶないかな)4回繰り返して叫んだ。 思わず宣王は「何と申されるか。是非その理由を聞いてみたいのであるが」と問う。 彼女は答えて言う。「大王は現在天下に名の知られた大君主ですが、しかしこの斉の国は西に衛と秦、南に強楚といった強烈な国々がそびえ立っています。 外国に対してこのような三國の難があるのに、いま国内では姦臣どもが好き放題のことをしています。 とくに次の四点が問題です。 ひとつ、王が立って47年になるのに、いまだ跡を継ぐ太子がおらず、なのに王はそのことをまったく意に介さず美人を自分の手元に集めることだけに一生懸命になっています。いったん大事が起こったら、とんでもないことになります。 ふたつ、王は五重の漸臺を建造し、これに黄金を敷き宝石をちりばめて国中の宝を使い尽くしてしまいました。民衆はことごとく疲れ果ててしまっています。 みっつ、この有様に賢者は絶望して山に隠れ、佞臣だけが王のまわりに集まり、偽りばかり申して真剣に国のことを考えるものかなくなっています。 よっつ、王は酒と女のことで頭がいっぱいで、国のことなどちっとも考えておりません。諸侯も礼ということばを忘れ去ってしまいました。 危ないかな、危ないかな!
宣王はこの彼女のことばを聞いて、「いまこの女性が申したことは、すべていちいちもっともなことだ。 まことに我が過ちはひどすぎる。 このままでは我が身も危うくなるところだった」と言って直ちに漸臺を取り壊し、装飾計画を中止し、へつらう家臣たちを追放し、賢者を招き入れ、女や楽しみごとを避け、泥酔を禁止し、太子を選定し、そしてこの無鹽君を礼を持って后と定めたので、斉国はますます栄えるようになった。 この話は中国では「醜女の功」として有名になった………

…………というような話が、『保元物語』を読んでいたらいきなりぽっと出てきたのでちと違和感を持った。 ご存じのようにこの保元物語とは、崇徳上皇と後白河天皇の両陣営に分かれて、源頼義為朝親子 vs 平清盛&源義朝らが激しく戦った「保元の乱」を熱く語った物語だが、上のエピソードは、独裁権力者鳥羽法王が、寵姫美福門院の言うがままに崇徳天皇を廃し、近衛天皇、後白河天皇と、次々と天皇の首をすげ替えることを非難する部分に、おかれている。 ここの部分にかぎらず、この物語(や平家物語、太平記などでも)中国の故事がごちごちと随所で披露されていて、そのたびに首を捻る。 この時代、これらのエピソードは人々に知られた話だったのかな。 私の手持ちの本(岩波文庫)でも注すら置かれてないんだけれど、無鹽君の容貌を比喩するために置かれている登徒の妻、董威の輩、折アツ、高匡、ケンフといった人々の名前は、説明なしでイメージできたのかな? …というか、有名な人たちなの?(醜い顔の代名詞として?) まあ、対象読者は多分宮中の高雅な貴族(?)とか学のある武士とかなんだろうけど。 平家語りとは違うよね? え、そう?
でもって、このエピソードのあと、続いて周の幽王と寵姫褒ジ(女+似)、正妃申后の故事をひいたあと、「よて詩に曰く「婦人長舌ある、是禍のはじめ也、天よりくだすにあらず、婦人よりなる」といへり。長舌とは、いふ事おほくしてわざわひをなす也。是しひて、君を教へて悪をなさしむるにもあらず、亂(乱)の道をかたるにもあらざれど、婦人を近づけ、其詞を用れば、必禍亂おこる也。されば婦人は政にまじはる事なし。政にまじはれば亂是よりなるといへり。史記には、「牝鶏朝する時は、其里必滅」といへり」とか書いてあって、泣けてくる。

無鹽君は英雄的ってわけでなくて、ただ無謀なだけだろう、という感想は放って置いて。

ところで、この斉の宣王の時代っていつごろなんでしょう。「こういう話は所詮『史記』だろう、フフン〜♪」と高をくくって、史記の「斉大公世家」を読んでみたけど、最後のあたりに出てくる「宣公」というのがこの宣王のことなら、そこにはこの無鹽君の話はひとかけらも出てこない。 そもそもこっちのエピソードでは宣王は最後にあんなことを言っているのに、「世家」では宣公の息子の代に、由緒正しい太公望の末裔の国(=斉)は田氏に国を乗っ取られているし。(全然斉国栄えてない) いったい、このエピソードの出典元はどこ? おそるべし、保元物語の無名の作者…………

2001年3月27日(火)


英雄リスト その57.
シェア提督、ラインハルト (中将) 1863〜1928 
第一次大戦中のユトランド沖海戦のときの、ドイツ側の司令官。シェール中将とも。
するどいまなざしと不屈の意志の持ち主。
この海戦の時の敵艦隊(大英帝国)の指揮官はシェアとはまったく正反対の性格を持ったジェリコー提督であったが、素晴らしい好敵手に恵まれたお互いが対峙する激しい戦闘の場においての、持ちうる限りの策のぶつけ合いって、恰好いいィィィィィィ〜〜!!
第一次世界大戦、……わたくし太陽領が最も愛する戦争のひとつです。
おっと、もちろん、戦争などという現象を賛美することは、ひととしてしてはならぬ事ですが、そういった倫理的な点は取りあえず置いておいて、「帝国主義」という16世紀からつづく拡大政策合戦の行く末の果ての果ての最終決着がなされたということと、「総力戦」と「新型兵器の登場」という新たなタイプの「現代的な」戦いというものが切り開かれたと言うこと。 戦争というものが「極限の場における人間と人間の知力のぶつけ合い、絞り合い」だと考えた場合にこの戦争ほど興味深い物はないわけです。

多分、世界史の授業なら必ず先生はこう言うと思いますが、この大戦を仕掛けた張本人、つまりドイツにとっては、これはかなり危険な賭けでした。 それもかなり勝ち目など期待できそうもないような。 だって相手は英国、フランス、ソ連ですよ。 ナポレオンの例を引くまでもなく、英国一国を相手にするだけでも、かなりしんどいことは分かり切っています。 産業革命という最高峰の概念の体現者でありますし、世界中に多くの植民地を有していて工業資源は無尽蔵、国際的な発言力も大きい。 新参弱小国のドイツにとっての勝ち目があるかもしれないこと言えば、その英国がおのれの強大さに酔って油断をしてくれることと、その強大さによって機敏な動きが取れなくなること、そして伝統的な考えに凝り固まった英国の上を行く、画期的な理論でもってなんとか出し抜くことであったでしょうか。(自分で書いていて「こんな抽象的な言い方でなく具体的な策を示せ」とか思ってしまう。 でもドイツはそれを成し遂げたんだからなぁ)

1905年の日露戦争(日本海海戦)で、ヨーロッパ列強は「これからは戦艦の時代」と思ったそうです。 そりゃそうだ、地図で見たらロシアと比べてやたらちっぽけな国である日本が対等に戦うことが出来たなんて、戦艦の威力というものにみな驚異の念を抱いたに違い有りません。 しかし、当時世界で最も強力な海軍を有していたのはもちろん英国。 ナポレオンを翻弄した隻眼隻腕の猛将軍ネルソン提督は言うまでもなく、スペインの無敵艦隊を嘲り笑う活躍を見せた海賊キャプテン・ドレーク艦長の時代から、英国の海軍力にかなう者は無く、英国もそのことに大きな自負を持っていたに違い有りません。
ところが、野心高い皇帝ヴィルヘルムを戴くドイツは、この英国の海軍力に対して敢然と競争を挑みました。 若きカイゼルは「ドイツの未来は海にあり」をスローガンに、本拠地ヴィルヘルムスハーフェン海軍基地を大幅に拡張し、工廠を相次いで建設し、バルト海と北海を結ぶキール運河を建設し始めます。 1897年に海軍大臣となった有るフレート・フォン・ティルビッツは、「リスク理論」という摩訶不思議な理論を打ち出して、強力な海軍の育成を短期間で押し進めます。

この『リスク理論』、簡単に言えば、「イギリス海軍の最大の弱点は、イギリスが持っている植民地の総てにイギリスが持っている貴重な戦力を分散させなければならないと言うことである。 ドイツは北海とバルト海だけに目を向けておけばよい。 イギリスが全力を出せばドイツ海軍など一捻りであろうが、ドイツにとったら北海とバルト海は命の綱だから、とうぜん死にものぐるいで戦し、 ドイツ帝国の力を振り絞って絶対に英国側にも甚大な被害を被らざるを得ないような精錬された戦力を揃えて置くから、イギリスよ、覚悟しておけ」というようなものです。 ……最初からこんな喧嘩腰でどうする。 でもこの脅しがのちのち第二次大戦のチェンバレンの宥和政策にも響いてるんですものね。
まあとりあえず、ティルビッツはこの宣言を実行に移すべく、38隻の艦隊を建造することを目的にかかげます。 当時の英国艦隊の保有鑑が52隻、建造中が12鑑だったそうですから、まだまだかないはしないものの、それでもかなりな脅威ではあります。 こんなわけで、ターゲットとされた英国も、うかうかは出来なくなりました。 英国軍人の中でもっとも戦闘的・果断的性格で知られていたジョン・フィッシャー海軍第一本部長は、英国の総力を挙げてドイツの野望をうち砕くべく、一隻の画期的な軍艦を建造します。 それが我が国の言葉でも「弩級」とか「超弩級」とかの比喩的表現で知られる戦艦「ドレッドノート」です。 この恐るべき戦艦、これ一隻さえあればそれまでのどの戦艦が束になっても太刀打ちできないような装備を備えていたんだそうです。 さぁ、どうする、ドイツ。

ところが、ドイツの海軍の人たちは、この「ドレッドノート」完成の噂を聞いて、ほくそ笑んだ(と思います)。 だって、これ一隻有れば他の船は敵わないんだから、ドイツも真似して似たような装備を積んで似たようなの大きさのを一隻造れば、それまでイギリスが保有していた大艦隊を考慮することなく、1対1の戦力比になってしまうのですから。 イギリスが更に1隻造ったらドイツももう一隻造ればいいんです。 もちろんその分必要な資源は増大しますが、ドレッドノートの規模の関係上、さすがのイギリスでも量産は出来ません。 そして、器用で勤勉で知られるドイツ人は、イギリス製の製品よりも精度と性能の良い機会を造ることにかけては、思いっきり自信がありました・・・・・・・

(……つづく)



英雄リスト その58.
フランクリン、ジェイン・フランクリン (19世紀後半) 
フランクリンったって、アメリカ独立戦争の万能英雄;ベンジャミン・フランクリンとか第二次大戦大勝利の立て役者フランクリン=ルーズベルトとかじゃないです。 新しもの&刺激好きの自国民の大きな期待を受けて北極一帯を探検し、そして悲劇的な死を遂げた英国の大探検家、ジョン・フランクリンの奥さん。
夫の死を納得することができず、私財を投げ打って、12年間も夫の消息をたどるための探検隊を送り続ける。
その結果、夫の業績よりも多くの成果を挙げることになってしまったのは、皮肉なことです。
それにしても19世紀の後半になってもなお、南極と北極という巨大な探検処女地が残っていたということは、なんだか羨ましい限りっすね。 「ピアリーに北極点初到達の名誉を奪われたノルウェーのアムンセンが目標を南極に転じ、英国の“南極の”スコットと南極点初到達の激しい争いを繰り広げた」という有名な物語から、北極探検の決着が付いてから南極探検が始まった、という先入観を抱いてしまいがちですが、実際には北極と南極の探検は交互に為されていた。 で、当時のイギリスの国民は、毎年地球の両端の極地から届く自国の探検隊の新しい成果を非常に楽しみに待ち、そして自国の英雄の華々しい活躍に、熱狂していたのだ。 ああ、英雄好きにとってこんなに涎が出そうな夢の時代は無いや。 うーーん、私も現在展開中の「火星探索」や「木星探査」のニュースを積極的に収集してみよう、という気になりますわい。
しかし、地図帳で見るとこの海域の数多くの島には発見者の誇らしさが感じ取れるような人名に由来する固有地名があふれかえっていてこっちまで楽しくなってくるし、島が多いとはいってもただ西に進むだけで単純に海を抜けられるような気がしてくるのですが、(当たり前の話だけど)ここのあたりには無数の涙無しには語れない物語が存在するのでした……
1815年にワーテルローの戦いで悪の帝王ナポレオンにとどめをさし、名実共に“七つの海の覇者”となった大英帝国ですが、そうすると手っ取り早く欧州から東洋へと抜けるルートというものが必要となってきます。 というわけで英国政府が目を付けたのはカナダの北岸を通って大西洋から太平洋へと滑り抜けるルート、いわゆる「北西航路」の開拓でした。 当然そこは北極圏ですから、想像も付かないほど寒く、一年の大半は氷に閉ざされ、危険な流氷や氷山がうようよし、未知の大小さまざまな島々が無数に点在して水路は迷路をなし、大陸沿岸には獰猛な原住民まで出没する、というとんでもない状況の場所だったわけですが、この海域によせるあまりの期待の高さから、「北極海のどこかに氷に行く手をはばまれずに通り抜ける航路が存在する」とか「北極点の付近は氷の無い穏やかな海である」などという噂まで立つ始末でした。 英国の海軍省は1744年と1776年に「大西洋から太平洋へ抜ける航路を初めて発見した者に2万ポンド、また北緯89度に到達した者には5000ポンドの賞金を与える」と発表しており、そのこともこの地への探検熱を燃え上がらせる原因となっていたのです。 スエズ運河やパナマ運河の工事もまだ竣工されていないし、ボーア戦争はまだ100年以上も先のことでした。
英国海軍省は1818年からこの海域の本格的な探査を開始し(このとき派遣された2隻ずつ2部隊の軍艦に、デーヴィド・バガン、ジョン・フランクリン、ジョン・ロス、エドワード・パリーという4人の歴史に名を残した指揮官が参加)、このときの探検隊は大きな困難に次々と出会いながらもこの航路の将来性にある程度の目星をつけることが出来るようになります。 このときの探検で最も目覚ましい成果を挙げたのはエドワード・パリーで、ロスが誤って思いこんだ「西への行く手を阻むクローカー山脈」など存在しないと証明し、ハドソン湾を探検し、はるか西のバイカウント・メルヴィル海峡まで到達していました。

その後、とつぜん南極探検ブームが到来し、1834〜43年に英国探検隊が膨大な成果を上げた後、ふたたび北極へと目が向けられるようになります。 新たに英国政府が用意したのは「エレブス(地獄)」号「テラー(恐怖)」号という2隻の軍艦。 指揮官は以前一度陸地からカナダ北部沿岸を探検したこともあるジョン・フランクリン卿(59歳)でした。 どうしてこんな縁起の悪い船の名前、そしてたった2隻の小型帆船?、と思うですが、この2隻の船は小型ながらも当時最新鋭の「補助蒸気エンジン」を積み、直前の南極探検にも多大な成果を上げている、名高い船だったのです。 この探検隊、3年間の探検航海の予定で、国民から熱い祝福を受けて、1745年英国を出発したのです。
ところが、この探検隊、期限が過ぎても帰ってこなかったのです。

「行方不明のフランクリン隊の消息を!」という英国民の熱い声に押されるように、公私両方の数多くの探索隊が結成されます。 当然それをもっとも強く要求したのは、フランクリン隊長夫人のジェインだったでしょうが、彼女は自らも私財をはたいて探索隊を組織してみずから陣頭指揮を執り、国民の厚い尊敬を得ます。 (もちろん自分は北極まで行ってないですけど)
結局、「ハドソン湾岸会社」の組織した探索隊が、数多くの島々のほぼ中央にあたりのビーチー島という小島に、氷に閉ざされたフランクリン隊の船を発見し、そこに残された記録から、2年目の冬に指揮官のフランクリン卿は力尽きて死に、そして近くに彼が埋葬されたあとも発見し、探索は一応の決着を見ます。
しかし、夫人だけはこの結末に納得しませんでした。 船に残された記録によると、夫が死んだ半年後に、出発したとき乗っていた134名の乗組員のうちまだ105名が生存していて、彼らは氷に閉ざされて永遠に動けない船を捨てて、捕鯨用のボートに乗って近くの島を目指した、という事が分かったからです。 夫の死を確認したとはいっても、彼が深く信頼していた部下達の行方が分からないままでは、本当に夫の死の哀しい真相全てを解明したということになるでしょうか? また、135名もの人間を率いていた偉大な人物の遺族として、自分の親族だけを発見してそれで事足れりとしてしまって、責任を果たしたことになるでしょうか?
フランクリン夫人は、家屋敷を売り払い、知り合いの家を回って資金の寄付を請い、12年間かけてさらなる探索隊を派遣しつづけます。 その結果、船を脱出した者のうち数人がなんとアメリカ大陸にまで徒歩で到達し、しかしそこで全滅していたことを突き止めたのでした。
一方で、この一連の探索隊の調査結果により(フランクリン隊の犠牲者よりも多くの死者が出た、と悪口を言われつつも)、この海域の島々の詳細な海図が完成したのでした。

参考本
庄司浅水 『秘められた世界史』、社会思想社現代教養文庫、1990年
ジョン・エドモンズ編 『世界探検アトラス』 ニュートン・ムック、2000年
『平凡社 世界大百科事典』CD−ROM版
2001年5月4日(金)
Home / 58〜65