市民」 

      教育を語る ひとりひとり 政治を社会を語る そんな世の中になろう

                        2000.12.30(土曜日)歳末大売り出し


第34弾  教育改革国民会議・最終提言批判

 


平成12年12月22日の
「教育改革国民会議」「17の最終提案」を行った。確固たる教育改革と国民の将来に役立つ国民のための教育提言なのだろうか、その1つ1つを検証してみる。その「17」とは、次のものである。

人間性豊かな日本人を育成する

 (1)教育の原点は家庭であることを自覚する
 (2)学校は道徳を教えることをためらわない
 (3)奉仕活動を全員が行うようにする
 (4)問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない
 (5)有害情報等から子どもを守る

一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する

 (6)一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する
 (7)記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する
 (8)リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する
 (9)大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する
 (10)職業観、勤労観を育む教育を推進する

新しい時代に新しい学校づくりを

 (11)教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる
 (12)地域の信頼に応える学校づくりを進める
 (13)学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる
 (14)授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする
 (15)新しいタイプの学校(“コミュニティ・スクール”等)の設置を促進する

教育振興基本計画と教育基本法

 (16)教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を
 (17)新しい時代にふさわしい教育基本法を

批判は、(5)提言までとする。その中に、残した(12)提言への批判をほぼ含むことができるからである。

 index ・・・・                   
教育の原点は家庭ではない
教育の原点を学校とせよ
果たして道徳教育は役立つのか
集団奉仕活動は必要ない
なぜ問題行動を起こすのか
大人の存在自体が有害情報である

教育の原点は家庭ではない

教育の原点」「家庭」とすることによって、人間性豊かな日本人を育成する」ことが果たして可能なのか。その言っていることは――

「教育という川の流れの、最初の水源の清冽な一滴となり得るのは、家庭教育である。子どものしつけは親の責任と楽しみであり、小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である。家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である。あらゆる教育は「模倣」から始まる。親の言動を子どもは善悪の区別なく無意識的に模倣することを忘れてはならない。親が人生最初の教師であることを自覚すべきである」

そして「提言」の具体的内容として、

(1)親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ3原則」と呼べるものをつくる。親は、できるだけ
   子どもと一緒に過ごす時間を増やす。
(2)親は、PTAや学校、地域の教育活動に積極的に参加する。企業も、年次有給休暇とは別に、教育
   休暇制度を導入する。
(3)国及び地方公共団体は、家庭教育手帳、家庭教育ノートなどの改善と活用を図るとともに、すべて
   の親に対する子育ての講座やカウンセリングの機会を積極的に設けるなど、家庭教育支援のための
   機能を充実する。
(4)家庭が多様化している現状を踏まえ、教育だけでなく、福祉などの視点もあわせた支援策を講じ
   る。特に幼稚園や、保育所における教育的機能の充実に努める。
(5)地域の教育力を高めるため、公民館活動など自主的な社会教育活動への積極的な支援を行う。「教
   育の日」を設けるなど、地域における教育への関心と支援を高めるための取組を進める。

を挙げている。

「子どものしつけは親の責任と楽しみ」であるが、問題はは親である前にその社会に生きる一個の大人であり、社会的な大人の総体を受継いで親の総体があるということである。そして子どもの総体は否応もなしに親の総体の反映としてある。言い換えるなら、子どもは生まれたときから親を通して社会の影響を受けているということである。親の文化を受継いで子どもの文化があるのであり、その親の文化とは社会の大人たちの文化の最大公約数的な部分から成り立っている。この点をしっかりと押さえておかなければならない。大人と子どもはカガミ同士の関係にあるのである。

と言うことは、教育改革国民会議提言するように子どもを人間性豊かな日本人」「育成する」には、大人自体が人間性豊かな日本人」であることが絶対必要条件となってくる。もし大人が人間性豊かな日本人」でなければ、何をどうしようとも、子どもには「豊かな」「人間性」は映し出されることは決してない。このことが絶対真理である証拠として、戦前の軍国少年現象が日本人の大人たちの軍国主義を洗脳されて生じせしめた姿だったことを挙げることができる。子どもが軍国主義をつくり出したわけでは決してない。大人の軍国主義があって、子どもの軍国少年があったのである。戦前の大人は決して平和少年をつくり出すことはできなかったろう。学校教師は生徒への軍国主義の洗脳を自らの勲章とし、新聞はそれもお国のためよりも売り上げ部数の増加のために軍国少年美談の捏造に躍起となった、それ以外の選択は許さない支配社会だったのである。

大きくなったら兵隊になって天皇陛下のため、お国のために戦って死ぬんだと、流行りの軍国少年になれない身体が虚弱に生まれついた子ども、障害を持って生まれた子どもは非国民といじめられ、どれ程に悔しい思いをし、肩身の狭い惨めさを味わったことか。散々にいじめられて、兵隊さんでお国のためには役に立てなくても、負傷した兵隊さんの肉体回復に鍼・灸を役立てて、それでお国のために尽くすのだとどれ程に歯を食いしばって勉強したことかと、強度の弱視を持って生まれ育った針灸師の言葉を聞いたことがある。

翻って、学歴主義で人間の価値を計る今の社会では、学歴主義に見放された子どもたちは、俺たちも人間だと誤った、あるいは歪んだ自己正当化の存在証明を引き起こし、決して我慢はしない。教育関係者を含めた大人たちはバカでもチョンでも、「今の子どもたちは我慢することをを知らない」と(提言では、「ひ弱で、欲望を抑えられ」ないと)言っているが、人間の価値を限定する閉鎖社会のその閉鎖性に我慢は100%美徳だろうか。学歴主義を人間の優先的な価値尺度とする大人が正しいと言うのか。

戦前において軍国少年こそが正義の子どもであったように、現在の日本では学歴少年こそが正義の子どもとなっている。そしてそれは戦前と同様に社会の反映・大人のヒナ型としてある理想の日本人子ども像なのである。単に入れ替わったに過ぎない。子どもたちの学歴志向は大人の学歴文化を受継いだ子どもたちの文化なのである。

学歴文化を全身に体現した大人が人間性豊かな日本人」だと言えるなら、いくらでも見かけることができる。誰もが情報によって社会を知り、世界を知る。テレビ・新聞・雑誌等の情報で知る権力亡者ハレンチ漢ウソつき、カネのためには手段を選ばない我利我利亡者二枚舌無責任主義者言動不一致漢事大主義者として立ち現れる政治家・役人・教師・警察官・企業幹部のその殆どが学歴ある大人たちであることによって、人間性豊かな日本人」の範疇に入ることとなる。それぞれの学歴によって社会的地位を獲得し、高収入を得、見た目も紳士然としている。いわば外見上からも立派な大人たちである。さらに言えば、学歴少年の成長した姿でもある。今さら人間性豊かな日本人」「育成」を説く必要はないではないか。既に人間性豊かな日本人」は政界・財界・教育界・財界・官界にひしめいているのである。これ以上人間性豊かな日本人」「育成」したなら、それぞれのテリトリーから溢れてしまう。

軍国少年が成長して大日本帝国軍隊兵士となって戦場に立ったとき、学校教師・親・社会の大人の期待に添おうとするあまり、古参兵士を見習いもし、兵士の役目を超えて虐殺・虐待・略奪・婦女暴行を自己性としたことだろう。敗走の憂き目に遭い、自国民間人が足手纏いとなったなら、置き去りにするか殺すかしたことだろう。そういった彼らの行為こそが、あの時代の人間性豊かな日本人」人間性豊かな」英雄行為だったのである。

だが、もしも情報の舞台でのさばり踊る社会的地位ある大人たちが実際には人間性豊かな日本人」でないとしたなら、そしてその他大勢の大人たちが右に習えの有象無象の集りだとしたら、そのような大人たちが支配的な社会で、例え人格・識見共に優れた大人が何をどう目論もうと、やれ教育改革だとしたり顔しようと、子どもたちが直接的に関わるのは人間性豊か」でない大人たちであり、その人間的な本質・習性を否応もなしに刷込まれていく。それはこれまで繰返し改められてきた学習指導要領が当面の学校秩序の維持だけではなく、権威や強制からの自由、及び自己決定・自己責任を主要な行動要素とした自律的人間の育成に何ら機能してこなかったことが証明している。いわば現在の子どもたちの姿は、大人たちのありようの正直な反映であって、そこから抜け出せない状況――子どもが大人の文化を自分の文化とするだけなのを物語っている。まさしく提言で言うとおりに、「あらゆる教育は「模倣」から始まる」のである。

提言どおりに家庭で「しつけ3原則」をつくって、それを子どものしつけに役立てたとしても、まだ判断能力が未発達な子どものうちは、親の言いなりに機械的に同調・従属するだろうが、行為の拠り所を自己判断・自己好悪に置くまでに成長すると、親がしつけで言っていることと実際行動の違う人間性の持主だった場合、それを嗅ぎつけられて、どのような「しつけ3原則」も逆効果な危険なものに変わり果てない保証はない。それは信頼されていない教師が道徳に関していくら立派な言葉を並べ立てても、反発を招くだけの結果に終わるのと同じである。いわば親の、教師の、政治家・官僚を含めた世間一般の大人たちの「人間性」が問題なのであって、「しつけ」「人間性」に感化されて効果を発揮する関数に過ぎない。

学歴を権威とし、集団や組織の強制に縛られ、自己をそれらに従属させているゆえに自己決定・自己責任の自律モードは持てず、それゆえの指示待ち症候群を自己性とした日本人性に添ってその「人間性」と共に学歴主義が大人から子どもに伝えられ、子どもから大人へと持ち越される無限循環が社会を覆っていて、学歴主義に乗れるか乗れないかがしつけに関わる分岐点となっているのである。肝心のその点を押さえずに、教育国民改革会議のお偉方がどう逆立ちしようと、逆立ちしただけの成果は望むことはできない。そのことも過去の学習指導要領が証拠立てていることである。本質的に双子の兄弟である会社人間派閥政治家が日本の社会でなぜ自然淘汰を経ることができたか、考えるべきである。どちらも自律的存在とは正反対の同調・従属型存在でしかないゆえの適者生存なのである。言い換えるなら、日本人は未だに自我の確立を見ない未成長な人種なのである。

大人がそうであるのに、子どもが、「私たちの目指す教育改革」(教育は人間社会の存立基盤)教育改革国民会議が言うところの「一人の人間として自立する」ことなど不可能と言わざるを得ない。次の(危機に瀕する日本の教育)で言う、「子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足につけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなってい」て、「自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている」のに、子どもが「ひ弱で、欲望を抑えられ」ないのは当然であり、となれば子どもを問題とするよりも、やはり大人を問題としなければならないはずである。「危機に瀕」しているのは大人の方なのである。特に日本の政治は「危機に瀕」している。

ここで明確に断っておかなければならないのは、上記の提言が言う日本人の精神性は戦後の現象ではなく、日本人が歴史的に伝統的に受継いできているものだと言うことである。国益のための侵略戦争を欧米植民地からの解放と偽る「利己的な価値観や単純な正義に陥り」、敗色濃厚となると、「神風が吹いて日本は救われる」「虚構と現実を区別できなくな」り、権力ある者を怖れ、「自分から率先する自発性と勇気」もなく、「苦しみに耐える」のも、力ある者に逆らうことのできない仕方なしの忍従でしかなく、その反動で力の弱い者、下の地位の者といった「他人への思いやり」「必要に応じて自制心を発揮する意思」も持たず、敖慢な態度を取ったり、差別したりして背負った屈辱を身代わりさせる。白人に対するコンプレックスと韓国・朝鮮人や中国人を含めたアジアやその他の発展途上国の人間に向けた差別は力ある者と力の弱い者に対する日本人の相反する両極端の態度の発展形に過ぎない。

では、どうしたらいいのか。事は簡単である。親が社会の大人の文化を親の文化として子どもに伝える限界を抱えている以上、「教育の原点は家庭」とはせず、学校「であることを自覚する」のである。

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教育の原点を学校とせよ

確かに親は家庭教育者の立場にあり、その責任を負っている。だが、一般的に家庭教育者として十分に機能していない原因は、最初から誰もが親ではなく、子どもであったときから幼稚園児(保育園児)・小中高生、さらにそのうちの何割かは大学生を経て社会人となり、親となる過程で、人間としての成長(人間性の獲得)を殆ど見ないままの状態が連続するからだろう。裏を返せば、子どもが成長の過程で置くそれぞれの段階で人生の先輩の立場で接する大人たち(=親・教師・上司etc.)自身が人間的感化を与え得るほどの「豊かな人間性」を持ち得ていないからである。このことは先の記述にも関連することである。

いわば、何も立場上の教育者たり得ていないのは親だけではなく、学校教師からしてそうであり、社会の大人たちも(政治家も官僚も企業人も)人間教育者という点に関しては同じ穴のムジナでしかないということなのである。学歴人間・会社人間・政治家や官僚を含む組織人間(このことは派閥優先・省益優先の姿勢・態度に現れている)といった同調・従属人間を生み出すことに関しては特異性を発揮してはいるが。

つまり、家庭でしっかりとしつけされない子どもがそれぞれの教育空間をコマ切
れの暗記知識
は身につけるものの、人間性獲得に関してはしつけされないときの状態のまま段階的に先送りされ、社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会もなく親となるから、子どもに対するしつけが不十分となる。言い換えるなら、子どもから親へと対人感受性とか対話能力倫理観といった人間的内容に関してほぼ同じ程度で循環しているに過ぎない結果のしつけ不全現象なのである。

社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会がないのは、学歴人間・会社人間・組織人間としての成り立ちは、集団・組織に同調・従属する代償として自己性(自己意志や自己人間性)を抑圧しなければならない構造上、同調・従属に関わる人間性の習得には役立っても、自律的で人間味豊かな人間性の獲得はかえって集団・組織から自己を疎外することになり、そのような人間との関係において、学習不可能となるからである。欧米人から、「日本の政治家は顔が見えない」とか、「日本人は自分の意見を言わない」と言われるのは、集団・組織に同調・従属することで自己を埋没させてしまい、結果として自己のものではない、集団・組織の意志・意見を表明することで自己を成り立たせることからの一人一人の顔の見えなさなのである。厳しい言い方をするなら、学歴主義と真に「豊かな」「人間性」とは両立しない。

偉大なる自称プロ教師の河上亮一氏は、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」などと、その著作の中でウソ八百を述べ立てているが、学校教育というものを社会の学歴主義に無批判・無定見に同調・従属したテスト教育(=受験教育)のみで成り立たせているからこそ、あるいはそういった教育にのみ教師が役立っていないからこそ、一個の人間として親にしつけされない子どもが学校という教育空間を経過しても、入試突破の暗記知識をそこそこに獲得する学歴主義への同調・従属人間は育てることはできるが、人間性に深く関わり、人間性そのものの表現要素となる自律性や主体性、さらには対人感受性(他者認識能力や共感能力、人権意識etc.)を獲得できないままに社会人となり、親となり、しつけできない同じことの循環を繰返しているのである。

その結果として、「教育の原点は家庭である」とか、「小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である」などと言わなければならなくなっているのだが、しつけできない親にしつけを求める無いものねだりなのに誰も気づかないバカを犯している。しつけできない親にしつけできるだけの人間性をしつけるには、学校しかないはずである。いわばプロ教師が言う、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標」を言葉どおりに実践して、掛け声倒れでない実質的な成果を上げさえすれば、例え家庭で親に充分なしつけをなされなくても、学校でそこそこに身につけるはずの「生活の仕方、人間関係の在り方」が社会に出て役立つだけではなく、親となって子どもに対したとき、それはしつけにも応用されるはずである。

さらに言えば、親が子どもの人間性の育成ではなく、テストの成績や受験で子どもの尻を叩くことを自らの役目とするのは、基本的には学校で生徒であった頃に学校・教師に同じように尻を叩かれ、社会に出ても学歴で人間を価値づけられ、習性化した自己性の単なる反復であって、人生のそれぞれの段階で刷込まれた価値観(学歴価値)以外に自己表現方法を教えられなかったからだろう。このことは「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが何ら実効性を上げていなかったことを改めて証明するだけではなく、親にとってテストの成績や受験で子どもの尻を叩くことがしつけそのものとなった要因となるものである。テストでよい成績を取れば、いい子となるのだから。

となれば、改めて言うまでもなく、親を親たらしめるためにはまず学校教育をテスト教育一辺倒から、生徒が将来親の資格を十分に持てる人間に育む教育に修正する以外に道はない。これは学力を暗記知識から、自ら考え、身につける応用性を持った知識への転換を図ることにもなる。いわば学歴教育の廃止以外に道はない。

例え実際に行ったとしても、「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが実効性を見なかったのは学校社会においてテストの成績が支配的価値となっていることと、教師が教科書の内容をなぞり、それを解説し、生徒がそれをノートに書いたりして暗記する機械的で一方通行の勉強と同じように、掃除はしっかりやりなさい、老人には優しくしなさい、人の命は大切にしなさい、他人には優しくといった機械的で一方通行形式の言葉の伝えで生徒とのコミュニケーションを完結させている成果としてあるものだろう。いわば勉強に関してはテストの解答を通して暗記力で自己を価値づけることが可能で、「生活の仕方、人間関係の在り方」はマイナス評価を受けない程度の表面的な対応で誤魔化すことが可能の、双方共に教師の意志に対する生徒の側からの納得のプロセスを踏まないことが、身につかない原因となっているのだろう。勉強も人間の生き方・あり方も、なぜそうしなければならないのか・なぜそうするのかの教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを納得いくまで行って初めて単なる言葉としてではなく、応用性を備えた思想として身につくからである。応用性とは、創造力(想像力)が効くということである。

このことは提言(6)(7)「一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する」ことと、「記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する」方法論ともなり得るものである。アメリカ人ジャーナリストの、「日本の教育システムは知識を暗記することが中心で、大学を卒業しても考えることができない」(00.1.9「朝日」朝刊)といった指摘は、一人彼だけではなく、多くの欧米人からの言葉であって、日本の学校教育が創造力(想像力)の効く応用性を備えた思想にまで達することのない知識の授受に終始していることを証明している。

提言(1)「教育の原点は家庭であることを自覚する」の解説として、「家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある『心の庭』である」などと美しい言葉を連ねているが、学校空間で家庭同様に「会話と笑い」が日常的に存在しなければ(家庭では存在したが、学校で失うというケースもあるはずである)、それを自己性格化しようもない。学校のテストの成績で生徒を価値づける成績価値観・学歴価値観が家庭にも及んで学校社会の相似形を成していることが、「会話」が主として勉強しろ、勉強しろといった子どもの尻を叩く言葉に限定され、その代償として「笑い」が失われているという側面もあるはずである。当然、「会話と笑い」を性格化し得ない将来の親を家庭共々学校が大量生産することになるのである。このことからも、「教育の原点は学校」としなければならないだろう。

反語的に言うなら、家庭に「会話と笑い」がなくても、学校に存在したなら、それを自己性格化することも可能で、親となって子どもに「会話と笑い」親子関係の貴重な柱とする必然が働かないこともないと言える。このことは子どもの頃は人と満足に話すこともできない引っ込み思案の田舎の人間だったのに、東京に出て演劇や落語に出会ってから、ウソのように引込み思案が取れて人前で話すことができるようになったタレントや落語家がいることが証拠立てていることである。

この例はまた、人間が相互に意志・感情・思考を伝達し合うこと(コミュニケーション)に関して、親の教育と同様に学校教育が何ら機能しなかったことをも証拠立てている。

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果たして道徳教育は役立つのか

提言(2)「学校は道徳を教えることをためらわない」 としている。そして次のように解説している。「学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない。人間は先人から学びつつ、自らの多様な体験からも学ぶことが必要である。少子化、核家族時代における自我形成、社会性の育成のために、体験活動を通じた教育が必要である」

その具体的内容は、

(1)小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生
   経験豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、死とは何か、生とは何かを含め、人間とし
   て生きていく上での基本の型を教え、自らの人生を切り拓く高い精神と志を持たせる。
(2)人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする。特に幼児期にお
   いては、言葉の教育を重視する。
(3)学校教育においては、伝統や文化を尊重するとともに、古典、哲学、歴史などの学習を重視する。
   また、音楽、美術、演劇などの芸術・文化活動、体育活動を教育の大きな柱に位置付ける。
(4)子どもの自然体験、職場体験、芸術・文化体験などの体験学習を充実する。また、「通学合宿」な
   どの異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進する。
となっている。

まず最初に言いたいのは、上記したように、子どもは大人の文化を自分の文化として受継ぐのと同じ原理で、親や学校教師だけではなく、政治家や役人、その他を含めたすべての大人が子ども・生徒に対する「人間として生きていく上での基本の型を教え」道徳教師なのであって、無責任な大人支配的地位に立てるような社会であるなら、現在の子ども・生徒状況はそのような大人の状況を受けた当然の姿としてある存在様式である。そのことへの認識を欠いたどのような「教育改革」もこれまでの「学習要領」が教育荒廃に役立たなかったのと同じ道をたどることになるだろう。

日本の学校を「豊かな」「人間性」教育の場ではなく、受験教育の場として放置したままなのは誰なのか。政治家であり、文部官僚であり、学校教師がその主な戦争犯罪人である。プロ教師は著作で、「もともと、学校は学歴主義≠セけで成り立たせることなどできはしないのだ」が、「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない。残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実だから、責任がないなどと言うつもりはない」とか、「学力だけで生徒を評価するようになってはいない。ただし、教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任薄めの綺麗事を並べ立てているが、それが事実だとしても、教師の主体性・自立性の欠如=無定見・無責任な同調・従属を証明してあまりある。大体が、「受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」というこは、「学力だけで生徒を評価」しているということ、少なくとも「学力」を主体的に「生徒を評価」しているということで、言っていることに矛盾がある。もっとも矛盾と綺麗事はプロ教師のお得意中のお得意である。

何度でも例として引き合いに出すことだが、戦前の軍国主義は軍部と政・官・財がつくり出したことだが、学校・教師は世間の大人たち同様にそれに無定見・無責任に同調・従属し(=付和雷同し)、自らの生き方として生徒に吹き込んだのであり、決して「親と子の強い要求に引きずられ」て軍国主義に、もしくは戦場に「生徒を追い立て」たわけではない。

もし学校教育をプロ教師が言う通りに「学歴主義≠セけで成り立たせ」ていなかったなら、「生活の仕方、人間関係の在り方」を教育の実効性ある柱としていたなら、「社会的自立を促す」とか「社会性の育成」だとか、「自由と規律のバランス」だとか、いまさら課題とすることはなかったろう。

日本の学校は教師が教科書を機械的になぞり、それを機械的に解説し、生徒が必要個所を機械的に鵜呑みに暗記して、それをテストの設問に解答として機械的に当てはめる機械的一方通行形式の受験教育の場とはなっていても、なぜどうして≠問う教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを行い、お互いの思考・想像力に刺激を与える学問の場(体系的に学び問う場)では決してなかったのである。これは過去においても、一度もなかった伝統である。学校教育に言葉の闘わせが不在だったからこそ、「死とは何か、生とは何か」を教えたり、考えたりしなければならない緊急的な必要が生じているのである。また、なぜどうしてを問うことをしない場所から、「生活の仕方、人間関係の在り方」に関わる理性も創造力も育ちようがない。育つとしたなら、単に言われたことだけはする態度でしかないだろう。

国語や英語の授業で学ぶ小説や詩の一節に人間の死、あるいは生活の友・仲間としていた動物の死を描いたものがあったはずで、あるいは生徒の中に若くして不幸な死を迎えた親、生徒自身の病気や事故での死もあったかもしれない、そのことに関して言葉を闘わせることを教育の一つとしていたなら、ただ単に機械的な解説や事情説明で完結させていなかったなら、いまさらながらに「死とは何か、生とは何か」の教えが問題として浮上することはないはずである。

「善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない」なら、学校教師になるための学問と訓練を大学に行ってまで受けている教師のすべてが「善悪をわきまえる感覚」を備えているはずで、その道徳観も倫理観も生命観(「死とは何か、生とは何か」)も授業における学び問う過程で教師の発する日常普段の言葉に否応もなしに反映されるはずである。いわば教師の発する何気ない言葉からも、その教師の思想・哲学が自然とにじみ出て、生徒に伝わるプロセスを踏み、何もわざわざ「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの教科を設け、専門の教師」を雇って教える必要性はどこにあるだろうか。一般の教師には「道徳」教育は期待できないからだと言うなら、家庭での子どものしつけに親が期待できないなら、「専門の教師」を雇って家庭にも派遣すべきである。

教師となる人間が小中高と同じく大学でもコマ切れ知識体得の表面的な暗記教育で教師の資格を獲得してきただけだから、生徒に対しても同じ教育方法で臨むしかないのである。同じ形態の意思伝達の人間関係しか結べないのである。いわば、小中高・大学共、学問の場(体系的に学び問う場)とはなっていなくて、例え教えられたとしても、「善悪をわきまえる感覚」は単に試験に応用するための暗記でやり過ごしただけで、身につくはずもなく、当然生徒に伝わるはずもないのである。

教師による幼児ワイセツ教え子を含めた未成年女子との性交渉、女子生徒に対するビデオでの下着盗撮、校長や教頭といった立場の教師でさえ、宴会で女性教師の身体を触ったりのセクハラ事件等々が跡を絶たないのは、「善悪をわきまえる感覚」を暗記でやり過ごしただけなのを証拠立てている。

となると、生徒に「道徳を教えることをためらわない」とするよりも、教師にこそ「道徳を教えることをためらわない」としなければならない。「読み、書き、話すなど言葉の教育」も、教師にこそ必要である。教科書をなぞることからさして踏み外すことのない、いわば自前のものではない発展も変化もない平板な言葉を操り、それを生徒に暗記させるだけの教育プロセスからは、体系的に学び問うことをしない言葉の闘わせのない教育プロセスからは、例え「死とは何か、生とは何か」を口にしたとしても、教師自身の社会的経験から得た生命観を濾過したものではない誰か他人の考え・思想を披露するだけのことで終わり、生徒にしても他の授業と同じく、テストが終わるまでの暗記でしのぐことになるだろう。いわばテストの用には立っても、生徒自身の感性・想像力を刺激して生徒独自の生命観として確立するはずもなく、単なる形式だけの授業ということになるだろう。

繰返しになるが、教師がテスト用の言葉以外の言葉を獲得できていないなら、子ども・生徒にテスト教育用の言葉しか伝えることも教えることもできないのだから、受験教育が主体となっている現在の教育を、例えそれがプロ教師の言うように「親や社会の要求」だったとしても、それを学校・教師は「完全に拒否する力はありはしない」などと敗北主義なことは言わず、根本から変えることを先決としなければ、「人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする」も、単なる掛け声倒れに終わるだろう。

厳しく言い換えるなら、学歴主義と真に「豊かな」「人間性」とは両立しないことと同様にテスト教育と「言葉の教育」とは相対立する概念であり、決して両立はしない。現在と似たり寄ったりのテスト教育・学歴主義を続けるなら、「言葉の教育」は願うべきではない。プロ教師のように「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」とか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任逃れの綺麗事を並べ立てるだけで終わらせておいた方がいいだろう。

要は、しつけ可能な親を育むには学校教育が重要であるように、子どもの豊かな言葉の獲得には、まず教師が豊かな言葉を自分のものとし、それを生徒に伝えて、将来の親として社会に送り出すことをすれば、そのような親を親とした子どもは家庭の段階から豊かな言葉に接することが可能となり、自然とそれを自分のものとして受継ぎ、学校に入ってからはさらに教師の豊かな言葉に触れて、より高度な言葉へと向上・発展させていく。その循環こそが必要なのである。そうなったときこそ、「大学を卒業しても考えることができない」などと誰からも言われなくなるだろう。現在の教育荒廃状況は学校教育の矛盾を源流としているのであり、「家庭のしつけ」云々も、「道徳」云々も、責任転嫁以外の何ものでもない。

また、「学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視」するも、テスト教育とは相容れない価値観でしかない。先述したように、学歴人間会社人間組織人間社会的自立性(自律性)とは相対立する同調・従属性を傾向として成り立つ存在様式――いわば、自分の頭で考えることをしない、他人の考えに従う存在様式であって、だからこそ「大学を卒業しても考えることができない」と言われるのだが、学校・教師は社会の学歴主義に無節操に付和雷同することによって、テスト教育を通して学校空間を「社会的自立」ではなく、社会的同調「促す場」としてきたに過ぎない。まさしく生徒は教師の叱咤・号令を受けてテスト、テストで社会の学歴主義への同調・従属を目的としてきたのである。学歴主義に最初から自立(自律)できた生徒が何人いただろうか。教育改革国民会議プロ教師と同じく、出発点から読み違いがあるのである。暗記教育からはそもそもからして教師自身の「社会的自立」もなければ、「社会性」の獲得もないのである。

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集団奉仕活動は必要ない

提言(3)は、「奉仕活動を全員が行うようにする」となっている。その理由として、今までの教育は要求することに主力を置いたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流をつくることが望まれる。個人の自立と発見は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。思いやりの心を育てるためにも奉仕学習を進めることが必要である」を挙げている。日本の政治家自体が派閥力学・選挙利害・族原理・省益代弁で政治を行っていながら、あるいは「他者への献身や奉仕」自己地位の保身を取引材料としていながら、いわば無私とは限りなく無縁でありながら、思いやりの心などと日本の政治家にはない無私を求めるのはおこがましいにも程がある。強制されたものではない、自発的な「奉仕活動」「思いやりの心」が一般的になったら、似た者政治家は後が続かなくなり、自らの首を絞めることになるだろう。

提言の具体的な内容は次のとおりである。

(1)小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。その具体的な内
   容や実施方法については、子どもの成長段階などに応じて各学校の工夫によるものとする。
(2)奉仕活動の指導には、社会各分野の経験者、青少年活動指導者などの参加を求める。親や教師をは
   じめとする大人も様々な機会に奉仕活動の参加に努める。
(3)将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保全や農作業、高齢者介護など様々な分野にお
   いて奉仕活動を行うことを検討する。学校、大学、企業、地域団体などが協力してその実現のため
   に、速やかに社会的な仕組みをつくる。

偉大なるプロ教師である河上亮一先生教育国民会議の重要な、多分なくてはならないメンバーの一人で、先生の学校教育界における歴史に残る業績から推測すると、義務化推進派の重鎮なのはこの上なく確かなことに違いない。いわば河上亮一先生の偉大なる教育思想の成果ともなる「奉仕活動」の義務化なのだろう。実践され、軌道に乗った暁には森総理大臣の横で、二人して「神の国バンザイ」を三唱することになること請合いである。メデタイことである。

義務化に関して、いつも偉大な河上亮一先生は、「強制のなかで学ぶきっかけを得ることもある」とおっしゃっている。そのとおりである。万が一にも間違いのない要点を押さえたお言葉である。その結果として、元々日本人は歴史的伝統的に集団主義・権威主義を行動様式としていて、集団や上位権威者の命令・指示に言いなりに同調・従属する性格傾向を自己性としているから、多くはなぞり≠ニ消化≠フ一層の「学」を刷込む方向に進むだろう。いわば「強制のなかで学ぶ」ものはなお強化された同調・従属でしかない。「大学を卒業しても、考えることができない」メンタリティーとは、言いなりな同調・従属性の言い換えであって、体系的に学び問うことをしない教育システムの収穫物としてあるものである。

言いなりな同調・従属に対して、個々の主体性や自律性(自立性)・自発性は阻害要因として働く相対立する価値観なのは先に述べたが、その延長に「マニュアル国民」「前例国民」、あるいは「親方日の丸」の日本人性があるのであって、そのような日本人性からしたら、「学ぶきっかけを得る」というプロセスにある自発性・主体性は一般的には矛盾する方向性を持ったものである。いわば「学ぶきっかけを得」たとしても、ごく一握りの少数派でしかないだろう。その他大勢はそれまで以上の形式だけの表面的な同調・従属でしのぐことになるに違いない。偉大な河上亮一先生のことだから、勿論そういったことを踏まえて名言を吐いているだろうとは思う。

テスト勉強と同様に、掃除やその他の作業と同様に、義務づけられたから、ただ単に命令・指示されたことをなぞり、消化する――去勢された奴隷の如くに言われたことを機械的にこなしていく。最大公約数の学校生徒がすべての局面においてそうなったとき、偉大なるプロ教師河上亮一先生が望んでやまない「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くという関係」が完成するわけである。やはりメデタシ、メデタシである。

勘繰るに、「奉仕活動」の義務化を新制定の国旗国歌法を受けた学校現場における日の丸・君が代の(半)強制的使われ方と併せ考えると、国家を批判しない、管理可能状態に国民を飼い慣らすことができるよう、小学生のときから日本国家に向けた同調・従属の姿勢を植えつけようとの遠謀深慮から出た義務化ではないだろうか。偉大なるプロ教師河上亮一先生の言葉を借りれば、国家が「何か言えば、」国民が「それを聞くという関係」である。もし当たっているとしたら、日本が紛争状態に巻き込まれたとき、「奉仕活動」で確立された集団性はいとも簡単に勤労動員や徴兵制に振り向けられ、利用されることになるだろう。

特に「将来的には、満18歳後の青年が一定期間」「奉仕活動」を行うとする好むと好まざるとに関わらない義務化(=生活制限)は、好むと好まざるとに関わらない、まさにその一点において、精神的な徴兵制度・精神的な勤労動員を背負わされるに等しい。義務化が持つ半強制性の反復による国民に対する管理可能状態への徹底化である。とにかく河上亮一先生は、言うことを聞く生徒を熱望してやまないのである。自民党政権が言うことを聞く国民を熱望してやまないように。

「奉仕活動」での「共同生活」は、肉体訓練とか健康維持とか称して早朝ランニングや早朝ラジオ体操、そして夜は何らかの社会勉強の時間が設けられ、「奉仕活動」を管理・監督する側から生活全般を厳しく管理・強制される。したいこと・なりたいことを禁止され、少なくとも抑制され、自己生活とは無縁の厳しいスケジュールに従って支配される。例え「具体的な内容や実施方法については、子どもの成長段階に応じて各学校の工夫によるものとする」としたとしても、また実施時期がそれぞれに異なっていたとしても、その土台は国家権力の意志を受けた教育委員会や学校による一律的強制であることに変わりはない。これは個人の自由の侵害に当たらないだろうか。なぜ「共同生活」なのか。実施における年齢と時間のズレはあっても、挙国一致を要素とした一斉性を孕み持っているのである。

オリンピックとか世界選手権を迎えた「満18歳後の青年」は公の大義名分によって、大会後への延期が許されるだろうが、大学浪人は受験勉強を中断させるわけにはいくまい。高卒でプロ野球を目指す高校生は「一定期間」をどこに置いたらいいのだろうか。それとも、スポーツエリートに関しては特別免除の例外規定を設けるのだろうか。それは国民を「満18歳後」の時点で選民とその他大勢にふるい分けることになる。ふるい分けられてその他大勢であることを自覚させられた「満18歳後の青年」は自嘲と無力感に囚われることはないだろうか。

「環境保全や農作業、高齢者介護」等々――「奉仕活動」の内容によって、あるいは指導・監督する者の方法によって大変・楽の差が生じて、それが口コミで伝わり、楽な「奉仕活動」には希望者が殺到するが、大変な方は忌避される傾向が生じないだろうか。そうなったら、自発性の「奉仕活動」でないゆえに、希望と違って俺は大変な方にまわされたと不平不満が渦巻くことにもなるだろう。その結果、どちらにまわされようと、どちらを選択しようと、形式的な同調・従属を最強化させ、一刻も早く解放されることだけを願うということにもなりかねない。

同調・従属への傾斜は、例え「奉仕」内容は違っていても、過不足なくみんなと同じを目指す類似性心理(横並び心理)の誘発にもつながる。それは日本の経済や芸術・文化・技術・娯楽の、現在以上に多様となるべきそれぞれの分野にこれまで以上の社会的活力の平均化――いわば今問われているアメリカ社会の多様性に劣る日本社会の多様化への否定要因ともなり兼ねない、その失速を招くことにつながるだろう。

集団訓練こそが人間性を鍛えると信じて疑わない日本人の単細胞性は、勿論集団主義・権威主義からきている。集団成員一人一人が主体的・自律的に行動することを常なる前提とした集団経営ではなく、上がスケジュールしたことをスケジュールしたとおりに「ああしなさい」「こうしなさい」と命令・指示し、下がスケジュールどおりに(命令・指示されたとおりに)従えば、それでよしとする和@D先無批判・無考えの同調・従属を構造とした集団なら、国家権力にとっては都合がいいが、自ら行動しない人間・自ら考えることはしない人間をつくるばかりで、人間形成に何の意味もないばかりか、かえって害となる経験で終わる。

最近、引きこもりが問題となっているが、引きこもりとは、他者との間に言葉のコミュニケーションを喪失した状態を言うはずである。もしも学校社会で日常的に他者との自由な言葉の交換の習慣「会話と笑い」)が存在していたなら、例え引きこもりに陥ったとしても、習慣として植えつけられた言葉の交換をいつまでも抑えつけておくことはかえって苦痛を誘発することとなり、少なくとも社会現象化するまでには至らなかったはずである。いわば、引きこもりは学校社会に言葉の交換(「会話と笑い」)の習慣の不在の裏返しとしてある現象とも言える。

ところが、多くの人間が集団生活を営ませれば、引きこもりはなくなると考えている。学校社会が既に集団生活の場であることを無視した愚かしい発想でしかないことに気づかない主張なのだが、例え一緒に生活したとしても、集団の場で他者との会話を一切持たなかったり、仲間外れ状態にされていたなら、心理的・物理的な一種の引きこもりと言える。学校に不登校予備軍と言える、不登校一歩手前の引きこもり状態にある生徒が決して少なくないはずである。

偉大なるプロ教師でいらっしゃる河上亮一先生にしても、「学校が教科中心となって、行事が後退したため、子どもたちが集団活動する体験が減った」と、学校そのものが当初から一種の集団活動社会であることを無視して、行事だけが集団活動の機会だと、偉大なるプロ教師にしては、それに反する単細胞なことを言っている。多分、偉大なるプロ教師の河上亮一先生は、学校で最も多くの時間を過ごす授業時間をこそ、真に有効な集団活動の場とするだけの想像力が欠けているために、行事だけを集団活動の機会だとする無責任なすり替えをやらかしているのだろう。その裏を返せば、プロ教師の授業は、その他大勢の教師も同じことだが、教科書を解説し、生徒に答えさせる、教科内容の理解以外の言葉の交換のない機械的なもので成り立たせていることを暴露している。

必要なのは物理的な集団生活ではなく、幼い頃からの、特に学校社会での相互に自己の考えを主張する言葉の闘わせの習慣であろう。教師対生徒・生徒対生徒の自分を述べ、自分を主張する言葉の日常的な交換によって、自己を認識し、他者を認識する能力(=社会性)が獲得可能なのであって、その育みが主体性や自律性(社会的自立)、さらに自発性の確立につながり、その先にこそ、同調・従属とは正反対の独自性や多様性が待ち構えているのである。そしてそのような独自性や多様性こそが、社会に活力を与える導火線ともなるものである。非自発性であるゆえに同調・従属を誘発しがちなスケジュール化された集団生活・集団活動は独自性や多様性の芽を摘み、抑圧する相対立する位置にある価値観であることを認識しなければならない。

改めて言うが、「強制のなかで学」ばせる教育方法は、なぞり消化の形を取った学びを誘い出すだけである。それは元々からある日本人の行動原理であり、受身の姿勢で十分に機能させてきたシステムだからである。

呼びかけに応じてボランティアの集団清掃活動を行っても、個人の立場では平気で空きカン・空きビン、さらにはタバコの吸殻も捨てる矛盾性は、呼びかけに世間体や近所・仲間の手前といった半強制的な権威主義の力学(=圧力)が働いていて、断りきれずに形式的に同調・従属し、なぞり≠ニ消化で清掃を行うことから来ている身につかなさなのだろう。純粋に自発的に参加した清掃活動なら、みんなの手前は拾うが、自分は捨てるといった裏表のある行動は取れない。毎年の富士山の山開き前に行う清掃活動はダンプ何十台という大量のゴミを処理することになるが、その殆どが日本を代表する日本一高い山・日本一美しい山として信仰、もしくは誇りとしている日本人が捨てたものなのである。彼らの多くは世間に対したとき、常識ある大人として振舞っているはずである。いわばその常識は自発性からのものではなく、単に周囲に合わせ、周囲に同調・従属したもの、なぞり≠ニ消化でやり過ごしているものだと言うことを暴露している。

かくかように同調と従属を行動性としているのである。集団行動がそのような行動性の強化に役立っても、提案が言っている、「個人の自立と発見」どころか、「自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持」たせることは過大な期待で終わるだろう。集団主義・権威主義を行動様式としている日本人には、集団や組織から離れたところでの自律的主体性が必要なのである。自律的主体性とは、主体的個人性のことである。空きカンや空きビンのポイ捨てに譬えるなら、誰もいない場所や知った顔のいない場所でのポイ捨てをしない社会性の確立が待たれるのであり、それは個人が自律的主体性(主体的個人性)を備えることによって可能となる行動性なのである。

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なぜ問題行動を起こすのか

提言(4)は、「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」となっている。そして次のように解説している。
「一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする。不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する」

その具体的内容は、

(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもたちの教育が乱されないようにする。
(2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して出席停止など適切な措置をとるとともに、それ
   らの子どもの教育について十分な方策を講じる。
(3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師が生徒や親に信頼されるよう、不断の努力をすべきこと
   は当然である。しかし、これは学校のみで解決できる問題ではなく、広く社会や国がそれぞれ真剣
   に取り組むべき問題である。

この提言には、なぜ「問題を起こす」のかの視点がない。原因究明がなされなければ、「それらの子どもの教育について十分な方策を講じる」ことは不可能なだけではなく、教師が生徒や親に信頼されるよう」どう不断の努力をすべき」かも判断不可能となる。

では、なぜ「問題を起こす」のか。社会の多様化とか人間の多様性多様な価値観と言いながら、学校社会における授業の場≠ナは生徒の多様な個性・多様な才能に反して、テストの成績を人間を価値づける唯一絶対の価値観としている一律性と言動不一致が招いている混乱であろう。テストの成績が唯一絶対の価値観となっているということは、学校教師の他者共感能力が学歴主義に囚われ、成績のよい生徒にのみ向けられて働いているということである。勿論それは世間の大人にも親にも言えることであるが、学校はそのことに対する抵抗の場でなければならないのに、無考え・無定見に流されている。だからこそ、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」を目的とした提言(6)「一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する」としなければならなかったはずである。だが、学歴主義を土台とした教育を続けている限り、その具体的内容としての「少人数教育」だとか、「習熟度別学習」「中高一貫教育校」などといくらアイディアを打ち上げたとしても、暗記知識の植えつけとその成果としての表面的な学力の獲得には過不足なく機能したとしても、「一律主義」の改善には役に立たないだろう。特に「18歳までに二度もある受験の弊害」を減じることを目的に「中高一貫教育をより一層推進する」としながら、「高校での学力向上を目的として、学習の成果を測る学習達成度試験を」「年複数回行い、学年を問わず何度でも受験できるようにする」とするのは、自己矛盾を犯すものである。誰もが中学生の頃から、高校での「学習達成度試験」に備えて、暗記知識に精を出すだろうからである。そして、「創造性、独創性、職業観を育むため」「体験学習」の成果は試験の成績には関係はなく、例え生活態度で点数化されようとも、学歴主義社会ではあくまでもテストの成績が主体であって、「体験学習」「奉仕活動」も、表面的で形式的ななぞり≠ニ消化で誤魔化すことができるのである。人間がテストの成績で価値づけられる社会にあって、誰が「体験学習」「奉仕活動」に心底からエネルギーを注ぐだろうか。そのことはプロ教師も言っている、「私の中学校では殆どの生徒が高校を受験するため、そのうちの八割くらいの生徒が塾へ行っている」という過熱した塾状況が受験社会において生徒にとっての絶対的な生存条件は何かを物語っているのである。「体験学習」「奉仕活動」は、そこそこにこなすいい生徒であれば済むが、テストの成績はそこそこに済ますわけにはいかない社会だということである。例え「学習達成度試験」に合わせて大学のレベルを選ぼうとも、本人にとってはそれが望み得る精一杯の成績だろうから、テスト勉強にこそ心血を注がなければならない状況は依然として続くのである。

となれば、テスト価値観に加わることのできない生徒の問題行動はなくなることはないだろう。テストの成績では獲得できない自己の優越性を、いじめや暴力で獲得する倒錯した自己優越証明・自己存在証明を図る生徒も跡を絶たないだろう。俺は勉強ができないからと「体験学習」に力を入れたとしても、学校では、あるいはクラスではテストの成績が人間を価値づける価値観として常に立ちはだかることになる。あるいはテストのできる生徒が「体験学習」でも「奉仕活動」でも、そこそこにいい生徒を演じることだろうから、そこでも目立つのはテストのできる生徒ということになるだろう。「体験学習」「奉仕活動」で先頭に立って活動する生徒をテストの成績で自己優越証明のできない生徒がそれ以上の優劣の距離をつけられないために、これまでも例としてもあった厭がらせや中傷、いじめで妨害しない保証もない。

問題行動対策は単に「一律主義」学歴主義を改めるだけではなく、学校社会を一般社会と同様にすべての生徒に生存機会を平等に与えること以外に道はない。一般社会では大人は学歴がなくても、学歴を必要としない様々な場所で自己生存の機会を獲得することができる。だが、学校における授業の場では、勉強の成績以外で自己の生存機会を図ることはできない。勉強ができなくても、スポーツの能力が特別にあれば、一応の自己存在証明は可能ではあるが、あくまでも勉強で生存の機会を得ているわけではなく、テストの成績の方が常に優越的位置にある。例え巨人の松井にしても、一国の総理大臣と同じ年齢に達したとしても、頭を下げるのは松井の方だろう。アメリカ社会のように、大統領と一般人がファーストネームで呼び合ったり、片手で肩を抱き合ったり、ときには際どい冗談や皮肉を言い合ったりする関係は決して実現しない。

すべての生徒に生存機会を平等に与えるということは、誰もが勉強ができるようにするということではない。その逆の、勉強ができなくても、勉強ができる生徒と同等の生存機会が与えられるということである。現在は勉強のできない生徒の中には学校外のゲームセンターカラオケボックスで、あるいはパソコンゲームするとかで自宅で自己生存機会を得ている。問題行動を起こす生徒は恐喝とか、コンビニの前でたむろするとかで自己生存を図っている。勿論学校での恐喝は困るが、勉強以外で彼らが好きなこと、興味があること、あるいは関心を持っていることにチャレンジさせ、そのことを自己生存機会の方法とするのである。パソコンゲームが好きなら、それを極めさせたらいいではないか。極めさせる過程でそれなりの学力――漢字の読み書きや意味解釈の習得、歴史だって、ヨーロッパ中世の戦士が戦うゲームや日本の戦国時代の国盗りのゲームを取上げたなら、そこそこには学ばせることも可能である。

マンガが好きな生徒にはマンガを極めさせたらいいではないか。世界のマンガ・日本のマンガ、マンガの歴史等々から、学力もつけば、教養も獲得できる。好きなマンガを書かせれば、創造力(想像力)もつく。学力を漢字の読み書きや計算、その他の知識の獲得の程度(=能力)と把えずに、学ぶ力・学ぶ能力と解釈したらいい。勿論理科・物理・化学が好きなら、それを十分に学ばせたらいい。英語が好きなら、英語を。一つの興味ある事柄を可能な限り広範囲に極めさせる。そこから一般世界・一般社会を展望できたとき、知識は単なる知識であることを超えて、教養へと発展する。思想・哲学へと発展する。人間とは何か、「死とは何か、生とは何か」も学ぶことができるだろう。このような教科方式は提言(7)「記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する」場合のアイディアにもなり得るだろう。

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大人の存在自体が有害情報である

提言(5)「有害情報等から子どもを守る」となっている。
「IT社会の進展に伴って、子どもたちが大量の情報にさらされるようになった。そのことは、学習の機会を提供する一方で、弊害ももたらす。『言論の自由』と同時に『子どもを健やかに育むこと』の大切さは、あらゆる情報産業関係者に自覚されるべきである。ポルノや暴力、いやがらせや犯罪行為を意図的に助長する情報や子どもの教育に有害な営利活動から子どもたちを守る仕組みが必要である」

具体的な方法論は次のとおりである。
(1)保護者団体や非営利活動団体(NPO)、研究グループなど複数の民間団体が、自主的に有害情報
   等とは何かを検討し、有害情報等をチェックする。その情報を提供することなどにより、子どもに
   有害情報等を見せない仕組みをつくる。この場合、その方針を公開する。
(2)民間団体などが、有害情報等を含む番組などのスポンサーとなっている企業へ働きかける。
(3)国は、子どもを有害情報等から守るためのこうした取組を支援するとともに、そのための法整備を
   進める。
アメリカ合衆国の禁酒法(1920〜33)は人間の飲酒癖を断ち切ることができただろうか。密造・密売をはびこらせ、それを手がけたギャングに巨万の富をもたらせただけの結果に終わった。いわば法を犯してでも、人々は密造酒を買い、アルコールを嗜好品とすることから逃れることができなかった。常識ある大人たちが、いわゆる「有害情報」としている番組をテレビから追放しても、あるいは「有害情報」としている書籍・雑誌を一般書店の店頭や自動販売機から追放したとしても、それらは地下に潜り、カネ儲けのためには手段を選ばない大人たち「有害な営利活動」
をする大人たち)によって、提供され続けるだろう。需要側にしたら、隠れて手に入れる状況に自らを置くだけのことでしかない。いわば、「有害情報」はどう足掻いても阻止できようはずがないもの、それを「見せない仕組みをつくる」ことなど不可能と見定める開き直りが必要なのではないか。

大体が常識ある大人たち自体が常に常識ある態度を見せるとは限らないのである。大学教授が若い女性愛人にカネを貢ぐために、自分たちの性行為をビデオに撮り、それをCDROM化して、ホームページで販売して逮捕されたのはごく最近の出来事である。大人たちの児童買春も跡を絶つことはなく、学校教師自体の教育対象者ではあるはずの女子生徒に対するワイセツ行為も断絶することなく年々増え続け、しぶとく話題を提供し続けている。マスコミにとってはありがたいニュース提供者となっているに違いない。順位を付けるとしたら、警察官と政治家と1位、2位、3位を争う好位置につけているのではないのか。政治家で言えば、女性問題で不人気を買い、総選挙に敗北して辞任に追い込まれた総理大臣もいたし、愛人問題が辞任の一つの理由となった幹事長もいる。

大人たち自体がワイセツ・猥雑ときているのに、それを児童・生徒に禁止する資格はない。少なくとも「有害情報」を嗜好する児童・生徒は自己正当化の理由に「大人たちだって」を挙げるだろう。「裏にまわれば、何をしているか分からないのに」と。「有害情報」を利用してカネ儲けに走る大人たちにしても、政治家や官僚、企業人の私利私欲のための手段を選ばない悪事・不品行・カネのやりとりを、「連中にしたって、裏にまわれば何をしているか分からないのに」と自己正当化の理由とするだろう。「お互い様じゃないか。どこが違うってんだ」と。

感性・想像力を表面的に刺激するだけの、多分に時間潰しの色彩の濃い低劣な情報を志向するのは、表面的・形式的なコマ切れ知識を暗記させるだけの学校教育自体が生徒の感性・想像力を深いところで刺激しないことの反映としてある、いわば釣り合いの取れた状況のはずである。もし何らかの知識に深く魅せられたなら、ときには気晴らしにテレビでバラエティ番組を見たとしても、基本の嗜好は感性・想像力を深く刺激する情報に向かうはずである。子どもの頃、シェークスピア作品夏目漱石作品を読んで、例え正確に理解できなかったとしても、何かあると感じ、惹かれるものをどう抑えることもできなかったことを経験した人間は、成長してから人間を浅く描いただけの情報、あるいは表面的な刺激しか与えない娯楽には常に物足らなさを感じるものである。

勿論、人間としての基礎を築く出発点の家庭で親が番組の内容を検討もせずにだらしなくテレビを見せるとかして、子どもの情操を未開花なままの状態にさせておいた罪は糾弾されて然るべきではあるが、純然たる教育空間である学校がそれを補って少しでも開花状態に持っていくのが、役目というものだろう。未開花なまま入学したのだから、未開花なまま送り出せばいいというものではないはずである。まだ漢字を知らない、まだ計算ができない子どもに漢字と計算はそれなりに教えることができるなら、情操教育もそれなりにできなければならないはずで、それができていないとなったなら(学校教師の「最近の生徒は本を読まなくなった」という嘆きがそれを証明している)、無能力・怠慢の罪は糾弾されて然るべきである。

教科書を表面的になぞり、それを解説するか、教科書を離れたら、ああしろ、こうしろと言うだけか、自分の経験を話すとしたら、どこで誰と何をしたか、事実を事実どおりに伝えるだけか、その程度のものが教師の平均的な言葉となっていることが生徒の感性・想像力を何ら刺激せず、そのような教師の深みも何もない平均的な言葉を受けて、情緒性をすっかり剥ぎ取ってしまった今の若者言葉があるのである。

となれば、学校生徒の「有害情報」嗜好を抑制するためには、まずは教師の言葉を問題としなければならない。そしてそのような機械的で情緒的に無味乾燥な教師の言葉は、機械的な解釈以外は必要としない、逆説的に言うと、そのような言葉を間接的に強いている学歴獲得のテスト教育によって淘汰されたもので、学歴獲得のための教育では一枚も二枚も上手の学習塾の教師の、テストの設問と解答のための言葉以外は省いた言葉がその典型としての証明を見せている。

一見遠回りに見えるが、学歴獲得を主体的に目的とした現在の教科教育を根本から変換するしか、有効な「有害情報」対策はない。今の子どもがテレビに慣れ親しんで、テレビを血肉としているなら、豊かな人間性と豊かな情操に溢れたドラマドキュメンタリービデオ鑑賞させ、鑑賞したあと教師対生徒・生徒対生徒で何が描かれていたか、どう受止めたかといったことの言葉の闘わせを行い、相互に理解を深め、それを相互の感性・想像力の刺激剤とする。それら一連の作業は自己認識・他者認識・共感能力(社会性)をも高め、「教育改革国民会議」が目指す「人間性豊かな日本人」「育成」の実現にも向かう契機となるはずである。「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない」だとか、「残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実」だとか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっている」などと薄汚い狡猾な自己正当化の責任転嫁で自己保身に汲々とせず、社会の学歴主義への防波堤となって、人間性育成教育への転換を図るべきだろう。人間性育成が「職業観、勤労観」をも育む。人間性育成教育と並行して学力(学ぶ力)をつける教育を創造してこそ、教師は学校教育者と言える。「流され」るだけなら、学校教育者はいらない。

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               ――終わり――

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