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にせ女庭師  解説;海老沢敏
 
 
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≪にせの女庭師≫の作曲過程
 1773年の暮れないし翌1774年のはじめに、ローマで名高い作曲家パスクワーレ・アンフォッシ(1727-1797)のオペラ≪にせの女庭師≫が同市の名高い劇場テアートロ・デッレ・ダーメで初演された。 このオペラの台本には「ドラマ・ジョコーソ(諧謔劇)」と記されていたが、台本作者の名前は明らかでない。 モーツァルトもこの印刷された台本を作曲の際に利用したものと考えられる。 台本作者が誰であるかについて、さまざまな推論が生まれたが、モーツァルトのオペラ研究の中で、なかなか解決しがたい問題点のひとつを形づくっていたのである。 従来の通説はグルックの協力者として名高いラニエーロ・デ・カルツァビージ(1714-1795)がテキストを作り、これにモーツァルトの最初のオペラ・ブッファであり、わずか12歳の折に作られた≪みてくれの馬鹿娘≫K.51(K.646o)(カルロ・ゴルドーニ作)の改作者マルコ・コルテッリーニが手を加えたというものであった。これはケッヒェルの新版(第6版)でもほとんど同じであった。カルツァビージの説には、以前から疑念をさしはさむものもないわけではなかったが、「新全集版」の編集者は、この点で次のような結論を下している。 パスクワーレ・アンフォッシは、先立つ1772年から73年にかけての謝肉祭の時節に同じローマの劇場で、同じくドラマ・ジョコーソの≪追われる見知らぬ男≫を作曲しているが、その台本作者はジュゼッペ・ぺトロセッリーニ師(1727-1799頃)なる人物であった。彼はジュスティニアーニ侯の秘書をつとめたあと教皇近侍となっている。 彼が書いたもっとも名高い台本はジョヴァンニ・パイジェッロのための『セビリャの理髪師』(1782年)であるが、この詩人は多くの作曲家のために、かなり多数の台本を提供している。
《にせの女庭師》の台本には、《追われる見知らぬ男》のそれとちがって、台本作者の名は記されていないが、「すべてのローマの貴婦人がた」に献呈されたこの作品の献辞の最後に記された献呈者の表現からして、同じ台本作者という意が読み取れるのである。したがって、このオペラも、その作者はペトロセッリーニであろうと推定されるのである。 ペトロセッリーニは、当時のローマ人の趣味をよく知っていて、彼の台本の中にそうした要素を取り入れ、それらをアンフォッシが曲にしていることからも、当時かなり人気があったらしい。 編集者アンゲルミュラーのこのようなペトロセッリーニ台本作者説は、もちろん間接的な状況証拠からの推論ではあるが、かなりの確実性があるものとして受けとめられよう。
 このペトロセッリーニ=アンフォッシのドラマ・ジョコーソの上演は、ローマ教皇庁駐在バイエルン大使ジァン・フランチェスコ・カテーナを通じて、1774年年頭にミュンヘンに伝えられているし、またドイツの地では同年の8月にヴュルツブルクで初演されている。
 つづいて、モーツァルトにこのペトロセッリーニの台本による《にせの女庭師》の作曲を誰が依頼したかについては、モーツァルトの「新全集版」、『書簡全集』の編集者のひとりヨーゼフ・ハインツ・アイブルは、キームゼー司教フェルディナント・クリストフ・ヴァルトブルクツァイル伯爵(1719-1786)であろうと推定し、またローベルト・ミュンスターはバイエルン宮廷音楽演劇総監督ヨーゼフ・アントーン・フォン・ゼーアウ伯爵であろうと推論している。ツァイル伯爵は1772年にキームゼー司教に任じられるに先立ち、ザルツブルク大聖堂参事会員ならびにその首席をながらくつとめており、モーツァルトの保護者のひとりであった。この両説はけっして矛盾しないと考えられる。すなわち、モーツァルトにミュンヘン宮廷用のオペラを書かせようという考えはツァイル伯爵が抱き、じっさいの依頼はゼーアウ伯爵によってなされたと考えることである。
 モーツァルトは1774年晩夏ないし秋にザルツブルクでこの注文を受け、台本を受け取り、オペラの一部、とりわけレチタティーヴォをこの故郷の町で書いたものと考えられる。しかし作曲に関する情報はまったく伝えられていない。
 モーツァルトが父親レーオポルトに伴われてミュンヘンヘ出発したのは1774年12月6日のことであった。ヴァッサーブルクで1泊し、翌7日にミュンヘンに到着し、ヨハン・ネーポムク・ゼバスティアン・フォン・ペルナートなる聖職者の邸に宿をとった。いわゆる「ペルヴァリッシェス・ハウス」なる邸でカゥフィンガー街25番地からフラウエン広場4番地におよぶものであった。この住居は居心地がよかった。「私たちの住居は小さいが、充分快適だし、それはフォン・ペルナートさんはほんとに私たちには過分なほど親切で特別なもてなしをして下さいます」。この12月9日付の手紙で、レーオポルトはさらに次のように書いている。「オペラについてはまだなんにも書けません。今日はじめて私たちは関係者と知りあいになりましたが、彼らはみんな私たちには非常に親切でしたし、とりわけゼーアウ伯爵閣下がそうでした」。
次便(12月14日付)で、レーオポルトは「ヴォルフガングのオペラはしたがってクリスマスの前ではなく、たぶん29日に初演されることになるでしょう」と予定を述べている。しかし、モーツァルトは歯痛に悩まされる。12月16日付のレーオポルトの手紙の追伸で、モーツァルトは「歯が痛みます」と書いている。 おそらくぱ旅行中の寒気による歯根膜炎で、膿瘍を伴ったものと思われる。21回付の手紙で、レーオポルトは「ヴォルフガングの腫れはもうよく去っています。6日間も家に足止めをくいましたが、明日にはおかげさまではじめて外出できるでしょう」とザルツブルクに書き送っている。、
 12月29日初演という予定は、こうした事情からか延期されたものであった。12月28日付のレーオポルトの手紙には次のよう;こ記されている。「お前たちがザウラウ伯爵閣下のところに伺っていたちょうどその日の朝10時に、ヴォルフガングのオーペラの最初の稽古があり、これがすっかり評判になったため、オペラは1775年1月5日まで延期になりま工した。そうすれば歌手たちがこのオペラをもっとよく勉強できるからで、彼らが曲をちゃんと頭に入れれば、もっと落ち着いて演技ができ、そうすればオペラが失敗することはないからです。 こうしたことは12月29日までにはあまりにも早急すぎたことでしょう。要するにです! この作品はびっくりするほど受けたので、1月5日に上演されることになったのです。あとは劇場で上演されるだけですが、これは私の望みどおりうまくいぐはずです。俳優たちも私たちを嫌ってはいませんから」。
 ザルツブルクに残っていた姉のナンネル、すなわちマリーア・アンナも、弟のオペラを観ようとミュンヘンにやってくる予定であった。「ナンネルはオペラにはちょうど間に合います。というのは、あの娘は水曜日〔1月4日〕の午後着くことになるが、オペラは木曜日に上演されるからです」(12月30日付)。この手紙でレーオポルトが伝えているのは、モーツァルトのオペラに先立って上演されるアントーニョ・トッツィ(1736頃一1812以降)なるミュンヘン宮廷楽長のオペラ・セリアのことである。「目下、オペラ・セリアを書いているマエストロ・トッツィが去年のちょうど今ごろオペラ・ブッファを1曲書いたのでしたが、去年マエストロ・サレスが書いたオペラ・セリアを打ち倒してしまおうと、この曲を立派に書くよう大いに努力したため、サレスのオペラはじっさいはもうあまり気に入られなくなったほどでした。ところで偶然ヴォルフガングのオペラがまさにトッツィのオペラの前に上演されるのです。それにみんな最初の稽古を聴いたので、誰もが今度はトッツィが同じ報いを受けて、ヴォルフガングのオペラがトッツィのオペラを打ち倒すだろうと言っています。(中略)オーケストラのメンバー全員と、稽古を聴いた人たちは全部、自分たちは今までこんなに美しい音楽は聴いたことはないし、アリアというアリアは全部きれいだと言っています」。
 トッツィのオペラ・セリアは≪オルフェーオとエウリディーチェ≫と言い、名高いグルックの台本作者ラニエーロ・デ・カルツァビージの原作にマルコ・コルテッリーニが手を加えたものがテキストとして使われ、1月一9回に初演され、2月末までに合計7回の上演がおこなわれている。
 一方、モーツァルトのオペラ・ブッファ《にせの女庭師〉の初演はさらにおくれた。この初演のおくれの原因がなんによるものかは推測するほかはないが、おそらくは練習に手間取ったからか、あるいはザルツブルク大司教ヒエロ一ニュムス・コロレードのミュンヘン訪問を顧慮したためと思われる。 ナンネルは1775年1月4日に無事ミュンヘンに着いた。ザルツブルクで親しく交際していたロービニヒ家の人たちと同家の自家用馬車による旅であった。この到着を報じている1月5日付の手紙で、レーオポルトは妻のアンナ・マリーアに書いている。「ヴォルフガングのオペラが13日にはじめて上演されることは、おまえはもうシュルツさんから聞いていることと思います」。シュルツとはザルツブルク宮廷楽団のメンバーで歌唱教師でもあったテノール歌手である。1月11日付の手紙で、モーツァルト白身も次のように母親に報告している。「おかげさまでぼくたち3人共とても元気です。ぼくはすぐ稽古に行かなくちゃいけないので、あまりたくさんは書けません。あしたがぼくの総稽古で、13日の金曜日に初演です。ママは心配ご無用、万事うまく行くでしょう」
この手紙からも明らかなように、1月12日が総練習の日なのであった。
 

《にせの女庭師》の初演
 こうして《にせの女庭師〉は1775年1月13日の金曜日にミュンヘンで上演された。ザルヴァートル広場にある旧宮廷劇場においてであったと考えられる。モーツァルトは練習には立ちあい、深くかかわったものの、初演の指揮は、彼自身ではなく、すでに名を挙げたトッツィないし宮廷楽団副コンツェルトマイスターのヨハン・ネーポムク・フォン・クレーナー(1737頃一1785)であったと思われる。
 オペラに出演した歌手たちははらきりしていないものが多く、わずかにサンドリーナ役のローザ・マンセルヴィージだけが確認されている。このオペラの成立などについて深く研究したローベルト・ミュンスターは、次のようにこのオペラの配役を推定している。

サンドリーナ(ソプラノ)……ローザ・マンセルヴィージ
セルペッタ(ソプラノ)……テレーザ・マンセルヴィージ
アルミンダ(ソプラノ)……?
ドン・ラミーロ(ソプラノ:カストラート)……トンマーソ・コンソーリ(?)
ベルフィオーレ伯爵(テノール)……ヨハン・バプティスト・ヴァレスハウザー
市長(テノール)……アウグスティーン・ブロパー・ズートール
ナルド(バス)・・…・ジョヴァンニ・ロッシまたはジョヴァンニ・パリス
 市長がフェリーチェ・ロッシ(バス)によって歌われたとする説もあるがこれは否定される。 一方、ナルドをヨーゼフ・マティーアス・ゾウターが歌ったとの説もある。
 1月14日付で、モーツァルトは母親にこの初演について次のような報告を送っている。
 「ありがたいことに! ぼくのオペラはきのう13日に上演されました。 そしてとてもいい出来だったので、その評判はママには描写できないほどです。 まず第一に、劇堵は大入り満員で、大勢の人たちが引き返さなければなりませんでした。アリアが1曲終わるごとに、いつも拍手と驚嘆のどよめき、それにマエストロ万歳の叫び声です。選帝候妃殿下も、太后も(ぼくの向かいにおられて)ぼくにブラヴォーといわれました。 オペラが終わり、バレエが始まるまで、その間たいていは静かなものですが、ただもう拍手とブラヴォーの叫びだけでした。 止んだかと思うとまた姶まり、さらにつづくのです。 そのあとぽくはパパといっしょに、選帝候や全廷臣たちが通られる部屋に行き、選帝侯殿下、同妃殿下および高位の方がたの手に接吻しました。 みんなとても寛大に迎えてくれました。 今朝早く、キームゼーの侯爵司教猊下がこちらに使者をよこされ、オペラがみんなにたいへん気に入られたことを祝って下さいました。 どうしようもない、れっきとした理由は、来週の金曜日にまたオペラが上演されるので、ぼくは演奏にどうしても立ちあわなけれぱならないのです」
 この手紙にある「バレエ」とは≪愛の神に守られた偽誓のニンフ≫というもので、おそらくは、ニコラ・ピッチーニの曲であり、振り付けは宮廷のバレエマイスターのアントワーヌ・トランカールであった。 
 この≪にせの女庭帥≫の初演についていくつかの証言が残されている。ザクセン選帝侯随行書記官 J.H.ウンガーの1月15日付のフランス語による日誌には次のように書かれている。 「金曜日。 選帝侯殿下はオペラ・ブッファ≪にせの女庭帥≫の初演に列席された。 音楽はひろく喝采された。 曲ははザルツブルクの若いモーツァルトのもので、彼は現在当地に滞在している。彼は8歳にして英国その他の地でクラヴサンを弾いて聴かせたのと同一人物であり、クラヴサンをまことにたくみに弾く」。
 もうひとつの証言は、作曲家でもあり、また音楽著述家としても高名だったクリスティアン・フリードリヒ・ダーニエル・シューバルトの『ドイツ年代記』に掲載されているものである。 ミュンヘンの通信員はシューバルトに次のように報告している。 「私はまた驚くべき天才モーツァルトのオペラ・ブッファを聴いた。 ≪にせの女庭師≫なる作品である。 天才のきらめく焔がそこかしこにひらめいていた。 だが、それはまだ、香煙の雲となって天にまで、立ち昇っていく静かな祭壇の火 ……神々にとって好ましい香り…… ではない。 もし、モーツァルトが温室育ちの植物ではないとすれば、彼はかつて生きたもっとも偉大な作曲家のひとりとなるにちがいない」。
 もうひとつの出来事は、ザルツブルク大司教ヒエローニュムス・コロレードが初波の3日後の16日にミュンヘンに到着したことである。初演には間に合わず、また続演を聴く機会もなかった大司教について、レーオポルトは次のように語っている。
「オペラがひろく喝采を博したことは、私の前便からも、ザルツブルクに着いた別の手紙からも、それにグシュヴェントナーさん(ザルツフルク市参事会員で商人)自身からも聞いたことでしょう。 選帝侯のご一族の方がたや貴族のかたがたすべてが大司教になされたこのオペラについての賞賛のお言葉や晴れがましい祝詞をお聞きになって、猊下かどんなに狼狽されておられたかを想像してごらん。 あのお方はまったく困惑のあまり、ただ頭でうなずかれ、肩をすくめられるだけで、なにもお答えになるこヒかおできにならなかったのだ。それに私たちもあのお方とはお話ししなかった。貴族の方がたのご挨拶に大いにせめられておいでだったからです。あのお方は夜の6時半頃お着きになり、もう大オペラ〔トッツィの《オルフェーオとエウリディーチェ》〕が姶まったばかりのところだったので、選帝候のロージュにお入りになったのです。 (中略〕 ヴォルフガングのオペラ・ブッファを大司教が聴かれることはないでしょう。毎日毎日、出し物が一杯で、オペラは金曜日にぶつかるのですが、今週の金曜日にはありません。お亡くなりになられたバイエルン国王〔カール7世〕の命日に当たっているからです。しかも次の金曜日の27日までに上演できると、誰がわかりましょう。第2女性歌手〔おそらくはテレジーナ・マンセルヴィージ〕が重い病気に罹ったためです。私が残念に思うのは、たくさんの人がザルッブルクからやってきて、いわば無駄足を踏んだことです。せめて彼らは大オペラは観たでしょう」(1月18日付)。
じっさい出演歌手に事故があったらしい。 レーオポルトは1月21日付けの手紙で書いている。「ヴォルフガングのオペラを、当地にいるザルツブルクの人たちの誰もが聴けないのは大変残念です。というのは、女の歌手がひとり、じっさいに重い病気に罹り、下腹部に痛みがあって高熱が出たので、浣腸しましたが、炎症のおそれがあり、瀉血かほどこされましたところ、そのあとに、痔核が破れて出てきました。彼女がよくなれぱ、オペラは来週の金曜日のヴォルフガングの誕生日に.上演されるでしょう」。
さらに1月21日以降2月21日までのあいだに書かれた手紙でレーオポルトは「ヴォルフガングのオペラは再度上演されましたが、病人の女歌手のおかげで短くしなければなりませんでした」と伝えている。このオペラ再演の日は明らかでないが、プファルツ選帝侯カール・テーオドールの臨席をえて、2月2日におこなわれたものと考えられる。また、女歌手のためにどのような短縮がおこなわれたものかも資料や記録が残されていないので明らかでない。 最後の上演は3月2日の木曜日におこなわれた。「木曜日には、ヴォルフガングのオペラが上演されます」(3月1日付)。このあとモーツァルト父子は3月6日にミュンヘンを発ち、ヴァッサーブルクに一泊して、3月7日、ザルツブルクヘと立ち戻ったのである。以後、モーツァルトの生前に《にせの女庭師》が、この初演の時のかたちで、すなわちオリジナルなイタリア語版で上演された記録はない。
 

ドイツ語によるジングシュピール版の《にせの女庭師》
しかし、この《にせの女庭師》がまったく忘れ去られたわけではない。ヨハン・ハインリヒ・べ一ム(1740/50-1792)を座長とするドイツの劇団が、1779年4月はじめから6月はじめにかけてと、同年9月はじめから1780年の四旬節のはじめにかけてザルツブルクに来演したが、このうち、あとの滞在期間のあいだに、《にせの女庭師》は、この劇団のためにジングシュピール版に改作されたのであった。 ドイツ語に翻訳をおこなったのは、おそらくはべーム一座のメンバーでバス歌手兼俳優のヨハン・フランツ・ヨーゼフ・シュティールレ(1741-1800以降)であったと思われる。
 イタリア語のレチタティーヴォ・セッコの代わりにドイツ語の地の科白が番号曲を結んでいるが、イタリア語のレチタティーヴォの白由な改編となっている。レチタティーヴォ・アコンパニャート(第2幕第19肺、第21曲、第22曲と第3幕第27曲)は、モーツァルトの手でドイツ語に合うように変更されている。 アリアなどの番号曲では、レーオポルト・モーツァルトがドイツ語のテキストを原譜のイタリア語の下に書き加えている。
 このドイツ語版《にせの女庭師》は“Die verstel1te Gartnerin"というタイトルをもっているが、ザルツブルクでは上演されず、べーム一座が1780年3月から5月にかけて、レーオポルト・モーツァルトの生まれ故郷の町アウクスブルクに客演した折に初演がおこなわれている。 おそらくは5月1日であったと思われ、その後5月17日ないし18日に再演されている。指揮は、べーム一座の音楽監督アントーン・マイヤーがとったものと思われるが、配役も知られていない。この上演の折の台本は保存されているが、それによると第2幕の第17曲、第19曲、それに第21曲、第3幕の第24曲と第26曲が省略され、いささか短縮されている。この短縮がモーツァルトの意向かいなかはわからない。
 その後のベーム一座の巡演で、この作品が上演された記録は、1782年4月2Hにフランクフルト・アム・マインで《サンドリーナまたはにせの女庭師》のタイトルでおこなわれたものが知られるほか、フランクフルトでは同年9月12日にも再演されている。タイトルは《やんごとなき女庭師》であった。さらに1789年には1司じくフランクフルトとマインツでおこなわれている。18世紀のうちにおこなわれた上演は、さらに2回が確認されるが、1度は1796年3月10日、プラハで、もう1度は1797年2月25日、エールスでである。前者はイタリア語、後者は《美わしの女庭師》なるドイツ語のタイトルにおいてであった。
 

このレコーディングの底本となった「新全集版」について
 モーツァルトの自筆譜というもっとも重要な資料については、第1幕はすでにモーツァルトの生前に行方をくらましたものと思われるが、散失はあるいはモーツァルトの没後まもなくであったとも考えられる。全3幕のうち、あとの第2幕と第3幕については、第二次世界大戦中に、ドイツのベルリン国立図書館からシュレージェン(シレジア地方)に疎開され、そのまま消息を断ったが、最近、ようやくポーランドに眠っていたことが明らかとなった。しかしこの「新全集版」の編集には用立てられることはできなかった。この後半の2幕は、1800年、コンスタンツェ・モーツァルトがオッフェンバッハのヨハン・アントーン・アンドレに売却したものであり、アンドレのモーツァルト自筆譜のコレクションの中に収められていたのち、1873年当時のプロイセン国立図書館がこれをアンドレの相続者から買い取ったのであった。 第1幕がそこに含まれていなかったのは、おそらくモーツァルトがアントーン・デスラーなる人物に貸与し、返還してもらわなかったためと思われる。
 こうした白筆譜からさまざまなコピーが作製されたが、『旧モーツァルト全集』では、第2幕と第3幕については自筆譜を参照したものの、第一幕に関してはこうした筆写譜のうち、ミュンヘン王立図書館(現バイエルン国立図書館)の総譜、ベルリン王立図書館(国立図書館)の総譜、ウィーンの楽友協会所蔵の総譜を参考とし、加えて、マンハイムのヘッケル版のヴォーカル・スコアすなわちドイツ語版の《恋の女庭師》を参照したものであった。
 「新全集版」では、このほか、チェコスロヴァキアのメーレン(モラヴィア)地方のプリュン(ブルノ)のメーレン博物館所蔵のナミェシュチ・コレクションの《愛ゆえのにせの女庭師》(La finta giardiniera per amore)なるタイトルの3巻からなる総譜のコピー(1800年頃、あるいはそれ以前)、オーストリアのウィーン国立図書館所蔵の同じく3巻の総譜《女庭師》〔DieGanerin〕(にせの女庭師〔La fintagiardiniera〕)、およぴミュンヘンのバイエルン国立図書館所蔵の不完全な総譜が編集のために用いられている。このうち、最初のナミェシュチ・コレクションのものは、全3幕のすべてのイタリア語のテキストのレチタティーヴォ・セッコとアリアをもち、さらにのちにドイツ語のテキストが加えられたものであり、イタリア語による第1幕の全曲が欠けていた従来の資料に対してきわめて重要な補足の役割を果たしている。「旧全集版」は第1幕に関してはもっぱらドイツ語の番号曲を提供するのみであったのに対して、ここにはじめて完全なイタリア語版全3幕が揃ったことになる。ただし、この「ナミェシュチ・コレクション」版は、モーツァルトの自筆譜から直接コピーされたものではなく、今日では消失した筆写譜から再コピーされたものと考えられるが、しかし、その消失した筆写譜はミュンヘン初演に関係づけられるものと考えられるので、モーツァルトの自筆譜による第1幕が失われている以上、もっとも重要なイタリア語版筆写譜というべきであろう。ただしドレスデンのザクセン州立図書館所蔵の写譜譜(「エールス版」)と同じく楽器編成などに関しては追加があり、真正なものとはいいがたい。ドイツ語版についても、「新全集版」は「旧全集版」より一歩進めているが、ここでの説明は割愛しよう。

概要

登場人物

ドン・アンキーゼ (テノール)…ラゴネーロの市長、サンドリーナを恋している。
侯爵令嬢ヴィオランテ(ソプラノ)…ベルフィオーレ伯爵を恋するが、伯爵からは死んだものと思われており、
     サンドリーナの名で、女庭師に身をやつしている。
ベルフィオーレ伯爵(テノール)・・・ヴィオランテの昔の恋人で、現在はアルミンダを恋する。
アルミンダ (ソプラノ)・・・ミラノの貴婦人で、騎士ラミーロのかつての恋人であり、今はベルフィオーレ伯爵の
     いいなずけ。
騎士ラミーロ (ソプラノ)…アルミンダを恋するが、彼女に棄てられる。
セルペッタ (ソプラノ)…市長の侍女で、彼を恋する。
ロべルト (バス)…ヴィオランテの召使で、彼はナルドという名で彼女のいとこだと言いはっている。庭師のふ
     りをし、セルペッタを恋するが、彼女から愛されていない。


あらすじ

舞台はラゴネーロの土地をしのばせる。
 侯爵令嬢ヴィオランテ・オネスティは、召使であり、自分は彼女のいとこだと言っているロベルト(=ナルド)といっしょに、サンドリーナという名で、市長(一種の地方知事といったもの)ドン・アンキーゼのもとに、女庭師としてやとわれた。彼女はかつての婚約者ベルフィオーレ伯爵をさがしもとめているが、彼は嫉妬心のために彼女と争い、彼女を刺してしまい、彼女が死んだものと思って逃げ去ったのである。市長は綺麗なサンドリーナを恋してしまい、そのため、かつて彼がご機嫌をうかがい、結婚さえ約束したことのある侍女のセルペッタの競争心をあおる。 セルペッタはまだずっと市長に望みをもっているが、彼女を愛しているもう若くはないナルドを拒んでいる。騎士のラミーロもまた恋の悩みを悩んでいるが、というのも、彼の婚約者のアルミンダが白分を捨てたからである。 彼ら一同は市長の姪を待ちうけている。
 この姪アルミンダはベルフィオーレ伯爵と結婚することになっている。 アルミンダとベルフィオーレ伯爵はやがてふたりとも到着する。 アルミンダははじめてサンドリーナに会うとき、このいつわりの侍女に対して、自分が今すぐにもベルフィオーレ伯爵と結婚式をあげると自慢する。 サンドリーナはこれを聞くと気を失ってしまう。 アルミンダはやってきた伯爵に少女を世話するように頼み、自分は気付け薬を取りに行こうとする。 伯爵は、サンドリーナが死んだと思っている自分のいいなずけのヴィオランテだと知って仰天する。
 そうこうするうちに戻ってきたアルミンダはアルミンダがかつて愛したラミーロと出会うのである。 市長ははじめ何もわからないが、セルペッタが彼に伯爵とサンドリーナがひそかにキスしていたと知らせるのである。 おたがいに非難し合って混乱となる。
 サンドリーナは最初は伯爵に本人だと覚らせないが、アルミンダはあいかわらず、伯爵との結婚契約を遂行しようときつく心に決めており、加えて伯爵に対して不実だと思われることをはげしく非難するのだ。 そこヘラミーロがミラノからの電報をもってやらてくるが、その電報からベルフィオーレ伯爵がヴィオランテ・オネスティ侯爵令嬢を殺害した罪に問われていることが明らかにされる。 彼はただちに逮捕されねぱならないのだ。市長が彼におこなったつづく尋間で、伯爵は自白するが、サンドリーナが姿を現し、自分がヴィオランテ・オネスティだと素姓を明かして、伯爵の責任を解きはなす。 伯爵だけには、彼女はしかし自分が打ち明けたことを取り消すのだ。アルミンダはサンドリーナを人気のない森に連れていくようとりはからう。 その間、セルペッタは市長にサンドリーナが逃げたと報告していて、これをきいたナルドは、いそいで伯爵に報告する。一同はさがしに森に行くが、そうこうしているあいだに真っ暗になりすぎて、おたがいに誰だかわからず、そのためおたがいにすっかり取りちがえてしまう。この大変な混乱の中で、みんなおたがいに罪をなすりあうが、サンドリーナと伯爵は正気を失い、自分たちが神話の神だと思い込んでしまう。
 やっと最後に、一同は運命にしたがうのだ。 すなわちサンドリーナと伯爵はふたたび正気を取り戻し、あらためて愛しあう。アルミンダはラミーロの許に立ち戻り、そしてセルペッタはついにナルドのものとなる。 市長だけが賢明にも諦め、まず独身でいようと決心するのである。


楽曲解説
楽器編成:フルート2、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦5部、レチタティーヴォの通奏低音、ハープシコード、チェロ。
 
 

序曲 序曲はふたつの楽章をもち、第1楽章はアレグロ・モルト、二長調、4分の4拍子。 ブッフォ的な軽快で關達な主題が中心となり、あいだに別のスタッカートやトリルに飾られた音形をさしはさみ、合計6回も姿を見せて終わるもの。
第2楽章はアンダンテ(またはアンダンティーノ)・グラツィオーソ、イ長調、4分の2拍子。 ふたつの主題がたがいにくりかえされる単純なかたちのものである。 なお、第1楽章はオーボエ2、ホルン2と弦5部、第2楽章は弦のみの編成。
この急-緩の2楽章の序曲に対して、モーツァルトはザルツブルクに帰着後、アレグロ、ニ長調、8分の3拍子の楽章(K.121〔K.520-7a〕)をつけ加えて、1曲の交響曲を作り上げた。「新全集版」ではこの交響曲が『交響曲集』(第5巻)に収められている。交響曲二長調(K.196/121〔K6.207a〕)がそれである。
第1幕
第1場
第1曲 導入曲 アレグロ・モデラート、二長調、4分の3拍子。
      ベルフィオーレ伯爵とアルミンダをのぞく全登場人物が声を合わせて歌い、かつ、それぞれの気持ちを歌う。
      それぞれの人物の音楽的性格表現に工夫がみられることは、テキストの内容との対比で容易に理解されよう。
      最後は冒頭と同じく登場人物全員による五重唱でしめくくられる。
      レチタティーヴォ。その5人によるレチタテイーヴォ。
第2曲 アリア(ラミーロ) アレグロ、へ長調、4分の4拍子。
      ラミーロは小鳥になぞらえて、恋について歌う。 弦だけの伴奏により、コロラトゥーラに飾られ、また伴奏もこま
      かな装飾的動きに飾られている。短縮されたダ・カーポ・アリアの形をとっている。
第2場 レチタティーヴォ。市長、セルペッタ、ナルドにサンドリーナの4人。
第3曲 アリア(市長) アレグロ・マエストーソ、二長調、4分の4拍子。
      長い前奏を伴い、また歌詞にあるフルートやオーボエも加えられており、また中途ではヴィオラ、そして、プレス
      トの部分では、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニに弦という編成となり、テキストの「大
      変な大騒ぎ」が描かれ、歌われる興味深い作り方をもっている。
第3場 レチタティーヴォ。 サンドリーナとナルドのふたり、つまり身をやつした女主人と召使のやりとり。
第4場 ラミーロが加わる。
第4曲 アリア(サンドリーナ) グラッィオーソ、変口長調、4分の2拍子。
      弦のみの伴奏で、不幸な女の境遇を嘆いて歌われるこのサンドリーナのアリアは、アレグロ、8分の6拍子でしめ
      くくられる。
     レチタティーヴォ。これを聴くラミーロも自分の不幸な恋を思って嘆く。
第5場 レチタティーヴォ。 ナルドも女主人を思い、かつ、自分のセルペッタに対する思いも考えてみる。
第5曲 アリア(ナルド) アレグロ、ト長調、8分の6拍子。 弦にホルンが2本加わっているが、このオペラで唯一のバッソ・ブ
      ッフォの役柄のナルドの歌らしく、最後はアレグロ、4分の4拍子となり、すぱやい語りの口調、パルランドのスタイ
      ルで烈しく終わる。
第6場 レチタティーヴォ。 市長、アルミンダ、そのあとセルペッタが登場。ようやくアルミンダが登場し、筋は本題に入っ
      てくる。
第7場
第6曲 アリア(伯爵) アンダンテ・マエストーソ、変ホ長調、4分の3拍子。
      べルフィオーレ伯爵の登場は、こうしたアリアで開始される。コロラトゥーラの音形、そしてゆたかな伴奏に飾られ
      て、伯爵の性格がたくみに描かれる。
     レチタティーヴォ。 伯爵に加え、アルミンダと市長にセルペッタ。
第7曲 アリア(アルミンダ) アレグロ、イ長調、4分の4拍子。
      気の強いアルミンダの性格がはっきりと打ち出されているアリアで、伴奏は弦のみ。
      典型的なブッフォのアリアといえよう。
第8場 レチタティーヴォ。 市長と伯爵のやりとり。 伯爵は自分の家系を自慢する。
第8曲 アリア(伯爵) アンダンテ・マエストーソ、ハ長調、2分の2拍子。
      オーボエにホルンのほか、トランペットが加わり、伯爵が家系を尊大なほどのかたちで自慢するさまが描かれる。
      途中、アレグロとなり、このテンポの交替がくりかえされる。
     レチタティーヴォ。市長がしめくくる。
第9場 レチタティーヴ。 セルペッタにナルド。
第9曲a カヴァティーナ(セルペッタ) グラツィオーソ、へ長調、8分の6拍子。
      みじかいカヴァティーナで、セルペッタは自分の気持ちを歌う。弦のみの伴奏。
     レチタティーヴォ。 ナルド。
第9曲b カヴァティーナ(ナルド) グラッィオーソ、へ長調、8分の6拍子。
      同じ歌で、ナルドは歌いかえす。
     レチタティーヴォ。セルペッタにナルド。 ふたりのやりとリはまたつづく。
第10曲 アリア(セルペッタ) アレグロ、イ長調、8分の6拍子。
      同じく弦だけの伴奏で歌われるセルペッタのアリアは、喋るような調子のもので、彼女の性格をいきいきと伝え
      ている。最後にアンダンテ、8分の3拍子でコロラトゥーラが加わる。
第10場 サンドリーナ、ついでアルミンダ。
第11曲 カヴァティーナ(サンドリーナ) アンダンテ(アンダンティーノ)、ハ長調、4分の2拍子。
      弱音器つきの弦のみの伴奏で、サンドリーナは自分の心境を歌う。第2ヴァイオリンの伴奏に第1ヴァイオリンが美
      しい音形を奏していてうるわしい嘆きの歌ではある。
     レチタティーヴォ。アルミンダとのやりとりで、伯爵の結婚を知り、卒倒する。レチタティーヴォ・アコンパニャートがこ
      の情景を描く。
第11場 伯爵が加わる。
第12曲 フィナーレ
      まず、レチタティーヴォ・アコンパニャート、アレグロ。ヴィオランテをふたたび見ての伯爵の動揺。
      ヴィオランテも息を吹き返し、伯爵を認めて仰天する。
鶉12む
アルミンダとラミー口が加わる。アルミン
ダはラミー口と再全する。アレグロで最初の
混乱が描かれる。
第130
市長が加わる。アダージョ・マ・ノン・モ
ルト、変ホ長調。市長の質間から五重唱とな
る。
第14む
市長、ついでセルペッタにナルド。アレグ
ロ、二長調、8分の6抽子。市長がひとり歌
いはじめ、セルペッタとナルドが加わつて歌
いすすむ。マェストーソ、ト長調、4分の4
拍子からアレグロ、8分の6拍子で三重唱が
つづく。
第15場
7人カ湘い、アレグ回、ト長調、4分の4
拍子で、各人各様の恩いが歌われ、舞台は混
乱の極に達するが、最後はアレグロ、4分の
3抽子の七重唱となって終わる。
第2■
第1む
レチタティーヴれラミー口とアルミンダ
のやりとり。
第2壕
レチターティーヴォ。ベルフィオーレ伯爵と
アルミンダのやりとり。アルミンダは伯爵に
対して烈しく怒りをぷっつける。
第13曲アリア(アルミンダ)アレグ回・ア
ジタート、ト短調、4分の4抽子。アルミン
ダの烈しい怒リが短調で表現され、短調の調
性に加えて、シンコペーションその他特有の
表現方法がとられている。ダ・カーポ形式の
もので、きわめて大きな規模をもつ、セリァ
的なアリアではある。
第3む
レチタティーヴれ伯爵とセルペッタ。
第4I■
レチタティーヴォ。セルペッタとナルド。
第14曲アリア(ナルド)アンダンテ・グラ
ツィオーソ、イ長調、4分の2抽子。弦だけ
の伴奏で、前曲と異なり、生粋のブッフォの
アリアか歌われる。途中、4分の3拍子の部
分がさしはさまれ、かっ最後はアレグレット
となる。ヨーロッパ各国の流儀が紹介される
ユニークなアリアではある。
レチタティーヴ÷。セルペッタ。
第5場
レチタティーヴォ。サンドリーナ、ついで
伯爵、最後に市長鉋
第15曲アリア(伯爵)アンダンテ、へ長調、
4分の2拍子。フルート2本にホルン2本と
弦の伴奏によって歌々れる愛のアリアで、伴
奏のこまかな動きが、そうした情緒の表現
を支えている。最後にはアレグロとなってし
めくくられる。
第6葛
レチタティーヴォ。市長にサンドリーナ回
第16曲アリア(サンドリーナ)グラツィオ
ーソ、イ長調、4分の3拍子。市長の気持ち
の表明を受けて歌われるもので、弦のみの伴
奏によるやさしいアリア。途中、アレグロ、
4分の4拍子となり、ふたたぴ最初のテンポ
に戻るが、最後はアンダンテ・コン・モート、
8分の3拍子となって終わ乱
第7I■
レチタティーヴォ。市長、ついでア!レミン
ダ、さらにラミー口。ラミー回があわてて登
場し、ミラノからの突然の知らせを紹介する。
伯爵は殺人犯なのだ。
第17曲アリア(市長)アレグロ、ト長調、
8分の6抽子。市長は姪をこうした般人犯と
は結婚させないと決意を歌う。オーボエ2本
とホルン2・本が加わっている。
第8幻
レチタティーヴォ。アルミンダとラミー口。
第9幻
レチタティーヴォ。ラミー口ひとり。
第18曲アリア(ラミー口)ラルケ'ツト、変
口長調、4分の3抽子。ラミー口が歌う愛の
歌は、ファゴット2本と弦で歌われる。かつ
てのカストラート役にふさわしい曲といえよ
う。短縮されたダ・カーポ・アリァである回
第10幻
レチタティーヴォ。市長、アルミンダ、セ
ルペッタ、ついで伯爵。市長の訊問に、伯爵
は自分が侯爵令嬢殺しの狙人と自状する。
第11む
サンドリーナが加わリ、白分がその侯爵令
嬢ヴィオランテで、このとおり生きていると
証言する。
第120
伯爵ひとり。
第19曲レチタテイーブォとアリア(伸爵)
レチタティーヴォ・アコンパニャート。ア
ンダンテ。しかしふたりになるとサンドリー
ナはその証言を否定する。悩む伯爵。アンダ
ンテ、アレグロ、アダージョ、アレグロ・リ
ゾルート、アダージョとテンポの変化と調の
変化が彼の気持ちをあらわにする。
アリア、変ホ長調、4分の4抽子。伴奏の
弦のこまかい動きが、伯爵の心の動きをその
まま伝えている。最後にテンポ・ディ'メヌ
エット、4分の3拍子となってしめくくられ
る。
第13場
レチタティーヴォ。ナルド、っいで市長、
ラミー口、そのあとセルペッタ回サンドリー
ナが姿を消したのである。みんな彼'女をさが
しにゆく。
第14幻
セルペッタとナルド。じっはアルミンダが
サンドリーナを森に棄ててきたのである。
第20山アリア(セルペッタ)アンダンティ
ーノ・グラツィオーソ、ト長調、4分の2拍
子。いささかお説教じみた歌は、こうした侍
女役がしぱしぱ歌うもので、最後はアレグロ、
8分の6抽子でしめくくられる。
第15讐
第21曲アリア(サンドリーナ)アレグ回.
アジタート、ハ短調、4分の4拍子。森の中
に棄てられたサンドリーナが、おのれの悲し
くも恐ろしい運命を歌う緊張したアリアで、
最後にレチタティーヴォとなり、これをはさ
んで次のカヴァティーナとなる。
'第22曲カヴァティーナ(サンドリーナ)ア
レグロ・アジタート、イ短調、8分の6拍子。
おなじく短調の嘆きの歌であり、最後にレチ
タティーヴォとなり、アコンパニャートのか
たちで、アンダンテ、アレグロ、プレストと
変化する。
第16場
第23曲フィナーレ
サンドリーナをさがしもとめて、全員が暗
い森の中にやってくる。伯爵、ナルド、アル
ミンダ、さらには市長、そしてセルペッタ、
最後はラミー口である。アンダンテ・ソステ
ヌート、変ホ長調、4分の4抽子にはじまり、
アレグレット、ト長調、8分の3拍子とつづ
き、アレグロ、ハ長調、4分の4拍子、そし
てアンダンティーノ、ト長調、4分の3抽子、
とつっ“くが、こうしたテンポや調性のちがい
の中で、7人の登場人物がおたがいに相手を
まちがえて歌い合うという、オペラ・ブッフ
ァ特有のとりかえぱや物語が展開してゆく。
思いちがいはやがてわかるが、伯爵とサンド
リーナはあまりのことに気がふれてしまい、
ギリシャ神話の神になってしまうのである。
こうした大混乱のうちに、第2幕のフィナー
レはその幕を下ろすのである。
第3;,1
第18
レチタティーヴォ。セルペッタとナルド。一
箏2■
伯爵が加わる。っいでサンドリーナも登場。
このふたりが気がおかしくなっている点は第`
2幕の最後と変わりがない回
第24曲アリアと二■唱(ナルド、伯爵、サン
ドリーナ)アレグ回、変ホ長調、4分の4抽
子。ナルドのアリアにはじまるが、つづいて
ナルドが逃げ出すと、気が狂ったふたりの二
重唱となる。
第3幻
レチタティーヴォ。市長、ついでセルペッ
タ。
第4場
レチタティーヴォ。市長、ついでアルミン
ダにラミー口。
第25曲アリア(市長)アレグロ、ハ長調、
4分の4拍子。ラミー口とアルミンダに向か
って交互に歌いかけるブッフォのアリアで、
最後はプレスト、I4分の4抽子でしめくくら
れる。
第54
レチタティーヴォ。アルミンダとラミー口。
第6ち
レチタティーヴォ。ラミー口。
第26山アリア(ラミー口)アレグロ・アジ
タート、ハ短調、4・分の3抽子。ラミー口は
アルミンダの冷たい態度に激して歌う。
第7む
サンドリーナと伯爵。
第27曲レチタティーヴォ〔・アコンパニャー
ト〕と二重唱
レチタティーヴォ・アコンパニャート。ア
ダージョ。ふたりはここでようやく止気を取
り戻し、おたがいにかつて愛し合った恋人を
見いだす。しかし、すぐには打ち解けない。
二重唱、アダージョ、変口長調、4分の4
抽子。伯爵から歌い出し、サンドり一ナがう
けつぎ、やがてふたりは3度の嵜程で声を合
わせることで、心もひとつのものとする。ア
ンダンティーノ、8分の3拍子、そしてアレ
グロ、4分の4抽子の部分がさらにそうした
気持ちを確認し、よろこびのコロラトゥーラ
によってこの.■二重唱をしめくくる。
最終場
レチタティーヴォ。全員が集まってくる。
みんながそれぞれの恋人を得、市長だけがひ
とり残されるが、そこは賢人の市長、諦めも
早いのだ。
第28曲フィナーレ合唱。モルト・アレグ
ロ、二一長調、4分の3拍子。全員がめでたし
めでたしの声を合わせて歌ってゆく。こうし
て全3幕ははなやかにとじられるのである。
(以.トの解説は1981年6月発売のレコード解説
書よ')転載いたしました。)