市民」 

  教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

  44弾     part4
       
                      2001.(日曜日) アップロード      



自分を持たない日本の女たちと小泉支持
靖国神社と戦争観
新日本建設に関する詔書(昭和天皇の人間宣言)
旅と花屋の心
「期待に無理してこたえる」中学生像

 

  自分を持たない日本の女たちと小泉支持

 もっとも、女たちだけではない。その傾向は男たちも見事な程立派に備えている。会社に自己のすべて、人生のすべてを売り渡すことができる会社人間現象も、自分を持たないからこそ可能となる。いわば自分がカラッポな内容の人間だからこそ、会社のすべてを自分の中に引き入れることができる。定年退職で、これまでしてきたことを奪われた会社人間が何をしていいのかうろたえ、今までどおりの定時の出勤を装って会社近くの公園まで出掛けてぼんやり過ごしたり、パチンコで退社時間まで時間をつぶしたりして、それから帰宅するといった芸当ができるのも、会社を取上げたら。自分に何も残らないからである。
 定年退職を間近に控えた人間が、腑抜け人間にならないように急いで趣味を見つけるのはいいが、それが例え高度な趣味であっても、それにだけにのめりこんで、その趣味を自分のすべてとし、それ以外は何ない人間となる。何のことはない。「会社」と「趣味」を入れ替えるに過ぎない。
 他の事柄は何も見ず、何も関心を持たない。ただそれだけ。そういったことは一面的には充実していて幸せであろうが、あまりにも世界を限定してしまうことになる。人類がつくり出している世界≠ゥら比較して、モグラが巣の穴から覗く限られた景色を自己の世界とするにも等しく、人間が持つ可能性(=世界)に対する冒涜、あるいは怠慢である。
 日本の女性の社会進出は著しいと言っても、会社で過ごす時間で自分を埋める女性が日本の男程には最大公約数化していないのは、男に比較した女性の地位の低さ(その結果としての権限・待遇の格差)の影響にもよるものだろう。自分を持っていない女性にとってはそのことが不幸なことなのは、会社以外に自分を埋める時間を見つけなければならないからである。もっとも神の摂理によるのか、人間活動の仕組みが元々そういうふうになっているのか、水が低きに流れるように巧まずして探り当てるものらしい。勉強は嫌い、授業は面白くない、成績ば勿論悪いその他大勢の生徒がなぜ学校へ行くかと言うと、一見社会的慣習からのように見えるが、学校で過ごす以外に自分を埋める時間を持たないか、持てないからだろう。学校へ行く理由を「友達に会えるから」と言った女子高生がいた。
 ヒトラーを最初に熱狂的に支持したのはドイツの成人女性だと何かで聞いたことがある。かつて橋本龍太郎が首相だった頃、その目鼻立ちの色濃い容貌が歌舞伎役者に似ているからと言って、日本の熟年女性は「橋サマ」と呼んで自分たちのアイドルとし、ミーハー的な興奮を示して熱烈な支持を与えた。その橋サマは景気悪化の元凶と見なされて、現在ではかつての人気の面影もない。
 橋サマに代るのが今の小泉首相である。まだ選挙権もない女子高生から20代、30代、さらに40代の女性までが小泉と言う政治家に何をどう嗅ぎ取ったのか、小泉首相が街頭演説を行なうどの場所にもどこでどう情報を仕入れるのか、いわゆるギャルからオバサンまで様々な世代の女性が一目見ようと殺到して、ありがたい仏像に御利益を願うかのように熱狂する。その光景たるや女子高生の人気アイドル歌手への追っかけ*ヘ様が世代増殖したかのようである。
 しかし実は小泉人気から実際的な御利益を得ているのである。小泉と言う有名人≠フ人気・活躍のおこぼれにあずかることで、自己存在を主張し、それを自己活躍としているの。「ねえねえ、昨日純ちゃんの街頭演説聞いてきちゃった」と、自己活躍の記念碑とする。あるいは自己活躍の勲章とする。いわば大騒ぎすることを自己存在証明としているのであり、自己活躍証明としているのである。そのことが撥ね返って、マスコミの大袈裟な報道もあって、小泉人気の膨張に輪をかける。
 そのような構図を可能とする要因は、大騒ぎする女たちがやはり自分を何も持っていないからだろう。他人の能力や才能や置かれている状況にすがらなければ、自己を主張できない内容カラッポ人間だからである。
 言い換えるなら、小泉純一郎をエサに大騒ぎする自分を見せているだけの話でしない。うまくいけば、テレビカメラに写って証拠となるかもしれないという期待があることも否定できないだろう。恐ろしいのは、そういった大騒ぎが小泉支持の何10%かを占めているという事実である。
 小泉首相の、いわゆる聖域なき構造改革≠フ成功・不成功に関係なく、人気の大きな部分を自分を持たないカラッポな人間たち(その多くは女たち)が担っているという事実は決して見逃すことはできない。
 勿論、誰がどう支持しようが、成功すればいいではないかという主張も成り立つ。だが、成功を後押しするだけの実質的な力を持っているだろうか。既得権にしがみつき、改革に反対する勢力こそ、実際的な力を持っているのではないだろうか。水増しされたと言ってもいい支持が、人間は利害の生きものであると言う社会の現実に直面したとき、有効な力を発揮し得るだろうか。意識的・確信的な支持こそが、それが裏切られた場合、自己の至らなさを学び、自らの責任として、同じ愚かさを繰返さない教訓となるものではないだろうか。いわばヒトラー支持や橋サマ支持といった同一の系譜をたどらない保障となり得るものではないのか。
 自民党の利権政治が日本の政治そのものとなっている、伝統的にエンエンとして変らぬ現実は、意識的・確信的に自己を持ち、自己を自己として生き・主張する人間が女だけはなく、男においても少数派であることを証明している。単にミーハー的でないところが違うだけなのかもしれない。
 このような自己を持たない人間の(政治家にしても発言がくるくると変る自己を持たない人間が何と多いことか)民族性とも言い得る社会的はびこりは、多様な価値観の時代に即した子どもたちそれぞれの可能性を実現する教育をと言いながら、テストの成績(=点数)を優越的な可能性とする画一的価値観の伝統的な押し付けによる他の様々な可能性の無視・抹殺が生み出した成果としてある「自己を持たない」精神性なのではないか。
 例え自己を持たなくても、会社の言いなりに無我夢中で働いて貧しさから抜け出し、少しでも豊かさを獲得することが美徳だった物質探求の時代はとうに過ぎ去ったのである。自己を持つことこそが自律(自立)なき日本人に課せられた次なる時代の課題ではないだろうか。その課題が果たされたとき、それは自民党政治の終焉をも意味するときでなければならない。
                (2001/8/22)

  靖国神社と戦争観

 靖国神社参拝を、「国のために命を捧げた人々を国民が敬い、哀悼の意を尽くすという精神に基づく行為」だとするのが正当化の主たる通念となっている。だが、ここにはちょっとした、しかし重大な誤魔化しがある。大袈裟に言うなら、歴史の歪曲を介在させている。戦前の帝国軍兵士にとっては(その他大勢の一般国民にとっても)、天皇陛下のために=i=天皇帰一)がお国のために≠ナあったのであり、またその逆も真なりの、両者は一体の関係にあったのである。だからこそ、「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んでいけたのだろう。
 もし
「命を捧げた」対象に正確に昭和天皇をも付け加え、厳密にして真正なる歴史的事実として、昭和天皇と国のために命を捧げた人々を国民が敬い、哀悼の意を尽くすという精神に基づく行為」だとしたなら、「命を捧げ」るという行為が戦前の国家主義・軍国主義との関連でのみ合理化されたもので、現在では多くの日本人が忘れているその事実を改めて自ら暴露することになるだけではなく、そのような行為を持った「人々を国民が敬い、哀悼の意を尽くすという精神」は、国家主義・軍国主義と訣別して、民主主義をタテマエとし、主権在民を憲法に謳った戦後の日本の社会では正当性すら存在しないことをも暴露することになる。
 また、だからこその
天皇陛下のためにという歴史的事実の省略なのだろう。小泉首相にしても、「尊い命を犠牲に日本のために戦った戦没者たち」とするだけで、同時に天皇陛下のために「戦った」事実は巧みに省略している。
 しかしいくら省略して、
「国のために」のみ「命を捧げた」と歪曲したとしても、もはや「国のために命を捧げる」戦争観は人権擁護のグローバル化の世界では、時代遅れのもの・アナクロニズムとして排斥されなければならないもののはずである。人権擁護のグローバル化時代の戦争観は、例え領土の侵犯を受け、国家の主権が侵害されたとしても、ミサイルを打ち込まれたとしても、「国のために命を捧げた」り、「戦った」りするのではなく、国民一人一人が自らの生命と財産を守るために戦うべきものとされなければならない。「守る」「生命」とは、単に呼吸している肉体状況だけを言うのではなく、人間が人間らしく生きるための権利として与えられている基本的人権(思想・表現・信教・集会・結社・移動等々の自由、生存権、参政権等の保障)――いわば、人間を人間らしく生命させ得る精神性・個々人が人間として生き生活し得る精神的領域をも含めたものであるのは言うまでもないことで、そうすることによって、人権擁護の世界観に添うことも可能となるのである。
 靖国神社も英霊思想も戦前の国家主義・軍国主義の産物である。1946年元日に、現御神(現人神)とされていた昭和天皇が自らのその神格を否定し、「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越スル民族ニシテ、延テ世界ヲ征服スベキ運命ヲ有ストノ」「観念」を「架空ナル」ものとしたのは、戦前の国家主義・軍国主義の有効性を断ち切らないことにはもはや天皇制も日本国家も成り立たないことを悟ったからに他ならないからだろう。となれば、靖国神社も英霊思想も1945年8月15日を境に訣別しなければならない戦前の国家護持装置だったはずである。当然、
「国のために命を捧げ」るという国家対個人の行為性もひとえに戦前の国家主義・軍国主義を限定とした条件下でのみ合理性を獲得し得た性格のものとすべきで、そのような戦争奉仕をした「人々を国民が敬い、哀悼の意を尽くすという精神」の発揚も、改めて戦前限りのものとしなければならない思想・儀式ではないだろうか。

           2001.9.8.

  昭和天皇の人間宣言

 日本の現在にも関係する、過去に存在した歴史的事実である昭和天皇の人間宣言を参考までに(お節介にも?)紹介してみたいと思います。

        新日本建設に関する詔書

    1946(昭和21)年1月1日

 茲(ここ)ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初(はじめ)國是
こくぜ=国全体が正しいと認める一国の政治上の方針)トシテ五箇条
ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

1、廣ク會議(かいぎヲ興おこシ萬機ばんき=政治上の重要な
  事柄)
公論ニ決スヘシ(国家の政治は世論に従って決せよ)

1、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸けいりん=国家を治め整えること)
  行フヘシ

1、官武一途いっと=一体)庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケとげ人心
  ヲシテ倦
マサラシメン事ヲ要ス

1、舊來きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道こう
  どう
=世界の正しい道理)ニ基クヘシ(根拠を置くべし)

1、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうき=天皇が国を治める基礎)
  起スヘシ
しんき=ふるい起こすべし)

 叡旨えいし=天皇の意向)公明正大、又何ヲカ加ヘン(天皇の考えというものは公明正大で、これ以上何を付け加えることがあるだろうか)。朕ハ茲ここニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラクすべからく=当然)此ノ御趣旨ニ則リ、舊來きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達シちょうたつし=のびのび育て)、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖はかリ、新日本ヲ建設スベシ。
 大小都市ノ蒙
こうむ)リタル戰禍、罹災者ノ難苦、産業ノ停頓ていとん=停滞)、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい=勢い)等ハ眞ニ心ヲ痛マシムルモノナリ。然リト雖モ(しかりといえども)、我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
 
夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充かくじゅうシ、人類愛ガ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ致スベキノ秋ときナリ。
 惟フ
おもうニ長キニ亘レル戰爭ノ敗北ニ終リタル結果、我國民ハ動どうモスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪ちんりん=深く沈むこと)セントスルノ傾キアリ。詭激きげき=言行が非常に激しい様)ノ風ふう=風潮)漸ヲ長ジテぜんをちょうじて=次第に激しくなって)道義ノ念頗ルすこぶる=非常に)衰ヘおとろえ、爲ためにニ思想混亂ノ兆きざしアルハ洵まことニ深憂(しんゆう=大いなる心配)ニ堪ヘズたえず=こらえることができない)
 
然レドモ朕ハ爾等なんじら國民ト共ニ在リ、當ニまさに=必ず)利害ヲ同ジクシ休戚きゅうせき=喜びと悲しみ)ヲ分わかタント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ちゅうたい=物と物、人と人とを結び付ける役割を果たす大事なもの)ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テひいて=さらには)世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。
 
朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難じなん=時代の災難)ニ蹶起けっき=勢いよく立ち上がること)シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇徃(ゆうおう=怖れずに進むこと)センコトヲ希念スきねんす=望み願う)我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケあいより、あいたすけ=お互いに頼り合い、助け合って)、寛容相許かんようあいゆるスノ気風ヲ作興さっこう=ふるい起こすこと)スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統しこうのでんとう=この上もなく優れている伝統)ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯かくノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。
 一年ノ計ハ年頭ニ在リ。朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ
ふるい自ラ勵はげマシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フこいねがう)。
 御名御璽
   昭和二十一年一月一日

【解説】

1.
最初に五箇条ノ御誓文を持ってきたのは、天皇の国家・国民に対す
 る思いは元々はこのようなものだとすることで、その綺麗事によって
 昭和の時代の国家主義・軍国主義をカモフラージュする意図があった
 からだろう。
2.叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。」――神格の否定、と言うより
 も、もはや神であることを維持できない状況に立たされていながら、
 なおも天皇の絶対性にしがみついている。
3.侵略戦争を仕掛け、その愚かな目論見が無残に砕かれてまだ日が浅
 いと言うのに、「
徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克
 ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前
 途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
」としているが、昭和天皇だけでは
 なく、当時の為政者・軍上層部――いや、国民までも、敗戦のことだ
 けが頭にあるのみで、アジアに対して自分たちが何を仕出かしたのが
 、その取り返しのつかなさに思い至っていない。しかも反省もなく「
 
全人類」を日本の成果に従う位置に置く思い上がりが見られる。天皇
 及び日本民族の優越意識から抜けきれないでいるからだろう。
4.日本の文化≠ネどと言うとき、多くの日本人は非常に優れている
 という暗黙の了解を相互意識とするが、人間の行いと言う文化に関し
 ては、戦争中の虐待・虐殺行為や日本民族優越意識の裏返しとしてあ
 る精神的伝統と化した人種差別、現在においても「
汚職クリーン度は
 日本23位・NGO調査
」などと新聞に書かれるような政治家・官僚
 の引きも切らない不正行為からも判断できるように決して優れている
 とは言えず、「
至高ノ傳統」といった思いも日本民族優越意識の産
 物に過ぎない。
5.朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結
 バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現
 御神トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界
 ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ
」――い
 わば、「
天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ
 民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架
 空ナル觀念ニ基
」いて、それまでは「朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯」が
 維持されてきたことが逆に暴露されている。天皇の絶対性を根拠とし
 て、日本国民・日本民族の絶対性を成り立たせていたのである。
6.日本国憲法は1946(昭和21)年11月3日に公布され、19
 47(昭和22)年の5月3日から施行した。それまで正に「
朕ノ政
 府
」であり、「爾等國民」と言っているように「國民」は「朕ノ」「
 
國民」だったのである。そしてなお且つ「朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕
 ト其ノ心ヲ一ニシテ
」と、依然として天皇帰一=一心同体を求めてい
 る。例え天皇が単なるカイライ(ロボット)でしかなく、天皇の絶対
 性が架空のものだったとしても、一般的国民に対しては真正な絶対性
 として作用して国民を動かしていた以上、侵略戦争とその失敗に対す
 る、少なくとも道義的責任は免れないはずである。それを責任なしと
 するのは、憲法で「日本および日本国民統合の象徴」としながら、天
 皇の絶対性意識から逃れられないでいるからだろう。
                    
2001/9/15

  旅と花屋の心

 もうかなり前になるが、イギリスの登山家に「日本の富士山は世界一汚い山だ」と言われて、外国人に言われたくないという理由でボランティアの登山チームを編成して富士山清掃に乗り出している国際的に著名な日本の若手登山家をテレビが取上げていた。彼は各国の登山家が目指す世界有数の山々の清掃も手掛けていると言うことだが、酸素ボンベとか食用後の空きカンやカップ麺の空き容器など、日本の登山チームのポイ捨てが一番多いとも言っていた。勿論、「恥ずかしい」という感情を込めた言葉を使って。
 富士山の山開き前の一斉清掃は疾うに年中行事化している。今年はゴミがダンプ何台あったという新聞記事やテレビニュースの解説もほぼ同じ内容のまま年中行事として推移している。冨士登山者のうち、その多くがゴミを自分で責任を持って処分せずに捨てていき、そのことが跡を絶たないということの物証である。
 
花屋を経営しているからと言って、その人間の心が花のように美しいとは限らないと言ったのは誰か知らないが、富士山に登って翌朝の未明に御来光を拝み、その美しさ、神々しさ・雄大さに打たれて感激の心を洗う人間が、一方で無責任に平然とゴミを捨てていく。決してなくならないゴミのポイ捨て、捨てられたゴミの多さという日本全国津々浦々の恒常化した風景=ゴミの現実は、旅や登山、その他の野外リクリエーションが≪豊かな人間形成と社会創造≫につながると言う言葉に反する、あるいはその言葉自体をウソとする反風景そのものを示すもので、そのことはまたそれらを行なう最大公約数の人間にとって、単に何々したと言う記念碑・勲章のために行っているに過ぎないことの証明でもあろう。花屋の心≠ノ関する警句に譬えるなら、旅を愛するからと言って、その人間の心が旅の風景のように美しいとは限らないとなぞらえることができる。
 日本人の多くが富士山や桜の花、あるいは四季折々の風景に優越的象徴性を持たせて、その象徴性をもって暗黙的なイコールで日本人を優越的だとする仮託的精神性は、それと乖離した一般化したゴミの現実によって、公徳心の欠如等の未熟な
≪人間形成と社会創造≫をカモフラージュし、自らの劣る人間性を美しく装わせる偽善装置に過ぎないことを暴露している。
 旅を愛するからと言って、あるいは煩悩からの解脱を目的とした巡礼者だとしても、その心掛けをもって単純に善とするのは、人間がどこまで行っても矛盾の生きものであることを無視する思い上がりに過ぎない。
                 2001/9/22

  「期待に無理してこたえる」中学生像

 2001/9/22「朝日」朝刊に、「内閣府調査」として、「中学生半数『期待に無理してこたえる』」との記事が載っていた。「調査」の概要は次の通りである。「周囲の期待にこたえようと無理をしている中学生は、保護者が考えるよりも多いことが、内閣府調査で分かった。両親よりも友達の期待に無理をする傾向があり、保護者と子どもの認識の違いが浮き彫りになった」
 記事に書いてある統計を要約してみる。
★「周囲の期待にこたえようと無理をすることがある」中学生――46%
 子どもが「周囲の期待にこたえようと無理をすることがある」と思う保護 者――32%
★「誰の期待に無理をするのか」
   「友だち」67%
   「両 親」37% 
   「先 生」21%
★「学校や家庭で嫌なことがあった時どうするか」
   保護者――「自分の子は家族に話す」78%
   中学生――「家族に話す」39%
 
「調査」「保護者と子どもの認識の違い」に重点を置いているが、そのような違いはいつの時代にもあることで、さして問題ではない。戦前の小中学生は学校教師・親・世間の大人たちの有形無形の露骨な要求・露骨な「期待」「こたえ」て、総軍国少年化した。現在では「両親よりも友達の期待に無理をする傾向があ」ると言う。なぜなのだろう。
 
「周囲の期待にこたえようと無理をする性格構造とは、期待に反した場合の評価(侮り、もしくは蔑み)を怖れる気持が、強迫意識の段階にまで達している精神状況からきているはずである。戦前では、非国民・国賊・アカ≠ニいう非難・排斥を怖れる強迫意識が国の期待・社会の期待に過敏に反応して、軍国主義志向を盲目的に加速させた。
 そのような同質構造の
強迫意識が両親に対する37%を2倍近くも上回る67%もの割合で「友だち」に対して働くということは、中学校での友だち関係(人間関係)が極端なまでの支配的な情況で優劣(上下)を競う緊張した関係となっていることを意味していないだろうか。もしそうであるなら、そのことは同時に中学校が全体的に隠微で理不尽な序列化を常に強いられている社会となっていることを示唆している。
 しかし、こういった中学生状況はいまに始まったことではない。単に
「内閣府調査」が後手にまわっているに過ぎないだろう。3年前の「朝日新聞」(1997年1月7日)に、「渋谷区と国分寺市をそれぞれの活動拠点にしている」「二つの少年グループ」が共同してなのか、「代々木公園で」「ベンチに眠っていた」2人の「路上生活者」「襲」い、1人を3ヶ月後に「死亡」させ、1人に「1ヶ月の重傷を負わせた」という報道記事が載っている。彼らの供述の一つとして、「『相手のグループに見下されるのがいやでやってしまった。途中で暴行をやめる勇気がなかった』」と紹介しているが、これなどは期待に反した場合の評価(侮り、もしくは蔑み)を怖れる強迫意識に操られた、優劣(上下)を競う緊張した関係の典型的な現われであろう。
 テストの成績かスポーツの成績か、それらの点数で生徒の可能性、及び人間的価値を限定する教育の一般化の過程で、同時進行の形で
優劣(上下)を競う緊張した関係も、隠微で理不尽な序列化の強制も進み、深刻化していったはずである。両者は大人社会の人間関係としてあるもののはずである。と言うことは、中学校社会の大人社会化、あるいは権威主義的人間関係の低年齢化とも言える。
 このことは戦前は怖い存在だった大人(親・教師)との権威主義的意志伝達関係が、戦後の現在では中学生ともなると大人(親・教師)が怖くなくなって、「友だち」に取って代わられたということを示していないだろうか。
 例えば、テストの成績(テストの能力)のみを武器に自己の地歩(順位・地位・序列)を確保し、そのことによってのみ自己存在証明を優越的に果たしている生徒が、成績を恒常的に維持するか、発展させることに失敗した場合、いわば成績が落ちた場合、それに連動して教師や親からだけではなく、友達の間でも人間としての評価を下げる(=頭が上がらない)状況がそのことを証明している。言葉を替えて言えば、ほんのちょっとした失敗にも足をすくわれる友だち社会となっていると言うことであり、そのことは必然的に相互に相手の失敗を待ち構える人間関係状況を生じせしめている社会となっていることをも示している。相手の失敗を待ち構える人間関係状況だからこそ、一度確保した自己の地歩(順位・地位・序列)にしがみつかざるを得ないのである。
 自らが努力して向上を果たそうと言うのではなく、相手の失敗や敗北を利用して自己の占める地歩を発展させる。あるいは、周囲のマイナス評価を怖れて、それを避けるために自己の向上を図る。あるいはいじめられて人間的評価を下げたくない、そのことのためにのみいじめを怖れる。――何と言う倒錯した隠微社会なのだろう。相手の劣る部分を攻撃対象とすることで自己の優越的距離を確保し、そのことを自己存在証明とするいじめに関しても、相手の失敗・敗北に乗じるのと同じ構造の優越証明と言える。
 再び例を挙げるとしたなら、ギャグ、あるいはひょうきんな振舞いで人気を博し、そのことをもって自己存在証明としている子は、常に新鮮で鋭いギャグ、あるいはヒョウキンな振舞いの連発を周囲から
「期待」されて、それに「無理してこたえ」ようと自己存在証明と期待の自縄自縛に絡め取られてしまう。そして「期待」に失敗した場合、侮蔑の対象か、最悪の場合、いじめの対象となる。
 となれば、中学社会における
「友だち」に対する「期待」とは、大人社会と同様に、相手の向上や発展を求めるものでなく、実質的には自己評価を相対的に高めることを狙った失敗や敗北、あるいは挫折だと言うことになる。さらに言えば、「周囲の期待」と受止めている他者態度は、単に一度確保した自己の地歩の恒常的でありたいとする熱望――裏を返せば、期待に反した場合の評価(侮り、もしくは蔑み)を怖れる強迫意識――が生み出した幻想でしかないということになる。
 これまた何と言う倒錯的で隠微な人間価値関係なのだろう。このことはテストの成績かスポーツの成績かで生徒の可能性、及び人間的価値を限定する教育が、実質的には相手の失敗を待ち構える
「期待」だったとしても、他者の評価を自己の評価とする――いわば他者の評価に合せて自己をつくる、もしくは自己を確立するという精神性を育むことにしか役立っていないことの証明でもある。と言うことは、他者の評価に常に囚われている精神状態(強迫意識状態)にあるということを示している。このことがいわゆる横並び現象を生じせしめているということなのだろう。横並び現象もいまに始まった現象ではない。大人社会の横並び意識が中学生社会の隅々にまで頑固なまでに蔓延したということではないか。これまた中学校社会の大人社会化、あるいは権威主義的人間関係の低年齢化を示すものであろう。
 裏返して言えば、何によって人間の価値・可能性を追及するかは各生徒の判断・選択に任せる、ひとえにそのことにかかっているのだという自主性・主体性を求め育む学習(個の確立教育)を、その必要性に例え気づいていても、実効的に現実化し得なかったツケ――学校教師にその能力がなかったという低劣さ――が最悪化の状態を醸し出しているということを
「内閣府調査」は伝えているのではないだろうか。
                 2001.10.5.  

 

toppageに戻る