←『オーランスは死んだ』です。
……で、この絵って何が書かれているんだろうって、悩むことしばし。 |
59.汲黯 | 59.ブカイヤ平原の農民たち
(番号が重複しちまったい) |
60.ゴドフロワ・ド・ブイヨン |
61.キャクストン | 62.ウィンストン・チャーチル | 63.李信 |
64.崇偵帝 | 65.プスセンネス1世 | 66.アルフォンソ10世 |
67.マヂソン艦長 | 68.異端アリウス | 69.ユースフ・イブン・ターシュフィーン |
70.アッティラ大王の孫 | 71.ユダス・マカベウス | 72.アギーレ、神の怒り |
73.パルミラのオダイナス | 74.元帥夫人レオノーレ・コンチーニ | 75.シェイフ・ベレケ |
漢の武帝の時代初期の官僚。 史記に「汲鄭列伝」アリ。
武帝がまだ太子だった時期から武帝に仕えていた。
彼は硬骨で知られ、漢の王室や皇帝に対する忠誠心は並々ならぬものがあったが、それがために皇帝に対し何度も厳しい直言を繰り返す。 最初の頃は武帝も「帝国には社稷の臣(国家の柱となる忠臣)が必要だが、黯のような人物はそれに近い」と言って大事にしていたが、やがてそれが度が過ぎ聴くに堪えなくなってきたらしく、その言葉をまったく用いなくなってしまう。 それ以上に彼が武帝に軽んじられた最大の理由は、彼が黄老思想(=無為)に傾倒していて、文帝景帝時代の「休息の時代」を最上の状態とし、それが当時急速に高まっていた儒学の興隆、また才気溢れる若き皇帝がおこないたい政策とまったく合致しないためだった。 とはいえ、「何もしないままが良い! 自然の状態が一番良い!」と主張しながら皇帝にガンガンぶつかっていく姿はステキ。
で、皇帝に全く意見を聞いてもらえなくても彼は頑固に自分の姿勢を変えず、一方で皇帝の意を察した策を上奏して次々と出世していく「口ばかりの」者たちを苦々しく思いながら、その不満を周囲にぶちまける。 そしてごくごく稀に皇帝が思い出したように彼のことを思い出すと「もう忘れ去られていたと思っていましたのに」と感激の涙を流すのだ。
まるで、古代中国版・大久保彦左衛門。 あるいは福島正則みたいだ。 まったくかれは最初から最後まで報われないが、しかしこうした人物が好きそうな司馬遷によって、史記に列伝が残され、後世に名が残ることになる。
そうした彼と激しく対立したのは「酷吏列伝」で有名な張湯で、それ以外にも敵は非常に多かった。 しかし、まったく当時の混沌とした漢宮廷のなかで、不遇ながらも、汲黯のような「畏れ知らず、悪口ばかり、敵作りまくり」の人物が生涯を全うすることができたことは、ほっとすることだ。 汲黯の進言に辟易としながらも、若い皇帝が自分の信念に基づいて「頭ガチガチの融通利かず」の汲黯の言を、いろいろ理屈づけて退けていく武帝の姿にも安心する(そのうち無視するようになってしまうが)。
逆に、敵に回す人物の方が多かった彼に対して、数少ない好感のエピソードを残した人物、たとえば宰相・公孫弘や大将軍・衛青とのかかわりは、とても興味深い。
晩年の武帝宮廷の救いのない様子と比べると、それはなおさら。
おそらく、汲黯のような「保守」「旧態維持」の偏屈且つ攻撃的な人物など、どの時代にもどの国にも同じように数多くいたのだろうが、たまたま彼は司馬遷と同時代人だったために名前が残った。
漢の武帝がおこなった数々の目覚ましい事業に汲黯はまったく関わることはなく、逆に彼はそれらに反対ばかりしていた姿ばかりが目に付くが、彼の存在は、(逆の意味でも)武帝に自分の政策の意義を確認させるぐらいの役には立っただろうか? そして司馬遷は、どんな考えで彼の歴史に汲黯のような人物を採用したのだろうか?
第一回十字軍がシリアに押し寄せたとき、周辺都市のイスラム君侯は災難を畏れて十字軍に支援を申し出、一般の住民たちは自分たちの土地から一斉に逃げ出した。 そのような中で、シリア中部・ブカイア平原の農民たちの取った方法、そしてその驚嘆すべき結末は......。
難攻不落のクラック・デ・シュヴァリエ(騎士の城)の物語。
1098年にフランク人たちが猛攻の末にアンティオキアとエデッサを陥落させ、またマアッラで有名な大虐殺と人喰いをおこなったことは、周辺の人々にとてつもなく大きな恐怖を与えた。 進軍中のフランク人たちが「エルサレムへ!エルサレムへ!」と大きな叫びを上げていたため、シリアの住人たちはしばらくじっと堪えていれば、フランク人たちはまもなくシリアの土地を過ぎ去ってしまうだろうと思った。 小国シャイザルのスルタン、イブン・ムンキズが、進入してきたフランク人の隊長サンジールに使いを送り、食糧の供給、馬の売買、案内役の提供を約束する協定を結んだのをはじめに、都市の諸領主たちは献上品を持った使節を次々と送り、フランク人の軍隊に対する恭順の意を明らかにした。一方で、一般の住民たちは、おそろしい軍隊に直接関わり合うことを避けるように、近くの森や、内陸部の山地や、あるいは昔建てられたまま放置されていた古い城塞などに立てこもる。 先祖代々の土地を離れ、それらの土地が異教徒たちの軍隊に蹂躙されるがままに任せ、決して安全とはいえない(猛獣かたくさん住んでいる)僻地に身を隠すのは大変なことであったが、それでも「見つからないように身を隠していれば、やがて彼らは通り去る」ということが分かっていたからであった。
ブカイヤ平原に住む農民たちも、どこか安全で自らの身を守れるところに隠れ込もうと思った。ちょうど彼らの集落からわずか離れた荒涼とした丘陵(アンサリーア山脈、シリアの内陸平原を見渡せる)の東側の麓に、「ヒスヌ・アル=アクラード」(「クルド人の城」)という名の、古びた、しかしながらとても頑丈な城があった。 住民たちは、家畜・小麦・油などの食料を大量に運び込んだ上で、籠城を開始する。 しかしながら、長引く行軍で食糧が不足傾向にあったフランク人たちの執拗な追跡と鋭い嗅覚により、数日後、運悪く発見されてしまったのである! 怒濤のようなサンジール率いるフランク軍は、険しい城壁を登り始め攻城を開始。 しかし、重装備の十字軍兵士に平凡な農民たちではまったく打つ手がないかと思われたその瞬間、砦のあちこちの扉が開き、そこから何十頭もの家畜が飛び出してきたのである。 戦利品目当てに戦っていた下級の兵士たちは戦いなどそっちのけで、我先に家畜を追い始め、隊長たちの叱咤もむなしく戦場は混乱状態になってしまった。 この有様をみて勇気づけられた農民たちは手に武器を取って出撃、家畜を追いかけて護衛の兵士までが散り散りになっていたフランク人の隊長サンジールを捕虜にする一歩手前まで迫ったので、フランク側は退却を余儀なくされてしまった。
翌日、守り手の農民の頭が切れることを知ったフランク勢は、今度は用心をしながら砦の攻略を始める。 今度は、なかなか農民の方も姿を現さない。 罠を怖れ、策略におびえ、いったいどんな作戦で農民たちが現れるか、と寄せ手側の極度の緊張状態がつづいたあと、実は、砦の中は無人になっていたことが明らかになったのであった。う〜〜ん、なんだか映画や漫画の映像を見ているようだーー。
この後、フランク側もいったんこの砦を放棄してしまったようであるが、およそ10年後の1110年、アンティオキア侯タンクレードがふたたび占領し、まもなくこれを聖ヨハネ騎士団が譲り受けた。 この間、アンサーリア山脈とレバノン山脈の間の間道で、地中海岸の重要都市トリポリと内陸部の都市ホムスを結ぶホムス街道の重要拠点として、城塞は改築に改築を重ねられ、難攻不落の石の壁を持つ大城塞に成長した。 この砦は新たに「クラック・デ・シュヴァリエ」と呼ばれるようになり、別名「イスラム教徒の喉の骨」とうとまれ、1271年まで対イスラムの最後の砦としてがんばった。
参考本
アミン・マアルーフ 『アラブが見た十字軍』、ちくま学芸文庫、2001年
ジョルジュ・タート 『十字軍 〜ヨーロッパとイスラム・対立の原点〜』、創元社 知の再発見双書30、1993年
『戦術戦略兵器事典 〜ヨーロッパ城郭編〜』、学研1997年
2001年5月17日(木)
第一回十字軍の中心的人物。 勇敢で誰にでも慕われる性格の持ち主で、十字軍騎士中随一の勇士。
武勲詩『アンティオキアの歌』『イェルサレムの歌』、ヘリャスの『白鳥の騎士』などに美しく語られているという。中学時代になけなしの小遣いをはたいて買ったわが人生の決定の書『アーサー王の死』の序文で、出版者ウィリアム・キャクストンが次のように書いていたのが、ずっと頭に残った。「そもそも、過去の偉大な最上の人物は九人いるというのが世の通念となっております。 すなわち異教徒が三人、ユダヤ人が三人、キリスト教徒が三人です。 異教徒はどれもキリスト生誕以前です。 一人はトロイアのヘクトル。 このひとについてはすでに韻文でも書かれています。 もう一人はアレクサンダー大王。 三人目はローマ皇帝ジューリアス・シーザーです。 この人についての歴史はあまりにもよく知られています。 三人のユダヤ人もやはりわが主イエス・キリストの御生誕前の人たちです。 一人はヨシュア公です。 イスラエルの子供たちを、約束の地に導いた人です。 もう一人はエルサレムのダビデ王です。 もう一人はユダ・マカベオです。 この三人の気高い事跡は、聖書に書かれています。 さて、キリスト生誕以降三人の気高いキリスト教徒が、世界いたるところで九大偉人の数に入れられ、認められるようになりました。 その筆頭が、高貴なるアーサー王であります。 アーサー王の気高い事跡については、この書にこれから書き記すつもりであります。 第二はシャルルマーニュ、つまりカルル大帝で、この人の記録はフランス語や英語で方々に書かれています。 第三人目で最後の人は、ゴドフロワ・ド・ブイヨン。 この人の事跡や生涯について書いた書物を、私は気高い思い出を残されたかの名君エドワード4世に捧げました」当時、日本史の方により興味を持っていた中学生。 アーサー王の本に手を伸ばしたのは、J.H.ブレナンの『ピップシリーズ』を始めとするゲーム本の影響が大だった。 当然世界史の知識などほとんど無い。 そんなときに、アレクサンドロスやカエサルやシャルルマーニュはまだしも、「ヨシュア」、「マカベウスのユダ」、「ゴドフロワ・ド・ブイヨン」の未知の名にはぐっときた。 「西欧世界では誰でも知っている名前が、日本では全然流通していないのか?」 「世界はわが想像を超えて広いのか?」みたいな。(くりかえしますが、ワタクシ当時中学生です) で、「ヨシュア」と「マカビー」の両名の事績は『旧約聖書』を読むことで解決が出来たのですが、最後にひとり、ゴドフロワ、なかなか本に名前が出てこないのね。 出てきたとしても、どうしてキャクストンともあろうひとが「世界を代表する九人の大英雄のひとり」と歌い上げるほどの人物なのかが、ちっとも分かってこない。
結局、ゴドフロワについてのある程度のイメージを掴むことの出来たのは、ネットに親しむようになってからでした.......。フランスのブローニュ伯の次男。 叔父の領地であったブイヨンの地を受け継ぐ。
下ロレーヌ公ゴドフロワの娘と結婚して、下ロレーヌの継承権をも得たため、フランス貴族の子息でありながら、神聖ローマ皇帝にも仕えることとなった。 当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、「叙任権闘争」でローマ法王グレゴリウス7世と激しく争っている最中で、ローマと皇帝の争いに乗じて反皇帝派諸侯が担ぎ出した対立皇帝ルドルフも現れ、混乱した状況であった。 このときゴドフロワは皇帝ハインリヒの手足となって戦い、反逆したルドルフ大公を激しい戦いのすえ刺し殺したのは、ゴドフロワ自身だといわれている。 また、勢いに乗ってローマに進軍した皇帝軍の先鋒として立ち、一番乗りしてローマの城壁に攻め上がり、そのまま城内に突入したともいう。
この功で、皇帝はゴドフロワの下ロレーヌの領有を承認。そうひウルバヌス2世がクレルモン会議で十字軍を提唱すると、ローマ法王に対して反感を持っていた(←ウルバヌスはグレゴリウスに親しい間柄だったため)皇帝ハインリヒの意志に反して、ゴドフロワは兄弟のボードワンとともに、財産をはたいて騎兵千、歩兵七千を揃え、それを引き連れて真っ先に参加を表明。 これは、ゴドフロワがロレーヌ地方で盛んだったクリュニューの改革運動の気風を強く受けており、その「キリストに従え」という理念と法王ウルバヌスの呼びかけが彼の中で強力に混じり合って、激しく彼を揺り動かしたからだと言われる。
※あの時代にあって、あの個性的な王ハインリヒのために戦ったこと(義侠心があったのならその反対をおこなうという道もあっただろう)、宣言を発した法王ですらも一体誰が参加するだろうと疑問で一杯だったクレルモン宣言に間髪入れず乗っかってしまっていること。「にも関わらずこれに参加したゴドフロワは、かつて教皇のローマを攻めたことを深く後悔していたのではなかろうか」などと書いてあるサイトもあるが、私はただ単純バカなだけだった気がしてしかたがない。(英雄とはそれでいいんだけどね)「ウルバヌス2世の呼びかけは、教皇自身も驚くほどの反響を巻き起こした。 トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジールが呼びかけに応ずるだろうことは予想されたが、それ以外に次の三組が参加を表明したのである。 すなわち下(バス)ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨン、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ、そしてノルマン貴族ボヘモンドとその甥タンクレード。 これら合計四組の騎士たちの胸には、罪の赦しを得たいという宗教的動機を越えて、東方で国を築き、その主人になりたいという野望が秘められていた」(ジョルジュ・タート)ゴドフロワは1096年、彼の元へ参じ4万にも膨れ上がった軍を率いて、ハンガリーを出発。 11月にコンスタンティノープルに到着。 ここで他の軍勢と合流する。 ビザンツ皇帝の娘の日記で有名なボエモンドのような一般のフランク人の傍若無人ぶりとは裏腹に、ゴドフロワは東ローマ皇帝に対して丁重な礼をおこなったことで、名を高めている。 コンスタンティノープルで高まる十字軍同士、あるいはローマ人との内紛を解決するために、十字軍の目的を「聖地エルサレムの解放」にすることを提唱したのはゴドフロワとされる。 進軍の途中、策謀でエデッサのトロスの養子となったボードワン、アンティオキアに留まったボヘモンドらの離脱もあったが、ゴドフロワ率いる(ただし名目上の総大将は他にいた)フランク軍はエルサレム目がけて一斉に進軍。 包囲戦のすえ一月あまりでこれを陥落させた。 (詳しい戦いぶりは、専門サイト『戦術の世界史』さんで♪) 真っ先にエルサレムの城壁上に立ったのは、またもゴドフロワであったという。その後、エルサレムの統治者として、ゴドフロワとレーモンが候補にあがったが、協議の結果、勇敢にして公明誠実なゴドフロワが選ばれることとなる。 しかしこれは、他の強力な影響力を持つ有力人物達が、トゥールーズ伯よりはまだ大した勢力をもっていない下ロレーヌ伯の方が扱いやすいと思ったからにすぎない。
エルサレムの初代統治者に選ばれたゴドフロワはしかし、主が十字架にかけられた神聖な土地に王が存在などしてはならず、その墓を護る者さえいれば良いと考えた。 ゴドフロワは王の称号を拒み、かわりに「聖墳墓教会の守護者」なる称号を名乗った。しかしながら、当初の目標である「聖地エルサレムの奪回」を果たした十字軍兵士達は、自分たちが思う存分あさり倒した宝物を故郷へ持ち帰るために、続々と帰途に就いてしまう。 後に残されたごくわずかの兵士が都市を防衛するのは、過酷な状況になっていった。 そしてエルサレム占領から1年もたたないうちにゴドフロワは急死。 エデッサ公となっていた弟のボードワンが、ボードワン1世として初めてのエルサレム王国国王に。 エルサレム王国は、それでもほそぼそと2世紀近く続いた。
とまあ、確かに卓越した騎士とは認めるものの、ゴドフロワが最上の君主、と評価するのには納得できませんよね。 「少し話は戻るが、自分が呼んでおきながら十字軍の予想以上の兵力に肝を抜かれたアレクシオスが、ユーグを人質に取って十字軍を抑制しようとした際には、ゴドフロワはアレクシオスへの報復のために略奪を奨励したともいう」、とかも書かれているし。 これはきっと、最初のキャクストンの序文にも書かれているように、キャクストンが以前書いた本を再び売り込むための、ただの宣伝文句ってことで納得しよう。 しかしまあ、いちいち映像にするとしたら、素晴らしく絵として映えるであろう男であることは認める。 岳飛みたいな。
参考本
騎士トマス・マロリー 『アーサー王の死(抄訳版)』〜中世文学集T〜、ちくま文庫、2001年
ジョルジュ・タート 『十字軍 〜ヨーロッパとイスラム・対立の原点〜』、創元社 知の再発見双書30、1993年
『世界歴史事典7 コウ〜コン』、平凡社、1952年
イギリス最初の印刷・出版業者。
前半生は毛織物輸出商組合の商人として活躍,最初ネーデルラントおよびドイツに活動の場をおく。たぶん76年,ロンドンに。 彼は宮廷・貴族層をパトロンとし,《カンタベリー物語》《アーサー王の死》など写本市場での有力商品を活字化し,主として貴族の愛好品であった多くの中世末フランス語のロマンスをみずから翻訳・印刷・出版した。
印刷の技術水準は高くないが,商人らしい堅実さでイギリスに活字本を定着させた。若い頃の私に対して決定的な意味を持つこととなった英雄の書、『アーサー王の死』は、15世紀生まれの騎士トマス・マロリーが書いた。 それを出版したのが英国の近代出版業の父と言われるウィリアム・キャクストンである。 騎士トマス・マロリーは“ばら戦争”中の英国の“色男王”エドワード4世の配下であった騎士だが、本当に「誇り高い騎士道の理想」を高らかに歌い上げた『アーサー王の死』の作者か? と疑いたくなるぐらいに滅茶苦茶な人物だった。 1445年議員として立候補、1450年バッキンガム公ハンフリー暗殺未遂、強姦、1450年に二回、1454年に4回、家畜の強奪、1451年教会荒らし…、などをして数度投獄されは脱獄を繰り返すという人物だった。 1462年以降、国王に敵対したランカスター派の味方をしたことで国王に捕まり、獄中で『アーサー王の死』の執筆をし、それを完成させた一年後に獄中で死亡した。 このような「中世的な人物の権化」という感じの“悪の”(←異論もあり)騎士と、その彼が書いた著作を校訂して世に送り出した「近代出版業の父」は、まったく正反対の人物のような感じがするが、実はこのふたり、ほぼ同時代の人物だった、ということを聞いて、とてもとても意外な感じがしたものだった。そのウィリアム・キャクストンも、生涯のほとんどがよく分かっていない謎の人物だとされる。 いや、資料が少なすぎて生涯がナゾ、というのではなく、逆に、彼が生涯に出版した書物の中で、自分について語った部分はたくさんあるのだが、そのそれぞれが矛盾しているところや飾りすぎて(常套文過ぎて)いるがために、結局実際の所が不明なところ多いというのだ。 ううう〜ん、こういう人物ステキ♪
“ヨーロッパの活版印刷の父”と呼ばれるヨハネス・グーテンベルクが、高名な『グーテンベルク聖書』を世に送り出したのは、1455年頃、彼の活躍の場はドイツの中心都市のひとつ、マインツである。 最初はグーテンベルクは彼の印刷の技術を「門外不出」としていて、そのワザは“妖術”とされていた時期もあったが、グーテンベルクから印刷の技術を引き継いだヨハン・フストの工房が1462年にナッソウのアドルフ2世のマインツ攻撃に巻き込まれて全焼し、その職人達が散逸したことで、印刷術はヨーロッパ中に散らばった。 とりわけ、何百年も「木版印刷術」の伝統があり欧州の商業の中心地でもあったネーデルラント地方には、高度な印刷の技術がそっくり移住することになった。 キャクストンはこのときたまたま、ネーデルラントの都市ブルージュに住んでいた。
キャクストンが、毛織物業界の「商人あがり」だったということも、なんだかそれらしいね。 (ちなみに、グーテンベルクは鏡職人、その協力者であり敵対者でもあったフストは実業家・資本家だった)
ケントのウェルドで生まれた(《トロイ歴史物語》序文)と自分で書いているが,ロチェスターの近傍とする説もある。1438年,後ロンドン市長に選ばれる織物商組合の有力者ラージ Robert Large に徒弟奉公。生年はその記録からの逆推算であり,厳密には1415‐24年のどこか,と思われる。前半生は毛織物輸出商組合の商人として活躍,60年代初めには,その前進基地ブリュージュでイギリス商人コミュニティ統括の〈総督〉になっている。71‐72年ケルンに滞在,活版印刷術を習得し,設備を購入,おそらく73年末ブリュージュで英語の最初の活字本とされる《トロイ歴史物語》を印刷発行。たぶん76年,ロンドンにもどりウェストミンスターに印刷・出版所を置く。彼は宮廷・貴族層をパトロンとし,《カンタベリー物語》《アーサー王の死》など写本市場での有力商品を活字化し,主として貴族の愛好品であった多くの中世末フランス語のロマンスをみずから翻訳・印刷・出版した。印刷の技術水準は高くないが,商人らしい堅実さでイギリスに活字本を定着させた。
キャクストンはその出版事業に置いて、100冊以上もの本を世に送り出したと考えられ、そのうちのいくらかはキャクストン自身が筆をとったり(マロリーの『アーサー王の死』のように)構成や文章に手をくわえたりしたものもあったと考えられるが、現在キャクストンの業績として名高いのは、『アーサー王の死』『英国版イソップ物語』『カンタベリー物語』の3つの出版物である。(←ネット検索で引っかかった) しかし、逆に言うとキャクストンほどの合理的経営の創始者ともいえる男の業績として、これだけのものしか残っていないとは、少なすぎやしないか。 原因のひとつは、当時英国は『薔薇戦争』の最中で、当時の読者層である高貴な貴族たちは華やかかつ雄壮で、高雅な薫りの立つ物語を好んだこと。 機を見るに敏なキャクストンはそうしたニーズに応え、騎士道ロマンスの類の物語を次々と送り出したのだった(『アーサー王の死』もその一環)。 ところが時代が移り変わり、合理性と人間的な感性を重要視するルネッサンスの時代になると、そうした物語は「暴力的かつ猥褻」として糾弾されるようになる。 こうしてキャクストンの名前だけは「時代を見越す卓越した眼力を持つ近代的企業人の祖」として高まる一方で、かれの出した「愛と勇気」の物語群は忘れ去られていくこととなったのだった……
キャクストンが『アーサー王の死』を出版した3週間後、薔薇戦争の“最後の騎士たちの戦い”といわれる「ボズウェル・フィールドの戦い」がおこなわれ、それに勝利したヘンリ7世が英国王として即位してテューダー王朝を開始。騎士達の時代は終わりを告げ、絶対君主の時代が始まったんだそうです…
参考本
騎士トマス・マロリー 『アーサー王の死(抄訳版)』〜中世文学集T〜、ちくま文庫、2001年
高宮利行 『グーテンベルクの謎 活字メディアの誕生とその後』、岩波書店、1998年
『世界歴史事典7 コウ〜コン』、平凡社、1952年2001年5月22日(火)
英国の第二次世界大戦を指導した首相。
17世紀の国際的に名高い将軍の初代マールバラ公ジョン・チャーチルの子孫。
父は第二次ソールズベリ保守党内閣で蔵相を務めたランドルフ・チャーチル(1849〜95)。
名門に生まれたものの、学生時代は学問に身が入らなかったこと、それを独自の根性で克服しのちのチャーチルを生みだす原動力としたことが有名。
軍人を経て議会人となったものの、当初は精力的で豪胆なことでけむたがられ、むしろ不遇であった。だがやがてチェンバレン首相の後を継いでナチス・ドイツに対するイギリスの運命を担うようになったとき,強固な戦闘意志と雄弁でイギリス国民を鼓舞し、やりたい放題だったナチス・ドイツのヒトラーに対して宣戦を布告。 アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンとともに困難な戦況の中で、5年にわたる政治と軍事の非凡な指導によって、連合軍を勝利へと導いた。
彼は乱世に最もよくその才能を発揮する型の政治家であり、長年に渡って様々な方面の政治の分野に及ぼしたその事績は、大英帝国の栄光とその清算を象徴している。
その名演説における格調高い英語の語法は同時に彼を高名な著作家として現わさせ、53年度ノーベル文学賞を受賞。おもな著作に,父や先祖マールバラ公の伝記をはじめ,第1次世界大戦の自伝的記録《世界の危機》4巻(1923〜29),《わが半生》(1930)《第2次世界大戦》6巻(1948〜53),《英語国民の歴史》4巻(1956〜58)などがある。≪チャーチル名言集≫
チャーチルは、冴えた言葉のキレと聞く者の心を熱く打つ素晴らしい演説で知られ、これまで何冊もそういったチャーチルの名セリフや名演説を集めた本が出されているようなんですが、たくさん古本屋を巡っても、見つからないーーーー。 …という時には、自分でつくっちまえ。ネット上で、「チャーチル風の名ジョーク集」というのもいくつも見つけたんですが、それもこっちに引用しちゃ、ダメかしらー(懸案)・「僕たちはみんな虫だ。しかし僕だけは…… 蛍だと思うんだ」…少年時代・「二年前にはヒトラーと対決しても安全であった。三年前には極めて容易であった。四年前にはただ一通の外交文書で始末できたはずだ」…1938年3月24日・「政治家は明日、来週、来月、そして来年何が起こるかを予言できねばならない。そして後で、どうしてそれが起こらなかったも説明出来ねばならない」・「不利は一方の側だけにはない」
・「あざやかな引き際こそ最高のものである」
・「英国人は世界に冠たる民族であり、ライオンの心を持つ民である。私は幸運にも、それに吠えよと命じる役を与えられた」『偉大な同時代人たち』・「私は大英帝国の解体を指揮するために国王陛下の宰相となったわけではない」…チャーチルの首相就任演説・「好転する前には、悪化する段階もありうる」
・「われわれは絶対に負けない。最後まで戦い抜く。フランスで、海上で、あくまでも戦うであろう。 空中においても、断固たる信念と決意を持って戦う。 いかなる犠牲を払っても、英国を守りきるのだ。 戦闘は、わが国の沖で、敵の上陸地点で、野や山や街角で続くであろう。 だが、われわれは戦う。 絶対に屈服しない」
・「断じて屈服するな! 断じて屈服してはならぬ! 断じて、断じて、断じて、−−事の大小を問わず、内容のいかんを問わず−− おのが名誉にかけての信念と良識以外には、いかなるものにも屈服するな」
・「それ故にわれわれは心を引き締めて各人の義務にあたり、もしイギリス帝国とその連邦が千年続いたならば、人々が『これこそ彼らのもっとも輝かしい時であった』と言うように振る舞おう」…1941年10月、ハロウ校で、学生たちに向かって・「道徳の力は軍事力のかわりにはならない。 しかし非常に有力な援軍ではある」…1940年の下院演説。ラジオ放送された・「そして二人は長く幸せに暮らしましたとさ、だった」
・「われわれがいかに小さい国であるのかを、テヘランで初めて知った。一方ではロシアの大熊が手を差し出している。もう一方にはアメリカの大野牛がいる。 この熊と野牛の間に哀れなイギリスのロバが座っている」…自分の結婚生活を評して・「鉄のカーテン」演説…テヘラン会談の直後
「連合国の勝利でようやく明るくなったばかりのところへ、いまやひとつの影が落とされています。 ソ連と国際共産主義組織の当面の意図がなんであるか、また彼らの進出と運動に限界があるとすれば、どこまでがそれなのか、だれにもわかっておりません。 私は勇敢なソ連国民と私の戦友スターリン元帥に対して、強い賞賛と敬意の念を持っております。 イギリスにはソ連の全国民に対する深い同情と善意がありますし−−当地でも同じだと思いますが−− しかも、多くの不一致や対立を乗り越えて、粘り強く持続的な友好を打ち立てていこうという決意もあります。 ソ連がドイツからのあらゆる侵略の可能性を排除して、西部国境の安全を確保したいという気持ちは、われわれにも分かります。 ソ連が世界の主要諸国のあいだに正当な地位を占めることには賛成であります。 ソ連の国旗が海洋にひるがえることには賛成であります。 なかんずく、ソ連国民と大西洋を挟んだわれわれ両国民との交流が、たえず、頻繁に、ますます増大していくことを歓迎します。 しかし私の義務として、おそらく皆さんは私に見たままの事実を述べることを期待しておられることでしょうから、ヨーロッパの現状について幾つかの事実を紹介しなければなりません。
バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステにかけて、大陸を遮断する鉄のカーテンが降ろされたのであります。 この一線を境に、中部及び東部ヨーロッパの古い諸国の首都が隠されてしまいました。 ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベルグラード、ブカレスト、ソフィアという名高い首都とそれを中心とした住民がすべて、いわばソ連圏に入り、いずれも何らかの形でソ連の影響ばかりでなく、非常に強力な、しかも多くの場合ますます厳しさの加わるモスクワからの統制を受けているのであります。 アテネだけが−−不滅の栄誉を担うギリシアの首都だけあって−− 英米仏の監視下の選挙で自由に将来を決定できることになっています。 ソ連支配下のポーランド政府は、ドイツに対して大がかりな不法侵入を促され、現在数百万のドイツ人に対して無惨な、予想もしなかったような集団追放がおこなわれております。 東ヨーロッパ諸国では、いずれもきわめて小規模であった共産党が、いまや優位に立ち、実力以上の権力を与えられて、いたるところで全体主義支配の確立をはかっております。 ほとんどあらゆるところで警察が幅を利かせ、これまでのところチェコスロヴァキア以外には、真の民主主義は見当たらないといった状況であります。
トルコとペルシアはいずれもソ連政府から要求を突きつけられ、圧力を加えられて慌て畏れています。 ベルリンではドイツの左翼指導者グループに特別に目をかけ、占領下ドイツのソ連地区に疑似共産党をつくる準備が進められております。 さる6月の停戦とともに、米英両国軍はそれより先の協定に基づいて西方へ引き揚げ、約400マイルの戦場にわたって150マイル後方へ陣取り、西方の民主主義諸国が制圧したこの広大な地域をソ連側に占領させたのです。
いまソ連政府が別行動を取り、ソ連地区に親共産主義のドイツ建設を試みるならば、英米地区に新たな重大な困難を引き起こし、敗戦国ドイツに、ソ連と西側民主主義諸国とを相手に、自国を競売に出すことになるでありましょう。 これらの事実からどういう結論が引き出されるにせよ、−−事実は事実であり−− これはどう見てもわれわれが建設するために戦った解放ヨーロッパの姿ではありません。 それは恒久平和の本質的要素を含むものでもありません」1946年3月、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学での講演 (司会はトルーマン大統領)
産経新聞の本『20世紀特派員』の紹介ページにチャーチルとトルーマンの駆け引きに関する紹介文があり (無断リンク)参考本河合秀和 『チャーチル(増補版)』、中公新書、1979年
山上正太郎 『チャーチルと第二次世界大戦』、清水新書、1985年
是本信義 『戦史の名言 戦いに学ぶ処世術』、PHP文庫、1997年
木原武一 『天才の勉強術』、新潮選書、1984年
チャーチル 『第二次世界大戦』(全4巻)、河出文庫、1957年
リチャード・ニクソン 『指導者とは』、文藝春秋、1986年
クエンティン・レイノルズ 『勇気ある人 チャーチル』、学研、世界の伝記12、1971年
山上正太郎 『チャーチル、ド・ゴール、ルーズヴェルト 〜ある第二次世界大戦』、社会思想社、1989年2001年6月25日(月)
明の末、北京を占領して明帝国を滅ぼすことになった農民反乱の指導者李自成の参謀。
もとの名は李信だが、李自成の配下となったときに李巌と改名した。
河南省杞(き)県の挙人で、1640年(崇禎13)ころ李自成軍に参加。 均田・免賦(田土の均分,租税免除)といった重要政策や軍規を厳格にする方策などを李自成に建策し,反乱に農民革命軍としての性格を与えた。
しかしその伝記には不確実な点も多く,実在の人物ではないする見解もある。中国の正史である『明史』には、次のような内容のことが書かれているという。杞県の挙人(=科挙の第一段階である郷試の合格者)の李信は、かつて飢饉の際に穀物を寄付して飢民を救ったことがあり、民はこれを徳として「李公子は命の恩人だ」と言った。 たまたまサーカスの踊り子の紅娘子(こうじょうし)が謀反して周辺の町々を襲ったときに、李信はこの賊軍の虜となった。 紅娘子は李信の風貌に惚れて無理矢理結婚を強要するが、李信は拒絶して隙を見て逃げ帰った。 だが官は賊の拠点から帰ってきた李信を疑い、投獄してしまう。 これを聞いた紅娘子は飢民とともに彼を救い出し、彼は紅娘子と行動をともにすることとなり、やがてついに李自成の軍に身を投じた。 自成は大いに喜び、李巌と改名させた。 李巌は自成に向かって、「天下を取るには人心が根本です。 どうか殺人をやめて天下の人心を収められますように」と説き、それまで残忍な行為を好んでいた自成は、虐殺を控えるようになった。 また略奪した財物を飢民に分配し、民は李自成と李巌を同一視し、「李公子は命の恩人だ」と歓呼した。 李巌は「闖王(ちんおう =李自成)を迎えれば税はいらない」という内容の歌謡をつくって子供たちに歌わせ、その結果、自成に従うものは日をおうごとに多くなった。本で李自成について読むと、「王嘉胤、紫金梁、高迎祥らの下で反乱軍として力を伸ばし、中国各地で暴れ回っていた李自成は、1640年頃に李巌、牛金星の読書人の参加を得、彼らの献策を受け入れたことで活動の方針を転換し、農民革命軍としての性格を持つようになった」 とか書かれてあるんですが、読書人ってなんじゃらほーい?? ただ「本を読むひと」ってだけならわたしだって読書人? もちろん私だっていつも本を読むときは「ただ本を読むだけなんて虚しい虚しい、いつかこの脳髄から溢れる知識と世界の神髄を世のため人のためそれから自分のために役立てる日を迎えねバ」とか思っているわけですが(←大ゲサ)、「ついにその時宜を得た読書愛好家」とかいうカッコイイ意味とか含まれているんでしょうかね?(←羨望) それにしても李信が読書人として常にどんな本を読んでいたのか、同じ読書愛好家として大いに知りたいところだぞ(多分科挙のための受験本でしょうが)
李信の父親は朝廷に使えて大臣にまでなったという家柄で、だから李信も科挙を受けるべく勉強を重ねていたが、彼が第一段階である郷試に受かって挙人の資格を得た(これだってなかなか難関)ところで、たまたま父親が汚職で告発されて免職されてしまったので、郷里へ帰らざるを得なくなってしまったらしい。 それでも隠居して本を読むだけでも生活できるだから、彼の家は当時としてはかなりめぐまれていた。 当然、かれはまた試験を受けて官吏としてふたたび家を盛り上げるという希望を持っていただろうが、ふとしたことで豪放な嫁さんと一緒に暮らすことになり、無法者たちの中に身を置いたことで、自らの境遇を真剣に考えてみなければならなくなった。 明という体制の元では、一度賊の仲間とされた彼のような人物が、ふたたび知識人として官に身を置く場所を得、平和に幸せに暮らすことは不可能なことである。 だとしたら、世も乱れ始めてきた折りであるし、自分の目にかなう人物を見つけてそれに寄り添い、革命を起こして腐敗した王朝をただし、世の中を一新することだ。 ……そうして李信が目を付けたのが、盗賊集団の将としての李自成であった、と。李自成は本来、力だけが自慢の(知謀も少々)性格が残忍なならず者であった。 李信が紅娘子の部下を引き連れて李自成のもとに参じたときも、変わり者が来た、ぐらいにしか思わなかった。 しかし李信の話しぶりを聞き、「無益な殺人をやめて、自分こそが人民の利益の擁護者であると宣言すれば世の中は変わる」、というのを聞くと感心して、李信を参謀に取り立てた。 李自成も「水滸伝の宋江になりたい」 という憧れを持っていたのである。 (※“大順皇帝”李自成の生涯は多くの英雄伝説にいろどられているが、それでも折に触れて彼の生来の粗暴な性格はかいま見られる。 このとき彼が李信を受け入れたことは、李自成の英雄性をあらわすものかどうか、それとも李信の雄弁の術の方が勝っていたのか。 …だって下の諸策を見ると、根っからの乱暴者に受け入れられる類の策だろうか?)
李巌が李自成のために進言した策は次の諸点。
さらに李巌は、戦いにおける宣伝工作の重要性を知っていた。・天下を制する根本策は人心を収攬すること。 そのために殺人はできるだけするな。
・人をひとり殺すのは自分の父を殺すのに等しく、女をひとり犯すのは自分の母と淫するのと同じことだ。 みだりに民家へ押し入ってはならず、婦女に戯れる者は斬る。
・軍隊内の白銀私蔵の禁止。 ・民間との商取引の公正化。
・貴賤の如何に関わらず、田を等しくする。
・3年間にわたる地租と同付加税の免除。
彼は部下を商人に変装させて、李自成軍の綱領と農民政策を噂として流させ、政策の民間への浸透と口コミの形での李自成の評判の上昇をはかった。 また李巌みずからが「喫他娘、穿他娘、喫穿不尽有闖王、不当差、不納糧」(食べることも着ることも心配はいらない、闖王が面倒を見てくれるさ、闖王がくれば税金だっていらない)、「喫他娘、穿他娘、開了大門迎闖王、闖王来時不納糧」(食べることも着ることもまかせなさい、門を大きく開いて闖王を迎え入れよう、闖王が来れば税金はいらない)など、節回しの良い歌にまとめあげ、工作をしてはやらせた。同時に李自成を誉めあげ官を貶すビラを大量につくり、至る所に張りまくった。さらに攻城のときには準備のための政治工作、鉱山労働者の監督をして火薬による爆破工作、新しい戦術を考案して、敵軍を攪乱、などの活躍を見せた、らしい。
……とここまで書いてきて、さすがに彼、格好良すぎるよね。 李自成は凄く醜悪な男だったらしいから、その参謀として二枚目で頭の切れる男、その傍らには女豪傑、紅娘子がひかえる図、対比が鮮やかで凄く絵になります。 そして、この三人が心を合わせて民心をまとめ上げ、烏合の衆の腐敗した官軍をさんざんに蹴散らす。 …うう〜〜ん、さすかに小説(あるいは講談)っぽい。現代になって、この李信は架空の人物で、講談師が語った人物が世の評判を呼び、正当な歴史家までもが誤って正当な歴史書である『明史』にその名を書き入れてしまったのだ、と悪口を言われるのもうなづけますね。 一応、中国の「二十四史」の中でも『明史』は内容の正確さには定評があり、その明史ですらこうなんだから結局、中国は歴史の国とかいっておきながらその実体なんかあやしいもんだね、と(特に日本人の中国人嫌いに)陰口をたたかれるゆえんだ。 ……ともあれ。
皇なつきの漫画にこの李信(というか紅娘子?)が主人公の作品があって、(『黄土の旗幟のもと』という題名)結構人気が高いらしい。(どっかの本屋で売っているのを見たことがあります。…どこの本屋だっけ?) しかし、皇なつきのことだから、きっと紅娘子や李自成までもが美男美女、三人ともがすばらしい好人物で正義人物ですばらしいチーム連携で力を合わせて官軍に立ち向かっていくような内容なんだろな(憶測) だが、個人的には李信、(あくまでも妄想)主君李自成が獰猛な豪賊タイプの手の付けられない乱暴者で、一方奥さんの紅娘子も女とは思えないような乱暴者、自分勝手、打算的で、人の良い李信がこのふたりに挟まれて、悩みに悩みに悩みながら最善の活路を考え出していく、という感じの話の方が好みです。(あくまで自分的に) ……それとも本質的に似てそうなナチス・ドイツの“プロパガンダの魔術師”ヨーゼフ・ゲッベルスのような邪悪な野望を内に秘めた男、という像も案外いけるかも。
李自成の北京攻略の直前(つまり李自成の勢力が最高潮のとき)の幹部会議の名前に、“左輔(=大臣)”牛金星、“侍郎(=次官)”楊永裕、“従事(=参謀)”顧君恩の名前はあるものの、李巌の名前は見えない。
1644年の3月に北京を攻略した後、李自成配下の武将たちがほしいがままに略奪をするなかで、李巌だけは知識階級の人々の保護を行ったので、李巌の声望は高まった。 しかしたった1ヶ月後に“裏切りの明将”呉三桂の手引きで万里の長城を越えた清の摂政王ドルゴンが山海関の戦いで李自成をさんざんに打ち破り、李自成は北京を放棄する。 敗走のとき、混乱の中で自分を見失い、生来の流賊根性が表面に出て疑心暗鬼になっていた李自成に、ささやくものがあった。「李巌は大した人物です。しょせんわれわれとは住む世界が違う人間です。そのぶん油断してはいけません。万一彼が寝返りをして、北京にいる軍勢と結託して襲いかかってきたら、われわれは一網打尽になりますぜ」。 李自成は恐ろしくなり、李巌を騙して酒宴に呼び寄せ、そこで討った。※おまけ
ネットで検索していたら、李信を主人公にしたネット小説があった。…とおもったら、これ、「プレイ・バイ・メール」(…読者からの投稿をもとに話の筋を決定する一種のゲーム小説)でしたよ。 この続き、いったいどうなるんでしょ?(←といいつつあまり読んでいない) …おそるべし、李信♪
ところでネットで「李信」で検索すると、中国戦国時代、秦の名将の王翦将軍に刃向かったバカ者な若造が、「李巌」で検索すると李氏朝鮮時代の高名な詩人がかなりの確率で引っかかってしまって、非常にうっとうしい。
かくいうわたくし的には、「李巌」よりも「李信」の方が、なよなよっとした文人チックでお好みですぅ。(←バカ)参考本責任編集;宮崎市定 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』、中公文庫、2000年
岸本美緒/宮嶋博史 『世界の歴史12 明清と李朝の時代』、中央公論社、1998年
責任編集;尾崎秀樹 『人物 中国の歴史9 激動の近代中国』、集英社文庫、1987年
2001年6月28日(木)
英雄リスト その64.
崇禎帝(毅宗、荘烈帝)すうていてい チョンゼンディ (朱由検)、 (1610〜44)明帝国第17代、最後の皇帝。在位1628〜44年。
第15代泰昌帝の第5子で,第16代天啓帝の弟。1622年(天啓2)信王に封じられ,28年即位。
生れつき英明で,即位すると同時に帝国をむしばんでいた宦官魏忠賢ら前代の奸臣を誅殺し、名臣徐光啓を用いて内政の改革をはかる。しかし諸臣は東林、非東林の派閥に分かれ、相争って改革の効果はなかなか現れず、外からは満州勢力の圧力がますます強まりつつあった。崇禎帝の最大の失敗とされるのは、清の策にかかり讒言を信じて東北辺防衛の中心的人物袁崇煥を誅殺してしまったこと。これが明の滅亡を決定づけた最大の事件とされる。以後辺防に人才がなくなり明の防衛力は急速に弱まった。
崇禎帝は勤勉で常に帝国のことを考えていたが、一方で猜疑心が強く、その治政の間に50人の大臣を罷免したり,死刑にしたりしたという。
やがて清の圧力に加え、国内で飢饉による反乱が頻発。この反乱の中から李自成,張献忠らが台頭し,それぞれ大勢力を築きあげることになる。李自成が西安を占領すると、明朝の将軍たちはつぎつぎ李自成に投降。最後の軍を率いた李建泰も投降し,宦官が李自成に通じて城門を開けたので,1644年3月北京城はたちまち反乱軍に包囲された。崇禎帝は皇子を落ちのびさせ,皇女を斬り,皇后も自殺させると,諸臣が自分を誤らせた恨みとともに『賊が朕の屍を引き裂くにまかすとも,人民の一人も傷つくることなかれ』という遺詔をのこして万歳山(景山)に登り,首をつって自殺した。偉大な大帝国を打ち立てた大創建者はもちろん、私にとって帝国の終焉をみとった最後の帝王というのは、とても興味深い存在。
この明朝最後の皇帝=崇禎帝も当然の事ながら、国の終わりは必ず訪れるもので、その折りにどんな個人がどのように頑張っても無駄無駄無駄、ただしその場面でどのようなふるまいを見せるのかだ、と思う一方で、頑張ったアゲクに遂に自分の帝国の沈没を食い止めることが出来なかったのだから、「結局それまでの男なだけだったのだね」と言うことも出来ようが、「だが! だが!」と机を叩いて力説したい気分で一杯の太陽領なのであった……。(←こういう大きな理想(崇禎帝の場合は、「帝国はオレが建て直す!」という)がまずあって、でも空回りしてしまって結局何も出来なかった人物ってスキ)で、私が中国関係ではその御本の記述に絶対の信服を置いている陳舜臣大先生の書き方は、わたくしお気に入りのこの皇帝に対して、やっぱりとても冷たいんだな、これが(笑) そういうところがあるから、本を読むのってすごく楽しいさーー。
おっと、もちろんこの皇帝に対して厳しいのは陳先生だけではないんだけど、いわく、「この皇帝がおこなった中で唯一評価できる業績は、悪臣魏忠賢を誅殺したことのみで、それさえも自分がすべてを思うがままに振る舞いたかったためである」とか、「数代に渡って明の朝廷は宦官に乱され続けていたため、この皇帝はついに自分の臣下すべてを憎むようになってしまった、これでは皇帝のこころざしがいくら高かろうともその改革がうまく行くはずがない」とか、「明の滅亡を論ずる本では、必ずその原因のひとつに、『崇禎帝の多疑』を入れる。清の離間策に嵌って清のヌルハチをも倒した忠義の英傑袁崇煥を殺したことはその最たるもので、その他つぎつぎと重臣を殺し、その結果明のために身体をかけてはたらく者よりも、簡単に敵軍に投稿する者が多くなってしまった」とか、「李自成が帝都に迫ってきたとき、皇帝は『己を罪する詔』を発布して帝国の危機を述べ諸臣の協力をあおいだのだが、崇禎帝が自分を悪いなどと思っているはずがなく、逆にすべては自分以外の臣下のはたらきが悪いせいだと思いこむ、一種の被害妄想があった」とか、「崇禎帝のことばに「君(=崇禎帝)は亡国の君に非ざれど、臣はことごとく亡国の臣なり」というのがあって、崇禎帝は死ぬまで本気でそう思っていたのである」とか、「李自成が皇帝を自称したことに怒った皇帝が自ら親征すると言いだしたこと、反乱軍に対抗する軍隊設営のために増税したこと、李自成軍に対抗する新軍隊の編成のために新たに呉三桂・唐通・左亮玉・黄得功の4人を新たに伯爵に任じたこと、李自成軍に対する北京の備えのために遙か北方で清と戦っていた名将・呉三桂を呼び寄せるようにと命令したことも、すべてがわずかに遅すぎた。明は決して無策だったわけではなく、さまざまな対策を練っていたが、しかし、打つ手打つ手がすべてがわずかずつ遅かったのであった」とかとかとか。という陳先生も、崇禎帝の最期の部分はやや感情的に書いていて、おもしろいです。
李自成軍が北京近郊の十二陵(明皇帝歴代の帝墓がある)まで押し寄せてきたとき、李健泰が「南京に遷都しましょう」と進言したが、皇帝は「国君は社稷に死す。朕、将た焉ぞ往かん」(=いまさら逃げ出せるか)と言ってそれを退けた。 蒋徳mと項Uが「せめて皇太子を江南に」と進言すると、これにはなにも答えなかった。 紫禁城で皇帝は対策のための御前会議を開いたが、並みいる諸臣はただ声を上げて泣くのみであった。 とうとう李自成軍が北京城内に侵入したとき、皇帝は覚悟を決めて三人の我が子に平民の格好をさせて場内から逃がし、逆に賊軍に辱められることを悲しんで(皇后はすでに自分で首をつって死んでいたので)、ふたりの愛娘・長平公主徽ソク(女+足)(15才)と昭仁公主(6才)に刀を振り下ろした。そのとき彼が叫んだ言葉、「どうしてお前はわが家に生まれたのか!」 (ロミオとジュリエットみたい、、、 いえゴメン。 ただこのとき妹は死んだが姉の方の皇女は片腕を切り落とされたのみで死なず、生き延びて清の時代ホンタイジに厚遇された) そのあと皇帝は官僚を招集する合図の鐘を鳴らしたが、家臣の誰も現れなかった。 崇禎帝はもはやこれまでと、これまで付き従ってきた宦官の王承恩をただひとり伴って、死に装束に着替えて紫禁城の裏にある景山にのぼった。 最後に遺言を来ている白い装束の襟の部分に綴って、自ら首をくくって死んだ。 王承恩もすぐさま後を追って死んだ。
遺勅朕は、基(もとい)に立って十七年、上に天の罪を邀(むか)え、虜(てき)に地を陥されること三次、逆賊も遂に京師(=首都)にせまる。 これは皆な諸臣が朕を誤らせたためである。 朕は、死んで地下にいる先帝たちに会わせる顔が無い。 だから髪でもって面を覆う。 賊をして朕の屍を引き裂くのは構わない。文官を尽く皆殺すのも構わない。だが、皇帝たちの陵寝(みささぎ)は壊すこと勿かれ。我が百姓を一人たりとも傷つけるなかれ。おもしろいのは、叛乱を起こした李自成も、明の政治ははなはだ怒りを持つが、その皇帝である崇禎帝はとても優れた人物である、とたびたび周囲に語っていることだ。彼は、北京陥落前後に崇禎帝を捨て、自分の所に降ってきた明の遺臣たちを冷たく扱った。
李自成は崇禎帝の遺骸を探させ、棺におさめて明の帝室の墓所である十二陵へ送った。ところが、叛乱勢力の勢いを恐れて誰もこれを引き取る者がいない。やがてこつりの官吏が有志10人にはたらきかけ、340貫文の銭を集め、人夫を雇って、ちょうど女官が埋葬されたあとがあったのを利用して、そこにこの亡国の皇帝を葬った。 これを「思陵」という。だがしかし、崇禎帝死去の報が伝わると、とくに江南地方に、(短期間だけだが)郷紳、士人から一般庶民に至るまで、明に対する「忠義熱」が突如まきおこったというのだから、なんでなんだか。 李自成に投降した中央官僚の実家が、怒り猛った群衆の焼き討ちに会うほどだったんだってさ。
参考本責任編集;宮崎市定 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』、中公文庫、2000年
岸本美緒/宮嶋博史 『世界の歴史12 明清と李朝の時代』、中央公論社、1998年
愛宕松男/寺田隆信 『モンゴルと大明帝国』、講談社学術文庫、1998年
アン・パールダン 『中国皇帝歴代誌』、創元社、2000年
田中芳樹/井上祐美子 『中国帝王図』、講談社文庫、1998年
陳舜臣 『中国の歴史6』、講談社文庫、1991年2001年6月18日(水)
英雄リスト その65.
プスセンネス1世 (パセバカエムニウト1世) (位;前1039〜前991)古代エジプト第21王朝の3代目。
第21王朝は“エジプト史最大の帝王”ラムセス2世よりも200年あとの時代で「新王国時代」(第18〜20王朝)と「末期王朝時代」(第25王朝?〜)の間隙の時期の「第3中間期」と呼ばれる時代。 この時期、実務的な伝統的な権力者であるファラオはナイルデルタ北東辺部のタニスに在していたが、ナイル川上流(上エジプト)の重要拠点のテーベはカルナックのアメン神官団の司祭達が掌握し、その最高司祭はファラオと同等の権力を持ち、ファラオと同じように振る舞っていた(らしい)。本などでは、ファラオ権力の失墜の始まり、などと書かれている。
ところで、実際、上エジプトはアメン神殿に牛耳られていたと言っても、第21王朝の(タニスの)ファラオたちはこのアメン神官政権と(驚くほど)うまく付き合っていて、また後の22〜24王朝のように外国勢力による征服王朝であるわけでもないし、(かつてほどでないにせよ)外国にもまだまだ口を出せるほどの軍事力は維持していたし、プスセンネスやアメンエムオベトの黄金マスクでも分かるように墓の副葬品は豪華だし、「21王朝、(中間期なんて屈辱的な名前じゃなくて)新王国時代に入れておいてあげても良いんちゃうん?」などと思ったんですが、専門用語ではただひとりのファラオが上エジプトと下エジプトをまとめ上げていた時期を「〜王国時代」、複数のファラオが同時に存在している時期を「中間期」と呼ぶんですとさ。(でも、そんなこと言ったら、20王朝の頃からカルナックの神官たちは縦横無尽に権力を振るっていたのにね)かつて、「四大文明ブーム」というのが短期間あって、そのときに東京を中心とした大都市圏(だけに)四大文明展というのがあって、そのうちのひとつ『エジプト展』に、この「プスセンネスの黄金マスク」が来ていた。 大多数の人は「ちっ、せっかくだったらツタンカーメンの黄金マスクを持ってくればいいのに、こっちのはなんだか地味だなあ」と思ったであろうが、わたしだけは「おお、プスセンネス! なんてハンサム!!」などと思っていたのであった。 いや、本気でトゥトゥアンクアメンのガキ臭い顔立ちよりも、この高貴な顔立ちの方がずっと我が胸をえぐる♪
どこかで「エジプトの歴代185人のファラオのうち、その顔を覆う黄金のマスクが残っているのはツタンカーメンと、このプスセンネスだけ」と書いたあるのを読んだことがあるような気がするんだけど、どこで読んだんだっけ? 厳密には(私の手持ちのカタログでは)このふたり以外にもアメンエブオベト(プスセンネスの次のファラオ)の黄金マスクってのもあるそうなので、(私の記憶が間違いで)もっと他にも数があるかもしれないですが。 といいつつ、黄金マスク、何冊かの本で調べたんだけど、この3つ以外は目にしないなあ。これ以外にあったら絶対写真が載っているよなあ。 実際にはアメンエムオベトのマスクはツタンカーメンおよびプスセンネスのには遙かに及びもつかない出来なので、やっぱり“エジプトの栄華”を伝えるマスクはこのふたつだけ、と言ってしまってもいいのかも。
ツタンカーメンとプセネンセスには時代的に300年の隔たりがあって、しかもこのふたり、ファラオ的にはどちらも冴えないファラオなので、このふたりでさえ死後にこんな見事な仮面が作られたということは、ファラオひとりにつき最低ひとつは黄金仮面が作られる風習があったと、つまり100個ぐらいは同じようなマスクが現存しているべき、と考えても良さそうだ。 なのに実際にはこのふたつしか無いとは...... 盗掘されてもなかなかこんなの鋳潰したりしないだろうから、本当はヨーロッパの大富豪やコレクターの倉庫の中で、人知れず眠っているのが少なからずあるんだだろうな、と考えると愉快なり、、、、 というか羨ましい、というか、いてもたってもいられないぞ(腹は立たないけど)
といいつつ、本などを読んでいると「ツタンカーメンの方が格段に技術と出来映えと見栄えは上」と平気で書いてあるのには腹が立つ(笑)さて、謎だらけの第21王朝なんですが、実際に資料が少なくて、各王の詳しいことは良く分からないらしい。プセネンセスも在位は20年以上もしているのに、何をやった王なのかが全然わからん。 ただ墓からこの黄金マスクが出土したということだけで名前が残っているような王なんだが、そもそもこのプセネンセスの王墓というのが「唯一盗掘を受けていないファラオの墓」として有名なんだそうで、だがその「例外的に盗掘を受けなかった」理由というのが、この時代は都市タニスのファラオよりも都市テーベの神官たちのほうが遙かに力を持っていたというような、そんな時代だったのでまさかそんな情けないファラオの墓に、こんな立派な品々が眠っているなんて誰も思わなかった、ということだそうだから泣ける。
そもそも21王朝はすっごく入り組んでいて、第20王朝の「古代エジプト、最後のファラオらしいファラオ」と呼ばれるラムセス3世の時代に“海の民”と呼ばれる謎の民族と激しい戦いをおこなったときアメン神に祈りを捧げたところ大勝利を得たので、ファラオはカルナック神殿に大きな権力を与えるようになり、20王朝最後の王ラムセス11世が後継者のないまま死ぬと、ラムセス11世の姉妹と結婚していたテーベの最高司祭ヘリホルの孫の最高司祭パネジェムは、自分の実力でエジプトのファラオの座をつかみ取った21王朝の創立者スメンデスと協力体制を取りそのスメンデスがやはり後継者のないまま死ぬと、パネジェムの兄弟のアメンエムニスウを、ついで自分の息子のプセネンセスを、タニスのファラオとして送り込んだのだった。 やっぱりタニスのファラオはテーベの出張所のような。というか、良い感じの連合政権じゃん。 この時期の国際情勢が、非常に波乱だらけだったことを考えると、よくやっているよ、と思ってしまう。
21王朝の時期、カナァンでは英雄王ダビデとソロモンが確固な王国を築いていて、エジプト王国はそれと婚姻関係を通じて、強固な同盟をしていた。(次の22王朝の時期に、エジプトはパレスティナ遠征をおこなう)
参考本ピーター・クレイトン 『古代エジプト ファラオ歴代誌』、創元社、1999年
ビル・マンリー 『地図で読む世界の歴史 古代エジプト』、中央公論社、1998年
吉村作治 『古代エジプト講義録(下)』、講談社+α文庫、1996年
英雄リスト その66.
アルフォンソ10世エル・サビオ (位;1252〜84)レオン・カスティリャ王。レコンキスタの業績で列聖されたフェルナンド3世の息子。
文芸活動を保護振興したところから,「賢王」(エル・サビオ)の異名で知られる。自身が編纂した著作に『七部法典』『フエロ・レアル』などの法典、『スペイン全史』『大年代記』などの史書、天文学の本、宝石の本、狩猟の本、チェス並びにサイコロの本などがある。 またアラビア語学術書の翻訳事業を助け、スペイン語の口語普及事業もおこなった。
政治の責任者としては理想と野心だけが先走り,失政の連続であった。 父フェルナンド3世の功に便乗したアフリカ遠征(1260)は成功せず,逆に国内のイスラム教徒の反乱(1264)とアフリカからの新たな武力干渉(1275)を引き起こした。他方,神聖ローマ帝国の内紛から舞い込んだ皇帝即位の可能性に執着して国内世論の強い反発を受け,また,その王権強化と中央集権的姿勢は広く社会の不評を買った。
こうした中で貴族の一部は長子フェルナンドが病死すると(1275),王位継承権をめぐって次男サンチョとフランス王の支援を受けるフェルナンドの遺児たちの対立が重なり,国内情勢は一層複雑化した。そして最後には国内の貴族・教会・騎士修道会・都市のほかに,ポルトガル王とアラゴン王の支援を取り付けたサンチョ王子が、父王をセビリャの町に追い込むことになる。窮したアルフォンソはアフリカのイスラム軍に救援を頼んだが,これは問題解決には結び付かず,サンチョ王子に恨みを残して死んだ。いや、いろんなところでこういう人物をこのように「愚王、愚王」と書かれると、やっぱり反論したくなってくるのが私の悪いクセ(笑)。七部法典……1256年から約10年の間につくられた。執筆者は明らかでないが,ジャコブス・ルイス,ロルダン,フェルナンド・マルティネスの可能性が大きい。内容はユスティニアヌス法典と教会法が中心で,ボローニャ法学校の研究成果を忠実に再生したものである。この七部法典によってカスティリャは中世イベリア諸国の中で最初に普通法を継受した。編別は七つの部 partida からなり,全体は2700以上の法律をもって構成される。各部の内容は法一般・教会法,公法,訴訟法・所有権,親族関係,債権法・海法,相続法,刑事法である。フェルナンド3世,アルフォンソ10世の父子王は国土回復戦争を強力に進展させるとともに,局地法乱立のため混沌状態にあったカスティリャの法を統一せんとして西ゴート王国の法典の翻訳(フエロ・フスゴ(リーベル・ユディキオルム))あるいは新立法(フエロ・レアル,シエテ・パルティダス)に意を注いだが,パルティダスはアルフォンソ10世の存命中には法律としての効力を生ずることがなかった。1348年アルフォンソ11世の時代に法源の適用順位を定めたアルカラ法がはじめてこれに法律の効力を与えたが,法源の最下位に置くにすぎなかった。しかし実際の運用にあたっては,法曹が上位の法源を無視して援用したために,時代を経るにつれて実質的にはパルティダスがカスティリャ法の主要法源となった。
確かに「賢王」と呼ぶほどの名君だとはさすがに思わないけど、やることなすこと豪快な、とっても愛すべき君主じゃないか、うん、このサイトに名を挙げるのに相相応しいような。強いて言うならば、「なにごとにもまず理想が先に立ち、得意とする学問と詩性と芸術と多方面への興味と無秩序な知識体系を、持ち前の強引さでまとめあげて皆を啓蒙すれば、まずなんとなくうまくいく」と信じ切っているかのような、無邪気な性格。おや、そりゃ私とおんなじ性格だ(笑)。 いえ私には詩性が欠けてますが。
もちろん、「無邪気さ」は、為政者にとっては最大の悪徳。 アルフォンソの場合は、それが身を滅ぼします。
とはいえ、「レコンキスタに多大な功績を挙げて列聖された」父のフェルナンドと、「手堅く堅実に国土経営をおこなうことで名を上げた」息子のサンチョと比べると、アルフォンソにはただ時と運に恵まれず、周囲のいいように振り回されてしまった高雅な男の姿が見えてしまうのね。(それがいけないのか) ともあれ、彼には他の誰にも無い、スペイン世界を超えた世界観のスケールのでかさがあるのだ。 ドイツの帝冠を望んでしまったというのもその一例。
そもそも、アルフォンソの最大のライバルハプスブルク家のルドルフが、アルフォンソ他の候補者を差し置いて、見事神聖ローマ帝国の帝冠を勝ち取ってしまったのは、ルドルフが並みいる候補者たちの候補者の中で一番みずぼらしく、「こいつが皇帝になったら後がぜったい楽だ」とみんなが思ったという、良く知られているエビソードがあったはず。これは裏返せば、「アルフォンソが皇帝になったらちょっと手強いぞ」という暗黙の了解があったということなのだ、、、、、、 と断言するのも(自分ながら)アレだけど。まず、父王が熱心にレコンキスタをおこなっていた王太子時代、フェルナンドは重要拠点のコルドバを征服するという快挙を成し遂げてはいたものの、自身は重い病気に冒されていたので、実質の軍隊の指揮権はほぼ息子のアルフォンソに任していた。 アルフォンソはこの間に、父の悲願である「キリスト教徒によるイスラムの完全制圧」を自身の夢としていた感がある。 アルフォンソの初陣は、コルドバの陥落にともなってイスラム教徒ムルシア王の降伏交渉だというが、ムルシア地方は良港カルタヘナを有し、対岸アフリカのモロッコ(スペインをうかがう最大対抗勢力)とつながる最重要前線拠点であった。アルフォンソはここで、強大な水軍の必要を感じる。 しかしイベリア半島の内陸部で展開してきたカスティーリャ&レオン王国には海軍経営の経験が無い。ここで、ラモン・ボニファスというブルゴス市長があらわれてその活躍でスペインの海軍はめざましい発展をみせるものであるがそれはひとまず置いておいて、まもなく父王が死去して王位に付いたアルフォンソがまず最初におこなったことは、グァダルキビール川河口の大都市セビーリャに、常軌を逸する大きさの大造船所を建設したことだという。 これを評してアルフォンソはスペインの現状を見据えず自分のやりたいことだけをあとさき考えずおこなったたのだとする味方もあるが、アルフォンソにとってみれば父の悲願であるモロッコ勢力を制圧するためには、これだけのものが必要だったのだ。アルフォンソの夢は、あくまでアフリカ遠征にあった。
即位直後、フランスとの国境部ガスコーニュ地方(とはいってもアキタニア伯領、つまり英国領)で、歴史が絡んだ複雑な領土紛争が巻き起こるが、アルフォンソは自分の妹エレアノールをイギリス皇太子エドワード(=のちの大征服王エドワード1世)に嫁がせることで円満に解決。このことで大いに名を挙げる。 のみならず、英王ヘンリ3世の弟コーンウォル伯リチャードと仲良くなる。
そのご、狩りの本やらチェスの本やら、聖母マリアへの想いを大量に書きつづっていたアルフォンソのもとに、遙かイタリアの都市国家ピサの使節がやってくる。「神聖ローマ帝国皇帝選出の選挙に候補として出ませんか?」 キベリン党(=皇帝派)のイタリア諸都市はあなたへの支持を惜しみませんぞ。 アルフォンソ、簡単にその話に乗る。(思えばギベリンというのがすべてのポイントだったなあ) しかし、アルフォンソは無邪気に「皇帝になったら出来ること」(もちろんアフリカ対策)に思いを馳せて、、、、、、
しかし、その皇帝選挙には、かつての友人コーンウォル伯リチャードが対立候補として出馬していたのであった。
コーンウォル伯リチャードにはドイツ内に多くの知己がいて、自分自身良くドイツに行っていたのにたいして、アルフォンソの方はカスティーリャ国王としておいそれと自国を離れるわけにはいかなかったので、(←だったら他国の王になろうと思うなよ)、自分の後援者のアドバイスに応じて大量の政治資金をぱらまくことで、この選挙を乗り切ろうとした。
1257年4月にフランクフルトでおこなわれた皇帝選挙は、「黄金勅書」以前に七人の「選挙侯」が皇帝を選出したということで重要である。 アルフォンソにはフランスの援助を得て最大実力者のトリーアの大司教を筆頭としてマインツの大司教とブランデンブルクの辺境伯?の支持を受けたので得票は3票、対するニーダーライン地方のザクセン大公とケルンの大司教、ライン宮中伯の支持を得て同じく3票であった。ところが残るひとりのベーメン王がリチャードとアルフォンゾの両方に投票した(←おい)ので、双方が「4対3でオレの勝ち」と宣言して皇帝を名乗ることとなった。73年まで続いたこの状態の以後16年を「大空位時代」と呼ぶ。
結局身分が王子なのでいつでもドイツに出入りできるリチャードを片目に、カスティーリャ王としてのアルフォンソは簡単には領土を離れられなくて(←モロッコ方面が不穏だったため)、一度もドイツに行くことが出来なくて、リチャードが実質上のドイツ王として振る舞うのを指をくわえて見ていることしかできなかった。(とはいえリチャードもほとんどの月日をイギリスで過ごした) しかし、1272年4月にリチャードが没すると、「ライバルいなくなってついに自分の出番」とうきうきして、忙しいスケジュールを工面して選出されたばかりの新教皇グレゴリウス10世(奇しくもコーンウォル伯リチャードの友人で、教皇選出時はパレスティナにいた)のもとをおとずれると、新教皇は冷たく「皇帝位はドイツ人のルドルフに譲ってやれ」と言い放った。アルフォンソは「王国内の十分の一税の徴収権」を教皇から得て引き下がった。(←おい)
このルドルフ1世は、「ローマ及びシチリア方面に一切の野心が無い」ことから教皇の白羽の矢が立ったことは有名なところである。 堅実さが無邪気さに勝ったというところであるが、、、、、、、、 おーーいルドルフ、おまえドイツ王としては全然面白みがないぞー、仮にもローマ王だろおーー。
このわずかな留守の間に、モロッコの大軍がジブラルタルを超えてイベリア南部に侵入。 この危機に国を離れている国王に対して重臣達は怒り狂い、一方でアルフォンソが精力を挙げて育てていた海軍は壊滅してしまった。 あわてて帰国したアルフォンソは用意してあった軍事費を全部費やして全力で海軍を再建しようとするが、アラ不思議、国庫はカラッポ。(←留守を任されていた息子サンチョが仲の悪い母ビオランテの歓心を買おうとして彼女の借金を返済するために全部使い切ってしまったのであった)
幸いにしてアルフォンソに同情的なセビーリャの市民達が大金を寄付して義勇軍を組織してくれたので、からくもモロッコ王と停戦協定を結ぶことが出来たが、この敗戦の責任を取ってアルフォンソが信頼していたユダヤ人指揮官を涙ながらに処刑。
その後王位継承をめぐる争いにまきこまれ、勝者となった次男サンチョによって1282年廃位されてしまう。彼は王位奪還をはかりマリーン朝のアブー=ユースフと連合したが逆に撃破され、セビリアに幽閉され悲憤のうちに死んだ。最後までアルフォンソ王に忠実だったのは王太子時代から親しいつきあいのあったセビーリャ市とムルシア市だけ。そのうち現在でもセビーリャは、晩年にアルフォンソ王が嘆息して吐いた言葉、「おまえだけは私を見放さなかった」No me ha dejado の省略形である「No8Do」を市の紋章としているのだそうである。
あああああーーー、どうして私が『聖母マリアのためのカンティーガ集』をこれほどまでにこれほどまでにこれほどなでに愛しているのかを長々と切々と熱く熱く語り倒すつもりだったのに、それはまたの機会に。わたしにとっては「カンティガス」は「カルミナ・ブラーナ」と「グレゴリアン・チャント」と三点セットなのだ。いずれにせよ、一国の王が450曲も同じジャンルの曲を自分の名で残す(多くはお抱え作曲家に作らせたんだろうけど)なんて、尋常な事じゃないよね。
参考本永川玲二 『アンダルシーア風土記』、岩波書店、1999年
大内一・他 『もうひとつのスペイン史 〜中近世の国家と社会』、同朋舎出版、1994年
西川洋一・他 『世界歴史大系 ドイツ史1』、山川出版社、1997年
大原まゆみ 『ハプスブルクの君主像 〜始祖ルードルフの聖体信仰と美術』、講談社選書メチエ、1994年2001年10月22日(月)英雄リスト その67.
マヂソン船長 (?〜?)マディソン? マティソン、マセソン、ハロランとも。
英国紳士の中の英国紳士。 …ってオイ。
英国の軍艦マリナー号の船長。ってことしかわかんないんだけど、ネット上で調べても全然記述ナシ。
『 大英欽命督領瑪礼納帥船水師都司瑪迪遜頓首拝 』← マリナー号が来航したとき、通詞・音吉が下田浦方御用所付の役人に渡した紙に書かれた言葉ですとさ(すごいね大英帝)。
※瑪礼納 = マリナー 瑪迪遜 = マテキソンと読むんだけど「マヂソン」のこと1849年(嘉永2)、突然一隻の異国の船が相模の国松輪崎に来航した。
ちょうどその7年前(天保13)に「薪水給与令」が発布され、文政8年以来17年も続いていた「無二念打払い」の政策が撤回されていたとはいえ、急遽駆けつけた浦賀奉行所の役人は、突如現れたこの異国の帆船が強い制止を振り切って江戸湾に侵入し、強引に各所で測量を始めたので、度肝を抜かれた。
この船の名前は「マリナー号」。英国海軍(の東インド艦隊)所属の測量船で、艦長33m、乗員110名のスループ(帆走軍艦)であった。船長の名前がマヂソン。船は小型であったが(当時の日本の千石船は25mぐらい)、装備は最新鋭で、大砲13門、小銃と短銃が各120丁、備え付けのバッテラ(小舟)が4艘あって、この船がその装備を楯に、あわてふためく役人たちを尻目にして傍若無人に江戸湾を走り回り、最後に傲岸にも浦賀港に入港して薪と水を要求したのちに相模湾から去っていったのだった。さてこの船が何故にして無理矢理な行動をとったのか、わたしがいくら調べても分からないのです。マヂソン船長は、イギリス政府からなにか命令を受けて日本へやってきたのだろうか? 有名な長崎の「フェートン号事件」はこの41年前だが、イギリスが江戸湾を測量したのはなにか理由があるんだろうか?(ペリーがやってきて、また江戸湾を測量をするのは、この4年後)。 この確信的な行動も、政府の指示によるものか?
実は横浜にある「開港資料館」に、このときのマリナー号の航海記(1856年刊行)が展示されているそうで、そこにはこの船の来航の目的が記載されていると思うんですが、(見たいね!) でも、そこにも何故か測量の結果の海図や数値等の記録は一切無いそうで、英国得意の極秘任務の香りプンプン。 (※当初の目的は、遭難したイギリス人を迎えに琉球を目指したことだったみたいです(出発地は上海))
やりたいだけやって帰ったと思ったマリナー号ですが、その数日後(4月12日)に今度は伊豆の国下田にあらわれた。
当時の下田は、伊豆の一部であるとはいえ特別に奉行所が管轄する都市で(したがって伊豆代官・江川家の手をくだすものではない)、しかし江戸初期に置かれた下田奉行所は長い平和の中で停止され、浦賀奉行所の管轄するところになっていた。突然の異国船の来訪に、下田の民家がことごとく戸口をとざした中で、あわてた奉行所の出張所の同心・臼井藤十郎と福西啓蔵が小舟でマリナー号に乗り付け、退去を要請したことに対して、マリナー号からは通訳がひとり現れて紙を一枚渡し「今日は風が強い」と日本語で一言述べたあとは役人をも一切無視。
艦長マヂソンは、下田に海防力がまったくないことを見て取ると、バッテラを降ろして海兵を乗せて下田湾中を漕ぎ廻り、勝手に測量をするばかりか、柿崎、須崎、大浦、鍋田の各村に上陸して農作物を略奪したり、引き網をする有様であった。
報告を聞いて、翌日、下田に掛川藩と沼津藩の藩兵の計40名足らずが到着。しかし、マリナー号は逆に彼らに食料(魚)を要求したので、仕方なく「鯛7尾、鰹1本、ボラ7匹、鱸1尾」を与えたという。けっきょく、奉行所のあの手この手の退港要求はまったく相手にされず、ここで伊豆代官・江川太郎左衛門英龍の登場。マリナー号下田来航の3日後に江川の登場。このときの英龍の服装は、質素倹約をこころがけた常の服装とはうってかわって蜀紅綿の陣羽織と袴というあでやかないでたちで、見栄えがたいそう華々しく、その彼が配下の洋式武装兵と小田原藩兵を引き連れ「15万の民を支配する大身である」と触れ込んで、マリナー号を包囲した上で当船に乗り込んだのであった。
艦長に対面するやいなや、英龍は機先を制して「日本やオランダには法律というものがあるが、貴国にもそれはあるのか?」とオランダ語で詰問。艦長がムッとして「もちろんある。貴公はわが国のことをあまりご存じないようだな」と言い返すと、英龍が返したのが「私は大英帝国を紳士の国と聞き及んでいる。この旨、間違っておりましたかな」という有名な言葉だったそうです。
この最初のやりとりで感じ入ってしまった船長は、「紳士」として国際法にのっとった交渉に徹することに決め、その後の交渉は和やかに進行。船長は江川に洋画の額を送り、江川も漆器を返礼に与えたそうです。最後に「即刻立ち去れば罪には問わないから」と江川が言ったことに対して、船長は快く退去を約束。しかし、約束にしたがってマリナー号が下田から姿を消したのはその4日後で、その後さらに南伊豆をうろうろして同様に測量してから、ようやく上海への帰路に就いたそうです。(←オイオイ)
コイツ、ある意味、オトコの中のオトコだぜ!
ものの本には、「豪放な武人タイプの人物」と書いてあります。なお、実はこのときマリナー号の通詞として江川太郎左衛門と交渉したのは、1832年に遠州灘で嵐に遭ってカナダ沖に漂着した知多の漁民・音吉だったのですが、彼はアトフ(林阿多 リン・アトウ)と名乗って中国人のフリをしていたのだそうです。(←いろいろなドラマがあったのだろうね)
このときの功と機転と威儀を買われて、その後下田の管理は江川英龍のおこなうところとなり、4年後にペリーが来航したときも、日本の窓口として江川の治める下田に白羽が立つことになるのです。
さすが江川! だてに目が大きいだけじゃないね!
でも、マリナー号事件直後に江川太郎左衛門が幕府に対してした海防強化の献策は、ほとんど無視されたそうです。
2002年10月8日(火)今週の気になる人68
アリウス(ギリシャ名;アレイオス) (250頃〜336頃)4世紀前半のアレクサンドリアの司祭。
厳格・禁欲的な人物として有名だったが、神の絶対性を追求するあまり、「キリストの神性」を否定したことが問題となり、教会から非難をうけてアレクサンドリアを追放され、323年のニケーア(ニカイア)公会議では異端の決議を受け、アリウスは破門された。正統派教会とアリウス派の激しい論争の中で、キリスト教の最大の教義・三位一体論が完成する。アリウス派は初期キリスト教会の最大の異端とされたが、異端とされたのにもかかわらず以後しばらく命脈を保ち、ローマ皇帝やゴート族・ヴァンダル族などの首長にも強く支持され、6世紀にフランク王クローヴィスがアリウス派を敵にして打ち破るまで、大きな勢力を持っていた。あまり信心が広くない私がこんなことを言うのは恥ずかしいんですが、高校生のころキリスト教のことを勉強しようとしたとき、どうしても納得できなかったことがありました。私の気になるポイント@
キリスト教は一神教ですよね。キリスト教の神は世界と人間を創造した偉大な神で、裁きと愛の神で、一神教ですから、唯一絶対の存在なのです。偉いのです。…でも、じゃあ、その天下を創世した神様が一番偉いとして、教会で、その神さまとは別に神の子イエスや聖母マリアなんかを神さまの如くにあがめているのはどうしてか? しかもそれだけでなく、各地の教会が本尊として祀っている対象には無数の天使や守護聖人までもいる、、、、 これって、多神教じゃないの??? 主なる神と神の子キリストはどっちが偉いの? あまつさえ、その神様だってヤハウェ、エホバ、デウス、アドナイ、、 なんていくつも呼び方があるし、、、 その後、「三位一体」というのがキリスト教の最も重要な教義で、神さまと神さまの子供と聖霊は同質で、同じものなんだよ〜と言われて、「おぉ!」と思ったのですが、でもまだごまかされている感じがぬぐい去れない。別に崇拝の対象がいっぱいいるのはいいんですよわたしは(仏教徒ですから)。でも、「聖霊」ってなんじゃい(天使とは違うらしい) いっそのこと「キリスト教は多神教だ」と言い切ってしまった方が気持ちいいのに。
これに対して(ライバルの?)イスラム教は一切思い切りが良いんです。開祖マホメットは単なる預言者の一人にすぎないし(といっても“最後の”ですが)、尊崇はされても崇拝はされないし、多神教になる恐れを避けるために、偶像を作ることを絶対に認めないんですから。 キリスト教よ、一神教を名乗るのなら、イスラム教のいさぎよさを見習えッ。
で、そんなことでモヤモヤしていた単純なわたしに、突如明確な解答を与えてくれたのは、異端とされてるアリウスの言ったことなんです〜〜、トホホ。
アリウスは、ローマ皇帝によるキリスト教徒大迫害が始まった3世紀中頃、リビアで生まれた(シリアで、とかアレクサンドリアで、と書いてあるのもあります)。
この時代は帝国の外部からの脅威(ゴート族、パルティア帝国)や内部の分裂の時代(帝国四分統治、ガリア帝国の独立)でもあり、また宗教的には東方のミトラ信仰の影響で太陽神崇拝が興隆した時期でもあった。おそらく迫害と異教徒勢力の脅威の中で、この時期のキリスト教は熱心な殉教精神を育て、一方でギリシア知識を取り込みながら教義を洗練させていったと思われる。アリウスはアンティオキアで独自の教説を展開するルキアノスの神学院に入学し、ここでルキアノスの従属主義に触れた。ここで研鑽を経たあと、どういうわけかアリウスは教説的にアンティオキアとは対立関係にあったアレクサンドリアへ向かった。そこでアリウスは禁欲的な性格と厳格な修道士的生活、そして豊かな論説で信望を得て司祭に叙階された。ところが、アリウスの主張はアレクサンドリアの大主教アレクサンドロス(後に列聖)たちが説く三位一体説とは相容れないところがあり、319年頃からアリウスはおおっぴらに、「神は唯一絶対のもので、キリストであってもその性質は神とは同質な物ではない」とする「従属説」を説き始め、これによってアレクサンドリア教会は混乱した。アリウスの主張はアレクサンドリアだけでなくエジプト全体に広まり、それだけでなく他の東方地域にまで伝わっていったからである。
事態を重く見たアレクサンドロス主教は、321年頃にアレクサンドリアで主教会議を開き、アリウスを破門に処した。アリウスは小アジアのニコメディアの主教であったエウセビオスを頼った。エウセビウスの保護のもとでアリウスの舌鋒は鋭さを増し、アレクサンドリア派を攻撃した。この教義上の争いを解決するために登場してきたのが、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝である。313年のミラノ勅令によってキリスト教を公認して以来、皇帝は教会内の混乱に心を痛めていて、アレクサンドリア側とアリウス側の双方に何度も調停の使いを送っていたが、とくにアリウスは頑強にそれをはねのけたため、ついに325年に最後の手段として、世界各地から有力な司教を招集し、小アジアのニカエアで公会議を開催した。この公会議には300名の司教が参集し、教義的問題を論議し合った。会議の最も大きな主題がアリウスが異端かどうかではなく、キリスト教徒の信仰箇条を定義することで、討議の結果、キリスト教会は初めて「ニケーア信条」と呼ばれる公式の信条を採択したのである。ニケーアの公会議で突如頭角を現したのはアレクサンドリア主教の秘書であったアタナシウス(後に列聖)で、おもにこの会議はアタナシウス派とアリウス派の争いとしてとらえられ、アタナシウスの論破によりアリウスは改めて異端とされ、ふたたび追放された。
アリウスの主張・キリストはなぜ神よりも劣る(従属する)のかアリウスの主張は神の厳格な絶対性の思想から始まる。私の気になるポイントA
神は独一であるがゆえに、おのずと神の子(ロゴス)は神と等しいものではなく、永遠でもない。すなわちロゴスは、真の神でないばかりでなく、ただ単に神による被造物であるにすぎないのです。ただ、キリストとは、もろもろの神の被造物の中で、最初の、また最高の存在である。ロゴスが人になったとき、キリストは「霊的な体躯」をとり、受苦を帯びるものとなった。
・・・このアリウスの考えは、私が長年持っていたキリスト教への疑問をスッパリ解決してくれるので、わたしは割合と好きなのですが、、、、
よく本で引用される文句で、アリウスは神よりもキリストが劣っていると言うとき、こんなふうに言うのです。
「子なるキリストが父である神から生まれたものであるとすれば、父が子を生むまでの間にキリストは存在しなかった時期がある。神は無限であるはずで、いなかった期間のあるキリストは、神と同質ではありえない」 ・・・・・・うわーーい、なんだそれ(笑) でも、このアリウスの言い方は好きです。もっともですよねー。
私なんか単純だから、神さまがキリストを作ったんだとしたら、キリストが神さまより(と同じぐらい)エラいハズないじゃん、もし仮に神さまが自分と匹敵する神性の存在を作れるとしたら、偉大な力を持つ神さまは何人も存在できることになり、それじゃ絶対神じゃないじゃん、て思っちゃうところなんだけど、、 そもそもが「キリスト教」なんだからキリストに最高の力がないとキリストの生涯の軌跡の奇跡によって救いを得る信徒たちは行き場が無くなってしまうし、もしキリストが神によってパワーを得て毛が生えた程度の人間、てなことになったら「マホメットもイスラエルもモーセもキリストも、神によって言葉を与えられた“預言者”のひとり」とするイスラム教と変わらなくなってしまいますからねーーー。どちらにせよ、「父と子は同質」としても「父は子に従属する」としても、厳密に定義しようとすれば、どちらも多神教的な理解になってしまうおそれを持っているようです。
そもそも、私が創世記を読んでいて一番気になるのは、「始めに神が天地を創造された」の文章の前、いったい神さまは何をしていたのか、ということです。書かれていないって事はそれ以前からいて何かしていたってことで、だから生まれた場面がきっちり描かれている他の諸子よりも偉いってことでしょうが、、、、、、、 もう一つ小さな頃から気になってならないことが、、、、 創世記で、創造の6日目にアダムとエバを創造し、やがてアダムとエバは息子のカインとアベル(とセツ)を生み、カインがアベルを殺害したあと、カインは妻を得て息子エノクを生むのですが、、 このカインの妻ってのはどこから来たのだ?
アダムとエバはカインとアベルとセツのあと、多くの息子と娘を生んだと書いてはあるが、カトリックでは当然近親結婚は禁止していただろうし?
カインの妻の一族を生んだ別の神さまがいるのかな?
ニケーア公会議では、ローマ教会は何の役割も果たさなかったローマ皇帝コンスタンティヌス大帝の命令で325年にトルコで開催されたニケーアの公会議では、アレクサンドリア教会の聖アタナシウスらの活躍により、キリスト教で最も重要な教義とされる三位一体説が確立するという、キリスト教の歴史にとってとても重要な転機となりました。私の気になるポイントB
にもかかわらず、この会議にはローマ教会からは2名の特使が派遣されたのみで、ローマ教皇は臨席していない。
ときの教皇は、シルウェステル一世。
中世のキリスト教の聖者の伝説を集めた『黄金伝説』という本があるのですが、その中の「聖シルウェステル伝」に、この教皇が大帝の病気を奇跡で癒し、ついでに改宗させ、9人のユダヤ人学者と激しい論争をおこない、ドラゴンを退治し、皇帝にはとても慕われた、、、 というような事が書かれています。でもどうも実際はこの教皇は皇帝に軽んじられていたとしか考えられませんねー
コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国にとってもキリスト教にとっても、歴史の中でとても大きな役割を果たしています。大帝がキリスト教に対して真面目な尊崇の心を持っていたのは確からしいんですが、一方で彼がおこなったその政策には、政治的な打算が大きくあずかっています。
306年にコンスタンティヌスが父帝コンスタンティウスの死の直後にむりやりガリアで正帝継嗣を宣言したのは彼が30代のことでした。即座に老獪な東部帝国の正帝ガレリウスは、コンスタンティヌスを副帝に降格し、自分の親友セウェルスを西部の正帝としてしまいます。ここから断続的に20年も続く内乱が始まりました。かつて285年にディオクレティアヌス帝が始めた帝国分割統治のせいで、帝国内には皇帝が複数存在出来るようになっていたので、その2つの正帝(アウグストゥス)と2つの副帝(カエサル)の座を巡ってマクシミアヌス帝、マクセンティウス帝、ガレリウス帝、セウェルス帝、リキニウス帝、マクシミアス・ダイア帝らが互いに激しく戦い合う複雑な状態になったのです。
なぜかこの内乱では、キリスト教徒を迫害するか、それとも十字架の旗を大きく掲げるかが大きな対立の要素になっていました。帝国東部を支配していたガレリウス帝とセウェルス帝、それから帝国南部をかき乱していたマクシミヌス帝は、キリスト教徒を激しく迫害する姿勢を取っていました。310年と311年にコンスタンティヌスはマクシミヌスとガレリウスの勢力を打ち破ったことで西部帝国を平定しましたが、このとき帝国東部で「キリスト教徒の根絶やし」をローマの神々に宣誓するマクシミアス・ダイア帝と激しく戦うリキニウス帝と手を結ぶことにしました。
312年は西部副帝コンスタンティヌスと西部正帝リキニウスはミラノで会見し、翌年に合同でキリスト教を公認するミラノ勅令を発布。
この前後に、コンスタンティヌスもリキニウスも、戦いの時に十字架の旗印を高く立てて戦ったら奇跡的な大勝利を得たという伝説を作っています。(コンスタンティヌスはミルウィウス橋の戦いで、リキニウスはハドリアノポリスの戦いで。つまりそういうことが自勢力の宣伝材料に使われた)
ミラノ勅令に先だってコンスタンティヌスはローマ教会と諮って主だった聖職者をミラノに集結し、大々的に宗論会議を開催していますが、どうしたわけかこの時もローマ教皇は臨席していないのである。(ときの教皇は、シルウェステル1世の前任者のミルティアディス)
すぐにコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の対立が始まります。313年にリキニウスがマクシミアス・ダイアを破って帝国東部を平定すると、10年間の平和が続いたが、この期間にリキニウス帝は領内のキリスト教徒たちの態度に不審を感じ(最初は保護していたのですが)、「キリスト教徒たちはみなコンスタンティヌスのスパイである」と断じて、大がかりな迫害を始めたのです。
324年の時点まで、アンティオキアもコンスタンティノープル(ビザンティウム)もニコメディアもアレクサンドリアも、全部コンスタンティヌスではなくリキニウスの勢力圏だったんですよね。324年についに決戦が始まり、2ヶ月の戦いでリキニウスは降伏し、自殺をさせられた。
大帝がアンティオキア派とアレクサンドリア教会の対立を憂いて、ニカエアに公会議を招集するのはその翌年です。そもそもアレクサンドリア内ではアタナシウスとアリウスの論争は4年前に決着は付いてましたから、この公会議の招集は、大帝の宗教的使命感(?)が大きく働いていたというしかありません。ついでに、そこにはローマ教会が出張ってくる必要は無かったのである。
この時コンスタンティヌスがローマ教会にどういう感情を抱いていたのかは、その後のコンスタンティヌスの政策を見れば分かる(コンスタンティノープル遷都やローマの神々の祭祀など) 337年になって皇帝は正式にキリスト教徒として受洗したが、そのとき皇帝に洗礼の秘蹟をとりおこなったのは、コンスタンティヌスによってニコメディアの司教からコンスタンティノープルの大司教として引き上げられたエウセビオス(=アレクサンドリアを追放されたアリウスをかくまったひと)であった。
ミラノ勅令(313年)とニケーアの公会議(325年)は同じ皇帝がおこなったので、世界史の中ではひとくくりにして覚えるべきものですが、どうしてそのふたつに12年もの隔たりがあるのかは考えなければなりませんよ。コンスタンティヌスにとって、ミラノ勅令は動乱のまっただ中に戦路を切り開くために取った方法の一つで、それに対してニケーアの公会議は、皇帝の覇業の完成のあかしを大々的に知らしめるためのものだったのです。(もちろん大帝が心の底から(?)キリスト教が好きだったことは言うまでもありませんけどね)
…おっと、「ローマ教会は何の役割も果たさなかった」と書いてしまいましたが、公会議に先立って、皇帝はローマ教会に対して話し(だけ)は通しているそうですよ。
異端となってもアリウスは火あぶりになったりしてないウィクリフやフスらの運命を知っているから、ちょっと意外でしたね。私の気になるポイントC
古代にはまだ魔女狩りはなかったのです。むしろそのたかだか数十年前の殉教者達の悲劇の方が恐ろしく激しいですね。
アリウスと、その宿敵アタナシウスの性格は、アリウスの主説の厳格さと三位一体論の妥協的産物っぷりもあって、ちょうど正反対に見えますね。
何冊か本を読んでも、アリウスの性格については「厳格で禁欲的」としか書いてないのでよく分からないんですが、当時アリウスの信奉者がかなりたくさんいて、当時の絵なんかに「敵を激しく攻撃するアリウス派」とか「教会を焼き討ちするアリウス派」とかいうのがたくさんあるので、それから判断して師アリウスもかなり戦闘的で排他的な性格だったと思ってみたりもします。
にも関わらず、アリウスには頼りになる支持者がたくさんいました。
コンスタンティヌス帝から大きな信頼を受けていたニコメディア司教エウセビオスは、何度も大帝に対してアリウスの復権嘆願をしていますし、同名のカエサリアのエウセビオス(高名な歴史・伝記作者で大著「教会史」や「コンスタンティヌス大帝伝」、「聖アタナシウス伝」とかを書いている)も最初はアリウスを支持していました(ニカエア公会議ではアリウスの敵に回りましたが)。コンスタンティヌス大帝自身はアリウスと会ったことはありませんでしたが、このニコメディアのエウセビウスとカエサリアのエウセビウスの両名り説得に揺り動かされて、ニカエア公会議の数年後(335頃?)に今度はアタナシウスを帝国から追放し、アリウスを帝国に呼び戻そうとしたのです。(でも帰国前にアリウスはリビアで死にました)。
思うに、きっとアリウスはいわば聖者のような雰囲気の人間だったのではないでしょうか。
黄金伝説の『聖エウセビウス伝』(←このエウセビウスはニコメディアのエウセビウスとカエサリアのエウセビウスとは別人)では、アリウスの最期について、「アリウス自身はその後みじめな最期を遂げた。厠で用を足している最中に、はらわたがことごとく体外に飛び出してしまったのである」とかむちゃくちゃなことが書かれているんですけどね(^_^;)
19世紀のギボンの『ローマ帝国衰亡史』(←持ってない)にはニケーア公会議の騒動が詳しく描かれているというし、聖アタナシウスには「アリウス派に対する論駁集」という著作があるそうです。読んでみたいものです。
ニケーア信教(信仰告白)について上で「アリウス派の言うことの方が好き」と散々書いていますが、アタナシウス派の勝利について、見過ごせないことがひとつあります。私の気になるポイントD
会議の終わりに、カイザリアの司教エウセビオスの書いた「信仰告白」に修正を加え、アタナシウスが「父と子は同等である」 という式句を加えた「ニケーア信条」が採択されたことです。
この「信仰告白」では「三位一体」に対する信仰について切々と訴えかけ、その後のカトリックのミサ典礼には必ず唱えられるものとなり、そして14世紀以降盛んに作られたミサ曲の通常典礼文では、「ニケーア信仰告白(クレド)」は、「キリエ(憐れみの讃歌)」、「グローリア(栄光の讃歌)」に続く三曲目。つづく「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」とあわせて、グローリアとクレドの部分が、どのミサ曲でも一番の盛り上がりになるのです。(文章も一番長いし)
大バッハの「ロ短調ミサ曲」、ハイドンの「ネルソンミサ曲」「ハルモニーミサ曲」、モーツァルトの「大ミサハ短調」「クレドミサ曲」、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」、シューベルトの「ミサ曲第2番」、ベルリオーズの「荘厳ミサ曲」などなど、クレドの部分がとっても印象的な曲はたくさんありますからね。
4世紀に白を黒といいくるめるアタナシウスが勝利しなければ(負けることはなかっただろうが)、もしくはアリウス派が強固に抵抗しなければ、ニケーア信条は成立せず、これらの音楽も聴けなかったことになってしまったかもしれないのです。ここは宗教音楽好きには重要なポイントだ。
ただ、現在使われている「ニケーア信条」は、325年のニカエア公会議で採択されたニケーア信条の文章に、ちょっと変更が加わっているそうで、ちょっと残念。
なにが変わったのかというと、もともとのニケーア信教の文章には、アリウスを呪う文章(アナテマ)というのが含まれてたんだそうです。
それは問題ありということで、381年のコンスタンティノープル公会議で現在の文章に変更されたんだそうですが、もしそのままの文章だったとしたら、ミサ曲内での音楽の性格もちょっとは変わったに違いありませんね、残念。
ちなみに、325年のと381年のは、どこがどう変わったのかを比較してみる必要はありますね。
★原ニカエア信条(325年)
我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、 すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。
我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。 主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、神からの神、光からの光、 まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、 天地万物は総べて彼によりて創造されたり。主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、 苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。
また我らは聖霊を信ず。
主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、 また存在し得ぬものより生れ、神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、 公同なる使徒的教会は、呪うべし。
★ニカエア・コンスタンティノポリス信条(381年)
われは信ず、唯一の神、 全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるもの すべての造り主を。
われは信ず、唯一の主、 神の御ひとり子イエズス・キリストを。
主はよろず世のさきに、父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりの まことの神。
造られずして生まれ、父と一体なり、 すべては主によりて造られたり。
主はわれら人類のため、また、われらの救いのために 天よりくだり、聖霊によりて、おとめマリアより 御体を受け、人となりたまえり。
ポンシオ・ピラトのもとにて、われらのために 十字架につけられ、苦しみを受け、葬られたまえり。
聖書にありしごとく、三日目によみがえり、 天に昇りて、父の右に座したもう。
主は栄光のうちにふたたび来たり、 生ける人と死せる人とを裁きたもう、 主の国は 終わることなし。
われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主を、 聖霊は父(と子)よりいで、父と子とともに 拝みあがめられ、また預言者によりて語りたまえり。
われは一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、
罪のゆるしのためなる唯一の洗礼を認め、
死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。
アーメン。
ゲルマン人たちに信奉されたアリウス派「325年のニケーア公会議で異端とされたアリウス派は、その後北方のゲルマン諸族に広まり、信仰され続けた」
と学校では習うんですよね。これは本当にワケが分からない。その後にやっぱり「異端」とされたネストリウス派は中国に渡っていってしまったり。つまり異端の審判ってあんまり意味のないこと?
参考本
『週刊朝日百科 世界の歴史22 宗教と異端 〜初期キリスト教の異端〜』 朝日新聞社、1989年
『ブックス・エソテリカ15 キリスト教の本(上)』、学研、1996年
ヤコブス・デ・ヴォラギネ 『黄金伝説3』 人文書院、1986年
クリス・スカー 『ローマ皇帝歴代誌』、創元社、1998年2004年5月30日(日)今週の気になる人69
ユースフ・イブン・ターシュフィーン (位;1061〜1106)スペイン南半分を征服したベルベル人。
11世紀後半に、弱体化した後ウマイヤ朝のあとをおそって急速に南下するキリスト教軍を迎撃するべく、北アフリカから招き寄せられたムラービト王朝の覇王。
危険な援軍。宗教的使命に燃えた危険な男。
自分を迎えたアルアンダルスのイスラム諸侯たちが惰弱で腐敗していると見て取ると、敢然とイスラム勢力をも打破・吸収・征服してしまった。
彼を招いたセビーリャの王ムータミドも重々この男を迎え入れることが危険なのを承知していたが、最終的に彼も敗れて消え去った。
キリスト教国(カスティーリャ・レオン王国)の王アルフォンソ6世は強敵ムラービトの出現に大いに苦しめられた。野戦では無敵の強さを誇るムラービト軍が、攻城戦がとても苦手で(攻城成功率は4割ぐらい?)、追撃戦も得意ではなかったのは、ムラービト独自の戦術と陣立てによる。
『エル・シードの歌』ではユースフ王がエル・シッドに斬りつけられるシーンが出てくる。そんなことあるワケないよね(ぷんぷん)高校の世界史Bで、イスラム勢力の伸張に関して、イベリア半島を征服したウマイヤ朝を継承した後ウマイヤと、その後ウマイヤ朝と11〜12世紀に入れ替わったとして名前が出てくるムラービト朝とムワッビド朝。
でも、ムラービトとムワッビドは出てくるのは名前だけなので「何なんですかこいつらは」「変な名前だな〜どうしてこんなの覚えなくちゃならんのや」というぐらいの認識だったと思う。ちょっと後に北アフリカを支配することになるイドリース朝とかハフス朝とかマリーン朝とかは、名前すら出てこなくなりますからね。(……だっけ?) だから、どうしてムラービトとムワッビドだけ?という不可思議な印象だけが残った。
ところがどっこい、本を読んでみると、このムラービトとムワッビドはなかなか特徴的な国家なのである。ムラービトとムワッビドは名前が似ているが、「宗教的使命に燃えた戦士集団が建てた国」という根本的な特徴が共通しているものの、その理念やとった政策は対照的と言っていいくらい正反対である。少人数の精鋭部隊がよそからやってきて電光のように建てて、すぐに消え去った、、、。本には、「遊牧的な気質を強く持った戦士集団なので、精強ではあったが華奢に溺れるのも早く、勢力を長く保ち続けることが出来なかった」とか書いてあるが、いやいや、このふたつの王国について言わなければならないのはそんなことじゃないぞ。左の地図を見てごらんなさい。ムラービト朝がたった十数年の間に征服した範囲は(これにイベリア半島南半分を加えて)こーんなに広いのだ。
この戦士集団は現世の利益に加えて、それ以上に大きい意味を持つ使命感によって動くから、味方にすればとても心強い代わりに、いつ期待と異なる行動を取り始めるか分からないという、周囲の全ての勢力にとって危険でもある存在だった。喩えて言えば、ルネッサンス時代の傭兵隊長たちや、洛陽の守備のために招請された董卓の軍勢みたいな感じかな。
8世紀にイベリア半島で興った後ウマイヤ朝では、アブド・アッラーフマン1世と3世を初めとして何人もの名君が出て、繁栄を極めた。しかし、やがて家臣団が国政を牛耳るようになり、1009年にコルドバの人びとによってカリフが廃位されると、急速に崩壊を始め、それから21年間のあいだに10人のカリフが次々と廃立されたあと1031年にカリフの血統が完全に途絶えた。すると、各地で諸侯(ターイファ)が群立する小国分裂の状態となった。後ウマイヤ崩壊後に名乗りを上げた諸侯国は30あまりもあったといわれるが、彼らはこぞって後ウマイヤ時代に栄えた文化の保護に熱心で、逆に国力の充実には不熱心なのであった。タイーファ諸侯内での権力抗争も激しく、不益な内部抗争と小競り合いと陰謀が激しく渦巻きおこなわれた。これを見て、キリスト教国勢力が奮い立った。キリスト教徒たちは、何百年ものあいだ、イベリア北部の山岳地帯に雌伏を余儀なくされていたのである。機が来たれりと旗を掲げたキリスト教軍の南への進軍が始まり、これまでとは逆に、イスラム諸侯がキリスト教王国に対して貢納をおこなうようになった。
そして現れたのが鋭敏なカスティーリャ国王アルフォンソ6世。1072年にレオンの王位も手にした彼は、大々的に国土回復(レコンキスタ)を開始し、なかなか意に従わないエル・シッドなどを操りつつ、アルバル・ファニェスやガルシア・オルドニェスらの名臣らとともにイスラム勢力との激しい抗争を始めた。1085年のアルフォンソによるトレド奪取は、イスラム勢力に大きな振動を与えた。
次第に悪化する情勢を目の当たりにして、群小諸侯のうちもっとも大きな勢力を持っていたセビーリャ(アッバード朝)の支配者ムータミドは苦渋の決断を迫られることになった。増大してくるキリスト教徒の勢力をはねのけるために、当時西部アフリカで急速に勢力を伸ばしつつあったムラービト朝に、力を貸してもらおうと。これまでのようにキリスト教徒たちに貢納金を払うことで攻撃を穏便にやり過ごそうと主張する他の諸侯たちに、ムータミドはこう言ったと伝えられる。「カスティーリャの草原でブタを飼わされるよりは、サハラの砂漠で駱駝を追わされる方がはるかにマシだ」話は、イベリアで後ウマイヤ朝の血統が途絶えたころにさかのぼる。
ジブラルタルから南方に2,500km離れたサハラ砂漠南辺の草原(サヘル)地帯に、サンハージャ族という駱駝を追うベルベル人の一氏族がいて、その中のひとつの部族(グダーラ族)の族長であったヤフヤー・イブン・イブラーヒームが、部族の貴顕を引き連れてメッカ巡礼を敢行した。
630年に預言者ムハンマドに率いられたイスラム軍がメッカを征服してから、ウマイヤ朝が西征を開始して、(ターリク・ブン・ジヤードがジブラルタルを超え)、メッカから4,000kmも離れたイベリア半島に攻め込むまでわずか80年だ。しかし、そこからイスラム教がアフリカ大陸の南方に広まっていくのは時間がかかる。肥沃なアフリカ西岸へのイスラムの浸透は、東方やイベリアのような武力によるものではなく、サハラを渡る駱駝商人により平和的な伝道、という形でおこなわれた。ニジェール河流域の先進的な都市社会では、イスラム教の伝達したのは早かったが、浸みこんでいくのはかなりな時間がかかったらしい。8世紀〜11世紀にセネガル・ニジェール河上流域で繁栄を誇っていたガーナ王国(黒人王朝)ではイスラム教は知られてはいたが、全然広がってはなかったという。(それに対して白人種であるベルベル人社会ではもっと早くイスラム教は迎えられたのかも知れませんけどね) ともかく、西アフリカではイスラムは数世代かかってジワジワ浸透していったそうで、もしかしたらこの地域でイスラム教徒の5つの義務のひとつであるメッカ巡礼を始めておこなったのは、このヤフヤー・ブン・イブラーヒームかもしれませんね(知らないけど)。
メッカに巡礼して、大いに感激した族長ヤフヤーは、帰途に、北アフリカの行政の中心地カイラワーンに立ち寄った。そこには、現在も(神秘主義者たちに)聖者として崇められている高名な法学者アブー・イムラーン・アル = ファーシーがいた。アル = ファーシーはスンナ派四学派の中では比較的教義が厳格なマーリク派の法学者であった。この高名な人物と会い、さらに感激が高まった族長ヤフヤーは、アル = ファーシーに、「誰か、頼りになるあなたの弟子を我らの地に連れ帰りたい、誰かくれ」と頼み込んだ。その願いに対し、師によって推薦され、族長ヤフヤーから熱心な説得を受けて、とうとうサハラを超えてサヘルの地までやってくる決意をしたのが、厳格にかけては並ぶもののない法学者イブン・ヤーシーンであった。(1039年のことである)
ところが、せっかくはるばるとやってきたというのに、サンハージャ族の人びとは、イブン・ヤーシーンの説くイスラム教の教えをあまり好まなかったらしい。マーリク派というのは、コーランの語句をすべて文字通りに忠実に実行することを主張しているので、厳格なのである。対してサンハージャ族は、イスラム教の持つ神秘の力を愛好していた。失意のイブン・ヤーシーンは、数人の若者を連れて、セネガル河の河口付近の中州にある古びた要塞に引き篭もった。ここで彼らはコーランの研究と敬虔な修行に専念したのだが、やがて、なぜか、何年も経って部族の前にふたたび姿を現した彼らは、恐れ知らずで神秘的な雰囲気を持つ勇猛な戦士たちに生まれ変わっただった! 生まれ変わったヤーシーンの帰依者たちは瞬く間にヤフヤーの部族の全体を従え、さらに近隣のラムトゥーナ族をも(力づくで)改宗させてしまった。イブン・ヤーシーンが作ったこの精強な兵士たちのことを、彼らが生まれた河中の砦にちなんで「砦の仲間たち」という意味の「ムラービトゥーン」または「ムラビティン」と呼ぶようになったという。(←この呼称の由来については本によって書いてあることが違う “ribat”は庵だとか修道院だとか絆だとか同盟だとか、彼らが戦闘の時に取った密宗隊形のことを“砦”というだとか)
やがて族長ヤフヤー・ブン・イブラーヒームが没し、後継者としてヤフヤー・イブン・ウマルが選ばれてアミール(総督)を名乗った1055年の頃から、ムラービト軍は積極的な征服活動を開始する。ムラービトの軍勢は、戦闘方法に特色があった。
ムラヒディンたちは口を不浄な物だと考え、兵士たちはみな首から口までを隠す大きな布のマスクを巻き付けていた。(彼らはマスクを付けない人間を見て、「口からウジがわいている」と言っていたという) 彼らは小隊の前列にオーロックス(野牛)あるいはカバのなめし革で作った背の高い盾を並べ、前列の兵士が膝をついて長槍を構え、後列に立った兵士が投げ槍(ジャベリン)を一斉に投げる。この密集陣形は、騎獣の能力に頼って突撃を繰り返す敵に対しては圧倒的な戦闘力を誇った。この戦術には練り込まれた布陣能力も必要となるが、もともと北サハラのベルベル人は十数騎の駱駝や馬でバリケードの陣を作ったのち一斉に突撃する、という戦術を採っていたため、それらに対してはムラービトの陣は無敗だった。一方でムラービトの戦術は何があっても陣を固くして敵を寄せ付けず、逐次(近寄ってきた者を)串刺しにしていく、というものであったため、機動力は0に近いもので、従って攻城戦や追撃戦には不向きだという欠点があった。やがてその欠点は、ムラービトが北サハラの遊牧諸族をくだし、ムラービトの鉄壁の防御方陣に加えて機動力に優れる突撃兵力を手に入れ、方陣で敵を食い止めたのち、盾の隙間から勇猛無比な戦士たちが飛び出して円月刀で敵を切りまくる、という戦術で補強されるようになる。(とはいえムラービト軍は追撃戦が不得手であった)
また、当初ムラービトの指導者たちは太鼓を異教徒が使う不浄な物と考えていたが、やがて雷のような太鼓の音を重用するようになり、鼓笛騎手の馬上からとどろき渡る小太鼓の連打の音は、とくにイベリアの地でキリスト教徒たちをパニックに陥れ、馬たちを怯えさせた。
ムラービトは1055年頃、シジルマーサのオアシスの小国を手始めに、征服活動を開始した。当初はアミールであるヤフヤー・ブン・ウマルが軍隊の指揮を、精神的な闘争心の高ぶりをイマーム(精神的指導者)であるヤーシーンが鼓舞していたが、1056年頃にヤフヤー・ブン・ウマルが暗殺されると、ヤーシーンはヤフヤーの弟のアブー・バクル・ブン・ウマルをヤフヤーの後継者の地位につけた。しかし今度は1058年頃にヤーシーンが暗殺され部族内が混乱し、1061年頃にアミールのアブー=バクルは従兄弟のユースフ・ブン・ターシュフィーンに、支配地の北部地域の半独立指揮権を与え、アミール自身は南部方面の経営に力をそそいだ。北部経営を委任されたことから、ユースフの輝かしい軍歴が始まるのである。(アブー=バクルは1087年に他界)ユースフは、1062年に北部アフリカの経営のために新首都マラケシュを造営し、1075年にアトラス山脈の北部にある都市トレムセンを、1084年にはジブラルタルの要衝セウタを攻略した。1085年になると、トレドが奪われたことに危機感を覚えたセビーリャの王ムータミドが、救援嘆願の使者を送ってきた。実はムータミドが遠征を要請してきたのはこれが初めてではなく、以前にもキリスト教徒王アルフォンソがターイファ諸侯に貢納を無理強いした1075年と、アルフォンソ王がセビーリャを攻撃した1082年にも、要請がなされていた。しかし、ユースフ王はそのときは「セウタを攻撃する方が先だ」と言って断り、ようやくセウタ攻略後にその気になったのだった。アルアンダルスの諸侯たちは、実はムラービト軍を招聘することに乗り気でない者が多く、敵であるアルフォンソ王さえも「ムラービトが来たらアルアンダルスの支配権が彼ひとりのものになってしまうぞ」と警告する始末だった。しかし、セビーリャ王ムータミドだけは違った。彼も他の諸侯と同じく学芸と詩歌を愛好する惰弱なイスラム君主であったが、宗教的な考えだけは他の君主とは違っていた。彼は、自身の窮状に対して異教徒に助けを求めることに我慢がならなかったのである。結局、北アフリカの蛮族軍団に助けを求めるという決断は、ムータミドの独断に近かった。
ムータミド王の要請を受諾したユースフ王だったが、セビーリャ王からはふたつの条件が課せられていた。ひとつは、アルアンダルスのイスラム諸侯の支配権を脅かさず戦闘が終わったらただちに北アフリカへ帰ること。(←なんという失礼な条件だ) もうひとつは、ムラービト上陸に当たって、セビーリャからジブラルタルにあるアルヘシラスの港をユースフに割譲するが、その準備がいるので30日上陸を待つこと。しかし、ユースフは危惧した。30日の準備期間と称して、セビーリャ王はキリスト教王と裏取引をして(つまりムラービトの侵攻のしらせがはキリスト教王に対するただの脅しとして使われるだけで)、ムラービトはに無駄足を踏ませるだけではないのか。ヨースフ王はただちに配下にアルヘシラス港の確保を命じ、1086年6月30日に5万の大軍を率いてアルアンダルスに上陸した。
北に向かって進軍を開始したユースフ軍に、セビーリャ王ムータミド、バダホース王ムタワッキル、グラナダ王アブド・アッラーフ、マラガ王の諸勢が加わり、セビーリャから北方へ200kmの中核都市バダホースで陣形を整えた。その知らせは、スペイン北部の都市サラゴッサを攻略していたアルフォンソ6世をひどく慌てさせた。ただちにアルフォンソはサラゴッサの包囲を中止し、援軍のアラゴン軍、フランス軍を引き連れて南下した。10月20日に、両軍はバダホースの北東8kmにあるサグラーハスの野(サラカ、アル・ザッラーカ)で、ゲレーロ河を挟んで対峙した。このときのイスラム教徒連合軍の兵士総数は約2万人。両軍のにらみ合いは3日に及んだが、とうとう、キリスト教徒軍の先陣の将アルバル・ファニェスがタイーファ諸侯軍の前衛を攻撃することで、戦いが始まった。最初、キリスト教徒軍が優勢で、キリスト教の騎馬軍団の猛攻ににセビーリャ王ムータミドだけが果敢にも踏みとどまろうとしたものの、他の諸侯たちは我先に逃げ出してしまった。ムータミドはこの攻撃で6回負傷した。
しかしこの時、ユースフ率いるムラービト軍はまだ戦闘に参加しなかった。ユースフは丘の上から、敗走するイスラム軍を激しく追撃するキリスト教軍を眺めながら、「ヤツらが皆殺しにされたとして、だから何だというのだ。どうせ、どちらも我らの敵なのだ」と吐き捨てたという。やがて、アルフォンソ率いるキリスト教軍の主力がムラービト軍を見つけ、ユースフの前衛に襲いかかってくると、ユースフは初めて動きを見せた。従兄弟であるラムトゥーナ族の族長スィール・イブン・アブー=バクルに命令を与えて、モロッコの騎隊で、動けないムータミドの救援に向かわせ、自身はサハラの(駱駝?)小隊を引き連れて、ムラービト主隊と激しい戦いを繰り広げるアルフォンソ軍の後ろに回り込み、突撃を仕掛けた。うしろからの奇襲によって、一気にアルフォンソのキリスト教徒軍は崩れたち、一方別動のスィール隊はムータミドの討ち死にを救っただけでなく、緒戦で勝利に油断していたアルバル・ファニェスの軍隊をも突き崩してしまった。ムラービト軍の完全な勝利であった。最後に投入された、インド刀とカバの皮の盾で武装した4000名の黒人親衛隊がアルフォンソの残軍に殺到し、足を負傷したアルフォンソ王は、大量の血を流し何度も気を失いつつ、一晩中馬で駆け続け、ようやく窮地を脱することが出来た。
最後に戦場では、キリスト教徒の首を山のように積み上げ、アッラーに捧げる礼拝を とりおこない、キリスト教徒軍が恐れるに足りないことを示すために、大量の首をスペインやマグリブの主要な都市に送った。各地のイスラム教都市たちは、この勝利と、送られてきた首に対して歓喜し、富者は喜捨し、奴隷たち を解放したという。*/
参考本
『刀水歴史全書39 レコンキスタ 〜中世スペインの国土回復運動〜』 D.W.ローマックス著 刀水書房、1996年
『イスラーム・スペイン史』、W.M.ワット著、岩波書店、1976年
『オスプレイ・メン・アット・アームズ エル・シッドとレコンキスタ 〜1050-1492 キリスト教とイスラム教の相克〜』 ディヴィド・ニコル著、新紀元社、2001年
『エル・シードの歌』 長南実・訳、岩波文庫、1998年
『物語 スペインの歴史(人物篇)〜エル・シドからガウディまで〜』、岩根圀和・著、中公新書、2004年
『アラブの歴史(下)』、フィリップ・K・ヒッティ著、講談社学術文庫、1983年
『イスラムの時代』、前嶋信次・著、講談社学術文庫、2002年
『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』、佐藤次高・著、中央公論社、1997年
『世界の歴史8 イスラム世界』、前嶋信次・著、河出書房新社、1968年2004年7月4日(日)