市民ひとりひとり」 

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2000.9.19・火曜日


第29弾   プロ教師の「管理教育」

       そして「奉仕活動の義務化」

「管理教育への批判」(p167)と題したマスコミ批判の第一矢は、「問題の根は大人の側にある」の内容となっている。

「管理(=保護)と自由の問題は、現在いちばん大きな問題だろう。
 最近大人たちのあいだに、『最近の子どもは放っておくと何をするかわからない』という気持が強くなってきていると言ったが、このことはたぶん、大人たちの共同性がなくなってしまった結果、子どもたちを極端な方向に行かせないだけの規制力がなくなったことからきているのだろう。大人の側に自信がなくなったと言ってもいい。
 しかし、放っておくと何をするか分からないと言って、いつも見ていて、すぐ手を出すということをやっているかぎり、子どもたちが一人立ちすることは無理である。これをどこで断ち切るかということが、現在もっともむずかしい問題である」
(p167)

ここにはプロ教師の認識不足による愚かな倒錯がある。一見「保護」に見えるが、実態は「管理」(あるいは過干渉)に過ぎない。「放っておくと何をするか分からないと言って、いつも見ていて、すぐ手を出す」のではなく、何事につけ任せることができなくて、一から十まで、「いつも見ていて、すぐ手を出す」のであり、それは親や大人の子どもに対する歴史的に伝統的な態度なのである。

これは上位権威者が下位権威者との関係を自らの支配・強制、あるいは命令・指示で規定している日本人の行動性からきているものであり、その裏返しとしてある、下位権威者が自らの行動・態度を上位権威者の支配・強制、あるいは命令・指示に委ねる関係秩序も勿論深く関わっているのは言うまでもないことである。

ただ、以前と大きく違うのは、子どもがある年齢に達すると、親や大人のその種の「管理」(あるいは過干渉)をうるさがって、反抗したり、言うことを聞かなくなる子どもが増えたということであり、そのようになる年齢も下がってきている(いわば低年齢化している)ということなのである。そして「放っておくと何をするか分からない」は、その結果としてある無秩序現象なのである。

いわば大人は歴史的伝統的に子どもを最初から信用していなかった。それは性情報が未開な封建時代だったにも関わらず、「男女7歳にして席同じうせず」とした思想にも現れている信頼意識である。

実際には7歳の女子が信用できないと言うことではなく、大人の側が7歳の女子を既に性的対象として見ていたことの表われとしてある意識であろう。

総体としては、日本人が歴史的に現在に至っても、相互に一個の人間・一個の人格として他者を見る意識・思想を欠如構造としている集団主義的・権威主義的力学に縛られた人間関係秩序の反映としてある姿勢・態度なのである。

プロ教師の言っている「管理(=保護)」を別の面から解説してみる。

健康の管理といった肉体的なものを含めた物的なものに対する「管理」「保護」の意味も持つが、人間に対する「管理」は必ずしもイコール「保護」にはつながらない。例えば建物の「管理」「保護」の側面を持つが、生徒を「管理」するといった場合、命令・指示(=支配・強制)に対する同調・従属を骨子とした何らかの秩序形成(授業中私語を控え、静かにしているようにといった有形無形の要求と、それに対する要求どおりの態度の提示といったもの)を目的とした規制にウェイトが置かれる。「管理」「保護」と言えば聞こえはいいが、校則生徒の行動を規制する方向に強めた場合、自由な思考・自由な発想を縛るものとなり、「保護」から遠ざかることでしかない。

生徒「管理」の一環としての私語の規制はマジメに授業を受ける生徒を「保護」するものであるという言い方もできるが、相互に自発性や自律性・自己責任意識を発揮して確立した秩序ではなく、それらが一切存在しない「管理」された中での強制的な秩序の場であって、マジメに授業を受ける生徒に対しても、自由な発想・自由な思考は期待できないだろう。

例えばどんなにマジメな生徒にしても、教師が「静かにしたらどうか」と叱りつけて静けさを維持した教室でのびのびと授業を受けることができるだろうか。教師の怒りに、自分は関係なくても、身体のどこかに萎縮した気持や緊張感をこびりつかせた状態のままということはないだろうか。

あるいは授業が退屈で仕方なくても、教師が怖いために私語を交わすこともできずにじっと我慢して席に座っている生徒が少しでもいたなら、それが腕力の強い生徒であったりしたなら、教室の空気は否応もなしに滞るもので、例えその教室が静けさを保っていたとしても、やはり授業が退屈でない生徒にしても、拘りのない精神状態を維持することは難しいだろう。

さらに例を挙げるなら、生徒の行動を厳格に「管理」することによって、いじめから生徒を「保護」することは可能であるが、それは強権的治安からの発想であって、教育的な治安維持ではなく、また、強権が届かない場所での「保護」の危うさ――と言うよりも、「管理」の反動からの過剰攻撃を誘発させる危険性を抱えることにならないとも限らない。

それはいじめや暴力が学校内に限った問題ではなく、学校外のそれらが教師の目が届かないことを理由に往々にして残酷化することが証明している

言い換えるなら、「あっ、この先生はお母さんと違う、怖いというふうに思わせる」(p130)威嚇をベースとした「管理」「保護」とは対極に位置する場合もある相対性を抱えているにも関わらず、プロ教師は同等の意味で扱う誤魔化しを行っているのである。

プロ教師の言う「大人の共同性」にしても、「生徒が言うことを聞かなくなっても、これ以上やると怖い教師が出てくるかもしれないからこの辺にしておこうというような、そういう教師の共同性」(p130)と同じ、威嚇性を背景とした集団主義・権威主義の力学による、警察国家的「共同性」のことであろう。

その手の威嚇性が上位権威者の下位権威者に対する支配と強制――親や教師といった上の者の、ああしなさい、こうしなさいといった命令・指示――を効果的なものとし、下位権威者の同調・従属を円滑に導いていった重要な要素であった。

いわば自己行為の基準自己判断と自己決定に置くのではなく、上位権威者の命令・指示に対する賞罰(罰せられることを恐れ、褒められることを喜びとする他者評価)においていたのである。

その典型例はやはり国家の軍国主義に例え反対でも国賊とか非国民とかの非難・排斥を怖れて、結果的に国民全体が付和雷同した戦前のファシズム旋風を挙げないわけにはいかない。

そしてこの時代の「統制」という名の「管理」は、国民の生活全般にわたって、その細部にまで、「いつも見ていて」「勝つまでは欲しがりません」と言わしめるまでに徹底していたのである。この「管理」は国民が「放っておくと何をするかわからない」からではなく、過度なまでの従属・服従を追求したもので、「保護」と等式に扱うことは決してできないものである。

子どもに対する威嚇性の年齢的な効用性は低年齢化して、そのメッキは脆いものとなってしまったにも関わらず、そのことを自覚しない強権的な支配・強制「管理」)に対する同調・従属――「大人の」あるいは「教師の共同性」という文脈で言えば、怖いから言うことを聞くが、怖くなければ聞かない他者を基準とした演じ分け――は、自律性(自立性)とか、「自我の確立」とかいった価値観とは本来的に両立しないもので、プロ教師の主張する「管理(=保護)」が如何にあやふやなものかの証明となるものである。

要するにプロ教師の「管理」とは、「管理」を操る(操作する=同調・従属させる)目的の「管理」であって、それは「強面」(p152)教師の教室秩序、あるいは一部部活の部秩序に現れている人間支配形態であり、その過剰反応としてあるのが教師側からの体罰生徒側の反応としてある体罰自殺であろう。

それらはすべて「保護」とは正反対の位置にある

「社会的自立」「自我の確立」とは正反対の同調・従属そのものの表現であり、他律性への囚われを意味する、日本人の伝統的に支配的な性格傾向となっている「横並び意識」・「横並び行動」は集団主義的・権威主義的支配・強制レベルの「管理」によってこそ可能となる行動形態であり、決して「保護」の側面を抱えた「管理」によって可能となる姿勢・態度ではない。

また、何度目かの指摘になるが、「横並び意識」・「横並び行動」はプロ教師が「学校の役割」としていた「社会的自立」が、実際は「社会的同調」の刷込みでしかなかったことの証明となるものであろう。いわば教師を含めた大人たちが先人から誘導されるままに集団主義・権威主義を血とし、肉として受継ぎ、それを後人に自分たちの文化・精神として無考えに伝えていた循環的成果が長い歴史的時間を経て伝統となった日本人性としてある「横並び意識」・「横並び行動」なのである。

ゆえに、「管理(=保護)と自由の問題は」「管理」(=同調・従属の他律性への要求)を取るか、「自由」(=自己判断・自己決定の自律性への要求)を取るかの二者択一とすべきで、「管理」「保護」をイコールさせて正当化すべきではなく、逆に「自由(=保護)」とすべきであろう。

「教師のあいだにも、生徒たちを放してしまうと、何が起こるかわからないという怖さがつきまとっている。何かが起これば学校の責任を追及されるから、教師もできるだけそのリスクを背負わないようにする。そうなれば当然、親と同じように、教師もどんどん過保護になっていくわけである。どこかでその悪循環を断ちきらなければならない」(p167〜168)

「管理」「保護」というプロ教師の論理からすると、「過保護」=過「管理」ということになり、論旨に矛盾が生じる。ここでは「過保護」を過「自由」として扱っている。過「自由」とは、「自由」の範囲を超えた「好き勝手」と言う意味でなければならない。

いわば、「生徒たちを放してしまうと、何が起こるかわからないという怖さが」あるにも関わらず、「何かが起これば学校の責任を追及されるから、教師もできるだけそのリスクを背負わないように」「親と同じように、教師もどんどん」生徒の「好き勝手」に任せるように「なっていくわけである。どこかでその悪循環を断ちきらなければならない」とすることで、一貫した論理とすることができる。

となると、「悪循環」とは、学校・教師の責任回避、あるいは無責任の連鎖を言い、それは子ども・生徒の問題は一切省いた、すべてが教師自身の問題としてあるものとなる。

そのことに関しては次の例を挙げることができる。学校・教師は運動会・体育祭の行事からそれまで伝統的な競技となっていた身体的に危険度の高い棒倒しと騎馬戦を外すことで、それらの競技によって事故が起き、それに対する裁判がキッカケとなったのは当然であるが、生徒に対する監督責任の追及と多大な損害賠償請求を回避する処置に出た。プロ教師の言う「学校の責任を追及されるから、教師もできるだけそのリスクを背負わないように」したのである。

棒倒しと騎馬戦は確かに危険度は高いが、ケンカや暴力とは異なる競技としての身体的なぶつかり合いは、全力を尽くした場合、例え負けたとしても、心身の解放感と満足感攻撃心や闘争心の充足と解消、さらに闘った相手に対する親近感をも与えるもので、言葉の闘わせに優るとも劣らない対人コミュニケーション(自己を知り、他者を知る認識獲得方法)となり得るものであるが、学校・教師は生徒の「保護」を装って、責任回避と自己保身に走っただけというのが実態なのだろう。

危険度が高いことから、体力差を考慮して、体力的な面と力関係のバランスを考慮したチーム編成を行うことで、継続すべきだったのである。

「週五日制だけではなく、学校に拘束する時間をもっと少なくして、あとは放っておくというような荒療治が必要なのかもしれない。もっとも、そうなったとき、親が子どものことが心配で、たとえば、塾とかスポーツクラブといったところへ預けるということになるかもしれない。そこにはまたちゃんと大人がいるのだ。子どもたちが大人の目を離れて、自分たちだけでいろいろやってみるというわけにはいかないだろう。つまり、これは学校だけで何とかできる問題ではないのだ」(p168)

巧妙にして狡猾な「学校・教師無罪論」である。集団主義的・権威主義的な社会的同調人間の「悪循環」的再生産を「どこかで」「断ち切」るためにも、学校・教師だけでも、子ども・生徒に主体性・自律性獲得のために、「自分たちだけでいろいろとやってみる」ふうに仕向けるべきではないか。「親」にも、そうしなければいつまでたっても大人になりきれないと、そうすべく伝えるべきではないのか。

そういった努力もせず、片方で世の中の学歴主義(=学歴差別主義)スポーツエリート主義(=スポーツ差別主義)に率先的に手を貸す状態を続けたまま、学校での拘束時間を少なくすれば、「塾とかスポーツクラブといったところへ」向かうのは当然の成り行きであり、「荒療治」でも何でもなく、それをさも「親」とか世間の「大人」たちの責任だとするような責任逃れは狡猾に過ぎる。

問題は拘束時間「少なく」するとかしないとかではない。集団主義的・権威主義的人間関係を身についてしまった習性としている限り、拘束時間に関係なく、行動様式そのものは変化はなく、「自分たちだけでいろいろとやってみる」姿勢はいつまでたっても期待できないからである。

いわば、親・教師を含めた日本の大人が子どもの意志を支配・強制し、言いなりの同調・従属を求めようとする集団主義・権威主義に則った人間関係に呪縛されたままであることが問題なのである。そしてそのことが原因となって、「子どもたちが大人の目を離れて、自分たちだけでいろいろやってみるというわけにはいかない」状況に継続的にさらされているのである。

逆説するなら、子ども・生徒は大人の支配・強制を外れて、あるいは大人の支配・強制への同調・従属を逃れて自己存在を確立することは困難で、もしそのような形式で自己を成り立たせようとしたなら、反社会的、少なくとも反学校的な存在様式での自己確立とならざるを得ないだろう。

次は、「子どもを自立させる自覚がない」(p168)と題した批判展開である。プロ教師が卒業したのは「中高一貫教育の私立学校」だそうだ。そこでの「最大行事は運動会」で、「高校三年生がリーダーとなって、競技から応援まで、当日の運営をすべてとりしき」り、「教師はいっさい口を出さなかった」(p168)「クラス対抗の駅伝」も、「教師とはまったく関係なく」「クラスの代表が集まって日にちを決めて、自分たちだけで競技をおこなった」(p168)と言っている。

「必要なら何でも自分たちで考えてやるんだ、ということである。中学一年生のときから生徒を大人あつかいしていたようである。生徒は自分たちで話し合って、必要なことはどんどんやっていった。私の自治的能力の基本はこの六年間で身についたと思っている」(p169)

何と美しい立派な話だろう。ここの文章だけで、プロ教師が如何に有能な教師か、自らプロと名乗るにふさわしい学校教育者かが分かろうというものである。

「私が教師になったころは、どこの中学校にもちゃんと生徒を大人扱いする部分があった。きみたちは中学生になったのだから、もう大人の一歩手前だから、自分たちでやるんだよというサインを教師も親も社会も子どもたちに送っていた。
 最近は、私は講演に行ったときなど、あちこちで親たちに聞いているのだが、子どもを早く社会的に自立させようと思っている親はほとんどいないようだ。しかし、これがなければ教育など成り立つはずはないのである」
(p169)

「自治」とは、『大辞林』(三省堂)を引くと、「自分たちのことは自分たちで処理すること」と出ている。いわば、自己判断・自己決定・自己責任と深く関わっている。念のために「主体性」の文字を引いてみると、「自分の意志・判断によって、自ら責任を持って行動する態度のあること」となっている。「自治」とは、主体性を必須条件としていることが分かる。

いわば、「自治」「管理」は相互に相容れない風景としてあるものである。

言い換えるなら、主体性を確立した人間のみが「自治」を可能とする。主体性なき人間が、「教師はいっさい口を出さ」ず、「何でも自分たちで考えてや」ったと思っていても、それは「自治」とは何の縁もない、他からの有形無形の「管理」を受けた、あるいは暗黙の強制・支配を受けたニセモノの「自治」でしかない。

例えば、日程や目的地、交通方法を教師に頼らずに生徒自身が決めた遠足であっても、出かける前に、「ゴミは捨ててはいけない、持ち帰るように」とか、「乗り物に乗るときは我勝ちではなく、一列に並んで順序よく乗ること」とか、注意を事細かに受けたり、その場その場で改めて注意を繰返されたなら、例え生徒が秩序よく注意を守って行動したとしても、それは「管理」されたものであって、「自治」とは縁遠い集団行為である。

「中高一貫教育の私立学校」での12、3歳から17、8歳という早い時機に「自治能力の基本」「身につ」けたプロ教師は主体性という態度成分に関して、相当に際立った人間に成長しているはずである。主体性ある態度を取る人間は、周囲の人間に対しても主体性ある態度を求める。そのような人間に教育を受ける幸運に恵まれた生徒は幸せ者である。

プロ教師の行くところ、どこであっても、その主体性ある姿勢は意図的・無意図的に生徒に伝わり、生徒は自然とそれを自分の生き方・姿勢として身につけていく流れができたことだろう。反面教師という言葉があるが、プロ教師の場合はすべての生徒にとって正面教師となる偉大な学校教師であり続け、これからもあり続けるはずである。

だが、「あっ、この先生はお母さんと違う、怖いというふうに思わせ」て言うことを聞かす対生徒関係を理想とするのは、プロ教師自身の主体性を生徒に植えつけて、その行動性に期待するのではなく、「自治」とは無関係な、「管理」と同じ水平にある、威嚇という無形行使力に期待した秩序形成でしかない。

この矛盾はどう説明したなら、辻褄を合わせることができるのだろうか。

「怖いからとりあえずは黙っていなくてはいけないとか、座っていなくてはいけないということを繰り返すなかで、自分を抑える力を少しずつつける」(p130)自己抑制への期待も、自分の責任で(自己責任)自分で判断し(自己判断)、自分で行動する(自己決定)生徒の主体性を核とした「自治」の実現に向けたものではなく、完璧に学校・教師の側からの力が働いた、「管理」による自己規制=強制的な自己抑圧でしかない。

生徒の側から言っても、教師が「怖い」から、「自分を抑える」同調・従属の態度に出ただけのことで、主体的態度では決してない。

「怖いというふうに思わせ」て生徒に主体性とは正反対の(自己判断・自己決定・自己責任とは正反対の)同調・従属を求めながら、「子どもを早く社会的に自立させようと思っている親はほとんどいないよう」と批判するのは見え透いたお門違いである。

想像するにプロ教師は自分を有能な学校教師だと思わせるために、無能だということが露見したなら、「教師無罪論」は成立しなくなるからだが、「自治能力の基本」「中高一貫教育の私立学校」「身についた」としているだけなのだろう。

現実社会の出来事からその唯一の証拠として挙げることができるのは、プロ教師が「教師になったころ」の昭和40年前後の大人たちは、「最近の若い連中が軟弱なのは戦争を経験していないからだ、軍隊に入ったことがないからだ」を理由とする若者軟弱説をまだ盛んに展開していた頃であり、そのような若者批判と若者よりも若い中学生を「大人扱いする部分があった。きみたちは中学生になったのだから、もう大人の一歩手前だから、自分たちでやるんだよというサインを教師も親も社会も子どもたちに送っていた」とする中学生信頼説は明らかに矛盾する現象である。

歴史的に伝統的に、「大人」が若者や学校の生徒・子どもを「大人扱い」することは決してなかった。それは日本人が自らの行動様式を集団主義・権威主義に置いていたからである。集団主義・権威主義とは、上位権威者が下位権威者を自らの強制・支配によって同調・従属させる力学を基本とした関係秩序だからである。

「最近の若い連中が軟弱なのは戦争を経験していないからだ、軍隊に入ったことがないからだ」としたのは、自分たち「大人」がその逆の存在であることの証明でもあった。国家の侵略戦争に加担し、敵国兵士や一般市民ばかりか、自国市民まで虐待・虐殺の大罪を犯していながら、戦争や軍隊を自己存在の優越性証明の道具としたのだから、滑稽で哀しい倒錯でしかないのだが。

プロ教師は、「当時の社会的状況があり、生徒が選択して入った私立学校ということもあったろうが」(p169)と、「当時」と現在の事情の違いを制約としているが、プロ教師が自らの本質性としている主体性衝動の欠如とそれに代る威嚇性(=「強面」)を利用した「管理」衝動を考えると、プロ教師の美し過ぎる「自治能力」獲得説も、かつての若者軟弱説と同じ文脈の、自己優越証明のための思い込みに過ぎないだろうことは疑いの余地のないことである。

以上で、「第4部 マスコミが学校教育に与えた影響」「管理教育への批判」は終了し、次章の、「新たな学校たたき、教師たたき」(p169〜)は次回にまわす。

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ページに少々余裕があるために、最近問題となっている「奉仕活動の義務化」について、青少年の教育に重要な影響を与えるものと考え、少し見解を加えたいと思う。

新しい徴兵制度・新しい勤労動員制度としての「奉仕活動の義務化」

小・中・高生は一定期間、将来的には満18歳のすべての国民は1年間とする「奉仕活動の義務化」を論議していた「神の国」の首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の中間報告案では「義務化」の言葉が外されたとマスコミは報道していました。反対意見が根強かったからでしょう。

だが、来夏の参院選で自民党が単独でも過半数を大きく上回ることにでもなれば、連立政権は国旗・国家法案の前例が示すように「義務化」の法案提出を行い、数の力で強行裁決しないとも限りません。「義務化」は日本の教育や社会にどんな影響を与えることになるのでしょうか。

偉大なるプロ教師である河上亮一先生は、「教育改革国民会議」の重要な、多分なくてはならないメンバーの一人で、先生の学校教育界における歴史に残る業績から推測すると、義務化推進派の重鎮なのは、この上なく確かなことでしょう。いわば河上亮一大先生の偉大なる教育思想の成果ともなる「奉仕活動の義務化」なのです。実践され、軌道に乗ったアカツキには「神の国」バンバンザイとなることでしょう。

「義務化」に関して、いつも偉大なプロ教師の河上亮一先生は、「強制のなかで学ぶきっかけを得ることもある」とおっしゃっています。そのとおりです。プロ教師河上亮一先生の言うことに間違いはありません。その結果として、元々日本人は集団主義・権威主義を行動様式としていて、集団や上位権威者の命令・指示に言いなりに同調・従属する性格傾向を自己性としていますから、多くはなぞり≠ニ消化の一層の補強を刷込まれることになるでしょう。

言いなりの同調・従属に対して、個々の主体性や自律性(自立性)・自発性は阻害要因として働く相対立する価値観であります。その延長に日本人の「マニュアル国民」「前例国民」、あるいは「親方日の丸」があります。河上亮一先生のことですから、そういったことを踏まえて名言を吐いているはずです。

義務づけられたから、ただ単に命令・指示されたことをなぞり、消化するだけでは、主体性自律性自発性も育つどころか、かえって日本人の一般的な行動様式となっている言いなりの同調・従属を一層補強するだけとなります。偉大なるプロ教師河上亮一先生が望んでやまない、「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くと言う」人間関係が学校社会だけではなく、一般社会においても国家的な普遍価値として完成するわけです。

特に1年間という長い期間にわたる奉仕活動の好むと好まざるとに関わらない義務化(=生活制限)は、好むと好まざるとに関わらない、まさにその一点において徴兵制度、あるいは勤労動員制度につながるものがあり、平和≠ニ人のためになること≠装った新しい徴兵制度・新しい勤労動員制度とも言えます。河上亮一先生の狙いはそこにあると思われます。

そのことは消防団や予備自衛隊への体験参加が議論されていることに象徴的に現れています。肉体訓練とか健康維持と称して早朝ランニングや早朝ラジオ体操、そして夜は何らかの社会勉強の時間が設けさせられて、奉仕活動を管理・監督する側から共同生活全般を厳しく管理され、強制される。したいこと・なりたいことを禁止され、少なくとも抑制され、それとは無縁の、国家権力によって強制された生活を決められた厳しいスケジュールに従って支配される。まさしく徴兵や勤労動員とさして変わらないでしょう。もし狙いどおりになったら、河上亮一大先生は腕を組んで、ニンマリと笑うことでしょう。

将来プロ・アマを問わずスポーツ選手を目指す人間にとって、1年間の練習のブランクは将来の選手生活に大きな影響を与えることも考えのうちに入れておかなければなりません。例えば高校野球から大学野球、あるいは社会人野球を経てプロ野球に入る遠回りをしたとしても、野球生活は連続性を保つことができますが、1年間の奉仕活動中は練習も含めた野球生活そのものが停滞を余儀なくされます。

特にオリンピック競技で若年層で占められる種目の場合は、18歳の1年間は記録の伸長に多大の影響を与えるに違いないことは簡単に予測がつきます。

アメリカでは高校生・大学生がベンチャー企業の起業家として数多く活躍していると聞いています。確かハーバード大学だったと思うが、寄宿舎での企業活動を学生に許可したという記事を最近見た記憶があります。1年間の停滞は時代的な科学技術の目まぐるしい変化・発展に竿さすことにもなります。少なくても、1年分ずつ遅らせる計算になります。

飛び級制度の恩恵を受ける成績優秀な生徒の飛び級を1年分意味を失わせることとの整合性は、偉大なるプロ教師河上亮一大先生はどういったことで代償する予定でいるのでしょうか。

例え義務化されたものでも、奉仕活動が性に合う18歳なら問題はないでしょう。学問をしたい激しい欲求に駆られている18歳にしたら、かえって無力感に囚われる1年間とならない保証はどこにもありません。

勿論、そういった欠陥点については抜け目のない河上亮一先生は手抜かりなく対抗措置を講じているはずです。すべて河上亮一大先生に任せておけば安心です。多分、「奉仕活動の義務化」によってマイナスを強いられる優秀な18歳には特別免除の例外規定を設けるのでしょう。それは、国民を18歳の時点で、国家権力によって選民(エリート)とその他大勢にふるい分けることです。その他大勢にふるい分けられて、改めてその他大勢であると自覚させられた18歳は自嘲と無力感に囚われることはないでしょうか。

例えそうなったとしても、偉大なるプロ教師河上亮一大先生にはその他大勢など、眼中にはないでしょう。河上亮一先生はクラスのうち、「ざっと六割の生徒がわかればいいという前提で」「大ざっぱに」授業する大原則の持ち主です。最初からその他大勢は切り捨てる教育思想の人間です。国民を選民(エリート)とその他大勢に分け、その他大勢を言いなりに言うことを聞く人間に大改造すれば、選民(エリート)によって運営された「神の国」は言いなりになる国民を治め、治安に何一つ不安のない、世界に例のない完璧な国家として地球上に君臨することになるでしょう。まさしく「神の国」です。

だが、次の点も考えなければなりません。18歳は延々と再生産されていきます。その他大勢を順次自嘲と無力感に囚われさせ、それを年と共に尾を引かせることになったら、社会に与える活力は、囚われさせなかった場合と比較して、無視できない量で圧殺されるだろうと言うことです。

ふるい分けしか解決策がないとしたなら、例え言いなりになる国民に改造できたとしても、過半数の人間が言いなりになりながらも、ひそかなる自嘲と無力感と羨望と憎しみがうつうつと渦巻く社会となるからです。

そればかりではありません。例えその他大勢の人間であっても、連続してあるべき人生の成長過程を18歳を境として、その前後を例え1年間であっても非自発性の分断を強制し、その1年をスケジュールされたほぼ同じ内容・同じ形式の生活を類似体験させるのは、元々集団主義・権威主義を行動の基本としていることから、それ以降の活動になお一層の類似性を持込むことにもなり、日本の経済や芸術・文化・技術・娯楽等の、現在以上に多様となるべきそれぞれの分野に社会的活力の平均化――いわば、今問われているアメリカ社会の多様性に劣る日本社会の多様性への否定要因ともなりかねない減退を招くことにつながる怖れはないでしょうか。

集団訓練こそが人間を鍛えると日本人は単細胞的に信じて疑わないところがあります。例えそうであったとしても、集団成員一人一人が主体的・自律的に行動できるように導きながらの、それを常なる前提とした集団経営でなく、上からスケジュール立てたことを「ああしなさい」「こうしなさい」と命令・指示し、スケジュールどおりに(命令・指示どおりに)行われれば、それでよしとする無考え・無批判の同調・従属を構造とした集団なら、人間形成に何の意味もないどころか、かえって害となる経験で終わるでしょう。

最近「引きこもり」の子ども・生徒が話題となっています。「引きこもり」とは、他者との間に言葉のコミュニケーションを喪失した状態を言うはずです。もしも学校社会で日常的に他者との自由な言葉の交換の習慣が存在していたなら、例え「引きこもり」におちいったとしても、習慣として植えつけられた言葉の交換をいつまでも抑えつけておくことはかえって苦痛を誘発することになり、少なくとも社会現象化するまでには至らなかったはずです。

いわば、「引きこもり」は学校社会に言葉の交換の習慣の不在の裏返しとしてある現象とも言えます。

ところが多くの人間が集団生活を営ませれば、「引きこもり」はなくなると考えています。それは学校社会が既に集団生活の場であることを無視した愚かしい発想でしかないことに気づかない主張に過ぎません。

偉大なるプロ教師でいらっしゃる河上亮一先生にしても、「学校が教科中心となって、行事が後退したため、子どもたちが集団活動をする体験が減った」と、学校そのものが当初から一種の集団活動社会であることを無視して、行事だけが集団活動の機会だと、偉大なるプロ教師にしては、それに反する愚かしいことを言っています。

多分、偉大なるプロ教師でいらっしゃる河上亮一先生は、学校で最も多くの時間を過ごす授業時間をこそ、真に有効な集団活動の場とするだけの想像力が欠けているために、行事だけを集団活動の機会だとするすり替えを、自分ではさらさら気づかずに行っているのでしょう。そうすることによって、教育荒廃問題に関して学校・教師に責任はないとする責任転嫁を完成させることができるからです。

必要なのは集団生活ではなく、幼い頃からの、特に学校社会での言葉の闘わせの習慣です。教師対生徒・生徒対生徒の言葉の日常的で相互的な交換によって自己を認識し、他者を認識する能力(=社会性)を育むことが主体性や自律性(社会的自立)、さらに自発性の確立につながり、その先にこそ独自性や多様性が待ち構えているのです。

独自性や多様性こそが、社会に活力を与える導火線となるものです。そしてスケジュール化された集団生活・集団活動は独自性や多様性の芽を摘み、抑圧する相対立する位置にある価値観であることを忘れてはなりません。

「強制のなかで学」ばせる教育方法は、なぞりの形式を取った学びを誘い出すだけです。なぜなら、「強制」に対して受身の姿勢を取ることによって機能するシステムだからです。

 

                               今回はここまで
                            次回は10月上旬予定

                                  微力ながら、
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